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2010年3月27日 (土)

3-5-2:トウ小平氏と「すべて派」との対立

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第2節:トウ小平氏と「すべて派」との対立

 復活したとは言え、トウ小平氏は、党の役職は副主席、国務院の役職は筆頭副総理である。党の主席と国務院総理は華国鋒氏だった。数年前まで毛沢東と周恩来が占めていた役職を華国鋒氏が兼ねていたのである。しかし、実際の政策運営の実権は、党副主席であり国務院副総理であるトウ小平氏が握っていくことになる。

 トウ小平氏の復活が決定してから約3週間後の1977年8月12~18日、第11回中国共産党全国代表大会が開かれた。この冒頭に行われた政治工作報告は、党主席である華国鋒氏が行った。

(参考URL1)「新華社」ホームページ
「新華資料」-「第11回党大会」
「第11回党大会で行われた政治報告(華国鋒)(1977年8月12日報告、8月18日採択)
(前半)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_696820.htm
(後半)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_696831.htm
※これらのサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この政治報告で、華国鋒氏は「四人組」の粉砕をもって「第一次プロレタリア大革命」は勝利の下に終了した、と宣言した。この華国鋒氏の宣言の論理は以下の通りである。

○毛沢東主席は、文化大革命を始めた時「天下を大乱させ、しかる後に『天下大治』に至らしめなければならない」と述べ、1973年8月の前回(第10回)党大会の後には「プロレタリア文化大革命は既に8年を経過した。今は、安定を求め、全党・全軍が団結する必要がある。」と指示していた(「第3章第4部第4節:文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執」参照)。

○しかし「四人組」は破壊と混乱を続けようとした。今、「四人組」は打倒され、我々は毛沢東主席の指示通り「天下大治」の時期に至ったのである。従って、「四人組」の粉砕をもって、11年に渡った第一次文化大革命は勝利のうちに終了した、と宣言するのである。

 この論理のポイントは次の3点である。

(1) 第一次文化大革命を終わらせたのも毛沢東主席の指示に基づくものである。

(2) 第一次文化大革命は「勝利のうちに」終了した(つまり文化大革命を正しいこととして評価している)。

(3)「第一次文化大革命」と表現することにより、今後、「第二次」「第三次」の「文化大革命」があることを示唆し、結果として、華国鋒氏は文化大革命を進める路線を継承していることを表明している。

 この政治報告は、「文化大革命」に辟易(へきえき)していた多くの党員と人民の気持ちを汲んで「文化大革命は終了した」と宣言する一方、「毛主席が始めた文化大革命を終了させることも毛主席の意志だった」「文化大革命は正しかった」と主張し「これからも『第二次』『第三次』を自分がやることになるかもしれないこと」と示唆することによって、華国鋒氏が毛沢東路線の忠実な継承者の立場を逸脱していないことを示すというかなり苦しい華国鋒氏の立場を表していると言える。

 これはまた、「文化大革命」による混乱から脱したいと希望しつつも、「文化大革命」を批判することはそれを始めた毛沢東を批判することにつながる、という当時の多くの人が抱いていた「とまどい」を表していた、とも言える。毛沢東が死んでから1年程度しか経っていなかったこの当時、毛沢東はまだ神格化された存在であり、毛沢東を批判することなど多くの人々にとっては思いも寄らないことだったのである。華国鋒氏の政治報告は、毛沢東の「あなたがやれば私も安心だ。」という「遺言」にしか自らの立場の根拠を求められない華国鋒氏が、そういった人々の「毛沢東批判に対する畏れ」を利用したものであった、とも言うことができる。

 トウ小平氏は、こういった人々の凝り固まった「毛沢東批判に対する畏れ」を「毛沢東自身の言葉」を用いて溶かしていく。この党大会の閉幕の辞はトウ小平氏が行ったが、この閉幕の辞の中で、トウ小平は次のように述べた。

