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2010年2月 9日 (火)

3-1-1:国共内戦

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第1節:国共内戦

 日本の敗戦により、中国国内では国民党と共産党との争いが表面化する。今の目で見ると、中国における国共内戦は、資本主義社会を守ろうとする国民党と社会主義社会を建設したいと考える共産党との争い、と見ることができる。しかし、それは米ソ両大国が対立した冷戦構造を経た現在から見たいささか単純化した見方である。単なる資本主義と社会主義の対立、といった視点だけから見ると、なぜ多くの中国人民が結果的に中国共産党支持に傾いていったかを理解することはできない。

 そもそも国共内戦に勝利した中国共産党は1949年に中華人民共和国を成立させ、現在に至っているのであるが、中華人民共和国の成立により「社会主義体制が確立した」と考えてよいのかどうか自体、なお議論を要するところである。ソ連は1917年のロシア革命から1991年のソ連の崩壊まで、一貫して70年以上に渡り社会主義体制を堅持してきた、と言ってよい。しかし、中国の場合、1978年に始まり現在まで続いている改革開放路線は、原則的な社会主義とはかなり異なっている。中華人民共和国は、2008年で改革開放30周年を迎え2009年には建国60周年を迎えたが、これは中華人民共和国の歴史の中では、改革開放路線になってから後の期間の方がそれ以前よりも既に長くなったことを意味している。

 中華人民共和国建国直後の1950年代前半は、非共産党系の勢力とも協力しながら経済建設が進められた。1950年代後半から急激な社会主義化が進められるが、これから述べていくように、その過程で「大躍進政策」による経済的荒廃があり、それを修正した1960年代前半の「経済調整の時代」へと続き、さらにその経済調整路線に対して毛沢東が大反撃に出た「文化大革命」が1966年~1976年まで続き、1978年以降は市場経済原理も取り入れた現在の改革開放路線に転換したこと、などを考えると、ソ連とは異なり、中華人民共和国の歴史においては「典型的な社会主義体制」が安定して存在していた時期はない。1992年頃以降、経済成長のレールに乗った現在の中国は、比較的安定した体制が維持されている、と言えるが、現在の改革開放政策下にある中国のあり様が国共内戦時に多くの人が求めていた社会主義体制と同じであるかどうかは、はなはだ疑問である。従って、「国共内戦の結果、中華人民共和国が成立した」という記述は正しいが、「国共内戦の結果、中国において社会主義体制が確立した」という記述は事実としては正しくない。

 それでは「国共内戦」とは何だったのか。

 1945年8月15日、日本の敗戦が決まった時、中国の人民が願ったことは「戦争状態の終了=平和の確立」「外国支配からの脱却」「民生の安定・向上」の3つであることは明らかだった。中国の人民にとって、この3つを保証してくれるのであれば、政治を担うのが国民党でも共産党でもどちらでもよかったのである。別の言い方をすれば、国民党と共産党のどちらが、この3つを確実にもたらしてくれるか、が中国人民がどちらを支持するかの判断基準であった。「国共内戦」とは、中国人民の多数が、中国国民党より中国共産党の方が上記の3つを保証してくれそうだ、との期待に基づく選択をする過程だったのである。

 上記の3つの当時の中国人民の願いは、孫文が掲げた三民主義(民主主義・民族主義・民生主義)に重なっている。孫文は、最終的には議会制民主主義を目指していたが、歴史的に長い期間にわたり東洋的皇帝支配になじんできた中国社会に西欧型の議会制民主主義が定着するには相当の時間が掛かる、と考えていた。そのため、孫文は、中国革命は「軍政」「訓政」「憲政」の3段階を経る、と提唱していた。最初の段階では、中国をひとつにまとめて外国勢力を追い出すために軍事力を背景とした強力な中央政府を作り(軍政)、続いて軍事力から脱却して優れた文官政治指導者がリーダーシップを発揮して国の基盤を作り(訓政)、最後に憲法に基づき国民の選挙により政治担当者を選ぶ議会制民主主義政権(憲政)に移行すべき、と考えたのである。孫文が辛亥革命の当初の1912年に軍閥政治家・袁世凱に臨時大総統の職を譲ることを決意したのも、革命当初は「軍政」によって外国勢力と対抗することが重要と考えたからであった。

