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2010年3月 5日 (金)

3-3-7:国家主席・劉少奇の失脚と死

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第7節:国家主席・劉少奇の失脚と死

 多くの有力者に対して文化大革命中にどのような動きがあったかについて書いてきたが、続いて、そもそも毛沢東が文化大革命を始めた際の最終目標だった劉少奇とトウ小平がどうなったかについて書くことにする。

○劉少奇:

 1966年5月16日に出された「五・一六通知」で、同年2月7日に出された「当面の学術討議に関する報告提網」(いわゆる「二月テーゼ」:文芸批判は学術議論の中に留めるべきだと主張したもの)が否定されたことは、「二月テーゼ」が出された時点で党中央の指導的立場にいた劉少奇やトウ小平を批判することを意味するものであった。また、8月5日に毛沢東が張り出した壁新聞「司令部を砲撃せよ-私の大字報」で言う「司令部」とは、国家主席であった劉少奇であることは明らかだった。この時期に開催されていた第8期十一全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)で選出された政治局常務委員の序列において劉少奇がナンバー2からナンバー8に格下げされたことによって、何が起きつつあるのかは内外に明らかとなった。

 8月22日に清華大学に張り出された壁新聞が劉少奇を名指しで批判した最初のものと言われている。10月9日から開催された党中央工作会議において、劉少奇とトウ小平は自己批判をさせられた。この時、トウ小平が「毛沢東主席の壁新聞(「司令部を砲撃しよう-私の大字報」)は、すなわち劉少奇同志と私(トウ小平)の司令部を砲撃するためのものであった」と認めたこと、12月25日には、清華大学から始まった5,000人規模のデモ行進が天安門前広場へ到達し「打倒、劉少奇!」「打倒、トウ小平!」のシュプレヒコールが繰り返されたことについては既に述べたとおりである。この1966年10月の党中央工作会議以降、「劉少奇打倒!トウ小平打倒!」は公式なスローガンとなった。

 さらに1967年4月1日付け人民日報に文革小組メンバー戚本禹の書いた「愛国主義か売国主義か」が掲載され、この論文の中で劉少奇は「中国のフルシチョフ」と批判されたことも既に述べた。7月19日、中国共産党本部がある中南海の中で劉少奇と妻の王光美に対する「闘争大会」が開かれた。さらに8月5日には、300万人規模の「決起大会」の勢いを受けて劉少奇やトウ小平に対する「批闘大会」が開かれたことも既に書いた。この「批闘大会」後の8月7日、劉少奇は毛沢東に対して国家主席を辞任したいとの手紙を書いている。

 その後も劉少奇は中南海(中国共産党本部のある地域)の中にいたが、これ以降、家族と一緒にいることはできなくなり、一人で監禁状態に置かれるようになった。劣悪な生活環境の中で、劉少奇は時に病を得たが、劉少奇を診察する医者は、江青らから批判されるのを恐れて、劉少奇に対して親切にすることはできなかった。しかし、江青ら文革推進派グループにとっても、党の手続きに従って劉少奇を正式に失脚させる前に劉少奇に死なれては困るので、最低限の治療は施され続けていた。

 1968年10月13日~31日、第8期十二全会(中国共産党第8期中央委員会第12回全体会議)が開催された。この会議は毛沢東が主宰し、1966年以来二年余にわたる文化大革命を総括するものであった。この会議では、劉少奇の「罪状」を調査した中央特別審査小組の報告書である「裏切り者、敵の回し者、労働貴族である劉少奇の罪行に関する審査報告」が採択され、劉少奇を永久に党から除名することが決定された。この決定を伝えるコミュニケは11月2日に放送されたが、劉少奇自身は、病床でこのコミュニケを聞いた。