○我々は、毛主席の革命路線を正確に貫徹し、党の良き伝統と仕事のやり方を回復させて向上させなければならない。

○我々が回復させ向上させなければならない毛主席が掲げた良き伝統と仕事のやり方とは、即ち、実事求是(事実に基づいて真理を求める)、批判と自己批判、慎み深く謙虚であり、おごってはならず、刻苦奮闘し、意見をまとめるとともに民主的であり、規律を守るとともに自由であり、意志を統一させるとともに個々人をのびのびとさせ活き活きと活発にするような政治局面を作ることである。

(参考URL2)「新華社」ホームページ「新華資料」
「歴代党大会」-「第11回党大会」
「中国共産党第11回全国代表大会公報」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2007-10/11/content_6863309.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 これは、毛沢東がこれまで繰り返し述べてきた、「実事求是」の精神と、のびのびとした活発な意見発表を通じて最善の政策を考えていこうという精神を、改めて人々に示したものだった。これを前節で紹介した5月24日の談話に見える「毛沢東自身、自分にも誤りがあることを認めていた」との指摘を併せて考えれば、毛沢東批判になってもよいから、事実に即して、正しいことは正しい、誤りは誤りだと認識した上で、最善の政策を考えよう、という呼び掛けでもあった。これは「『毛沢東の決定』『毛沢東の指示』を全て守る」という華国鋒氏の「二つのすべて」の路線を「実事求是」という毛沢東自身の言葉で否定するものだった。

 このトウ小平氏の閉会の辞の中の「意見をまとめるとともに民主的であり、規律を守るとともに自由であり、意志を統一させるとともに個々人をのびのびとさせ活き活きと活発にするような政治局面を作ること」の下りは、人々を「文化大革命」と「毛沢東を批判してはならない」という「縛り」から徐々に解放していき、約1年3か月後の1978年11月に、北京市の西単にある壁(後に「民主の壁」と呼ばれるようになる)に様々な意見を書いた壁新聞が張り出されることで盛り上がる民主化運動(いわゆる「北京の春」)の出発点となる考え方であった。

 トウ小平氏の閉会の辞によっても、毛沢東を率直に批判できるような雰囲気はすぐには生まれなかったが、華国鋒氏の「第一次文化大革命終了宣言」と「文化大革命」の期間を通じて主たる批判対象だったトウ小平氏が中央政界に完全に復活したという事実は、「文化大革命」期間中に批判され、迫害された人々の復活や名誉回復に大きな希望をもたらした。「文化大革命」期間中に迫害された人々の復活や名誉回復を担当するのは中国共産党組織部だったが、1977年11月、文革時代に文革グループの康生に抜擢されて党組織部長を務めていた郭玉峰氏に代わり、胡耀邦氏が党組織部長に就任した。

 胡耀邦氏は、1975年にトウ小平氏の指示により、中国科学院の現状を調査し、研究者を思想闘争のくびきから解放するために尽力したことは「第3章第4部第5節:「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判」で述べた。胡耀邦氏は、1976年4月の「第一次天安門事件」の際にトウ小平氏とともに失脚していたが、トウ小平氏の復活の動きに伴ってその地位を復活させ、1977年3月には中央党校副校長になっていた。胡耀邦氏は、同年11月に党組織部長に就任すると、「文化大革命」中に失脚した人々の復活・名誉回復を積極的に進めていった。多くの場合、「文化大革命」中に失脚した人々に対する批判は、毛沢東主席の指示によるものであったから、この復活・名誉回復作業は、必然的に当時の毛沢東の判断に対する批判を伴うものであった。従って、胡耀邦氏の文革中失脚者の復活・名誉回復作業は、毛沢東の判断は絶対である、と主張する「すべて派」の人々との対立を生むこととになる。

