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2010年3月 7日 (日)

3-3-9(1/2):ニクソンによる米中接近への動き(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第9節:ニクソンによる米中接近への動き(1/2)

 ベトナムは、かつて、朝鮮、琉球、日本などと並ぶ中国の歴代王朝と朝貢関係を結ぶ周辺の民族(中国側から見れば少数民族)が作った国家である。ベトナムは中国語では「越南」と書く。おそらくは「ヴィェトナム」という国名は中国語の「越南(Yuenan)」から派生したのではないかと思われる。「越南」とは、雲が掛かるような山々のある南の「雲南」を越えたさらに南の地域、という意味で、中国側から見た命名である。

 そのベトナムは第二次世界大戦の前まではフランスの植民地だった(ベトナムを巡って、当時の「宗主国」であった清とフランスとが争った清仏戦争(1884年~1885年)については「第1章第2節第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い」でごく簡単に触れた)。ベトナムは、第二次世界大戦において日本が占領し、フランス軍は撤退していたが、1945年8月の日本の敗戦により、フランスは再びベトナムに戻ってきて植民地支配を続けようとした。しかし、コミンテルン(ソ連共産党が主導して成立させた国際共産党)のメンバーだったホー・チ・ミンは、第二次世界大戦中に中国国内でベトナム独立同盟(ベトミン)を成立させるとともに、日本の敗戦直後の1945年9月2日にはハノイにおいてベトナム民主共和国の建国を宣言してフランスに抵抗した。フランスは、ベトナム南部に親仏的なバオ・ダイをヘッドとするベトナム共和国政府を成立させたが、第二次世界大戦により、フランス本国が相当な被害を受けていたこともあり、フランスはベトミン側を圧倒することはできなかった。逆に1954年に起きたディェン・ヴィエン・フーの戦いにおいて、フランスは大敗を喫し、ベトナムからの撤退を余儀なくされた。

 フランスのベトナムからの撤退に当たって締結されたジュネーブ協定においては、北緯17度線を境にして、ベトナム北部を拠点とするベトナム民主共和国(北ベトナム)とバオ・ダイをヘッドとするベトナム共和国(南ベトナム)が並立することが合意され、全ベトナムで統一選挙を行い、その結果に従ってベトナムの政治が行われることになっていた。しかし、バオ・ダイ政権は一種のフランスによる傀儡(かいらい)政権であり、選挙の結果、ベトミン側が勝利して、ベトナムが共産主義陣営に入る可能性はかなり高かった。それを恐れたアメリカは、当時南ベトナム政府で首相を務めていたゴ・ジン・ジェムを支援して、1955年にクーデターを起こさせた。

 ゴ・ジン・ジェム政権は、アメリカの支援の下、南ベトナムにおいて共産主義勢力を弾圧した。このため、南ベトナム国内において、1960年、北ベトナムの支援を受けて、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が組織された(「ベトコン」の名称は日本の報道でもよく使われたが、もともとは反解放戦線側が使っていた一種の蔑称なので使用する際には注意を要する)。ゴ・ジン・ジェムは親米的でありキリスト教徒であったが、腐敗する政権を批判する仏教徒を迫害したことから、ゴ・ジン・ジェム政権は共産主義勢力からだけではなく、仏教の僧侶や仏教を深く信仰する多くの南ベトナムの人々からの支持を失っていった。

 この頃から、欧米や日本ではテレビが普及し、多くの事件がテレビのニュース映像として記録されるようになっている。ゴ・ジン・ジェム政権に抗議して焼身自殺を図る僧侶の映像などを記録映像として御覧になった読者も多いと思う。ゴ・ジン・ジェムの実弟の妻はテレビのインタビューに答えて「仏教徒たちは何をしましたか? 何人かの僧侶をバーベキューにしただけじゃないですか。」と答えて、ベトナムの人々の激しい怒りを買った。

 アメリカは、政権が腐敗し、国民から全く支持を失ったゴ・ジン・ジェム政権を見限り、1963年11月1日に起こった軍事顧問のズオン・バン・ミンによるクーデターを黙認した。この軍事クーデターによりゴ・ジン・ジェム兄弟は暗殺された。その後も南ベトナムでは何回かクーデターが起きるが、南ベトナムの政権は実質的にアメリカの支援なしには立ち行かない状況になっていた。

 南ベトナムでのズオン・バン・ミンによる軍事クーデターの直後、アメリカでは1963年11月22日、民主党のケネディ大統領が暗殺されたことを受けて、憲法の規定に従ってジョンソン副大統領が大統領となった。ジョンソン氏は翌1964年に行われた大統領選挙でも勝利し、引き続き政権を担当することになった。

 ジョンソン大統領は、アメリカの圧倒的な軍事力で一気に解放勢力側を駆逐しようと考えた。当時、南ベトナム領域内で活動していた解放戦線は北ベトナムから全面的な支援を受けていたため、アメリカ側にとっては、北ベトナム側の支援拠点を叩くことが急務であった。1965年8月、北ベトナムのトンキン湾近くの公海上を航行していた(北ベトナムは領海を侵犯していたと主張した)アメリカ軍の駆逐艦が北ベトナム軍から攻撃を受け、アメリカ側はこれに応戦した。その後、アメリカ軍の艦艇は二度目の攻撃を受けたことから、ジョンソン大統領はアメリカ空軍による北ベトナム領内への報復爆撃を指示した(トンキン湾事件)。いわゆる「北爆」の開始である。また、この事件をきっかけにしてジョンソン大統領は議会関係者と協議し、議会は民主党と共和党の両方が賛成した「トンキン湾決議」によって大幅な権限を大統領に委ねた。これにより、大統領は議会に諮らずにベトナム戦争に関する決定を行える権限を得た。

