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2010年3月22日 (月)

3-4-6(2/2):周恩来の死と「第一次天安門事件」(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第6節:周恩来の死と「第一次天安門事件」(2/2)

 1976年1月8日に周恩来総理が死去した後、北京でも3月中旬頃から、周恩来総理を追慕して天安門前広場の真ん中にある人民英雄記念碑に花輪を捧げる市民が現れ出した。花輪はすぐに公安当局により撤去されたが、4月4日の清明節へ向けて、花輪を捧げる人々の数が段々増えていった。そうした中、3月31日、南京から「周総理に反対する者は誰でも叩きつぶせ」といったスローガンが書かれた列車が北京に到着した。北京市民は南京市民も同じ気持ちを持っていることを知って、運動は一気に盛り上がった。「三人ならばただのひとにぎり 八億こそが衆となる」といったあからさまに江青らのグループを批判する詩も張り出されるようになった。

(注1)この当時、人々の怒りの対象となっていたのは江青、張春橋、姚文元の3人であり、一世代下の若い王洪文は必ずしも人々の眼中には入っていなかった。「四人組」という言い方は、毛沢東がこの四人に対し「四人で小派閥を作ってはいけない」と批判したところから始まっているが、いわゆる「四人組」としてパッケージでこの4人を(逆に言うとこの4人だけを)ひとくくりで言い表すようになるのは、この年(1976年)10月に彼ら4人が逮捕された後のことである。1980年に行われたいわゆる「四人組裁判」で、江青が「あの当時の運動はみんなでやっていた。なぜ我々4人だけが特別に裁かれなければならないのか」と主張したが、後世の歴史家は、この江青の主張も考慮に入れて、本当にこの時期「四人組」の4人だけが徒党を組んで活動していたのかどうか、冷静に歴史に対する審判を下さなければならないと私は考える。

 公安部と北京市公安局は「清明節に死者を追悼するのは古い習慣であり『四旧』として打破しなければならない」「清明節は迷信である」として花輪を捧げることを禁止したが、それはむしろ人々を憤慨させた。ある北京市民は、花輪が撤去されないように針金で人民英雄記念碑の土台部分に縛り付けた。ある機械工場の労働者たちは、公安当局に撤去されないように4メートルもある巨大な花輪を鋼材で作り上げ、トラックで運んできて天安門広場に置いた。周恩来を追悼する詩も掲げられた。中には「黄浦江(上海の真ん中を流れる川)には橋があるが、江橋が揺れて崩れ落ちるのを目にして(周総理に)指示を求める」といった詩もあった。江青、張春橋、姚文元(「姚」は「揺」と発音が同じ)の失脚を暗示するものだった。人々は、天安門広場に集まり、競ってこういった詩文を書き写したり、演説をしたりした。

 4月4日(日曜日)清明節当日の夜、党中央政治局の会議が開かれ、大多数は周恩来総理を追悼しているが、一部の者は党中央を攻撃している、としてスローガンの撤去と「反革命者」の逮捕を決定した。この決定を毛沢東も許可した。4月4日夜11時頃、民兵と警察が天安門前広場に入り、スローガンや花輪を撤去するとともに、「悪質な」疑いのある者を拘束した。日付が替わって4月5日(月)未明には、クレーン車も投入され、大型の花輪も撤去された。

 4月5日、夜が明けて花輪やスローガンが撤去されたことを知った北京市民は天安門広場に集まりだした。人民大会堂の前では公安当局の車が「清明節は既に終わった」として群衆に帰るように説得したが、怒った一部の群衆が車をひっくり返した。昼過ぎ、撤去された花輪の返還と拘束された人々の解放を求めるため、群衆が天安門広場の南東角にある公安当局が入っているビルに押し掛けた。群衆は代表を選んで公安当局と交渉しようとしたが、当局側は責任者がいないとして交渉に応じなかった。怒った群衆は、たまたまこのビル内に入ろうとしていた車をひっくり返し火を付けた。夕方5時過ぎ、ビル前にいた護衛隊がいなくなると、群衆はビルの中に押し入り、中にあったイスや机や書類を外へ放り出した。当局は拡声器で人々に家に帰るように説得したが、ちょうど月曜日の退勤時刻だったため、人々の数は減るどころかだんだんと多くなっていった。

 この日(4月5日)午後、党中央政治局は再び会議を開き、毛沢東の意向も踏まえ、天安門広場に集まった人々を鎮圧することを決定した。この政治局の会議にはトウ小平も参加していたが、何も発言しなかったという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 夜9時半過ぎ、北京市公安局は鎮圧活動を開始した。それまで暗かった天安門広場に一斉に照明が点灯し、鎮圧部隊が広場にいた人々の排除を始めたのである。鎮圧に当たったのは民兵と警察で、棍棒、鉄パイプ、皮ベルトで「武装」していた。「文化大革命十年史」(参考資料14)によれば、この鎮圧活動は約15分間で終了し、広場のあちこちに殴打された人々が流した血が見られた、とのことである。新華社ホームページの資料「天安門事件(四五運動)」の項目では、この時出動したのは民兵1万人、警察3,000人であり、木の棍棒で武装していた、と記している。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「天安門事件(四五運動)」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2006-09/25/content_5134379.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この時、何人くらいのけが人が出たのかは定かではないが、上記の新華社ホームページの資料「天安門事件(四五運動)」の説明でも死者が出たとは書かれていない。この1976年4月5日の運動は「四人組」に反抗する人民の「英雄的革命運動」であったと現在ではプラスに評価されており、もしこの場で死者が出ていたのだとしたら「四人組の罪状」として挙げられていてもおかしくないところである。それなのに死者が出たことが書かれていないところを見ると、相当の殴打行為があり、けが人が多数出たことは間違いないが、この時、死者は出なかったと考えてよいと思われる。