 華国鋒氏をはじめ、毛沢東の判断を絶対視する「すべて派」の勢力はまだまだ強かった。1978年2月の全国人民代表大会で華国鋒氏は国務院総理に再任され、政府の人事の面では華国鋒氏ら「すべて派」とトウ小平氏ら「実践派=脱文革派」との両方が共存する体制が続いた。

 こうした中、トウ小平氏は、1978年3月18日、全国科学者会議の開会式に出席し、講話を行った。この講話の中でトウ小平氏は次のように指摘した。トウ小平氏の科学技術に関する考え方を端的に表現している。この時のトウ小平氏の講話のポイントは以下のとおりである。

○今日、このように史上空前の規模で科学者が一同に会して盛会のうちに全国科学大会が行われているということは、「四人組」が科学事業を妨害し、知識分子(インテリ層)を迫害したような状況は、もう戻ってこない、ということを明確に象徴している。

○「四人組」は知識分子を「反動的」だとして迫害して人々の思想を混乱させたが、そういった「四人組」の考え方は誤りであり、知識分子は頭脳労働者であって「反動的」ではない。

○我々は、農業、工業、国防、科学技術の四つを進めることにより、我が国を社会主義の近代的強国とし、外国からの侵略を防ぎ、物質的な条件を整えることによって、共産主義の偉大な理想を前進させることができるのであるが、四つの近代化の中のカギは科学技術の近代化である。科学技術の近代化がなってこそ、農業、工業、国防の近代化ができるのである。

○一連の新しい産業は新しい科学の基礎の上に立っている。例えば、高分子合成化学産業、原子力産業、コンピューター産業、半導体産業、航空宇宙産業、レーザー産業などである。近年の自然科学知識の進歩のスピードは速い。自然科学の知識は、生産に応用され、各分野の状況を一変させている。特にコンピューターを使いコンピューターで制御される自動化技術は、同じ労働力・同じ労働時間を用いたのに比べて飛躍的に生産力を向上させている。これらの生産力は、科学技術の力に立脚しているのである。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ
「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」
「著作選集」-「トウ小平文選第二巻」
「全国科学大会開会式での講話」(1978年3月18日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949663.html

 中国では「文化大革命」の名残りが残っており、先進国の中においてすら、半導体産業、コンピューター産業が産業界の中心にようやくなり始めていたこの時期(1978年)におけるこのトウ小平氏の講話は、相当に時代を先取りしていたと言えよう。この講話は、この時期、党中央ではトウ小平氏らが進める「実践派=脱文革派」と華国鋒氏をトップとする「すべて派」が共存していたにも係わらず、トウ小平氏が「文化大革命」の「縛り」を脱して、「四つの近代化」の路線の実行へ大きく踏み出しそうとしていたことを表している。

 現在の胡錦濤主席は、この全国科学者会議開会式でのトウ小平氏の講話を改革開放路線を明確に方向付けたものとして高く評価している。それはこの時のトウ小平氏の講話を胡錦濤主席が提唱する「科学的発展観」の出発点をなすものであると考えているためと思われる。ここの部分は、例え過去の中国共産党が打ち出した政策であっても、現在の状況に踏まえて、虚心坦懐に検証し、正すべきべきところは正す必要がある、という「科学的発展観」の根本をなすものであり、私がこれから何回か書くことになるであろう「改革開放の原点」となる考え方である。私は1989年の「第二次天安門事件」において、この「改革開放の原点」が封印されてしまった、と感じており、胡錦濤主席は、その封印を解こうとしている、と信じている。それを読者に伝えたいと思ったことがそもそも私がこの「中国現代史概説」を書き始めた動機である。

(参考URL4)サイエンス・ポータル・チャイナ「JST北京事務所快報」(2008年6月26日付け記事)
「胡錦濤主席の中国科学院・中国工程院院士大会での講話」
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080626.html

※「JST北京事務所快報」は私(この「中国現代史概説」の筆者)が書いたもの

以上

次回「3-5-3:西単(シータン)の『民主の壁』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-7da0.html
へ続く。

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