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2010年3月

2010年3月31日 (水)

3-5-5:改革開放と「四つの基本原則」で終わった「北京の春」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第5節:改革開放と「四つの基本原則」で終わった「北京の春」

 これまでに述べてきたように、党中央工作会議に引き続いて、12月18日~22日、第11期三中全会が開催された。この会議で決定された事項は、直前まで開かれていた中央工作会議で議論されていたものであり、基本的考え方は12月13日のトウ小平氏の講話の中に凝縮されている。しかし、中央工作会議は公開されていなかったことから、具体的な議論の内容は、この三中全会を通じて、初めて公にされることになった。

 この第11期三中全会で決定された具体的な事項は以下のとおりである。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議公報」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/05/content_2550304.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

○毛沢東同志が言っていたような大規模で集中豪雨的な大衆による階級闘争は基本的に終結した。社会的矛盾に対しては憲法と法律が規定する秩序に従って解決することとする。

○経済体制に対して改革を行い、自力更正の基礎の上に立ちつつ積極的に世界各国との間で平等互恵関係に基づく経済協力を進め、世界の先進的な技術と設備を導入し、近代化に必要な科学と教育に関する政策を進める。

○経済管理体制については、権力の過度の集中という欠点を改め、地方と企業に対して、国家の統一的な計画的指導の下、大胆に経営自主権を降ろす。党の一元的な指導の下、党と政府、党と企業とが別れていないという問題を解決する。これらの措置により、中央の各部門、地方、企業及び労働者の主導性、積極性、創造性を発揮させる。

○人民公社、生産大隊の所有権と自主権は法律により保護する。労働の量と質に応じて報酬を計算し、平均主義を克服する。人民公社社員の自留地(注:農家が自分の判断で作付けできる自宅周辺の土地)、家庭の副業及び市場での売買を社会主義経済に必要な補完的部分であると位置付け、何人たりともこれに干渉を加えてはならない。

○1976年4月5日の天安門事件は完全に革命的な行動であり、天安門事件の中心は全国人民の周恩来同志に対する哀悼と「四人組」に対する憤怒の声による偉大な革命行動だった。我が党は「四人組」を粉砕した大衆の基礎の上に立ち、全会一致で、党中央が出した「右からの巻き返しに反撃する運動」(注:1975年11月以降行われたトウ小平氏排撃のための運動)及び天安門事件に関する誤った文件を撤回することを決定した。

○彭徳懐、陶鋳、薄一波、楊尚昆の各同志の名誉を回復する。

(注1)「大躍進政策」を批判した当時国防部長だった彭徳懐が1959年7月の廬山会議で批判され失脚したことについては「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」参照。

(注2)「文化大革命」の最大の標的だった劉少奇元国家主席については、この第11期三中全会での名誉回復はなされなかった。劉少奇の名誉回復は、「文化大革命」の評価自体に関連するため、簡単にはできなかったのである。

○文化大革命については、歴史的かつ科学的見地から、実事求是の精神で見る必要があるとの認識が全会一致で示された。

○中央の指導者も含めいかなる党員も個人的な意見を「指示」と称してはならない。全ての党員に対し上からの指導に対して中央常務委員会にそれを批判する意見を提出する権利を保障する。

 これらの決定は、12月13日のトウ小平氏の講話の路線を具体的な党の決定として結実させたものだった。この1978年12月の第11期三中全会は、現在に至るまで、「改革開放を決定した会議」として記録されることになる。ただ、事実関係を見れば、この路線は、直前まで開かれていた中央工作会議の中で決まっていたのだった。

 この第11期三中全会の決定では、人民公社や生産隊の自主権の尊重や農民の自留地の権利を保護することをうたってはいるが、人民公社の解体や農業生産の共同化の終了を決めたものではなかった。しかし、党中央の思惑を超えて、農業生産の共同化の終了の試みは現場レベルで進みつつあった。

 第11期三中全会の直前、ちょうど北京の西単で「民主の壁」運動が盛り上がっていた頃の1978年11月24日、安徽省鳳陽県小崗生産隊の18戸の農家は秘密裏に相談し、各農家ごとの責任で生産を行う「各戸責任生産制」を行うことを決めた。これは人民公社とその下にある生産隊による共同生産が原則だった当時の制度では違法なものだった。このため小崗生産隊の18戸の農家は、血判状を作成し、誰かが逮捕されたら残りの者が家族の面倒を見る、という密約を交わした上で、「各戸責任生産制」を始めたのだった。この「各戸責任生産制」は、各農家の向上心を刺激し、翌1979年、小崗生産隊の各農家の食糧生産は急増した。1980年1月、安徽省党書記だった万里氏は小崗生産隊を訪れ各農家が「各戸責任生産制」をやっていたことを知ったが、これを黙認した。黙認するどころか、万里氏はこの「各戸責任生産制」を安徽省内の各地でやらせることにした。

 「各戸責任生産制」により安徽省の農業生産は向上し、後に万里氏は中央に呼ばれて副総理となる。そして、「各戸責任生産制」は中国各地で試みられるようになり、その効果が出てくるにつれて、農業の共同生産の意味は失われていき、ついに1982年には人民公社自体が解体されることになるのである。

 この安徽省鳳陽県小崗生産隊の実例は、現在では、「実事求是」(事実に基づいて真理を追究する)を身をもって実践したものであり、「逮捕される危険性を省みずに敢えて新しい試みを実践した革命的な行動」として賞賛されている。

(参考URL2)「新京報」2008年11月24日付け記事
「連載特集:中国30年日誌11月24日」
「小崗生産隊が一挙に農村改革の序幕を告げた」
http://www.thebeijingnews.com/news/reform30/2008/11-24/037@110223.htm

※中国の改革開放の過程では、常に現実の改革が先行し、それを追認する形で法律の改正がなされることが多い。それは従来の規定に捕らわれずに「実事求是」の精神で改革を進める、という意味では社会を前に進める原動力になっているが、別の一方では、多くの人に「現在の法律を破っても将来は賞賛されることになるかもしれない」という気持ちを抱かせ、遵法意識を希薄にさせている面もあることは指摘しておく必要がある。

 「民主の壁」の運動の盛り上がりから「改革開放政策の決定」へと中国は大きな変化を見せた。三中全会が開催される直前の1978年12月5日には、「民主の壁」に「金生」というペンネームで「第五の近代化~民主およびその他」と題する壁新聞が張り出された。中国共産党による30年来の独裁の現状を述べ、自由も民主もない現状を見つめるよう呼びかけるものだった。「金生」とは、この後、中国の民主化運動のシンボルとなる人物・魏京生氏のペンネームである(参考資料14:文化大革命十年史)。なお、2008年12月9日にインターネット上で発表された「08憲章」(民主化を呼びかける綱領)は、魏京生氏の「第五の近代化~民主およびその他」という壁新聞に象徴される「民主の壁」運動から30年というタイミングを意識していたことは明らかであった。

 「民主の壁」を盛り上げる市民らは「四五論壇」「民主の壁」「群衆参考消息」といった手作りの雑誌を発行した。魏京生氏は、1979年1月8日、「探索」という雑誌を発刊した。厳家祺氏(「参考資料14:文化大革命十年史」の著者)は、1979年1月に発刊した雑誌に「北京の春」と名付けた。まだ季節は冬であったが、1968年の春から夏に掛けてチェコスロバキアで盛り上がった民主化運動(結局はソ連軍の介入によって鎮圧されてしまう)が、「プラハの春」と呼ばれていたことから、それにちなんで命名したものと思われる。このため1978年秋以降盛り上がった「民主の壁」の運動は「北京の春」とも呼ばれる(「プラハの春」については「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」参照)。

 党組織部長だった胡耀邦氏は第11期三中全会で中央政治局委員に抜擢された。胡耀邦氏は、1979年1月18日~4月3日まで「理論会議」を開催した。これは三中全会での決定を受けて、それまでタブーとされてきたことを見直し、批判の対象とされていた人々や文芸作品の名誉回復を図ることを議論する会議だった。三中全会での決定とこうした党中央の動きは「北京の春」の活動をさらに盛り上げた(「理論会議」は中国語では「理論工作務虚会」という。「務虚」は「実務」に対する言葉で、思想的な理論に関すること、という意味)。

 しかし、1979年1月18日、北京市公安局は、西単の壁に壁新聞を張り「飢餓と迫害に反対し、民主と人権を要求する」デモを計画したとして傳月華という女性を逮捕した(参考資料14:文化大革命十年史)。「北京の春」の運動は、彼女の釈放要求という形で次第に当局と対立するようになっていく。

 この月(1979年1月)、中国政府はいわゆる「一人っ子政策」を発表した。一方、中国は次節で述べるように2月17日から3月5日までベトナムとの間で中越戦争を起こした。トウ小平氏にとっては、1978年11月末の時点で華国鋒氏らの「すべて派」を追い詰めるために利用した「民主の壁」(北京の春)の運動は、既に「すべて派」を自己批判させて彼らから実権を奪い、三中全会で改革開放路線が決定された後は、もはや不要であるばかりでなく、それどころか、邪魔になりつつあった。1979年3月29日、北京市党委員会は、集会・デモ・壁新聞の掲示等を規制する通告を発し、プロレタリア独裁、社会主義、中国共産党による指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想に反対する壁新聞の張り出しや出版物の出版を禁止した。同じ日、魏京生氏は「反革命罪」で逮捕された。

 3月30日、トウ小平氏は、胡耀邦氏が主宰する「理論会議」で「四つの基本原則を堅持する」と題する演説を行った。四つの基本原則とは「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つを堅持することである。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選第二巻」
「四つの基本原則を堅持する」(1979年3月30日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949681.html

 この「四つの基本原則」は、改革開放が進む中でも堅持され、現在まで続いている基本的な原則である(ただし「プロレタリア独裁」は後に「人民民主主義独裁」に変わった。この変質については「第4章第2部第3節:江沢民主席による『三つの代表』論の本質」で述べる)。このトウ小平氏の演説の4日後、「理論会議」は終了した。胡耀邦氏が2か月半にわたって開いてきた「理論会議」としては、トウ小平氏が示した「四つの基本原則」が結論だったのである。魏京生氏の逮捕とこのトウ小平氏による「四つの基本原則」の宣言により、「民主の壁」(北京の春)の運動は終了する。「北京の春」は、実際の季節の春が北京に訪れる前に終わってしまったのである。

以上

次回「3-5-6(1/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-ab01.html
へ続く。

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2010年3月30日 (火)

3-5-4:トウ小平氏による改革開放方針の提示

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第4節:トウ小平氏による改革開放方針の提示

 1978年11月10日から延長を繰り返して議論が続けられてきた中国共産党中央工作会議は、12月13日、ようやく終了することとなった。この中央工作会議の閉会式の席上、華国鋒氏はついに「『二つのすべて』という表現は、毛主席を絶対化し、妥当性を欠いた」と自己批判した。「すべて派」の中心人物の一人である汪東興副主席も自己批判文を書き、その文章は会場で配られた(「参考資料17:トウ小平秘録」)。西単の「民主の壁」で多くの民衆が「すべて派」を批判する壁新聞を張り、それを世界のマスコミが報道するような状況に至り、会議で「すべて派」が自らの主張を主張し続けることは困難になっていたのである。華国鋒主席自らが自己批判することにより、「すべて派」は完全に敗れた。

 華国鋒氏の自己批判に続き、トウ小平氏が中央工作会議を締めくくる「思想を解放し、実事求是し(事実に基づいて真理を追究し)、一致団結して前を向いて進もう」と題する講話を行った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選第二巻」
「思想を解放し、実事求是し(事実に基づいて真理を追究し)、一致団結して前を向いて進もう」(1978年12月13日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949676.html

 このトウ小平氏の講話は、まさに「改革開放政策の決定」を宣言する画期的なものである。この講話のポイントは次のとおりである。

---党中央工作会議閉会式でのトウ小平氏の講話(1978年12月13日)のポイント(始まり)---

○思想の解放は当面の大きな政治問題である。

 この十数年来、林彪と「四人組」は、多くのタブー(中国語で「禁句」または「禁令」)を掲げ、迷信を作り、人々をニセのマルクス主義の檻の中に閉じ込めてきた。また、民主集中制を破壊し、党内の実権を過度に集中させる官僚主義を採った。この官僚主義は「党の指導」「党の指示」「党の利益」「党の規律」と表現されたが、その実態は、取り締まり、締め付け、圧力を掛けることだった。賞罰が不明確であり、何かなした人は打倒され、何もしなかった人が生き残った。こうした状況で、人々は一生懸命考えたり動いたりしなくなった。何かやると批判されるので、発展や進歩を求めず、新しいことを受け入れないことが習慣化した。

 思想の画一化が様々な制限やしきたりとなった。例えば「党の指導を強化する」ということで、党が一切を仕切ることになり、党の指導の実行は、党と政治の不分離を起こし、党が政府に取って代わる状況を作った。思想の画一化は「風見鶏的傾向」を産んだ。「その時の風を見て行動する」傾向は、独立して考え、意見を言い、果敢に行動し、誤りを犯すことを恐れず、誤りが明らかになればすぐに是正するという中国共産党の精神に反するものだった。思想の画一化は、現実から出発するということをせず、本に書いていない、文件に書いていない、指導者が言っていないことは何もしない、全て人がやっているとおりにやる、という現象を起こした。思想の画一化を打破しなければ、「四つの近代化」に未来はない。

○民主は思想を解放するための重要な条件である

 我々は民主的条件を作り出さなければならない。重要なのは「あら探しをしない」「レッテル貼りをしない」「むやみに批判しない」である。この数日間になされた「天安門事件」に対する名誉回復は、全国の人々を歓喜・鼓舞させ、多くの大衆に社会主義的積極性を引き出した。人々に意見の提出を許すこと、即ち各個別の不満を抱く人に民主的にいろいろ言わせることは何も恐れる必要はない。絶対多数の大衆が持つ是非を判断する能力を信頼すべきである。一革命政党としては、人民の声を聞くことを恐れてはならず、むしろ全く声が聞こえないことを恐れるべきである。

 現在、党の内外で大局を無視した諸説が虚々実々いろいろなことが言われているが、これは長期的に政治的な民主がなかったことに対する一種の懲罰と言える。我々は、人民が大局を理解し、規律を守ることを信じる。我々党の幹部は、こういった大局を無視した理屈の類に手を染めないようにしなければならない。

 人民大衆が出している意見には、正しいものも正しくないものもある。党の指導者は人民大衆が持っている意見を正確に集め、正確に解釈しなければならない。思想問題に対しては、圧力で屈服させる手法を取ってはならず、かならず「百花斉放」「百家争鳴」の方針で行かなければならない。しかし、一方、我が国にはまだごく少数の反革命分子がおり、彼らに対する警戒も怠ってはならない。

 我々はまた経済的な民主の問題も考えなければならない。現在の我が国の経済体制は権力が過度に集中していることから、決定権を計画的かつ大胆に下に降ろし、国、地方、企業及び労働者の積極性を引き出さなければならない。当面必要なのは鉱工業企業と農業生産隊の自主権の拡大である。全国の数十万の企業、数百万の農業生産隊がみんな一生懸命考えて頑張れば、いったいどのくらいの富が生み出されるであろうか!

 企業や生産隊と同じように、労働者や農民個人の民主的権利も確実に保障し、民主的な選挙による民主的な管理が保障されなければならない。そのためには民主の制度化、法律化を進め、指導者の考え方が変わったからといって各種制度が変わるようなことにならないようにしなければならない。

○過去の問題を処理することは前を見るために必要である

 全国各民族の団結を強化する必要があり、それにはまず全党の団結が必要であり、特に党の指導部の団結が必要である。

 最近、国際的・国内的に毛沢東同志と文化大革命に対する評価の問題について関心が高まっている。毛沢東同志の指導により中国革命は勝利した。毛主席がいなければ、新中国はなかった。毛沢東思想がなければ、今日の中国共産党はなかった。これらはいささかも誇張ではない。ただ、当然、毛沢東同志にも欠点や誤りがなかったわけではない。我々は科学的かつ歴史的観点から、毛沢東同志の偉大な功績について認識する必要がある。

 文化大革命についても、科学的かつ歴史的観点から見る必要がある。毛沢東同志が文化大革命を発動した時、主に修正主義に反対し修正主義を防ぐために始めたのであるが、その実施の過程において欠点や誤りがあったのかどうか、適切な時期に、経験に基づいて総括し、全党の共通認識とする必要がある。文化大革命は、我が国社会主義発展のひとつの段階であり、それを科学的に評価し、真剣に研究し、さらに時間を掛けて十分に理解した上でないと評価することはできない。この歴史段階を説明できる時が来たとき、我々は今日語っているよりさらによい段階へ進むことができるだろう。

○新しい状況を研究し、新しい問題を解決する

 我々は経済的な手法を学んで経済を管理しなければならない。自分でわからなければ人に学ぶ、外国の先進的な管理手法も学ぶ必要がある。全国統一的な手法が採れなくても、ひとつの地区、ひとつの業種から段階的に進めてもよい。

 レーニンは「集団指導の名を借りて誰も責任を取らないことがもっとも危険だ」と述べている。我々は、党委員会の指導の下での工場長責任制を採用する時、その責任範囲を明確にする必要がある。ひとつは管理者の権限を拡大することであり、二つ目は人材登用において力量に応じて責任を負わせることであり、三つ目は賞罰を明確にし企業、学校、研究機関、政府機関など全てにおいて評価を行うことである。

 経済政策上、一部の地区、一部の企業、一部の労働者・農民が、自らの努力により成績が上がったのならば、彼らの収入が多くなり生活が向上してもよい。一部の人々の生活が良くなれば、皆、それに習ってその他の地区、その他の企業も成功例に学び、全国がだんだんに豊かになっていくからである。もちろん、西北地区、西南地区など一部の地区においては人民大衆の生活は極めて困難であるから、国家はこれらの地区に対しては、必要な補助と支持を与える必要がある。

 「四つの近代化」を進めるに当たっては、我々は経験したことのない多くの問題に出くわすだろう。そのような問題が発生したときは、我々は自信を持って進まなければならない。「四つの近代化」はひとつの偉大な革命である。我々はこの偉大な革命を進めるに当たっては、絶え間なく出現する新しい矛盾を解決しなながら前進しなければならない。そのためには、全党の同志は、さらによく学習しなければならない。学習しなければならないことは、マルクス主義と毛沢東思想を根本とし、マルクス主義の普遍的原則を「四つの近代化」の具体的実践の中で我が国において実現する努力をすることである。当面、大多数の幹部が緊急に学ぶべきことは三つある。ひとつは経済学であり、ひとつは科学技術であり、もうひとつは管理の手法である。

 我々はみな一致団結し、思想を解放させ、わからないことは勉強し、党中央と国務院の指導の下、我が国の近代化を成し遂げ、社会主義強国への道を奮闘前進しよう!

---党中央工作会議閉会式でのトウ小平氏の講話(1978年12月13日)のポイント(終わり)---

 これらの言葉は、この後、改革開放政策が進展する過程で、繰り返し語られることになる。「改革開放の原点」と呼ぶにふさわしい講話だと言える。この講話を載せている「トウ小平文選第二巻」では、この講話の最後に次のような注釈を掲げている。

「これはトウ小平同志による中国共産党中央工作会議閉会式での講話である。この中央工作会議は、この後すぐに引き続いて開催された中国共産党第11期中央委員会第三回全体会議(第11期三中全会)の準備のための会議だった。このトウ小平同志の講話は、事実上、三中全会の基調報告と言えるものだった。」

 この講話の中には、トウ小平氏による「民主化」に対する考え方が散りばめられている。この講話は、この後、「胡耀邦氏の失脚」「第二次天安門事件」「南巡講話」などを通じて表面化するトウ小平氏の考え方のバックボーンとなっている。トウ小平氏は、ある時は上記の言葉を実践し、そしてある時は上記の自らの言葉の一部を自ら踏みにじることになる。その意味で、この後の中国の歩みを考える時、この1978年12月に出されたトウ小平氏の講話の意味を改めて感じることができると思う。そして、この講話が述べているのは、21世紀の現代の中国が直面する問題にまで継続しているところのものでもある。

 上記の講話の中で、トウ小平氏は、毛沢東と文化大革命の評価の部分については、明言を避け、時間を掛けて科学的に評価する必要がある、と述べるに留まっている。この時点でトウ小平氏の考え方は固まっていたと思われるが、なお、党内世論が落ち着くのを待つため、性急にことを進めなかったトウ小平氏の周到さが窺える。「時間を掛けた科学的な評価」を行った結果として、二年半後の1981年6月に毛沢東と文化大革命に対して明確な評価を下す「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(歴史決議)が出されることになる。それまでの間、トウ小平氏は華国鋒氏を追い詰めることはしなかったが、この1978年12月の第11期三中全会の決定により、事実上、華国鋒氏は政権運営の実権を失った。そして、華国鋒氏は1980年8月に開かれた全人代で国務院総理を解任され、「歴史決議」を採択した1981年6月の第11期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)では党主席も辞任することになるのである。

 党中央工作会議が終了した直後の1978年12月16日、中国政府とアメリカ政府(当時は民主党のカーター大統領の政権)は、同時に1979年1月1日をもって両国が国交を樹立することを発表した。中国は4か月前の1978年8月12日に日本との間で日中平和友好条約に調印している(批准書を交換し条約が発効したのは1978年10月23日)。華国鋒氏らの「すべて派」とトウ小平氏らの「実践派」が路線論争を続けている間にも、外交交渉などの実務的な行政事務は滞りなく行われていた。華国鋒氏ら「すべて派」がいるとは言いながら、中国政府の実質的な統括権限はトウ小平氏が握っていたからであるが、これらの外交交渉の円滑な進展は、中国がこの頃には「文化大革命」時代のような政策実務をないがしろにしながら路線論争を繰り広げる国から、政策方針に関する論争は行われていても、実務的な行政は確実にこなす「普通の国」に既に変身を遂げていたことを示すものである。

 なお、この当時の中国と日本やアメリカ、ベトナム等との国際関係については、次々節で改めて述べることとする。

以上

次回「3-5-5:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-a40e.html
へ続く。

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2010年3月29日 (月)

3-5-3:【コラム:論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」の扱い】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第3節:西単(シータン)の「民主の壁」

【コラム:論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」の扱い】

 1978年5月10日に「理論動態」誌に掲載され翌5月11日に「光明日報」に転載された「実践は真理を検証する唯一の基準である」という論文は、華国鋒主席ら「すべて派」を批判する内容であったが、この論文は「光明日報」では「本紙特約評論員」の署名で掲載された。2008年6月2日付けで「新華社」ホームページに掲載された中央党校の瀋宝祥教授の文章によると、「光明日報」でこの論文を「特約評論員」の名前で発表したのは政治的リスク回避の観点から胡耀邦氏が提案したやり方だ、とのことである。

(参考URL)「新華社」ホームページ2008年6月2日11:11アップ論文
「再読『実践は真理を検証する唯一の基準である』」
http://news.xinhuanet.com/politics/2008-06/02/content_8299739.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

※上記の論文には、審査のために胡耀邦氏に送られチェックされた「実践は真理を検証する唯一の基準である」の原稿の現物の写真が掲載されている。

 上記(参考URL)の論文では、「実践は真理を検証する唯一の基準である」論文を改革開放期の新しい思想解放の序幕を告げる重要論文と位置付けている。上記の「新華社」の論文が2008年6月になってアップされたことには、21世紀初頭の現時点において、政治的に一定の意味があると私は考えている。その死が「第二次天安門事件」発生の切っ掛けとなった胡耀邦氏と、「第二次天安門事件」の処理を巡って失脚した当時党の総書記だった趙紫陽氏の取り扱いについては、現在でも極めて微妙なものがある。この二人を「改革開放の原点を作った者」として賞賛することは、人々の眼を江沢民前主席がトウ小平氏によって上海市書記から党書記に一気に抜擢される切っ掛けとなった「第二次天安門事件」以前の時代へ向けさせるものであり、「思想解放」を封印し、急激な経済成長に伴って勢力を拡大してきた江沢民前主席及びその周辺の有力者に対する一種の挑戦と捉えることも可能だからである。2008年6月時点での上記の論文の「新華社」ホームページへの掲載は、現在の党内にも、胡耀邦氏を再評価し、最終的には1989年6月の「第二次天安門事件」を再評価すべきだと考える流れがあることを表している可能性がある。そして、そのことは、「第二次天安門事件」における弾圧を正当化する(正当化せざるを得ない)江沢民前主席の勢力とそれに対抗する勢力(おそらくは胡錦濤主席をヘッドとする勢力)との権力争いを象徴している可能性がある。

以上

次回「3-5-4:トウ小平氏による改革開放方針の提示」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-405b.html
へ続く。

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2010年3月28日 (日)

3-5-3:西単(シータン)の「民主の壁」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第3節:西単(シータン)の「民主の壁」

 1977年のトウ小平氏の再復活以降、トウ小平氏の路線の最先端を切って、文革時代に失脚した人々の復活や名誉回復を進めていたのが胡耀邦氏(1977年11月に中国共産党組織部長に就任)だったことは前に述べた。1977年3月に中央党校の副校長になった胡耀邦氏は、自らの路線を示すため中央党校による理論誌「理論動態」を創刊した。「理論動態」は、その創刊号で「革命継続論について」と題する論文を発表した。この論文はまさにトウ小平氏が1978年3月18日に全国科学大会開会式での講話で述べたように生産力の向上とそのための技術革新の重要性を述べた論文で、実質的に毛沢東が主張続けた「階級闘争の継続が要である」との考え方を批判するものだった。

 また、「理論動態」誌は、1978年5月10日、「実践は真理を検証する唯一の基準である」と題する論文を掲載した。この論文は、毛沢東が述べた「実事求是」を用いて現状と今後進めるべき方向について論じており、5月11日「光明日報」に転載され、さらには「人民日報」にも転載され、新華社は全国にこの論文を配信した。

 この論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」のポイントは以下の通りである。

○毛主席は「真の革命的指導者とは、自分の思想・理論・計画・手法が誤っていたとき、それを正すことができる者であり、客観的な情勢が変化した時、状況の変化に応じて新しい革命任務と新しい業務の手法を提案できる者のことである」と述べている。

○林彪と「四人組」は、党の実権を奪うため、「一言が一万の言葉に相当する」「一言一言が真理である」などと口から出まかせを言っていた。実践の経験によれば、彼らが言っていたことは毛沢東思想の真理どころではなく、逆に毛沢東思想を誤って解釈したものだった。

○「四人組」は人々の思想に「タブー」(中国語で「禁区」=触れてはいけない部分)を作ってしまった。我々はこの「タブー」に敢えて触れ、この「タブー」を除去しなければならない。科学には「タブー」はない。実践を以て自ら判断することで絶対的な「タブー」を超えなければならない。

 これは華国鋒氏の「二つのすべて」論に対するあからさまな反対だった。「すべて派」の人々はこの論文が発表されたこと、特にこの論文が「人民日報」に転載され、新華社がこれを全国に配信したことに驚嘆した。「トウ小平秘録」(参考資料17)では、この論文は、通常の論文とは異なり、最初、党宣伝部のチェックを受けない中央党校の機関誌「理論動態」に掲載され、それが「光明日報」から「人民日報」「新華社」に転載されたため、「すべて派」が押さえていた党宣伝部がこの論文の掲載をチェックできなかった、との見方を示している。この論文は「すべて派」(華国鋒氏ら)とそれを攻撃する「実践派」(トウ小平氏、胡耀邦氏ら)との間の論争(「真理標準問題」と呼ばれる)の始まりを告げるものだった。

(参考URL1)「新華社」ホームページ2008年5月9日21:11アップ
「資料:『実践は真理を検証する唯一の基準である』全文」
http://news.xinhuanet.com/politics/2008-05/09/content_8138077.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(参考URL2)「新華社」ホームーページ「新華資料」
「真理標準問題に関する討論」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_698076.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 なお、「光明日報」がこの論文を掲載した1978年5月11日、華国鋒主席は北朝鮮を訪問中で北京にいなかった。従って、この論文の掲載は、華国鋒主席の北京不在のタイミングを狙って行われたトウ小平氏・胡耀邦氏らによる華国鋒主席ら「すべて派」に対する計画的な策略だった可能性がある。

(参考URL3)「光明日報」ホームページ2008年6月1日アップ記事
「私が『実践は真理を検証する唯一の基準である』を発表した」(王強華)
http://www.gmw.cn/02sz/2008-06/01/content_812570.htm

(注1)上記の記事には、1978年5月11日付けの「光明日報」1面の写真が掲載されている。この写真を見れば、論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」は1面下半分に掲載されているが、1面上半分では北朝鮮を訪問した華国鋒主席がピョンヤン駅で金日成主席と別れを告げる写真が掲載されているのがわかる。

(注2)党のトップが北朝鮮訪問のために北京を留守にしている間に「人民日報」にトップが了承しないような論文を発表する、という手法は1989年4月に再び使われることになる。胡耀邦氏の死去を切っ掛けにして、若い人たちの自由な論争を支持していた胡耀邦氏を追悼する学生らが天安門前で集会を繰り返していた1989年4月26日、趙紫陽総書記は北朝鮮訪問のため北京を留守にしていた。このタイミングを狙うかのように、「人民日報」に学生らの動きを「動乱」と規定する「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」という社説が掲載された。この「人民日報」の社説が「第二次天安門事件」を弾圧する流れと趙紫陽総書記の失脚への道を開くものになったのである。

 「光明日報」「人民日報」などに論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」が掲載されてから1か月も経たない6月2日、トウ小平氏は全軍政治工作会議において講話を行った。この講話でトウ小平氏は、毛沢東が常々「実事求是」を主張していたことを強調して、次のように述べた。

「一部の同志は、日々毛沢東思想について論じているのに、往々にして毛沢東同志が語っていた『実事求是』を忘れている。彼らはマルクス、レーニン、毛沢東同志の話した原文を引っ張ってきてそのまま実行していると主張しているが、しかしながら、実はこれはマルクス・レーニン主義と毛沢東思想に反し、中央の精神に反しているのである。」

 これは党の主席、国務院総理であり、かつ中央軍事委員会主席でもある華国鋒氏の「二つのすべて」論に対する明確な反対であった。

 さらに軍の新聞である「解放軍報」は、6月24日、「実践は真理を検証する唯一の基準である」と論調を同じくする論文「マルクス主義の最も根本的な原則」を掲載した。「すべて派」を批判するような講話が全軍政治工作会議でなされ、同様の趣旨の論文が軍の新聞である「解放軍報」に掲載されるということで、もはや軍のトップであるはずの中央軍事委員会主席の華国鋒氏が現実的には軍を掌握していないことは明らかとなった。

 華国鋒主席ら「すべて派」は依然として汪東興副主席をヘッドとして党宣伝部を掌握してはいたが、論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」が掲載されたことに見られるように、「すべて派」は「人民日報」や「新華社」などの主要メディアを完全にコントロールできているとは言えなかった。それに加えて、「すべて派」は軍も掌握してしていないことが明らかになった以上、華国鋒氏ら「すべて派」は、寄って立つところを既に全て失ってしまったことは明らかだった。

 1978年も9月になると、胡耀邦氏がかつて第一書記を務めていた中国共産主義青年団の機関誌「中国青年」が復活した。「中国青年」復活第一号には、1976年4月の「第一次天安門事件」で天安門広場に張り出された詩文が「天安門革命詩抄」として掲載された。また「第一次天安門事件」で逮捕された労働者の文章も載っていた。「すべて派」で宣伝担当の党副主席だった汪東興氏がこれを問題視し、刷り直しを命じた。「すべて派」による最後の抵抗だった。しかし、この「中国青年」刷り直し事件は、北京の青年たちを刺激し、10月になると長安街(天安門前を東西に通る大通り)の北京の西半分の様々な場所で様々な壁新聞が張り出されるようになった。さらに11月になると西単(シータン:北京市西部にある地名)付近の壁に様々な壁新聞が張り出されるようになった。多くは「すべて派」を批判し、天安門事件の名誉回復を求めるものだった。

 こういった多くの人々の「すべて派」に対する批判の声を利用して、トウ小平氏は一気に「すべて派」、即ち華国鋒主席周辺の実権を骨抜きにし、「改革開放路線」の決定へと突き進んでいくことになる。

 「中国青年」の復刊第一号の刷り直しを命じた「すべて派」で宣伝担当の党副主席だった汪東興氏に対して、異議を唱え怒りを表明した若い人々の頭の中には、トウ小平氏が前年(1977年)2月の中国共産党第11回全国代表大会の閉会の辞で述べた言葉「意見をまとめるとともに民主的であり、規律を守るとともに自由であり、意志を統一させるとともに個々人をのびのびとさせ活き活きと活発にするような政治局面を作ることは毛主席が掲げた良き伝統である」があった。このトウ小平氏の言葉は、多くの若者たちに自分の意見を率直に表現する気持ちを奮い起こさせた。

 西単(シータン)付近の様々な壁新聞の多くは「すべて派」を批判し、「第一次天安門事件」の名誉回復を求めるものであり、「第一次天安門事件」の再評価を求める人々の声は日増しに高まっていった。こうした中、1978年11月16日付けの「人民日報」と「光明日報」は、北京市中国共産党委員会が「第一次天安門事件」について、周恩来総理を追悼し「四人組」打倒を叫んだ人々の行動は「革命的行動」であり、そのために迫害された人々の名誉を回復することを11月14日に決定した、と報じた。

 なお、この部分、伊藤正著「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、当時の事情を知る于光遠中国社会科学院副院長は、北京市党委員会が決めたのは「第一次天安門事件」によって迫害された人たちの名誉回復と復職だけで、この事件を「革命行動」として評価したわけではなかった、としている。しかしながら、現在、ネットで見ることができる「新華社」ホームページの「中国共産党大事記」の1978年の部分によれば、「11月14日、北京市中国共産党委員会は、中国共産党中央政治局常務委員会の批准を経た上で、1976年4月に幅広い大衆が天安門前広場で周恩来総理を追悼し『四人組』に対する怒りの声を挙げたのは完全な革命行動だったことを宣言した。」とされている。

(参考URL4)「新華社」ホームページ
「資料」-「中国共産党大事記(1978年)」(後半部分)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2004-10/15/content_2094079_1.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 ちょうどこの時期、11月10日から中国共産党中央工作会議が開かれていた。この会議は、今後の政策の方針を決定するための非公開の会議だった。

 西単の壁に張られた多くの壁新聞は外国メディアによって世界に報道され、「民主の壁」と呼ばれるようになった。11月25日には、ハンドマイクを持って持論を展開する人を市民が取り巻くという自発的な「民主討論会」も行われた。「文化大革命十年史」(参考資料14)によれば、この動きについて、トウ小平氏は、外国要人や外国メディアに次のように語っている。

○11月26日、日本の民社党佐々木良作委員長に対して;
「壁新聞を書くことはわが国の憲法が許している。われわれは大衆が民主を発揚し壁新聞を書くことを否定したり批判する権利はない。大衆に不満があるなら彼らにはき出させなければならない。」

○11月27日、「ワシントン・ポスト」紙のコラムニストであるジム・ノバック氏に対して;
「『民主の壁』はよいことだ。人民にはその権利がある。」

○12月初め、中仏貿易協定調印式に出席した後、フランス人記者団に対して;
「壁新聞の運動はなお続くであろう。なぜならそれはよいことだからだ。」

 これらの「民主の壁」の運動を容認するトウ小平氏の発言は外国のメディアを通じてすぐに北京市民に伝わり、この運動は大いに盛り上がった。この運動を通じて「第一次天安門事件」は「正しい行動だった」という人々の考え方は明確になり、それが世界中に報道された。

 こうなると、この時行われていた中国共産党中央工作会議において、華国鋒氏ら「すべて派」がその主張を展開することがもはや無理なことは明らかだった。「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、この中央工作会議は当初会期二週間の予定で11月10日に開幕したが、陳雲氏らが提起した文化大革命中に批判された多くの人々の名誉回復や「第一次天安門事件」の再評価を巡って議論が紛糾し、何度も延長され、結果的には1か月以上続いた。

以上

次回「3-5-3:【コラム:論文『実践は真理を検証する唯一の基準である』の扱い】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-e44c.html
へ続く。

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2010年3月27日 (土)

3-5-2:トウ小平氏と「すべて派」との対立

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第2節:トウ小平氏と「すべて派」との対立

 復活したとは言え、トウ小平氏は、党の役職は副主席、国務院の役職は筆頭副総理である。党の主席と国務院総理は華国鋒氏だった。数年前まで毛沢東と周恩来が占めていた役職を華国鋒氏が兼ねていたのである。しかし、実際の政策運営の実権は、党副主席であり国務院副総理であるトウ小平氏が握っていくことになる。

 トウ小平氏の復活が決定してから約3週間後の1977年8月12~18日、第11回中国共産党全国代表大会が開かれた。この冒頭に行われた政治工作報告は、党主席である華国鋒氏が行った。

(参考URL1)「新華社」ホームページ
「新華資料」-「第11回党大会」
「第11回党大会で行われた政治報告(華国鋒)(1977年8月12日報告、8月18日採択)
(前半)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_696820.htm
(後半)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_696831.htm
※これらのサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この政治報告で、華国鋒氏は「四人組」の粉砕をもって「第一次プロレタリア大革命」は勝利の下に終了した、と宣言した。この華国鋒氏の宣言の論理は以下の通りである。

○毛沢東主席は、文化大革命を始めた時「天下を大乱させ、しかる後に『天下大治』に至らしめなければならない」と述べ、1973年8月の前回(第10回)党大会の後には「プロレタリア文化大革命は既に8年を経過した。今は、安定を求め、全党・全軍が団結する必要がある。」と指示していた(「第3章第4部第4節:文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執」参照)。

○しかし「四人組」は破壊と混乱を続けようとした。今、「四人組」は打倒され、我々は毛沢東主席の指示通り「天下大治」の時期に至ったのである。従って、「四人組」の粉砕をもって、11年に渡った第一次文化大革命は勝利のうちに終了した、と宣言するのである。

 この論理のポイントは次の3点である。

(1) 第一次文化大革命を終わらせたのも毛沢東主席の指示に基づくものである。

(2) 第一次文化大革命は「勝利のうちに」終了した(つまり文化大革命を正しいこととして評価している)。

(3)「第一次文化大革命」と表現することにより、今後、「第二次」「第三次」の「文化大革命」があることを示唆し、結果として、華国鋒氏は文化大革命を進める路線を継承していることを表明している。

 この政治報告は、「文化大革命」に辟易(へきえき)していた多くの党員と人民の気持ちを汲んで「文化大革命は終了した」と宣言する一方、「毛主席が始めた文化大革命を終了させることも毛主席の意志だった」「文化大革命は正しかった」と主張し「これからも『第二次』『第三次』を自分がやることになるかもしれないこと」と示唆することによって、華国鋒氏が毛沢東路線の忠実な継承者の立場を逸脱していないことを示すというかなり苦しい華国鋒氏の立場を表していると言える。

 これはまた、「文化大革命」による混乱から脱したいと希望しつつも、「文化大革命」を批判することはそれを始めた毛沢東を批判することにつながる、という当時の多くの人が抱いていた「とまどい」を表していた、とも言える。毛沢東が死んでから1年程度しか経っていなかったこの当時、毛沢東はまだ神格化された存在であり、毛沢東を批判することなど多くの人々にとっては思いも寄らないことだったのである。華国鋒氏の政治報告は、毛沢東の「あなたがやれば私も安心だ。」という「遺言」にしか自らの立場の根拠を求められない華国鋒氏が、そういった人々の「毛沢東批判に対する畏れ」を利用したものであった、とも言うことができる。

 トウ小平氏は、こういった人々の凝り固まった「毛沢東批判に対する畏れ」を「毛沢東自身の言葉」を用いて溶かしていく。この党大会の閉幕の辞はトウ小平氏が行ったが、この閉幕の辞の中で、トウ小平は次のように述べた。

○我々は、毛主席の革命路線を正確に貫徹し、党の良き伝統と仕事のやり方を回復させて向上させなければならない。

○我々が回復させ向上させなければならない毛主席が掲げた良き伝統と仕事のやり方とは、即ち、実事求是(事実に基づいて真理を求める)、批判と自己批判、慎み深く謙虚であり、おごってはならず、刻苦奮闘し、意見をまとめるとともに民主的であり、規律を守るとともに自由であり、意志を統一させるとともに個々人をのびのびとさせ活き活きと活発にするような政治局面を作ることである。

(参考URL2)「新華社」ホームページ「新華資料」
「歴代党大会」-「第11回党大会」
「中国共産党第11回全国代表大会公報」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2007-10/11/content_6863309.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 これは、毛沢東がこれまで繰り返し述べてきた、「実事求是」の精神と、のびのびとした活発な意見発表を通じて最善の政策を考えていこうという精神を、改めて人々に示したものだった。これを前節で紹介した5月24日の談話に見える「毛沢東自身、自分にも誤りがあることを認めていた」との指摘を併せて考えれば、毛沢東批判になってもよいから、事実に即して、正しいことは正しい、誤りは誤りだと認識した上で、最善の政策を考えよう、という呼び掛けでもあった。これは「『毛沢東の決定』『毛沢東の指示』を全て守る」という華国鋒氏の「二つのすべて」の路線を「実事求是」という毛沢東自身の言葉で否定するものだった。

 このトウ小平氏の閉会の辞の中の「意見をまとめるとともに民主的であり、規律を守るとともに自由であり、意志を統一させるとともに個々人をのびのびとさせ活き活きと活発にするような政治局面を作ること」の下りは、人々を「文化大革命」と「毛沢東を批判してはならない」という「縛り」から徐々に解放していき、約1年3か月後の1978年11月に、北京市の西単にある壁(後に「民主の壁」と呼ばれるようになる)に様々な意見を書いた壁新聞が張り出されることで盛り上がる民主化運動(いわゆる「北京の春」)の出発点となる考え方であった。

 トウ小平氏の閉会の辞によっても、毛沢東を率直に批判できるような雰囲気はすぐには生まれなかったが、華国鋒氏の「第一次文化大革命終了宣言」と「文化大革命」の期間を通じて主たる批判対象だったトウ小平氏が中央政界に完全に復活したという事実は、「文化大革命」期間中に批判され、迫害された人々の復活や名誉回復に大きな希望をもたらした。「文化大革命」期間中に迫害された人々の復活や名誉回復を担当するのは中国共産党組織部だったが、1977年11月、文革時代に文革グループの康生に抜擢されて党組織部長を務めていた郭玉峰氏に代わり、胡耀邦氏が党組織部長に就任した。

