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2010年3月10日 (水)

3-3-10(2/3):謎の林彪墜落死事件(2/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第10節:謎の林彪墜落死事件(2/3)

 以下、「参考資料14:文化大革命十年史」を中心的な参考資料としながら、林彪墜落死事件に至るまでの経緯について詳しく述べていくこととする。

 林彪は、1969年4月に党規約に「林彪同志は毛沢東同志の後継者」と書かせることに成功した後も、自分の地位の向上のために様々な動きをした。1969年11月に国家主席だった劉少奇が失意のうちに死去した(「第7節:国家主席・劉少奇の失脚と死」参照)。このことは対外的には公表されなかったが、党の幹部の多くはこれを知っていた。林彪は、この状況を利用して毛沢東を国家主席に復活させようと考えた(毛沢東は大躍進の失敗が明らかになりつつあった1959年4月に国家主席を辞任している。以後も「毛主席」と呼ばれたのは党の主席であるためである)。林彪は、毛沢東が自分より14歳高齢であることから、毛沢東が国家主席になりさえすれば、時期が来れば、後継者である自分に国家主席のイスが回ってくると考えたものと思われる。

 国家主席のポストをどうするかについては、1970年3月に開かれた中央工作会議で議論された。毛沢東は国家主席のポストを廃止することを提案した。しかし、林彪は4月11日、毛沢東が国家主席の座に就くべきことを提案した。毛沢東は、その翌日書面で「私は二度とこの地位に就くことはできない。この提案は不適切である。」と林彪の提案を明確に拒否した。4月下旬に開かれた中央工作会議では、毛沢東は、三国志時代に、呉の孫権が後漢最後の皇帝・献帝を擁して自らは承相として権力を奮っていた曹操に対して皇帝になるよう勧めた時、曹操が「孫権は自分を炉の火であぶり殺すつもりだ」と語ったという故事を引用して、「自分(毛沢東)を曹操にしないで欲しい。君たちも孫権になるな。」と話したという(「参考資料14:文化大革命十年史」)。

 1970年8月23日から中国共産党第9期中央委員会第二回全体会議(第9期二中全会)が江西省の廬山で開催された。国家主席問題は4月の中央工作会議で「廃止する」という方針が決まっていたにもかかわらず、林彪とその一派の陳伯達、呉法憲、葉群(林彪の妻)、李作鵬、邱会作は、各分科会の中で、毛沢東を天才と讃え、天才なのであるから毛沢東は国家主席に就任すべきである、との主張を行った。林彪一派の黄永勝も同様の主張をする発言の準備をしていた。この時、上海の文革派のリーダーで後に「四人組」の一人となる汪洪文は、林彪と同調して、毛沢東を天才と讃える演説の準備をさせていたという(参考資料14:文化大革命十年史」)。

(注)廬山は江西省九江市にある名山である。山の中で涼しいため、夏の時期に重要な会議がここで開かれることが多かった。1959年7月~8月に開催され国防部長の彭徳懐が批判された中国共産党政治局拡大会議もここで開かれた。普通、「廬山会議」という時には、この1959年の会議を指すことが多いが、上記の1970年8月の第9期二中全会のように、ほかにも廬山で開かれた重要な会議は多いので「廬山会議」という言葉には注意を要する。なお、廬山は、風光明媚な自然公園としても有名で、現在、ユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録されている。

 この動きを見て、毛沢東は、林彪一派が自分(毛沢東)を国家主席に祭り上げ、政治の実権を自分たちの手で握ろうとしていると判断した(前回(参考URL2)に掲げた1973年8月の中国共産党第10回全国代表大会における周恩来による報告では、この時の林彪グループの動きのことを「反革命政変未遂」と表現している)。8月25日、毛沢東は2日前に林彪が行った毛沢東の礼賛と国家主席就任提案に関する演説についての議論を停止し、各分科会で林彪一派が行った「毛沢東礼賛と国家主席就任提案」に関する会議録の回収を命じた。そして批判のターゲットを陳伯達に定め、陳伯達に対して自己批判を命じた(この時点では、まだ林彪を名指しで批判するには至っていない)。林彪一派の黄永勝は、この毛沢東の命令により、「天才論」の演説を行うチャンスを失った。一方、この時点で、上海グループの汪洪文は、林彪に利あらず、と判断して、用意していた「天才論」に関する発言原稿を破棄し、逆に「天才論」と陳伯達を批判する演説に差し替えた。

