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2010年3月 9日 (火)

3-3-10(1/3):謎の林彪墜落死事件(1/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第10節:謎の林彪墜落死事件(1/3)

 1969年4月の中国共産党第9回全国代表大会で決められた党の規約で「林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり後継者である」とまで規定された林彪(日本語読みでは「りんぴょう」)が、1971年9月に突如飛行機で海外逃亡を計りモンゴル領内で墜落死した事件については、謎が多い。ただ、下記の点については、中国当局者以外の第三者による確認がなされており、確実な事実と判断できる。

○1971年9月13日にトライデント型旅客機が中国からモンゴル領内へ侵入し、モンゴルのウンデルハンで墜落した(この事件の調査はモンゴル政府により行われた)。墜落した飛行機の残骸からは9人の遺体(8人の男性と1人の女性)が発見され、そのうちの1人が林彪であると確認された(「ネットワーク上にある参考資料5」(下記URL1)にある公明党竹入義勝委員長と周恩来総理との会談における周恩来の発言によると、林彪は抗日戦争中に負傷した際に、ソ連に行って治療を受けていたことがあり、ソ連側にその治療の記録が残っていたために、ソ連により行われた調査により、1人の遺体が林彪本人のものであることが確認できたという)。

(参考URL1)
東京大学東洋文化研究所・田中明彦研究室がアップしたデータベース「世界と日本」
「日中関係資料集」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/index.html
の中にある「竹入義勝・周恩来会談における林彪問題についての周恩来発言」(1972年7月29日)

○1972年2月に北京を訪れたアメリカのニクソン大統領と会談した毛沢東が「私の国にも、私たちがあなた方とコンタクトをとるのに反対している反動的なグループがあります。その結果彼らは飛行機に乗って外国に逃亡しました。」と述べている(「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」で引用している「ニクソン訪中機密会談録」(名古屋大学出版会、毛利和子・毛利興三郎訳、2001年))

 それ以外の林彪がモンゴルで墜落死するまでの経緯を証明できるものは、1973年以降に行われた中国政府による発表や1980年代に行われた「四人組裁判」の過程で明らかにされた「証拠」など、中国当局側発表のものだけである。現在でも、外国の研究者が林彪事件の真相を探るために中国側の原資料にアクセスすることは困難であり、現時点で、この事件について、真に客観的な立場からの事実確認ができているかどうかは疑問である。そういった前提の上に立って、以下、主に中国側が発表した報告や各種の「証拠」に従って、林彪墜落死事件に至る経緯をまとめてみたい。

 中国側が初めて林彪事件の詳細について公式の場でまとめて報告を行ったのは、事件発生から2年近く経過した1973年8月に行われた中国共産党第10回全国代表大会の席上、周恩来総理が8月24日に行った政治報告の中においてであった。

(参考URL2)「新華社」ホームページ
「資料」-「中国共産党」-「中国共産党第10回全国代表大会」-「周恩来報告」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_696751.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この報告の中で周恩来は次のように述べている。

「皆さん御承知の通り、中国共産党第9回全国大会大会(注:1969年4月に開催)における政治報告は毛沢東主席自らが起草したものだった。この第9回全国代表大会より前、林彪は陳伯達と一緒になって別の政治報告を起草していた。彼らは、プロレタリア階級独裁の下での革命の継続に反対し、第9回全国代表大会以降の主要な任務は生産を発展させることだと考えていた。劉少奇と陳伯達は、かつて第8回全国代表大会の決議の中にあった『国内の主要な矛盾はプロレタリア階級とブルジョア階級との主要矛盾ではなくなり、国内の主要な矛盾は先進的な社会主義制度と社会生産力の間の矛盾である』という修正主義の誤った議論を新しい情勢の下で改めて持ち出したのである(注:第8回全国大会は、1956年9月に開催され、建国以来の社会主義化が一段落し、これからは生産力の拡大が重要な課題だ、との認識が示された大会)。

