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2010年3月12日 (金)

3-4-1:ニクソン訪中

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第1節:ニクソン訪中

 キッシンジャー補佐官の隠密裡の北京訪問により得られた合意に基づき、1972年2月21日、リチャード・ニクソン氏は、中華人民共和国成立以来初めて、アメリカの大統領として北京を訪問した(経緯については「第3章第3部第9節:ニクソンによる米中接近への動き」参照)。北京空港には、周恩来総理自らが出迎えた。

 米中両国はニクソン大統領訪中の成果として共同声明を出すことを考えていたが、その中に盛り込むべき最も重要な交渉事項は台湾問題だった。前年(1971年)10月の国連総会において、中華人民共和国は国連における代表権を獲得したが、アメリカはまだ台湾の蒋介石政権(「中華民国」)と外交関係を持っていた。そして、アメリカは蒋介石政権との間で1954年に「米華相互防衛条約」を締結していたのである。

(参考URL1)東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室
「データベース『世界と日本』」-「日本政治・国際関係データーベース」
「米華相互防衛条約」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19541202.T1J.html

 この「米華相互防衛条約」は、基本的に「日米安全保障条約」と同じ発想に基づくものであり、アメリカ軍の台湾への駐留を認めるものであった。中国にとっては、アメリカと外交関係を樹立するためには、まずこの「米華相互防衛条約」の破棄とアメリカ軍の台湾からの撤退が絶対条件だった。

 ニクソン大統領は、選挙公約でもあったベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を実現させるため、米中接近を図ることを強く望んでいたが、米国議会議員の多くは、「米華相互防衛条約」の破棄とアメリカ軍の台湾からの撤退は、極東地域における安全保障上譲れない問題であると認識しており、従来からの蒋介石政権との関係を切るわけにはいかないと考えていた国務省もそれに近い考え方であった。従って、米中共同声明の案文は、大統領訪中前から一定の交渉は行われていたものの、ニクソン大統領が北京に到着した時点では、細かい文言については、まだ最終決着を見ていなかった。ニクソン大統領は、キッシンジャー補佐官、ロジャーズ国務長官らとともに北京において共同声明の表現ぶりについて周恩来総理と交渉を行った。

 ニクソン大統領は北京滞在中に毛沢東主席との会談を希望していたが、毛沢東主席との会談は大統領が北京に到着した時点ではスケジュールはまだ確定していなかった。このため、アメリカ側は毛沢東とは会えないのではないかと危惧していた。しかし、ニクソン大統領が宿舎に到着してからまもなく、中国側から毛沢東との会談がセットされたことを知らされ、北京に到着した日のうちに、ニクソン大統領は毛沢東主席と会談した。

 実は、この当時、毛沢東主席はかなり健康を害していた。ニクソン大統領と毛沢東主席との会談を記録した映像を注意深く見るとわかるが、ニクソン大統領と握手をする毛沢東のもう一方の腕を付き添いの女性が支えている。この当時、毛沢東は一人で歩行するのも困難な状態だったのである。毛沢東の健康状態を考慮して、中国側は当初毛沢東との会談を15分間に限る、と通告してきた。しかし、毛沢東自身、ニクソン大統領との会談に熱が入り、会談は65分間に及んだ。最後は、毛沢東の健康を心配した周恩来が何回も時計に目をやっているのに気が付いたニクソン大統領が会談を打ち切った、と言われている。

(注)次々節で述べるが、林彪墜落死事件(1971年9月)の後、毛沢東はかなり健康を害しており、ニクソン訪中の約1か月前に行われた陳毅の葬儀に参加した毛沢東は、完全に介添人に支えられてやっと立っていられる状況だったことが当時の記録映像から見て取ることができる。

 中国側は台湾は中国の一部であるとの認識をアメリカ側も認めるよう要求し、台湾からのアメリカ軍の撤退を約束することを迫った。当時、ニクソン大統領は、ベトナムをはじめ、アジア各国に展開するアメリカ軍を逐次撤退させ、アメリカ軍に頼らずに各国自身の軍隊による安全保障を強化しようとする政策(いわゆる「ニクソン・ドクトリン」)を進めていたことから、台湾から段階的にアメリカ軍を撤退することは受け入れ可能だった。しかし、議会との関係から最終的に台湾から完全にアメリカ軍を撤退させることを中国と約束することは避けたいと考えていた。このため、北京での全ての日程を終えた時点でも、米中両国は共同声明の案文について合意ができなかった。ニクソン大統領一行が杭州、上海へ移動した後も周恩来総理が同行し、交渉は続けられた。