 孫文の跡を継いだ蒋介石もこの考え方を踏襲していた。外国勢力を駆逐しようとしている時期においては、「軍政」により政治を運営し、それが終わった後はしばらく優れた指導者が政治をリードする「訓政」の時期を設けて国内の安定化を図り、しかる後に議会制民主主義による「憲政」を確立すべき、と考えたのである。蒋介石は1928年の「北伐」の終了時に、既に「軍政」から「訓政」への移行を宣言していた。この宣言は、別の見方をすれば、しばらくは選挙を行うことはせず、国民党が国全体の指導主体として政策運営に当たり、国内政治の安定化を図ること宣言したことに等しい。この考え方に基づいて、蒋介石は、安定した政治運営に対する対抗勢力となりうる中国共産党の動きを警戒し、日本に対して中国全体が一致して戦わなければならない時期にあっても、中国共産党の勢力をいかにしてつぶしていくかに腐心していたのである。

 こうした蒋介石の考え方は「西安事件」(1936年12月)によって成立した第二次国共合作後においても全く変わることがなかった。共産党系の軍隊である新四軍を国民党軍が攻撃した1941年1月の「新四軍事件」(「第2章第3部第5節:日本の敗戦(2/2)」参照)はその典型例である。こうした状況から、多くの人々は、もし抗日戦争に勝利して日本が中国から撤退したら、今度は国民党と共産党による内戦が勃発するのではないか、と憂慮していた。

 非共産党勢力の中にも蒋介石政権の中にある国民党独裁の傾向に危機感を抱き、第二次国共合作による統一抗日戦線を継続させ、戦争終了後も国民党と共産党とその他の党派が連合協力して国家建設に当たるべきと考える知識人が多くいた。こうした知識人たちは、「新四軍事件」直後の1941年3月、中国民主政団連盟を成立させていた。

 1944年6月、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において連合国側がノルマンディ上陸作戦を敢行し、その後ドイツの敗色が濃厚になり、太平洋戦線においても日本が連合国側に押されて撤退を繰り返す状況を見て、日本の敗戦の可能性が見え始めると、日本との戦いが終わったら中国国内での国共の対立はどうしても避けるべきとの機運が高まった。蒋介石政権の足下である重慶にもそういった考えの知識人は多くいた。1944年7月、重慶の有力知識人が国民政府を改組して連合政府を設立すべきとの声明を発表した。それと時を同じくして、中国民主政団連盟は、新しい綱領を採択して中国民主同盟と改称した。この頃、アメリカも中国国内での対立を回避させ一致して日本に当たるようにさせるため、特使ハーレーを重慶と延安に派遣して、国民党と共産党との協力体制の確立を模索していた。

 ドイツが降伏した1945年5月、中国国民党は第6回全国大会を開催し、孫文が唱えた三段階のうち「憲政」に入ることを宣言した。これは国民党が主導する国民大会によって政権を運営する、というものであった。この宣言は、中国国内に「連合政府構想」が生まれつつある状況を踏まえ、戦争終結をにらみ、終戦後の政権の主導権を握ろうという蒋介石の意思表示であった。同じ時期に開かれた中国共産党第7回党大会において、中国共産党側は、国民党側の考え方を拒否する考えを示した。

 中国共産党勢力は、アメリカもその存在を意識していたように、政治勢力としては無視できないものになっていたが、国際政治の舞台においては、あくまでも蒋介石の国民政府が中国を代表する政府であった。1943年11月、エジプトのカイロにおいて、アメリカ、イギリス、中国の首脳が集まって対日戦遂行の基本方針が話し合われた。この会議に出席したのは、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相であり、中国からは蒋介石が出席した。この会議後に発せられたカイロ宣言では、「満州」(中国東北部)、台湾島の中華民国への返還、朝鮮の独立等が盛り込まれ、カイロ宣言の骨子は後のポツダム宣言に引き継がれた。

 アメリカは1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆を投下した。一方、8月8日にはソ連が日本に対して宣戦を布告して8月9日「満州国」等の日本占領地域への侵攻を開始した。これにより日本の敗戦は決定的となったが、ソ連は、日本によるポツダム宣言受諾発表前日の8月14日、モスクワにおいて、日本敗戦後の中ソ関係を規定した「中ソ友好同盟条約」を蒋介石の国民政府との間で締結した。これは、日本の敗戦の時点においては、ソ連も中国を代表する政府は蒋介石の国民政府であると認識してしていたことを示している。