 胡耀邦氏は、1975年にトウ小平氏の指示により、中国科学院の現状を調査し、研究者を思想闘争のくびきから解放するために尽力したことは「第3章第4部第5節:「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判」で述べた。胡耀邦氏は、1976年4月の「第一次天安門事件」の際にトウ小平氏とともに失脚していたが、トウ小平氏の復活の動きに伴ってその地位を復活させ、1977年3月には中央党校副校長になっていた。胡耀邦氏は、同年11月に党組織部長に就任すると、「文化大革命」中に失脚した人々の復活・名誉回復を積極的に進めていった。多くの場合、「文化大革命」中に失脚した人々に対する批判は、毛沢東主席の指示によるものであったから、この復活・名誉回復作業は、必然的に当時の毛沢東の判断に対する批判を伴うものであった。従って、胡耀邦氏の文革中失脚者の復活・名誉回復作業は、毛沢東の判断は絶対である、と主張する「すべて派」の人々との対立を生むこととになる。

 華国鋒氏をはじめ、毛沢東の判断を絶対視する「すべて派」の勢力はまだまだ強かった。1978年2月の全国人民代表大会で華国鋒氏は国務院総理に再任され、政府の人事の面では華国鋒氏ら「すべて派」とトウ小平氏ら「実践派=脱文革派」との両方が共存する体制が続いた。

 こうした中、トウ小平氏は、1978年3月18日、全国科学者会議の開会式に出席し、講話を行った。この講話の中でトウ小平氏は次のように指摘した。トウ小平氏の科学技術に関する考え方を端的に表現している。この時のトウ小平氏の講話のポイントは以下のとおりである。

○今日、このように史上空前の規模で科学者が一同に会して盛会のうちに全国科学大会が行われているということは、「四人組」が科学事業を妨害し、知識分子(インテリ層)を迫害したような状況は、もう戻ってこない、ということを明確に象徴している。

○「四人組」は知識分子を「反動的」だとして迫害して人々の思想を混乱させたが、そういった「四人組」の考え方は誤りであり、知識分子は頭脳労働者であって「反動的」ではない。

○我々は、農業、工業、国防、科学技術の四つを進めることにより、我が国を社会主義の近代的強国とし、外国からの侵略を防ぎ、物質的な条件を整えることによって、共産主義の偉大な理想を前進させることができるのであるが、四つの近代化の中のカギは科学技術の近代化である。科学技術の近代化がなってこそ、農業、工業、国防の近代化ができるのである。

○一連の新しい産業は新しい科学の基礎の上に立っている。例えば、高分子合成化学産業、原子力産業、コンピューター産業、半導体産業、航空宇宙産業、レーザー産業などである。近年の自然科学知識の進歩のスピードは速い。自然科学の知識は、生産に応用され、各分野の状況を一変させている。特にコンピューターを使いコンピューターで制御される自動化技術は、同じ労働力・同じ労働時間を用いたのに比べて飛躍的に生産力を向上させている。これらの生産力は、科学技術の力に立脚しているのである。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ
「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」
「著作選集」-「トウ小平文選第二巻」
「全国科学大会開会式での講話」(1978年3月18日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949663.html

 中国では「文化大革命」の名残りが残っており、先進国の中においてすら、半導体産業、コンピューター産業が産業界の中心にようやくなり始めていたこの時期(1978年)におけるこのトウ小平氏の講話は、相当に時代を先取りしていたと言えよう。この講話は、この時期、党中央ではトウ小平氏らが進める「実践派=脱文革派」と華国鋒氏をトップとする「すべて派」が共存していたにも係わらず、トウ小平氏が「文化大革命」の「縛り」を脱して、「四つの近代化」の路線の実行へ大きく踏み出しそうとしていたことを表している。

 現在の胡錦濤主席は、この全国科学者会議開会式でのトウ小平氏の講話を改革開放路線を明確に方向付けたものとして高く評価している。それはこの時のトウ小平氏の講話を胡錦濤主席が提唱する「科学的発展観」の出発点をなすものであると考えているためと思われる。ここの部分は、例え過去の中国共産党が打ち出した政策であっても、現在の状況に踏まえて、虚心坦懐に検証し、正すべきべきところは正す必要がある、という「科学的発展観」の根本をなすものであり、私がこれから何回か書くことになるであろう「改革開放の原点」となる考え方である。私は1989年の「第二次天安門事件」において、この「改革開放の原点」が封印されてしまった、と感じており、胡錦濤主席は、その封印を解こうとしている、と信じている。それを読者に伝えたいと思ったことがそもそも私がこの「中国現代史概説」を書き始めた動機である。

(参考URL4)サイエンス・ポータル・チャイナ「JST北京事務所快報」(2008年6月26日付け記事)
「胡錦濤主席の中国科学院・中国工程院院士大会での講話」
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080626.html

※「JST北京事務所快報」は私(この「中国現代史概説」の筆者)が書いたもの

以上

次回「3-5-3:西単(シータン)の『民主の壁』」
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へ続く。

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2010年3月26日 (金)

3-5-1:【コラム:中国現代史の不透明性】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第1節:華国鋒政権下でのトウ小平の再復活

【コラム:中国現代史の不透明性】

 この時期、華国鋒氏が次第に求心力を失い、多くの指導者がトウ小平氏の下へ接近していく過程で、誰がどのような役割を果たしたのか、については、今なお不明の点が多い。現在の「新華社」のホームページの中の「資料」のページには、中国共産党の歴史を語る多くの文献が収録されているが、このページの中では、文化大革命が始まる前年の1965年から改革開放政策が決まった1978年12月の第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)までの間の文献がスッポリ欠落している。

(参考URL)「新華社」ホームページ「資料」のページ
「党史文献」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2609668.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この時期の中国共産党が現在の政権の目から見て「正しくない」決定をしていたことから、当時の党の歴史を証明する文献がネット上に掲載されていないものと思われる。こういった「都合の悪い過去は抹殺する」という考え方を改めない限り、冷静で客観的な歴史の評価をすることは到底困難である。ここにも本稿を執筆している2010年の時点で「中国現代史」を語ることの限界を見ることができる。

 党の主席として華国鋒氏を頂きながらも、実質的な政権の中心が華国鋒氏からトウ小平氏へ移っていくこの時期についても、現時点では「消された歴史」の一部分であり、この時期の詳細な過程についても、2010年の時点は、まだ客観的に検証するには時期尚早と言わざるを得ない。

以上

次回「3-5-2:トウ小平氏と『すべて派』との対立」
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へ続く。

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2010年3月25日 (木)

3-5-1:華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第1節:華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活

----(おことわり:始まり)----

 今節以降、文化大革命以降の「現代」の時代へ入っていく。この文章に登場する人物の多くは現在でも健在の方々も多い。そのため、登場人物の氏名については、これまで「トウ小平」「華国鋒」と歴史上の人物として呼び捨てにしてきたが、私の気分としては、自分と同時代を生きた人物として「トウ小平氏」「華国鋒氏」と敬称を付けて呼びたいと思っているので、この回以降、敬称または役職付きで表記することとする。ただし、1976年以前に亡くなった方々に関しては、歴史上の人物として、「毛沢東」「周恩来」のように敬称なしで表記させていただくこととする。私の気分によって、表記の不統一が生じることをあらかじめお詫びしておく。

----(おことわり:終わり)----

 1976年10月の「四人組」の逮捕に際しては、華国鋒氏と軍の有力者だった葉剣英氏、党の副主席だった李先念氏らが一致して当たった。これらの人々は「反四人組」ということでは意志が統一されていたが、思い描いていた目指すべき政策が一致していたわけではなかった。軍の関係者は「四人組」による様々な形での軍への干渉に反発していたのであり、実務的な考え方を持つ党幹部や実務官僚は、周恩来がレールを敷き、トウ小平氏が進めた「整頓路線」に基づく政策の復活を願っていた。それに対して、華国鋒氏の政治理念は、終始不明確だった。

 華国鋒氏にとって、自分が党のトップにいる根拠は、毛沢東が華国鋒氏に対して言った「あなたがやれば私は安心だ」という「遺言」だけだった。華国鋒氏は、周恩来の死後、総理代行になった時には公安部長であり、公安部門は掌握していたが、政策実務の点では実績もなかったし、明確なビジョンもなかった。一方、軍の葉剣英氏や党官僚の李先念氏らは、政策実務の執行に安定した力量を発揮できるトウ小平氏の復活を希望していた(年齢的にもトウ小平氏は華国鋒氏よりも17歳も年上だった)。華国鋒氏にとって、その実績や力量から言って、トウ小平氏の復活は実質的に自分がトップの座から滑り落ちることを意味していた。

 「四人組」の逮捕が公表された後、各地で「四人組打倒慶祝大会」が開かれたが、1976年10月22日付けの人民日報では、この「慶祝大会」を伝える記事の最後に「華国鋒主席を中心とした党中央の呼び掛けに応じ、トウ小平批判の継続を誓う」と書かれていた。華国鋒氏は、この年の4月の「第一次天安門事件」においては、「四人組」と一緒になって、周恩来総理を追悼するために集まった群衆を解散させ、トウ小平氏を全ての公職から追放することを先頭に立って進めたのだった。従って、「四人組」を打倒したのは華国鋒氏だったとは言え、トウ小平氏を復活させることは、華国鋒氏の判断が誤りであったことを認めることになる。従って、華国鋒氏にとっては、「四人組」を打倒した後であっても「第一次天安門事件」を鎮圧したこととトウ小平氏を全ての公職から追放したことは「正しい判断だった」と言い続ける必要があったのである。

 多くの人々は「四人組」を打倒した華国鋒氏を賞賛した。しかし、それは多くの人民の気持ちを表現した「第一次天安門事件」を圧殺した「四人組」を華国鋒氏が打倒したからであって、人々の願いは「第一次天安門事件」で表された多くの人民の気持ちを正当なものとして評価して欲しい、ということだったのである。周恩来の死後1年が経過した1977年1月8日、周恩来を追慕する多くの市民が天安門広場に集まり、スローガンや壁新聞を掲げた。多くは「四人組」を打倒した党中央と華国鋒主席を賞賛するものだったが、当時、共同通信北京支社の記者だった伊藤正氏(本稿執筆時の2010年3月時点では産経新聞中国総局長)は、「トウ小平秘録」(参考資料17)の中で、自らの取材体験として、一部の壁新聞の中には、トウ小平氏の復職を求め、「四人組」以外の一部の指導者を批判するものもあった、と記している。

 華国鋒政権は、民衆のこうした動きを許さなかった。トウ小平氏の復職を求めるスローガンを出した数人の青年は反革命罪で逮捕された。2月7日、「人民日報」「解放軍報」「紅旗」は「文書をよく学び、要に力を入れよう」という共同社説を掲載した。この社説は「毛主席が下したすべての決定を、我々は断固支持する。毛主席のすべて指示を、我々は終始一貫守る。」というものだった。華国鋒氏がトップにいる根拠が毛沢東による「遺言」しかないことから、華国鋒氏は、毛沢東を絶対化し、毛沢東が述べたことは厳格に守らなければならない、と主張することによってしか、自らの権威を維持することができなかったのである。この日の社説の主張は、後にトウ小平氏によって「二つのすべて」として批判の対象とされることになる。

 「毛沢東の遺言」が自らの地位の唯一の根拠であった華国鋒氏にとっては「毛沢東の路線を継承する」ことが至上命題だった。そのため思想的には「階級闘争を要とする」という毛沢東の路線を引き継いだ。また、華国鋒氏は、文化大革命開始前の1964年2月に提唱され、文化大革命中も繰り返されてきた「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」というスローガンも引き続き掲げていた。大寨は、山西省の村で、村民が共同で棚田を切り開くなどして全国の農村のモデルとされた場所である。大慶とは1963年に生産を開始した黒竜江省の大慶油田のことである。大慶油田は、ソ連からの援助が途絶えた後、中国だけの力で石油の産出にまで漕ぎ着けた、という意味で、文化大革命時代にも盛んに提唱された「自力更生」の典型として、全国のモデルとされていたのである。これらの点では、華国鋒氏は自ら「四人組」を打倒しながら、思想とスローガンの面では「四人組」が推進してきた文化大革命路線を続けていたのである。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ日本語版
「農業は大寨に学べ-党創立から80年間のスローガン80(42)」
http://j.peopledaily.com.cn/2001/07/18/jp20010718_7598.html
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ日本語版
「工業は大慶に学べ-党創立から80年間のスローガン80(41)」
http://j.peopledaily.com.cn/2001/07/18/jp20010718_7597.html
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 一方で、「四人組」が進めてきた文化大革命路線が経済の停滞をもたらし、それが多くの人民の不満の根本にあったことも事実だった。従って、華国鋒氏は、「四人組」がもたらした弊害を回復させるために、1975年1月に周恩来が提唱した「四つの近代化」路線を進めることも求められていた。しかし、華国鋒氏には実務的な政策運営の経験がなく、周恩来総理やトウ小平氏のように現実的な経済政策を実行する実務官僚によるバックアップを得ることもできなかった。華国鋒氏は、急速な経済発展を進めるため、外貨準備の裏付け等の実務的検討が不十分なまま外国からの大型工業プラントの導入を進めた。外貨準備等の裏付けのない闇雲な外国からのプラントの大量の導入決定は、後に1958年に毛沢東が提唱した「大躍進」をもじって「洋躍進」と揶揄(やゆ)されることになる。

 「洋躍進」は、「自力更生」を旗印とする文化大革命路線とは正反対のものである。華国鋒政権は、主張する思想やスローガンは文化大革命当時のままでありながら、文化大革命とは正反対の政策を進めていた。つまり、どちらの方向を向いて進んでいるのかわからない政権だったのである。

 華国鋒政権は「四人組」を「修正主義」として批判した。このことについては「第3章第3部:第2節:四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~」の【コラム:「修正主義」という言葉】でも書いたところである。客観的に言えば「四人組」の文革グループが進めた路線は共産主義の理想を追求しようとするものであり、「極左」という批判はあり得ても、「修正主義」(即ち右より)と批判するのは筋違いである。このことを見ても、華国鋒政権の路線は、どちらの方向を向いているのか非常にわかりにくいものになっていた。

 どこの国においても、いつの時代でも、方向性のわからない政権は、やがて求心力を失っていくことになる。

 堅実な政策運営を進めるためには、トウ小平氏を中央に呼び戻すしかない、というのが、葉剣英氏らの軍の幹部や李先念らの党の多くの幹部の意向だった。それは、多くの人民の希望と一致していた。トウ小平氏は、「第一次天安門事件」以後、全ての公職を解かれ、「四人組」逮捕に際しても動ける状態ではなかったし、その後も華国鋒主席が「トウ小平批判は続ける」という方針を示していたことから、トウ小平氏が自ら積極的に動くことは困難だった。しかし「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、「四人組」逮捕の後、葉剣英氏、李先念氏ら有力者は、トウ小平氏の自宅を訪れて激励するようになっていったという。

 こうした中、1977年3月10日から中国共産党中央工作会議が開催された。「トウ小平秘録」によれば、この会議4日目の3月13日、全国人民代表大会副委員長の陳雲氏が次のように発言したという。

「天安門事件に巻き込まれた大多数の民衆の目的は、周恩来首相の追悼だった。事件への四人組の関与を調べるべきだ。陰謀の可能性がある。」

「党中央の一部の同志がトウ小平同志の職務復帰を提案したと聞く。中国革命と中国共産党のために、この提案は正しく、また必要だと思う。私は全面的に賛成する。」

 この発言は、党中央主席の華国鋒氏の方針に反対する大胆なものだった。王震副総理も同様の発言をした、という。陳雲氏は、この後、1980年代、改革開放の進め方において、急速な市場経済化の導入を進めるトウ小平氏に対して、経済の自由化は計画経済の枠内に留めるべきだと主張する「保守派」の中心としてトウ小平氏と対立することになるが、1977年3月の時点では、トウ小平氏の復活を積極的に推進しようとしたのである。王震氏は、1989年の「第二次天安門事件」で、軍の内部で民衆を武力で鎮圧することを主張する保守派の中心となるが、1977年3月のこの時点では、改革を推進する側にいた。

 この中央工作会議では、「第一次天安門事件」の再評価とトウ小平氏の復職を望む声があちこちで出され、結局は華国鋒主席も3月14日の全体会議では、「第一次天安門事件」について、「反革命」であるとしつつも、「ごく少数の反革命分子によるもので、民衆の周恩来首相追悼は情理に合う」とし、トウ小平氏の復職についても「必要なプロセスを経て適当な時期に」行うことを認めた(参考資料17:トウ小平秘録)。党内の議論の大勢に押された格好だが、党主席の主張が党内議論によって修正された、ということは、「毛沢東時代」にはあり得なかったことであり、時代が「毛沢東時代」とは変わったことを端的に示すものであった。同時に、華国鋒氏は、党の主席とは言いながら、毛沢東のような絶対的な力を持ち得ないことを明確に示したできごとだった。

 トウ小平氏は、4月10日、華国鋒主席、葉剣英副主席あてに自分の考え方を述べた手紙を書き、党内にこの手紙を配布するよう求めた。華国鋒氏は葉剣英氏と相談し、葉剣英氏のアドバイスに基づき、5月3日、この手紙を一部修正の上、党内に配布することを認めた。事実上、トウ小平氏が党内で意見を言うことを認めたものだった。さらに、5月24日には、トウ小平氏は、王震副総理とトウ力群国務院政策研究室責任者を呼び、自分の考えを話した。王震氏とトウ力群氏は、それを党内に広く配布した。(トウ力群氏の「トウ」は「トウ小平」氏と同じ「登」に「おおざと」。トウ小平氏とトウ力群氏は同姓だが親戚等の関係ではない。トウ力群氏は、陳雲氏とともに、改革開放路線が本格化する1980年代以降、経済的自由化を進めるトウ小平氏の経済政策に反対する「保守派」の論陣の中心となる人物である)。

 この1977年5月24日のトウ小平氏の談話のポイントは次の通りである。

○「二つのすべて」はダメだ。「二つのすべて」に基づけば、私(トウ小平)の名誉回復はできないし、1976年の幅広い大衆の天安門広場での活動を「情理に合う」として肯定することもできなくなってしまう。

○毛沢東同志がある問題に対して言った言葉を別の問題について述べたものとして使ってはならないし、ある場所、ある時点で言った言葉を別の場所、別の時点の別の条件の下で使ってはならない。そういうやり方をしてはダメだ。

○毛沢東同志自身が自分で言っていたが、毛沢東の話の中には誤っているものもある。毛沢東同志は、ある人が何かやれば、誤りを犯さないことはあり得ない、と言っていた。毛沢東同志は、一人の人間は「七割は正しく三割は誤っている」(中国語で「三七開」)となるのが最も良い、自分が死んだ後、人が自分のことを「三七開」だと評価してくれたら、自分は非常に嬉しく、満足に思う、と言っていた。これは理論上重要な問題である。マルクスもエンゲルスも「すべて」などと言ってはいないし、レーニンもスターリンも「すべて」などとは言っていない。毛沢東同志自身「すべて」とは言っていない。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選」-「トウ小平文選第二巻」
「『二つのすべて』はマルクス主義には適合しない」(1977年5月24日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949655.html

 このトウ小平氏の談話は、「二つのすべて」を主張する華国鋒主席に対する公然とした反論であることは明白だった。こうなると華国鋒主席はますます求心力を失い、党内の大勢は大きくトウ小平氏の方へ流れていく。こうして1977年7月16日~21日に開かれた第10期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第10期三中全会)で、トウ小平氏のすべての職務の復帰が全会一致で決議された。

 第10期三中全会で復職が決定された直後の1977年7月30日、北京の工人体育場で行われたサッカーの試合にトウ小平氏が観戦に現れた。これがトウ小平氏が復活して最初に公の場に姿を現した瞬間だった。「トウ小平秘録」(参考資料17)では、このサッカーの試合を見た後、サッカー好きのトウ小平氏が「審判員を何人かドイツに派遣し、勉強させたらいい。国際審判員を養成し、審判技術を向上させねばならん」と語った、というエピソードを紹介している。このエピソードは、サッカーのジャッジが国際水準に達していない状況を見て、すぐさま国際水準にまで上げる努力をするよう指示する、という、この後のトウ小平氏が近代化推進のために次から次へと政策を打ち出すことを予見させるような象徴的な話として、語り継がれているのであろう。

 この時点では、まだ「第一次天安門事件」に対する評価はひっくり返っていなかった。「第一次天安門事件を煽動した」として失脚したトウ小平氏が復活したのであるから、「第一次天安門事件」の評価も変わっても当然なのであるが、「第一次天安門事件」の評価をひっくり返すことは、この事件の鎮圧を命じた華国鋒氏を追い落とすことに繋がる。トウ小平氏は、そういった党内の「反対勢力を追い落とす」といった権力闘争にうつつを抜かすよりまず先に、実態的な政策を改めることの方が大事だ、と考えたようである。トウ小平氏は、「第一次天安門事件」の再評価を性急に求めて華国鋒氏を追い詰めるより先に、具体的な政策を正常化させることの方を優先した。党内の大勢と多くの人民の支持を得ていると感じていたトウ小平氏の老獪(ろうかい)でしたたかな政治判断だった。

 トウ小平氏の復活は、1975年に周恩来総理の全人代での政治工作報告から始まった「四つの近代化」路線の復活をも意味した。トウ小平氏が真っ先に行ったのは大学教育改革だった。党中央は1977年8月4日から5日間「科学と教育」座談会を開催し、大学教育改革について議論した。

 文化大革命が始まった1966年以降、大学の入学試験はなくなり、推薦入学が行われていた。中国の学校の新学期は9月開始であり、大学の入学者選抜は毎年6月に行われる。1977年についても、トウ小平氏が復活した7月末の時点では、既に大学入学者選抜は終了していた。会議の最終日、トウ小平氏は統一大学試験を復活させ、今年から実施すべき、と主張した。教育部長が、今年の大学入学者選抜は終了しており、今年は間に合わないことを告げると、トウ小平氏は厳しい表情で「今年やるのだ。入学者選抜会議はやり直せばいい」と語ったという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 このため、1966年以来途絶えていた1977年の大学統一入学試験は、通常は6月に行われるところ、この年だけ変則的に12月12日に実施された。この復活後第一回の大学統一入学試験には、それまで大学に入るチャンスのなかった多くの人々が受験したため、1977年度の大学入学生には非常に優秀な人材が集まっていると言われている。2000年代末の時点では、多くの大学の学長、研究所の所長等にこの1977年度の復活第一回統一入学試験合格者が就任している。

 私は、こういった今は大学や研究所のトップになっている1977年度大学入学組の方々とお話しをする機会があったが、1977年度大学入学者の中には自分の大学入学時の記念写真を取り出してこう言ったりする人がいる。

 「ね、私たちの同期生はみんな分厚いオーバーコートを着て写真に写っているでしょ。他の期の人たちは、皆、入学試験が夏だから大学入学の時の記念写真には夏着で写っているけど、1977年度だけは入学試験が12月だったので冬服を着ているのです。だから、大学入学時の記念写真を見ただけで、1977年度入学の私たちの同期生だとすぐわかるんです。」

 その話の端々からは、懐かしさとともに秘やかな誇りも感じられる。多くの希望者が殺到した1977年度に入学できたということは、その人の優秀さを示すことになるからである。これらトウ小平が強引に実施させた1977年度大学入学統一試験の合格者たちが、その後の改革開放政策の実施の中心的原動力となって中国を引っ張っていくことになるのである。

以上

次回「3-5-1:【コラム:中国現代史の不透明性】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-b786.html
へ続く。

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2010年3月24日 (水)

3-4-7:毛沢東の死、そして「四人組」の逮捕

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第7節:毛沢東の死、そして「四人組」の逮捕

 周恩来の死とトウ小平の失脚で、前年の1975年に「四つの近代化」と「全面整頓」を行った中心人物がいなくなり、形式的には華国鋒をトップとしつつも、実質的には江青、張春橋らを中心とするグループが政治を運営するようになった。江青らの文革グループは、「第一次天安門事件」で、江青らのグループを批判する詩を張り出したり演説したりした者を割り出し、これに係わった者たちを一斉に逮捕した。

 毛沢東の健康状態は一段と悪化し、5月27日にパキスタンのブット首相と会見したのが外国の賓客と会った最後だった。6月15日に予定されていたマダガスカルの首脳と毛沢東との会見がキャンセルされたが、その際、中国の外交部は、中国共産党中央の決定として、今後、毛沢東主席は高齢と多忙のため今後外国賓客との会見は行わないことなった、と発表した。多くの人は毛沢東の死が近いことを悟った。そうした中、1976年7月6日、革命戦争当時「毛朱」と言われ毛沢東とともに並び称された革命軍人で、この時全国人民代表大会常務委員会委員長だった朱徳が死去した。90歳だった。周恩来に引き続く、朱徳の死は、革命第一世代の時代が既に終わりつつあることを人々に告げていた。

 朱徳の死後三週間も経たない7月28日、河北省唐山市でマグニチュード7.8の大地震が発生した。震源に近い唐山市は壊滅状態となり、24万人以上が死亡した(なお、この死亡者数は、当時は国家秘密扱いとされ、死亡者数が公式に発表されたのは数年後だった)。この唐山地震では北京でもかなりの揺れを感じた。周恩来、朱徳ら革命の先駆者たちの相次ぐ死の後だっただけに、多くの人々が将来に不安を感じた。

 そして、この年、1976年9月9日の正午、午後4時から重要な放送が流される旨の予告放送があった。午後4時(日本時間午後5時)、中国共産党中央委員会、中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会、中華人民共和国国務院、中国共産党中央軍事委員会の連名による「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」という形で、9月9日午前0時10分、毛沢東が死去したことが伝えられた。このニュースは世界中を駆けめぐった。

 当時、大学1年生だった私は、このニュースを知って、発表があった1時間後の日本時間午後6時から放送されたNHKのラジオ・ニュースを録音した。NHKラジオの午後6時のニュースは通常は5分間だったが、この日は特別にニュースの時間を15分間に拡大し、その全てを使って毛沢東主席の死去を伝えた。また、午後8時過ぎには、北京から直接流されてくる北京放送日本語版ラジオ放送にダイヤルを合わせ、この北京放送が伝える「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」を録音した。この「全人民に告ぐる書」を伝える北京放送の日本語アナウンサーは「毛沢東同志は・・・治療のかいなく、1976年9月9日0時10分、北京で逝去しました。」と読み上げる部分で、思わず声を詰まらせていた。

 この毛沢東の死を伝える「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」では、毛沢東の業績を伝える部分で、次のように述べている。

「毛主席は、わが党を指導して党内の右と左の日和見主義路線と長期にわたる鋭い複雑な闘争を進め、陳独秀、瞿秋白(注:日本語よみで「くしゅうはく」)、李立三、羅章竜、王明(注:本名は陳紹禹)、張国トウ(注:「トウ」は「寿」の旧字体の下の四つの点をつけた字)、高崗(注:日本語読みは「こうこう」)、饒漱石(注:日本語読みは「じょうそうせき」)、彭徳懐の日和見主義路線に打ち勝ち、プロレタリア文化大革命の中でまたも劉少奇、林彪、トウ小平の反革命の修正主義路線に打ち勝ち、階級闘争と二つの路線の闘争の中で、わが党を絶えず発展させ、強化させてきました。」

(注1)陳独秀は中国共産党創立者の一人。以下、張国トウまでは新中国成立前の革命期に党内の権力闘争の過程で失脚した有力者。高崗、饒漱石は新中国成立後、政治闘争の中で失脚した指導者(「第3章第2部第1節:社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」参照)。1959年7月に開かれたいわゆる「廬山会議」で、国防部長だった彭徳懐が批判され失脚したことについては「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」参照。上記のようにトウ小平を「反革命」として批判しているため、トウ小平が始めた改革開放路線を進めている現在の中国では、この毛沢東の死を告げる「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」をネット上で見付けることは困難である。

 毛沢東の死後、誰が政権の中心となるかは、多くの人にとっては想定するのが難しい問題だった。既に「第一次天安門事件」後の4月に周恩来の後任の国務院総理として華国鋒が就任していたことから、毛沢東の後任の党の主席にも党副主席の華国鋒がそのまま昇格するのではないか、と見る人が多かったが、張春橋、江青、王洪文らや軍の関係者の動きなどが、外部にはよくわからなかったからである。毛沢東の死を伝える9月9日午後6時からのNHKニュースでは、華国鋒が昇格するのが順当とする見方を示す一方、4月の華国鋒の総理就任が党内の左右の勢力の妥協の産物だった可能性があるとの見方も紹介して、毛沢東なきあとの中国の政権の行方の不透明さについて伝えていた。

 毛沢東の追悼大会は、9月18日に行われ、華国鋒が主宰して弔辞を述べた。華国鋒の隣には、江青、張春橋、王洪文が並んだ。この追悼大会が開かれる2日前の9月16日の「人民日報」では、毛沢東の「既定方針通りにやれ」(中国語で「按既定方針弁」)という毛沢東の生前の指示を伝えていた。最大の問題は、毛沢東の後の党中央主席に誰がなるか、であった。毛沢東の生前の指示は「華国鋒を第一副主席及び国務院総理にせよ」ということである。別の言い方をすれば「毛沢東は、華国鋒を自分の死後、党の主席にせよ、とは言っていなかった」ということになる。

 江青、張春橋、姚文元、王洪文らは、毛沢東の死後、この「既定方針通りにやれ」という指示をあちこちで宣伝していた。また、王洪文は、毛沢東の死の直前、二人の秘書を毛沢東の見舞いに派遣し、毛沢東の様子を見させるとととも、各地方の省に対して、地方で何か動きがあったら華国鋒を飛び越して王洪文に直接連絡するよう指示していた。この情報を得た華国鋒と軍の有力者である葉剣英は、王洪文の動きに懸念を感じ、直ちに党中央の名義で各地方の省市に有事の際は直接華国鋒に報告するよう指示した。

 軍の内部では、1968年2月の「二月逆流」(「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)のように文化大革命の初期の頃から古参革命幹部を失脚させていった文革グループに対する反発が強かった。また、「第一次天安門事件」前後の動きを見れば、多くの人民が江青らのグループに反発を感じていることは明らかだった。葉剣英ら軍の幹部は、江青らのグループが必死になって毛沢東の「既定方針通りにやれ」という指示を守ろう、と宣伝していることは、「毛沢東は、華国鋒を第一副主席にせよ、と言ったのだから、華国鋒を党の主席にしてはならない」と主張するための動きであると判断した。

 江青らの動きに不穏なものを感じた古参革命軍人の一人である聶栄臻(1968年の「二月逆流」で文革グループから批判された者の一人)は、9月21日、これも軍の古参幹部である楊成武のところへ行き、葉剣英に江青らの四人に対して「断固たる措置」を講ずべきであるとの考えを伝えさせた。同じ日、党中央政治局委員だった李先念が華国鋒を訪れ、江青らのグループの動きが危険であるとして、対処を相談した。李先念はさらに9月24日、葉剣英を訪れて相談した。こうして、華国鋒、聶栄臻、葉剣英、李先念らは、江青らに対して「断固たる措置」を採ることで考えが一致していった。

 そもそも「既定方針通りにやれ」という毛沢東の指示は、この年の4月30日、華国鋒が「第一次天安門事件」の後の国内情勢を報告し、一部の省(地方)の状況について憂慮している旨を毛沢東に報告した時になされたものだという。この当時、毛沢東はほとんど話をすることができなくなっていたが、頭はハッキリしており、時として、文字を書いて周囲に意志を伝えることがあったことについては、この年2月に毛沢東と会見したアメリカのニクソン前大統領が当時の毛沢東の様子について語っていたこととして、前節で触れた。4月30日に毛沢東が文字に書いて華国鋒に示した意志は「ゆっくりやることだ。気を揉むことはない。」「これまでの方針通りにやれ。」「あなたがやれば私も安心だ。」の3つだったという。

 江青、王洪文らもこの席におり、この時の「これまでの方針通りにやれ。」という言葉を江青らは宣伝したのである。ところが、華国鋒によれば、この時の毛沢東の言葉は、姚文元が中心となって各新聞などで書かせている「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」ではなく、「これまでの方針通りにやれ(照過去方針弁)」だったという。後者は「過去の方針に照らして実施せよ」ということで、過去の既定方針を全く変えずにそのままその通りに行え、という前者とは微妙にニュアンスが異なる。

 この違いを意識した華国鋒は、9月30日、外交部長の喬冠華が国連総会で行う予定にしていた演説原稿の中に「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という言葉があることを指摘して、「私が毛主席の遺稿を確認したところ、この部分は『これまでの方針通りにやれ(照過去方針弁)』である。今後、間違って伝えられることのないようここの部分は削除せよ。」と指示した。このことを知った張春橋は「この華国鋒同志の指示は下部に伝えるべきでない」と提案し、江青、張春橋も同意した。

 華国鋒が喬冠華外相に対して「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という毛主席の遺稿は誤りであると指摘していたのにも係わらず、10月4日付けの「光明日報」は梁效というペンネームによる「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という毛沢東の遺志を強調する論文を掲載した。梁效とは、北京大学と清華大学の合同理論組のペンネーム(「梁效」は「両校」と発音が同じ)であった。北京大学・清華大学の合同理論組が当時江青らのグループに牛耳られていることは周知の事実であり、この論文の背後に江青らのグループがいることは明らかだった。

 江青、張春橋、姚文元、王洪文が自分の指示に従っていないと確信した華国鋒は、葉剣英らと協議し、行動を起こすことを決めた。10月6日、中南海懐仁堂において政治局常務委員会会議を開催することが通知された。会議に参加するため、張春橋、姚文元、王洪文も参集してきた。姚文元は政治局常務委員ではなかったが、この日の会議で「毛沢東選集」の編集について議論するから、という理由で、編集責任者としての姚文元も呼ばれていたのだった。先に来ていた華国鋒はこの3人に対して「隔離審査」を行うことを通告し、身柄を拘束した。同じ時刻、江青も中南海の別の場所で身柄を拘束された。

(注2)中南海懐仁堂は、重要会議が行われる場所である。1968年に「二月逆流」の原因となった軍の古参幹部が文革グループを批判したことにより失脚させられた会議が開かれたのもここだった。

 なお、「四人組逮捕」の経緯については、2008年8月20日に華国鋒が死去した後、葬儀が行われた翌日の9月1日付けの「人民日報」の紙面では、次のように記している。

「華国鋒同志は『四人組』による党の権力を簒奪(さんだつ)しようという陰謀活動に対して決然と闘争を進め、『四人組』の問題を解決することを提案し、葉剣英、李先念等の党中央の指導者の賛同と支持を得て、断固たる措置を採り、一挙に『四人組』を粉砕し、党を救い、社会主義事業を救い、党と国家の発展に対して新たな1ページを開いた。」

 「四人組」が逮捕された10月6日から翌日の10月7日未明に掛けて行われた党政治局会議で、華国鋒を党中央委員会主席及び中央軍事委員会主席とすることが決定された。10月8日に北京の部隊内部に「四人組」の逮捕と華国鋒の党中央委員会主席及び中央軍事委員会主席への就任決定の知らせが内々に伝えられた。華国鋒を党中央委員会主席及び中央軍事委員会主席とするとの決定が「人民日報」等により公表されたのは10月10日だった。このことは人々に、薄々、江青らのグループが勢力争いに敗れたことを感じさせるのに十分だったが、正式に「四人組」の逮捕が公表されたのは、10月18日だった。

 「北京三十五年」(参考資料12)の著者の山本市朗氏は、「四人組」の逮捕については、当初、一般市民も薄々ウワサとして聞いていたが、自分が勤めていた工場の中では、逮捕されたのが誰であるのか等の確かな情報については、外国の在北京特派員が伝えた外国のニュースを聞いていた自分が最も早く知っており、工場の人々に自分が伝えてやった、と述べている。

 「四人組」逮捕のいきさつは以上の通りであるが、この経緯は、後に「四人組裁判」等を通じて中国政府当局から発表されたものであり、逮捕された「四人組」側の主張は一切含まれていない。従って、「四人組裁判」で公表された資料等に基づいて組み立てられたこのストーリー、即ち、「四人組」が党主席の座を華国鋒から奪おうとする陰謀を企てたため、事前にそれを封じ込めるために華国鋒らが「四人組」逮捕を断行した、というのが歴史的事実として正しいのかどうかは、今後なお検証を要する事項である。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)では、「四人組」逮捕実行のきっかけとなったとされる1976年10月4日の「光明日報」の記事を書いた梁效論文執筆グループの一人の范達人氏が、2005年7月に香港の鳳凰テレビのインタビューで、1976年10月4日に「光明日報」に掲載された論文は9月30日の時点では既に書き上げられていてゲラ校正も終わっていた、と証言していることを紹介している。「トウ小平秘録」では、「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という表現は、9月16日に「人民日報」に掲載されて以降、極めて頻繁に新聞等で使われており、華国鋒が9月30日になって喬冠華外相の国連演説原稿のチェックの際に初めて間違いを指摘した、というのは不自然であるとして、「『四人組』が毛沢東の遺稿を改ざんした」という話は、「四人組逮捕」という実力行使を正当化するための後付けの口実だった、と考える研究者もいることを指摘している。

 華国鋒主席は、文化大革命を継続する、と宣言し、自らが毛沢東の正しい継承者であることを主張することになるが、翌年(1977年)トウ小平が再復活し、1978年12月の第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で改革開放路線が決定されると、この1976年10月6日の「四人組の逮捕」をもって文化大革命は終了した、と認識されるようになる。ただし、そういった認識が最終的に確定するのは、1981年6月に決定された「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」においてであり、文化大革命の終了と文化大革命が「誤り」だったと最終的に認識されるまでには、この後、まださらに5年近い年月を要することになるのである。

以上

次回「3-5-1:華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-d02f.html
へ続く。

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2010年3月23日 (火)

3-4-6:【コラム:「第一次天安門事件」の記憶】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第6節:周恩来の死と「第一次天安門事件」

【コラム:「第一次天安門事件」の記憶】

 現在の中国では「天安門事件」と言えばこの1976年4月5日の事件を指す。1989年6月4日の事件は現在の中国では「政治風波」と呼ばれることはあっても「天安門事件」と呼ばれることはない。つまり現在の中国では「天安門事件」は1回しか起きていないと認識されているので「第一次」「第二次」と接頭語を付ける必要はないのである。

 この1976年4月5日の「第一次天安門事件」の記憶が、中国の人々とその他の多くの人々(私も含む)に「誤解」を与え、1989年6月4日の悲劇を生むことになるのである。中国は、文化大革命など他の国にはない特異な運動が起きたりする国ではあるが、政治的な大衆運動が起き、運動を起こしている群衆が武器を持っていない場合、当局側がそれを鎮圧する時に動員するのは警察や民兵であり、鎮圧する側が「武装」するとしても、棍棒や皮ベルト、せいぜい鉄パイプであって、ある程度の流血の騒ぎになったとしても、鎮圧される側の群衆に大量の死者が出ることはあり得ない、という「誤解」である。人民解放軍の戦車や装甲車、小銃は、外国の軍隊が中国に攻めてきた時に中国を防衛するためにあるのであって、人民解放軍が国内における治安活動に出動して大衆運動をしている人民に向かって発砲するようなことはあり得ない、という「誤解」である。

 1989年4月以降、多くの人が天安門広場に集まった時、私は集まった大衆が自主的に解散しない限り、いつかは当局は実力で人々を排除するだろうと思っていた。しかし、その排除の仕方は、1976年4月の「第一次天安門事件」と同じようなやり方になるだろうと思っていた。むしろ、時代が進んでいたから、放水銃とか催涙弾とか、もうちょっと非武装の群衆に対処するのに「ふさわしい近代的な」道具を使うと思っていた。1989年の春以降天安門広場に集まっていた多くの人々もそう思っていたに違いない。

 この「誤解」が、「第二次天安門事件」において、1989年6月4日未明まで多くの人々が天安門広場から去らず、実際に多くの死者を出す悲劇を生んだ背景のひとつだったと私は考えている。

 しかし、その認識は完全な「誤解」だった。1989年6月4日、天安門広場に現れたのは人民解放軍本体の戦車、装甲車であり、人民に対して小銃の実弾が発射された。これは私にとって全くの衝撃だった。おそらくは中国の人々にとっても衝撃であったに違いない。人民を守るために外敵と戦うと思っていた人民解放軍が中国人民に銃口を向けたからである。現在の中国当局があれほど「悪辣だ」と批判している「四人組」が行った「第一次天安門事件」の際の鎮圧においてすら警察と民兵が棍棒と皮ベルトと鉄パイプで群衆に対処したのに対し、その「四人組」を追放して始まった改革開放を掲げる当局が1989年に戦車・装甲車の出動と小銃による実弾射撃という行為に出るとは私は全く考えていなかった。多くの中国の人々も考えていなかったと思う。

 今回、「第一次天安門事件」についてやや詳細に描写したのは、読者に後に述べることになる「第二次天安門事件」と対比して、これら二つの事件について考えて欲しかったからである。

以上

次回「3-4-7:毛沢東の死、そして『四人組』の逮捕」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-489c.html
へ続く。

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2010年3月22日 (月)

3-4-6(2/2):周恩来の死と「第一次天安門事件」(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第6節:周恩来の死と「第一次天安門事件」(2/2)

 1976年1月8日に周恩来総理が死去した後、北京でも3月中旬頃から、周恩来総理を追慕して天安門前広場の真ん中にある人民英雄記念碑に花輪を捧げる市民が現れ出した。花輪はすぐに公安当局により撤去されたが、4月4日の清明節へ向けて、花輪を捧げる人々の数が段々増えていった。そうした中、3月31日、南京から「周総理に反対する者は誰でも叩きつぶせ」といったスローガンが書かれた列車が北京に到着した。北京市民は南京市民も同じ気持ちを持っていることを知って、運動は一気に盛り上がった。「三人ならばただのひとにぎり 八億こそが衆となる」といったあからさまに江青らのグループを批判する詩も張り出されるようになった。

(注1)この当時、人々の怒りの対象となっていたのは江青、張春橋、姚文元の3人であり、一世代下の若い王洪文は必ずしも人々の眼中には入っていなかった。「四人組」という言い方は、毛沢東がこの四人に対し「四人で小派閥を作ってはいけない」と批判したところから始まっているが、いわゆる「四人組」としてパッケージでこの4人を(逆に言うとこの4人だけを)ひとくくりで言い表すようになるのは、この年(1976年)10月に彼ら4人が逮捕された後のことである。1980年に行われたいわゆる「四人組裁判」で、江青が「あの当時の運動はみんなでやっていた。なぜ我々4人だけが特別に裁かれなければならないのか」と主張したが、後世の歴史家は、この江青の主張も考慮に入れて、本当にこの時期「四人組」の4人だけが徒党を組んで活動していたのかどうか、冷静に歴史に対する審判を下さなければならないと私は考える。

 公安部と北京市公安局は「清明節に死者を追悼するのは古い習慣であり『四旧』として打破しなければならない」「清明節は迷信である」として花輪を捧げることを禁止したが、それはむしろ人々を憤慨させた。ある北京市民は、花輪が撤去されないように針金で人民英雄記念碑の土台部分に縛り付けた。ある機械工場の労働者たちは、公安当局に撤去されないように4メートルもある巨大な花輪を鋼材で作り上げ、トラックで運んできて天安門広場に置いた。周恩来を追悼する詩も掲げられた。中には「黄浦江(上海の真ん中を流れる川)には橋があるが、江橋が揺れて崩れ落ちるのを目にして(周総理に)指示を求める」といった詩もあった。江青、張春橋、姚文元(「姚」は「揺」と発音が同じ)の失脚を暗示するものだった。人々は、天安門広場に集まり、競ってこういった詩文を書き写したり、演説をしたりした。