 林彪と陳伯達による政治報告の案は、当然のごとく党中央を否定するものであった。毛沢東主席が起草した政治報告に関して言えば、林彪は陰では陳伯達の方を支持していたが、公の場では陳伯達の方に反対していた。この挫折の後、林彪は無理をして中央の政治路線を受け入れ、第9回全国代表大会の席で中央政治報告を読み上げた。しかし、第9回全国代表大会の期間中及び大会終了後、林彪は毛沢東主席や党による彼に対する教育、制止、救済の手を省みず、陰謀と破壊を継続させ、ついに1970年8月に開かれた第9期中国共産党中央委員会第2回全体会議(第9期二中全会)において反革命政変未遂を起こした(注:ここで言う「反革命政変未遂」とは何を意味するのかについては後述する)。

 1971年3月には反革命武装クーデター計画である「571計画」(注:中国語の「五七一」は武装蜂起を意味する「武起義」と発音が同じ)を策定した。9月8日には、反革命武装クーデターを起こし、偉大な指導者である毛沢東主席の暗殺の陰謀を計画し、党中央に反旗を翻した。陰謀が失敗した後、9月13日、個人的に飛行機に乗ってソ連修正主義者に投降しようと企て、党と国とを裏切り、モンゴルのウンデルハンにおいて墜落死した。」

 林彪事件に対する中国政府の見解は、起きた事実の経緯については、基本的に今でもこの1973年8月の周恩来報告に沿ったものである。ただし、第9回全国大会の際、林彪と陳伯達が「プロレタリア階級独裁の下での革命の継続に反対し、第9回全国代表大会以降の主要な任務は生産を発展させることだと考えて」おり、毛沢東が起草した政治報告とは別の政治報告を起草していた、という部分は、事実であるとは考えにくい。この部分は、1973年当時、林彪と陳伯達が当時の党中央の進めていた「プロレタリア文化大革命」に反対していた、だから党と国を裏切った、という論理を作るための「こじつけ」であると思われる。「革命の継続ではなく生産の発展が重要だ」という考え方は劉少奇やトウ小平ら「実権派」の考え方であり、林彪が自ら追い落としを計った劉少奇らと同じ政治路線を追求していた、と考えるのはあまりに不自然だからである。

 ただし、第9回全国代表大会(1969年4月)以降、林彪と毛沢東との間が急速に疎遠になっていったことは事実かもしれない。ここの部分は「歴史の闇の中」であるが、むしろ毛沢東の方が調子に乗って増長する林彪に対する警戒感を強めていった、と考える方が自然であると思われる。また、この時期は、アメリカがワルシャワの大使館を通じて米中接近の可能性を打診してきた時期と重なるが、林彪がアメリカとの接近の可能性を探ろうとしていた毛沢東・周恩来に反対したため毛沢東が林彪を遠ざけようとし始めた、と考えることも可能である。ただ、それは単なる推測であって、米中関係が林彪と毛沢東との関係にどのような影響を与えたのかは、よくはわからない。

 林彪は1907年生まれで毛沢東より14歳若い。1966年8月の第8期中国共産党中央委員会第12回全体会議で決められた政治局常務委員の序列で、劉少奇が第8位に、トウ小平が第6位に降格されたとき、林彪は毛沢東に次ぐ第2位に抜擢されたが、この時点では、毛沢東は林彪を自分の次の世代の有力な後継候補者の一人であるとみなしていたことは間違いない。

 1966年に始まった文化大革命の中で、林彪はそれまで軍隊内の教育用に使われていた「毛沢東語録」を一般大衆が学習するための教本として提唱するなど、毛沢東の地位を向上させるよう様々な工作を行ってきた。一方で、文化大革命の中の「闘争」において、自分に反対する勢力を次々に蹴落としていった。「二月逆流」で軍隊内部の長老と呼ばれる「目の上のたんこぶ」的存在の有力者を批判していったこと、軍隊内部でも「修正主義路線を歩む軍内のひとにぎりのものを排除する」という名目で自分に反対する勢力を次々に追い落としていったことは、第5節~第7節において詳しく述べた。