 江青らのグループは、一連の事件について、「人民日報」の記者らが集めた「情報」を基に、この「反革命行動の黒幕はトウ小平である」と決めつけた。現実的には、トウ小平は、周恩来追悼大会に出席して以降、公の場に登場しておらず、大衆に訴えかける手段を持っていなかった。1976年4月の「天安門事件」はトウ小平が大衆を扇動したものだ、という見方は江青らのグループが「でっちあげ」たものと考えてよいだろう。もっとも、「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ(右だろうと左だろうと人民生活を向上させる政治がよい政治だ)」を持論とし、周恩来が提唱した「四つの近代化」路線に沿って、江青らに対抗しながら「全面整頓政策」を進めたトウ小平の存在が江青らに反発する多くの大衆の精神的支えであったことは間違いないと思われる。

 「反革命行動の黒幕はトウ小平」という決めつけに基づいて、毛沢東の指示の下、4月7日の党政治局会議で、トウ小平は全ての公職を解任された。新中国成立前の党内での失脚も合わせると生涯で3回目の失脚だった。ただし、この時も毛沢東の意向により党籍剥奪だけは免れた。4月7日の党政治局会議では、華国鋒を国務院総理代行から国務院総理とし、併せて党第一副主席に就任させることも決定した。これも毛沢東の意向によるものと言われている。江青、張春橋らは政治の主導権を握るためにいろいろ策動していたにも係わらず、結局は毛沢東の意向により自分たちが政権の中枢を握るには至らなかったのである。

 多くの本(「文化大革命十年史」「トウ小平秘録」など)では、毛沢東が健康をかなり害した1973年頃から、毛沢東の弟・毛沢民の子の毛遠新が毛沢東の「連絡員」となり、毛沢東に江青らのグループに有利な情報ばかりを伝えていたことを記している。毛遠新は、父親の毛沢民が早くに死んだことから、小さい頃から毛沢東の下へ引き取られ、毛沢東も実の子のように養育していたという。毛遠新は、文化大革命の中で地位を上げ、江青らと近い関係にあった。上記(参考URL)に掲げた「新華社」ホームページでも、毛遠新が中央政治局会議の様子を毛沢東に報告し、毛沢東がそれを許可した、と述べて、毛遠新が「四人組」に有利な情報のみを毛沢東に報告し、毛沢東が誤った情報に基づいて判断した(従ってこの1976年4月の「天安門事件」については毛沢東には責任はない)とも読める説明ぶりになっている。

 しかし、毛遠新が毛沢東の「連絡員」として大きな影響力を持っていたことは間違いないとしても、毛沢東は周恩来の生前は周恩来と直接相談したり、周恩来の死後も華国鋒に直接後事を託したりしているので、毛遠新のみがこの時期の毛沢東の情報源だった、と考えるのは正しくないと思われる。毛遠新の影響の大きさを言うのは、「第一次天安門事件」とその後のトウ小平の失脚における毛沢東の責任を小さく見せたいという意図があるためと思われる。そもそも毛沢東は、江青らの意向に反して、張春橋らを政権の中枢に用いようとはせず、華国鋒を周恩来の後任に据え、トウ小平の失脚においても党籍剥奪まではさせていないことを見ても、言葉を発することが難しいような健康状態になっていたとは言え、毛沢東は最後まで鋭い判断力は維持しており、毛遠新を通じて江青らのグループの意のままに動かされていたわけではないと考えるべきである。

 「第一次天安門事件」の処理にあたり、華国鋒はこの事件を「反革命」であるとし、トウ小平の失脚にも賛成したのであるが、このことが華国鋒がこの年の10月に「四人組」逮捕を決行したにも係わらず、1977年にトウ小平が復活して以降、難しい立場に立たされる原因となるのである。

(注2)華国鋒は、2008年8月20日、北京オリンピックの開催期間中に87歳で死去したが、それを伝える2008年8月21日付けの「人民日報」の記事では「党と国家の重要な指導的職務に就いていた」とだけ伝えられ、周恩来に次ぐ国務院総理、毛沢東に次ぐ中国共産党主席に就任したことを伝えていなかった(後日、葬儀があった際には詳しく経歴が紹介されたが)。こういった扱いにも華国鋒に対する現在の中国の政権の「微妙な評価」が反映されているものと思われる。

以上

次回「3-4-6:【コラム:『第一次天安門事件』の記憶】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-4007.html
へ続く。

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