 4月4日(日曜日)清明節当日の夜、党中央政治局の会議が開かれ、大多数は周恩来総理を追悼しているが、一部の者は党中央を攻撃している、としてスローガンの撤去と「反革命者」の逮捕を決定した。この決定を毛沢東も許可した。4月4日夜11時頃、民兵と警察が天安門前広場に入り、スローガンや花輪を撤去するとともに、「悪質な」疑いのある者を拘束した。日付が替わって4月5日(月)未明には、クレーン車も投入され、大型の花輪も撤去された。

 4月5日、夜が明けて花輪やスローガンが撤去されたことを知った北京市民は天安門広場に集まりだした。人民大会堂の前では公安当局の車が「清明節は既に終わった」として群衆に帰るように説得したが、怒った一部の群衆が車をひっくり返した。昼過ぎ、撤去された花輪の返還と拘束された人々の解放を求めるため、群衆が天安門広場の南東角にある公安当局が入っているビルに押し掛けた。群衆は代表を選んで公安当局と交渉しようとしたが、当局側は責任者がいないとして交渉に応じなかった。怒った群衆は、たまたまこのビル内に入ろうとしていた車をひっくり返し火を付けた。夕方5時過ぎ、ビル前にいた護衛隊がいなくなると、群衆はビルの中に押し入り、中にあったイスや机や書類を外へ放り出した。当局は拡声器で人々に家に帰るように説得したが、ちょうど月曜日の退勤時刻だったため、人々の数は減るどころかだんだんと多くなっていった。

 この日(4月5日)午後、党中央政治局は再び会議を開き、毛沢東の意向も踏まえ、天安門広場に集まった人々を鎮圧することを決定した。この政治局の会議にはトウ小平も参加していたが、何も発言しなかったという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 夜9時半過ぎ、北京市公安局は鎮圧活動を開始した。それまで暗かった天安門広場に一斉に照明が点灯し、鎮圧部隊が広場にいた人々の排除を始めたのである。鎮圧に当たったのは民兵と警察で、棍棒、鉄パイプ、皮ベルトで「武装」していた。「文化大革命十年史」(参考資料14)によれば、この鎮圧活動は約15分間で終了し、広場のあちこちに殴打された人々が流した血が見られた、とのことである。新華社ホームページの資料「天安門事件(四五運動)」の項目では、この時出動したのは民兵1万人、警察3,000人であり、木の棍棒で武装していた、と記している。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「天安門事件(四五運動)」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2006-09/25/content_5134379.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この時、何人くらいのけが人が出たのかは定かではないが、上記の新華社ホームページの資料「天安門事件(四五運動)」の説明でも死者が出たとは書かれていない。この1976年4月5日の運動は「四人組」に反抗する人民の「英雄的革命運動」であったと現在ではプラスに評価されており、もしこの場で死者が出ていたのだとしたら「四人組の罪状」として挙げられていてもおかしくないところである。それなのに死者が出たことが書かれていないところを見ると、相当の殴打行為があり、けが人が多数出たことは間違いないが、この時、死者は出なかったと考えてよいと思われる。

 江青らのグループは、一連の事件について、「人民日報」の記者らが集めた「情報」を基に、この「反革命行動の黒幕はトウ小平である」と決めつけた。現実的には、トウ小平は、周恩来追悼大会に出席して以降、公の場に登場しておらず、大衆に訴えかける手段を持っていなかった。1976年4月の「天安門事件」はトウ小平が大衆を扇動したものだ、という見方は江青らのグループが「でっちあげ」たものと考えてよいだろう。もっとも、「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ(右だろうと左だろうと人民生活を向上させる政治がよい政治だ)」を持論とし、周恩来が提唱した「四つの近代化」路線に沿って、江青らに対抗しながら「全面整頓政策」を進めたトウ小平の存在が江青らに反発する多くの大衆の精神的支えであったことは間違いないと思われる。

 「反革命行動の黒幕はトウ小平」という決めつけに基づいて、毛沢東の指示の下、4月7日の党政治局会議で、トウ小平は全ての公職を解任された。新中国成立前の党内での失脚も合わせると生涯で3回目の失脚だった。ただし、この時も毛沢東の意向により党籍剥奪だけは免れた。4月7日の党政治局会議では、華国鋒を国務院総理代行から国務院総理とし、併せて党第一副主席に就任させることも決定した。これも毛沢東の意向によるものと言われている。江青、張春橋らは政治の主導権を握るためにいろいろ策動していたにも係わらず、結局は毛沢東の意向により自分たちが政権の中枢を握るには至らなかったのである。

 多くの本(「文化大革命十年史」「トウ小平秘録」など)では、毛沢東が健康をかなり害した1973年頃から、毛沢東の弟・毛沢民の子の毛遠新が毛沢東の「連絡員」となり、毛沢東に江青らのグループに有利な情報ばかりを伝えていたことを記している。毛遠新は、父親の毛沢民が早くに死んだことから、小さい頃から毛沢東の下へ引き取られ、毛沢東も実の子のように養育していたという。毛遠新は、文化大革命の中で地位を上げ、江青らと近い関係にあった。上記(参考URL)に掲げた「新華社」ホームページでも、毛遠新が中央政治局会議の様子を毛沢東に報告し、毛沢東がそれを許可した、と述べて、毛遠新が「四人組」に有利な情報のみを毛沢東に報告し、毛沢東が誤った情報に基づいて判断した(従ってこの1976年4月の「天安門事件」については毛沢東には責任はない)とも読める説明ぶりになっている。

 しかし、毛遠新が毛沢東の「連絡員」として大きな影響力を持っていたことは間違いないとしても、毛沢東は周恩来の生前は周恩来と直接相談したり、周恩来の死後も華国鋒に直接後事を託したりしているので、毛遠新のみがこの時期の毛沢東の情報源だった、と考えるのは正しくないと思われる。毛遠新の影響の大きさを言うのは、「第一次天安門事件」とその後のトウ小平の失脚における毛沢東の責任を小さく見せたいという意図があるためと思われる。そもそも毛沢東は、江青らの意向に反して、張春橋らを政権の中枢に用いようとはせず、華国鋒を周恩来の後任に据え、トウ小平の失脚においても党籍剥奪まではさせていないことを見ても、言葉を発することが難しいような健康状態になっていたとは言え、毛沢東は最後まで鋭い判断力は維持しており、毛遠新を通じて江青らのグループの意のままに動かされていたわけではないと考えるべきである。

 「第一次天安門事件」の処理にあたり、華国鋒はこの事件を「反革命」であるとし、トウ小平の失脚にも賛成したのであるが、このことが華国鋒がこの年の10月に「四人組」逮捕を決行したにも係わらず、1977年にトウ小平が復活して以降、難しい立場に立たされる原因となるのである。

(注2)華国鋒は、2008年8月20日、北京オリンピックの開催期間中に87歳で死去したが、それを伝える2008年8月21日付けの「人民日報」の記事では「党と国家の重要な指導的職務に就いていた」とだけ伝えられ、周恩来に次ぐ国務院総理、毛沢東に次ぐ中国共産党主席に就任したことを伝えていなかった(後日、葬儀があった際には詳しく経歴が紹介されたが)。こういった扱いにも華国鋒に対する現在の中国の政権の「微妙な評価」が反映されているものと思われる。

以上

次回「3-4-6:【コラム:『第一次天安門事件』の記憶】」
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へ続く。

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2010年3月21日 (日)

3-4-6(1/2):周恩来の死と「第一次天安門事件」(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第6節:周恩来の死と「第一次天安門事件」(1/2)

 1976年1月8日、長らくガンを患っていた周恩来が死去した。77歳だった。周恩来の最後の言葉は、必死に治療を続けようとする医師たちに対して「私はどうでもいいから、ほかの病気の同志たちの世話に行きなさい。彼らは君たちをもっと必要にしている・・・」と述べた言葉だったという(参考資料17:トウ小平秘録)。周恩来には、こういった他人を気遣う数多くのエピソードが残されている。こうしたことから、「偉大な」という形容詞がたくさんつくものの多くの人からは畏怖の念で見られていた毛沢東に対し、周恩来は「優しい思いやりのある指導者」として全ての中国の人々から深い敬愛を受けているのである。

 しかし、江青ら文革グループは、周恩来に対する追慕は即ち自分たちに対する反発だと考えて、周恩来に対する追悼の行動を制限した。通常、中国では党の幹部が死去すると、その遺体を安置した場所を多くの人が訪れ弔意を表するのが通常だが、周恩来のために用意された遺体安置所は北京医院の裏手の100平方メートルにも満たない場所だったという。また、江青らのグループは、自分たちの影響力の及ぶ範囲で、職場単位で周恩来の追悼大会を開催したり、喪章を着用したりすることなどを禁止した。しかし、1月11日、周恩来の遺体が北京医院から火葬に付される八宝山墓地まで移動する際には、1月の厳しい寒風の中、100万人以上の人々が沿道を埋め尽くした。

 かくも多くの人々が周恩来に対する追慕の情を表していることに対して、江青らのグループは危機感を抱いた。周恩来の追悼大会は1月15日に開かれることになったが、その前日の1月14日の「人民日報」の1面トップには、「右からの巻き返しに対する反撃」の一貫として清華大学で行われた大弁論について「大弁論は大きな変化をもたらした」とする論文が掲載された。周恩来の死を悲しむ多くの人々の気持ちをこの論文は逆なでした。多くの人々が「人民日報」を破り捨て、「人民日報」には300件に及ぶ抗議の電話が殺到したという(参考資料14:文化大革命十年史)。

 周恩来の追悼大会については、誰が取り仕切るかが問題となった。通常ならば中国共産党副主席で国務院筆頭副総理でもあるトウ小平が取り仕切るのが当然のところだったが、江青らは、敵対するトウ小平が追悼大会を取り仕切り、周恩来の後継者として国の政治の中心でいることを示すことには我慢がならなかったので、軍の長老である葉剣英に依頼した。しかし、江青らの考えをよく知っていた葉剣英はこれを強く固辞し、結局、トウ小平が周恩来追悼大会を主宰し、弔辞を読むこととなった。

 毛沢東は周恩来の追悼大会に出席しなかった。「文化大革命十年史」(参考資料14)では、病気のため出席することが困難だった、としているが、「トウ小平秘録」(参考資料17)では、車イスに乗り短時間であれば出席はできたが、毛沢東の意志で出席しなかったのだ、としている。毛沢東はあくまで文化大革命路線を進めることを願っており、周恩来の提唱した「四つの近代化」による経済建設路線に反対だったことを示すために追悼大会に出なかったのだ、と考える人もいる。しかし、一方で「トウ小平秘録」では、周恩来が亡くなった日の晩、毛沢東は一睡もしなかった、と記している。筆者としては、毛沢東が周恩来の追悼大会に出席しなかったのは、政治的な理由というよりは、最大の盟友を失った悲しみの大きさが毛沢東を、自らを大衆の前にさらしたくない、という気持ちにさせたのだと思っている。

 周恩来の死は、前年(1975年)11月から「右からの巻き返しに対する反撃」を始めていた江青らにとって、運動に対する抵抗の大きな中心がいなくなったことを意味していた。毛沢東は、その健康状態から自らの死を既に予期していたが、自分が死んだ後、中国が文化大革命の路線から外れるようなことがないようにと願っていた。周恩来が死んだ今、トウ小平は毛沢東のこの強い意向の前に、自分が政権の中心にいることは難しい、と判断していたようである。前年の11月の時点で、毛沢東の固い意志を知ったトウ小平は、既に辞意を表していたという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 追悼大会が終わると、トウ小平に対する江青らのグループからの攻撃は一段と激しくなった。1月20日、トウ小平は毛沢東に対して書面で職務解除を申し出た。江青らのグループは、トウ小平の後釜に就くのは張春橋であると考えていたが、毛沢東が国務院総理代行として指名したのは党中央政治局のナンバー9で政治局常務委員ですらなかった公安部長の華国鋒だった。また、毛沢東は党中央軍事委員会主席には陳錫聯を指名した(葉剣英はこの時病気療養中だった)。この人事は1月21日と28日に開かれた党中央政治局会議で決定された。

 この頃(1976年2月)、アメリカのニクソン前大統領が訪中して毛沢東と会見しているが、ニクソン氏によれば、この頃の毛沢東の健康状態は絶望的で、言葉も「アー」「ウー」とかしか発することができなかったが、心の柔軟さと鋭さは保っており、通訳が自分の意志を正確に伝えていないと知るとノートを引ったくって文字を書いて自分の意志を伝えたという(参考資料14:文化大革命十年史)。毛沢東は、トウ小平の進める路線には賛成していなかったが、江青らのグループに中国を任せることの危険性はよく理解していたのである。毛沢東は、公安当局を握っている華国鋒(彼は湖南省出身で毛沢東とは同郷だった)を総理代行とし、軍の有力者の陳錫聯を中央軍事委員会の主席に据えることにより、安定団結を維持しようと考えたのだと思われる。

 江青、張春橋らは、なお自分たちの主導権を確固たるものとするため、新聞、雑誌などを通してトウ小平批判を強化した。華国鋒も毛沢東が文化大革命路線を続けるために自分を総理代行に指名したことを理解しており、江青、張春橋らのトウ小平批判に同調した。

 江青、張春橋らのトウ小平批判は、トウ小平が行った「全面整頓政策」に対する批判であるが、「全面整頓政策」は周恩来が1975年1月の全人代の政治工作報告で行った「四つの近代化」路線を実行するためのものであり、トウ小平批判は、必然的に周恩来批判へと繋がっていく。トウ小平は、文革当初にも劉少奇と一緒に批判される対象であったので、江青、張春橋らの主張がトウ小平批判に留まっているうちは一般大衆はそれほどの反応は示さなかった。しかし、批判の対象が周恩来批判にまで広がると、一般大衆は大いに反発した。中国の人々の周恩来に対する敬愛はそれほど深かったのである。

 一方、江青らは、その行動において、一般市民からは毛嫌いされていた。「北京三十五年」(参考資料12)の著者の山本市朗市は、1973年10月末に5年半ぶりに監禁生活から解放されて社会に戻ってきた時、市民の憩いの場だった景山公園(故宮の北側にある人工的に作られた山を中心とする公園)と北海公園(景山公園の西にある人工湖(北海)を中心とする公園。夏はボート遊び、冬に湖面が凍結するとスケートが楽しめる)に市民が入れなくなっていることに驚いたことを記している。山本氏によれば、当時、北京市民は、党の首長、具体的には江青がこの2つの公園を自分のものにして、馬を乗り回したりして楽しんでいる、とウワサしていたと書いている。実際、江青ら「四人組」が逮捕された後、景山公園、北海公園はともに元どおり一般市民に開放され、現在に至っている。

 一般の人民の認識がこういうものだったため、トウ小平批判が周恩来批判にまで拡大すると、人民の周恩来に対する思慕、江青らの対する反発が一気に吹き出すことになる。トウ小平批判が周恩来批判であることが明確になるにつれ、各地の大学や職場で、トウ小平批判に反発する壁新聞等が登場し始める。

 北京では、冬の間は寒さが厳しいので大規模な大衆運動は起こりにくい。春になって寒さが和らぎ、人々が戸外に出やすくなると、様々な運動も起こりやすくなる。この年は4月4日が清明節だった(清明節は二十四節気のひとつ。中国では亡くなった人の供養をする日。日本でいう「お彼岸」や「お盆」に相当する)。江青らのグループは、周恩来に対する追悼の念が清明節をきっかけとして自分たちに対する反対運動に盛り上がることを警戒した。3月中旬には、歴代革命戦士が眠る北京の西郊外にある八宝山墓地を閉鎖した。

 3月5日、上海の新聞「文匯報」は「雷峰(1962年に事故死した模範兵士)に学ぶ」という記事を掲載したが、この記事の元の原稿には周恩来が述べた言葉があったにも係わらず、新聞に掲載された時には周恩来の言葉が削除されていた、と伝えられた。「文匯報」には多くの人々からの抗議が殺到した。新聞「文匯報」の後ろ盾には張春橋がいることは周知の事実だった。

 さらに具体的な動きが南京で始まった。3月24日、南京新医学院の人々は南京市内にある烈士陵園に「敬愛する周総理と革命烈士は永遠に不滅である」と書いたリボンを付けた花輪を捧げた。あるカメラマンがこのリボンを取り外してしまったため、南京新医学院の人々は怒って、翌日、南京市中心部に「命を掛けて周恩来を守る」というスローガンを掲げた。

 折しもこの日(3月25日)、「文匯報」は、「走資派(資本主義に走る派)はまだその歩みを続けており、われわれは闘わねばならない」と題した記事で「党内のあの走資派は、打倒されても今なお悔い改めようとしない走資家の登場を助けている」と書いた。「打倒されても今なお悔い改めようとしない走資家」とはトウ小平のことを指すのは誰もが知っていたので、ここでいう「党内のあの走資派」とは周恩来を指すことは明らかだった。周恩来が批判されたことを知った多くの人々は「文匯報」に抗議した。これは「文匯報」の後ろ盾となっている張春橋ら文革グループに対する抗議に等しかった。

 3月29日、南京大学では「文匯報」に抗議するスローガンが張り出され、数百人の学生によるデモが行われた。「周総理に反対する者は誰でも叩きつぶせ」「『文匯報』の黒幕を引きずり出せ」といったスローガンが叫ばれた。学生らは駅の労働者の協力を得て、そういったスローガンを列車に書いた。スローガンが書かれた列車は、全国に向けて発車し、南京の人々の気持ちは全国に伝えられた。

以上

次回「3-4-6(2/2):周恩来の死と『第一次天安門事件』(2/2)」
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へ続く。

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2010年3月20日 (土)

3-4-5:「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第5節:「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判

 1974年12月頃には、文化大革命による社会の混乱を収拾し、安定した政策運営を行うため、1964年以来11年振りに全国人民代表大会(日本の国会に相当)を開催して、閣僚臨時等を決めることとなっていた。毛沢東と周恩来は、この時点で既に健康状態が相当に悪かったが、1974年12月23日、周恩来は病状を押して毛沢東が療養する湖南省長沙へ飛び、人事について毛沢東と相談し、人事案件は周恩来が責任を持って取り仕切るよう指示を受けた、という(参考資料14:文化大革命十年史)。

 毛沢東のこういった意向を受けて、党中央は、1975年1月5日、トウ小平を党中央軍事委員会副主席兼中国人民解放軍総参謀長に任命した。これは、軍は江青グループらには任せられない、と考えていた毛沢東の意向が明確に現れたものだった。さらに1月8日~10日に開催された中国共産党第10期中央委員会第2回全体会議(第10期2中全会)で、トウ小平が党副主席、中央政治局常務委員に選出された。トウ小平は1973年3月10日に国務院副総理として復活したが、その時点では党の役割としてはヒラ党員だった。1974年8月に開かれた第10回党大会において、トウ小平は党の政治局員となったが、政治局常務委員には選ばれなかったことは前節で述べた。それが1975年1月には、党内での地位も国務院における副総理に相当する地位である政治局常務委員にまで復活したのだった。

 その直後の1975年1月13日~18日、11年ぶりに第4期全国人民代表大会(全人代)第1回全体会議が開催された。前回(第3回)の全国人民代表大会が開催されたのは、文化大革命が開始される前の1964年12月21日~1965年1月4日だった。

 この全人代の冒頭、周恩来総理は政治工作報告を行った。この時の周恩来は既にガンに健康を蝕まれており、見るからにげっそりとやせ細っていた。1964年の第3回の全国人民代表大会で政治工作報告を行ったのも周恩来だったが、この前回の第3回全人大の政治工作報告では、周恩来は国民経済と軍の近代化(中国語の原文では「現代化」)を主張していた。11年を経て、第4回全人代での政治工作報告で、周恩来はこれを再び強調する。1975年1月の第4回全人代の報告では、「近代化」を強調するだけでなく、より具体的に「第一歩として、1980年までの間に独立した比較的整った工業体系と国民経済体系を完成させ、第二歩として、今世紀内に、全面的に農業、工業、国防及び科学技術の近代化を成し遂げ、我が国国民経済を世界における第一線に押し出さなければならない」と強調した。

(注)中国語の原文では「現代化」であるが、日本語として「現代化」という言葉はしっくり来ないので、この文章では「現代化」とは言わず、「近代化」という言葉を使うことにする。

 文化大革命を飛び越えて、11年前の第3回全人代と第4回全人代を結びつけ、しかも経済と国防の近代化を強調するこの周恩来の政治工作報告は、政策路線としては文化大革命を否定するとも言えるもので、明らかに毛沢東の文化大革命路線に対する「異議申し立て」であった。終生、政治路線については毛沢東に指示に従ってきた周恩来にとって、この政治工作報告は、おそらくは自らの死を予期して行った最初にして最後の毛沢東に対する「異議申し立て」であり、「遺言」だったのだと思われる。「農業、工業、国防及び科学技術の近代化」、いわゆる「四つの近代化」は、1978年の改革開放開始後トウ小平が高く掲げたスローガンであったが、根本はこの周恩来の「遺言」にあった。トウ小平は、周恩来の「遺言」を堅実に実行に移し、「20世紀のうちに中国の国民経済を世界における第一線に押し出す」というこの時の周恩来の夢を現実のものとして実現したのであった。

 中国が、当初、2000年に北京でオリンピックを開催するとの名乗りを上げたのは、トウ小平存命中の1993年であったが、トウ小平及び当時の中国指導部の頭の中には、「20世紀のうちに中国の国民経済を世界における第一線に押し出す」というこの時の周恩来の言葉があったものと思われる。オリンピックの開催は、中国が世界の第一線の国の仲間入りをする象徴的出来事だからである。2000年のオリンピック開催地選定では北京はシドニーに敗れたが、北京は次々回のオリンピック開催地として選ばれ、2008年に北京オリンピックが開催されたのは読者御存じのとおりである。

 「四つの近代化」の夢を実現させるためには、社会の安定が不可欠であり、文化大革命のような政治的混乱は絶対に避けねばならない、というのがこの時のトウ小平の決意であったと思われる。そのことがトウ小平に、後に述べるように1979年の「北京の春」と呼ばれた民主化運動、1986年末の学生運動、そして1989年における「第二次天安門事件」のような民主化を求める政治運動を圧殺する道を選ばせた理由である。トウ小平が採ることになる民主化運動圧殺の政策については、後の歴史家は批判することになると思うが、その一方で「四つの近代化により、20世紀のうちに中国の国民経済を世界における第一線に押し出す」という周恩来の「遺言」を現実のものとして実現させたトウ小平の政策実現力については、どの歴史家も一定の評価を与えないわけにはいかないであろう。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」
「第四期全国人民代表大会歴代会議」
「政治工作報告」(1975年1月13日第4回全国人民代表大会第一回会議における周恩来による報告)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2004-10/15/content_2093466.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この第4期全国人民代表大会第1回全体会議では、人事案件として、国務院総理には引き続き周恩来を、全国人民代表大会常務委員会委員長には革命軍人の最古参である朱徳を選出したほか、筆頭副総理にトウ小平を選出した。これでトウ小平は、党・軍・国務院の全てにおいて、実質的に毛沢東・周恩来に次ぐ地位に就いたことになる。主要閣僚はほとんど江青らのグループとは関係のない人々が占め、王洪文は全人代常務委員会副委員長にすらなれなかった。人事面では江青ら文革グループの完全な敗退だった。

 この第4期全国人民代表大会第1回全体会議では、憲法改正についても議論された。この時点まで有効だった憲法は1954年に制定されたものだったが、この1975年1月の全人代で決定された憲法改正により、中国共産党による指導や人民公社が憲法に書き込まれた。この後も中国では同様の経緯をたどるが、中国では現実的な社会の変化が先に起き、それを後から追認するような形で法律が制定されることが多い。この第4期全人代第1回全体会議でも、周恩来が「脱文化大革命」とも言える政治工作報告をする一方で、文化大革命の基礎となっている中国共産党による国家指導や人民公社制度が憲法に盛り込まれるという作業が行われた。この憲法改正案を提案する報告は「四人組」の一人であある張春橋が行っている。このような「法体系が現実の社会の進歩からいつもワンテンポ遅れている」という中国の状態は、今でも中国の現実の社会を悩まし続けている。

(参考URL2)中国政府全国文化情報資源共有プロジェクト
「法律法規」-「中華人民共和国憲法(1975年)」
http://edit.ndcnc.gov.cn/datalib/2003/PolicyLaw/DL/DL-10944

 この第4期全人代第1回会議の後、周恩来の病状は悪化し、具体的な政策実行業務は筆頭副総理となったトウ小平が指導して行われることになる。トウ小平は、周恩来が政治工作報告の中で述べた「四つの近代化」の路線に従って、農業、工業、国防及び科学技術の分野で「全面整頓」を開始した。「整頓」とは、各部門におけるセクト的派閥闘争をやめさせ、本来業務に集中させることだった。まず、トウ小平に近い立場にある万里鉄道部長に鉄道部門の整頓を行わせ、滞っていた鉄道運輸業を回復させた。続いて、鉄鋼業など主要産業においても整頓を実施した。軍においても「膨張」「放漫」「尊大」「贅沢」「怠惰」を戒める整頓を実施した。

 トウ小平は、科学技術の発展の遅れが国民経済の発展の足を引っ張っているとの認識を持っていた。このため、当時、共産主義青年団の第一書記だった胡耀邦に指示して中国科学院の現状の問題点を調査させた。胡耀邦は「科学技術工作に関するいくつかの問題」という報告書をまとめ、思想闘争に明け暮れて満足な科学研究ができていなかった中国科学院の当時の実情をトウ小平に報告した。トウ小平は「科学研究も生産力とみなさなければならない」として、科学研究者が研究に専念できるように、住居、交通、育児、食事、結婚などの問題点を解決するよう指示した。科学技術を重要視するトウ小平の考え方は、後に改革開放政策を正式に打ち出すより前の1978年3月18日に行われた全国科学大会において「科学技術こそ生産力」「近代化のカギは科学技術の近代化にある」と述べることに繋がっていく。

 現在の胡錦濤総書記は、2008年6月の中国科学院・中国工程院両院院士大会で、この1978年3月18日の全国科学大会におけるトウ小平の話を回顧する講話を行っている。このトウ小平の全国科学大会での話が改革開放政策のひとつの原点だからである。

(参考URL3)科学技術振興機構サイエンス・ポータル・チャイナ
「JST北京事務所快報08-006」(2008年6月26日)
「胡錦濤主席の中国科学院・中国工程院院士大会での講話」
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080626.html

※「JST北京事務所快報」を書いたのは私(この「中国現代史概説」の筆者)である。なお、胡錦濤主席が2008年6月の中国科学院・中国工程院院士大会での講話でトウ小平の科学技術重視の方針を回顧したのは、ひとつには2008年が改革開放30周年の記念の年であることもあるが、トウ小平の科学技術重視のスタートにおいて胡耀邦の中国科学院に関する報告書が役割を果たしたことを思い起こさせるという2008年時点における政治的意図があったからと思われる。胡錦濤主席は「科学的発展観」を自らの政権の中心スローガンに据えており、胡錦濤主席には、1980年代(胡耀邦総書記が指導した時代)の改革開放の原点(即ち「第二次天安門事件」以前)を見直そうとする意図があると思われるからである。この点は、この「第4章第2部第4節:胡錦濤主席は新しい道を切り開けるか」で再び触れることにする。

 こういったトウ小平が次から次へと打ち出す「全面整頓」の動きに対して、江青らは、物質的刺激、利潤優先、奨励金制度などが過去に効果を上げてきたというトウ小平らの主張は「経験主義」であり、「経験主義」は修正主義の共犯者で当面の大敵だ、と主張した。毛沢東は、文化大革命開始後8年以上を経過した今、社会の安定こそが重要であると考えており、江青らの「経験主義批判」を「経験主義に反対しているだけで、教条主義には反対していない」として批判した。こうした毛沢東の意向もあり、トウ小平による「全面整頓」は大いに進展した。実際、1975年の経済指標は好転した。

 江青らは、「人民日報」「紅旗」等の新聞や出版界を把握していたことから、文芸界からの反撃を試みる。江青らは、毛沢東がかつて行っていた中国の古典文学「水滸伝」に対する批判を持ち出したのである。「水滸伝」では不法者の集団ををまとめた首領の宋江が最後は朝廷に帰順し忠義を尽くす、という物語だが、毛沢東は宋江を権力に対する「投降主義」だとして批判していた。江青らのグループは毛沢東による「水滸伝」批判を利用して、暗に周恩来やトウ小平が進めている実務主義的な政策を批判した。

 毛沢東が「水滸伝」批判を通して本当に周恩来やトウ小平を批判しようと考えていたのかどうかは不明である。毛沢東の真意はともかく、江青らのグループが毛沢東の「水滸伝批判」を自分たちの都合のいいように利用した。ただ、毛沢東は、江青らの「教条主義」には反対していたものの、やはり理想としていたのは文化大革命の路線だったのも事実だった。従って、毛沢東は、中国の将来を託せる人物としては、江青らのグループの人間ではなく、トウ小平しかいない、と考えていたことは間違いないが、トウ小平が進める経済成長第一主義に対しては不満だった。毛沢東がトウ小平が進める「全面整頓」政策に不満を漏らしていたのは事実のようである。江青らは、この毛沢東によるトウ小平批判の言葉を最大限に利用して、「水滸伝」批判に引き続き1975年11月から「右からの巻き返しに対する反撃」運動を開始した。

 こうした中、ついに1976年1月8日、中華人民共和国建国以来一貫して国務院総理を務めた周恩来がガンのため死去した。「右からの巻き返しに対する反撃」運動が盛り上がり掛けたタイミングで、宿敵でありトウ小平の最大の後ろ盾であった周恩来が死去したことは、江青らのグループにとっては極めて好都合だった。江青らのグループは、周恩来の追悼行事をできるだけ質素なものにするとともに、周恩来追悼は自分たちのグループに対する反対の動きだと考えて、周恩来に対する追悼行動を禁止した。このことが、純粋な気持ちで周恩来総理を深く敬愛する中国人民の激しい怒りを呼び起こすことになるのである。

以上

次回「3-4-6(1/2):周恩来の死と『第一次天安門事件』(1/2)」
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へ続く。

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2010年3月19日 (金)

3-4-4(2/2):文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第4節:文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)

 ところで、1971年9月の林彪墜落死事件は、江青ら文革グループにとっても大きなショックだったと思われる。江青ら文革グループは林彪事件には係わってはいなかったが、1966年の文化大革命開始以来、江青らは林彪と一緒に文革を進めてきたことから、林彪事件の後しばらくは、江青ら文革グループは表立った動きをすることはできなかった。そうした中、林彪事件への対処、米中接近、日中国交正常化など困難で複雑な実務上の問題を周恩来が堅実に処理したことにより、江青ら文革グループの影は極めて薄いものになってしまった。

 もともと江青らの文革グループには実務的な政策執行能力などないので、周恩来が必然的に日常的な政策運営を取り仕切るようになった。この頃には毛沢東の健康状態もかなり悪くなっていたので、毛沢東が細かい政策決定に意見を言う機会は徐々に少なくなっていた。そうなると、政策決定の方針も自然に周恩来の考え方に沿った方向で行われるようになった。そもそも実務官僚型政治家である周恩来は「人民生活の向上を図ることが政治の目的だ」と考えていた。前節で述べたように、一部の工業分野において西側のプラントを導入しようとしたのもその考えを実現するための一つの方法である。また、上に書いたように、核兵器だけでなく原子力発電の導入も進めるべき、とする考えも周恩来の理念に基づくものである。林彪事件以降、毛沢東の健康悪化もあり、それまでは「黒子役」に徹するため内に秘めていた周恩来自身の政治理念が、自然に表面に出てくるようになってきたのである。

 周恩来の実務的な政策運営は、必然的に中国政府部内の実務官僚の地位を高めた。これは江青ら文革グループの相対的地位を低めるものであることから、江青らは周恩来と実務官僚を批判するため「批林批孔運動」を始めたと考えることができる。毛沢東も文化大革命の理想をあくまで追求したいと考えており、周恩来の経済建設優先の政策運営には不満であった。毛沢東は、周恩来とトウ小平の政策執行能力は高く評価していたが、あくまで中国が進むべき方向は毛沢東が理想とする文化大革命が目指す方向でなければならないと考えていた。そこで毛沢東も江青ら文革グループと一緒になって「批林批孔運動」を進めて周恩来に対する注意喚起を行ったのである。

 ただし、1973年の時点では「批林批孔」の「孔子批判」の部分が周恩来批判である、とは多くの人はわかっていなかったと思われる。前節の【コラム:「孔子批判」に対する日本のマスコミの反応】で書いたように、少なくとも日本のマスコミは「孔子批判」=「周恩来批判」だとは思っていなかった。私は、1973年に訪中した経験をお持ちの向坊隆元東大総長(元原子力委員長代理)に1987年に北京でお会いする機会があった。その際、私から「1973年の『批林批孔運動』の『批孔』とは実は周恩来に対する批判だったのだ」と伝えると、向坊氏は「1973年に訪中した時は誰もそんなことは言っていなかった。『批孔』が周恩来批判だというのは、考え過ぎなのではないか。」と言っておられた。しかし、この当時の「批孔」が実は周恩来批判だということは、現在の中国共産党の公式見解でもあるのである。

(参考URL)「新華社」ホームページ
「中国共産党ニュース」-「中国共産党簡史
「第七章:『文化大革命』十年の内乱(3)」
「三.『四人組』との闘争と1975年の全面整頓」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444930.html

※現在の中国共産党の公式見解では、毛沢東の立場を守るため「毛沢東が許可した『批林批判孔運動』を『四人組』が利用して周恩来を攻撃した。」という立場を取っている。

 この当時北京にいた日本人技師の山本市朗氏は、その著書「北京三十五年」(参考資料12)の中で、「『批林批孔』運動が始まると、中国の人々は、何でいまさら孔子批判をするのか、といぶかっていたが、孔子批判とは実は暗に周恩来を批判しているのだ、というウワサが流れてくると、敬愛する周恩来総理を批判するとは何事か、と怒りを感じるようになった。」旨を記している。山本氏は、1973年10月末まで約5年半に渡って「外国人スパイの疑いがある」として監禁生活を強いられていたので、上記の話は監禁生活を解かれた1973年11月以降の話である。つまり「批林批孔」運動は、最初のうちは、一般の中国の人々も周恩来批判だとはわからなかったということである。

 江青ら文革グループは、「批林批孔運動」を進めると同時に、周恩来と対決するため党内での足固めを行った。1973年8月24日~28日、第10回中国共産党全国代表大会が開かれた。この会議で、張春橋が政治局常務委員に、江青と姚文元が政治局員に選出された。第10回党大会の直後に開かれた第10期中央委員会第1回全体会議(第10期一中全会)で、王洪文は党副主席に選出された。副主席は、王洪文のほか、周恩来、文革グループの康生、軍関係者から葉剣英、李徳生が就任した。各派から何人かづつ選出された妥協の産物だった。第10回党大会でトウ小平は政治局中央委員になった。国務院副総理だと政治局常務委員になってもおかしくはないが、トウ小平は政治局常務委員には選ばれなかった。

 なお、この党大会の冒頭、周恩来が行った政治報告の中で1971年9月13日の林彪墜落死事件に関する詳細な経緯が公表されたことは「第3章第3部第10節:謎の林彪墜落死事件」で述べたとおりである。

 副主席に選出された王洪文はこの時38歳。1967年1月の上海での「奪還闘争」のリーダーで、1969年の第9回党大会で中央委員に当選した。王洪文は張春橋、江青(ともに50歳代)と比べて飛び抜けて若く、彼らを飛び越してこの年齢で党副主席への抜擢されたのは異例であった。「参考資料17:トウ小平秘録」では、これは毛沢東が文化大革命を今後とも進めるため、文革の中で台頭した若手指導者を後継者として抜擢したかったからだ、としている。毛沢東の真の意図は不明であるが、異例の抜擢をして王洪文が自らの後継者となりうるかどうか「試してみた」と見るのが妥当ではないかと思われる。

 この頃、周恩来や実務官僚らによる「正常な政府機能」が復活しつつある中で、教育現場も「正常化」への兆しが見え始めていた。当時、大学の入学は依然として労農兵の経験を経た者の中から選ばれる推薦入学であったが、1973年の入学候補者に対しては学力試験が課せられることになった。

 そんな中、張鉄平という入学候補者は、物理・化学の試験に臨んだ時、とても回答できないと考えて、答案用紙の裏に大学入学時における学力試験を批判する文章を書いて、白紙のまま提出して、教育担当の責任者に「学力試験は不当である」旨の手紙を書いた。実務官僚らによる政策運営を苦々しく思っていた文革グループは、この事実を知って喜んだ。この「白紙答案」を出した張鉄平の行為は「深く考えさせる行為」だとして、この件は「人民日報」に掲載され、張鉄平は英雄視されるようになった。張春橋は、大学入学時の学力試験は「プロレタリア階級に希望を寄せる青年を門外に閉め出し、修正主義に希望を与え、プロレタリア階級に希望を失わせるものだ。」と述べたという(参考資料14:文化大革命十年史)。

 こういった動きを通して、毛沢東は、周恩来が実務官僚らを使って進めている堅実な行政運営が文化大革命の理想から離れていくことを警戒しながらも、江青らが力を注いでいる非現実的な観念論争に対しても疑問を持つようになったのではないかと思われる。また、毛沢東は、林彪事件の教訓を踏まえ、軍だけは統率された秩序を維持したいと考えていたようである。毛沢東は、軍人としての経験も豊富なトウ小平氏に軍を掌握させようと考えた。1973年12月22日、党政治局会議においてトウ小平は党中央軍事委員会委員に抜擢された。

 毛沢東によるトウ小平の登用は、江青ら文革グループを大いに焦らせた。文革グループは、年が明け、1974年になると自分たちが掌握している新聞等のメディアを使って「批林批孔運動」による周恩来攻撃を強めていく。1974年1月4日付けの「人民日報」には孔子を批判する論文が載ったが、ここでは孔子を「儒者宰相」と表現した。このあたりから、多くの人は孔子批判とは周恩来批判であることを意識するようになったと思われる。

 1974年に入ると、毛沢東も周恩来も健康状態が悪化した。周恩来は手術と入退院を繰り返しながらも、国務院総理としての激務を続けた。1974年4月、国連特別総会が開かれることになったが、誰を派遣するか、が問題となった。本来は国務院総理の周恩来が渡米すべきところなのだが、毛沢東はトウ小平を代表団の団長とする判断を下した。江青はこの判断に強く反対したが、毛沢東は江青に「トウ小平同志の出国は私の意見であり、反対しない方がいい。注意し謹慎するように。」と手紙で注意したという。

 ニューヨークへ飛んだトウ小平は1974年4月10日、国連総会で演説した。この演説で、トウ小平は毛沢東が提唱する「三つの世界論」を展開し、「中国は第三世界の一員であり、永遠に覇権を唱えず、永遠に超大国にならない」と宣言した。このフレーズをトウ小平は、改革開放時代になってからも使い続ける。鮮烈なトウ小平の「外交デビュー」だった。

 毛沢東の「三つの世界論」とは、米ソ超大国を第一世界、東西ヨーロッパ・日本・カナダ・オーストラリアなど2大超大国に従属する国々を第二世界と呼び、それ以外の発展途上国を第三世界と呼ぶ考え方である。当時の米ソ冷戦構造を踏まえて、「第三世界」を米ソどちらの側にも属さない第三のグループのことを指す、と捉える人がいるがそれは誤りである。「三つの世界論」は、米ソ両国が冷戦構造の中で対立する姿勢を示しながら「超大国」としての共通の利益の下に手を結んで世界を支配している、という毛沢東独特の鋭い国際戦略観から出た考え方である。ちなみに、1974年当時、ベトナム戦争は既に終了し、米ソ両国は平和共存路線(デ・タント)の時代にあった。

 中国の国連代表団の団長としてトウ小平が世界に向かってアピールしたことは、江青らをさらに焦らせた。彼らはさらに「批林批孔運動」にかこつけた周恩来への批判を強めていく。6月18日、江青らの意向を受けた「人民日報」は、社説で「二千年にわたる儒法論争は、現在にも影響を及ぼし、現在まで継続している。」と述べ、人々は孔子批判の対象が周恩来であることを確信するようになる。

 こうした動きに対して、毛沢東もさすがに危機感を抱くようになった。7月17日に開かれた党中央政治局の会議において毛沢東は、江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人に対して「君たちは注意しなければならない。四人の小派閥を作ってはならない。」と注意した。「四人の小派閥」と言う言葉は、この時、毛沢東が言い始めたのである。この時点では、単に「四人だけで小さな派閥を作るような動きをしてはならない」という意味で注意しただけであり、毛沢東が「四人組」の動きを止めるように指示したわけではないが、1976年9月の毛沢東の死後、「四人組」の言葉は「文化大革命を推進した反革命分子の四人」という意味で使われるようになる。

(注)1980年から始まった「四人組裁判」で、江青は「当時はみんなで同じ運動をしてたじゃないか。私たち四人だけ裁かれるのはおかしい!」と叫ぶことになるが、たぶんこの江青の叫びは事実だと思われる。

 この頃、周恩来も毛沢東も健康状態がかなり悪化していた。毛沢東は湖南省の長沙で療養していた。江青らは相変わらず周恩来攻撃を続けていたが、党内の体制は、政府組織を立て直し、しっかりした行政体制を構築するべき、という方向に向かっていた。1974年10月11日、党中央は1964年以来開かれていなかった全人代(全国人民代表大会:日本の国会に相当)を近く開催する通知を出した。その通知には「プロレタリア文化大革命は開始から既に8年が過ぎた。現在は安定が必要だ。」という毛沢東の意見が添えられていた。この通知以降、全人代で決まる閣僚人事が焦点となった。

 毛沢東は、10月4日の時点でトウ小平を筆頭副総理にすることを提案していた。江青らはこれに反発し、何とか自分たちの息の掛かった者を登用するよう激しく立ち回ることになる。

 たまたま 1974年9月30日、中国が自力製造した遠洋貨物船「風慶丸」が初めてのヨーロッパ航海から上海に帰着していた。当時、国務院は遠洋貨物船の自力建造と外国からの購入とを並行して行う決定をしていた。江青らは、この「風慶丸」の帰着のニュースを使って、外国船の購入は「外国に媚を売るものだ」「買弁ブルジョア思想だ」として、決定を行った周恩来を攻撃した(風慶丸事件)。江青らは王洪文を長沙にいる毛沢東のところへ派遣して、(1970年の第9期二中全会の時の林彪のように)周恩来総理が病気だというのにトウ小平や葉剣英、李先念らと協議して人事のことを話している、と告げた。しかし、毛沢東は王洪文に対し「トウ小平同志と団結し、周恩来総理や葉剣英ともっと相談せよ。江青とつるんではいけない」と叱った。