 前回「陳毅」のところで書いたように、1969年10月、ソ連による「担ぎ出し」を恐れた林彪によって、病床の劉少奇も北京を追放された。この時、劉少奇は既に危篤状態で、鼻には栄養補給用の管が挿入され、時々吸入器で痰を吸引してやる必要があった、とのことである。このような状態のまま、劉少奇は河南省開封に移送された。約1か月後の1969年11月12日、劉少奇は看取る者もなく死去した。劉少奇の死亡診断書には「劉衛黄」という偽名が記され「無職」と書かれていた。この偽名にある「黄」の字は「皇」と同じ発音であり、この偽名は劉少奇を批判する時に使われる言葉「保皇派」を意味するものだった。死亡診断書には「無職」と書かれていたが、実は、この時までに国家主席解任の正式な手続きはどこでもなされておらず、形式的には劉少奇は国家主席に在職したまま死去したことになる。

(注)もっとも、これは単なる手続き上の問題であって、劉少奇は、前年の1968年10月の第8期十二全会で党籍の永久剥奪と公民権の永久停止処分を受けていることから、公民権が停止された時点で自動的に国家主席は解任されたのだ、と解釈すべきなのかもしれない。

 劉少奇が死去した時、一人の親族も付き添っていなかった。それどころか、劉少奇の妻子には劉少奇が死去したことすら知らされていなかった。1971年9月に林彪が墜落死した事件が起きた後の1972年、劉少奇のこどもたちは、両親に会えるのではないか、との望みを抱いて、毛沢東に対して両親への面会許可を願う手紙を出した。この年の2月にはアメリカのニクソン大統領が訪中しており、「世の中は変わったのではないか」と劉少奇のこどもたちは考えたからかもしれない。毛沢東の指示に基づく党中央からの返事は、1972年8月16日にこどもたちの元へ届いた。それは「母親と面会してもよい」というものだった。こうしてこどもたちは、父親は既に死亡していたことを知ったのだった。この時既に実際に劉少奇が死んでから3年近くが経っていた。こどもたちは劉少奇の死を公表しないように固く口止めされたが、劉少奇の死は、それからまもなく外に知れ渡った。

 なお、日本の田中角栄総理が訪中して日中国交正常化がなるのは、劉少奇のこどもたちが父親の死を知ってから1か月とちょっと後の1972年9月29日のことである。

○トウ小平:(「トウ」は「登」に「おおざと」)

 文化大革命初期、トウ小平は劉少奇とパッケージで批判された「実権派」の中心人物である。しかし、「文化大革命十年史」(参考文献14)では、トウ小平に対する具体的な迫害の様子はほとんど記されていない。これは「文化大革命十年史」が改革開放路線の中でまさにトウ小平自身が中国の最高実力者としての地位にいた1980年代に中国において出版された本であるためと思われる。

 トウ小平自身、生前、文化大革命時代にどのようなひどい迫害に遭ったかは、自らはほとんど語っていない。しかし、トウ小平の次男であるトウ樸方氏が1968年に投身自殺を図って下半身に大ケガを負い、現在に至るまで半身不随状態にあることを考えると、トウ小平自身も相当にひどい迫害を受けたことは想像に難くない。

 トウ小平の次男のトウ樸方氏は、1988年に中国残疾人(障がい者)連合会主席となり、中国の障がい者保護に尽力した。トウ樸方氏がいなければ、2008年の北京パラリンピックにおける中国選手の活躍はなかった、とも言われている。なお、トウ樸方氏は北京パラリンピック終了後の2008年11月13日に中国残疾人連合会主席を退任し、名誉主席になった。後任の主席には、張海迪女史が就任した。トウ樸方氏はまだ64歳であり、必ずしも引退する年齢ではないことや、張海迪氏の障害に負けない強い生き方について胡錦濤主席が「張海迪氏に学ぼう」という運動を展開するなど張海迪氏が胡錦濤主席に近いと見られていることから、この交代劇には、裏にある政治的な動きが反映しているのではないか、と勘ぐる向きもないではない。ただ、この交代は、北京パラリンピックが成功裏に終了したことから、トウ樸方氏が「自分の役割は終わった」と考えて引退することにした、と考えるのが素直であろう。

