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2010年2月28日 (日)

3-3-2:四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第2節:四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~

 中ソ論争において、中国はソ連を「修正主義」と批判している。当時のソ連は、鉄鋼などの重工業を重視するとともに、農業においてもソフォーズ(集団農場)やコルホーズ(国営農場)による集団経営を行っており、社会主義の基本原則からすれば、それほどはずれたことはやっていなかった。ソ連は「社会主義の原則を修正していた」わけではなかったのである(「平和共存路線」を採ったことが「全世界のプロレタリアートは団結せよ」と主張する国際共産主義運動からの脱落であることは事実であるが、これを「修正」という言葉で表現するのは必ずしも適切ではない。社会主義の原則を「修正」したわけではないからである。また、ソ連は、スターリン批判によって個人崇拝をやめたが、個人崇拝は社会主義の原則ではないので、これを批判したとしても「修正主義」とは言えない)。

 社会主義の原則を「修正」していたのは、実は、ソ連ではなく、農業の集団化を弱め、小規模な生産隊に生産の自主性を任せようとする「経済調整政策」を進めていた劉少奇やトウ小平らが動かしていた当時の中国共産党中央自身であった。つまり中ソ論争の中においてソ連に対して貼られた「修正主義」のレッテルは、実は、劉少奇やトウ小平らの「経済調整政策派」(文化大革命時代に入ると「実権派」と呼ばれることになる)に対する「当てつけ」にほかならないのである。

 劉少奇とトウ小平らが進めた「経済調整政策」は、経済成長を優先する政治理念であるから、どうしても「少々くらい政府の幹部と経済人が癒着しても、経済が発展すればよいのだ」といった考え方が蔓延しがちである。多くの人民は、こういった党や政府の幹部と経済的有力者との癒着に反感を持つようになっていた。毛沢東は、自らの政治権力闘争の中で、こういった人民の中にある素朴な反発感情を利用したのである。「党や政府の幹部の腐敗に反対する」という運動は、全くの正論であり、「経済調整政策」推進派であっても反対することはできないからである。

 1965年1月、中国共産党中央は「農村社会主義教育運動中において現在までに提起されたいくつかの問題」を決定した。これまでは、過去に「三反運動」(汚職、浪費、官僚主義の三つに反対する運動)「五反運動」(賄賂、脱税、仕事の手抜きと材料のごまかし、国家財産を騙し取ること、国家の経済情報を盗むことの五つに反対する運動)などと呼ばれる運動が行われてきていた(「第3章第1部第6節:土地改革から本格的な社会主義化へ」参照)。それを今後は「政治を清め、経済を清め、組織を清め、思想を清める」の「四清」に統一することが決定されたのである。わかりにくい表現ではあるが、これは大衆運動を「汚職や幹部の腐敗防止」という「倫理の確立」の次元から、「政治的統一、経済政策の統一、組織的管理の統一、人々の思想(考え方)の統一」という政治思想の統一化の次元へ向けて拡大強化しようというものであり、後に大運動となる文化大革命の「のろし」とも言うべき決定だった。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「農村社会主義教育運動中において現在までに提起されたいくつかの問題」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/02/content_2539348.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この「四清運動」について、「北京三十五年」(参考資料12)の中で、筆者の山本市朗氏は、「はじめから何となくもやもやした空気が漂っていて」と表現し、運動の方針がたびたび動揺していたことから、「この運動の周辺には、何か中央部の指導者層の間に意見の不一致があるようなにおいが漂っていた。」とする当時北京にいた一市民としての鋭い嗅覚に基づく見方を記している。

 前節の最後で述べたように、1964年6月には「文化革命五人小組」が組織されていた。組長の彭真は北京市長であった。劉少奇やトウ小平らが進めていた「経済調整政策路線」は、北京市党委員会の主要メンバーも支援していたが、この「文化革命五人小組」は、様々な形で行われている文芸統制・思想統制を「経済調整政策派」が牛耳っている党中央の指導の下で行わせるために設置された、と言ってよい。

 毛沢東は、前節の最後で述べたように、この「文化革命五人小組」に歴史学者の呉晗が書いた新編歴史劇「海瑞免官」を審査させた。「海瑞」は明の時代の政治家で、民衆から慕われていたが、時の嘉靖帝を批判して免官された人物である。毛沢東は、歴史劇「海瑞免官」は、この歴史上の事件に名を借りて、毛沢東を批判して失脚させられた彭徳懐を擁護するものであり、歴史に当てこすった毛沢東批判である、とみなしていたことは先に述べた。「海瑞免官」の作者の呉晗は歴史学者であると同時に北京市副市長であり、これは明らかに北京市党委員会グループへの挑戦でもあった。そして、それはとりもなおさず北京市党委員会をバックボーンとする劉少奇やトウ小平らの「経済調整政策派」に対する挑戦でもあったのである。

 江青(毛沢東夫人)は、女優であり、文芸活動家としての立場から「海瑞免官」を批判するよう主張したが、当時の党中央宣伝部はこれを取り上げなかった。そこで、江青は北京ではできない「海瑞免官」批判を上海で行おうと考えて、上海市党委員会宣伝部長の張春橋と相談した。結局、上海の「解放」誌の編集長だった姚文元が「海瑞免官」批判の文章を書くことになった。こうして、1965年11月10日、上海の「文匯報」に姚文元が書いた評論文「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」が掲載された。現在では、これらの江青、張春橋、姚文元の動きは、毛沢東の指示ないし承認の下で行われたものであるとされている。この姚文元の評論が発表されることについて「文化革命五人小組」組長である彭真は何も知らなかった。