 11月12日には、毛沢東は江青に手紙を送り「おまえが組閣してはならない」と告げた。毛沢東は「江青には野心がある。王洪文を全人代委員長にし、自分が党主席になるつもりだ。」として、周恩来に人事案件を決めるよう指示した。こうして周恩来とトウ小平を中心とした人事体制が1975年初に発足することになる。

以上

次回「3-4-5:『四つの近代化』の提唱と水滸伝批判」
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へ続く。

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2010年3月18日 (木)

3-4-4(1/2):文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第4節:文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)

 中華人民共和国の歴史の中で、偉大な政治家を3人挙げよ、と言われれば、まずほとんどの人が毛沢東、周恩来、トウ小平の3人を挙げるだろう。1973年~1975年の中国の政治世界はこの3人を中心に展開するが、この3人の関係については、人によってその見方がだいぶ異なる。

 毛沢東は1893年12月生まれ、周恩来は1898年3月生まれ、トウ小平は1904年8月生まれである。周恩来は日本留学の後、フランスへも留学するが、それと同じ時期にトウ小平もフランスへ留学していた。フランスで、周恩来とトウ小平は知り合い、周恩来がトウ小平を共産主義運動に誘った、と言われている。従って、トウ小平は周恩来を良き先輩として敬っており、この二人の関係がよかったことについては、誰も異論を挟まない。

 毛沢東が優れた(というよりも天才的な)政治的思想家、軍事戦略家であったことは誰も否定しない。ただ毛沢東が平和な時代における優れた政治家であったのかどうか、には多くの人が疑問を呈すると思われる。発想が天才的であっただけに、毛沢東が発動する政策は、戦争の時代には抜群の効果を発揮することがあるが、平和時においては現実離れしていて誰も付いていけないこともあった(1958年に発動した「大躍進政策」がその典型例である)。そういった毛沢東を支え、戦争のない時代における政策実務を一手に引き受けたのが周恩来であった。

 周恩来は、政治家というよりは極めて優秀な実務官僚だった、と言った方がよいかもしれない。周恩来は、政治の基本路線を自ら打ち出すことはせず、常に毛沢東が敷いた路線を実際の政策として実行するために働いた。周恩来は、中国革命の初期の第一次国共合作時代に孫文が開いた黄浦軍官学校の政治部副主任を務めた(校長は蒋介石)(第2章第2部第3節:第一次国共合作」参照)が、周恩来の名前はその後、抗日戦争期、国共内戦期を通じて、軍事作戦の指揮官としてはあまり登場しない。

 周恩来が歴史の表舞台に名を残しているのは、西安事件における蒋介石との交渉(1936年12月)、中華人民共和国成立直後の「中ソ友好同盟相互援助条約」の締結交渉(1950年2月)、1955年のバンドン会議における発展途上国の中での中国の国際的地位の向上、1972年のニクソン訪中へ至る対米交渉や日中国交正常化など、行政官・外交官として登場する場面である。周恩来は、戦争時の軍人としてではなく、平和時の現実的な政策運営に能力を発揮するタイプの人物なのである。地味なのであまり目立たないが、内政面でも周恩来は堅実な政策運営に努めた。文化大革命が始まった後、周恩来は毛沢東の路線を一貫して支持していたが、例えば、軍の内部に文化大革命の影響による混乱が及ばないよう、様々な指示を出すとともに、江青・林彪らが排撃しようとした古参軍人らを擁護した(「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)。

 また、毛沢東が核兵器の開発を急がせる中で、1970年11月、周恩来は「第二機械工業部(当時核兵器開発を担当していた部署)は爆弾を担当するだけでなく、原子力発電所もやらなければならない。」と述べている(参考資料13:当代中国的核工業)。政治的理想を目指すだけではなく、政治は現実の人民生活の向上のために努めなければならないと考えていた周恩来の考えを示すエピソードである。この考え方は「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕る猫はよい猫だ」と述べたトウ小平の考え方と同じ方向を示すものである。

 トウ小平は、1960年代初期に劉少奇とともに行った「経済調整政策」や1978年以降の改革開放政策において優れた能力を発揮するとともに、「経済特区」「一国二制度」などの独創的な政策を考え出し、「総設計師」と呼ばれるように平和時において自ら政策のビジョンを示し、しかもそれを着実に実行する能力を持った優れた政治家であったことは、誰も疑いを挟まない。しかし、それと同時に、トウ小平は優れた軍人でもあった。特に国共内戦期においては、軍を率いる将軍として数々の戦いに参加している(第3章第1部の「第2節:中華人民共和国の成立」「第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国」参照)。このことは、文化大革命後半期と改革開放期におけるトウ小平の政治力に大きな影響を与えた。過去の輝かしい軍歴と軍人としての統率力により、トウ小平は軍の内部でも一定の尊敬と支持を集めていたからである(軍からの支持に立脚しているかどうかが、トウ小平とトウ小平以降の現在至るまでの中国の国家指導者との決定的な違いである)。

 毛沢東は、トウ小平について、目指している政治理念のベクトルは全く異なるが、実務政治家として政策のビジョン策定能力と実行能力があり、しかも軍の内部を掌握できる者として、その能力を高く評価していたと考えられる。従って、文化大革命によって混乱した党と軍と政府をまとめる役割を期待して、1973年2月にトウ小平を北京に呼び戻したものと思われる。毛沢東は、トウ小平には、毛沢東の目指す政策目標の方向に考え方を変えてくれれば、自分の死後も中国を任せられる人物であると考えていたものと思われる(しかしながら、その後の歴史が示すように、トウ小平は毛沢東の理想の方向へ考え方を改めることは全くせず、当時批判された通り、最後まで「悔い改めない走資派(資本主義に走る者)」としての道を歩むことになる)。

 毛沢東と周恩来の二人の間の関係については、人によって見方がだいぶ異なる。

 周恩来については「自分の主張を一切出さず、ただ毛沢東に黙って従い、毛沢東が右へ行けと言えば右へ、左へ行けと言えば左へ行くという定見のない政治家であった。」とか「毛沢東が自分に反対する者に対して残酷なほどに冷徹なことをよく知っていて非常に恐れており、毛沢東が言わんとすることを忖度(そんたく)して、右に左に毛沢東の思う方向へうまく渡り歩いてきた風見鶏的存在である。」とか言う人もいる。逆に、周恩来は「自分の考えを前面に出して毛沢東と対立したのでは中国のためにならないと考え、舵取りは毛沢東に任せ、毛沢東の指示に従ってその政策が実現するように務めることが自分の役割だ、と考えたのだ。」と高く評価する人もいる。

 毛沢東側から見た周恩来像についても、二つの見方がある。ひとつは「実務政治家としての能力はあるので必要な場面では使っていたが、毛沢東は心の底から周恩来を信頼していたわけではない」とする見方である。もうひとつは「毛沢東は、周恩来に対し、最後まで自分を裏切らないのは彼だけだ、といった最大限の信頼を置き、自分が政策ビジョンを示した後、その実施は全面的に周恩来に任せていた。」「毛沢東が『批林批孔運動』において孔子になぞらえて周恩来を批判する『四人組』グループに同調したのは、周恩来に自分の理想と異なる方向へ行って欲しくないことを示そうとしただけであり、周恩来を失脚させようなどとはつゆほどにも思っていなかった。」という見方である。

 冷静な判断をすべき歴史家の立場からすれば、具体的な証拠に基づいて、どの見方が正しいかを判断すべきなのだと思う。しかし、私は、最も偉大な指導者である毛沢東と最も敬愛すべき指導者である周恩来とが、お互いに相手を信用しておらず、周恩来は毛沢東の冷徹さを恐れており、毛沢東は実務官僚的な周恩来に対して猜疑心を持っていた、と考えるのは心情的には受け入れがたい。政治家としての目指すところと、政策の進め方に違いはあったが、毛沢東と周恩来の二人は、互いの長所と欠点を理解し合い、お互いに尊敬の念を持ち、深い信頼関係で結ばれていた、と信じたい、というのが私の偽らざる気持ちである。おそらくこういった心情は、多くの中国の人々も共通に持っている気持ちなのではないかと思っている。

 1976年1月、周恩来が死去した時の追悼大会は、トウ小平が取り仕切ったが、毛沢東は出席しなかった。「参考資料17:トウ小平秘録」によれば、この時、毛沢東は既にかなり健康を害していたが、車イスを使えば短時間ならば追悼大会に出席できる状況だったという。毛沢東が周恩来の追悼大会に出席しなかったのは、周恩来が進めトウ小平が引き継ごうとしている経済建設路線に反対していたからなのか、周恩来の死によって唯一の信頼できる者・心を許せる者を失った毛沢東が自らの揺れ動く感情を大衆の前に晒(さら)したくないと思うほどに大きなショックを受けていたからなのか。この時の毛沢東の本当の心情は永遠にわからないだろうと思う。しかし、私としては、後者であると信じたいのである。

 いずれにしても、前節で述べたように、1973年3月10日、中国共産党中央は、トウ小平の党の職務への復帰と副総理への復職を決定した。この時、トウ小平は、行政府としての国務院では副総理であったが、党内の立場としてはヒラ党員のままであった(トウ小平が党中央委員に選出されるのは1973年8月の第10回党大会)。一方で、この後の5月に行われた党中央工作会議で毛沢東が改めて孔子批判を行い、それにより「批林批孔運動」が始まった。

以上

次回「3-4-4(2/2):文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)」
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2010年3月17日 (水)

3-4-3:【コラム:「批林批孔運動」と兵馬俑坑】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第3節:トウ小平の復活と批林批孔運動

【コラム:「批林批孔運動」と兵馬俑坑】

 日本2008年12月4日付けの朝日新聞に興味深い記事が載っていた。西安の東郊外にあるユネスコの世界遺産「兵馬俑坑」は、秦の始皇帝の墓を守る軍隊を模した塑像の大群である。「兵馬俑坑」は1974年に井戸を掘ろうとしていた地元の農民によって偶然に発見された。上記の朝日新聞の記事によれば、当時は文化大革命の最中であり、「古い文化的遺物は破壊すべし」という風潮が強かったため、発見した農民たちの中には、これを保存すると「文化大革命の精神に反する」として批判されるのではないか、と恐れる人たちがいたらしい。しかし、この発見のニュースが北京に伝わり、江青ら文革グループの耳に入ると、当時の文革グループは孔子を批判し秦の始皇帝を再評価する政治運動の真っ最中だったことから、秦の始皇帝の偉大さを示す「兵馬俑坑」の発見を政治的に最大限に利用しようと判断し、「兵馬俑坑」の保存と系統的な発掘を指示したとのことである。

 歴史に「もしも」は禁物であるが、上記の記事によれば、「兵馬俑坑」の発見が「紅衛兵」が跋扈(ばっこ)していた1966年頃だったら、発見された「兵馬俑坑」は徹底的に破壊され、現在の形のようにきちんと保存されていなかったかもしれないというのである。この朝日新聞の記事では、「兵馬俑坑」が今でもきちんと保存されていることが、「批林批孔運動」において江青ら文革グループが行った措置のほとんど唯一のプラスの面と言えるかもしれないと指摘している。歴史の皮肉な一面と言えるかもしれない。

以上

次回「3-4-4(1/2):文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)」
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へ続く。

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3-4-3:【コラム:「孔子批判」に対する日本のマスコミの反応】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第3節:トウ小平の復活と批林批孔運動

【コラム:「孔子批判」に対する日本のマスコミの反応】

 「批林批孔運動」が始まった頃(1973年5月以降)、私は既に高校生になっていたので、当時の日本の新聞がこの「批林批孔運動」についてどのように報じていたかをよく覚えている。この当時の日本の新聞では「中国は、アジア地域の道徳の規範となっている孔子を批判するなどというとんでもないことを始めた。」といったトーンの報道が行われた。多くの日本人も「孔子を批判するなんて、中国の文化大革命はわけがわからない」と感じたようである。しかし、中国の近代化革命において、孔子に対する批判は、この時が最初ではない。孔子は確かに古代における優れた哲学者であったが、君主に対する忠誠心と秩序を重んじ、固定された身分制度を肯定し、男尊女卑の考え方を固定化させた、として20世紀初頭の中国近代化革命の初期において前近代的な思想の根本だとして大いに批判されたのである。孔子批判は決して共産党だけが行ったものではないのである。

 この点については、「第2章第2部第2節:五四運動と中国共産党の誕生」の【コラム:儒教に対する考え方】でも書いたところである。

以上

次回「3-4-3:【コラム:『批林批孔運動』と兵馬俑坑】」
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2010年3月16日 (火)

3-4-3(2/2):トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第3節:トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)

 江青ら文革グループは、1973年5月に始まった「批林批孔運動」の「批孔」の部分を次第に周恩来に対する攻撃に徐々に変化させていく。孔子とは、春秋・戦国時代の全国で戦乱が絶えなかった頃、周の初期の政治形態を尊び、周公の政治を尊んだ。その孔子を批判することは「周」即ち周恩来を批判することだ、という「あてつけ」である。周恩来は、文化大革命でめちゃくちゃになった行政組織をできるだけ整えようとし、政策の実務を担当する実務官僚にはきちんと執務させようとしたが、江青らは、そういったこと自体「孔子的」であるとし、「造反有理」「革命無罪」を主張する文化大革命に反するものだと考えて、周恩来攻撃の材料としていった。

 こういった経緯を踏まえ、孔子批判を言い出したのは毛沢東であり、「林彪は『極左』だから批判されるべきである」との周恩来の主張を退けて、「林彪は『極右』だから批判されるべきだ」と主張したのも毛沢東なのであるから、この時点(1973年頃)の中国の政治世界は、「毛沢東と江青ら文革グループ」と「周恩来と実務官僚グループ」との対立という図式で整理されるべきである、と分析する向きはかなり多い。「参考資料14:文化大革命十年史」もそうであるし、「参考資料8:「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」でもそういった見方を採っている。

 しかし、私は、毛沢東と周恩来との関係を「対立」という言葉で表現するのは必ずしも当たらないのではないかと考えている。毛沢東は、確かに林彪の批判の仕方として「林彪は『極左』だ」と主張する周恩来の考え方には反対だったし、周恩来の傘下にいる実務官僚が政治運営に口出しをすることに対する警戒感を持っていたのは確かだと思われるが、周恩来そのものを批判したり、ましてや周恩来を失脚させようなどという考えは毛沢東は全く持っていなかっただろう、と私は考えているのである。その理由は以下のとおりである。

○文化大革命初期(1967年頃)、林彪や江青ら文革グループが様々な古参幹部を批判するのを容認していた毛沢東だが、批判の矛先が周恩来に向いた途端にブレーキを掛け、周恩来だけは批判の対象とならないようにしていたこと(「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)。

○下に述べるように毛沢東は1973年前半には毛沢東と周恩来とは協力してトウ小平の復活を認めていること。トウ小平を復活させたのは、既に70歳代半ばになりガンに冒されていることがわかっていた周恩来の後継者としてトウ小平を据えるためであることは明らかであり、毛沢東が本当に周恩来を排除しようとしていたならばトウ小平の復活を認めるはずがないこと。

○後に再び述べることになるが、毛沢東は、江青ら文革グループによる周恩来批判が露骨になった1974年7月の中央政治局会議の場で、江青、張春橋、姚文元、王洪元らに対して「四人の小派閥を作ってはならない」と批判していること。毛沢東が本当に周恩来と対立し周恩来の失脚を望んでいたならば、この1974年7月の江青ら四人に対する批判は説明できない。

○この時期、毛沢東の健康はかなり悪化しており、毛沢東は十分な時間を取って政治活動を行える状況ではなく、江青ら文革グループが毛沢東のほんの些細な発言をことさら大きく取り上げて「毛沢東の指示」として大げさに振り回していた可能性があり、そもそも1973年5月に毛沢東が行った「孔子批判」の中では、毛沢東自身は、周恩来が持っていた個別の政策判断に対する批判はあったにせよ、周恩来を失脚させようとまで考えていなかった可能性が高いと思われること。

○少なくともニクソン総理との会談、田中総理との会談、その他の外国要人との会談等において、毛沢東は周恩来を批判するような言葉は一切語っていないこと。むしろ、この時期、毛沢東は外国人に対しては、田中総理に「(周恩来総理との)けんかはもう済みましたか。」と問い掛けたことに見られるように、政治の実務は完全に周恩来に任せてある、という態度を取っていた。

 また、私は歴史学者ではないので、やや心情的な話をすることを許していただければ、江青は毛沢東夫人とは言え、この時期はほとんど別居状態であり、林彪事件以降、毛沢東の孤独感はかなり強かったと思われる。そんな中、毛沢東にとって、心から信頼し相談できる人物は周恩来以外にはいなかったと思われる。林彪の批判の仕方など個別の問題について意見の相違はあったにせよ、毛沢東は周恩来を政治家としてだけではなく、無二の盟友として厚く信頼していたのではないかと思われる。また、周恩来は有能な実務政治家として毛沢東の政治を支えてきたとともに、人間・毛沢東を心から信頼し尊敬する友として支えてきたことを毛沢東自身がよくわかっていたのではないかと思われる。

 1976年1月、周恩来がガンで死去した時、毛沢東は既に高齢で相当に健康を害していたと思われるが、周恩来の死は毛沢東にかなりのショックを与えたのではないかと思われる。毛沢東が周恩来の後を追うように8か月後の1976年9月に死去したことは、激しい政治の荒波の中で最後まで自分を信頼してくれた盟友・周恩来の死が毛沢東の最後の生きる気力を失わせた結果によるものではないか、と私は思っている。

 さて、江青ら文革グループが周恩来による中央政界の把握に警戒感を強めている中、1968年の中国共産党第8期中央委員会第12回全体会議(第8期十二全会)で劉少奇国家主席とともに失脚したトウ小平氏が中央政界に復活してくる。第8期十二全会では、劉少奇が党籍の永久剥奪と公民権の永久停止という最大限の処分を受けたのに対し、トウ小平は、党籍は剥奪されず「留党監察」処分になったこと、トウ小平の党籍剥奪は林彪・江青ら文革グループが主張したにも係わらず、毛沢東がこれに反対したために実現しなかったこと、については「第3章第3部第7節:国家主席・劉少奇の失脚と死」で述べた。

 トウ小平は、第8期十二全会で失脚した後、北京で軟禁状態に置かれていたが、1969年10月の「第1号命令」(ソ連が中国国内の失脚者を担ぎ出して内部で反乱を起こすことを恐れた林彪が失脚した幹部を北京から地方へ移送するよう命じた命令)によって、江西省に送られて幽閉生活を送っていた。トウ小平は、毛沢東が「あの小男は役に立つ男だ」と言って自分の党籍剥奪に反対したことを知っていたようで、林彪墜落死事件後、毛沢東に手紙を書いて、自分は再び人民のため国家のために仕事がしたい、と願い出ている。1972年1月、毛沢東が陳毅の追悼大会でトウ小平を評価する発言をしたことは上に書いた。

 1972年5月、定期健康診断で周恩来がガンに冒されていることがわかった。当時、周恩来はニクソン訪中、田中総理訪中等を処理するため、激務に追われていた。毛沢東は、自らの健康状態を考えた時、周恩来(この時既に74歳)が病に倒れた場合、誰が中国政府を引っ張っていけるのか、を真剣に考えたのではないかと思われる。江青ら文革グループに中国の政治を任せられないことは、毛沢東自身が一番よく知っていたと思われる。もちろん、トウ小平の政治理念は毛沢東の理想とは異なるものであったが、もし周恩来が病に倒れたとすれば、中国の政治を任せられるのはトウ小平しかいない、と毛沢東は考えたのだと思われる。

 将来の歴史家は、毛沢東の様々な面について様々な評価を行うであろうが、自らの政治信条と異なる考え方を持つトウ小平を中国の将来を託すために中央に呼び戻したこの毛沢東の判断は、人材登用の観点において、毛沢東の偉大な政治指導者としての一面を示すものとして高く評価されることになるだろう。その後の中国の歴史は、周恩来亡き後の複雑な中国の政治の世界を統括し、引っ張って行く力を持つ政治家は、トウ小平以外にはいなかったことを如実に示している。(ただし、別の言い方をすれば、トウ小平が復活したことにより、中国の政治世界の中に、毛沢東、周恩来、トウ小平のようなスーパー政治家に頼ざるをえない体制を温存してしまった、強いリーダーシップを持つスーパー政治家がいなくても安定的に政治が行えるシステムを構築するチャンスを先送りしてしまった、という言い方もできる)。

 毛沢東と周恩来の意向を受けて、1973年2月20日、トウ小平は江西省から北京に呼び戻された。3月10日、中国共産党中央は、毛沢東と周恩来の指示に基づき、トウ小平の党での職務復帰と副総理への復帰を決定した。4月12日にはトウ小平はカンボジアのシハヌーク殿下訪中に際してのレセプションに姿を現し、マスコミにその復活した姿を登場させたのである。

 トウ小平の復活は、江青ら文革グループは、大きな力を持っていたとは言え、党中央を完全にコントロールする力はなかったこと、上に述べたように毛沢東が江青ら文革グループと組んで周恩来を追放しようとしてたとは考えられないことを明確に示している。

以上

次回「3-4-3:【コラム:『孔子批判』に対する日本のマスコミの反応】」
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2010年3月15日 (月)

3-4-3(1/2):トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第3節:トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)

 1971年9月13日の林彪墜落死事件は、中国の政治に大きな衝撃を与えた。この林彪事件の処理に対する周恩来の対応の仕方、1971年の10月1日の国慶節の祝賀行事が中止になったこと、この事件の直後あたりから急に毛沢東が健康を害したらしいこと等を考えると、林彪が毛沢東の暗殺を企てたり、軍事クーデターを起こそうとまで考えていたとは、毛沢東や周恩来も考えていなかったのではないかと思われ、毛沢東や周恩来もかなりのショックを受けたのではないかと思われる。

 特に、国防部長で軍を統括する立場にあった林彪が毛沢東に反旗を翻したことの衝撃は大きかった。軍全体が本気で林彪と行動をともにすれば、実際にクーデターが成功したかもしれなかったからである。しかし、林彪は、文化大革命の波を利用して軍の内部にいた自分に対する反対派、特に革命戦争以来功績のあった軍の老幹部たちを次々に失脚させていったことによって、自分の意のままになるグループを軍の中枢に据えていったことから、実際は軍の内部には林彪に反発する勢力が大きく存在しており、林彪グループのクーデター計画は軍全体には広がらなかった。

 そもそも、朱徳元帥や陳毅、葉剣英、徐向前、聶栄臻、李富春、李先念、譚震林、余秋里、谷牧ら1967年の「二月逆流」で批判された古参の革命軍人・老幹部は、抗日戦争や国共内戦期における輝かしい功績によって、軍の内部で幅広く尊敬を集めていた(「二月逆流」については「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)。こういった古参革命軍人・老幹部を文化大革命に反対する勢力として排除していった林彪らのやり方に対しては、多くの実直でまじめな軍人たちは表立って反対できないながらも、内心強い反発を感じていたと思われる。

 これらの「反林彪感情」は、林彪墜落死事件で一気に表面化する。革命戦争と中華人民共和国の成立に功績のあった軍の老幹部を尊敬する気持ちは、極めて自然なものであり、その自然な感情が林彪の死とそれに伴う林彪一派の逮捕によって一気に軍の内部に広まった。毛沢東も、林彪墜落死事件により、林彪が軍の内部で様々な方法で自らの息の掛かったグループの地位を高め、多くの反発を買っていたことを改めて認識した。毛沢東としても、軍の分裂を防ぎ、軍をひとつにまとめることが林彪事件後の最も重要な課題であった。

 そのため林彪墜落死事件後の動きは、まず軍の中で始まった。林彪がモンゴルで墜落死していから1か月も経たない1971年10月3日には、中国共産党中央は、林彪派が牛耳っていた党軍事委員会弁事室を解体し、「二月逆流」で批判されていた葉剣英が党軍事委員会を主事することとした。葉剣英は、後に1976年10月に華国鋒らとともに江青ら「四人組」逮捕の中で主導的な働きをし、改革開放後の1978年~1983年まで全国人民代表大会常務委員会委員長(当時はまだ国家主席職がなかったので国家元首として扱われていた)を務めている。つまり、文化大革命は1976年10月の「四人組」逮捕で終わるのであるが、軍の内部においては、文化大革命は実質的には林彪墜落死事件によって既に終了していたのである。この後も、江青ら文革グループが中央政界の中で暗躍するが、林彪がいなくなった後の文革グループは軍を掌握することは結局できなかった。このことが文化大革命後半期を考える上で非常に重要なポイントである。

 中国共産党中央は、1971年12月11日、「林陳反党集団反革命政変粉砕闘争」という資料を全国に配布して「批林整風運動」の展開を開始した。「林」はもちろん林彪のこと、「陳」は、1970年8月に江西省廬山で開かれた中国共産党第9期中央委員会第二回全体会議で「毛沢東天才論と国家主席就任提案」を行って毛沢東から批判を受けた陳伯達のことである。

 1972年1月6日、「二月逆流」で批判された古参幹部の一人である初代上海市長の陳毅が死去した。1月10日には、陳毅の追悼大会が開かれたが、この追悼大会には毛沢東自らが参加し、陳毅の遺影の前で深々と頭を下げた。この時の映像は中国国内に残されている(映像・音声資料7:DVD「歴史をして未来を語らしめる(四)文革十年)。この映像を見ると、毛沢東は陳毅の遺影の前に進み出て頭を下げて弔意を表したが、この時の毛沢東は一人で歩くことができず介添人に支えられてやっと歩ける状態だったことがわかる。前年(1971年8月)には、毛沢東は南方を視察して林彪を批判する講話等を行っていることから、毛沢東が林彪事件を挟んでこの半年の間に急に健康を害したことは明らかである。林彪事件がさすがの毛沢東に対してもかなりの精神的ショックを与えたのではないか、と言われているゆえんである。

 なお、この時の映像をよく見るとカンボジアのシハヌーク殿下が陳毅の追悼大会に出ていたことがわかる。アメリカに支援されたロン・ノルによるクーデターで政権を追われたシハヌークは、この頃、多くの時間を中国で過ごしていたのである(「第3章第3部第9節:ニクソンによる米中接近への動き」参照)。

 この追悼大会で、毛沢東は陳毅の遺影の前に頭を下げるとともに、「二月逆流」で失脚した古参幹部を復活させるべきことを人々に語ったとのことである。また、この席で、毛沢東はトウ小平を評価する発言もした、とされている。これはアメリカのニクソン大統領が訪中する約1か月前のできごとであった。当時、この陳毅追悼大会の様子やこの時の毛沢東の発言が外国に伝えられることはなかったが、あきらかにこの時が文化大革命におけるひとつの変節点であった。

 アメリカのニクソン政権との外交交渉等を通じて、この時期、中国政府の実質的な運営権は周恩来が握っていた。江青ら文革グループの力はまだ強かったが、実務的な政策遂行能力については、周恩来や彼に従う実務官僚の手腕に江青ら文革グループがかなうはずはなかった。1971年10月の中国の国連への復帰、1972年2月のニクソン大統領の訪中等を通じて、世界への窓を開こうと考えていた周恩来は、経済面においても鎖国的政策をやめ、必要な部分については、外国の技術や製品を利用しようと考えていた。そこで1972年1月、周恩来は毛沢東の了承の下、化学肥料、化学繊維に関する8基のプラント(約43億ドル)を外国から導入することを決めた。対外開放政策は1978年12月にトウ小平が始めたことになっているが、実はそこへ至るレールは、周恩来によって文化大革命の最中の1972年頃から既に敷かれ始めていたのである

(注)1972年9月の日中国交正常化が中国の対外経済開放路線の推進に大いにプラスに働いたことは再認識すべきである。日本人は、往々にして戦後の国際関係における自らの影響力を過小評価する傾向があるが、中国の現代史を考える上において、戦前におけるのとは全く別の意味で、中華人民共和国の歴史に対して、日本は日本人が考えている以上に大きな影響を与えているのである。

 日中国交正常化直後の1972年10月6日、「光明日報」は、北京大学副学長の周培源による論文「総合大学理科教育革命に対する一つの見方」を掲載した。この論文は、自然科学基礎理論の学習と研究を重視し強化しなければならないと主張していた。この論文は、周恩来の指示に基づいて書かれたものだと言われている。周恩来による中央政府の実務の掌握、アメリカや日本との関係改善、外国からのプラントの導入、そしてこういった自然科学研究の重視を主張する論文の発表は、文化大革命の原理を推し進めて政治の実権を握りたいと願っていた江青ら文革グループに大きな警戒感を呼び起こした。「参考資料14:文化大革命十年史」によれば、この周培源の論文は、7月頃には書き上げられ、「人民日報」に掲載する予定だったが、文革グループの張春橋、姚文元らが「人民日報」社に働きかけて掲載を見合わさせたため、やむなく10月になって「光明日報」に掲載された、とのことである。

 周恩来と江青ら文革グループとの間では「批林整風運動」の中で「林彪をどのように批判するのか」という点について意見の対立があった。周恩来は「林彪は『極左』である」として批判しようと考えていた。江青らは「極左」とは、共産主義の理論を最も純粋に推し進めようとする自分たち文革グループのことを指し、周恩来が行おうとする「林彪=極左」という主張は、林彪を批判することを通じて自分たち文革グループを攻撃しようとすることだと考えた。そのため、江青らは、林彪は革命を進める毛沢東を暗殺し軍事クーデターを起こそうとしたのだから「極右」であり、林彪は「極右」だからこそ批判されなければならないのだ、と主張しようとした。

 江青らは、林彪グループがクーデター計画として作成した「五七一工程紀要」の中で「毛沢東は秦の始皇帝のような独裁者になった」と批判していることを利用しようと考えた。秦の始皇帝は、孔子が広げた儒教を批判し、中国として初めての統一国家を作ったのであるが、孔子はそもそも君主に対する忠誠を重要視したり男尊女卑の考え方を採ったりする封建思想の根元であり、孫文等による中国革命初期にも批判されていたのであるから、秦の始皇帝を批判することは、孔子を礼賛することにつながり、封建主義を尊ぶ極右思想と同じだ、という論理構成を考えたのである。この論理には、毛沢東も賛成する部分があった。毛沢東も、多くの中国の近代革命家と同じように孔子に批判的な考え方を持っていたからである(田中総理が訪中して毛沢東と会談した際、毛沢東が儒教が日本に伝わったことを「中国が日本に迷惑を掛けたことのひとつ」と指摘したことは前節の【コラム:日中国交正常化時のエピソード】で述べた)。

 江青らは、乱世を統一した秦の始皇帝は、封建思想を広げた孔子を批判した点でも、一定の近代性を有しており、本来もっとプラスに評価されるべきである、と主張した。そして、始皇帝を否定した林彪は孔子を擁護する封建思想に基づく「極右分子」である、として批判しようとしたのである。林彪を批判する批判の仕方としてこのような考え方を使うことについては、毛沢東も同意した。孔子は批判されるべきだとする毛沢東の考えと合致していたからである。

 このため、毛沢東は、1973年5月に行われた党中央工作会議において、林彪を批判すると同時に孔子を批判することを提唱した。つまり、毛沢東は、林彪を批判する際の批判の仕方として、周恩来が主張しようとしていた「林彪は『極左』だから批判されるべき」という論理ではなく、「林彪は『極右』だから批判されるべき」という江青ら文革グループの主張に同意したのである。このため、1973年5月以降、「批林整風運動」は「批林批孔運動」へと形を変えていく。

以上

次回「3-4-3(2/2):トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)」
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へ続く。

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2010年3月14日 (日)

3-4-2:【コラム:日中国交正常化時のエピソード】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第2節:日中国交正常化

【コラム:日中国交正常化時のエピソード】

 田中角栄総理の訪中の時のことを覚えている方々はよく御存じのことだと思うが、当時まだ生まれていなかった(あるいは幼くてあまり覚えていない)という方のために、日中関係に携わる際には知っておいた方がよいエピソードをいくつか紹介する。下記のエピソードのうちいくつかは、私の記憶に頼っている部分があるため正確さを欠いているかもしれないので、その点は御了承願いたい。

○上野動物園へのパンダの贈呈

 田中総理訪中の際、中国側から日中友好のシンボルとして、「カンカン(康康)」「ランラン(蘭蘭)」というひとつがいのパンダが贈られることが表明された。国交正常化の約1か月後の10月末に上野動物園にやってきた二頭のパンダは、たちまち上野動物園の人気者になり、パンダを見るため連日行列ができた。パンダを見るためだけに上野動物園に来る人も多かった。ここから「客寄せパンダ」という言葉が生まれた。

 なお、中国は、ニクソン訪中時にもアメリカへパンダを送ることを約束しているが、日本でパンダ・ブームが起き、それが対中感情を好転させることに非常に役立ったことから、中国は、この後、様々な国に対してパンダを贈ることをひとつの外交手段として用いるようになる(いわゆる「パンダ外交」)。

○毛沢東主席と田中総理との会談における毛沢東語録

 9月27日午後8時頃、周恩来総理との間での共同声明の文言を巡る厳しい交渉を終えて宿舎の釣魚台賓館で休息していた田中総理のところへ、突然、周恩来総理がやってきた。毛沢東主席と会談できることになったから迎えに来た、というのだ。周恩来総理に引率されて田中総理一行は中南海(中国共産党本部と幹部の宿舎のある場所)へ移動し、毛主席の書斎で、毛主席と会談した。この会談は午後8時半~9時半頃までの約1時間にわたり行われた。

 冒頭、毛主席は田中総理に対して「(周恩来総理と)もうけんかは済みましたか。けんかをしてこそ、初めて仲良くなれるものです。」と語った。「もうけんかは済みましたか」という言葉は、この年の日本での流行語のひとつとなったが、毛沢東の「人物の大きさ」を示すひとつのエピソードである。

 この会談で、田中総理が型通りに、日本は二千年来中国からいろいろ学んできたこと、戦争中に不幸な歴史があったことを述べたのに対し、毛沢東は「中国は日本に対して歴史上二つの迷惑を掛けた。ひとつは漢字という複雑な文字を伝えたことと、儒教という封建的な思想を伝えたことだ。」と述べた。漢字や儒教の中国からの伝来は大きな「恩恵」だと思っていた多くの日本人にとって、この毛沢東の言葉は意外だった。毛沢東は、中国のでは小学生レベルでも8,000字もの漢字を覚えなければならない現実が青少年に過度の負担を与えていること、儒教思想が身分の上下関係の固定化や男尊女卑など東洋の前近代的思想を含んでいること、を踏まえて「中国は日本に迷惑を掛けた」と述べたのである。この話は、中国人民の教育レベルの向上と封建的な風習や前近代的な封建思想を打破しようと努力してきた毛沢東の中国の近代化を願う思いが伝わるエピソードだ、と私は考えている。

 なお、この漢字にまつわる話題の際、毛主席が「日本では小学生が覚えなければならない漢字はいくつぐらいなのですか。」と質問したが、田中総理はとっさには答えられなかった。すると脇から周恩来総理が「日本の当用漢字は1,850字です」と答えたという。早稲田大学に留学した経験のある周恩来の知日派ぶりを示すエピソードである。

○田中総理が晩餐会の挨拶で述べた「ご迷惑を掛けた」という言葉

 田中総理訪中の最初の日(1972年9月25日)の夜に行われた周恩来総理主催の歓迎宴の挨拶の中で、田中総理は「過去数十年にわたって,日中関係は遺憾ながら,不幸な経過を辿って参りました。この間わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて,私はあらためて深い反省の念を表明するものであります。」と述べた。この挨拶のうち「わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけした」の部分について、通訳は中国語で「我国給中国国民添了很大的麻煩」と訳した。この「麻煩」(マーファン)という言葉は、日常生活の中で誤って他人に水を掛けた時に謝るような時に使うような「軽い」言葉であったため、多くの中国の人々の怒りを呼んだ。

 この点について、周恩来総理は翌日の第二回首脳会談の冒頭取り上げ、次のように発言した。

「日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。戦争のため幾百万の中国人が犠牲になった。日本の損害も大きかった。我々のこのような歴史の教訓を忘れてはならぬ。田中首相が述べた『過去の不幸なことを反省する』という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の『中国人民に迷惑をかけた』との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では迷惑とは小さなことにしか使われないからである。」

 この「麻煩」を通訳による「世紀の誤訳」と評する人もいる。しかし、私は、率直に言って、田中総理が使った「多大のご迷惑をおかけした」という表現自体、戦争中に中国に対して日本がなしたことを表現するに際しては、日本語としても弱過ぎる表現であり、これを中国語の「麻煩」と訳したのは決して「誤訳」ではないと思っている。

 この「表現」の問題は、日中戦争の捉え方について、日本人と中国人との間の「感覚のズレ」を象徴する問題であり、日中関係に携わる人は全て留意する必要がある点であると私は考える。

(参考URL1)東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室
「日本政治・国際関係データベース」-「日中関係資料集」
「周恩来総理主催招宴における田中内閣総理大臣挨拶」(1972年9月25日)
(出典)田中内閣総理大臣演説集, 40-41頁
※上記データベースでは、日本語と中国語訳の両方を見ることができる。
「田中総理・周恩来総理会談記録」(1972年9月25日~28日)
※この会談記録には冒頭に「極秘無期限」と書かれているが、それがなぜネット上にアップされているのかについては説明がなされていない。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/

 ちなみにずっと後の1995年8月15日(戦後50周年の終戦記念日)に当時の村山富市総理(社会党:当時は自社連立政権だった)が発表したいわゆる「村山談話」では、次のように「多大の損害と苦痛」という表現になっている。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」

(参考URL2)外務省ホームページ
「報道・広報」-「談話・コメント」
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)(平成7年8月15日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html

以上

次回「3-4-3(1/2):トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)」
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へ続く。

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3-4-2:【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第2節:日中国交正常化

【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】

(1)日中国交「正常化」という言い方について

 1972年9月29日に日中の国交が「回復した」という表現もあるが、中華人民共和国との国交が樹立するまで、日本は台湾にある「中華民国」と外交関係を持っていたので、日本と「中国」との外交関係は継続的に存在していた、従って、「回復」という表現はおかしい、という主張が成立しうる。そのため、多くの場合、日中国交正常化、という表現を使う。

 ただし、台湾の人々から見れば、この表現は、裏返しの意味として、1972年9月29日以前の日本と「中華民国」との関係が「異常だった」ことを示すことになるので、使う場所によっては注意が必要である。

 なお、中国と台湾の「中華民国政府」(「国民政府」という意味で「国府」と呼ぶ場合がある)との関係については、大平外務大臣が日中共同声明発表後の記者会見で次のように述べている。

「最後に,共同声明の中には触れられておりませんが,日中関係正常化の結果として,日華平和条約は,存続の意義を失い,終了したものと認められる,というのが日本政府の見解でございます。 」

 日華平和条約は「破棄された」のでも「廃止された」のでも「失効した」のでもなく、自然な流れとして「終了した」というのは、ある意味、「政治家的な言い回し」と言ってもよいであろう。

(2)「台湾当局」という言い方について

 日中共同声明に基づけば「台湾を実効的に統治している組織は中国の政府ではない」「日本政府は、台湾は中国の一部であるという中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重する」というのが日本政府の立場である。従って、台湾を実効的に統治している組織を「国としての政府」と呼ぶのは日本政府の立場からするとおかしい。従って、日本政府部内の文書では「台湾政府」とは呼ばずに「台湾当局」という表現を使うのが一般的である。

 また、日本政府は「台湾」を「国」と認識しているわけではないので、日本政府の立場に立てば、統計データの表を作る際に「台湾」を書く欄に「国名」と書くのは適切ではない。書くとすれば「国・地域名」である。同じ理屈で、何かの会合の挨拶の時に「貴国は・・・」などと表現するのは、日本政府の立場と一致しない。従って、このような時には「貴方は・・・」と表現すべきである。

 さらに、日本政府が「中華人民共和国が中国の唯一の政府である」と認識している、即ち、中華民国という国家は、歴史上の国家としては存在しているが現在は既に存在していない、と認識している以上、日本政府は「晴天白日旗」を「現在存在している国の国家」とは認めていないことになる。従って、国際会議などの場で、国家の名称として「中華民国」という「国名」を使用したり、「国旗」として「晴天白日旗」を掲げることは、日本政府の考え方と異なる認識を示すことになる。台湾にいる人々は、こうした態度を快く思っていないが、日本政府の立場と同じ認識に立つ、という前提に立てば、「国名」と「国旗」については上記のような使い方をせざるを得なくなる。

 以上は、私が1982年7月に中国関連の部署に異動した時に、大陸側と台湾側との双方との間で良好な関係を維持するために必要な「最小限の常識」として最初に教わった事柄である。

 なお、大陸と台湾との経済関係の深化等により、大陸と台湾との人的交流は活発化している。2009年には北京・上海等の大陸の主要都市と台湾とを結ぶ定期航空路も開設された。従って、大陸と台湾との人の交流や実質的な協力関係については、現在の政治状況をそれほど気にする必要はない。しかし、中国は(大陸側も台湾側も)「メンツの国」であるので、「メンツ」の象徴である「国名」や「国旗」について誤った使い方をすると不必要な問題を惹起することになるので、注意を要する。

 多くのスポーツ大会等では、台湾のことを「Chinese Taipei」「中華台北」などと表記することによって大陸と台湾の両方の選手の参加を可能にする、など、話し合いにより、それぞれ大陸と台湾の双方の「メンツ」をつぶさないような形で実質的な対応が図られている。

(注)漢字表記の場合、「中華台北」ならばよいが、「中国台北」という表記は「台湾は中国の一部ではない」と主張する一部の台湾の人々にとっては受け入れられない表記である、といった問題を含むなど、名称問題は、いつも神経質な問題であるので、取り扱いには慎重を要する。

 現在、日本側には財団法人交流協会、台湾側には亜東関係協会という「民間機関」が存在し、交流協会は台湾に、亜東関係協会は日本に事務所を構えて、渡航に関する事務(ビザの発行など)を行っている。これらの「民間機関」は、実質的には大使館業務と同じことをしているが、日本と台湾とは、これらの機関はあくまで「民間機関」であって、政府は関与していない、という立場を取ることで、双方の「メンツ」を保ちながら、実質的には人の交流や経済的な関係については、中華人民共和国との「国交正常化」の後も、従前と同様の関係を続けている。

以上

次回「3-4-2:【コラム:日中国交正常化時のエピソード】」
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へ続く。

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2010年3月13日 (土)

