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2010年3月21日 (日)

3-4-6(1/2):周恩来の死と「第一次天安門事件」(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第6節:周恩来の死と「第一次天安門事件」(1/2)

 1976年1月8日、長らくガンを患っていた周恩来が死去した。77歳だった。周恩来の最後の言葉は、必死に治療を続けようとする医師たちに対して「私はどうでもいいから、ほかの病気の同志たちの世話に行きなさい。彼らは君たちをもっと必要にしている・・・」と述べた言葉だったという(参考資料17:トウ小平秘録)。周恩来には、こういった他人を気遣う数多くのエピソードが残されている。こうしたことから、「偉大な」という形容詞がたくさんつくものの多くの人からは畏怖の念で見られていた毛沢東に対し、周恩来は「優しい思いやりのある指導者」として全ての中国の人々から深い敬愛を受けているのである。

 しかし、江青ら文革グループは、周恩来に対する追慕は即ち自分たちに対する反発だと考えて、周恩来に対する追悼の行動を制限した。通常、中国では党の幹部が死去すると、その遺体を安置した場所を多くの人が訪れ弔意を表するのが通常だが、周恩来のために用意された遺体安置所は北京医院の裏手の100平方メートルにも満たない場所だったという。また、江青らのグループは、自分たちの影響力の及ぶ範囲で、職場単位で周恩来の追悼大会を開催したり、喪章を着用したりすることなどを禁止した。しかし、1月11日、周恩来の遺体が北京医院から火葬に付される八宝山墓地まで移動する際には、1月の厳しい寒風の中、100万人以上の人々が沿道を埋め尽くした。

 かくも多くの人々が周恩来に対する追慕の情を表していることに対して、江青らのグループは危機感を抱いた。周恩来の追悼大会は1月15日に開かれることになったが、その前日の1月14日の「人民日報」の1面トップには、「右からの巻き返しに対する反撃」の一貫として清華大学で行われた大弁論について「大弁論は大きな変化をもたらした」とする論文が掲載された。周恩来の死を悲しむ多くの人々の気持ちをこの論文は逆なでした。多くの人々が「人民日報」を破り捨て、「人民日報」には300件に及ぶ抗議の電話が殺到したという(参考資料14:文化大革命十年史)。

 周恩来の追悼大会については、誰が取り仕切るかが問題となった。通常ならば中国共産党副主席で国務院筆頭副総理でもあるトウ小平が取り仕切るのが当然のところだったが、江青らは、敵対するトウ小平が追悼大会を取り仕切り、周恩来の後継者として国の政治の中心でいることを示すことには我慢がならなかったので、軍の長老である葉剣英に依頼した。しかし、江青らの考えをよく知っていた葉剣英はこれを強く固辞し、結局、トウ小平が周恩来追悼大会を主宰し、弔辞を読むこととなった。

 毛沢東は周恩来の追悼大会に出席しなかった。「文化大革命十年史」(参考資料14)では、病気のため出席することが困難だった、としているが、「トウ小平秘録」(参考資料17)では、車イスに乗り短時間であれば出席はできたが、毛沢東の意志で出席しなかったのだ、としている。毛沢東はあくまで文化大革命路線を進めることを願っており、周恩来の提唱した「四つの近代化」による経済建設路線に反対だったことを示すために追悼大会に出なかったのだ、と考える人もいる。しかし、一方で「トウ小平秘録」では、周恩来が亡くなった日の晩、毛沢東は一睡もしなかった、と記している。筆者としては、毛沢東が周恩来の追悼大会に出席しなかったのは、政治的な理由というよりは、最大の盟友を失った悲しみの大きさが毛沢東を、自らを大衆の前にさらしたくない、という気持ちにさせたのだと思っている。

 周恩来の死は、前年(1975年)11月から「右からの巻き返しに対する反撃」を始めていた江青らにとって、運動に対する抵抗の大きな中心がいなくなったことを意味していた。毛沢東は、その健康状態から自らの死を既に予期していたが、自分が死んだ後、中国が文化大革命の路線から外れるようなことがないようにと願っていた。周恩来が死んだ今、トウ小平は毛沢東のこの強い意向の前に、自分が政権の中心にいることは難しい、と判断していたようである。前年の11月の時点で、毛沢東の固い意志を知ったトウ小平は、既に辞意を表していたという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 追悼大会が終わると、トウ小平に対する江青らのグループからの攻撃は一段と激しくなった。1月20日、トウ小平は毛沢東に対して書面で職務解除を申し出た。江青らのグループは、トウ小平の後釜に就くのは張春橋であると考えていたが、毛沢東が国務院総理代行として指名したのは党中央政治局のナンバー9で政治局常務委員ですらなかった公安部長の華国鋒だった。また、毛沢東は党中央軍事委員会主席には陳錫聯を指名した(葉剣英はこの時病気療養中だった)。この人事は1月21日と28日に開かれた党中央政治局会議で決定された。

