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2010年3月11日 (木)

3-3-10(3/3):謎の林彪墜落死事件(3/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第10節:謎の林彪墜落死事件(3/3)

 1971年4月15日、党中央は「批陳整風報告会」を開催して、前年8月の第9期二中全会以降提出された黄永勝、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作ら林彪一派の自己批判書についての議論を行った。これにより林彪は自分に近い人々が批判にさらされていることを痛感した。1971年5月1日、林彪はメーデーの式典に姿を現し、外国の要人と会見したが、林彪が公の場に現れたのはこれが最後となった(「映像・音声資料7:DVD『歴史をして未来を語らしめる(四)文革十年』」)。

 2010年1月に日本語版が出版された「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、趙紫陽氏(1980年代のトウ小平による改革開放政策の下で国務院総理と党総書記を歴任し、1989年の「第二次天安門事件」により失脚した)は、1971年4月に「下放」されていた湖南省から北京に呼び出され、内モンゴル自治区の党書記に指名されたという。趙紫陽の政治的追放を解いたのは毛沢東で、毛沢東は文化大革命の進展による党幹部の追放が相次ぐ中で「一人残らず追放するというのか。私はそんなことは望んでいない・・・・。」と語って趙紫陽氏の復権を決めたという。ということは、1971年4月の時点では、毛沢東は既に林彪による党幹部追放の「やりすぎ」を不満に思っており、趙紫陽氏のような実務官僚型の優秀な人材を登用して政治を正常化させようと考えるようになっていた可能性がある。もしそうだとすると、林彪墜落死事件の後、毛沢東が周恩来と図ってトウ小平の復活を決めたことにも合点がいく。また、林彪が1971年4月頃以降、そういった毛沢東の意図を察知し、身の危険を感じてクーデターの実行を本気で考えるようになったと考えることも可能であろう。

 1971年7月、林彪グループは、北京のほか、北載河(河北省の渤海湾沿岸にある夏の避暑地)、上海等でクーデターの準備を始めた。毛沢東は、こうした動きをかわすかのように、8月14日、北京を離れて南方視察の旅へ出掛けた。毛沢東は訪問先の各地で様々な講話を行い、前年の第9期二中全会での黄永勝、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作らの動きについて「計画も組織も綱領もあった」と述べ、林彪についても「当然一部の責任を負わねばならない」と述べた。さらに「ある人物が国家主席となることを急ぎ、党を分裂させ奪権を急いだ。」とも語った。これらの情報を得た林彪は、もはや猶予はできないことを悟った。

 9月7日、林彪の息子の林立果は自分のグループ「連合艦隊」に「一級戦闘」の準備に入るよう指示した。また、林彪は、事が起こった時に一家が一致して行動できるように、娘(林立衡)の婚約祝いを行う、という名目で、一家を北載河へ集めることにした。林立衡自身は、この時に初めて父親が逃亡する計画があることを聞かされた(娘の林立衡がクーデター計画についてどの程度知っていたかは不明である。たぶん何も知らされていなかったものと思われる)。

 9月8日、毛沢東の乗った列車が上海へ行くことを知った林彪は、1928年に日本が張作霖を爆殺したのと同じようにして列車を爆破して毛沢東を暗殺し、上海での戦闘が始まったら北京でも林彪一派が行動を起こして、主要な目標を攻撃する手はずを整えた。もし攻撃がうまく行かなかったら、一派は全て広州へ終結し、広州で北京と対立する独立政権を樹立する計画であった。

 9月8日、杭州にいた毛沢東は、専用列車を当初の予定とは異なる位置に移動させた。そして9月10日午後3時頃、毛沢東は突如「直ちに出発する」と命令を出し、列車を上海に移動した。その日の夜、専用列車は上海虹橋空港近くに到着したが、毛沢東は列車を降りなかった。翌9月11日午前、毛沢東は列車を降りて食事をした後、列車に戻り、「誰も列車に乗せるな」と命令して列車を出発させた。

 毛沢東が何日間か上海に滞在するだろうと考えていた林彪一派は「毛沢東が上海には一時的に停車しただけで、すぐに上海を離れた」との知らせを受けて驚愕した。毛沢東は、専用列車を北京へ向けてノンストップで走らせた。9月12日午後、毛沢東の専用列車は北京市南郊外にある豊台駅に到着した。毛沢東はここで側近を集めて状況分析の会議を行った。江青は後に「豊台会議で毛沢東は彼(林彪)を守り、情義を尽くした」と述べており、この時点でも毛沢東は林彪を徹底的に追い詰めるつもりはなかった可能性がある(参考資料14:文化大革命十年史」)。

 毛沢東が北京に戻って暗殺計画が失敗に終わったことがはっきりした9月12日夜、林立果は、空軍が所有し日頃林彪が使っていたイギリス製旅客機トライデント256号機で、待機場所だった北京西郊空港から北載河近くの山海関空港へ移動し、山海関空港からジープを飛ばして両親(林彪、葉群)と妹(林立衡)がいる北載河へ向かった。  