3-4-2:日中国交正常化

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第2節:日中国交正常化

 中国の国連加盟とニクソン訪中により、日本国内の経済界では中国との外交関係の樹立に対する期待が高まった。その当時、日本は高度経済成長期が最終段階にあり、資源が豊富で膨大な「手つかずの市場」として残されている中国大陸部は経済界にとっては非常に魅力的だったからである(当時の中国の人口は約7億人)。しかし、当時の日本の佐藤栄作総理は、従来から蒋介石政権と近い関係にあった。中国政府の側からは、佐藤栄作総理と接近を図ることは(外交上のメンツの上からも)全く考えられないことだった。キッシンジャー氏による隠密裡の北京訪問とニクソン訪中の発表は、佐藤政権はアメリカから全く知らされておらず、ニクソン訪中は、全く日本の頭越しに行われたものだった。そのため佐藤政権の対中政策は日本国内でも批判を集めていた。

 佐藤栄作氏は、東京オリンピック直後の1964年11月に病気により退陣した池田勇人氏の後を受けて総理大臣に就任した。その後、7年半にわたる長期政権を維持したが、1972年5月15日に長年の懸案だった沖縄のアメリカからの返還を実現させた後、それを花道にして1972年(昭和47年)の通常国会終了後に退陣することを表明していた。

 佐藤栄作氏の後任として、自民党の総裁選挙に立候補したのは、三木武夫氏、田中角栄氏、大平正芳氏、福田赳夫氏の四氏であった(当時、俗に「三角大福」と言われた)。総裁選挙の結果、田中角栄氏が自民党総裁となり、7月7日に国会で指名を受けて内閣総理大臣となった。佐藤内閣で通商産業大臣をしていた田中角栄氏に対して、日本の経済界は、中国との関係正常化を大いに期待した。

 日中間では、外交関係がない中、1950年代頃から一部の商社(いわゆる友好商社)を通じて民間企業による貿易が行われていた。1962年11月9日には、長い滞日経験のある華僑事務委員会主任の廖承志氏と元通産大臣の高碕達之助氏との間で「日中覚書貿易協定」が締結され、日中双方に「覚書貿易事務所」が設置された(この頃行われていた貿易を廖承志氏と高碕達之助氏の頭文字を取って「LT貿易」と呼ぶ)。外交関係のない日中両国にとって、この「覚書貿易事務所」が大使館の代わりに両国間の非公式な接触を行う窓口となっていた。

 佐藤栄作氏は、総理就任当初から中華人民共和国に対して強硬な姿勢をとっていたが、一方で、佐藤内閣発足直後の1964年11月に結成された公明党は、当時の野党としての立場から中国に接近する意向を示していた。公明党の支持母体である創価学会の池田大作会長は1968年9月に「日中国交正常化提言」を発表し、中国寄りの姿勢を明確にしていた。

 日本の外務省の「外交青書」(1973年版)によれば、自民党総裁選挙に当選した田中角栄氏は、1972年7月5日、記者会見において「日中国交正常化の機は熟している」と述べ、7月7日に正式に田中内閣が成立すると田中総理は「中華人民共和国との国交正常化を急ぐ」との談話を発表した。これに対して、中国側は直ちに好意的に反応し、7月9日、周恩来総理が「日中国交正常化の実現に努力したいという田中内閣の声明は歓迎に値する」と発言した。

(参考URL1)日本の外務省の「外交青書」1973年版
「-わが国と各国との諸問題-2.各国との関係(2)中国」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1973/s48-2-1-1-2.htm#m220

 田中角栄氏が、総理になる直前まで通産大臣であり、ビジネス・チャンスの拡大を期待する経済界からの強力なバックアップがあったことは間違いないが、佐藤栄作氏に比べれば、三木氏、大平氏、福田氏のいずれも中国寄りと言うことができ、もし田中角栄氏以外の三者のうちの誰が総理大臣になっても日中国交正常化の方向へ向かった可能性が高い。また、かなり前から佐藤栄作氏が沖縄返還後に引退する意向を表明していたことから、中国側としては佐藤栄作氏以外の人物であれば誰でも接近が可能、と考えていたのではないかと思われる。

 従って、日本の「外交青書」では、最初に田中角栄氏が日中国交正常化への希望を述べ、周恩来総理が「歓迎する」と応えた、という順序で記しているが、実際は、ニクソン訪中後に中国側から先に何らかの形で(例えば、経済界ルートや公明党ルートで)日本側に対して日中国交正常化へ向けての打診が行われていた可能性が高い。中国側もアメリカとの国交正常化にはまだ時間を要することはわかっていたし、国際社会への進出と、国内の経済発展のためには、日本との協力を進めることは中国にとってもプラスになると中国側が考えたとしても不思議ではないからである。また、もし、本当に「外交青書」が言うように7月5日の田中角栄氏の発言が全てのスタートなのだとしたら、それから3か月も経たないうちに日中国交正常化が実現するとは、あまりにも速すぎる。日中国交正常化へ向けての交渉は、田中内閣発足前から水面下で行われていたと考える方が自然である。

 なお、田中内閣の成立から2週間後の7月27日から3日間、公明党の竹入義勝委員長が訪中して周恩来総理と3回、時間にして合計6時間45分にわたって会談している。

(参考URL2)東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室
「日本政治・国際関係データベース」-「日中関係資料集」
「第1回 竹入義勝・周恩来会談記録」(1972年7月27日)
「第2回 竹入義勝・周恩来会談記録」(1972年7月28日)
「第3回 竹入義勝・周恩来会談記録」(1972年7月29日)
※情報公開法に基づいて読売新聞社が外務省に開示を求めて公開された手書きの文書をテキスト化したもの。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/

 この当時公明党は野党であったが、上記の会談記録を見ると、この会談が後に日中間で行われる日中共同声明の文言に関する具体的な交渉の場であったことがわかる。当時、この事実は、当時、政界・官界・経済界を挙げて、ほとんど挙国一致体制で日中国交正常化へ向けての流れができていたことを示すものである。

 また、記録上、表には現れないが、それまで覚書貿易事務所を通じて培われてきた経済界ルートでの日中間の意志の疎通が、1972年の急速な日中接近の背景にあったことは忘れてはならない。

(注)「日中覚書貿易事務所」(初代代表は岡崎嘉平太全日空社長)は1972年9月の日中国交正常化によりその役目を終えた。それまで日中覚書貿易事務所が担っていた業務は、その年の11月に設立された(財)日中経済協会に引き継がれた。現在、公明党が中国側との関係で強い関係を持ち、日中経済協会が財団法人でありながら中国側との関係では重要な地位を占め、1987年に全日空が始めた海外定期路線の最初の路線が中国路線であった背景には、こういった歴史的な経緯があるのである。

(参考URL3)(財)日中経済協会ホームページ「協会沿革」
http://www.jc-web.or.jp/JCCont.aspx?SNO=001&b=001&s=007&k=104

 日中間の国交正常化交渉でも、最も困難な問題はやはり台湾問題であった。自民党内の台湾寄りの議員の発言により、日中間の交渉に暗雲が立ちこめたこともあった。しかし、日中間の交渉では、米中間で合意された「上海コミュニケ」という前例があったために、これをひとつのモデルとして交渉を行うことができたのは幸いであった。田中角栄総理大臣、大平正芳外務大臣、二階堂進官房長官ら日本政府代表団は、1972年9月25日、北京入りし、周恩来総理らと日中国交正常化へ向けた最終的な交渉が行われた。その結果、9月29日、日中共同声明が出されて、日中国交正常化が実現した。

(参考URL4)在中国日本大使館ホームページ
「二国間関係」-「日中関係重要文献集」
「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(1972年9月29日)
http://www.cn.emb-japan.go.jp/bilateral_j/bunken_1972seimei_j.htm

 この共同声明の台湾問題に関する部分は以下の通りである。

「二. 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。

三. 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」

 ここの部分については、大平外務大臣が共同声明発表後の記者会見で次のように説明している。

「台湾問題に対する日本政府の立場は,第3項に明らかにされておる通りであります。カイロ宣言において,台湾は中国に返還されることがうたわれ,これを受けたポツダム宣言,この宣言の第8項には,カイロ宣言の条項は履行されるべしとうたわれておりますが,このポツダム宣言をわが国が承諾した経緯に照らせば,政府がポツダム宣言に基づく立場を堅持するということは当然のことであります。」

 この大平外務大臣の発言と日中共同声明を合わせて読めば、「カイロ宣言を履行すべきことをうたったポツダム宣言を日本が受諾したことによって、台湾は中国に返還され、かつ、日中共同声明第二項により日本政府は中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認しているのだから、日本政府は台湾が中華人民共和国の統治している中国の一部であると認めている。」ということになる。この部分は、現在の日中関係の出発点である(「台湾の帰属については中国内部の問題であり、日本政府としてはコメントする立場にない」というのが現在の日本政府の公式見解のようである)。

 しかしながら、現在、日本国内には「『台湾は中華人民共和国の一部である』というのは中国政府の主張であり、日本は同調する必要はない。」と主張している人がいる。上記の日中国交正常化の経緯に基づけば、「台湾は中華人民共和国の一部である」という認識は中国政府の一方的な主張ではなく、日本政府はそういった中国政府の主張を「理解し尊重して」いるのである。日本の人々が台湾の人々と様々なレベルで交流を深めることは何ら問題はないが、「中華民国」という国名や青天白日旗(中華民国の国旗)を歴史上のものとしてではなく、現在の台湾当局を代表するものとして使うことは、こうった日本政府の態度に反するものとなるのである。

 一方、歴代の台湾当局も「台湾は中国の一部である」という認識を完全に消し去ることはしていない(民進党は独立傾向の強い主張をしているが、完全な独立を指向しているわけではない)。

 なお、台湾は日清戦争の結果、1895年の下関条約で日本の植民地となり、日本により大陸とは別系統の統治が行われていた結果として、蒋介石の国民党が台湾を大陸と切り離して実効支配することを可能にした、という歴史的経緯を踏まえれば、現在の台湾問題のそもそもの原因を作ったのは日本である、という認識は忘れないようにしなければならない。台湾問題は、台湾と大陸との両方に住む中国の人々が自らの判断で解決すべき問題であり、問題の原因を作った日本(あるいは日本人)が、台湾問題についてあれこれ主張することに対しては、不要な反発を招くことを日本人は自覚しておく必要がある。

 上記のニクソン訪中や日中国交正常化に際して、毛沢東と周恩来が西側のテレビに頻繁に登場したが、それらの映像は、毛沢東がかなり高齢で健康を害していること、周恩来が第一線の政治家として厳しい交渉の先頭に立って活躍していることを内外に強く印象付けた。林彪墜落死事件の処理やこれらの外交案件で改めて見せ付けた周恩来の政治家としての優秀さと毛沢東の健康問題が、この後の中国の政治情勢に微妙な影響を与えていく。

 即ち、中国政治の世界において、周恩来に対する信頼が一層高まり、毛沢東が健康を害していたことと相まって、周恩来は名実ともに中国政府の中心的存在となっていく。これが江青ら文革派の反発を招くことになる。しかし、周恩来はこの時(1972年9月の時点で)既に74歳になっており、いつまで激務に耐えられるかわからなかった(「参考資料14:文化大革命十年史」によれば、1972年5月の時点で既に周恩来はガンに冒されていることがわかっていたのだという)。そこで、毛沢東と周恩来は、周恩来に匹敵しうる実務能力を持った次世代の政治家としてトウ小平(1972年9月時点で68歳)に期待を寄せ、その復活を図っていくのである。

 そして、この後、周恩来・トウ小平グループと江青ら文革派グループとの確執が中国政府を動かす機軸となっていく。

以上

次回「3-4-2:【コラム:『日中国交正常化』『台湾当局』という表現について】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-25db.html
へ続く。

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2010年3月12日 (金)

3-4-1:ニクソン訪中

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第1節:ニクソン訪中

 キッシンジャー補佐官の隠密裡の北京訪問により得られた合意に基づき、1972年2月21日、リチャード・ニクソン氏は、中華人民共和国成立以来初めて、アメリカの大統領として北京を訪問した(経緯については「第3章第3部第9節:ニクソンによる米中接近への動き」参照)。北京空港には、周恩来総理自らが出迎えた。

 米中両国はニクソン大統領訪中の成果として共同声明を出すことを考えていたが、その中に盛り込むべき最も重要な交渉事項は台湾問題だった。前年(1971年)10月の国連総会において、中華人民共和国は国連における代表権を獲得したが、アメリカはまだ台湾の蒋介石政権(「中華民国」)と外交関係を持っていた。そして、アメリカは蒋介石政権との間で1954年に「米華相互防衛条約」を締結していたのである。

(参考URL1)東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室
「データベース『世界と日本』」-「日本政治・国際関係データーベース」
「米華相互防衛条約」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19541202.T1J.html

 この「米華相互防衛条約」は、基本的に「日米安全保障条約」と同じ発想に基づくものであり、アメリカ軍の台湾への駐留を認めるものであった。中国にとっては、アメリカと外交関係を樹立するためには、まずこの「米華相互防衛条約」の破棄とアメリカ軍の台湾からの撤退が絶対条件だった。

 ニクソン大統領は、選挙公約でもあったベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を実現させるため、米中接近を図ることを強く望んでいたが、米国議会議員の多くは、「米華相互防衛条約」の破棄とアメリカ軍の台湾からの撤退は、極東地域における安全保障上譲れない問題であると認識しており、従来からの蒋介石政権との関係を切るわけにはいかないと考えていた国務省もそれに近い考え方であった。従って、米中共同声明の案文は、大統領訪中前から一定の交渉は行われていたものの、ニクソン大統領が北京に到着した時点では、細かい文言については、まだ最終決着を見ていなかった。ニクソン大統領は、キッシンジャー補佐官、ロジャーズ国務長官らとともに北京において共同声明の表現ぶりについて周恩来総理と交渉を行った。

 ニクソン大統領は北京滞在中に毛沢東主席との会談を希望していたが、毛沢東主席との会談は大統領が北京に到着した時点ではスケジュールはまだ確定していなかった。このため、アメリカ側は毛沢東とは会えないのではないかと危惧していた。しかし、ニクソン大統領が宿舎に到着してからまもなく、中国側から毛沢東との会談がセットされたことを知らされ、北京に到着した日のうちに、ニクソン大統領は毛沢東主席と会談した。

 実は、この当時、毛沢東主席はかなり健康を害していた。ニクソン大統領と毛沢東主席との会談を記録した映像を注意深く見るとわかるが、ニクソン大統領と握手をする毛沢東のもう一方の腕を付き添いの女性が支えている。この当時、毛沢東は一人で歩行するのも困難な状態だったのである。毛沢東の健康状態を考慮して、中国側は当初毛沢東との会談を15分間に限る、と通告してきた。しかし、毛沢東自身、ニクソン大統領との会談に熱が入り、会談は65分間に及んだ。最後は、毛沢東の健康を心配した周恩来が何回も時計に目をやっているのに気が付いたニクソン大統領が会談を打ち切った、と言われている。

(注)次々節で述べるが、林彪墜落死事件(1971年9月)の後、毛沢東はかなり健康を害しており、ニクソン訪中の約1か月前に行われた陳毅の葬儀に参加した毛沢東は、完全に介添人に支えられてやっと立っていられる状況だったことが当時の記録映像から見て取ることができる。

 中国側は台湾は中国の一部であるとの認識をアメリカ側も認めるよう要求し、台湾からのアメリカ軍の撤退を約束することを迫った。当時、ニクソン大統領は、ベトナムをはじめ、アジア各国に展開するアメリカ軍を逐次撤退させ、アメリカ軍に頼らずに各国自身の軍隊による安全保障を強化しようとする政策(いわゆる「ニクソン・ドクトリン」)を進めていたことから、台湾から段階的にアメリカ軍を撤退することは受け入れ可能だった。しかし、議会との関係から最終的に台湾から完全にアメリカ軍を撤退させることを中国と約束することは避けたいと考えていた。このため、北京での全ての日程を終えた時点でも、米中両国は共同声明の案文について合意ができなかった。ニクソン大統領一行が杭州、上海へ移動した後も周恩来総理が同行し、交渉は続けられた。

 中国側は台湾からのアメリカ軍の撤退を「約束する」との文言を使う代わりに「最終目標とする」との文言を使うとの妥協案を提示してきた。アメリカ側内部では、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官はこの文言でもやむを得ないと考えたが、議会が認めるはずがないと考えたロジャーズ国務長官はこれに反対した。こうしたアメリカ内部の事情を知った周恩来総理は、上海の宿舎において、ロジャーズ国務長官の部屋を訪れ、米中双方の妥協の重要性を切々と説いた、という。中国側の交渉の首席代表である周恩来総理が自らアメリカ側の「随員」の一人である国務長官のところへ自ら赴くのは外交交渉上は極めて異例であるが、アメリカ側内部の事情を知り、大局的な見地から大統領の努力を無駄にしないようにと国務長官を説得した周恩来は、優れた政治家・外交官としての一面をここでも見せつけた(映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~」)。

 このようにして最終的な合意に至り、ニクソン大統領の訪中日程最終日の前日である1972年2月27日、米中共同声明が両国により発表された。発表された場所が上海であったことから、この共同声明は「上海コミュニケ」とも呼ばれている。

(参考URL2)日本の外務省の「外交青書」1972年版
「-その他の重要外交文書等-(5)ニクソン大統領の訪中に関する米中共同声明」(昭和47年2月27日発表:参考用仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-shiryou-6-5.htm

 この米中共同声明では、台湾問題については、下記のように記されている。

「双方は,米中両国間に長期にわたつて存在してきた重大な紛争を検討した。中国側は,台湾問題は中国と米国との間の関係正常化を阻害しているかなめの問題であり,中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であり,台湾は中国の一省であり,夙に祖国に返還されており,台湾解放は,他のいかなる国も干渉の権利を有しない中国の国内問題であり,米国の全ての軍隊及び軍事施設は台湾から撤退ないし撤去されなければならないという立場を再確認した。中国政府は,『一つの中国,一つの台湾』,『一つの中国,二つの政府』,『二つの中国』及び『台湾独立』を作り上げることを目的とし,あるいは『台湾の地位は未確定である』と唱えるいかなる活動にも断固として反対する。

 米国側は次のように表明した。米国は,台湾海峡の両側のすべての中国人が,中国はただ一つであり,台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は,この立場に異論をとなえない。米国政府は,中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する。かかる展望を念頭におき,米国政府は,台湾から全ての米国軍隊と軍事施設を撤退ないし撤去するという最終目標を確認する。当面,米国政府は,この地域の緊張が緩和するにしたがい,台湾の米国軍隊と軍事施設を漸進的に減少させるであろう。」

 この共同声明では、アメリカ側は中国側の主張を「認めた」とはされておらず「中国人の立場に異論はとなえない」という表現になっている。また、アメリカ側はアメリカ軍の台湾からの撤退を「約束」はしていないが、それを「最終目標」として「確認する」という言葉で表現している。この共同声明は、両国の立っている原則を維持し、かつ、合意している、という点で双方の交渉の苦労が結実したものであった。これが1979年1月1日に外交関係が樹立されることになる米中関係の基本的認識となった。

 米中国交正常化については、この上海コミュニケでは「具体的協議を行う」と述べるに留まっているが、最大の懸案であった台湾問題が上記のような原則に基づくことで合意したことは、両国の国交正常化へ向けての大きな前進であった。キッシンジャー氏はCNNの番組(映像・音声資料4:CNN制作のドキュメンタリー・シリーズ "Cold War" )の中で「中国に降り立った時、我々には歴史を作る、という認識はなかった。しかし、中国を去る時、我々は歴史を作った、と思った。」と語っている。

 しかし、米国議会内部には、安全保障の観点から台湾を「切り捨てる」ことに対する反対が根強かった。ニクソン大統領は、1972年11月の選挙で勝てば、二期目のニクソン政権の間に米中国交正常化をすることを希望していたが、議会の反対と、自らがウォーターゲート事件により1974年8月に退陣を余儀なくされたことにより、実際の米中国交正常化が最終的に合意されたのは、アメリカ側はカーター政権になった後の1978年12月であった。1978年12月16日、米中両国から1979年1月1日をもって外交関係を樹立することが発表された(後に詳しく述べることになるが、この米中国交樹立のタイミングは、くしくも中国共産党が「改革開放政策」を打ち出したのと同じ時期だった)。

以上

次回「3-4-2:日中国交正常化」
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へ続く。

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2010年3月11日 (木)

3-3-10(3/3):謎の林彪墜落死事件(3/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第10節:謎の林彪墜落死事件(3/3)

 1971年4月15日、党中央は「批陳整風報告会」を開催して、前年8月の第9期二中全会以降提出された黄永勝、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作ら林彪一派の自己批判書についての議論を行った。これにより林彪は自分に近い人々が批判にさらされていることを痛感した。1971年5月1日、林彪はメーデーの式典に姿を現し、外国の要人と会見したが、林彪が公の場に現れたのはこれが最後となった(「映像・音声資料7:DVD『歴史をして未来を語らしめる(四)文革十年』」)。

 2010年1月に日本語版が出版された「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、趙紫陽氏(1980年代のトウ小平による改革開放政策の下で国務院総理と党総書記を歴任し、1989年の「第二次天安門事件」により失脚した)は、1971年4月に「下放」されていた湖南省から北京に呼び出され、内モンゴル自治区の党書記に指名されたという。趙紫陽の政治的追放を解いたのは毛沢東で、毛沢東は文化大革命の進展による党幹部の追放が相次ぐ中で「一人残らず追放するというのか。私はそんなことは望んでいない・・・・。」と語って趙紫陽氏の復権を決めたという。ということは、1971年4月の時点では、毛沢東は既に林彪による党幹部追放の「やりすぎ」を不満に思っており、趙紫陽氏のような実務官僚型の優秀な人材を登用して政治を正常化させようと考えるようになっていた可能性がある。もしそうだとすると、林彪墜落死事件の後、毛沢東が周恩来と図ってトウ小平の復活を決めたことにも合点がいく。また、林彪が1971年4月頃以降、そういった毛沢東の意図を察知し、身の危険を感じてクーデターの実行を本気で考えるようになったと考えることも可能であろう。

 1971年7月、林彪グループは、北京のほか、北載河(河北省の渤海湾沿岸にある夏の避暑地)、上海等でクーデターの準備を始めた。毛沢東は、こうした動きをかわすかのように、8月14日、北京を離れて南方視察の旅へ出掛けた。毛沢東は訪問先の各地で様々な講話を行い、前年の第9期二中全会での黄永勝、呉法憲、葉群、李作鵬、邱会作らの動きについて「計画も組織も綱領もあった」と述べ、林彪についても「当然一部の責任を負わねばならない」と述べた。さらに「ある人物が国家主席となることを急ぎ、党を分裂させ奪権を急いだ。」とも語った。これらの情報を得た林彪は、もはや猶予はできないことを悟った。

 9月7日、林彪の息子の林立果は自分のグループ「連合艦隊」に「一級戦闘」の準備に入るよう指示した。また、林彪は、事が起こった時に一家が一致して行動できるように、娘(林立衡)の婚約祝いを行う、という名目で、一家を北載河へ集めることにした。林立衡自身は、この時に初めて父親が逃亡する計画があることを聞かされた(娘の林立衡がクーデター計画についてどの程度知っていたかは不明である。たぶん何も知らされていなかったものと思われる)。

 9月8日、毛沢東の乗った列車が上海へ行くことを知った林彪は、1928年に日本が張作霖を爆殺したのと同じようにして列車を爆破して毛沢東を暗殺し、上海での戦闘が始まったら北京でも林彪一派が行動を起こして、主要な目標を攻撃する手はずを整えた。もし攻撃がうまく行かなかったら、一派は全て広州へ終結し、広州で北京と対立する独立政権を樹立する計画であった。

 9月8日、杭州にいた毛沢東は、専用列車を当初の予定とは異なる位置に移動させた。そして9月10日午後3時頃、毛沢東は突如「直ちに出発する」と命令を出し、列車を上海に移動した。その日の夜、専用列車は上海虹橋空港近くに到着したが、毛沢東は列車を降りなかった。翌9月11日午前、毛沢東は列車を降りて食事をした後、列車に戻り、「誰も列車に乗せるな」と命令して列車を出発させた。

 毛沢東が何日間か上海に滞在するだろうと考えていた林彪一派は「毛沢東が上海には一時的に停車しただけで、すぐに上海を離れた」との知らせを受けて驚愕した。毛沢東は、専用列車を北京へ向けてノンストップで走らせた。9月12日午後、毛沢東の専用列車は北京市南郊外にある豊台駅に到着した。毛沢東はここで側近を集めて状況分析の会議を行った。江青は後に「豊台会議で毛沢東は彼(林彪)を守り、情義を尽くした」と述べており、この時点でも毛沢東は林彪を徹底的に追い詰めるつもりはなかった可能性がある(参考資料14:文化大革命十年史」)。

 毛沢東が北京に戻って暗殺計画が失敗に終わったことがはっきりした9月12日夜、林立果は、空軍が所有し日頃林彪が使っていたイギリス製旅客機トライデント256号機で、待機場所だった北京西郊空港から北載河近くの山海関空港へ移動し、山海関空港からジープを飛ばして両親(林彪、葉群)と妹(林立衡)がいる北載河へ向かった。  

 この日(9月12日)、午後三時から林立衡の婚約式のパーティーが始まっていた。兄の林立果は、パーティー会場に到着すると、妹の林立衡に「婚約おめでとう」と一言っただけで林彪、葉群と別室で密談を始めた。林立衡は不審に思い、服務員に命じて話の内容を立ち聞きさせた。服務員から報告を受けた林立衡は、警備担当者に報告した。警備担当者は直ちに北載河を警備する八三四一部隊に報告し、八三四一部隊は北京にいる周恩来総理に状況を報告した。9月12日の午後10時半頃のことだった。

 この時、周恩来総理は人民大会堂で次の全人代で報告する政治報告について議論している最中だった。周恩来は、直ちに呉法憲に電話を掛けて「空軍のトライデント機が山海関空港にいる、とのことだがなぜだ。誰が乗って山海関へ行ったのか。飛行機には誰も乗せずに直ちに北京に戻せ。」と言った。この事実を見ると、この時点では、周恩来は呉法憲が林彪らと組んでクーデターを起こそうとまで考えていたことは知らなかった可能性が高い。(なお、この日の慌ただしい動きの中で、呉法憲自身、林立果がトライデント機で山海関空港へ移動していたことを知っていたのかどうかは不明である)。呉法憲は、部下に現状を確認したところ「トライデント機は訓練のために山海関空港へ移動した。しかし、故障したため北京には戻れない。」との回答だったため、呉法憲は、その通り周恩来に報告した。

 「周恩来がなぜトライデント機が山海関空港にいるのかを調べている」という情報は、北載河の林彪らにも伝わった。それを知った林彪の妻の葉群は、午後11時22分、その場を取り繕うため周恩来に電話を掛け「林彪副主席が移動したがっています。」と伝えた。周恩来が「陸で、ですか、空で、ですか。」と聞くと、葉群は「空で。」と答えた。さらに周恩来が「飛行機はありますか。」と尋ねると葉群は「ありません。」と答えた。このやりとりで「何かおかしい」と感じた周恩来は、山海関空港を管理する海軍の李作鵬に電話して「山海関空港にいるトライデント256号機を動かしてはならない。私(周恩来)と黄永勝、呉法憲とあなた(李作鵬)の四人が全て一致して許可を出した場合でなければ動かしてはならない。」と命じた。この周恩来の発言は、この時点では、周恩来は、誰が林彪一派と組んでいるかがわからなかったことを示している。

 周恩来からの命令を受けた李作鵬は、この周恩来の指示を「四人のうち一人でも許可を出せば飛行機を動かしてよい」と変えて「誰かが指示してきたら私に報告せよ。」と山海関空港の管制官に伝えた。

 周恩来が動き出したことを知った林彪らは、もはや逃亡しかない、と判断し、広州で分裂政権を作るという構想も断念して、ソ連へ逃亡しようと考え、急いで北載河を車で出発した。林彪一行が滞在していた北載河のビルを警備していた警備兵は、逐次状況を八三四一大隊に報告していた。八三四一部隊は走り去ろうとする林彪一行に停止を命じたが、林彪を乗せた車はクラクションを鳴らして警戒線を突破した。何も知らずに同乗させられていた林彪の警備秘書は、「これはまずい」と考え、運転手に停車しろ、と命じた。驚いた運転手が車を停止させたスキに警備秘書は車から脱出した。車内から警備秘書に目がけて銃が二発発射された。その後、再び林彪を載せた車は猛スピードで山海関空港へ向かった。

 9月13日0時13分、林彪を乗せた車がトライデント256号機に近づこうとしていた。山海関空港の管制官は「誰の指示もないままトライデント機が離陸しようとしている」と3回にわたって李作鵬に報告したが、李作鵬は「直接周恩来総理に指示を仰げ」と指示しただけだった。この時、李作鵬は管制官に「飛行機を離陸させよ」とは指示しなかった。なぜかは不明だが、こういう事態になれば、林彪だけを逃がしても意味がない、むしろ自分は関係ないという立場を貫いた方がよい、と考えたからかもしれなない。

 0時22分、林彪の車はトライデント機の脇に到着した。トライデント機はまだ給油作業の途中だった。林立果らは「早く飛行機を動かせ!」と命じ、タラップが到着するのも待たずに梯子をよじ登って飛行機に乗った。副操縦士、ナビゲーター、無線士が搭乗するのも待たず、空港管制官の許可も得ないまま、0時32分、トライデント256号機は山海関空港を強行離陸した。乗っていたのは、林彪、妻の葉群、息子の林立果、空軍司令部弁公室局長、パイロット、技師、空軍メカニック、特別メカニック、林彪付き運転手の9人だった。

 山海関空港管制官は、トライデント256号機が強行離陸したことを直ちに北京に報告した。周恩来は、管制官に「トライデント機に呼びかけて、北京東郊空港でも北京西郊空港でも、どこでもいいから着陸させよ。着陸したら私(周恩来)が迎えに行く、と伝えてくれ。」と指示した。管制官はトライデント機に呼びかけたが、回答はなかった。

 トライデント256号機は、内モンゴル自治区西部から進路を北に向け、1時35分、モンゴル領内に入った。周恩来は直ちに毛沢東のところへ行き事態を報告した。毛沢東は「雨は降るもの、娘は嫁に行くものだ。好きにさせるがいい。」と答えたという。

 午前2時30分頃、トライデント256号機は、モンゴルのウンデルハンに墜落した。墜落現場では、モンゴル政府による調査が行われた。駐モンゴル中国大使も立ち会った。当時の調査によれば、地面に機体の一部が接触した跡が残されており、機体がそれほど広範囲に広がっていなかったことから、機体が空中で爆発したという可能性はない、と判断された。墜落した場所が平原地帯であり、地面に墜落した後かなりの燃料が燃えた跡があることから、燃料不足による墜落ではなく、予定された不時着だったが、副操縦士やナビゲーターがいなかったことによる操縦ミスによる着陸失敗だったという説がある。一方、9人の遺体とともにピストル等の武器も発見されていることから、機内で撃ち合いがあって墜落したという説もある。様々なことが言われているが、真相は闇のままである(「新華社」ホームページにある「資料」の中の解説では「燃料が尽きて墜落した」という説を採っている)。

(参考URL)「新華社」ホームページ
「資料」-「中国共産党」-「理論及び事件」-「『九一三』事件」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-09/01/content_1056608.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 クーデター計画に参画していた軍人たちは、ほどなく逮捕されるか、自殺を遂げた。黄永勝、呉法憲、李作鵬、邱会作は、自分たちが林彪らと関係したことを示す証拠類を全て破棄したが、ほどなく逮捕された。

 この1971年9月13日に起きた林彪墜落死事件は、7月にニクソン訪中が発表されてからまもなくのことであり、国連総会でアルバニアが中華人民共和国の国連への招請を求める決議案(アルバニア決議案)を提出する10日ほど前に起きた事件であった。中国政府は内外への影響を避けるため、海外に対しても国内に対しても、この事件については沈黙を守った。モンゴル政府も10月1日になってから「国籍不明機が領空侵犯しモンゴル国内で墜落した」と発表しただけであった。中国の国営通信「新華社」は翌年1972年7月28日、1971年9月13日に林彪が国外逃亡を試み、モンゴルで墜落死したことを発表した(「ネットワーク上にある参考資料5」にある公明党竹入義勝委員長と周恩来総理との会談(前々回「第10節:謎の林彪墜落死事件(1/3)」の(参考URL1)で紹介した)はこの発表の翌日に行われた)。詳しい経緯が公式に明らかになったのは前々回「第10節:謎の林彪墜落死事件(1/3)」の(参考URL2)に掲げた1973年8月の中国共産党第10回全国代表大会での周恩来報告が最初である。

 なお、事件直後、香港のメディアが「林彪が海外逃亡を企てて墜落死した」とのニュースを伝えたが、当時、文化大革命により多くの海外メディアが中国から出て行った中で北京に特派員を残していた朝日新聞は「林彪が失脚したというのは偽情報だ」という記事を書いた。そのため林彪事件に関する朝日新聞の報道については批判する向きがある(参考資料4:そうだったのか!中国)。

 1980年代に入り「四人組裁判」が始まると、この林彪事件についても具体的な証拠とともに詳細な経緯が明らかにされた。しかし、冒頭に書いたように、この事件の詳細な経緯を証明するものは、中国当局が発表したもの以外にはなく、客観的な立場からその実態が検証できるようになるには、まだなお時間を要するものと思われる。

 なお、文化大革命初期において林彪と同じような行動を取ってきた江青がこの林彪墜落死事件とどの程度かかわってきたのかはよくわからない。おそらくは1970年8月に行われた第9期二中全会において、後に「四人組」の一人となる汪洪文が当初は林彪と同調する発言原稿を用意していたにもかかわらず、毛沢東が林彪に批判的な態度を見せたとたんに林彪を批判する発言に差し替えていることからわかるように、江青もこの第9期二中全会で毛沢東が林彪に批判的な態度を示した瞬間から、林彪と一定の距離を保ち、林彪墜落死事件にはかかわらないようにうまく立ち回ったものと思われる。

 林彪墜落死事件により、文化大革命はひとつの大きな区切りを迎えた。これ以降、軍の内部では「二月逆流」で批判されていた老幹部が復権することになる。一方、江青、張春橋、姚文元、汪洪文の後に「四人組」と呼ばれるグループは林彪事件に巻き込まれることを回避することに成功し、この後も党内での勢力を保ち続けることになる。しかしながら、この林彪事件の処理と、ほぼ同時期に行われていたニクソン政権との米中接近交渉の中で、周恩来総理は改めてその存在感の大きさを示し、党内でさらに尊敬の念を持って見られるようになった。このため、林彪墜落死事件の後は、周恩来総理と「四人組グループ」との対立関係が勢力争いの軸となっていく。

以上

次回「3-4-1:ニクソン訪中」
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へ続く。

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2010年3月10日 (水)

3-3-10(2/3):謎の林彪墜落死事件(2/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第10節:謎の林彪墜落死事件(2/3)

 以下、「参考資料14:文化大革命十年史」を中心的な参考資料としながら、林彪墜落死事件に至るまでの経緯について詳しく述べていくこととする。

 林彪は、1969年4月に党規約に「林彪同志は毛沢東同志の後継者」と書かせることに成功した後も、自分の地位の向上のために様々な動きをした。1969年11月に国家主席だった劉少奇が失意のうちに死去した(「第7節:国家主席・劉少奇の失脚と死」参照)。このことは対外的には公表されなかったが、党の幹部の多くはこれを知っていた。林彪は、この状況を利用して毛沢東を国家主席に復活させようと考えた(毛沢東は大躍進の失敗が明らかになりつつあった1959年4月に国家主席を辞任している。以後も「毛主席」と呼ばれたのは党の主席であるためである)。林彪は、毛沢東が自分より14歳高齢であることから、毛沢東が国家主席になりさえすれば、時期が来れば、後継者である自分に国家主席のイスが回ってくると考えたものと思われる。

 国家主席のポストをどうするかについては、1970年3月に開かれた中央工作会議で議論された。毛沢東は国家主席のポストを廃止することを提案した。しかし、林彪は4月11日、毛沢東が国家主席の座に就くべきことを提案した。毛沢東は、その翌日書面で「私は二度とこの地位に就くことはできない。この提案は不適切である。」と林彪の提案を明確に拒否した。4月下旬に開かれた中央工作会議では、毛沢東は、三国志時代に、呉の孫権が後漢最後の皇帝・献帝を擁して自らは承相として権力を奮っていた曹操に対して皇帝になるよう勧めた時、曹操が「孫権は自分を炉の火であぶり殺すつもりだ」と語ったという故事を引用して、「自分(毛沢東)を曹操にしないで欲しい。君たちも孫権になるな。」と話したという(「参考資料14:文化大革命十年史」)。

 1970年8月23日から中国共産党第9期中央委員会第二回全体会議(第9期二中全会)が江西省の廬山で開催された。国家主席問題は4月の中央工作会議で「廃止する」という方針が決まっていたにもかかわらず、林彪とその一派の陳伯達、呉法憲、葉群(林彪の妻)、李作鵬、邱会作は、各分科会の中で、毛沢東を天才と讃え、天才なのであるから毛沢東は国家主席に就任すべきである、との主張を行った。林彪一派の黄永勝も同様の主張をする発言の準備をしていた。この時、上海の文革派のリーダーで後に「四人組」の一人となる汪洪文は、林彪と同調して、毛沢東を天才と讃える演説の準備をさせていたという(参考資料14:文化大革命十年史」)。

(注)廬山は江西省九江市にある名山である。山の中で涼しいため、夏の時期に重要な会議がここで開かれることが多かった。1959年7月~8月に開催され国防部長の彭徳懐が批判された中国共産党政治局拡大会議もここで開かれた。普通、「廬山会議」という時には、この1959年の会議を指すことが多いが、上記の1970年8月の第9期二中全会のように、ほかにも廬山で開かれた重要な会議は多いので「廬山会議」という言葉には注意を要する。なお、廬山は、風光明媚な自然公園としても有名で、現在、ユネスコの世界遺産(文化遺産)として登録されている。

 この動きを見て、毛沢東は、林彪一派が自分(毛沢東)を国家主席に祭り上げ、政治の実権を自分たちの手で握ろうとしていると判断した(前回(参考URL2)に掲げた1973年8月の中国共産党第10回全国代表大会における周恩来による報告では、この時の林彪グループの動きのことを「反革命政変未遂」と表現している)。8月25日、毛沢東は2日前に林彪が行った毛沢東の礼賛と国家主席就任提案に関する演説についての議論を停止し、各分科会で林彪一派が行った「毛沢東礼賛と国家主席就任提案」に関する会議録の回収を命じた。そして批判のターゲットを陳伯達に定め、陳伯達に対して自己批判を命じた(この時点では、まだ林彪を名指しで批判するには至っていない)。林彪一派の黄永勝は、この毛沢東の命令により、「天才論」の演説を行うチャンスを失った。一方、この時点で、上海グループの汪洪文は、林彪に利あらず、と判断して、用意していた「天才論」に関する発言原稿を破棄し、逆に「天才論」と陳伯達を批判する演説に差し替えた。

 さらに8月31日、毛沢東は「私の若干の意見」という文章を作成した。この文章では「歴史は英雄が創造するのか。人類の知識は先天的に備わっているのか。」と述べて、林彪一派が主張した「天才論」を批判した。

 それより前、林彪は自分の一派である呉法憲と図って、党内に自分たちの一派だけで連絡を取り合うための「調研小組」を設立していた。その組長には、林彪の息子の林立果が就いていた。林彪は、1970年8月の第9期二中全会で、平和裡に毛沢東を国家主席に祭り上げ自らが権力を握ることに失敗したことから、呉法憲に「『文』でだめなら『武』でいく」と語っていたという。1970年10月、林立果は、日本映画「連合艦隊司令長官山本五十六」と「あゝ海軍」を見て、自分も「江田島精神(=旧日本海軍の江田島海軍学校の精神)」で行かねばならない、と考えて、自分の組織「調研小組」の暗号名を「連合艦隊」とすることに決めたという(このあたりの話は、「参考資料14:文化大革命十年史」に書かれている話であるが、「お話」としてはでき過ぎており、どこまで本当なのかはわからない)。

 毛沢東は、1970年12月18日、アメリカのジャーナリストのエドガー・スノー氏と会談した(「第9節:ニクソンによる米中接近への動き」参照)。この会談で毛沢東はスノー氏に「一部のものの個人崇拝はニセモノで『四つの偉大』は煩わしい」と述べている。「四つの偉大」とは、「偉大な指導者、偉大なリーダー、偉大な総帥、偉大な舵手」という毛沢東を語る時に付ける決まり文句で、個人崇拝の推進者である林彪がよく使っていた。エドガー・スノー氏はこの話をすぐに公にした。この毛沢東の発言は、名指しは避けていたものの、明らかに林彪を批判するものだった。

(参考URL)「人民日報」日本語版2001年8月7日17:05アップ記事
「偉大な指導者、偉大なリーダー、偉大な総帥、偉大な舵手、毛沢東主席万歳~党創立から80年間のスローガン80(48)」
http://j.peopledaily.com.cn/2001/08/07/jp20010807_8168.html
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 党中央は1970年12月22日から1971年1月下旬まで華北会議を開催し、陳伯達批判を行った。その後、「批陳整頓」(陳伯達を批判し思想を整頓する)「批修整風」(修正主義を批判し風潮を整える)の運動を展開することとなった。

 これらの動きを見て危機感を募らせた林彪は、息子の林立果に指示して毛沢東を暗殺する計画「『五七一工程』紀要」を作成させた(一説では、まず林立果が「『五七一行程』」紀要」を作成し、後に林彪がこれを承認した)。この「『五七一行程』紀要」が書かれたメモは、1980年代に行われた「四人組裁判」の中で「証拠」として提出され、各種資料で見ることができる(「参考資料14:文化大革命十年史」、「映像・音声資料7:DVD『歴史をして未来を語らしめる(四)文革十年』」など)。「『五七一行程』紀要」の中では、毛沢東は「B-52」という暗号名で書かれていた。B-52は、アメリカ空軍の大型戦略爆撃機で、当時、ベトナム戦争で「北爆」に盛んに使われ、沖縄にも多数配備されていた。このことは、林彪一派が、アメリカとの接近を試みていた毛沢東と周恩来の路線に反発していたことを伺わせるものである。

 ただし、計画名を「武起義」と同じ発音の「五七一」と呼び、毛沢東をB-52と呼ぶなど、極秘のクーデター計画にしては暗号名の付け方がやや拙劣な感もあり、「『五七一行程』紀要」は本当に林彪一派が作成したのか、作成したのだとしてもどこまで本気だったのか、は、第三者(中国政府当局以外の者)による検証がなされていない以上、現時点では確認のしようがない。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の中で著者の天児慧氏は、林彪墜落死事件は、毛沢東が林彪を排除しようとした結果であり、「『五七一行程』紀要」は毛沢東を悪者にしないために作られたストーリーである可能性も排除はしきれない、という点を指摘している。

以上

次回「3-3-10(3/3):謎の林彪墜落死事件(3/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-28dc.html
へ続く。

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2010年3月 9日 (火)

3-3-10(1/3):謎の林彪墜落死事件(1/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第10節:謎の林彪墜落死事件(1/3)

