« 3-3-4:文化大革命下の政治と社会の混乱 | トップページ | 3-3-6:「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち »

2010年3月 3日 (水)

3-3-5:「七・二○武漢事件」をはじめとする「武闘」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第5節:「七・二○武漢事件」をはじめとする「武闘」

 「造反有理」「革命無罪」というスローガンは、根本的に自己矛盾を含んでいる。旧い体制を基盤とする支配層から権力を奪取し、「造反派」が権力を握った瞬間、今度はその「造反派」が「権力を振るう者」として、「反造反派」による「造反」によって権力闘争の対象になってしまうからである。権力を握った「造反派」を打倒しようとする「反造反派」の動きも、ひとつの「造反」であるから、「造反有理」という原理によれば権力を握った後の「造反派」を打倒することも「正しいこと」ということになって話はややこしくなり、誰が味方で誰が敵なのか、わけがわからなくなってしまう。1967年頃の文化大革命の時期は、まさにこのような状況だった。

 1967年の前半には、文革をさらに急速に進めようとする林彪・江青らに対し、毛沢東は2月に成立した「上海コミューン」に対して不同意の考えを示すなど、いきすぎた「造反」による混乱と分裂を避けようという考えを持ち始めたようである(前節参照)。毛沢東は、社会の分裂を人民解放軍の力で防ぐとともに、人民解放軍内部で分裂が発生することを防ぐために、国防部長の林彪に指示して、1967年1月23日に党中央から「軍は左派を支持するとともに軍事管制と軍事訓練を行うように」との通知を出させた。しかし、軍の内部では、「二月逆流」で批判されることになる軍内の秩序を重んじようとする古参革命軍人に同情的な者も多く、「左派の下に一本化せよ」との党中央の指示は、むしろ軍の中に「左派」とそれに反対する勢力との間に分裂を産むことになった。

 この「軍を左派の下に一本化せよ」との指示に基づいて、林彪らは「軍内のひとにぎりのもの」に対する批判を展開する。「文化大革命十年史」(参考文献14)は、1980年代に行われた文革を推進した「四人組」に対する裁判の中で明らかにされた資料に基づいてこの時期を記しているが、「文化大革命十年史」では著者の厳家祺、高皋の両氏は、これらの「軍内のひとにぎりのもの」に対する批判・追放運動は、実は毛沢東が発動した文化大革命の運動を利用して林彪が軍の内部でトップに上り詰めるために起こした自分の競争相手つぶしの運動であったのだ、と指摘している。

 1971年に失脚した後、林彪は、一貫して「党に対する裏切り者」として扱われているため、1980年代に行われた「四人組裁判」でも、ことさらに林彪の「悪事」がクローズアップされている。このため「文化大革命十年史」が資料として使っている「四人組裁判」の資料では、事実以上に林彪に罪を着せるような方向の「証拠」が並べられている可能性がある。従って、このあたりの文化大革命の状況を、真に客観的に評価するためには、「四人組裁判」で明らかにされた資料だけから判断するのは、避けた方がよいのかもしれない。この時代の文化大革命の経緯を真に客観的に判断するためには、今しばらくの時間が経過して、毛沢東も江青も林彪も劉少奇もトウ小平も、全て等距離から客観的に見られるような時代になるのを待つ必要があると思われる。

 この時期を記述した多くの本では「左派」「造反派」あるいは「文革推進派」と呼ばれる勢力に反対する勢力を「実権派」とまとめて表現することが多いが、これは必ずしも正しくない。速すぎる人民公社化や農業の集団化に反対する劉少奇・トウ小平らの経済調整路線を支持する人々は「実権派」と呼んでもよいが、「文革推進派」に抵抗した人々が全て「実権派」に賛成の立場であったとは限らないからである。

 「文革推進派」に反対した人々の中には、特に人民解放軍内部においては、「二月逆流」で批判されることになる古参革命軍人と同じように、抗日戦争も国共内戦も知らない若い紅衛兵が社会を混乱に陥れることを許すことができず、軍は社会の秩序を守るために断固とした態度を取るべきだ、と考える「秩序派」とでも呼ぶべき考え方の人も多かったのではないかと思われる。こういった「秩序派」軍人は、紅衛兵による大衆運動に乗っかった「左派」=「造反派」の下に軍をまとめよ、とする1月23日の指示には承伏できなかったのではないかと思われる。