 この日(9月12日)、午後三時から林立衡の婚約式のパーティーが始まっていた。兄の林立果は、パーティー会場に到着すると、妹の林立衡に「婚約おめでとう」と一言っただけで林彪、葉群と別室で密談を始めた。林立衡は不審に思い、服務員に命じて話の内容を立ち聞きさせた。服務員から報告を受けた林立衡は、警備担当者に報告した。警備担当者は直ちに北載河を警備する八三四一部隊に報告し、八三四一部隊は北京にいる周恩来総理に状況を報告した。9月12日の午後10時半頃のことだった。

 この時、周恩来総理は人民大会堂で次の全人代で報告する政治報告について議論している最中だった。周恩来は、直ちに呉法憲に電話を掛けて「空軍のトライデント機が山海関空港にいる、とのことだがなぜだ。誰が乗って山海関へ行ったのか。飛行機には誰も乗せずに直ちに北京に戻せ。」と言った。この事実を見ると、この時点では、周恩来は呉法憲が林彪らと組んでクーデターを起こそうとまで考えていたことは知らなかった可能性が高い。(なお、この日の慌ただしい動きの中で、呉法憲自身、林立果がトライデント機で山海関空港へ移動していたことを知っていたのかどうかは不明である)。呉法憲は、部下に現状を確認したところ「トライデント機は訓練のために山海関空港へ移動した。しかし、故障したため北京には戻れない。」との回答だったため、呉法憲は、その通り周恩来に報告した。

 「周恩来がなぜトライデント機が山海関空港にいるのかを調べている」という情報は、北載河の林彪らにも伝わった。それを知った林彪の妻の葉群は、午後11時22分、その場を取り繕うため周恩来に電話を掛け「林彪副主席が移動したがっています。」と伝えた。周恩来が「陸で、ですか、空で、ですか。」と聞くと、葉群は「空で。」と答えた。さらに周恩来が「飛行機はありますか。」と尋ねると葉群は「ありません。」と答えた。このやりとりで「何かおかしい」と感じた周恩来は、山海関空港を管理する海軍の李作鵬に電話して「山海関空港にいるトライデント256号機を動かしてはならない。私(周恩来)と黄永勝、呉法憲とあなた(李作鵬)の四人が全て一致して許可を出した場合でなければ動かしてはならない。」と命じた。この周恩来の発言は、この時点では、周恩来は、誰が林彪一派と組んでいるかがわからなかったことを示している。

 周恩来からの命令を受けた李作鵬は、この周恩来の指示を「四人のうち一人でも許可を出せば飛行機を動かしてよい」と変えて「誰かが指示してきたら私に報告せよ。」と山海関空港の管制官に伝えた。

 周恩来が動き出したことを知った林彪らは、もはや逃亡しかない、と判断し、広州で分裂政権を作るという構想も断念して、ソ連へ逃亡しようと考え、急いで北載河を車で出発した。林彪一行が滞在していた北載河のビルを警備していた警備兵は、逐次状況を八三四一大隊に報告していた。八三四一部隊は走り去ろうとする林彪一行に停止を命じたが、林彪を乗せた車はクラクションを鳴らして警戒線を突破した。何も知らずに同乗させられていた林彪の警備秘書は、「これはまずい」と考え、運転手に停車しろ、と命じた。驚いた運転手が車を停止させたスキに警備秘書は車から脱出した。車内から警備秘書に目がけて銃が二発発射された。その後、再び林彪を載せた車は猛スピードで山海関空港へ向かった。

 9月13日0時13分、林彪を乗せた車がトライデント256号機に近づこうとしていた。山海関空港の管制官は「誰の指示もないままトライデント機が離陸しようとしている」と3回にわたって李作鵬に報告したが、李作鵬は「直接周恩来総理に指示を仰げ」と指示しただけだった。この時、李作鵬は管制官に「飛行機を離陸させよ」とは指示しなかった。なぜかは不明だが、こういう事態になれば、林彪だけを逃がしても意味がない、むしろ自分は関係ないという立場を貫いた方がよい、と考えたからかもしれなない。

 0時22分、林彪の車はトライデント機の脇に到着した。トライデント機はまだ給油作業の途中だった。林立果らは「早く飛行機を動かせ!」と命じ、タラップが到着するのも待たずに梯子をよじ登って飛行機に乗った。副操縦士、ナビゲーター、無線士が搭乗するのも待たず、空港管制官の許可も得ないまま、0時32分、トライデント256号機は山海関空港を強行離陸した。乗っていたのは、林彪、妻の葉群、息子の林立果、空軍司令部弁公室局長、パイロット、技師、空軍メカニック、特別メカニック、林彪付き運転手の9人だった。

 山海関空港管制官は、トライデント256号機が強行離陸したことを直ちに北京に報告した。周恩来は、管制官に「トライデント機に呼びかけて、北京東郊空港でも北京西郊空港でも、どこでもいいから着陸させよ。着陸したら私(周恩来)が迎えに行く、と伝えてくれ。」と指示した。管制官はトライデント機に呼びかけたが、回答はなかった。