 1969年4月の中国共産党第9回全国代表大会で決められた党の規約で「林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり後継者である」とまで規定された林彪(日本語読みでは「りんぴょう」)が、1971年9月に突如飛行機で海外逃亡を計りモンゴル領内で墜落死した事件については、謎が多い。ただ、下記の点については、中国当局者以外の第三者による確認がなされており、確実な事実と判断できる。

○1971年9月13日にトライデント型旅客機が中国からモンゴル領内へ侵入し、モンゴルのウンデルハンで墜落した(この事件の調査はモンゴル政府により行われた)。墜落した飛行機の残骸からは9人の遺体(8人の男性と1人の女性)が発見され、そのうちの1人が林彪であると確認された(「ネットワーク上にある参考資料5」(下記URL1)にある公明党竹入義勝委員長と周恩来総理との会談における周恩来の発言によると、林彪は抗日戦争中に負傷した際に、ソ連に行って治療を受けていたことがあり、ソ連側にその治療の記録が残っていたために、ソ連により行われた調査により、1人の遺体が林彪本人のものであることが確認できたという)。

(参考URL1)
東京大学東洋文化研究所・田中明彦研究室がアップしたデータベース「世界と日本」
「日中関係資料集」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/index.html
の中にある「竹入義勝・周恩来会談における林彪問題についての周恩来発言」(1972年7月29日)

○1972年2月に北京を訪れたアメリカのニクソン大統領と会談した毛沢東が「私の国にも、私たちがあなた方とコンタクトをとるのに反対している反動的なグループがあります。その結果彼らは飛行機に乗って外国に逃亡しました。」と述べている(「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」で引用している「ニクソン訪中機密会談録」(名古屋大学出版会、毛利和子・毛利興三郎訳、2001年))

 それ以外の林彪がモンゴルで墜落死するまでの経緯を証明できるものは、1973年以降に行われた中国政府による発表や1980年代に行われた「四人組裁判」の過程で明らかにされた「証拠」など、中国当局側発表のものだけである。現在でも、外国の研究者が林彪事件の真相を探るために中国側の原資料にアクセスすることは困難であり、現時点で、この事件について、真に客観的な立場からの事実確認ができているかどうかは疑問である。そういった前提の上に立って、以下、主に中国側が発表した報告や各種の「証拠」に従って、林彪墜落死事件に至る経緯をまとめてみたい。

 中国側が初めて林彪事件の詳細について公式の場でまとめて報告を行ったのは、事件発生から2年近く経過した1973年8月に行われた中国共産党第10回全国代表大会の席上、周恩来総理が8月24日に行った政治報告の中においてであった。

(参考URL2)「新華社」ホームページ
「資料」-「中国共産党」-「中国共産党第10回全国代表大会」-「周恩来報告」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_696751.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この報告の中で周恩来は次のように述べている。

「皆さん御承知の通り、中国共産党第9回全国大会大会(注:1969年4月に開催)における政治報告は毛沢東主席自らが起草したものだった。この第9回全国代表大会より前、林彪は陳伯達と一緒になって別の政治報告を起草していた。彼らは、プロレタリア階級独裁の下での革命の継続に反対し、第9回全国代表大会以降の主要な任務は生産を発展させることだと考えていた。劉少奇と陳伯達は、かつて第8回全国代表大会の決議の中にあった『国内の主要な矛盾はプロレタリア階級とブルジョア階級との主要矛盾ではなくなり、国内の主要な矛盾は先進的な社会主義制度と社会生産力の間の矛盾である』という修正主義の誤った議論を新しい情勢の下で改めて持ち出したのである(注:第8回全国大会は、1956年9月に開催され、建国以来の社会主義化が一段落し、これからは生産力の拡大が重要な課題だ、との認識が示された大会)。

 林彪と陳伯達による政治報告の案は、当然のごとく党中央を否定するものであった。毛沢東主席が起草した政治報告に関して言えば、林彪は陰では陳伯達の方を支持していたが、公の場では陳伯達の方に反対していた。この挫折の後、林彪は無理をして中央の政治路線を受け入れ、第9回全国代表大会の席で中央政治報告を読み上げた。しかし、第9回全国代表大会の期間中及び大会終了後、林彪は毛沢東主席や党による彼に対する教育、制止、救済の手を省みず、陰謀と破壊を継続させ、ついに1970年8月に開かれた第9期中国共産党中央委員会第2回全体会議(第9期二中全会)において反革命政変未遂を起こした(注:ここで言う「反革命政変未遂」とは何を意味するのかについては後述する)。

 1971年3月には反革命武装クーデター計画である「571計画」(注:中国語の「五七一」は武装蜂起を意味する「武起義」と発音が同じ)を策定した。9月8日には、反革命武装クーデターを起こし、偉大な指導者である毛沢東主席の暗殺の陰謀を計画し、党中央に反旗を翻した。陰謀が失敗した後、9月13日、個人的に飛行機に乗ってソ連修正主義者に投降しようと企て、党と国とを裏切り、モンゴルのウンデルハンにおいて墜落死した。」

 林彪事件に対する中国政府の見解は、起きた事実の経緯については、基本的に今でもこの1973年8月の周恩来報告に沿ったものである。ただし、第9回全国大会の際、林彪と陳伯達が「プロレタリア階級独裁の下での革命の継続に反対し、第9回全国代表大会以降の主要な任務は生産を発展させることだと考えて」おり、毛沢東が起草した政治報告とは別の政治報告を起草していた、という部分は、事実であるとは考えにくい。この部分は、1973年当時、林彪と陳伯達が当時の党中央の進めていた「プロレタリア文化大革命」に反対していた、だから党と国を裏切った、という論理を作るための「こじつけ」であると思われる。「革命の継続ではなく生産の発展が重要だ」という考え方は劉少奇やトウ小平ら「実権派」の考え方であり、林彪が自ら追い落としを計った劉少奇らと同じ政治路線を追求していた、と考えるのはあまりに不自然だからである。

 ただし、第9回全国代表大会(1969年4月)以降、林彪と毛沢東との間が急速に疎遠になっていったことは事実かもしれない。ここの部分は「歴史の闇の中」であるが、むしろ毛沢東の方が調子に乗って増長する林彪に対する警戒感を強めていった、と考える方が自然であると思われる。また、この時期は、アメリカがワルシャワの大使館を通じて米中接近の可能性を打診してきた時期と重なるが、林彪がアメリカとの接近の可能性を探ろうとしていた毛沢東・周恩来に反対したため毛沢東が林彪を遠ざけようとし始めた、と考えることも可能である。ただ、それは単なる推測であって、米中関係が林彪と毛沢東との関係にどのような影響を与えたのかは、よくはわからない。

 林彪は1907年生まれで毛沢東より14歳若い。1966年8月の第8期中国共産党中央委員会第12回全体会議で決められた政治局常務委員の序列で、劉少奇が第8位に、トウ小平が第6位に降格されたとき、林彪は毛沢東に次ぐ第2位に抜擢されたが、この時点では、毛沢東は林彪を自分の次の世代の有力な後継候補者の一人であるとみなしていたことは間違いない。

 1966年に始まった文化大革命の中で、林彪はそれまで軍隊内の教育用に使われていた「毛沢東語録」を一般大衆が学習するための教本として提唱するなど、毛沢東の地位を向上させるよう様々な工作を行ってきた。一方で、文化大革命の中の「闘争」において、自分に反対する勢力を次々に蹴落としていった。「二月逆流」で軍隊内部の長老と呼ばれる「目の上のたんこぶ」的存在の有力者を批判していったこと、軍隊内部でも「修正主義路線を歩む軍内のひとにぎりのものを排除する」という名目で自分に反対する勢力を次々に追い落としていったことは、第5節~第7節において詳しく述べた。

 こういった自分に反対する勢力を追い落とす動きは、林彪と江青らのいわゆる「文革派グループ」が一致して行ってきたことである。その結果、劉少奇、トウ小平らを失脚させることを決定した1968年10月に開かれた第8期中国共産党中央委員会第12回拡大全体会議では、本来出席すべきメンバーの多くが失脚させられていたため、会議当初は出席人数が足りず、定足数に満たなかった。

 「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、第8期の中央委員のうちこの会議に出席できたのは全体の41%に当たる40名、同中央委員候補では全体の19%に当たる19名のみであった。このため会議の初日に中央委員の補充を選任して、ようやく定足数に足る過半数の人数(59名)の出席が可能となった。この会議には、中央文革小組、林彪系が多い中央軍事委員会弁事室、各地方の革命委員会や軍区の責任者など中央委員ではない者74名も出席した。この会議が「第12回『拡大』全体会議」と呼ばれるゆえんであるが、こういった異常な出席者構成によって、国家主席である劉少奇を永久追放するという重大な決定をしたのはまさに「異常な事態」であった。

 「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、翌年1969年4月に党規約で林彪を「毛沢東の親密な戦友であり後継者」と定めた時の党の第9回全国代表大会で選出された第9期の中央委員170名、中央委員候補109名のうち第8期から引き続いて選ばれた者は合計で53名(全体の19%)に過ぎないとのことである。文化大革命による「闘争」の過程において、林彪と江青グループは自分たちに反対する者を党内の有力なポストから次々に排除していったことがわかる数字である。

 林彪はそれに加えて、自分の家族の地位向上も図った。林彪の妻・葉群も軍の中で要職を占めていたが、彼らの息子・林立果は、1967年、23歳で空軍に入った後、異例の出世を続けていた。空軍内の幹部が林彪と葉群に気を使った結果である。娘の林立衡も軍に入って異例の昇進を続けていた。

 歴代の中国共産党中央の有力幹部で、他国の権力者と比して誇れることのひとつは、権力を握っても、それによって自分の親族の地位向上を図ろうなどとはしなかったことである。毛沢東の孫の毛新宇氏は、現在、全国政治協商会議委員で時々マスコミにも登場するが、ほとんど名誉職的な役職であり、政治的に重要な役割は全く担っていない。トウ小平の次男のトウ樸方氏は、1988年~2008年11月まで中国残疾人(障がい者)連合会主席を勤めた(現在は名誉主席)が、この団体は社会福祉のための団体であり、トウ樸方氏が就いていたのは政治的に意味を持つ役職とは言えない。最近、中国でも、過去の幹部の子女が政治的に有力な地位に就き、時として「太子党」などと言われるが、日本やアメリカでも二世・三世の政治家が活躍するケースが多くなっていることを考えると、それと同じ程度のことであると言える。

 権力が集中しやすい共産主義体制において、権力によって自分の親族の出世を図ることは、人民の反発を招くことから、「絶対にやってはいけないタブー」なのである。ソ連でも、権力が世襲された例はない。共産主義体制で権力が世襲された唯一の例外が北朝鮮である。林彪は、この共産主義体制におけるタブーを冒そうとしていた。林彪が軍の中で自分の息の掛かった人物を登用するとともに、息子や娘の昇進を図ったことは、おそらく毛沢東を幻滅させたのではないかと思われる(毛沢東の指導者としての偉大なところのひとつに「人を見る目があった」ことが挙げられる。自分とは異なる政治路線を取るトウ小平を「あいつはいつか役に立つ男だ」として、党から追放しなかったことがそのよい例である)。

 増長した林彪は、毛沢東から疑いと警戒の念を持たれるようになり、ついには自滅の道を歩んでいくことになる。

以上

次回「3-3-10(2/3):謎の林彪墜落死事件(2/3)」
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へ続く。

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2010年3月 8日 (月)

3-3-9(2/2):【コラム:その後のベトナム】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第9節:ニクソンによる米中接近への動き(2/2)

【コラム:その後のベトナム】

 これまで述べたようにパリ協定に基づきアメリカ軍は1973年3月29日までにベトナムから撤退した。アメリカは南ベトナム政府に対して、少数の軍事顧問の派遣と物資の面での支援を続けたが、ニクソン大統領が1974年8月にウォーターゲート事件で辞任したこと、外交政策上はソ連との共存路線(いわゆる「デ・タント」路線)を歩んだことにより、アメリカがベトナムに再介入する可能性はなくなった。一方、パリ協定で定められた新しいベトナムの政治形態を決定するための統一選挙は行われないままであった。アメリカ軍の支援を失った南ベトナム政府は、実態的に弱体化し、南ベトナム臨時革命政府(かつての解放戦線)と北ベトナムの勢力が次第に強くなっていった。

 こうして、1975年3月、北ベトナムと南ベトナム臨時革命政府は南ベトナム政府に対して軍事的攻勢に出た。アメリカ軍の支援のない南ベトナム政府軍は総崩れとなり、解放勢力側は一気に南下し、4月30日、解放勢力がサイゴンに突入して、南ベトナム政府は崩壊した(そして、南ベトナムの首都のサイゴン市はホー・チ・ミン市と改名された)。この過程で、南ベトナムに残っていたアメリカ人、アメリカに協力的だった南ベトナム人を国外へ脱出させるため、アメリカは航空機やヘリコプターでの脱出作戦を行った。南ベトナムの空港で、離陸しようとして滑走を始めたアメリカの航空機に必死でしがみつこうとする南ベトナム人、それをパンチで追い払おうとするアメリカ人、ベトナム近海のアメリカ軍の空母上で着艦場所を確保するため今乗って来たヘリコプターを人力で押して海中に投棄するアメリカ人たちなどの生々しい姿が連日テレビで報道された。

 個人的な話で恐縮であるが、1974年の年末、当時高校二年生だった私は高校の世界史の教師から「世界史上の事件をひとつ選び、それについてレポートを書け」という冬休みの宿題をもらった。私がテーマとして選んだのは、約2年前に和平協定が結ばれた「ベトナム戦争史」だった。サイゴン陥落は、そのレポートを書き終わった直後の出来事だったため、まさに「動く現代史」として、毎日報道されるテレビのニュースを食い入るように見ていた記憶がある。

 なお、まさにベトナムにおいて解放勢力側がサイゴン陥落へ向けて最後の進撃を進めている真っ最中の1975年4月5日、台湾では蒋介石が死去した。また、サイゴンが陥落した1975年4月30日は、アドルフ・ヒトラーがベルリンの総統府の地下で自殺してからちょうど30年目の日だった。高校三年生になったばかりの私は、まさに「時代の節目」を肌で感じていたのであった。

 中国において、激動の1976年(周恩来の死去、第一次天安門事件、毛沢東の死去、「四人組の逮捕」(=文化大革命の終焉))を迎えることになるのは、この翌年のことである。

以上

次回「3-3-10(1/3):謎の林彪墜落死事件(1/3)」
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3-3-9(2/2):ニクソンによる米中接近への動き(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第9節:ニクソンによる米中接近への動き(2/2)

 ニクソン氏は、公約通りベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を実現するためには、北ベトナムの後ろ盾となっているソ連と中国が対立関係にあることを最大限に利用すべきであると考えていた。このため、ニクソン氏は大統領就任直後から特別補佐官に指名したキッシンジャー氏に指示して中国との接近を探らせた(「映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー『証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~』」でキッシンジャー氏はそのように証言している)。

 ニクソン大統領は、まず、アメリカと中華人民共和国とがともに外交関係を持っているポーランドの首都ワルシャワにあるアメリカ大使館の館員を、在ワルシャワ中国大使館大使館員に接触させ、アメリカ側から中国と関係を改善する用意があることを伝えさせた。ニクソン氏が大統領になった1969年は、3月にウスリー江の中ソ国境で大規模な軍事衝突が起きるなど、中ソ関係が緊迫していた時期だった。中国は、国内的には文化大革命の混乱が収まっておらず、前年1968年8月にソ連がチェコスロバキアに対して見せた軍事介入を見て、ソ連に対する恐怖感は強かった。極東に配備されたソ連軍が中国東北部の平原地帯を侵攻して北京に攻め入ることは簡単だと考えられていたからである。実際、1945年8月、ソ連が日本に対して宣戦布告し、あっという間に中国東北部(旧満州)を制圧した事実は、中国自身がよく知っていた。

 このため、毛沢東と周恩来はワルシャワにおけるアメリカからの接近の呼び掛けに積極的に反応した。この時点で、軍の責任者である国防部長の林彪がアメリカとの接近についてどういった考え方を持っていたのかについてはよくわからない。「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」(参考資料8)で著者の天児慧氏は、1970年1月頃の時点でも、林彪はアメリカと接近する方針に反対だった、との見解を示している。もっとも、毛沢東と周恩来にしても、アメリカが台湾をどう扱うか、がアメリカとの関係改善の最大のネックであると考えていた。当時、アメリカは台湾にある蒋介石の政権を「中華民国」として承認し、外交関係を結んでおり、その上、アメリカ軍が台湾に駐留していた。中国側としては、アメリカがこういった現状を変えない限り、アメリカとの関係改善は無理だと考えていたのである。

 中国側もアメリカとの関係改善への動きに前向きであると見て取ったニクソン大統領は、さらにベトナム戦争を早期に終わらせようとする動きに出る。当時、南ベトナム領内にいる解放戦線に対する北ベトナムからの支援は、南ベトナム領内のルートがアメリカ軍による激しい爆撃にさらされていたため、カンボジア領内のジャングルの中の迂回路を通るルートによって行われていた。これを阻止するため、1970年5月、アメリカ軍は中立国であるカンボジア領内に軍隊を進めた。これにより、戦火がベトナム以外の国に広がったことから、ベトナム戦争はインドシナ戦争と呼ばれるようになった。

 当時のカンボジアは王国で、シハヌーク殿下(既に国王は退位し国家元首に就任していた)が政府の実権を握っていた。アメリカは、カンボジア領内への侵攻に先立って、シハヌーク殿下が病気療養のため外国にいる機会を利用して、1970年3月、親米的なロン・ノル将軍を支援して軍事クーデターを起こさせていた。

 これらのアメリカの行為は、シハヌーク殿下と友好関係を持っていた中国政府を激怒させ、ワルシャワでの米中接触は破綻した(アメリカは、カンボジアの後ろ盾となっていた中国政府のメンツをつぶしたからである。中国との外交交渉においては、「中国のメンツをつぶさないようにする」ことが、極めて重要なキーワードである)。

 しかし、ベトナム戦争を有利に終結させるためには中国と接近することが有利であると考えるアメリカの考え方と、中ソ対立の中でソ連に対する牽制としてアメリカと接近することが有利であるという中国の考え方に、基本的に変化はなかった。

 ワルシャワ大使館での交渉が破綻した中で、ニクソン大統領は次の手を考えた。1970年10月にアメリカを訪問したパキスタンのカーン大統領に対し、通常の会談が終わった後、ニクソン大統領は通訳を交えただけの二人だけの会談を要請した。この席で、ニクソン大統領は、中国に対して米中関係を改善したいと考えるアメリカ側の意向を中国に伝えて欲しい、と極秘裏にカーン大統領に要請した。このニクソン大統領の要請は、アメリカの国務省(国務長官も含む)にも知らされないまま極秘のうちに行われた。

 翌月(1970年11月)に中国を訪問したしたカーン大統領は、通常の会談の後、周恩来総理と二人だけの会談の場を持ち、ニクソン大統領のメッセージを周恩来総理に伝えた。これに対する中国側の返事は、アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノー氏との会見において、毛沢東主席が「旅行者としてでも、大統領としてでもニクソン氏と会う意向である」と伝えたことによってアメリカにもたらされた。

 1971年3月28日から、日本の名古屋で世界卓球選手権大会が開かれた。卓球は当時から中国の得意種目で、中国からも代表団が参加した。アメリカ選手団も参加していた。この世界卓球選手権大会の期間中、中国側は突然アメリカ選手団を中国へ招待したいと申し入れ、アメリカ代表団もこれを了承した。この時、名古屋に行った中国代表団に加わっていた中国の卓球選手の証言によれば、この代表団は名古屋へ入る前に周恩来総理と会談し、「友好第一、勝負第二の精神で行ってきて欲しい」と言われた、とのことである。この会談において、周恩来総理は「友好第一とは、政治第一という意味だ」と念を押したという(「映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー『証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~』」)。

 4月10日に北京入りしたアメリカ卓球選手団は、中国側からの大歓迎を受け、周恩来総理との会見なども行われた。しかし、この当時でも、中国国内では「アメリカ帝国主義打倒!」のキャンペーンが行われており、このアメリカ卓球選手団の中国訪問は、あくまで「友好第一、勝負第二」のスポーツのレベルの民間交流だと思われていた。しかし、実態は、上記に述べた中国選手団に語った周恩来の言葉でわかるように、スポーツ交流を利用した明確な外交的メッセージだった。こういった外交的手法は「ピンポン外交」という名で歴史にその足跡を残すこととなった。

 この後、4月下旬、中国側はパキスタンにある中国大使館を通じてアメリカ側に「大統領特使を受け入れる用意がある」との意向を伝えてきた。これを受けて、キッシンジャー特別補佐官は、パキスタン大統領府の協力の下、北京訪問を極秘裏に進めた。7月上旬、キッシンジャー特別補佐官は、東南アジア歴訪の旅に出た。最後の訪問国はパキスタンであった。当時、訪問先の国々とは特段の案件はなく、このキッシンジャー補佐官の訪問に対しては、報道関係者はほとんど関心を示さなかった。

 キッシンジャー補佐官はパキスタンでカーン大統領と会談した後、「体調を崩したためしばらくカーン大統領の別荘で休養する」との発表が行われた。実際、1台の車がカーン大統領の別荘へ走ったが、この車に乗っていたのは「影武者」で、キッシンジャー補佐官はこの車には乗っていなかった。キッシンジャー補佐官は、隠密裏にパキスタン空軍基地へ向かい、パキスタン空軍機により北京へ向けて飛び立った。キッシンジャー補佐官は、7月9日、北京に入り、周恩来総理と会談し、次の3つの意向を中国側に伝えた。

(1)アメリカは台湾の独立を支持しない。

(2) ニクソンの第二期政権(1972年の選挙で勝てば1973年1月から始まる)で、アメリカは中華人民共和国を承認するだろう。

(3) 中国の国連加盟に対しても前向きに考える。

 このうち(1)の考え方は、従来のアメリカの主張から一歩踏み込むものであった(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。このアメリカ側の考え方の提示を受けて、米中双方はニクソン大統領の訪中実現について合意した。

 キッシンジャー補佐官が東南アジア歴訪から帰国した後の7月15日、米中両国政府は「来年5月までの間にニクソン大統領が中国を訪問することで合意した」と発表した。当時の中国は文化大革命において「打倒!アメリカ帝国主義!」をスローガンとしており、一方のニクソン氏は筋金入りの反共主義者だと思われていため、この発表を聞いて世界中の多くの人は耳を疑った。いわゆる「ニクソン・ショック」である。このキッシンジャーの隠密裏の北京訪問は、アメリカ国内の国務省に対しても極秘とされ、完全なホワイト・ハウス主導の下に行われた。国務省内には、従来までの蒋介石の国民政府との関係を考えれば、蒋介石政権を「切る」ことはできない、との考え方が支配的だったからである。ニクソン氏は、国務省の官僚主義的な抵抗を想定して「国務省はずし」によって米中接近を図ったのである。

 なお、この時のキッシンジャー補佐官の隠密裏の北京訪問に関しては、キッシンジャー氏の北京空港への到着、周恩来総理との会談の様子、会談終了後のキッシンジャー氏の故宮参観などの様子が中国側によって映像として記録されており、いくつかのドキュメンタリー番組の中で見ることができる(「映像・音声資料4:CNN Cold War 第15集 "China"」「映像・音声資料7:DVD『歴史をして未来を語らしめる(四)』『文革十年』」「映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー『証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~』」)。

 「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」が引用している「米中奔流」(ジェームズ・マン著、鈴木主税訳、共同通信社、1999年)によれば、キッシンジャー補佐官の隠密裏の北京訪問の数日後、周恩来総理がハノイに飛んで北ベトナム政府に事情を説明しているとのことである。また、ニクソン大統領訪中の事前準備のためにこの年(1971年)12月に再び訪中したキッシンジャー補佐官と周恩来総理との間で、アメリカが偵察衛星によって把握した中ソ国境地帯におけるソ連軍の動きに関する情報を中国側に提供するなどの、極秘情報交換の合意がなされていたとのことである。

 こうした中、国連では、中華人民共和国の国連への復帰問題が議論されていた。安全保障理事会で議論すると、当時の常任理事国であった台湾当局(「中華民国」)が拒否権を発動するため、中国は、国連総会での決議によって復帰を果たそうと考えていた。アジア・アフリカ諸国の賛成を得て、中国の国連復帰は国連総会で過半数の賛成を得られる勢いであった。1970年にはアルバニアが提案した中華人民共和国を国連に招請し「中華民国」を追放するという決議案(アルバニア決議案)に対し、賛成票が反対票を上回った(棄権票もあり過半数の賛成を得られなかったため、この時は成立はしなかった)。

 1971年9月から始まった国連総会において、アルバニアは再び同様の決議案を提案した。ニクソン大統領が米中接近を試みていたものの、アメリカは、アルバニア決議案の成立を阻止するため、アルバニア決議案は国連にとって重要な案件であることから、成立のためには総会の3分の2の賛成を必要とする「重要事項」に指定するよう提案しようと考えた。しかし、アルバニア決議案を重要事項に指定する決議案では国連加盟国の過半数の賛成を得られる見通しが立たない、と判断したアメリカは、国連において中華人民共和国政府と蒋介石の政権が二重に代表権を持てることとする(安全保障理事会の席は中華人民共和国に与える)ことを内容とする二重代表権決議案、「中華民国」(蒋介石政権)を追放する場合にはその決定を「重要事項」(3分の2の賛成を必要とする)に指定する決議案(逆重要事項指定決議案)の二つをパッケージで国連総会で議論するよう提案した(日本もこれらの決議案の共同提案国となった)。

 10月25日、まず決議案を審議する順序について議論がなされ、逆重要事項指定決議案、アルバニア決議案、二重代表権決議案の順で採決が行われることになった。逆重要事項決議案は賛成55、反対59、棄権15、欠席2で否決された。この結果を受けて、多くの国々が中華人民共和国招請の流れができたと判断し、続いて行われたアルバニア決議案の採決では、賛成76、反対35、棄権17、欠席3という結果となり、アルバニア決議案は賛成過半数で採択された。この結果、二重代表決議案は審議されないこととなった。「中華民国」代表団は、アルバニア決議案の採決の前に総会を退場した。こうして中華人民共和国の国連への参加が決まった。

(参考URL)日本の外務省の「外交青書」(昭和47年(1972年)版)
「第4章 国際連合における活動とその他の国際協力」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-2-4-1.htm

 年が明けて、1972年2月21日、キッシンジャー特別補佐官の「忍者外交」によって築かれたレールに乗って、ニクソン大統領が中国を訪問し、2月27日には米中共同声明が発表された。そして、同年9月25日、日本の田中角栄総理が中国を訪問し9月29日には日中共同共同声明が出されて、日中の国交が正常化した。こうして中華人民共和国は国際政治の舞台へ登場することになる。(ただし、アメリカと中国との外交関係の樹立は、台湾問題の処理についてのアメリカ議会内の反発等もあって、ニクソン大統領が望んだ通りには進まなかった。アメリカと中国との外交関係が樹立されるのは、次の次の政権であるカーター政権下の1979年1月1日である)。

 ニクソン訪中によって、ベトナム戦争に関しては、中国は表面上は北ベトナム支援の立場を変えなかったが、実質的にはほぼ中立の立場に立った。アメリカは段階的なベトナムからのアメリカ軍の撤退の進展と交渉上の譲歩、それに軍事的強硬策(北爆の再開など)を交えながら北ベトナム側と和平交渉を行い、1973年1月27日、パリにおいてアメリカ政府、北ベトナム政府、南ベトナム政府、南ベトナム共和国臨時革命政府(解放戦線が組織した政府)の四者間でベトナム和平協定(パリ協定)が調印された。この協定では60日以内に南ベトナムからの外国軍隊の撤退が規定されており、この規定に基づき、3月29日、アメリカ軍は南ベトナムから撤退した。こうしてニクソン大統領は「ベトナムからの名誉ある撤退」という大統領選挙期間中に掲げた公約を実現したのである。

 ニクソン氏は、1972年11月の大統領選挙の前にベトナム和平協定を結ぶことを希望していたようであるが、最終段階で南ベトナム政府側がアメリカ側が北ベトナム側と交渉していた協定案について「譲歩し過ぎだ」として反対し、大統領選挙前の和平協定締結は実現しなかった。しかし、電撃的な訪中の実現などに見られるリーダーシップの発揮とベトナムからの着実な撤退の進展、ベトナム和平交渉の進展をアメリカ国民は評価し、ニクソン氏はこの年の大統領選挙に勝利し、再選を果たした。

 大統領選挙の後、ニクソン大統領は北ベトナム側に最終的な譲歩を迫るため、1972年12月、大規模な北爆を再開した。これに抗議した人気デュオのサイモンとガーファンクルは、クリスマス・ソングとして「きよしこの夜」のバックに悲惨なベトナム戦争の状況を伝えるラジオ・ニュースを重ねた「きよしこの夜~7時のニュース~」を発表した。これはこの時代を経験した人には忘れられない一曲となった。

 なお、ニクソン訪中と日中国交正常化については、「第3章第4部第1節:ニクソン訪中と日中国交正常化」で改めて述べることとしたい。

以上

次回「3-3-9(2/2):【コラム:その後のベトナム】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-96af.html
へ続く。

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2010年3月 7日 (日)

3-3-9(1/2):【コラム:アメリカにとってのベトナム戦争】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第9節:ニクソンによる米中接近への動き(1/2)

【コラム:アメリカにとってのベトナム戦争】

 ベトナム戦争に参加した退役軍人有権者は、アメリカの選挙においては今でも重要な役割を果たしている。このためアメリカの政界においては、今でもベトナム戦争を否定するような発言を行う政治家は選挙では勝てない。2008年の大統領選挙で共和党の候補者だったジョン・マケイン上院議員は、自分自身がベトナム戦争で捕虜になった経験があり、ベトナム戦争における英雄とみなされており、退役軍人層からは強い支持を受けていた。

 かつて民主党のクリントン大統領(1993年1月~2001年1月)が大統領選挙を戦っていた時、共和党陣営からクリントン氏が学生時代にベトナム反戦運動に参加していたとの指摘を受けて苦境に立たされたことがあった。このことは、現在でもアメリカにおいてはベトナム戦争を否定することは政治的には一種の「タブー」であることを意味している。

 しかし、2008年11月の大統領選挙において、「ベトナム戦争の英雄」であるマケイン氏が民主党のオバマ候補(現大統領)に大敗を喫したことは、アメリカ政界においても、ベトナム戦争が徐々に「過去のもの」になりつつあることを象徴するできごとだったのかもしれない。

以上

次回「3-3-9(2/2):ニクソンによる米中接近への動き(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-c676.html
へ続く。

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3-3-9(1/2):ニクソンによる米中接近への動き(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第9節:ニクソンによる米中接近への動き(1/2)

 ベトナムは、かつて、朝鮮、琉球、日本などと並ぶ中国の歴代王朝と朝貢関係を結ぶ周辺の民族(中国側から見れば少数民族)が作った国家である。ベトナムは中国語では「越南」と書く。おそらくは「ヴィェトナム」という国名は中国語の「越南(Yuenan)」から派生したのではないかと思われる。「越南」とは、雲が掛かるような山々のある南の「雲南」を越えたさらに南の地域、という意味で、中国側から見た命名である。

 そのベトナムは第二次世界大戦の前まではフランスの植民地だった(ベトナムを巡って、当時の「宗主国」であった清とフランスとが争った清仏戦争(1884年~1885年)については「第1章第2節第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い」でごく簡単に触れた)。ベトナムは、第二次世界大戦において日本が占領し、フランス軍は撤退していたが、1945年8月の日本の敗戦により、フランスは再びベトナムに戻ってきて植民地支配を続けようとした。しかし、コミンテルン(ソ連共産党が主導して成立させた国際共産党)のメンバーだったホー・チ・ミンは、第二次世界大戦中に中国国内でベトナム独立同盟(ベトミン)を成立させるとともに、日本の敗戦直後の1945年9月2日にはハノイにおいてベトナム民主共和国の建国を宣言してフランスに抵抗した。フランスは、ベトナム南部に親仏的なバオ・ダイをヘッドとするベトナム共和国政府を成立させたが、第二次世界大戦により、フランス本国が相当な被害を受けていたこともあり、フランスはベトミン側を圧倒することはできなかった。逆に1954年に起きたディェン・ヴィエン・フーの戦いにおいて、フランスは大敗を喫し、ベトナムからの撤退を余儀なくされた。

 フランスのベトナムからの撤退に当たって締結されたジュネーブ協定においては、北緯17度線を境にして、ベトナム北部を拠点とするベトナム民主共和国(北ベトナム)とバオ・ダイをヘッドとするベトナム共和国(南ベトナム)が並立することが合意され、全ベトナムで統一選挙を行い、その結果に従ってベトナムの政治が行われることになっていた。しかし、バオ・ダイ政権は一種のフランスによる傀儡(かいらい)政権であり、選挙の結果、ベトミン側が勝利して、ベトナムが共産主義陣営に入る可能性はかなり高かった。それを恐れたアメリカは、当時南ベトナム政府で首相を務めていたゴ・ジン・ジェムを支援して、1955年にクーデターを起こさせた。

 ゴ・ジン・ジェム政権は、アメリカの支援の下、南ベトナムにおいて共産主義勢力を弾圧した。このため、南ベトナム国内において、1960年、北ベトナムの支援を受けて、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が組織された(「ベトコン」の名称は日本の報道でもよく使われたが、もともとは反解放戦線側が使っていた一種の蔑称なので使用する際には注意を要する)。ゴ・ジン・ジェムは親米的でありキリスト教徒であったが、腐敗する政権を批判する仏教徒を迫害したことから、ゴ・ジン・ジェム政権は共産主義勢力からだけではなく、仏教の僧侶や仏教を深く信仰する多くの南ベトナムの人々からの支持を失っていった。

 この頃から、欧米や日本ではテレビが普及し、多くの事件がテレビのニュース映像として記録されるようになっている。ゴ・ジン・ジェム政権に抗議して焼身自殺を図る僧侶の映像などを記録映像として御覧になった読者も多いと思う。ゴ・ジン・ジェムの実弟の妻はテレビのインタビューに答えて「仏教徒たちは何をしましたか? 何人かの僧侶をバーベキューにしただけじゃないですか。」と答えて、ベトナムの人々の激しい怒りを買った。

 アメリカは、政権が腐敗し、国民から全く支持を失ったゴ・ジン・ジェム政権を見限り、1963年11月1日に起こった軍事顧問のズオン・バン・ミンによるクーデターを黙認した。この軍事クーデターによりゴ・ジン・ジェム兄弟は暗殺された。その後も南ベトナムでは何回かクーデターが起きるが、南ベトナムの政権は実質的にアメリカの支援なしには立ち行かない状況になっていた。

 南ベトナムでのズオン・バン・ミンによる軍事クーデターの直後、アメリカでは1963年11月22日、民主党のケネディ大統領が暗殺されたことを受けて、憲法の規定に従ってジョンソン副大統領が大統領となった。ジョンソン氏は翌1964年に行われた大統領選挙でも勝利し、引き続き政権を担当することになった。

 ジョンソン大統領は、アメリカの圧倒的な軍事力で一気に解放勢力側を駆逐しようと考えた。当時、南ベトナム領域内で活動していた解放戦線は北ベトナムから全面的な支援を受けていたため、アメリカ側にとっては、北ベトナム側の支援拠点を叩くことが急務であった。1965年8月、北ベトナムのトンキン湾近くの公海上を航行していた(北ベトナムは領海を侵犯していたと主張した)アメリカ軍の駆逐艦が北ベトナム軍から攻撃を受け、アメリカ側はこれに応戦した。その後、アメリカ軍の艦艇は二度目の攻撃を受けたことから、ジョンソン大統領はアメリカ空軍による北ベトナム領内への報復爆撃を指示した(トンキン湾事件)。いわゆる「北爆」の開始である。また、この事件をきっかけにしてジョンソン大統領は議会関係者と協議し、議会は民主党と共和党の両方が賛成した「トンキン湾決議」によって大幅な権限を大統領に委ねた。これにより、大統領は議会に諮らずにベトナム戦争に関する決定を行える権限を得た。

 このトンキン湾事件については、北ベトナムは、事件発生当時から、アメリカ軍艦船が北ベトナムの領海を侵犯したために警告したものであり、また「二度目の攻撃」なるものはしていない、と主張していた。その後、1971年にニューヨーク・タイムズの記者が入手して報じたアメリカ政府のベトナム機密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)において、このトンキン湾事件はアメリカ側によって計画されていたものであったことが明らかにされた(現在では、一度目の攻撃はあったが二度目の攻撃はなかった、とされている)。CNNが1998年に制作したドキュメンタリー番組「Cold War」(映像・音声資料4)では、当時の国防長官マクナマラ氏はこの点については明言していないが、この番組内で、当時作戦に加わっていた空軍パイロットの一人は、二度目の攻撃があったとされる事件において、自分は敵の攻撃に反撃せよとの命令を受けたが、指示された場所に敵はいなかった、と証言している。

(注1)ベトナム機密文書事件では、これをスクープしたニューヨーク・タイムズの記者が国家機密漏洩罪で起訴された。この裁判は、連邦最高裁まで上がったが、最終的には連邦最高裁は記者側の主張を支持しアメリカ政府の訴えを却下する決定を行った。この裁判は、国家機密と報道、国民の知る権利を考える上で、重要な判例となった。

 その後、アメリカのジョンソン政権は、最大50万人にも上る陸上部隊のベトナムに派遣することになり、ベトナムでの戦争は泥沼化していった。このベトナム戦争に対し、中国とソ連はそれぞれ北ベトナム側を支援した。

 ソ連は、様々な軍事物資の輸送と軍事顧問団の北ベトナムへの派遣を行ったが、本格的なソ連軍の北ベトナムへの派遣はしなかった。これは朝鮮戦争の時におけるソ連の態度と基本的には同じものである。中国も北ベトナムに対する物資的な支援は行ったが、ベトナム戦争においては、朝鮮戦争において北朝鮮に対して100万人規模の人民義勇軍を派遣したのとは異なり、軍隊の派遣は行わなかった。これは、ベトナム戦争が本格化していた頃は、文化大革命が始まり掛けていた時期で中国国内の政治が必ずしも安定していなかったことと、歴史的経緯に基づく中国とベトナムとの微妙な関係(ベトナム側は歴史的に中国の影響の拡大を必ずしも快く思っていなかった)が背景にあったためと思われる。この中国とベトナムとの関係は、後の中越関係に微妙な陰を落とすことになる(「第3章第5部第3節:改革開放政策決定前後の中国の外交政策」で述べる予定)。

 1960年代後半、アメリカ国内においてはベトナム戦争をどう処理するかが大きな政治的課題になっていた。当時のアメリカの政治家は「発展途上国においては、ひとつの国が共産主義の勢力側の手に落ちると、ドミノ倒し(将棋倒し)のように次はその隣の国が共産主義化してしまう」といういわゆる「ドミノ理論」を主張していた。しかし、多くのアメリカ人にとっては、南ベトナムのような遠方の小さな国が共産主義の政権下に入ることがアメリカの安全保障上どの程度大きな意味を持つのかが理解できず、多くの若者は「何のために戦うのか」を納得できないままベトナムに派遣された。当時、アメリカは選抜徴兵制を取っており、クジ引きで当たった若者は自分の意志に係わらず徴兵に応じる義務があった。このため、多くの若者が街頭でデモ行進し、処罰を受けることを承知の上で徴兵カードを焼き捨て、ベトナム反戦の意志を表した。

 1968年の大統領選挙の最大の争点はベトナム戦争への対処であった。特に1968年2月の旧正月(ベトナム語で「テト」)に起こった解放戦線側の一斉攻撃(テト攻勢)で、アメリカ軍と南ベトナム軍は手痛い被害を受け、ベトナム戦争を早期に終結させることは非常に難しい、との認識をアメリカ国内に広げた。ベトナム戦争への介入に対する批判が高まる中、ジョンソン大統領は、介入を拡大させた自分が選挙で勝つことは難しいと判断し、1968年3月、自分は大統領の職務に専念することとし、11月の大統領選挙には出馬しないと宣言した。このため、この年の大統領選挙での民主党の候補者指名争いでは、ジョンソン政権の継続を主張するハンフリー副大統領とベトナムからの撤退を主張するロバート・ケネディ上院議員(1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の弟)との争いとなった。しかし、ロバート・ケネディ上院議員は大統領候補者指名争いの最中の1968年6月、何者かに暗殺された。

(注2)ロバート・ケネディ上院議員を暗殺した疑いで逮捕されたサーハン・サーハンという男は、何回目かの取り調べに向かう途中、報道陣の目の前で何者かに銃で撃たれて死亡した。このため、サーハン・サーハンはケネディ上院議員暗殺の真犯人ではないのではないか、との疑いが持たれた。しかし、兄のジョン・F・ケネディの暗殺と同様に、ロバート・ケネディ上院議員の暗殺についても、その真相は現在でも謎のままである。

 共和党側は、アイゼンハワー大統領の下で副大統領を勤めていたリチャード・ニクソン上院議員が候補者に指名された。ニクソン氏は選挙期間中ベトナム戦争については「名誉ある撤退」を一貫して主張していた。結局11月の大統領選挙では、ニクソン上院議員が民主党候補のハンフリー副大統領に僅差で勝利し、1969年1月に大統領に就任した。

以上

次回「3-3-9(1/2):【コラム:アメリカにとってのベトナム戦争】」
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へ続く。

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2010年3月 6日 (土)

3-3-8:中ソ軍事衝突

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第8節:中ソ軍事衝突

 次々節で述べる林彪墜落死事件(1971年9月13日)は、中国を巡って目まぐるしく動く国際情勢の動きと並行して起きた。林彪墜落死事件については、今なお謎の部分が多いが、当時の国際情勢を踏まえるとき、次の二つの可能性が見えてくる。

(1)1969年の中ソ軍事対立は林彪が軍の内部での地位を高める当たって対外的な緊張関係を作ることを目的に林彪一派がソ連を挑発した結果だった。

(2)国際戦略上の見地からアメリカとの接近を図ろうとする毛沢東・周恩来の路線に対し、朝鮮戦争以来、アメリカを敵視する軍の内部の強硬な意見を背景とした林彪がこれに反対したため、毛沢東が林彪を排除しようと動いたことにより林彪は毛沢東の暗殺を計り、それが失敗した結果が林彪の墜落死事件となって現れた。

 1969年の中ソ軍事衝突は、中ソ双方とも「相手側から先に挑発してきた」と主張しており、具体的にどういう経緯で始まったかは必ずしも明らかでははいが、軍事的衝突は、3月に極東部のウスリー江において起きているほか、その後、新疆ウィグル自治区など、長い中ソ国境の様々な場所で起きており、誰かの考えに基づく計画的なものであったとは考えにくい。従って、中ソ軍事衝突を「林彪一派が自らの軍内部での地位を高めるために起こした謀略」とみなすのは、おそらくは正しくない。しかし結果として、中ソ軍事衝突に起因する軍内の緊張感が林彪一派の軍全体に対する求心力を高め、1969年4月に党の規約に「林彪同志は毛沢東同志の親密な親友で後継者である」とまで規定されるに至った背景のひとつになった可能性はある。