 こういった事情により、1月23日の「軍は左派の下に一本化せよ」との指示は、むしろ軍の中に「左派」に対する反発を呼び起こすことになり、「一本化せよ」との指示がかえって軍の中に亀裂を生じさせることになったのである。この人民解放軍内部の亀裂が最も大きく表面化したのが武漢軍区であった。

 1967年2月8日、人民解放軍内外の「造反派」が漢口の紅旗大楼を占拠し、「長江日報」に「武漢地区の現状に関する声明」(二・八声明)を発表した(三つの街区(武昌、漢口、漢陽)からなる武漢は湖北省の省都)。「二・八声明」では、「武漢地区、湖北地区を徹底的に乱さなければならない。」と宣言して各方面に「造反」を呼びかけた。このため武漢地区は大混乱に陥った。人民解放軍武漢軍区は、中央の軍事委員会文革小組の了承を得た上で、軍が紅旗大楼を占拠したのは秩序の維持と暴力的な闘争を阻止するためであって、「二・八声明」は一部の「造反派」が署名したものであり、軍を代表するものではない、と宣言した。

 毛沢東は、このあたりで紅衛兵の動きの拡大化や「造反派」の行き過ぎは人民解放軍を解体しかねないとの懸念を持ち始めたのかもしれない。春になって人々が動きやすくなる季節が来るのを前にして、党中央は3月に「全国経験大交流」(紅衛兵ならば誰でもタダで列車に乗れたり宿舎に泊まれたりするようにする呼び掛け)を停止することを決定した。

 「現代中国的核工業」(参考資料13)によれば、この時期(1967年3月以降)、毛沢東、周恩来、葉剣英、聶栄臻らは、核兵器の研究開発・製造を担当していた第二機械工業部に対して「文化大革命の中においても、軍事管制を実行し、経験交流をしてはならず、奪権を行ってはならず、生産を停止してはならない」と指示する電報を繰り返し発していた、とのことである。葉剣英、聶栄臻は「二月逆流」で文革推進派グループから批判された古参革命軍人である。毛沢東、周恩来らはこれら古参革命軍人とともに、文化大革命がもたらした人民解放軍内部の分裂が核兵器の研究開発・製造の現場に及ぶことは国家的な危機である、との認識を持っていたと思われる。以下に述べるように林彪・江青らはこの後も「造反派」による「奪権」を進めようとするが、こういった急進的な林彪・江青グループに対しては、この時期あたりから、周恩来はもちろん、毛沢東自身も「危うさ」を感じるようになっていたのではないかと思われる。

 なお、こういった毛沢東、周恩来、葉剣英、聶栄臻らによる核兵器の研究開発・製造現場に混乱が及ばないようにとの配慮が功を奏して、文化大革命の大混乱の中にありながら、中国は1967年6月17日、初めての水爆実験に成功する。初の原爆実験から2年8か月後のことであった。原爆実験成功から水爆実験成功までの期間の短さにおいては、中国の核兵器開発のスピードは、米ソ両国をはるかにしのぐものであった。

 秩序を重視する勢力の盛り返しにより、武漢の状況も一時的に安定に向かった。しかし、このような地方の軍区の秩序の回復は、「造反派」の頂点に立つ林彪・江青らの文革推進グループにとっては、自分たちの勢力が拡大するのを阻害するものだと考えた。そこで文革推進派は、4月1日付け人民日報に文革小組メンバーの戚本禹が書いた「愛国主義か売国主義か」と題する論文を掲載し、さらに紅衛兵たち「造反派」の活動を鼓舞した。この論文では劉少奇国家主席を「中国のフルシチョフ」として明示的に攻撃していた。文革推進派グループは、翌4月2日には、各地に存在する軍内の秩序を重んじようとする勢力に反対するため、人民日報に「革命の小将軍たちに正しく対処しよう」という社説を掲げて、紅衛兵による造反運動を抑圧することを批判した。各地の「造反派」はこれに力を得て、秩序を維持しようとする勢力との間で闘争を強めた。