 これより前、1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領、、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンがクリミア半島のヤルタに集まり、先が見えつつあった第二次世界大戦終結後の処理についての議論が行われた。ヤルタ会談では、ルーズベルトは、対日戦争を早期に終結させるため、ドイツ敗戦後、ソ連が日ソ中立条約を無視して対日参戦することを要請した。

 この会談では、ソ連は対日参戦に同意すること、日本敗戦の後は千島列島はソ連へ返還されること、ソ連は終戦後の中国における一定の権利(大連港におけるソ連の優先的利益、旅順海軍基地の租借権、東清・南満州鉄道のソ連利益優先の条件下での中ソ共同経営、外モンゴルの現状維持等)を保持すること、等が合意された。これらの合意は秘密裏に行われ「ヤルタ協定」と呼ばれている。8月14日にソ連が蒋介石政権と締結した「中ソ友好同盟条約」は、このヤルタ協定(ヤルタ密約)の中国関連事項について、中国側にもそれを承認させるものだったのである。この条約の締結時、スターリンは、ソ連は日本が降伏した際には3週間以内に撤退を開始し、3か月以内に撤退を完了すると言明したと言われている。

 このソ連が蒋介石政権と1945年8月に結んだ「中ソ友好同盟条約」は、中華人民共和国成立後の1950年2月に改めて締結された「中ソ友好同盟相互援助条約」により破棄されるので、条約としてはほとんど歴史的には意味のない条約であるが、この条約締結は、毛沢東に対して大国主義的なソ連の本質を見せつけ、後に(1960年代)毛沢東にソ連との対立を決意させた伏線になっていたと考えられる。また、この「中ソ友好同盟条約」に含まれている中国におけるソ連の権益を中国に認めさせる条項は、半植民地状態から脱し「外国支配からの脱却」を願う中国人民の中にあっては、蒋介石に対する失望感を呼び起こし、結局は国民党が多くの人々からの支持を失う一因ともなったのである。

 8月15日、日本はポツダム宣言受諾を内外に発表した。日本の敗戦を受けて、中国国内の最大の問題は、いかにして内戦の勃発を防ぐか、であった。中国人民の多くは内戦回避を望んでいた。そういった国内の情勢に押されて、8月28日、毛沢東は重慶に赴き、蒋介石との間でのトップ会談が重慶で始まった。

 この時点では、実力的には、国民党勢力の方が優位であった。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、1946年6月に国共内戦が本格的に勃発した時点での国共両党の勢力は以下の通りである。

兵力:共産党120万人、国民党430万人(1対3.58)

支配地域:共産党229万平方キロ(23.8%)、国民党731万平方キロ(76.2%)

支配地域の人口:共産党1億3,607万人(28.6%)、国民党3億3,893万人(71.4%)

 このようにこの時点での客観情勢としては共産党側は不利であったが、毛沢東は、抗日戦争中に確立した支配地域の国民党支配地域への編入と共産党軍の国民政府軍への統合を拒否した。毛沢東には、中国共産党の下に結集した人民によるゲリラ的な抗日戦争が日本を敗北に追いやったのだ、という自信があり、毛沢東はここで国民党側に妥協する必要はない、と考えていたものと思われる。国共両党の協議は、43日間に渡って行われたが、結局主要な点については合意に達せず、1945年10月10日、内戦の回避と政治の民主化を図るための党派間の協議の場である「政治協商会議」の開催を決定したものの、主要な点については両者の主張を併記したに留まる「双十協定(10月10日に締結されたので、こう呼ばれる)」を調印することで終了した。

 一方、この重慶会談と並行して、日本軍が撤退した後の権力の空白を埋めるために各地に国民政府軍と共産党軍が進駐し、国共両党間で軍事的な緊張が高まっていた。山西省などでは「双十協定」が成立した10月には既に国共両党による戦闘が行われていた。1946年1月、アメリカの仲介により国共両党は停戦協定に調印した。そして、同じ月、「双十協定」に基づいて「政治協商会議」が開催された。この「政治協商会議」の代表構成は、国民党8、共産党7、青年党5、民主同盟2、その他の政党と無党派16、という形で、一応国共両党でバランスを取ったものになっていた。この「政治協商会議」では、政府組織案、憲法草案など国家の骨格をなす計画草案が採択された。