(参考URL1)「新華社」ホームページ
「ニュース人物・張海迪」
(写真:2008年11月13日、中国残疾人連合会第5回全国代表大会閉会式で壇上に並ぶトウ樸方氏と張海迪氏)
http://news.xinhuanet.com/politics/2008-11/14/content_10357874.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(参考URL2)「新華社」ホームページ
「トウ樸方氏の略歴」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-02/28/content_295217.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 上記の「新華社」ホームページの「トウ樸方氏の略歴」の中では「1968年5月に迫害を受けて障がい者となる」とだけ記述されており、「投身自殺を図った」など、どのような状況で障がい者になったのかの詳細は記されていない。

 トウ小平は、劉少奇とパッケージで批判されてきたにも係わらず、劉少奇の失脚を正式決定した1968年10月の第8期十二全会において、党籍剥奪処分は免れ、「留党監察」の処分となった。林彪・江青らはトウ小平に対しても劉少奇と同じように党籍剥奪を求めたが、毛沢東の強い意志によりトウ小平は党籍剥奪を免れた、と言われている。

 農業の集団化に歯止めを掛ける1960年代初期の「経済調整政策」に反対することが文化大革命の目的だったのだとすれば、徹底的に追放されるべきは、劉少奇よりはトウ小平だったはずである。「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫はよい猫だ」という発言や、実際に1978年以降に実権を握るようになってから展開した現在まで続く改革開放路線を見ればわかるとおり、人民公社を否定し、生産請負制度によって人々のインセンティブを引き出し、経済を活性化させようという発想は、トウ小平氏のものだからである。従って、毛沢東がトウ小平から党籍を剥奪することまでしなかったのはなぜか、毛沢東の真意はどこにあったのか、については、現時点でも謎として残っている。

 一般には、毛沢東がトウ小平を徹底的に失脚に追い込まなかったのは、毛沢東が「あいつは使える男だ」としてトウ小平の政治家としての優れた能力を見抜いており、中国にとっていつか必要になる人間だと考えていたからだ、と言われている。あるいは信頼する盟友・周恩来から、トウ小平を永久に追放するのはよくない、とのアドバイスがあったからかもしれない。また、1890年代生まれの毛沢東は、自分と同年代の周恩来らより一世代若い1900年代生まれのトウ小平を、同じく1900年代生まれの林彪を牽制するための「対抗馬」として残して置きたかったのかもしれない。いずれにせよ天才的戦略家である毛沢東のこのトウ小平を残して置こうという1968年10月時点での判断が、トウ小平を生き残らせ、後の中国に改革開放政策という経済的大発展への道を残すことになったのである。

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 林彪は、「第5節:『七・二○武漢事件』をはじめとする『武闘』」で述べたように、1967年9月頃には周恩来を批判していた「首都紅衛兵五・一六兵団」のリーダーを逮捕するなど毛沢東が林彪の意図に反して周恩来に対する批判にストップを掛けた時点で、あるいは1968年10月の第8期十二全会で毛沢東がトウ小平の党籍剥奪に反対した時点で、毛沢東が林彪に対してどういう考えを持っているのかに気付くべきだったのかもしれない。しかし、残念ながら、林彪は毛沢東のような天才的戦略家ではなかった。林彪は、これまで述べてきたように、文化大革命の中において党の軍の実力者を次々と追い落としてきたが、毛沢東が林彪の考えと異なる判断をするようになった後も、自分の息の掛かった者を要職に配置する工作を続けていく。そして、1969年4月に開かれた中国共産党第9回全国代表大会において、党規約の中に「林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり後継者である」と明記させることにまで成功する。しかし、そのことが結局は自らの墓穴を掘ることとなり、1971年9月13日の林彪墜落死事件へと連なっていくのである。

以上

次回「3-3-8:中ソ軍事衝突」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-a5c9.html
へ続く。

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