 また、林彪墜落死事件の背景に米中接近がある、という考え方の根拠は、1972年2月に毛沢東がアメリカのニクソン大統領と会見した際、「我が国にも貴国と接近することに反対するグループがいるが、彼らは飛行機で外国へ逃亡した」と述べた、というアメリカ側の記録(「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」で引用されている「ニクソン訪中機密会談録」名古屋大学出版会(2001年))がひとつの根拠とされている。しかし、毛沢東はニクソン大統領との会見時にほんとうのことを述べたのかどうかは不明であるし、林彪が米中接近に反対の意見を持っていたのだとしても、そのことだけに林彪墜落死事件の原因を求めることはできないと考えられる。1968年10月の第8期十二全会において、林彪・江青らがトウ小平に対し永久党籍剥奪の処分を求めたのに対して毛沢東がこれを拒否したことから考えて、ニクソン大統領が米中接近を模索し始める以前から、毛沢東が林彪に対して警戒感を抱いていたと考える方が自然であると思われるからである。

 いずれにせよ、林彪墜落死事件を考えるに当たっては、当時の中国を巡る国際情勢をざっと理解しておくことが必要だと思われるので、以下、中国国内の情勢を離れて、本節と次節において、中国を巡る当時の国際情勢について述べることとする。まず本節では1969年の中ソ軍事衝突について述べたい。

 今まで述べてきたように、そもそも1956年のフルシチョフによるスターリン批判以降、中国共産党とソ連共産党との間の対立は次第に高まってきた。フルシチョフによるアメリカとの平和共存路線とそれに基づく中国に対する原爆の技術資料と原爆模型の提供の拒否は、共産党同士の路線上の対立から、中国とソ連という国家同士の対立へと発展した。その結果、1960年には、ソ連が当時中国に派遣していた技術専門家の総引き上げを決め、中ソ対立が決定的になったことは以前に述べた(第3章第2部第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立)。その後、毛沢東は、1960年代初頭の劉少奇、トウ小平らによる「経済調整政策」を批判する過程で、ソ連を「修正主義」として批判するようになった(「第3章第3部第1節:中ソ論争と文化大革命前夜」)。

 1960年の決定的中ソ対立とその後の中国による対ソ批判に引き続き、中国は独自の技術開発により、1964年に原爆実験を、1967年には水爆実験を成功させた。こういった中国の動きに対し、中国と長い国境線を有するソ連は神経質な目で見ていた。しかし、ソ連にとって中国の領土を侵すような行動に出るメリットは何もなかったし、中国側としても現在の国境線を大きく変えてソ連側に侵入しようとするメリットはなかった。従って、路線対立と核兵器の開発による両国間の緊張は高まりつつあったものの、中ソが軍事的に衝突する必然性は、中ソ両国とも持っていなかったはずである。

 しかし、中国側にソ連を「脅威」とみなす根拠となった事件が1968年8月に起こった。チェコスロバキア事件(「『プラハの春』事件」)である。当時、チェコスロバキア共産党の書記長ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を唱え、社会主義体制は維持しつつも、一定の報道や言論の自由を認める、という政策を打ち出した。いわゆる「プラハの春」である。ドプチェクによる政策は、社会主義体制を変革することまでは考えていなかったが、言論の自由によって、ソ連の影響力からの脱却を求め、チェコスロバキアのワルシャワ条約からの脱退を指向する意見も出始めるようになった。自らの勢力圏からの脱却を許さないソ連軍は、1968年8月、ワルシャワ条約機構軍を率いてチェコスロバキアに進駐し、ドプチェクの改革推進を阻止した。ソ連は1956年にハンガリーで起こしたのと同じような行動を1968年のチェコスロバキアに対して行ったのである。

 この「プラハの春」事件は、ソ連とは独自の路線を歩む中国に対して大きな恐怖心を与えた。ソ連にとって、チェコスロバキアと中国とでは、その国の規模の大きさがあまりにも違いすぎることから、中国がソ連の意向に従わないからと言って軍隊を派遣して中国を従わせようなどとはソ連も考えていなかったはずであるが、中国側からすれば、中国に比べて圧倒的な軍事力、特に強大な核兵器を持つソ連のチェコスロバキアに対する態度は、中国に対しても軍事的圧力を掛けてくるのではないか、との疑いを持たせるに十分だった。そのため、中国は、ソ連国境における軍事配備を強化した。

 そうした中で、1969年3月2日、極東の中ソ国境を流れるウスリー江の中洲(中国名「珍宝島」、ソ連名「ダマンスキー島」)の領有を巡って軍事衝突が起きた。ウスリー江は、この中洲の部分で中国側に食い込むようにU字型に蛇行し、後にU字の根本のところが短絡して中洲ができた。中国側、ソ連側ともこの中洲は自国のものだと主張していたのであるが、中国側にとっては、自国領内に大きくU字型に食い込む部分の中洲にソ連軍が駐留することは戦略的に許されるものではなかったのである。この1969年3月2日の衝突が、どちら側からの挑発で始まったのかは必ずしも明らかではない。また、双方の死傷者の数も明らかにされていないが、数十人の死傷者が出たと言われている(この戦闘で中国側はソ連の戦車をろ獲し、それを軍事博物館で展示している)。

 このソ連との鋭い対立を通して、中国の軍の内部が林彪の下に一本化されたことは間違いなく、この中ソ対立が、直後の4月に行われた中国共産党第9回全国代表大会で決められた党の規約の中に「林彪同志は毛沢東同志の親密な親友で後継者である」との規定が盛り込まれることになる「雰囲気作り」になったことは間違いない。しかし、林彪を「裏切り者の反党集団の首領」として激しく攻撃する現在の中国当局も、このウスリー江における中ソ軍事衝突が林彪一派による挑発によって起こされた、といった言い方は全くしていない。従って、林彪とその一派が軍の内部で権力を掌握していく過程と、この1969年3月の中ソ軍事衝突を直接的に結びつけて考えるのは必ずしも適切ではないと思われる。

 この軍事的な中ソ衝突は、例えば北京の地下に巨大な防空壕を作ったり、第三線計画(四川省やセン西省などの内陸部に重要施設や鉄道等のインフラを集中的に整備すること)をさらに進めたりする役割を果たした。

 なお、ニクソン大統領の特別補佐官だったキッシンジャー氏は、ニクソン大統領は就任(1969年1月)直後から中国との接近を図ろうとしていた、と語っており、ニクソン大統領は、このウスリー江での中ソ軍事衝突の前(おそらく1968年の大統領選挙の期間中)から既に中国との接近を図ろうとしていたと思われるので、次節に述べる米中接近はこの中ソ軍事衝突がきっかけだったと考えるのは正しくない。ニクソン氏は、珍宝島(ダマンスキー島)での軍事衝突の以前から、中ソ間の緊張関係をベトナム戦争をアメリカに有利な形で終結させるために利用しようと考えていたと見るのが正しいと思われる。

 前に述べたように、文化大革命が終了し、1978年に改革開放路線が始まると、次第に中ソ両国が対立する要因は弱まっていった。1991年にソ連が解体されると、必然的に中国共産党とソ連共産党の路線対立は完全に消滅した。ソ連が解体されると、中国とロシアは、世界におけるアメリカの影響力が過大になることは避けたい、という世界戦略的観点と、中央アジア地域におけるイスラム原理主義に基づく民族運動を抑え込みたい、という観点で利害が一致するようになる。その結果、2001年には、中央アジア各国も加えて、上海協力機構が成立し、現在では中ロ両国は良好な隣国関係を保っている。

 1969年の中ソ対立の最も象徴的な事件だったウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)の領有権問題は、このような中ロ両国の関係改善により、現在までに交渉によって完全に解決されている。北京オリンピックが開催される直前の2008年7月、中ロ両国はウスリー江における国境線を画定する議定書に署名した。そして、2008年10月には両国国境を確定する記念碑の除幕式が中ロ両国共催により行われた。これも、日米欧などの世界の有力地域を横目で見ながら、中ロ関係が完全に良好になったことを世界にアピールしたひとつのセレモニーであったと言ってよい。

 私は2009年6月に内モンゴル自治区の中ロ国境にある満州里(マンチューリ)を訪問したことがある。満州里で、中ロ両国の鉄道は接続されており、活発な中ロ貿易が行われている。満州里における中ロ国境は、大草原の中に鉄条網が敷設されていて「国境」であることはわかるが、中国側には中ロ国境をつなぐ鉄道をまたぐ形で記念館が建設されていてロシア領内が見渡せるようになっており、完全に観光地化されている。観光客は国境線から数十メートルのところまで近付くことができる。一応、監視員がいて観光客が国境の鉄条網のところに近づかないように注意しているが、緊張感は全くない。国境地帯を背景にして観光客が記念撮影をしても、何もとがめられない。ロシア側には、昔使っていたのだろうと思われる監視塔が建っているが、監視員が見張っている様子はない。ロシア側の駅からは、ロシア語のアナウンスが聞こえてくる。満州里の町中には、ロシア語の看板を掲げた店も多いが、タクシーの運転手は「今年(2009年)は、世界的な経済危機の影響でロシアの経済が打撃を受け、満州里に来るロシア人の数が減ったので困っている」と話していた。40年前、本格的な軍事衝突に至った両国の国境地帯の状況を知っている私としては、この国境の町ののどかな雰囲気は、非常に感慨深いものだった。

以上

次回「3-3-9(1/2):ニクソンによる米中接近への動き(1/2)」
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へ続く。

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2010年3月 5日 (金)

3-3-7:国家主席・劉少奇の失脚と死

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第7節:国家主席・劉少奇の失脚と死

 多くの有力者に対して文化大革命中にどのような動きがあったかについて書いてきたが、続いて、そもそも毛沢東が文化大革命を始めた際の最終目標だった劉少奇とトウ小平がどうなったかについて書くことにする。

○劉少奇:

 1966年5月16日に出された「五・一六通知」で、同年2月7日に出された「当面の学術討議に関する報告提網」(いわゆる「二月テーゼ」:文芸批判は学術議論の中に留めるべきだと主張したもの)が否定されたことは、「二月テーゼ」が出された時点で党中央の指導的立場にいた劉少奇やトウ小平を批判することを意味するものであった。また、8月5日に毛沢東が張り出した壁新聞「司令部を砲撃せよ-私の大字報」で言う「司令部」とは、国家主席であった劉少奇であることは明らかだった。この時期に開催されていた第8期十一全会(中国共産党第8期中央委員会第11回全体会議)で選出された政治局常務委員の序列において劉少奇がナンバー2からナンバー8に格下げされたことによって、何が起きつつあるのかは内外に明らかとなった。

 8月22日に清華大学に張り出された壁新聞が劉少奇を名指しで批判した最初のものと言われている。10月9日から開催された党中央工作会議において、劉少奇とトウ小平は自己批判をさせられた。この時、トウ小平が「毛沢東主席の壁新聞(「司令部を砲撃しよう-私の大字報」)は、すなわち劉少奇同志と私(トウ小平)の司令部を砲撃するためのものであった」と認めたこと、12月25日には、清華大学から始まった5,000人規模のデモ行進が天安門前広場へ到達し「打倒、劉少奇!」「打倒、トウ小平!」のシュプレヒコールが繰り返されたことについては既に述べたとおりである。この1966年10月の党中央工作会議以降、「劉少奇打倒!トウ小平打倒!」は公式なスローガンとなった。

 さらに1967年4月1日付け人民日報に文革小組メンバー戚本禹の書いた「愛国主義か売国主義か」が掲載され、この論文の中で劉少奇は「中国のフルシチョフ」と批判されたことも既に述べた。7月19日、中国共産党本部がある中南海の中で劉少奇と妻の王光美に対する「闘争大会」が開かれた。さらに8月5日には、300万人規模の「決起大会」の勢いを受けて劉少奇やトウ小平に対する「批闘大会」が開かれたことも既に書いた。この「批闘大会」後の8月7日、劉少奇は毛沢東に対して国家主席を辞任したいとの手紙を書いている。

 その後も劉少奇は中南海(中国共産党本部のある地域)の中にいたが、これ以降、家族と一緒にいることはできなくなり、一人で監禁状態に置かれるようになった。劣悪な生活環境の中で、劉少奇は時に病を得たが、劉少奇を診察する医者は、江青らから批判されるのを恐れて、劉少奇に対して親切にすることはできなかった。しかし、江青ら文革推進派グループにとっても、党の手続きに従って劉少奇を正式に失脚させる前に劉少奇に死なれては困るので、最低限の治療は施され続けていた。

 1968年10月13日~31日、第8期十二全会(中国共産党第8期中央委員会第12回全体会議)が開催された。この会議は毛沢東が主宰し、1966年以来二年余にわたる文化大革命を総括するものであった。この会議では、劉少奇の「罪状」を調査した中央特別審査小組の報告書である「裏切り者、敵の回し者、労働貴族である劉少奇の罪行に関する審査報告」が採択され、劉少奇を永久に党から除名することが決定された。この決定を伝えるコミュニケは11月2日に放送されたが、劉少奇自身は、病床でこのコミュニケを聞いた。

 前回「陳毅」のところで書いたように、1969年10月、ソ連による「担ぎ出し」を恐れた林彪によって、病床の劉少奇も北京を追放された。この時、劉少奇は既に危篤状態で、鼻には栄養補給用の管が挿入され、時々吸入器で痰を吸引してやる必要があった、とのことである。このような状態のまま、劉少奇は河南省開封に移送された。約1か月後の1969年11月12日、劉少奇は看取る者もなく死去した。劉少奇の死亡診断書には「劉衛黄」という偽名が記され「無職」と書かれていた。この偽名にある「黄」の字は「皇」と同じ発音であり、この偽名は劉少奇を批判する時に使われる言葉「保皇派」を意味するものだった。死亡診断書には「無職」と書かれていたが、実は、この時までに国家主席解任の正式な手続きはどこでもなされておらず、形式的には劉少奇は国家主席に在職したまま死去したことになる。

(注)もっとも、これは単なる手続き上の問題であって、劉少奇は、前年の1968年10月の第8期十二全会で党籍の永久剥奪と公民権の永久停止処分を受けていることから、公民権が停止された時点で自動的に国家主席は解任されたのだ、と解釈すべきなのかもしれない。

 劉少奇が死去した時、一人の親族も付き添っていなかった。それどころか、劉少奇の妻子には劉少奇が死去したことすら知らされていなかった。1971年9月に林彪が墜落死した事件が起きた後の1972年、劉少奇のこどもたちは、両親に会えるのではないか、との望みを抱いて、毛沢東に対して両親への面会許可を願う手紙を出した。この年の2月にはアメリカのニクソン大統領が訪中しており、「世の中は変わったのではないか」と劉少奇のこどもたちは考えたからかもしれない。毛沢東の指示に基づく党中央からの返事は、1972年8月16日にこどもたちの元へ届いた。それは「母親と面会してもよい」というものだった。こうしてこどもたちは、父親は既に死亡していたことを知ったのだった。この時既に実際に劉少奇が死んでから3年近くが経っていた。こどもたちは劉少奇の死を公表しないように固く口止めされたが、劉少奇の死は、それからまもなく外に知れ渡った。

 なお、日本の田中角栄総理が訪中して日中国交正常化がなるのは、劉少奇のこどもたちが父親の死を知ってから1か月とちょっと後の1972年9月29日のことである。

○トウ小平:(「トウ」は「登」に「おおざと」)

 文化大革命初期、トウ小平は劉少奇とパッケージで批判された「実権派」の中心人物である。しかし、「文化大革命十年史」(参考文献14)では、トウ小平に対する具体的な迫害の様子はほとんど記されていない。これは「文化大革命十年史」が改革開放路線の中でまさにトウ小平自身が中国の最高実力者としての地位にいた1980年代に中国において出版された本であるためと思われる。

 トウ小平自身、生前、文化大革命時代にどのようなひどい迫害に遭ったかは、自らはほとんど語っていない。しかし、トウ小平の次男であるトウ樸方氏が1968年に投身自殺を図って下半身に大ケガを負い、現在に至るまで半身不随状態にあることを考えると、トウ小平自身も相当にひどい迫害を受けたことは想像に難くない。

 トウ小平の次男のトウ樸方氏は、1988年に中国残疾人(障がい者)連合会主席となり、中国の障がい者保護に尽力した。トウ樸方氏がいなければ、2008年の北京パラリンピックにおける中国選手の活躍はなかった、とも言われている。なお、トウ樸方氏は北京パラリンピック終了後の2008年11月13日に中国残疾人連合会主席を退任し、名誉主席になった。後任の主席には、張海迪女史が就任した。トウ樸方氏はまだ64歳であり、必ずしも引退する年齢ではないことや、張海迪氏の障害に負けない強い生き方について胡錦濤主席が「張海迪氏に学ぼう」という運動を展開するなど張海迪氏が胡錦濤主席に近いと見られていることから、この交代劇には、裏にある政治的な動きが反映しているのではないか、と勘ぐる向きもないではない。ただ、この交代は、北京パラリンピックが成功裏に終了したことから、トウ樸方氏が「自分の役割は終わった」と考えて引退することにした、と考えるのが素直であろう。

(参考URL1)「新華社」ホームページ
「ニュース人物・張海迪」
(写真:2008年11月13日、中国残疾人連合会第5回全国代表大会閉会式で壇上に並ぶトウ樸方氏と張海迪氏)
http://news.xinhuanet.com/politics/2008-11/14/content_10357874.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(参考URL2)「新華社」ホームページ
「トウ樸方氏の略歴」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-02/28/content_295217.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 上記の「新華社」ホームページの「トウ樸方氏の略歴」の中では「1968年5月に迫害を受けて障がい者となる」とだけ記述されており、「投身自殺を図った」など、どのような状況で障がい者になったのかの詳細は記されていない。

 トウ小平は、劉少奇とパッケージで批判されてきたにも係わらず、劉少奇の失脚を正式決定した1968年10月の第8期十二全会において、党籍剥奪処分は免れ、「留党監察」の処分となった。林彪・江青らはトウ小平に対しても劉少奇と同じように党籍剥奪を求めたが、毛沢東の強い意志によりトウ小平は党籍剥奪を免れた、と言われている。

 農業の集団化に歯止めを掛ける1960年代初期の「経済調整政策」に反対することが文化大革命の目的だったのだとすれば、徹底的に追放されるべきは、劉少奇よりはトウ小平だったはずである。「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫はよい猫だ」という発言や、実際に1978年以降に実権を握るようになってから展開した現在まで続く改革開放路線を見ればわかるとおり、人民公社を否定し、生産請負制度によって人々のインセンティブを引き出し、経済を活性化させようという発想は、トウ小平氏のものだからである。従って、毛沢東がトウ小平から党籍を剥奪することまでしなかったのはなぜか、毛沢東の真意はどこにあったのか、については、現時点でも謎として残っている。

 一般には、毛沢東がトウ小平を徹底的に失脚に追い込まなかったのは、毛沢東が「あいつは使える男だ」としてトウ小平の政治家としての優れた能力を見抜いており、中国にとっていつか必要になる人間だと考えていたからだ、と言われている。あるいは信頼する盟友・周恩来から、トウ小平を永久に追放するのはよくない、とのアドバイスがあったからかもしれない。また、1890年代生まれの毛沢東は、自分と同年代の周恩来らより一世代若い1900年代生まれのトウ小平を、同じく1900年代生まれの林彪を牽制するための「対抗馬」として残して置きたかったのかもしれない。いずれにせよ天才的戦略家である毛沢東のこのトウ小平を残して置こうという1968年10月時点での判断が、トウ小平を生き残らせ、後の中国に改革開放政策という経済的大発展への道を残すことになったのである。

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 林彪は、「第5節:『七・二○武漢事件』をはじめとする『武闘』」で述べたように、1967年9月頃には周恩来を批判していた「首都紅衛兵五・一六兵団」のリーダーを逮捕するなど毛沢東が林彪の意図に反して周恩来に対する批判にストップを掛けた時点で、あるいは1968年10月の第8期十二全会で毛沢東がトウ小平の党籍剥奪に反対した時点で、毛沢東が林彪に対してどういう考えを持っているのかに気付くべきだったのかもしれない。しかし、残念ながら、林彪は毛沢東のような天才的戦略家ではなかった。林彪は、これまで述べてきたように、文化大革命の中において党の軍の実力者を次々と追い落としてきたが、毛沢東が林彪の考えと異なる判断をするようになった後も、自分の息の掛かった者を要職に配置する工作を続けていく。そして、1969年4月に開かれた中国共産党第9回全国代表大会において、党規約の中に「林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり後継者である」と明記させることにまで成功する。しかし、そのことが結局は自らの墓穴を掘ることとなり、1971年9月13日の林彪墜落死事件へと連なっていくのである。

以上

次回「3-3-8:中ソ軍事衝突」
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へ続く。

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2010年3月 4日 (木)

3-3-6:「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第6節:「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち

 文化大革命について、ここまで読んでこられた読者の中には、誰が何派で、誰と誰が味方で、誰と誰が敵なのか、よくわからなくなってしまった方々もおられるかもしれない。後世の我々が資料を見ながら整理しても、誰が味方で誰が敵なのかよくわからないような状態をリアルタイムで経験した当時の中国の人々の多くは、おそらく何が何だかわからないような状態で、様々な派閥グループの間で行われる武闘の中をかいくぐって必死に生き抜いていたのではないかと思われる。

 文化大革命の初期は、林彪が毛沢東の発動した紅衛兵の運動などを利用して軍の中における自らの地位を高めるための策略の連続だったと考えてよい。葉剣英、徐向前、聶栄臻ら古参革命軍人らが「二月逆流」に参画したとして批判されていったことはこれまで述べたとおりである。主に「文化大革命十年史」(参考文献14)を基にして、文化大革命の初期(1968年頃まで)の期間中に迫害を受けた人々のうちいくつかの例について個別に説明することにしよう。

○羅瑞卿:

 羅瑞卿は、長征に参加した古参の軍人で、中華人民共和国成立後、公安部長、国務院副総理、人民解放軍総参謀本部長などを務めた。1965年11月10日、「文匯報」に姚文元の書いた「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」が掲載された後、最初に標的にされたのは軍の総参謀部長の羅瑞卿だった。1965年12月8日~15日に上海で開かれた党軍事委員会の緊急会議で、羅瑞卿は全ての職務を解任された。「文化大革命十年史」では、(i)林彪が毛沢東の信任が厚い羅瑞卿に嫉妬したこと、(ii)江青が姚文元の「『海瑞免官』を評す」を宣伝する際に軍の協力を得ようとした時、軍籍のない江青が軍を利用することに羅瑞卿が反対したため江青が羅瑞卿を恨んだこと、(iii)林彪の妻の葉群が軍の中で准将に昇進したいと願った時、そのあまりにも速い昇進に対して羅瑞卿が反対したため、葉群が羅瑞卿を恨んだこと、が背景にあると説明している。

 こういった「個人的な恨み」で羅瑞卿解任を説明するのは、いささか単純過ぎるような気もするが、事実として、羅瑞卿は1965年12月の「緊急会議」で全ての職を解任され、翌年1966年3月、北京で開かれた会議では羅瑞卿批判の議論が展開された。自らの置かれた立場を悟った羅瑞卿は、1966年3月18日深夜、自宅の宿舎の屋上から飛び降りて自殺を図った。しかし、左の大腿骨を骨折しただけで一命は取り留めた。

 その後、5月に開催され「五・一六通知」を採択して文化大革命をスタートさせた党中央政治局拡大会議において、羅瑞卿は、彭真北京市長、陸定一党宣伝部長、楊尚昆広東省党書記(改革開放後に復活し1988年に国家主席となる)らとともに批判の対象となる。

 羅瑞卿は、自殺未遂で骨折した後、十分な治療を与えられず、半身不随状態となった。半身不随の状態のまま、1966年12月24日に北京市内の工人体育館で行われた「羅瑞卿をはじめとする軍権簒奪反党集団批判闘争大会」に引きずり出され、約10万人の紅衛兵の批判の前にさらされた。この後、羅瑞卿は1967年9月14日、高熱に冒される中、便所へ行こうとして転倒し、直りきっていない左の大腿骨を再び骨折させた。1969年1月には、結局は左脚を切断する手術を受けた。

 羅瑞卿はこの状態で、1971年の林彪の墜落死、1976年の「四人組追放」の時期を生き抜き、1977年に党中央委員に復活し、1978年に死去した。

○賀竜:

 賀竜は、長征に参加した軍人で、中華人民共和国成立後に副総理となった。空軍の中では林彪のライバル的存在だった。

 1966年初め、北京軍区が民兵訓練のため北京大学の宿舎の一部を借り上げ、同じ時期に北京市党委員会が北京大学の学生を農村へ行って学習させるために大学にテントとジープを用意させたことがあった。これらの北京大学での動きは、「二月テーゼ」(「第2節:四清運動と『海瑞免官』批判~文化大革命の開始」参照)が出されたのと時期的に同じタイミングだったため、1966年7月27日、文革小組のメンバーの康生は、北京師範大学の集会で演説を行い、この2月頃の北京大学での動きを「クーデターを画策したものだ」と断定し、これを「二月クーデター」と呼んだ。そして、この「二月クーデター」は賀竜が画策したものだ、と断定した(この時期、トウ小平は「そもそも『二月クーデター』などというものはない」と指摘していた)。こうして賀竜の自宅は、紅衛兵の「打倒賀竜!」のシュプレヒコールに悩まされることになる。

 事態を憂慮した周恩来は、賀竜を中南海(中国共産党本部と党幹部の自宅がある地域)に呼び寄せて住まわせたが、1967年になって林彪が軍内に対して「打倒賀竜」の方針を宣言したことから、周恩来も賀竜を中南海に住まわせておくことが困難になり、別に住居を探して、そこに引っ越しさせた。しかし、1967年の夏以降、周恩来が用意した住居も林彪一派の支配下に置かれることになり、賀竜は実質的に軟禁状態に置かれた。

 1968年になると、文革推進派の康生は、中国共産党が国民党と争っていた頃の1933年に賀竜が知り合いの国民党の有力者と会談を行ったという古い事実を引っ張り出して「賀竜はかつて党を裏切ったことがあるのに、今問題がないはずがない」と主張して、賀竜を攻撃した。長年糖尿病を患っていた賀竜は、この軟禁状態の中で、十分や薬品や食事、暖房すらも与えられず、心身ともに衰弱して1969年6月9日に死去した。

 なお、「文化大革命十年史」では、次のような背景も紹介している。

「林彪夫妻と賀竜夫妻は、古くからの知り合いであった。林彪の妻・葉群は、かつて国民党支配下の南京でアナウンサーをしており、国民党の人々とも付き合いがあった。葉群は、その後、賀竜の妻・薛明の説得により中国共産党の運動に参加するようになった。こういった経緯から、葉群は自分が国民党の人々と付き合いがあった頃のことを賀竜や薛明に持ち出されることを極度に恐れていた。このことも、林彪夫妻が賀竜を追い落とすことになる一因だった。」

○彭徳懐:

 これまでも書いてきたように、彭徳懐は、長征に参加した軍人で、中華人民共和国成立後、副総理や国防部長を務めた。1959年の「廬山会議」の後に国防部長を解任された(「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」参照)。この彭徳懐の処遇を巡って、皇帝を批判して罷免された明代の官僚・海瑞について書かれた「海瑞免官」を批判する論文「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」を姚文元が書いたことが文化大革命の開始を予告する「のろし」であったことはこれまでも何回も書いた。

 「廬山会議」では、彭徳懐は国防部長は解任されたものの、国務院副総理と党政治局委員の肩書きはそのままだった。文化大革命が始まった当時、文革スタートのきっかけとなった彭徳懐本人は、四川省にいた。1965年秋、毛沢東自身が彭徳懐を呼んで、第三線建設の現場で任務に就くよう指示したからである。

(注)アメリカとの対立及び中ソ対立の中で、毛沢東は外国から攻撃した場合に備えるため、第一線(沿岸部)、第二線(平原部)を避けて、第三線(内陸部のセン西省や四川省等)に工場や軍事施設、それをサポートする鉄道等を重点的に建設するよう指示していた。これを「第三線建設」という。現在でも、多くの軍事施設や重要な工場、重要な研究施設、ロケット発射場などが成都、重慶、西安地区などの周辺にあるのはこのためである(「セン西省」の「セン」はこざとへんに「狭」のつくりに似た字)。

 この毛沢東の彭徳懐に対する指示は、やがて起こるであろう文化大革命の運動を想定して、功績ある彭徳懐を中央で起こる荒波から守ることを考えた毛沢東の配慮であると考えられる(そもそも彭徳懐は毛沢東と同じ湖南省出身の盟友だった)。しかし、全国に拡大していった紅衛兵運動は、毛沢東の意図とは関係なく、四川省にいた彭徳懐を放って置くはずはなかった。林彪や江青ら文革推進派グループの支持の下、紅衛兵たちは、四川省で彭徳懐を拉致し、北京に連行してきた。北京に到着後の1966年12月28日、彭徳懐は逮捕され、監禁状態に置かれた。

 1967年7月19日、北京航空学院では本人を引きずり出して「彭徳懐批判闘争大会」が開かれた。様々な罪状を挙げて紅衛兵は彭徳懐を吊し上げ、床に打ち据えて、自己批判を要求したが、この気骨ある軍人は自己批判することを拒否した。7月26日には、「七・二○武漢事件」を処理した謝富治や王力を迎えて天安門前広場で開かれた100万人規模の集会の後、彭徳懐は「党内のひとにぎりの資本主義を歩む実権派」として市内を引き回された。

 その後、監禁状態の中で彭徳懐は健康を害していく。1970年11月になって、彭徳懐の党内外の一切の職務の取り消し、党籍からの永久除名、無期懲役及び公民権の終身剥奪が正式に決定された。そして1974年11月29日、彭徳懐はガンのため死去した(1978年以降、トウ小平による改革開放への政策の転換と文化大革命等により失脚した人々の名誉回復が行われるが、その中で、彭徳懐は、真っ先に名誉が回復された。これについては後に述べる)。

○朱徳:

 朱徳は、毛沢東より9歳年上の中国共産党設立初期からの軍人であり、毛沢東らによる1927年8月の南昌蜂起や毛沢東がその後・井岡山を根拠地にしていた頃から毛沢東の片腕となってきた人物である。紅軍の中では毛沢東とともに「毛朱」と並び称され、年齢的に毛沢東より年上であることもあり、多くの人民の尊敬を集めていた(「第2章第3部第1節:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件」参照)。文化大革命当時の小中学校の教科書には、武器がなかったのでいつも天秤棒を持っていたという「朱徳の天秤棒」のエピソードが載っていたという。

 林彪・江青らのグループは、朱徳が陳毅、李富春、徐向前、葉剣英(いずれも「二月逆流」で批判された人々)及び賀竜らと語らって1967年7月に「偽共産党」を結成し、軍事的に重要な拠点である武漢を手に入れた(「七・二○武漢事件のこと」)として朱徳を批判した。しかし、事実としては、この時点で既に80歳を超えていた朱徳は、表立った動きはしていなかったのである。

 林彪・江青らによるこの「朱徳批判」は、おそらくは政治的には「明らかなやり過ぎ」だった。毛沢東より9歳も年上で、輝かしい軍功があり、教科書にも載っている軍の大御所に対して容赦なく批判を加える林彪・江青らに対しては、表立った批判はできなかったものの、「やり過ぎ」と感じる人が多かったのではないかと思われる。事実、朱徳は、紅衛兵には批判されたものの、文化大革命の真っ最中の1969年には党中央委員に再選され、1973年には党中央政治局常務委員になっている。この事実は、荒れ狂う文化大革命の最中にあっても、林彪・江青らのグループに反対する勢力が中国共産党内部には確実に存在していたことを示している。それが1971年の林彪墜落死事件や1976年の「四人組追放」の伏線になっていたと考えられる。

 朱徳は、その尊厳と人々からの尊敬の念を失うことなく文化大革命を生き抜き、毛沢東の死の2か月前の1976年7月6日に死去した。

○葉剣英:

 葉剣英は、孫文時代からの革命家で、中国共産党成立後、共産党の運動に参加し、長征にも参加した。中華人民共和国建国後、人民解放軍の元帥となる。1967年2月「二月逆流」に参加したとして批判された。

 中国共産党は、抗日戦争期、作戦として、党中央の指示により、国民党内に共産党員を潜入させていた。これを取り仕切っていたのが長江局、南方局という部署であるが、これらの部署は周恩来や葉剣英らが指揮していた。林彪・江青らは、これらの過去の歴史を引っ張り出し、これを「国民党に寝返る裏切り行為だった」として葉剣英らを批判した。

 しかし、これも政治的には「やり過ぎ」だったと思われる。抗日戦争をよく知っている古参幹部は、長江局や南方局による国民党への共産党員の潜入活動は、中国共産党中央の指示に基づく諜報活動の一つであり、決して「裏切り行為」ではなかったことをよく知っていたからである。

 事実、葉剣英は1968年頃には文革推進派グループには批判されるが、1971年の林彪墜落死事件の後、文化大革命が終わる前の1973年に党副主席、75年には国防部長となり、党内での実力を維持し続けた。そして、1976年10月には、当時の華国鋒総理とともに「四人組逮捕」の先頭に立つのである。その後、1978年12月、改革開放政策が始まって以降、1983年に国家主席が復活して李先念が国家主席に就任するまでの間、葉剣英は全国人民代表大会常務委員会委員長として、対外的には国家元首として振る舞う地位に就くことになる。

○陳毅:

 陳毅は、長征に参加し、中華人民共和国成立後、初代の上海市長となった。その後、外交部長、国務院副総理となる。陳毅は「二月逆流」に参加したとして批判された。1967年8月、文革推進派グループの姚登山に外交部内の実権を奪われたことは前節で述べた。この時期、人民大会堂にいる陳毅をつるし上げろ、と「造反派」が息巻いた際、周恩来は「君らが陳毅同志を吊し上げるというならば、私が人民大会堂の前に立ちはだかる。それでもやる、というのなら、私の体を踏みつけて行け」と述べたという。

 林彪は、1969年10月18日、当時激しく対立していたソ連が失脚中の中国の有力者を担ぎ上げて傀儡(かいらい)政権を樹立する動きを事前に防ぐため、劉少奇、彭真ら失脚中の有力者を北京から追放したが、この時、陳毅も河北省に追放された(1969年の中ソ軍事衝突については後述する)。陳毅は、そこでガンを発病し、後に北京に戻ることが許されたものの、林彪墜落死事件後の1972年1月6日、ガンのため死去した。(この陳毅の葬儀には、毛沢東自らが出席した。これは、この時点で既に陳毅の名誉は回復されたことを意味しており、文化大革命がひとつの「角」を曲がった(文化大革命が「後半」に入った)ことを意味する象徴的なできごとだった。この点については、後に述べる)。

 なお、現在、上海市の中心部の観光名所、浦東に林立する高層ビル群を見られる浦江西岸の堤防上の公園「外灘」(ワイタン:英語名バンド(解放前、欧米列強の租界があったことから、堤防、埠頭、海岸通りを意味する bund の名が付けられた))」に、この解放後の初代上海市長・陳毅の銅像が建っている。

以上

次回「3-3-7:国家主席・劉少奇の失脚と死」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-2538.html
へ続く。

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2010年3月 3日 (水)

3-3-5:「七・二○武漢事件」をはじめとする「武闘」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第5節:「七・二○武漢事件」をはじめとする「武闘」

 「造反有理」「革命無罪」というスローガンは、根本的に自己矛盾を含んでいる。旧い体制を基盤とする支配層から権力を奪取し、「造反派」が権力を握った瞬間、今度はその「造反派」が「権力を振るう者」として、「反造反派」による「造反」によって権力闘争の対象になってしまうからである。権力を握った「造反派」を打倒しようとする「反造反派」の動きも、ひとつの「造反」であるから、「造反有理」という原理によれば権力を握った後の「造反派」を打倒することも「正しいこと」ということになって話はややこしくなり、誰が味方で誰が敵なのか、わけがわからなくなってしまう。1967年頃の文化大革命の時期は、まさにこのような状況だった。

 1967年の前半には、文革をさらに急速に進めようとする林彪・江青らに対し、毛沢東は2月に成立した「上海コミューン」に対して不同意の考えを示すなど、いきすぎた「造反」による混乱と分裂を避けようという考えを持ち始めたようである(前節参照)。毛沢東は、社会の分裂を人民解放軍の力で防ぐとともに、人民解放軍内部で分裂が発生することを防ぐために、国防部長の林彪に指示して、1967年1月23日に党中央から「軍は左派を支持するとともに軍事管制と軍事訓練を行うように」との通知を出させた。しかし、軍の内部では、「二月逆流」で批判されることになる軍内の秩序を重んじようとする古参革命軍人に同情的な者も多く、「左派の下に一本化せよ」との党中央の指示は、むしろ軍の中に「左派」とそれに反対する勢力との間に分裂を産むことになった。

 この「軍を左派の下に一本化せよ」との指示に基づいて、林彪らは「軍内のひとにぎりのもの」に対する批判を展開する。「文化大革命十年史」(参考文献14)は、1980年代に行われた文革を推進した「四人組」に対する裁判の中で明らかにされた資料に基づいてこの時期を記しているが、「文化大革命十年史」では著者の厳家祺、高皋の両氏は、これらの「軍内のひとにぎりのもの」に対する批判・追放運動は、実は毛沢東が発動した文化大革命の運動を利用して林彪が軍の内部でトップに上り詰めるために起こした自分の競争相手つぶしの運動であったのだ、と指摘している。

 1971年に失脚した後、林彪は、一貫して「党に対する裏切り者」として扱われているため、1980年代に行われた「四人組裁判」でも、ことさらに林彪の「悪事」がクローズアップされている。このため「文化大革命十年史」が資料として使っている「四人組裁判」の資料では、事実以上に林彪に罪を着せるような方向の「証拠」が並べられている可能性がある。従って、このあたりの文化大革命の状況を、真に客観的に評価するためには、「四人組裁判」で明らかにされた資料だけから判断するのは、避けた方がよいのかもしれない。この時代の文化大革命の経緯を真に客観的に判断するためには、今しばらくの時間が経過して、毛沢東も江青も林彪も劉少奇もトウ小平も、全て等距離から客観的に見られるような時代になるのを待つ必要があると思われる。

 この時期を記述した多くの本では「左派」「造反派」あるいは「文革推進派」と呼ばれる勢力に反対する勢力を「実権派」とまとめて表現することが多いが、これは必ずしも正しくない。速すぎる人民公社化や農業の集団化に反対する劉少奇・トウ小平らの経済調整路線を支持する人々は「実権派」と呼んでもよいが、「文革推進派」に抵抗した人々が全て「実権派」に賛成の立場であったとは限らないからである。

 「文革推進派」に反対した人々の中には、特に人民解放軍内部においては、「二月逆流」で批判されることになる古参革命軍人と同じように、抗日戦争も国共内戦も知らない若い紅衛兵が社会を混乱に陥れることを許すことができず、軍は社会の秩序を守るために断固とした態度を取るべきだ、と考える「秩序派」とでも呼ぶべき考え方の人も多かったのではないかと思われる。こういった「秩序派」軍人は、紅衛兵による大衆運動に乗っかった「左派」=「造反派」の下に軍をまとめよ、とする1月23日の指示には承伏できなかったのではないかと思われる。

 こういった事情により、1月23日の「軍は左派の下に一本化せよ」との指示は、むしろ軍の中に「左派」に対する反発を呼び起こすことになり、「一本化せよ」との指示がかえって軍の中に亀裂を生じさせることになったのである。この人民解放軍内部の亀裂が最も大きく表面化したのが武漢軍区であった。

 1967年2月8日、人民解放軍内外の「造反派」が漢口の紅旗大楼を占拠し、「長江日報」に「武漢地区の現状に関する声明」(二・八声明)を発表した(三つの街区(武昌、漢口、漢陽)からなる武漢は湖北省の省都)。「二・八声明」では、「武漢地区、湖北地区を徹底的に乱さなければならない。」と宣言して各方面に「造反」を呼びかけた。このため武漢地区は大混乱に陥った。人民解放軍武漢軍区は、中央の軍事委員会文革小組の了承を得た上で、軍が紅旗大楼を占拠したのは秩序の維持と暴力的な闘争を阻止するためであって、「二・八声明」は一部の「造反派」が署名したものであり、軍を代表するものではない、と宣言した。

 毛沢東は、このあたりで紅衛兵の動きの拡大化や「造反派」の行き過ぎは人民解放軍を解体しかねないとの懸念を持ち始めたのかもしれない。春になって人々が動きやすくなる季節が来るのを前にして、党中央は3月に「全国経験大交流」(紅衛兵ならば誰でもタダで列車に乗れたり宿舎に泊まれたりするようにする呼び掛け)を停止することを決定した。

 「現代中国的核工業」(参考資料13)によれば、この時期(1967年3月以降)、毛沢東、周恩来、葉剣英、聶栄臻らは、核兵器の研究開発・製造を担当していた第二機械工業部に対して「文化大革命の中においても、軍事管制を実行し、経験交流をしてはならず、奪権を行ってはならず、生産を停止してはならない」と指示する電報を繰り返し発していた、とのことである。葉剣英、聶栄臻は「二月逆流」で文革推進派グループから批判された古参革命軍人である。毛沢東、周恩来らはこれら古参革命軍人とともに、文化大革命がもたらした人民解放軍内部の分裂が核兵器の研究開発・製造の現場に及ぶことは国家的な危機である、との認識を持っていたと思われる。以下に述べるように林彪・江青らはこの後も「造反派」による「奪権」を進めようとするが、こういった急進的な林彪・江青グループに対しては、この時期あたりから、周恩来はもちろん、毛沢東自身も「危うさ」を感じるようになっていたのではないかと思われる。

 なお、こういった毛沢東、周恩来、葉剣英、聶栄臻らによる核兵器の研究開発・製造現場に混乱が及ばないようにとの配慮が功を奏して、文化大革命の大混乱の中にありながら、中国は1967年6月17日、初めての水爆実験に成功する。初の原爆実験から2年8か月後のことであった。原爆実験成功から水爆実験成功までの期間の短さにおいては、中国の核兵器開発のスピードは、米ソ両国をはるかにしのぐものであった。

 秩序を重視する勢力の盛り返しにより、武漢の状況も一時的に安定に向かった。しかし、このような地方の軍区の秩序の回復は、「造反派」の頂点に立つ林彪・江青らの文革推進グループにとっては、自分たちの勢力が拡大するのを阻害するものだと考えた。そこで文革推進派は、4月1日付け人民日報に文革小組メンバーの戚本禹が書いた「愛国主義か売国主義か」と題する論文を掲載し、さらに紅衛兵たち「造反派」の活動を鼓舞した。この論文では劉少奇国家主席を「中国のフルシチョフ」として明示的に攻撃していた。文革推進派グループは、翌4月2日には、各地に存在する軍内の秩序を重んじようとする勢力に反対するため、人民日報に「革命の小将軍たちに正しく対処しよう」という社説を掲げて、紅衛兵による造反運動を抑圧することを批判した。各地の「造反派」はこれに力を得て、秩序を維持しようとする勢力との間で闘争を強めた。