 一方、東北三省では、「中ソ友好同盟条約」締結時におけるスターリンの言明に基づいてソ連軍の撤退が開始され、その後へ国民政府軍による進駐が行われつつあったが、ソ連軍は、何かと言い訳を付けてズルズルと撤退を遅らせていた。一方、国民政府軍は、アメリカの輸送機や輸送船の支援を受けて、中国各地の主要都市の確保を進めて行った。こうして、ソ連軍が撤退した後の東北三省地域を国民政府と共産党勢力のどちらの側が支配することになるのか、が焦点として浮かび上がってきた。

 こういった緊張関係の高まりの背景には、1946年前半の全世界における冷戦の顕在化があった。

 既に1945年2月のヤルタ会談においてルーズベルトがスターリンに対日参戦を促した時、反共主義者のチャーチルはソ連の対日参戦によりソ連の影響力が強大になることを警戒していた。一方、ルーズベルトは対日戦争を早期に終結させるためにはソ連の協力が不可欠であり、ソ連とは協調していける、と考えていた。

 1945年4月にルーズベルトが死去し、アメリカでは副大統領だったトルーマンが大統領となった。トルーマンは、1945年7月17日から開かれたポツダム会議に出席した。会議に出席する前までは、トルーマンは、ヤルタにおいてルーズベルトが行ったのと同様、ポツダムでもソ連に対して対日参戦を要請するつもりであった。しかし、会議前日の7月16日、アメリカ・ニューメキシコ州において原子爆弾の実験に成功したとの知らせがトルーマンのもとに届いたことから、もはやアメリカにとってソ連の参戦は必要不可欠なものではなくなり、ポツダム会談においてトルーマンはソ連に対日参戦を要請をしなかった。一方、ソ連は、8月6日のアメリカによる広島への原爆投下を見て、ソ連が参戦する前に日本が降伏してしまうことは戦後処理におけるソ連の立場を弱めると考えて、急遽、対日宣戦布告を決断したと言われている。これらのことから、広島・長崎への原爆投下が米ソ両国を軸とする冷戦構造の出発点であると考えられている。

 ソ連は、ヨーロッパにおいて、ソ連が占領した地域で共産主義勢力による政権樹立を図り、自国の影響力を行使しようとし始めていた。このことに対する懸念を端的に表現したのが、1946年3月、トルーマンの招きで訪米したチャーチル(既にポツダム会談中に行われた総選挙で敗北して首相は退いていた)がミズーリ州フルトン市の大学で行った「鉄のカーテン」演説である。この演説でチャーチルは「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステに至るまで、大陸を横切って鉄のカーテンが降りている」と述べ、ソ連による秘密主義政策を非難した。

 そうした情勢の下、ソ連は、アメリカによる蒋介石政権への側面支援を牽制する意味もあって、中国東北三省からの撤退をズルズルと引き延ばしていたものと思われる。しかし、ソ連は、1945年8月の時点では、「中ソ友好同盟条約」の締結に見られるように、中国共産党を支援することによって、ではなく、蒋介石の国民政府を支援することによって、中国における自国の権益を維持しようと考えていた。従って、この時期、ソ連が軍事的に中国共産党側を支援するようなことはしていなかった。国民政府軍は、中国全土の主要都市を押さえる、との方針に基づき、1946年3月には、東北地方の鞍山、長春、ハルピンを占領した。

 しかし、世界における冷戦構造の顕在化は、1946年前半頃から、中国の国共対立にも色濃く影を落とすようになった。アメリカは中国での内戦回避の努力を続ける一方、蒋介石政権を支援するため、1946年3月には駐華軍事顧問団を発足させ、6月にはアメリカ議会が対華軍事援助法案を可決させた。上記のように、兵力や支配面積、支配地域の人口においては優位に立っていた蒋介石は、1946年5月、首都を重慶から南京に戻して体制を固め、アメリカからの支援のメドが着いたことを踏まえて、共産党勢力を一気に撃破できると考えて、1946年6月26日、中国の中原地域に存在する共産党支配地域への大規模な攻撃を開始した。こうして、多くの中国人民の平和への願いもむなしく、中国はさらに国共内戦の時代へと突入していったのである。

以上

次回「3-1-2:中華人民共和国の成立」
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へ続く。

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