 この直後の1965年11月26日、毛沢東はカンボジア代表と会談したが、その後、1966年7月16日に武漢に突然現れて揚子江を遊泳してその健在ぶりをアピールするまで、毛沢東は新聞等の報道から一切姿を消すことになる(この時、毛沢東は72歳)。新聞等に登場しない間も毛沢東はいろいろな都市で中央政府の関係者と会ったりしているが、その居場所は神出鬼没であった。「文化大革命十年史」(参考資料14)によれば、1965年12月22日、毛沢東は浙江省杭州で彭真らに会って「彭徳懐は海瑞である」との自分の考え方を伝えたとのことである。「文化大革命十年史」(参考資料14)では、この時、彭真は「海瑞免官」の毛沢東の考えに対して反論したが、この時点では彭真は毛沢東が本格的な大反撃を考えているとの認識はなかった、と指摘している。

 「文化革命五人小組」は、1966年2月7日、「当面の学術討議に関する報告提網」(いわゆる「二月テーゼ」)を発表し、文芸批判は学術議論の枠の中に収めるよう提案した。この「二月テーゼ」は、結果的に姚文元に攻撃された歴史劇「海瑞免官」を擁護するものであったことから、毛沢東による批判の口実とされた。3月に開かれた政治局拡大会議で、毛沢東は「呉晗らは共産党でありながら反共である。」と自らの考え方をはっきりと述べた。彭真はその後自己批判書を作成したが、毛沢東による攻撃を防ぐことはもやはできなかった。この年の5月1日のメーデーの祝賀行事には、北京市長でもある彭真は姿を見せなかった。

 1966年5月4日~26日、党中央政治局拡大会議が開催された。そして5月16日、中国共産党中央委員会通知(いわゆる「五・一六通知」)が出された。この通知において、「二月テーゼ」は取り消され、「文化革命五人小組」は廃止されることとなり、新たに「中央文化革命小組(組長=陳伯達、顧問=康生、副組長=江青、張春橋ら)が組織された。また、この会議では、彭真が北京市第一書記兼市長の職を解任され、「文化革命五人小組」のメンバーだった陸定一が党宣伝部長の職を解任された。

 5月25日には、北京大学において「宋碩(北京市党委員会大学部副部長)、陸平(北京大学党委員会)らは、文化大革命において何をしているのか」と題する壁新聞(中国語で「大字報」)が張り出された。この壁新聞は、新しくできた「中央文化革命小組」の方針を受けたものであったが、北京市党委員会大学部や北京大学党委員会の幹部を名指しで批判する壁新聞が張り出されたことに多くの人は驚愕した。当時の常識では、壁新聞で自分の組織の党の幹部を批判することなど考えにも及ばなかったからである。

 5月31日、「中央文化革命小組」は、人民日報の編集長で党宣伝部副部長の呉冷西を解任した。翌日の6月1日付けの人民日報には「すべての妖怪変化を一掃しよう」という社説が掲載された。この社説では林彪の論文を引用して「嵐のようなプロレタリア文化大革命の高波が我が国に沸き起こった」と指摘した。また、この日の人民日報には上記の北京大学の壁新聞の全文が掲載された。また6月2日付けの人民日報には「北京大学の壁新聞に歓呼する」と題する評論員論文が掲載され、「毛主席に反対し、毛沢東思想に反対し、毛主席と党中央の指示に反対する者たちがいかなる旗印を掲げていようとも、いかに高い地位にあろうとも、いかに古参のものであろうとも」「徹底的に壊滅」させなくてはならない、との呼び掛けが行われた(参考資料14:文化大革命十年史)。さらに、毛沢東の指示により、上記の壁新聞の内容はラジオ放送で全国放送された。

 北京市党委員会や北京大学党委員会の幹部を批判する壁新聞が人民日報に掲載されたりラジオ放送されたりし、人民日報が「毛主席に反対する者たちは、いかに高い地位にあろうとも徹底的に壊滅させなくてはならない」と主張した、という事実は、人々に「市や大学の党委員会に対して造反せよ、と言っているのだ」というメッセージを与えた。このメッセージは、日頃、党や政府の幹部の腐敗に強い不満を持ちながらも、反右派闘争など過去の様々な政治闘争の中で「党の言うことには逆らえない」と思っていた人々のエネルギーを一気に解放した。その「エネルギー」の中には、大躍進政策期に大量の餓死者を出すという悲惨な生活の中で抑えに抑えて蓄積されてきたエネルギーも含まれていた。エネルギーの蓄積の後に出された「造反せよ」というメッセージは、ちょうどシャンペンの栓が飛んだ時のように、中国全国の人民のエネルギーを一気に噴出させることになった。これが文化大革命十年の狂乱の時代を産むことになるのである。

(注)党の正式決定としては、1966年8月1日~12日に開かれた第8期中国共産党中央委員会第11回全体会議(第8期十一全会)で採択された「プロレタリア文化大革命に関する決定」が出されているためこれが公式な立場での「文化大革命の開始」と見るべきだという考え方もあるが、実質的には「五・一六通知」が文革路線を決定しているので、5月16日をもって「文化大革命の開始」と考えるのが一般的である。

 なお、ここで「造反せよ」と言っているメッセージは、「市や大学などの地方や組織の党委員会に対して造反せよ」と言っているのであって、決して「党中央」に対して造反せよ、と言っているのではないことに注意すべきである。「毛沢東主席と毛主席が統括している党中央」は常に正しいのであって、造反する相手は「毛沢東主席に反対する者」なのである。

 このようして毛沢東は、大躍進政策という自らの決定に基づく失政によって人民の中に溜まった膨大なエネルギーを、自らの政敵を追放するために利用することに成功するのである。70歳を過ぎたこの時期においても、毛沢東はまさに「天才的戦略家」としての能力を遺憾なく発揮したのである。

以上

次回「3-3-2:【コラム:『修正主義』という言葉】」
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へ続く。

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