 中国側は台湾からのアメリカ軍の撤退を「約束する」との文言を使う代わりに「最終目標とする」との文言を使うとの妥協案を提示してきた。アメリカ側内部では、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官はこの文言でもやむを得ないと考えたが、議会が認めるはずがないと考えたロジャーズ国務長官はこれに反対した。こうしたアメリカ内部の事情を知った周恩来総理は、上海の宿舎において、ロジャーズ国務長官の部屋を訪れ、米中双方の妥協の重要性を切々と説いた、という。中国側の交渉の首席代表である周恩来総理が自らアメリカ側の「随員」の一人である国務長官のところへ自ら赴くのは外交交渉上は極めて異例であるが、アメリカ側内部の事情を知り、大局的な見地から大統領の努力を無駄にしないようにと国務長官を説得した周恩来は、優れた政治家・外交官としての一面をここでも見せつけた(映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~」)。

 このようにして最終的な合意に至り、ニクソン大統領の訪中日程最終日の前日である1972年2月27日、米中共同声明が両国により発表された。発表された場所が上海であったことから、この共同声明は「上海コミュニケ」とも呼ばれている。

(参考URL2)日本の外務省の「外交青書」1972年版
「-その他の重要外交文書等-(5)ニクソン大統領の訪中に関する米中共同声明」(昭和47年2月27日発表:参考用仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-shiryou-6-5.htm

 この米中共同声明では、台湾問題については、下記のように記されている。

「双方は,米中両国間に長期にわたつて存在してきた重大な紛争を検討した。中国側は,台湾問題は中国と米国との間の関係正常化を阻害しているかなめの問題であり,中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であり,台湾は中国の一省であり,夙に祖国に返還されており,台湾解放は,他のいかなる国も干渉の権利を有しない中国の国内問題であり,米国の全ての軍隊及び軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならないという立場を再確認した。中国政府は,『一つの中国,一つの台湾』,『一つの中国,二つの政府』,『二つの中国』及び『台湾独立』を作り上げることを目的とし,あるいは『台湾の地位は未確定である』と唱えるいかなる活動にも断固として反対する。

 米国側は次のように表明した。米国は,台湾海峡の両側のすべての中国人が,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は,この立場に異論をとなえない。米国政府は,中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する。かかる展望を念頭におき,米国政府は,台湾から全ての米国軍隊と軍事施設を撤退ないし撤去するという最終目標を確認する。当面,米国政府は,この地域の緊張が緩和するにしたがい,台湾の米国軍隊と軍事施設を漸進的に減少させるであろう。」

 この共同声明では、アメリカ側は中国側の主張を「認めた」とはされておらず「中国人の立場に異論はとなえない」という表現になっている。また、アメリカ側はアメリカ軍の台湾からの撤退を「約束」はしていないが、それを「最終目標」として「確認する」という言葉で表現している。この共同声明は、両国の立っている原則を維持し、かつ、合意している、という点で双方の交渉の苦労が結実したものであった。これが1979年1月1日に外交関係が樹立されることになる米中関係の基本的認識となった。

 米中国交正常化については、この上海コミュニケでは「具体的協議を行う」と述べるに留まっているが、最大の懸案であった台湾問題が上記のような原則に基づくことで合意したことは、両国の国交正常化へ向けての大きな前進であった。キッシンジャー氏はCNNの番組(映像・音声資料4:CNN制作のドキュメンタリー・シリーズ "Cold War" )の中で「中国に降り立った時、我々には歴史を作る、という認識はなかった。しかし、中国を去る時、我々は歴史を作った、と思った。」と語っている。

 しかし、米国議会内部には、安全保障の観点から台湾を「切り捨てる」ことに対する反対が根強かった。ニクソン大統領は、1972年11月の選挙で勝てば、二期目のニクソン政権の間に米中国交正常化をすることを希望していたが、議会の反対と、自らがウォーターゲート事件により1974年8月に退陣を余儀なくされたことにより、実際の米中国交正常化が最終的に合意されたのは、アメリカ側はカーター政権になった後の1978年12月であった。1978年12月16日、米中両国から1979年1月1日をもって外交関係を樹立することが発表された(後に詳しく述べることになるが、この米中国交樹立のタイミングは、くしくも中国共産党が「改革開放政策」を打ち出したのと同じ時期だった)。

以上

次回「3-4-2:日中国交正常化」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-c0ec.html
へ続く。

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