 トライデント256号機は、内モンゴル自治区西部から進路を北に向け、1時35分、モンゴル領内に入った。周恩来は直ちに毛沢東のところへ行き事態を報告した。毛沢東は「雨は降るもの、娘は嫁に行くものだ。好きにさせるがいい。」と答えたという。

 午前2時30分頃、トライデント256号機は、モンゴルのウンデルハンに墜落した。墜落現場では、モンゴル政府による調査が行われた。駐モンゴル中国大使も立ち会った。当時の調査によれば、地面に機体の一部が接触した跡が残されており、機体がそれほど広範囲に広がっていなかったことから、機体が空中で爆発したという可能性はない、と判断された。墜落した場所が平原地帯であり、地面に墜落した後かなりの燃料が燃えた跡があることから、燃料不足による墜落ではなく、予定された不時着だったが、副操縦士やナビゲーターがいなかったことによる操縦ミスによる着陸失敗だったという説がある。一方、9人の遺体とともにピストル等の武器も発見されていることから、機内で撃ち合いがあって墜落したという説もある。様々なことが言われているが、真相は闇のままである(「新華社」ホームページにある「資料」の中の解説では「燃料が尽きて墜落した」という説を採っている)。

(参考URL)「新華社」ホームページ
「資料」-「中国共産党」-「理論及び事件」-「『九一三』事件」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-09/01/content_1056608.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 クーデター計画に参画していた軍人たちは、ほどなく逮捕されるか、自殺を遂げた。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作は、自分たちが林彪らと関係したことを示す証拠類を全て破棄したが、ほどなく逮捕された。

 この1971年9月13日に起きた林彪墜落死事件は、7月にニクソン訪中が発表されてからまもなくのことであり、国連総会でアルバニアが中華人民共和国の国連への招請を求める決議案(アルバニア決議案)を提出する10日ほど前に起きた事件であった。中国政府は内外への影響を避けるため、海外に対しても国内に対しても、この事件については沈黙を守った。モンゴル政府も10月1日になってから「国籍不明機が領空侵犯しモンゴル国内で墜落した」と発表しただけであった。中国の国営通信「新華社」は翌年1972年7月28日、1971年9月13日に林彪が国外逃亡を試み、モンゴルで墜落死したことを発表した(「ネットワーク上にある参考資料5」にある公明党竹入義勝委員長と周恩来総理との会談(前々回「第10節:謎の林彪墜落死事件(1/3)」の(参考URL1)で紹介した)はこの発表の翌日に行われた)。詳しい経緯が公式に明らかになったのは前々回「第10節:謎の林彪墜落死事件(1/3)」の(参考URL2)に掲げた1973年8月の中国共産党第10回全国代表大会での周恩来報告が最初である。

 なお、事件直後、香港のメディアが「林彪が海外逃亡を企てて墜落死した」とのニュースを伝えたが、当時、文化大革命により多くの海外メディアが中国から出て行った中で北京に特派員を残していた朝日新聞は「林彪が失脚したというのは偽情報だ」という記事を書いた。そのため林彪事件に関する朝日新聞の報道については批判する向きがある(参考資料4:そうだったのか!中国)。

 1980年代に入り「四人組裁判」が始まると、この林彪事件についても具体的な証拠とともに詳細な経緯が明らかにされた。しかし、冒頭に書いたように、この事件の詳細な経緯を証明するものは、中国当局が発表したもの以外にはなく、客観的な立場からその実態が検証できるようになるには、まだなお時間を要するものと思われる。

 なお、文化大革命初期において林彪と同じような行動を取ってきた江青がこの林彪墜落死事件とどの程度かかわってきたのかはよくわからない。おそらくは1970年8月に行われた第9期二中全会において、後に「四人組」の一人となる汪洪文が当初は林彪と同調する発言原稿を用意していたにもかかわらず、毛沢東が林彪に批判的な態度を見せたとたんに林彪を批判する発言に差し替えていることからわかるように、江青もこの第9期二中全会で毛沢東が林彪に批判的な態度を示した瞬間から、林彪と一定の距離を保ち、林彪墜落死事件にはかかわらないようにうまく立ち回ったものと思われる。

 林彪墜落死事件により、文化大革命はひとつの大きな区切りを迎えた。これ以降、軍の内部では「二月逆流」で批判されていた老幹部が復権することになる。一方、江青、張春橋、姚文元、汪洪文の後に「四人組」と呼ばれるグループは林彪事件に巻き込まれることを回避することに成功し、この後も党内での勢力を保ち続けることになる。しかしながら、この林彪事件の処理と、ほぼ同時期に行われていたニクソン政権との米中接近交渉の中で、周恩来総理は改めてその存在感の大きさを示し、党内でさらに尊敬の念を持って見られるようになった。このため、林彪墜落死事件の後は、周恩来総理と「四人組グループ」との対立関係が勢力争いの軸となっていく。

以上

次回「3-4-1:ニクソン訪中」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-1902.html
へ続く。

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