 文革推進グループに後押しされた軍内部の「造反派」と古参革命軍人らの懸念に共感する秩序を維持しようとする軍内の勢力との闘争は、暴力的な闘争へと発展していく。これらの闘争は、軍内部の人々も巻き込んだ闘争であったことから、現実に武器を使用した暴力的な闘争、即ち「武闘」へと発展していった。当時、民間においても国共内戦時代に使われていた銃などの武器がまだかなりの数回収されずに残っていたことから、軍の外においても、各地で武器を使った闘争が繰り返され、中国はさながら内戦のような状況になっていった。

 武漢では、「造反派」が「工人総部」という組織を作る一方、武漢軍区司令官の陳再道と武漢部隊政治委員の鐘漢華にリードされた「造反派」に反対するグループは「百万雄師」という組織を結成して、両グループの間で武闘が繰り返された。

 毛沢東は、このような状況に対処するため、密かに武闘が起きている四川省や武漢を視察していた。一方、武漢での事態を収拾するため、文革推進派は、この年(1967年)の7月20日、副総理兼公安部長の謝富治と中央文革小組のメンバーで党宣伝部長の王力を武漢に派遣して、武漢軍区の陳再道、鐘漢華らとの会談させた。ところが、「造反派」に反対するグループである「百万雄師」の大衆は、この会談場所へ押し掛け、王力らを軍区の庭に引きずり出し、「質問に答えよ!」などと迫った。しかし、王力はこれを拒否したため、大衆は「王力打倒!」を叫んで、これ以後、4日間に渡ってデモを繰り返した。これが「七・二○武漢事件」である。

 この時、各地を視察途中の毛沢東も武漢にいた。毛沢東がいる武漢で反文革推進派によるデモが発生したことに対して危機を感じた林彪は、軍艦に揚子江を遡上させ、空軍にも出動を命じた。周恩来は武漢軍区の幹部と会談し、全面的な対決を回避するよう努力した。これらの動きにより、毛沢東は無事に武漢を脱出することができた。

 「百万雄師」の大衆が、この時、毛沢東が武漢にいたことをどの程度認識してたのかは不明であるが(「文化大革命十年史」(参考文献14)では、大衆は毛沢東が武漢にいることは知らなかった、との立場を取っている)、毛沢東がいる武漢で騒ぎが起きたことを理由として、林彪・江青らは武漢軍区と「百万雄師」の大衆の動きを「軍事クーデターである」と規定した(なお、この時の大衆の動きは文革推進派によって「反革命暴乱」と呼ばれたが、この言葉は22年後の1989年の「第二次天安門事件」に際して再び登場することになる)。

 文革推進派グループは武漢軍区の陳再道と鐘漢華に対し「武漢事件の対処について協議するので北京に来るように」と命じた。もし彼らが北京に来なければ「反乱分子」と位置付ける心積もりであったが、彼らは7月24日、北京へやってきた。文革推進派グループは陳再道・鐘漢華らを糾弾したが、人民解放軍の徐向前元帥(「二月逆流」と呼ばれた2月の懐仁堂での会議にも参加して批判されたため、この時点では元帥は解任されていたが)は彼らを擁護したため、徐向前も批判の対象とされるようになる。このようにして文革推進派に反対する勢力は、トップから地方の軍区関係者に至るまで、軍の中から排除されていったのである。

 林彪・江青ら文革推進派グループは、この「七・二○武漢事件」を「反革命の軍事クーデター」と規定し、武漢地域に林彪系の軍や宣伝隊、労働者等を派遣して、「七・二○武漢事件」に関与した人々を徹底的に打倒した。「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」(参考資料8)では、この際の武闘により、武漢での死者600人、負傷者6万6,000人、湖北省全体では18万4,000人にも上る死傷者が出た、としている。