 文革推進グループに後押しされた軍内部の「造反派」と古参革命軍人らの懸念に共感する秩序を維持しようとする軍内の勢力との闘争は、暴力的な闘争へと発展していく。これらの闘争は、軍内部の人々も巻き込んだ闘争であったことから、現実に武器を使用した暴力的な闘争、即ち「武闘」へと発展していった。当時、民間においても国共内戦時代に使われていた銃などの武器がまだかなりの数回収されずに残っていたことから、軍の外においても、各地で武器を使った闘争が繰り返され、中国はさながら内戦のような状況になっていった。

 武漢では、「造反派」が「工人総部」という組織を作る一方、武漢軍区司令官の陳再道と武漢部隊政治委員の鐘漢華にリードされた「造反派」に反対するグループは「百万雄師」という組織を結成して、両グループの間で武闘が繰り返された。

 毛沢東は、このような状況に対処するため、密かに武闘が起きている四川省や武漢を視察していた。一方、武漢での事態を収拾するため、文革推進派は、この年(1967年)の7月20日、副総理兼公安部長の謝富治と中央文革小組のメンバーで党宣伝部長の王力を武漢に派遣して、武漢軍区の陳再道、鐘漢華らとの会談させた。ところが、「造反派」に反対するグループである「百万雄師」の大衆は、この会談場所へ押し掛け、王力らを軍区の庭に引きずり出し、「質問に答えよ!」などと迫った。しかし、王力はこれを拒否したため、大衆は「王力打倒!」を叫んで、これ以後、4日間に渡ってデモを繰り返した。これが「七・二○武漢事件」である。

 この時、各地を視察途中の毛沢東も武漢にいた。毛沢東がいる武漢で反文革推進派によるデモが発生したことに対して危機を感じた林彪は、軍艦に揚子江を遡上させ、空軍にも出動を命じた。周恩来は武漢軍区の幹部と会談し、全面的な対決を回避するよう努力した。これらの動きにより、毛沢東は無事に武漢を脱出することができた。

 「百万雄師」の大衆が、この時、毛沢東が武漢にいたことをどの程度認識してたのかは不明であるが(「文化大革命十年史」(参考文献14)では、大衆は毛沢東が武漢にいることは知らなかった、との立場を取っている)、毛沢東がいる武漢で騒ぎが起きたことを理由として、林彪・江青らは武漢軍区と「百万雄師」の大衆の動きを「軍事クーデターである」と規定した(なお、この時の大衆の動きは文革推進派によって「反革命暴乱」と呼ばれたが、この言葉は22年後の1989年の「第二次天安門事件」に際して再び登場することになる)。

 文革推進派グループは武漢軍区の陳再道と鐘漢華に対し「武漢事件の対処について協議するので北京に来るように」と命じた。もし彼らが北京に来なければ「反乱分子」と位置付ける心積もりであったが、彼らは7月24日、北京へやってきた。文革推進派グループは陳再道・鐘漢華らを糾弾したが、人民解放軍の徐向前元帥(「二月逆流」と呼ばれた2月の懐仁堂での会議にも参加して批判されたため、この時点では元帥は解任されていたが)は彼らを擁護したため、徐向前も批判の対象とされるようになる。このようにして文革推進派に反対する勢力は、トップから地方の軍区関係者に至るまで、軍の中から排除されていったのである。

 林彪・江青ら文革推進派グループは、この「七・二○武漢事件」を「反革命の軍事クーデター」と規定し、武漢地域に林彪系の軍や宣伝隊、労働者等を派遣して、「七・二○武漢事件」に関与した人々を徹底的に打倒した。「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」(参考資料8)では、この際の武闘により、武漢での死者600人、負傷者6万6,000人、湖北省全体では18万4,000人にも上る死傷者が出た、としている。

 劉少奇国家主席は、これらの武闘における「実権派」の親玉として、「造反派」から徹底的な批判を受けていた。1967年8月5日、毛沢東による壁新聞「司令部を砲撃しよう-私の大字報」が張り出されてから一周年に当たるこの日、人民日報は「ブルジョア司令部を砲撃しよう」と題する社説を掲げて、劉少奇批判の雰囲気を煽った。この日、天安門前広場では、300万人規模の「決起大会」が開かれた。劉少奇やトウ小平の家では、大衆が集まり劉少奇やトウ小平に対する「批闘大会」が開催された。劉少奇国家主席は、腰を屈めて頭を下げ、両手を後ろ側に縛り上げられる姿勢(いわゆる「ジェット式縛り上げ」の姿勢)で長時間に渡り殴打と罵倒を浴びせかけられた。

 こうした動きの中、「軍内のひとにぎりのもの」を摘発せよ、という文革推進派グループの運動はその後も続いた。文革推進派グループの姚登山は、外交部内での権力を陳毅(外交部長から副総理になり「二月逆流」に参加したとして批判されていた)から奪うことに成功した。中央文革小組の王力は、8月7日、姚登山による外交部における奪権を「革命的行動」として称賛し、陳毅を批判した。しかし、従来の外交部のやり方を批判する、ということは、長く中国外交の中心を担ってきた周恩来総理を批判することでもあった。

 前節で、一部の急進的な文革推進派のグループが周恩来を批判するところまで来ると、毛沢東はそれを許さなかった、と述べた。周恩来は人民に絶大な人気があり、また政権運営上、毛沢東にとって周恩来は政治の実務を取り仕切るために必要不可欠な人物だったからである。周恩来を批判したグループの一つに、文化大革命がスタートした「五・一六通知」を記念して作られた「首都紅衛兵五・一六兵団」というグループがあった。「五・一六兵団」は王力の演説に力を得て、再び周恩来批判の動きをし始めた。周恩来傘下にあるいくつかの政府部門では、周恩来からの奪権を狙う動きが始められた。

 この期に及んで、毛沢東は「極左」に対する態度を明確にする。武闘が盛んに繰り返されている状況、別の言葉で言えば文革推進に反対する勢力がまだまだ相当に強力である状況において、文革推進派が人民に絶大な人気がある周恩来を批判する動きをすることは、逆に文化大革命の推進自体に対する人民大衆からの大きな反発を引き起こす恐れがあり、「劉少奇の打倒」という毛沢東にとっての文革の最終目的が頓挫する危険性が生じる、と考えた毛沢東は、「極左」の動きをこれ以上広げてはならない、と判断するに至ったのである。毛沢東のこの意向を受けて、林彪・江青らは、9月初め、手のひらを返したように「首都紅衛兵五・一六兵団」のリーダーを逮捕した。8月22日に紅衛兵によるイギリス公館焼き討ち事件が発生したことも毛沢東を慎重にしたと考えられる。過激な「造反派」の行動のエスカレートは、外交上も問題となり、国家にとってマイナスとなる可能性が出てきたからである。

 これ以降、論文「愛国主義か売国主義か」を書いて劉少奇を批判した戚本禹、外交部における奪権を成功させた姚登山、「七・二○武漢事件」で「反造反派」から罵倒され、その後、姚登山の奪権を称賛した王力など、筋金入りの「文革推進派」と見られていた人々が「『五・一六兵団』を裏で操っていた『極左』の黒幕」として逆に失脚していくことになる。この文化大革命のひとつの転換時期において、林彪・江青らは、うまくくるりと立場を回転させて「極左」を批判する側に回って文化大革命を推進する側として生き残った。

 めまぐるしく動く権力闘争の中で、その時々の情勢に応じてうまく立ち回って生き残る林彪・江青らの姿に対し、この頃既に毛沢東は一定の「危険性」を感じていたのではなかろうか。江青は自分の妻であるので、最後まで切ることはできなかったが、毛沢東は林彪については、どこかの時点で切り捨てないと危険だ、とこの頃から思い始めていた可能性がある。

以上

次回「3-3-6:『文革』に翻弄(ほんろう)される有力者たち」
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へ続く。

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2010年3月 2日 (火)

3-3-4:文化大革命下の政治と社会の混乱

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱

 1978年12月から現在に至る中国の改革開放路線は、文化大革命を否定するところから始まっている。従って、文化大革命を批判することは、現在の中国では政治的なタブーでもなんでもない。しかし、この当時を経験した多くの中国の人々はあまり文化大革命時代のことを語りたがらない。外国では、文化大革命については「赤い腕章に付けて、赤い表紙の毛沢東語録を掲げてスローガンを叫ぶ紅衛兵の群れ」「走り幅飛びでファウルをした時には赤旗ではなく白旗を揚げる」「輪タク屋が汗を流してペダルを漕いでいる後ろで客が客席にふんぞり返っているのはブルジョア的だから、輪タクのペダルは客が踏むべきである」といった「滑稽なほどに常識はずれなもの」というイメージが強く残っている。しかし、文化大革命の本当の「悲惨さ」を外国のメディアはあまり伝えてはいなかった。文化大革命は、外国人があまり知らない大きな深い心の傷を多くの中国の人々に与えたのである。

 「四旧打破」を叫ぶ紅衛兵たちによる歴史的文物の破壊の嵐の中で、高名な文化人たちも迫害を受けた。1966年8月23日、67歳の小説家で劇作家の老舎ら文化人たちは、首から「黒い仲間」「妖怪変化(中国語で「牛鬼蛇神」)」といったプラカードを下げさせられ、跪(ひざまず)かされて、深夜まで、殴る・蹴るの暴行を受けた。老舎は、翌8月24日未明、入水自殺した(1978年に名誉回復)。

 1950年代後半以降、「革命幹部、革命軍人、革命遺族、労働者、農民」の出身の人々は「紅五類」とされ、「旧地主、旧富農、反動分子、悪質分子、右派分子」の出身の人々は「黒五類」に分類されて、戸籍とともに「トウ案」(「トウ」は「木」へんに「當」=身上調書のこと)として記録され、その「トウ案」は公安当局で保存されていた。こういった区別は、親の世代が何であったかに基づいており、本人の思想や行動とは関係しない一種の「差別構造」であった。本来、文化大革命は、こういった不合理な「差別構造」を破壊して、純粋な平等社会を目指すことを理想としていたはずなのであるが、若くて未熟な紅衛兵たちは、往々にして「文化大革命はブルジョア階級打倒の革命であるから『紅五類』が『黒五類』を打倒して当然である」と解釈して、「黒五類」の人々を迫害した。

 「黒五類」と目された人々や学者、経済的に比較的裕福な暮らしをしていた人々は、紅衛兵から「ブルジョア的である」として「打倒の対象」とされた。紅衛兵たちは、こういった人々の家に押し入り、「ブルジョア的である」とみなされた人々を引きずり出して「糾弾」し、家中を家捜しして「ブルジョア的である」とみなされた高価なものを没収した。公安当局は、こうした行為を取り締まるどころか、むしろ公安当局側から「トウ案」に関する情報を提供し、誰が「黒五類」であるか、といった情報を提供する場合もあった。こうした状況の下、経済的に裕福な家から金銀財宝を「没収」することが公認同然に行われたことから、もっぱら高価な金銀財宝を「没収」することだけを目的にしてこういった「家探し活動」が行われたケースもあったことは否定できない。

 紅衛兵の跋扈(ばっこ)により、街はほとんど無法状態となった。こういった混乱した状況の下で、現在の視点から見えれば「違法」といえる行為がどの程度の数行われたかは知る由もないが、ひとつの例として、「参考文献14:文化大革命十年史」では、1966年8月27日から9月1日に掛けて、北京市南郊外にある大興県で、公安当局から提供された「黒四類」(地主、富農、反革命分子、悪質分子)に関する情報に基づき、「黒四類」の人々及びその家族325人が殺害された事件を記録している。

 大学は完全にその機能を停止した。中国では新学期は9月から始まり、通常、大学の入学試験は6月に行われるが、この文化大革命の運動により、1966年~1976年の間は大学の入学試験は行われなかった。選抜により大学への入学は行われたが、大学は教育や研究の場ではなく、政治運動の場となった。大学の学者・研究者などの「知識分子」は、労働者の実態を知るべきである、として、各地方の農村へ派遣され、労働に従事させられた。これは「下放」と呼ばれていた。

 1966年~1976年の間、大学が機能を停止していたことにより、この期間に大学教育を受けるべき年齢であった1944年頃~1958年頃生まれの人々(2009年の時点で51歳~65歳前後の人々)は現在の中国ではほとんど組織のトップに立っていない。現在の中国の大学や研究所では、この年齢層の研究者が極端に少なくなっている。2009年の時点で、多くの大学の学長や研究所の所長に40代の人々が就任しているのは、こういった事情による。51歳~65歳前後の年齢層に研究所所長や学長になるような経歴を持つ人がいないのである。一定の年齢層の人々が指導的地位に就くことができず、研究者や大学の指導層において、世代交代がスムーズに行うことができない、という意味で、文化大革命は、現在の中国に対しても大きな負の遺産を残していると言える。

 「プロレタリア文化大革命に関する決定」を決定した第8期十一全会の直前の7月29日、大学における混乱状態について議論するため、人民大会堂で「北京市大学及び中学、文化革命積極分子大会」が開催された。この会議の席上、劉少奇は出席者に対して「プロレタリア文化大革命をどのように推進するのか、君たちははっきりとわかっていない。君たちからどうやって革命をするのかと聞かれれば、正直のところ、私もわからない。」と述べた。この発言は、この時点における劉少奇の正直な気持ちだったろうと思われる。これに対し、8月22日、清華大学内に「劉少奇同志が7月29日に行った講話は反毛沢東思想である」との壁新聞が現れた(参考文献14:文化大革命十年史)。これ以降、劉少奇国家主席を名指しで批判する動きが露骨になっていく。

 多くの人々は、劉少奇を擁護することにより、自分が迫害されることを怖れていたが、上記に述べたような紅衛兵らによって作り出されたほとんど無政府状態的な状態に対しては、党の内部にも批判的な考えを持つ人々は多かった。毛沢東と文化大革命を推進しようとする林彪、江青らのグループは、こういった党内に残る「社会の秩序を守ろうとする勢力」に徹底的な打撃を加えるため、再び「大衆を動員する」という作戦に出る。9月5日、党中央と国務院は「地方革命教員・学生の北京訪問と革命運動見学を組織することの通知」を公布した。赤い腕章を着けて「紅衛兵である」と名乗れば、タダで列車に乗ることができ、目的地ではタダで宿泊することができ、食堂ではタダで食事をすることができるようにするという運動で、「全国経験大交流」(中国語では俗称「串連」)と呼ばれた。これにより、多くの地方の学生が北京に集まり、紅衛兵運動は中国全土に広まっていった。

 「全国経験大交流」で北京に集まった紅衛兵たちは「革命戦士」というよりは、「タダで見知らぬ世界を見ることができる」と考えた好奇心にあふれた純粋で素朴な若者たちが多かったようである。当時北京にいた「北京三十五年」(参考文献12)の著者の山本市朗氏は、同書の中で山本氏が実際に会ったこれらの素直な若者たちの姿を暖かい眼で活き活きと描写している。

 「全国経験大交流」の号令は、当時の中国の交通事情の能力をはるかに超える数の人々の移動を促した。ある学生たちは、人々であふれかえる列車に乗れないことから、大連から約1,000キロの道程を徒歩でやってきて北京にたどり着いた。10月22日付けの人民日報は「紅衛兵は遠征の難きをおそれず」と題する社説を掲載し、これらの大連から歩いて北京に来た学生たちを激賞し、さらなる「全国経験大交流」を煽った。

 しかし、各大学では、学生が「大交流」に出掛けてしまったため、若者たちによる「追求運動」のパワーは分散され、この運動が何のために行われているのかわからなくなってしまった。毛沢東や文化大革命を進めるグループは、劉少奇・トウ小平らの「実権派」を打倒するという本来の目的が「大交流」による混乱によって頓挫することを懸念した。そのため、11月末には「大交流は一時中止する。来年、暖かくなったらまた大交流を再開するので、学生たちは、自分たちが所属するところへ戻るように」との布告が出された。しかし、実のところ翌年1967年春になっても「大交流を再開する」との布告は出されなかった。

 1966年の秋の時点において、毛沢東と文化大革命推進派は、自分たちの政敵、即ち劉少奇やトウ小平ら「実権派」と社会の秩序を維持すべきと考える勢力(今の観点から見れば「良識派」と名付けてもよいかもしれない)を圧殺するために、「大交流」による若者たちのパワーを利用したのである。山本市朗氏が描く純粋で素朴な若者たちの姿と毛沢東や文化大革命推進派が抱いていた政治的意図とを見比べるとき、文革推進派の罪深さに思いを致さざるを得ないと思うのは私だけであろうか。

 10月9日から毛沢東は自ら主宰して全国の省、市、自治区の幹部を集めて中央工作会議を開いた。中間レベルの幹部たちの中から反文革派を一掃するためである。毛沢東や林彪が演説を行い、劉少奇とトウ小平は自己批判をさせられた。この会議でトウ小平は「第8期十一全会の開催中に出された毛沢東主席の壁新聞(「司令部を砲撃しよう-私の大字報」)は、すなわち劉少奇同志と私(トウ小平)の司令部を砲撃するためのものであった」と率直に認めた。また、林彪は「劉少奇とトウ小平の路線は、即ち毛主席の壁新聞が言うように『反動的ブルジョア階級の立場に立って、ブルジョア階級独裁を実行する』路線である」とはっきりと指摘した(参考文献14:文化大革命十年史)。こうして文化大革命の目標が名実ともに明確に提示されたのである。12月25日には、清華大学から始まった5,000人規模のデモ行進が天安門前広場へ到達し「打倒、劉少奇!」「打倒、トウ小平!」のシュプレヒコールが繰り返された。

 しかし、この時点に至っても、劉少奇とトウ小平はまだ政治局常務委員であり「失脚」したわけではなかった。彼らが党内で公式に要職を解任され「失脚」するのは、約1年10か月後の1968年10月に行われた第8期十二全会(中国共産党第8期中央委員会第12回全体会議)の場においてであった。逆に言えば、党内での劉少奇やトウ小平の追放にそれだけ時間が掛かった、ということは、この時点では、文革推進派は、まだ中国共産党全体をコントロールできておらず、党内にも劉少奇やトウ小平に密かに同調する考えを持っている勢力や社会的混乱を良しとしない勢力(今の目で見た「良識派」)の力もまだかなりあったことを意味している。

 特に抗日戦争や国共内戦の苦しい時代を戦い抜いてきた古参の革命軍人たちの中には、革命期を知らない若い紅衛兵たちが革命によってようやく築き上げた中華人民共和国の社会をめちゃくちゃな混乱に陥れていることに大きな不満を募らせる者が数多くいた。こうして、1967年は、文革を徹底的に推進しようとする勢力と文革による「行き過ぎ」を是正しようとする勢力が入り乱れ、誰が敵で誰が味方だかわからない混乱の年となっていくのである。

 文革推進派の張春橋、姚文元らは上海市党委員会に対する「実権派打倒運動」を展開し、1967年1月5日、上海の労働者造反派による上海市党委員会の権力の奪取に成功した。上海労働者造反派は、権力奪取に成功した後、既存の党委員会や人民政府を打倒して、コミューン型自治組織の設立を目指した。そして2月5日には、上海の労働者や農民の組織は、旧来の上海市党委員会と上海市人民政府を解体して新しく「上海人民公社」(上海コミューン)が設立されたことを宣言した。この「上海コミューンの設立」は「造反有理」の理念に基づいて、旧来の支配体制を打破する「四旧打破」を徹底して現実化させたものであった。

 しかし、2月12日、毛沢東は、この新しくできた「上海コミューン」という権力体制について「やはり妥当なやり方をした方がよい」と述べて、同意しない旨の発言を行った。自治組織の「コミューン」の設立は北京の党中央から独立した権力構造ができたことを意味し、上海の動きが中国各地に伝播すれば、中国全土はバラバラな「コミューン」の群れに分解されてしまうと考えたからである。ちょうどこの頃、黒竜江省で、革命的大衆・革命的軍人・革命的党員の「三結合」の方式による権力機関「革命委員会」が設立されていたことから、上海においても、「上海コミューン」は、2月24日に「上海革命委員会」と改称されて、その短い命を終えた。「造反有理」「革命無罪」とは言いながら、毛沢東が掌握する党中央に対する「造反」や党中央からの「独立」は許されなかったのである。この上海での動きは、文化大革命が「混乱を拡大させる方向」から「混乱を収拾させる方向」へ方向転換するひとつのきっかけとなった。

 一方、党中央では、革命を知らない紅衛兵世代のため引き起こされた社会的混乱に対する古参の革命軍人らの不満が爆発する事件があった。2月16日、中南海(中国共産党本部がある場所)の懐仁堂という建物において、周恩来の主催で、党、政府、軍の関係者の会議が開かれた。この会議は日常的に関係者の意見を調整する会議であった。この日の会議で、陳毅、葉剣英、徐向前、聶栄臻、李富春、李先念、譚震林、余秋里、谷牧ら古参の革命軍人らのグループと康生、陳伯達、江青、張春橋、姚文元ら文革推進派のグループとの間で激しい議論(ののしり合いも含む)が行われた。譚震林は、この会議の翌日、林彪に対して「江青は則天武后よりはるかに凶悪である」とののしる手紙を送った。林彪はこの手紙を毛沢東に見せた。毛沢東は、2月18日、文革推進派を罵った古参革命軍人たちを批判する態度を明らかにした。

(注)則天武后:西暦624年~705年。唐の第3代皇帝高宗の皇后で、高宗の死後、皇帝の権力を簒奪(さんだつ)して帝位に就き、国号を「周」に改めた。

 2月25日以降、7回にわたり「政治生活会」と称する会議が開かれた。実質的に古参革命軍人グループを批判する会議だった。それ以降、懐仁堂での会議のような党・政府・軍の打ち合わせ会議は開かれなくなった。党政治局、党軍事委員会常務委員会は機能を停止し、その代わりに文革小組と党軍事委員会事務組が党と軍を牛耳るようになり、党と軍は文革推進グループの手に掌握されるようになった。古参革命軍人らが懐仁堂の会議で文革推進グループを批判した事件は「二月逆流」と呼ばれるようになった。

 毛沢東の意向を背景として、江青はまず自分を「則天武皇より凶悪」と罵った譚震林を標的として「譚震林打倒!」の運動を展開した。それに引き続いて、陳毅、余秋里、谷牧らに対する打倒運動が展開された。これら古参革命軍人らは、抗日戦争期、国共内戦期の歴戦の勇士であり、多くの人々から尊敬を集めていたことから、一部の人々は「二月逆流」批判の運動に対して反発した。しかし、そういった古参革命軍人らを擁護する人々は、「プロレタリア文化大革命に反対するブルジョア勢力」として批判闘争の対象とされていった。

 周恩来も古参革命軍人らに対する攻撃には批判的だった。周恩来は様々な手段を使って党に対して功績のある人々を守ろうとした。そのため、林彪、江青ら文革推進グループは「周恩来こそ『二月逆流』の黒幕だ」とみなした。一部の急進派の文革推進グループは周恩来を批判する壁新聞を登場させた。しかし、周恩来に対する批判は、多くの大衆から猛反発を受けた。周恩来は、それまであまり自らが政治運動の先頭に立つことはしなかったが、着実に政策実務をこなし、優れた外交手腕を発揮する実務家タイプの政治家であり、毛沢東が持つ畏怖感を与えるカリスマ性とは異なる親近感の持てる指導者として、多くの人民から大きな敬愛を集めていた。毛沢東もその政権を維持するためには周恩来の実務能力と外交手腕を絶対的に必要としていた。

 毛沢東が政治の実務において周恩来を必要としていたことは、「第3章第1部第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国」で述べた実例が示している。中華人民共和国直後、毛沢東は建国期の援助を求めるためソ連を訪問したが、この時、スターリンは毛沢東を軽くあしらったために交渉は難航した。そこで、毛沢東は急きょ周恩来を北京からモスクワに呼び寄せて、ソ連との間で交渉に当たらせ、「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結することに成功したのである。周恩来の外交手腕は、1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議において、中国を開発途上国をリードする国として位置付けることに成功したことでも示されているし、後にニクソン訪中実現の際にも大いに発揮され、中国の国際的地位の向上に大いに貢献した。実際、毛沢東自身、周恩来を信頼できる実務をこなせる優秀な副官として、生涯、全幅の信頼を置いていたと思われる。

 従って、毛沢東は、林彪や江青ら文革推進グループが古参幹部を批判することは許していた中で、周恩来を攻撃することだけは認めなかった。そのため、文革推進グループにとっては、周恩来は「目の上のたんこぶ」的存在となった。この周恩来と文革推進グループとの対立関係が、林彪が失脚した後、文化大革命後半の1973年頃に江青らが周恩来を標的として展開したとされる「批林批孔運動」や、1976年に周恩来の死後、周恩来の死を悼む北京市民の気持ちを蹴散らした「第一次天安門事件」として後に現実のものとして噴出していくことになるのである。

以上

次回「3-3-5:『七・二○武漢事件』をはじめとする『武闘』」
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へ続く。

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2010年3月 1日 (月)

3-3-3:【コラム:文化大革命と大学紛争】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第3節:紅衛兵の登場と狂乱

【コラム:文化大革命と大学紛争】

 文化大革命による大学生らの旧来の体制に対する「造反」の動きは、中国にいた外国人記者の手を通じて世界に報道された。どこの国でもいつの時代でも10代から20歳前後の若者たちは、「大人」が決めた秩序を疑問に思い、反抗し、変革を求めるものだが、「造反有理」「革命無罪」という毛沢東のスローガンは、中国の紅衛兵たちと同じように、既存の社会秩序に疑問を抱く世界の多くの若者たちの心を揺さぶった。こうして、1960年代後半、多くの国において若者たちによる既存体制への反抗運動、大学紛争の嵐が吹き荒れるのである。そして「カルチェ・ラタン」(パリの大学街の地名)や「いちご白書」(アメリカの大学紛争を背景とした映画の題名)といったこの時代を過ごした人にとっては懐かしい単語が耳に入るようになるのである。

 「学生らが集団で大学当局者や教授に三角帽子を被せて『糾弾』する」という「文化大革命風」のスタイルは、大学紛争におけるひとつの「流行スタイル」となった。私は1976年に大学に入学したが、私の通っていた大学では、1976年の時点においても、このようなスタイルの「糾弾集会」は、まだ行われていた。ただし、私が通っていた大学で見る限り、このスタイルの「糾弾集会」は1976年に行われたのが最後で、それ以降は行われなくなった。これは1976年10月に文化大革命を推進していた「四人組」が逮捕されたことと関係していると思われる。これも、日本における「大学紛争」が、中国における文化大革命に大いに影響を受けていたことを表していると言えるだろう。

 なお、大学紛争当時の学生らのアジ演説でよく使われた「○○○を総括し去って・・・」などという言いぶりの中の「去って」の部分は、「ある動作を続けていく」「ある状態になっていく」という時に使う中国語の「下去」をそのまま日本語に読み下したものである。

以上

次回「3-3-4:文化大革命下の政治と社会の混乱」
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へ続く。

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3-3-3:紅衛兵の登場と狂乱

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第3節:紅衛兵の登場と狂乱

 「五・一六通知」を受けて、5月25日、北京大学で、北京市党委員会大学部と北京大学党委員会を批判する壁新聞が張り出された。この動きは、北京にあるその他の大学などへも直ちに波及した。多くの学生たちは、この動きの背景に毛沢東がいることを薄々感じており、大学当局を批判する動きを密かに始めていた。

 清華大学附属中学では、5月29日、一部の学生により、毛沢東思想の絶対的権威を確立すべきだと考える「紅衛兵」が密かに組織された。

(注1)中国における「中学」は、日本の中学校に相当する「初級中学」と日本の高校に相当する「高級中学」からなるが、清華大学附属中学は、清華大学キャンパスのすぐ北側に位置する初級中学・高級中学一貫校(6年制)である。この学校は、現在では、多才な人材を養成するための英才教育を行う有数のエリート校として有名になっている。

 同様の組織は、北京大学附属中学、北京鉱業学院附属中学、北京第二十五中学等でも組織された。これらの組織には当初様々な名称が付けられていたが、次第に「紅衛兵組織」という統一した名称で呼ばれるようになっていった。

 6月1日、5月25日に北京大学で張り出された壁新聞の内容が人民日報に掲載され、全国向けラジオ放送でも放送され、翌日の人民日報には「北京大学の壁新聞に歓呼する」と題する評論が掲載されたことは先に述べた。こういった人民日報等の報道は、密かに動いていた学生たちの動きに「お墨付き」を与え、学生たちの運動を急激に加速することになる。各大学や中学(日本の高校に相当)では、学校当局を批判する運動が一気に盛り上がり、正常な教育運営が難しくなった。学生らは「毛主席を支持し、毛沢東思想の権威を打ち立てる」と叫んでおり、人民日報がそれを支持する方向の記事や評論を掲載したことから、学校当局側も学生らの動きを抑える理屈を構築するのに苦慮した。

 劉少奇とトウ小平は、大学等における混乱を憂慮し、当時、浙江省杭州にいた毛沢東のもとに赴いて事態を報告するとともに、今後の対応を相談した。毛沢東は「自分はしばらく北京に戻る意志はないこと」「劉少奇とトウ小平に事態の把握と処理を委ねること」を伝えた。劉少奇とトウ小平は直ちに北京に戻って、政治局拡大会議を開き、各大学に「工作組」を派遣して事態を収拾することを決定した。劉少奇とトウ小平は電報で杭州にいる毛沢東に同意を求め、毛沢東はこれに同意した(参考資料14:文化大革命十年史)。

 党中央は、大学における混乱を避けるため「壁新聞の街頭張り出し禁止」「集会は学内で行う。学外集会は禁止」「街頭での運動・デモは禁止」「大規模糾弾集会禁止」などからなる「中央八条」を決定した。「工作組」は、この「中央八条」に従って大学における学生の運動の収拾に当たった。しかし、学生たちは「中央八条」の決定や大学への「工作組」の派遣を「上からの締め付け」だと受け取り、混乱収拾に当たろうとする大学当局と「工作組」に反抗した。

 6月8日、北京郵電学院では学生らにより「工作組」は学外へ追放された。6月18日、北京大学工作組は会議を招集したが、学生らはこれを無視し、大学当局幹部約60名を「黒い分子」として捕まえてきて、三角帽を被らせ、顔に隅を塗り、体には壁新聞を貼り付けて、殴る蹴るの暴行を加えた上、市街地を引き回した。これが「六・一八事件」と呼ばれる事件である。これ以降、批判の対象となる幹部らに三角帽子を被せて糾弾する、というスタイルは、文化大革命期における一種の「定形スタイル」となった。

 北京大学の動きは、北京の多くの大学に伝染し、多くの大学で「工作組」が追放された。しかし、「工作組」として劉少奇夫人の王光美が派遣された清華大学だけは別で、清華大学では、「工作組」追放を提案した学生が逆に批判され、「工作組」を支持する、と主張する清華大学の一部の学生や教員らによるデモが行われた(参考文献14:文化大革命十年史)。このことは、後に劉少奇が失脚する一つのきっかけになる。

 なお、この文化大革命初期における北京大学と清華大学の反応の違いが、中関村北大街を挟んで隣接するキャンパスを持つ北京大学と清華大学において、「北京大学=理想主義」「清華大学=現実主義」という形で「伝統の違い」として現在に至るまで生き続けていることは注目に値する。現実主義の上に立脚した改革開放路線を進めている現在において、何かに付けて清華大学の方が北京大学より上を行っているように見えるのは、こういったところに遠因があるのかもしれない。

 こういった北京の大学において混乱が拡大する中、7月16日、毛沢東は、突如、武漢に姿を現し、長江(揚子江)を遊泳してみせた。その様子は、7月25日付けの人民日報などの新聞各紙で写真付きで一斉に報道された。前年、11月26日にカンボジア代表と会談して以降、新聞等のニュースに登場していなかった毛沢東については、72歳という高齢から、国内外の多くの人々は毛沢東の健康状態が実はあまりよくないのではないか、と考えていた。そんな中で毛沢東が中国の象徴とも言える長江で遊泳してみせ、その健在ぶりをアピールしたことは、多くの人々に、この頃の様々な政治的な動きが実は毛沢東が裏でコントロールしていたものだったのだ、と思わせるのに十分だった。

 揚子江を泳いだ翌々日の7月18日、毛沢東は長らく不在にしていた北京に戻った。これを知った劉少奇国家主席は、直ちに毛沢東の自宅へ向かった。毛沢東の自宅の前には数台の車が止まっており、家の明かりは点いていて、毛沢東が誰かと協議していることは明らかだったが、守衛は劉少奇国家主席に対して「毛主席(毛沢東は中国共産党主席)は北京に戻ったばかりで非常に疲れており、既に寝ている」と述べ、劉少奇を追い返した。翌日、劉少奇と会見した毛沢東は「工作組の派遣は間違いだ」と明言した(参考文献14:文化大革命十年史)。毛沢東のこうした対応に劉少奇は困惑した。工作組の派遣については、毛沢東に電報で報告し同意を得ていたからである。劉少奇は、この時点でも、一連の動きが自分(劉少奇)を追い落とそうとしている毛沢東の意図に基づくものであるとは思っていなかったようである。

 8月1日には、毛沢東は清華大学附属中学の紅衛兵に「造反することには道理がある。私はあなたたちを熱烈に支持する。」と書いた手紙を送った。清華大学附属中学の紅衛兵たちは、この手紙を直ちに公開した。「尊敬する偉大な指導者・毛沢東」から直接「熱烈に支持する」と言われた「造反派」の若者たちは熱狂した。

 「造反することには道理がある(=「造反有理」)」という言葉は、もともとは、毛沢東が抗日戦争中の1939年12月21日、当時根拠地にしていた延安において行われたスターリン60歳誕生祝賀会」で述べた言葉「マルクス主義の道理には千万条あるが、根本は『造反有理』の一言である」が出発点である。この「造反有理」という言葉は、「革命無罪」という言葉と対句になって、このあと、紅衛兵の間でスローガンとして盛んに使われるようになる。

 8月1日から12日まで第8期中国共産党第11回全体会議(第8期十一全会)が開催された。その最中の8月4日、「中央文化革命小組」組長の陳伯達は清華大学へ出向き、工作組追放に反対する動きを批判する大会に出席し、工作組追放を提案した学生の名誉回復を行った。清華大学において工作組追放に反対する運動を指導したのは劉少奇夫人の王光美であったことから、これらの動きも劉少奇追い落としのための動きの一環であったことは明らかであった。

 8月5日、毛沢東は中南海(中国共産党本部のある場所)の中庭に「司令部を砲撃しよう-私の大字報」(「大字報」とは壁新聞のこと)と題する壁新聞を貼り、これを「光明日報」で公表した。名指しこそしていなかったものの「司令部」とは、国家主席・劉少奇であることは明らかだった。党の主席が党本部において「壁新聞」を張り出すこと自体異様なことであるし、党の主席が「司令部を砲撃しよう」と呼びかけることは自己矛盾に満ちているが、この「私の大字報」により、党内幹部の多くは、毛沢東が何を考えているのかを理解した。

 8月8日、第8期十一全会は「プロレタリア文化大革命に関する決定」(16項目からなることから略して「十六条」と呼ばれる)を採択した。この決定のポイントは「党内の資本主義の道を歩む実権派」に打撃を加えることと、思想・文化・風俗・習慣の「旧い四つ」を打破すること(「四旧打破」)であった。第8期十一全会は、11名の政治局常務委員を選出したが、劉少奇はナンバー2からナンバー8に格下げされ、ナンバー2の地位には国防部長の林彪が就き、林彪は「副主席」と呼ばれることとなった。形式上、この時点でも国家主席は劉少奇であったが、劉少奇は、この時点では既に政治的実権を失っていた、と言ってよい。この政治局常務委員の序列が決まったことにより、中国人民と全世界の人々は、何が起こったのか、即ち、劉少奇が政治権力を失ったことを明確に理解したのだった。

(注2)この時の政治局常務委員の序列では、トウ小平はナンバー6に位置していた。「格下げ」になったとは言え、劉少奇もトウ小平もまだ政治局常務委員ではあり続けていたので、彼らはこの時点では「失脚した」というわけではなかった。党内には、まだ劉少奇やトウ小平を支持する勢力もかなりいたことを思わせる人事である。

 8月12日、これまでの毛沢東の著作をまとめた「毛沢東選集」が発売された。また、この頃、1964年に国防部長の林彪が兵士たちに毛沢東思想を教育するため作成して与えていた毛沢東の発言のエッセンスをまとめた赤い表紙の小冊子「毛沢東語録」が一般向けにも発売された。

 8月18日、天安門前広場では「文化大革命祝賀大会」が開かれ、100万人の人々が集まった。この「文化大革命祝賀大会」の様子は、人民日報等の紙面で大々的に報道されたが、人民日報に掲載された40枚近い写真のうち、劉少奇が写っている写真は1枚もなかったという。逆に序列24位の江青が写っている写真は多数あった、とのことである(参考資料14:文化大革命十年歴史)。

 これから2年弱前の1964年10月1日、中華人民共和国成立15周年を祝う国慶節の人民日報のトップには、毛沢東中国共産党主席と劉少奇国家主席の顔写真が同じ大きさで載っていた。

(参考URL)2008年の国慶節に当たって「人民日報」のホームページに掲載された「写真集:人民日報上の国慶節(14)」1964年10月1日付け「人民日報」1面
http://politics.people.com.cn/GB/101380/8111769.html

 人民日報の報道の仕方を見ても、時代が変わり、ナンバー2の実力者だった劉少奇の権力基盤が失われつつあることは誰の目にも明白だった。

 この8月18日に行われたこの「文化大革命祝賀大会」をきっかけとして、若い紅衛兵たちによる「四旧打破」を行う様々な運動が中国全土へ広がっていった。

 これらの動きは外国人記者によって海外でも報道された。この頃私が住んでいた仙台を中心とする東北地方で販売されている新聞「河北新報」の1966年8月25日付け夕刊は、この頃の中国の様子を伝える記事を1面トップに載せた。見出しは「紅衛兵旋風 上海・天津にも波及~反革命分子宅を襲う、ラマ教寺院も破壊される(北京)」「輪タクは客が踏め ビラに埋まる北京~預金利息停止せよ~」というものだった。この紙面にはポイントとして以下のような記事が載っている。

「北京8月24日発:ロイター=共同」

○「私は革命に反対した」というプラカードを持たされて行進させられている男を取り囲みながら紅衛兵がスローガンを叫んで気勢を上げている。

○「北海公園」のチベット式の白塔の近くにあるラマ教寺院の壁からかなりの数の仏像がえぐり出された。

○公園の入り口には「若い男女がさびしいところで逢い引きし『他人の目をひくような行為』をすること」「夜遅くまでラブレターを書くようなこと」などに断固反対する、と書かれている。

○外国外交官とその家族が住んでいるアパートでも、紅衛兵らの来襲を受けていることから、これを防ぐため各戸口に毛主席の肖像画を掲げている。

「北京8月24日発:共同」

○紅衛兵の要求書、建議書には次のようなものがある

・現在の国歌である「義勇軍行進曲」を廃止して歌曲「東方紅」を国歌にしよう。今の国歌は反動分子である田漢の作詞だからである。

・預金の利息、貸付金の利子支払いを停止しよう。

・中国将棋、チェス、トランプなどは廃棄せよ。中国将棋のコマの名称は封建的であり、チェスやトランプは資本主義の遊びだ。

○さらに「AFP=時事」によると、紅衛兵は以下のような警告、指示を出している。

・ブルジョア分子は筋肉労働をすべきである。

・高級レストランを廃止せよ。

・指令を放送する拡声器を全ての街路にとりつけるべきである。

・毛沢東思想の学習は幼稚園から始めなければならない。

・毛思想を反映しない本は全て焼くべきである。

・交通巡査の使っている白い棒は赤旗にかえる。

・ブルジョアの俳優は悪役しか演じてはならない。

○また紅衛兵は次のような指令を出している。

「輪タクを利用する全てのブルジョアは自分でペダルを踏まなければならない(この間、輪タク屋は客席に座っていられる。輪タク屋がペダルを踏まなければならないのは車庫に帰る時と客を待つ場所に行くときだけである)」

 上記の記事で紹介されているほかにも、文化大革命の最中は、様々な「旧来からの常識を覆すこと」が行われた。道路の名前も紅衛兵の手によって「正しい名前」に変更させられた。解放前、外国公館が並んでいた東交民巷という通りは「反帝路」(帝国主義に反対する道路)、ソ連大使館前の通りは「反修路」(修正主義に反対する道路)、王府井にあった市場「東安市場」は「東風市場」(毛沢東語録にある「東風が西風を制する」にちなんだもの)などというように通りの名称や地名が変えられた。これら「文革風」に変えられ通りの名称や地名は、1983年2月に私が始めて北京を訪問した時には、まだその一部が看板や地図の上では残っていた。

 このほかにも「赤旗は『正しい色の旗』なのだから、走り幅跳びでファウルの時に赤旗を上げるのはけしからん」ということで、走り幅跳びでは、ファウルがあった時には白旗を、ファウルがなかった時に赤旗を上げることにした、というような陸上競技のルール変更があったりした(これは私も当時のそういう競技大会の映像をテレビで見たことがあるので、中国の国内競技大会ではこのルール変更は実際に行われていたらしい)。

 また、「赤い色は『前進』の象徴なのだから、交通信号が『赤は止まれ』となっているのはおかしい。交通信号は『赤になったら進め』に改めるべきである」という主張があったらしく、映画「ラスト・エンペラー」では、文化大革命の時代を描写する場面で、信号待ちをしていた自転車の大群が信号が赤になった途端に動き出す、という場面が出てくる。ただし、そもそも中国では自転車に乗っている人は普通は交通信号を守らないので、たくさんの自転車が信号を変わるのをきちんと待っている、という場面は実際の中国の雰囲気からするとかなり「不自然」であって、この交通信号の場面はいささか「まゆつば」な感じがあり、映画「ラスト・エンペラー」の映画制作者による「作り話」である可能性がある。

 いずれにせよ、これらの話に象徴されるように、「四旧打破」の名の下にありとあらゆる旧来からの「常識」が破壊された。中国社会に残っていた前近代的な部分が一掃された、という前向きの部分はあるにせよ、多くの貴重な文物が破壊されるなどこの文化大革命は大きな社会的混乱を招いていくことになる。中国共産党内部には、こういった社会的混乱を収拾し、政治を正常な状況に戻そうとする勢力もまだかなり強く残っており、この後しばらく政治的にも混乱した状況が続くことになる。

以上

次回「3-3-3:【コラム:文化大革命と大学紛争】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-e8fd.html
へ続く。

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