 この頃(1976年2月)、アメリカのニクソン前大統領が訪中して毛沢東と会見しているが、ニクソン氏によれば、この頃の毛沢東の健康状態は絶望的で、言葉も「アー」「ウー」とかしか発することができなかったが、心の柔軟さと鋭さは保っており、通訳が自分の意志を正確に伝えていないと知るとノートを引ったくって文字を書いて自分の意志を伝えたという(参考資料14:文化大革命十年史)。毛沢東は、トウ小平の進める路線には賛成していなかったが、江青らのグループに中国を任せることの危険性はよく理解していたのである。毛沢東は、公安当局を握っている華国鋒(彼は湖南省出身で毛沢東とは同郷だった)を総理代行とし、軍の有力者の陳錫聯を中央軍事委員会の主席に据えることにより、安定団結を維持しようと考えたのだと思われる。

 江青、張春橋らは、なお自分たちの主導権を確固たるものとするため、新聞、雑誌などを通してトウ小平批判を強化した。華国鋒も毛沢東が文化大革命路線を続けるために自分を総理代行に指名したことを理解しており、江青、張春橋らのトウ小平批判に同調した。

 江青、張春橋らのトウ小平批判は、トウ小平が行った「全面整頓政策」に対する批判であるが、「全面整頓政策」は周恩来が1975年1月の全人代の政治工作報告で行った「四つの近代化」路線を実行するためのものであり、トウ小平批判は、必然的に周恩来批判へと繋がっていく。トウ小平は、文革当初にも劉少奇と一緒に批判される対象であったので、江青、張春橋らの主張がトウ小平批判に留まっているうちは一般大衆はそれほどの反応は示さなかった。しかし、批判の対象が周恩来批判にまで広がると、一般大衆は大いに反発した。中国の人々の周恩来に対する敬愛はそれほど深かったのである。

 一方、江青らは、その行動において、一般市民からは毛嫌いされていた。「北京三十五年」(参考資料12)の著者の山本市朗市は、1973年10月末に5年半ぶりに監禁生活から解放されて社会に戻ってきた時、市民の憩いの場だった景山公園(故宮の北側にある人工的に作られた山を中心とする公園)と北海公園(景山公園の西にある人工湖(北海)を中心とする公園。夏はボート遊び、冬に湖面が凍結するとスケートが楽しめる)に市民が入れなくなっていることに驚いたことを記している。山本氏によれば、当時、北京市民は、党の首長、具体的には江青がこの2つの公園を自分のものにして、馬を乗り回したりして楽しんでいる、とウワサしていたと書いている。実際、江青ら「四人組」が逮捕された後、景山公園、北海公園はともに元どおり一般市民に開放され、現在に至っている。

 一般の人民の認識がこういうものだったため、トウ小平批判が周恩来批判にまで拡大すると、人民の周恩来に対する思慕、江青らの対する反発が一気に吹き出すことになる。トウ小平批判が周恩来批判であることが明確になるにつれ、各地の大学や職場で、トウ小平批判に反発する壁新聞等が登場し始める。

 北京では、冬の間は寒さが厳しいので大規模な大衆運動は起こりにくい。春になって寒さが和らぎ、人々が戸外に出やすくなると、様々な運動も起こりやすくなる。この年は4月4日が清明節だった(清明節は二十四節気のひとつ。中国では亡くなった人の供養をする日。日本でいう「お彼岸」や「お盆」に相当する)。江青らのグループは、周恩来に対する追悼の念が清明節をきっかけとして自分たちに対する反対運動に盛り上がることを警戒した。3月中旬には、歴代革命戦士が眠る北京の西郊外にある八宝山墓地を閉鎖した。

 3月5日、上海の新聞「文匯報」は「雷峰(1962年に事故死した模範兵士)に学ぶ」という記事を掲載したが、この記事の元の原稿には周恩来が述べた言葉があったにも係わらず、新聞に掲載された時には周恩来の言葉が削除されていた、と伝えられた。「文匯報」には多くの人々からの抗議が殺到した。新聞「文匯報」の後ろ盾には張春橋がいることは周知の事実だった。

 さらに具体的な動きが南京で始まった。3月24日、南京新医学院の人々は南京市内にある烈士陵園に「敬愛する周総理と革命烈士は永遠に不滅である」と書いたリボンを付けた花輪を捧げた。あるカメラマンがこのリボンを取り外してしまったため、南京新医学院の人々は怒って、翌日、南京市中心部に「命を掛けて周恩来を守る」というスローガンを掲げた。

 折しもこの日(3月25日)、「文匯報」は、「走資派(資本主義に走る派)はまだその歩みを続けており、われわれは闘わねばならない」と題した記事で「党内のあの走資派は、打倒されても今なお悔い改めようとしない走資家の登場を助けている」と書いた。「打倒されても今なお悔い改めようとしない走資家」とはトウ小平のことを指すのは誰もが知っていたので、ここでいう「党内のあの走資派」とは周恩来を指すことは明らかだった。周恩来が批判されたことを知った多くの人々は「文匯報」に抗議した。これは「文匯報」の後ろ盾となっている張春橋ら文革グループに対する抗議に等しかった。

 3月29日、南京大学では「文匯報」に抗議するスローガンが張り出され、数百人の学生によるデモが行われた。「周総理に反対する者は誰でも叩きつぶせ」「『文匯報』の黒幕を引きずり出せ」といったスローガンが叫ばれた。学生らは駅の労働者の協力を得て、そういったスローガンを列車に書いた。スローガンが書かれた列車は、全国に向けて発車し、南京の人々の気持ちは全国に伝えられた。

以上

次回「3-4-6(2/2):周恩来の死と『第一次天安門事件』(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-3536.html
へ続く。

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