 このトンキン湾事件については、北ベトナムは、事件発生当時から、アメリカ軍艦船が北ベトナムの領海を侵犯したために警告したものであり、また「二度目の攻撃」なるものはしていない、と主張していた。その後、1971年にニューヨーク・タイムズの記者が入手して報じたアメリカ政府のベトナム機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)において、このトンキン湾事件はアメリカ側によって計画されていたものであったことが明らかにされた(現在では、一度目の攻撃はあったが二度目の攻撃はなかった、とされている)。CNNが1998年に制作したドキュメンタリー番組「Cold War」(映像・音声資料4)では、当時の国防長官マクナマラ氏はこの点については明言していないが、この番組内で、当時作戦に加わっていた空軍パイロットの一人は、二度目の攻撃があったとされる事件において、自分は敵の攻撃に反撃せよとの命令を受けたが、指示された場所に敵はいなかった、と証言している。

(注1)ベトナム機密文書事件では、これをスクープしたニューヨーク・タイムズの記者が国家機密漏洩罪で起訴された。この裁判は、連邦最高裁まで上がったが、最終的には連邦最高裁は記者側の主張を支持しアメリカ政府の訴えを却下する決定を行った。この裁判は、国家機密と報道、国民の知る権利を考える上で、重要な判例となった。

 その後、アメリカのジョンソン政権は、最大50万人にも上る陸上部隊のベトナムに派遣することになり、ベトナムでの戦争は泥沼化していった。このベトナム戦争に対し、中国とソ連はそれぞれ北ベトナム側を支援した。

 ソ連は、様々な軍事物資の輸送と軍事顧問団の北ベトナムへの派遣を行ったが、本格的なソ連軍の北ベトナムへの派遣はしなかった。これは朝鮮戦争の時におけるソ連の態度と基本的には同じものである。中国も北ベトナムに対する物資的な支援は行ったが、ベトナム戦争においては、朝鮮戦争において北朝鮮に対して100万人規模の人民義勇軍を派遣したのとは異なり、軍隊の派遣は行わなかった。これは、ベトナム戦争が本格化していた頃は、文化大革命が始まり掛けていた時期で中国国内の政治が必ずしも安定していなかったことと、歴史的経緯に基づく中国とベトナムとの微妙な関係(ベトナム側は歴史的に中国の影響の拡大を必ずしも快く思っていなかった)が背景にあったためと思われる。この中国とベトナムとの関係は、後の中越関係に微妙な陰を落とすことになる(「第3章第5部第3節:改革開放政策決定前後の中国の外交政策」で述べる予定)。

 1960年代後半、アメリカ国内においてはベトナム戦争をどう処理するかが大きな政治的課題になっていた。当時のアメリカの政治家は「発展途上国においては、ひとつの国が共産主義の勢力側の手に落ちると、ドミノ倒し(将棋倒し)のように次はその隣の国が共産主義化してしまう」といういわゆる「ドミノ理論」を主張していた。しかし、多くのアメリカ人にとっては、南ベトナムのような遠方の小さな国が共産主義の政権下に入ることがアメリカの安全保障上どの程度大きな意味を持つのかが理解できず、多くの若者は「何のために戦うのか」を納得できないままベトナムに派遣された。当時、アメリカは選抜徴兵制を取っており、クジ引きで当たった若者は自分の意志に係わらず徴兵に応じる義務があった。このため、多くの若者が街頭でデモ行進し、処罰を受けることを承知の上で徴兵カードを焼き捨て、ベトナム反戦の意志を表した。

 1968年の大統領選挙の最大の争点はベトナム戦争への対処であった。特に1968年2月の旧正月(ベトナム語で「テト」)に起こった解放戦線側の一斉攻撃(テト攻勢)で、アメリカ軍と南ベトナム軍は手痛い被害を受け、ベトナム戦争を早期に終結させることは非常に難しい、との認識をアメリカ国内に広げた。ベトナム戦争への介入に対する批判が高まる中、ジョンソン大統領は、介入を拡大させた自分が選挙で勝つことは難しいと判断し、1968年3月、自分は大統領の職務に専念することとし、11月の大統領選挙には出馬しないと宣言した。このため、この年の大統領選挙での民主党の候補者指名争いでは、ジョンソン政権の継続を主張するハンフリー副大統領とベトナムからの撤退を主張するロバート・ケネディ上院議員(1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の弟)との争いとなった。しかし、ロバート・ケネディ上院議員は大統領候補者指名争いの最中の1968年6月、何者かに暗殺された。

(注2)ロバート・ケネディ上院議員を暗殺した疑いで逮捕されたサーハン・サーハンという男は、何回目かの取り調べに向かう途中、報道陣の目の前で何者かに銃で撃たれて死亡した。このため、サーハン・サーハンはケネディ上院議員暗殺の真犯人ではないのではないか、との疑いが持たれた。しかし、兄のジョン・F・ケネディの暗殺と同様に、ロバート・ケネディ上院議員の暗殺についても、その真相は現在でも謎のままである。

 共和党側は、アイゼンハワー大統領の下で副大統領を勤めていたリチャード・ニクソン上院議員が候補者に指名された。ニクソン氏は選挙期間中ベトナム戦争については「名誉ある撤退」を一貫して主張していた。結局11月の大統領選挙では、ニクソン上院議員が民主党候補のハンフリー副大統領に僅差で勝利し、1969年1月に大統領に就任した。

以上

次回「3-3-9(1/2):【コラム:アメリカにとってのベトナム戦争】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-556d.html
へ続く。

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