 こういった自分に反対する勢力を追い落とす動きは、林彪と江青らのいわゆる「文革派グループ」が一致して行ってきたことである。その結果、劉少奇、トウ小平らを失脚させることを決定した1968年10月に開かれた第8期中国共産党中央委員会第12回拡大全体会議では、本来出席すべきメンバーの多くが失脚させられていたため、会議当初は出席人数が足りず、定足数に満たなかった。

 「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、第8期の中央委員のうちこの会議に出席できたのは全体の41%に当たる40名、同中央委員候補では全体の19%に当たる19名のみであった。このため会議の初日に中央委員の補充を選任して、ようやく定足数に足る過半数の人数(59名)の出席が可能となった。この会議には、中央文革小組、林彪系が多い中央軍事委員会弁事室、各地方の革命委員会や軍区の責任者など中央委員ではない者74名も出席した。この会議が「第12回『拡大』全体会議」と呼ばれるゆえんであるが、こういった異常な出席者構成によって、国家主席である劉少奇を永久追放するという重大な決定をしたのはまさに「異常な事態」であった。

 「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、翌年1969年4月に党規約で林彪を「毛沢東の親密な戦友であり後継者」と定めた時の党の第9回全国代表大会で選出された第9期の中央委員170名、中央委員候補109名のうち第8期から引き続いて選ばれた者は合計で53名(全体の19%)に過ぎないとのことである。文化大革命による「闘争」の過程において、林彪と江青グループは自分たちに反対する者を党内の有力なポストから次々に排除していったことがわかる数字である。

 林彪はそれに加えて、自分の家族の地位向上も図った。林彪の妻・葉群も軍の中で要職を占めていたが、彼らの息子・林立果は、1967年、23歳で空軍に入った後、異例の出世を続けていた。空軍内の幹部が林彪と葉群に気を使った結果である。娘の林立衡も軍に入って異例の昇進を続けていた。

 歴代の中国共産党中央の有力幹部で、他国の権力者と比して誇れることのひとつは、権力を握っても、それによって自分の親族の地位向上を図ろうなどとはしなかったことである。毛沢東の孫の毛新宇氏は、現在、全国政治協商会議委員で時々マスコミにも登場するが、ほとんど名誉職的な役職であり、政治的に重要な役割は全く担っていない。トウ小平の次男のトウ樸方氏は、1988年~2008年11月まで中国残疾人(障がい者)連合会主席を勤めた(現在は名誉主席)が、この団体は社会福祉のための団体であり、トウ樸方氏が就いていたのは政治的に意味を持つ役職とは言えない。最近、中国でも、過去の幹部の子女が政治的に有力な地位に就き、時として「太子党」などと言われるが、日本やアメリカでも二世・三世の政治家が活躍するケースが多くなっていることを考えると、それと同じ程度のことであると言える。

 権力が集中しやすい共産主義体制において、権力によって自分の親族の出世を図ることは、人民の反発を招くことから、「絶対にやってはいけないタブー」なのである。ソ連でも、権力が世襲された例はない。共産主義体制で権力が世襲された唯一の例外が北朝鮮である。林彪は、この共産主義体制におけるタブーを冒そうとしていた。林彪が軍の中で自分の息の掛かった人物を登用するとともに、息子や娘の昇進を図ったことは、おそらく毛沢東を幻滅させたのではないかと思われる(毛沢東の指導者としての偉大なところのひとつに「人を見る目があった」ことが挙げられる。自分とは異なる政治路線を取るトウ小平を「あいつはいつか役に立つ男だ」として、党から追放しなかったことがそのよい例である)。

 増長した林彪は、毛沢東から疑いと警戒の念を持たれるようになり、ついには自滅の道を歩んでいくことになる。

以上

次回「3-3-10(2/3):謎の林彪墜落死事件(2/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-1121.html
へ続く。

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