 劉少奇国家主席は、これらの武闘における「実権派」の親玉として、「造反派」から徹底的な批判を受けていた。1967年8月5日、毛沢東による壁新聞「司令部を砲撃しよう-私の大字報」が張り出されてから一周年に当たるこの日、人民日報は「ブルジョア司令部を砲撃しよう」と題する社説を掲げて、劉少奇批判の雰囲気を煽った。この日、天安門前広場では、300万人規模の「決起大会」が開かれた。劉少奇やトウ小平の家では、大衆が集まり劉少奇やトウ小平に対する「批闘大会」が開催された。劉少奇国家主席は、腰を屈めて頭を下げ、両手を後ろ側に縛り上げられる姿勢(いわゆる「ジェット式縛り上げ」の姿勢)で長時間に渡り殴打と罵倒を浴びせかけられた。

 こうした動きの中、「軍内のひとにぎりのもの」を摘発せよ、という文革推進派グループの運動はその後も続いた。文革推進派グループの姚登山は、外交部内での権力を陳毅(外交部長から副総理になり「二月逆流」に参加したとして批判されていた)から奪うことに成功した。中央文革小組の王力は、8月7日、姚登山による外交部における奪権を「革命的行動」として称賛し、陳毅を批判した。しかし、従来の外交部のやり方を批判する、ということは、長く中国外交の中心を担ってきた周恩来総理を批判することでもあった。

 前節で、一部の急進的な文革推進派のグループが周恩来を批判するところまで来ると、毛沢東はそれを許さなかった、と述べた。周恩来は人民に絶大な人気があり、また政権運営上、毛沢東にとって周恩来は政治の実務を取り仕切るために必要不可欠な人物だったからである。周恩来を批判したグループの一つに、文化大革命がスタートした「五・一六通知」を記念して作られた「首都紅衛兵五・一六兵団」というグループがあった。「五・一六兵団」は王力の演説に力を得て、再び周恩来批判の動きをし始めた。周恩来傘下にあるいくつかの政府部門では、周恩来からの奪権を狙う動きが始められた。

 この期に及んで、毛沢東は「極左」に対する態度を明確にする。武闘が盛んに繰り返されている状況、別の言葉で言えば文革推進に反対する勢力がまだまだ相当に強力である状況において、文革推進派が人民に絶大な人気がある周恩来を批判する動きをすることは、逆に文化大革命の推進自体に対する人民大衆からの大きな反発を引き起こす恐れがあり、「劉少奇の打倒」という毛沢東にとっての文革の最終目的が頓挫する危険性が生じる、と考えた毛沢東は、「極左」の動きをこれ以上広げてはならない、と判断するに至ったのである。毛沢東のこの意向を受けて、林彪・江青らは、9月初め、手のひらを返したように「首都紅衛兵五・一六兵団」のリーダーを逮捕した。8月22日に紅衛兵によるイギリス公館焼き討ち事件が発生したことも毛沢東を慎重にしたと考えられる。過激な「造反派」の行動のエスカレートは、外交上も問題となり、国家にとってマイナスとなる可能性が出てきたからである。

 これ以降、論文「愛国主義か売国主義か」を書いて劉少奇を批判した戚本禹、外交部における奪権を成功させた姚登山、「七・二○武漢事件」で「反造反派」から罵倒され、その後、姚登山の奪権を称賛した王力など、筋金入りの「文革推進派」と見られていた人々が「『五・一六兵団』を裏で操っていた『極左』の黒幕」として逆に失脚していくことになる。この文化大革命のひとつの転換時期において、林彪・江青らは、うまくくるりと立場を回転させて「極左」を批判する側に回って文化大革命を推進する側として生き残った。

 めまぐるしく動く権力闘争の中で、その時々の情勢に応じてうまく立ち回って生き残る林彪・江青らの姿に対し、この頃既に毛沢東は一定の「危険性」を感じていたのではなかろうか。江青は自分の妻であるので、最後まで切ることはできなかったが、毛沢東は林彪については、どこかの時点で切り捨てないと危険だ、とこの頃から思い始めていた可能性がある。

以上

次回「3-3-6:『文革』に翻弄(ほんろう)される有力者たち」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-9473.html
へ続く。

|

« 3-3-4:文化大革命下の政治と社会の混乱 | トップページ | 3-3-6:「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち »

「中国現代史概説」」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 3-3-4:文化大革命下の政治と社会の混乱 | トップページ | 3-3-6:「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち »