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2010年2月26日 (金)

3-2-6:「経済調整政策」に対する毛沢東の反撃

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第6節:「経済調整政策」に対する毛沢東の反撃

 1962年1月11日~2月7日まで、中国共産党中央拡大工作会議が開かれた。この会議は、大躍進期の政策を総括するためのものだった。この会議には、党中央のほか、各地方の省級、市・県級の幹部が参加し、その参加者数は7,000人に上った(通常の党大会や全国人民代表大会の参加者数は多くても2,500人前後である)。このため、この会議は「七千人大会」と呼ばれた。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「重大事件」
「七千人大会」
http://cpc.people.com.cn/GB/33837/2534794.html

 この会議の議長は、毛沢東が務めたが、会議をリードする冒頭の書面報告と講話は劉少奇が行った。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の中で著者の天児慧氏は、劉少奇はこの書面報告を事前に毛沢東に見せることなく会議に提出した、と述べ、この会議が、劉少奇とトウ小平のイニシアティブの下で行われたことを指摘している。

 劉少奇は、この会議における講話の中で、1959年~1961年の3年間の状況について、農業は増産どころか減産になっており、工業生産においては4割(あるいはそれ以上)も減産したことを指摘している。そして、その原因に関して次のように述べている。

「ある地域においては主要な原因は天災であったが、別の地域においては減産の主要な原因は天災ではなく、政策の欠点と誤りであった。去年、私は湖南省のある地方へ行ったが、そこでは非常に大きな困難が発生していた。農民にこの困難の原因は何かと尋ねると、彼らは『天災はあったがその影響は小さい。生産が困難となっている原因は、三分は天災、七分は人災だ』と言っていた。ある一面では三年連続の自然災害が影響している面もあるが、別の方面では、さらに大きな影響としては、我々の政策と仕事のやり方(作風)の欠点と誤りが引き起こしたのである。皆さんには、現実の状況に基づいて討論していただき、『実事求是』(事実に即して真理を追究する)によって判断していただきたい。」

(参考URL2)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中国共産党の建国以来の文献選集(1962年)」
「劉少奇:拡大中央工作会議における講話」(1962年1月27日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/26/content_2510812.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 これは約2年半前に彭徳懐が毛沢東に「私信」で忠告したために失脚したことを踏まえれば、劉少奇としては、かなり「意を決した」発言であったに違いない。しかし、大躍進期3年間の農業・工業の減産と各地域での悲惨な状況は覆うべくもない事実であり、毛沢東としても、政策の失敗を認めざるを得なかった。1月30日、毛沢東自身が講話を行ったが、その講話の中で、毛沢東は党内における「民主集中制」の重要性を強調し、会議を民主的に行い、批判と自己批判を行う会議にしなければならない、中央の主要な指導者も党の政策と「作風」(仕事のやり方)に欠点や誤りがあればこれを批判し、自らの責任について自己批判しなければならない、とした。

(参考URL3)「新華社」ホームページ「新華資料」
「毛沢東:拡大中央工作会議における講話」(1962年1月30日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/26/content_2510714.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この講話の中で、毛沢東は「およそ党中央が犯した誤りについては、直接的には私が責任を負わなければならないし、間接的には私にもその責任の一端がある。なぜなら私は党の中央主席だからである。」と述べている。ここの部分について、天児慧氏は、毛沢東が自己批判した部分であることを指摘しつつ、「しかし、同時に『自分が党の中心であって劉少奇ではない』と言っているようでもある。」と述べて、この会議における劉少奇(国家主席)と毛沢東(党中央主席)との微妙な関係を指摘している。

 このように劉少奇とトウ小平のイニシアティブにより、さすがの毛沢東の「指導性」も絶対的なものではなく、相対的なものである、と毛沢東自らが認めざるを得ない状況となったのである。トウ小平が毛沢東の手法との間に一定の距離を持つようになったのはいつ頃からであったのかという点に関連して、天児慧氏は、現在出版されている「トウ小平文選」に収録されている講話や演説が、1957年~1960年3月の期間のもの(反右派闘争から大躍進期に掛けてのもの)が全くないことから、反右派闘争から大躍進期に掛けては、トウ小平は、毛沢東の部下として忠実に毛沢東の指示に従って動いていた、と推測している。「トウ小平文選」にこの時期のものが収録されていないのは、トウ小平は後に改革開放政策を打ち出すに当たって反右派闘争や大躍進期の「誤り」を指摘することになるが、その「誤り」に自らが積極的に参与していたことを明示したくなかったからだ、というのである。

 いずれにせよ、1962年の「七千人大会」において劉少奇とトウ小平がイニシアティブを取り、トウ小平がこの頃に「白猫黒猫論」を述べていることを考えると、大躍進期の社会の混乱の過程で、トウ小平は毛沢東のやり方に疑問を持つようになり、この「七千人大会」の時点では、明らかに自分の考え方は毛沢東のやり方とは異なることを自覚していたものと思われる。

 「七千人大会」の後、「反右派闘争」で処分された党員、幹部の復権も行われた。農業においては生産責任制度(末端単位に生産を請け負わせて生産を任せる制度)の導入により、農業生産力の回復が見られた。「大躍進期」の傷跡から抜け出したこの「経済調整期」の状況について、「北京三十五年」(参考資料13)の中で著者の山本市朗氏は「帰ってきた北京好日」と表現している。

 1962年前半、全国人民代表大会や党の重要会議が数多く開かれた。「反右派闘争」で失脚した党員、幹部の復権も相次いで検討されるようになったことから、1959年の「廬山会議」の後に国防部長を解任されていた彭徳懐は、1962年6月、毛沢東と党中央に対して長文の弁明書(八万字にも上る長文であることから「八万言書」と呼ばれる)を提出した。天児慧氏は「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」(参考資料8)の中で、この時期に開かれた多くの重要会議について、「これらの会議は、劉少奇、トウ小平、周恩来、陳雲らのイニシアティブによって進められた。」と指摘するとともに、これらの会議については「毛沢東は事実上全てボイコットしている」と記している。この年、毛沢東は既に69歳であり、世代交代の時期が迫っていたことは明らかだった。

 しかし、この年の夏以降、毛沢東は反撃に出る。かつて中国共産党では、夏の暑い時期に渤海湾沿岸にある避暑地・北載河で党の重要会議が開かれることが多かった。1962年も7月末から8月に掛けて北載河で党中央工作会議が開催された。この会議で、8月9日、毛沢東は重要講話を行い、冒頭から「今日は共産党が崩壊するか、しないかという問題を取り上げたい」とその重要性を強調して、生産責任制度は、格差拡大をもたらし、共産党の目指す方向性とは異なる、という自らの危機感を表明した(参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』)。さらに9月24日~27日に開かれた第8期中国共産党中央委員会第10回全体会議(第8期十中全会)では、毛沢東は社会主義国家においても反動階級の復活に警戒し、階級闘争が長期に渡って存在することを認めなければならないことを強調した。

 この第8期十中全会においては、彭徳懐の弁明書「八万言書」は受け入れられず、彭徳懐の復権はならなかった。また、前年に制定されたばかりの「農村人民公社工作条例」がより集団化を強める方向(毛沢東が目指す方向)に改正された。明らかに「風向きが変わった」のである。

(参考URL4)「新華社」ホームページ「新華資料」
毛沢東の承認を経て1961年6月15日に制定された「農村人民公社工作条例」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/24/content_2500797.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(参考URL5)「新華社」ホームページ「新華資料」
1962年9月27日に第8期十中全会で議決された「改正農村人民公社工作条例」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/25/content_2505274.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 上記二つの「条例」を詳細に比較してみると、1961年6月に制定された条例にあった「人民公社の規模、特に生産大隊の規模は大き過ぎてはならない」「公共食堂はあってもなくてもよい」といった規定は、1962年9月に議決された改正後の条例では削除されており、人民公社のあり方は毛沢東が当初考えていたものに「揺れ戻って」いることがわかる。

 この1962年8月の時点から始まった毛沢東による反撃と劉少奇・トウ小平ら「経済調整政策」を進めようとする勢力との権力闘争は、1966年に始まった文化大革命による大衆動員により毛沢東側に大きく勢力が傾くことになるのであるが、この1962年1~2月の「七千人大会」から1966年の文化大革命の発動までの間の党内の権力闘争の詳細な状況については、現在見ることができる資料からは必ずしも明確に伺い知ることはできない。1981年6月に採択された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」の中では、この頃の経緯を次のように総括している。

「1962年9月の第8期十中全会の席上、毛沢東同志は、社会主義社会の中にある階級闘争を拡大視して絶対化し、それをプロレタリア階級とブルジョア階級の矛盾は依然として我が国社会における主要な矛盾である、との見方に発展させ、社会主義のこの歴史的段階においてブルジョア階級がまだ存在していてその回復を企図しており、それが党内に修正主義を生む根元となっていると断言した。1963年~1965年の間、一部の農村と少数の都市基層において社会主義教育運動が展開されたが、それは幹部の仕事のやり方や経営管理のやり方に関する問題の是正に一定の効果があったとは言え、いろいろな種類の問題を全て階級闘争あるいは党内の階級闘争が反映したものとみなして、1964年後半には多くの末端の幹部が不当な攻撃を受け、1965年初頭には、いわゆる『党内の資本主義への道を走る実権派』を追放するという誤った方向に運動の重点を設定してしまうことになった。」

(参考URL6)「新華社」ホームページ「資料」のページ
「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」
(1981年6月27日中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議で採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-03/04/content_2543544.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 また、トウ小平は、上記の決議を検討する際に出した意見の中で次のように述べている。

「この時点では毛沢東同志は『左』の誤りを正そうとしていた。(1962年初の)七千人大会での彼の講話は良かった。しかし、1962年7~8月の北載河会議では、また階級闘争を重視しこれをさらに進める方向に転換してしまった。毛沢東同志の(1962年9月の)第8期十中全会における講話は、もちろん階級闘争を提示することによって経済調整政策を攪乱(かくらん)させようとして行われたものではなかったが、この十中全会以降、毛沢東同志はまた階級闘争に力を入れるようになり『四清運動』をやることになってしまった。」

(参考URL7)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選登」-「トウ小平文選第二巻」
「『建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議』の起草に対する意見」(1980年3月~1981年6月)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949705.html

 「四清運動」とは「政治を清める」「経済を清める」「組織を清める」「思想を清める」の四つを進める運動のことで、1964年12月~1965年1月に開催された中国共産党中央政治局全国工作会議で決定された運動のことである。この「四つを清める」という運動の名の下で、様々な問題が全て「階級闘争」の観点から処理され、追放されなくてよい多くの人々が追放されたことを上記「参考URL6」の「歴史問題に関する決議」では述べている。

 劉少奇、トウ小平らが主導する「経済調整政策」は中国国内の経済を回復させた。一方、1963年には70歳になった毛沢東は、休養のために多くの会議を欠席するようになった。このことがこの後も劉少奇らに「経済調整政策」を進めさせる要因になったが、毛沢東は、自分自身の影響力が低下しつつあることに対する危機感を感じ始めていた。

 この頃、世界情勢は、1962年10月の「キューバ危機」を乗り越えて、米ソ両大国が「対立しつつも共存する」という平和共存路線に入りつつあった。1963年8月には大気圏内での核実験を禁止する部分的核実験禁止条約が米ソ英の3か国で署名された。また、ベトナムではアメリカによる介入が強まりつつあった。こうした世界情勢は、「アメリカ帝国主義打倒」とそのアメリカとの平和共存を目指す「ソ連修正主義打倒」を主張する中国の「思想的指導者」たる毛沢東の正当性を証明する役割を果たした。毛沢東は、こうした国際情勢を「中国共産党内にいる『修正主義』を叩く」目的で大いに利用した。1964年10月の中国初の原爆実験成功も、中国のナショナリズムを高揚させ、国際的な「反帝国主義」「反修正主義」を唱える毛沢東を後押しした。

 経済面で「経済調整政策」は比較的順調に進んでおり、経済政策の失敗をネタにして劉少奇・トウ小平グループを攻撃できないと考えた毛沢東は、文芸作品に対する批判を通じて、劉少奇・トウ小平グループを「思想的に批判する」手法を選んだ。従って、毛沢東による本格的な猛反撃は「文芸作品批判」から開始されることになる。この猛反撃の運動がやがて「文化大革命」と命名されることになる理由はここにある。

 こうして「偉大な指導者」毛沢東が70歳を過ぎてから自らの手中に権力を取り戻すために始めた文化大革命(「歴史決議」の表現を借りれば偉大な指導者・毛沢東の「晩年の誤り」)がやがて始まることになるのである。国家主席の劉少奇は文化大革命のさなかの1969年に非業の死を遂げる(当時、劉少奇の死は秘匿された。劉少奇の死亡が公にされたのは1972年になってからである)。一方、トウ小平は文化大革命の荒波をなんとかくぐり抜け、結局は1978年以降、1960年代初頭に劉少奇らとともに自らが始めた「経済調整政策」を本格的に復活させ、「改革開放政策」としてさらに発展させることになるのである。

以上

次回「3-3-1:中ソ論争と文化大革命前夜」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-13eb.html
へ続く。

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