 さらに8月31日、毛沢東は「私の若干の意見」という文章を作成した。この文章では「歴史は英雄が創造するのか。人類の知識は先天的に備わっているのか。」と述べて、林彪一派が主張した「天才論」を批判した。

 それより前、林彪は自分の一派である呉法憲と図って、党内に自分たちの一派だけで連絡を取り合うための「調研小組」を設立していた。その組長には、林彪の息子の林立果が就いていた。林彪は、1970年8月の第9期二中全会で、平和裡に毛沢東を国家主席に祭り上げ自らが権力を握ることに失敗したことから、呉法憲に「『文』でだめなら『武』でいく」と語っていたという。1970年10月、林立果は、日本映画「連合艦隊司令長官山本五十六」と「あゝ海軍」を見て、自分も「江田島精神(=旧日本海軍の江田島海軍学校の精神)」で行かねばならない、と考えて、自分の組織「調研小組」の暗号名を「連合艦隊」とすることに決めたという(このあたりの話は、「参考資料14:文化大革命十年史」に書かれている話であるが、「お話」としてはでき過ぎており、どこまで本当なのかはわからない)。

 毛沢東は、1970年12月18日、アメリカのジャーナリストのエドガー・スノー氏と会談した(「第9節:ニクソンによる米中接近への動き」参照)。この会談で毛沢東はスノー氏に「一部のものの個人崇拝はニセモノで『四つの偉大』は煩わしい」と述べている。「四つの偉大」とは、「偉大な指導者、偉大なリーダー、偉大な総帥、偉大な舵手」という毛沢東を語る時に付ける決まり文句で、個人崇拝の推進者である林彪がよく使っていた。エドガー・スノー氏はこの話をすぐに公にした。この毛沢東の発言は、名指しは避けていたものの、明らかに林彪を批判するものだった。

(参考URL)「人民日報」日本語版2001年8月7日17:05アップ記事
「偉大な指導者、偉大なリーダー、偉大な総帥、偉大な舵手、毛沢東主席万歳~党創立から80年間のスローガン80(48)」
http://j.peopledaily.com.cn/2001/08/07/jp20010807_8168.html
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 党中央は1970年12月22日から1971年1月下旬まで華北会議を開催し、陳伯達批判を行った。その後、「批陳整頓」(陳伯達を批判し思想を整頓する)「批修整風」(修正主義を批判し風潮を整える)の運動を展開することとなった。

 これらの動きを見て危機感を募らせた林彪は、息子の林立果に指示して毛沢東を暗殺する計画「『五七一工程』紀要」を作成させた(一説では、まず林立果が「『五七一行程』」紀要」を作成し、後に林彪がこれを承認した)。この「『五七一行程』紀要」が書かれたメモは、1980年代に行われた「四人組裁判」の中で「証拠」として提出され、各種資料で見ることができる(「参考資料14:文化大革命十年史」、「映像・音声資料7:DVD『歴史をして未来を語らしめる(四)文革十年』」など)。「『五七一行程』紀要」の中では、毛沢東は「B-52」という暗号名で書かれていた。B-52は、アメリカ空軍の大型戦略爆撃機で、当時、ベトナム戦争で「北爆」に盛んに使われ、沖縄にも多数配備されていた。このことは、林彪一派が、アメリカとの接近を試みていた毛沢東と周恩来の路線に反発していたことを伺わせるものである。

 ただし、計画名を「武起義」と同じ発音の「五七一」と呼び、毛沢東をB-52と呼ぶなど、極秘のクーデター計画にしては暗号名の付け方がやや拙劣な感もあり、「『五七一行程』紀要」は本当に林彪一派が作成したのか、作成したのだとしてもどこまで本気だったのか、は、第三者(中国政府当局以外の者)による検証がなされていない以上、現時点では確認のしようがない。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の中で著者の天児慧氏は、林彪墜落死事件は、毛沢東が林彪を排除しようとした結果であり、「『五七一行程』紀要」は毛沢東を悪者にしないために作られたストーリーである可能性も排除はしきれない、という点を指摘している。

以上

次回「3-3-10(3/3):謎の林彪墜落死事件(3/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-28dc.html
へ続く。

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