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2010年2月23日 (火)

3-2-4:【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立

【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】

 1960年に決定的となった中ソ対立は、フルシチョフによるスターリン批判に始まった路線上の対立と、中ソ国防新技術条約に基づく原爆に関する模型と技術資料をソ連が中国に提供しなかったことが直接のきっかけであるが、1957年10月に中ソ国防新技術条約を締結した時点で、ソ連が中国に対して、どの程度本気で原爆に関する技術を提供するつもりがあったのか、については、必ずしもはっきりしない。今後の歴史家による検討を待つ必要があると思われる。

 ソ連による中国に対する原爆に関する技術提供に関しては、1987年に中国社会科学出版社から出版された「当代中国的核工業」(参考資料13:日本語の訳本は発行されていない)において、以下の点が明らかにされている。

・中ソ国防新技術条約締結交渉の過程で中国側はソ連に対して原子力潜水艦に関する技術の提供も要請したがソ連側はこれを拒否した。

・ソ連は中国に対してウラン濃縮工場(ガス拡散方式)の建設についての技術協力を行ったが、中国側技術者によるソ連のウラン濃縮工場での研修は拒否していた。

・中ソ国防新技術条約でソ連が中国に提供することが約束されていた原爆の模型と技術資料は結局中国へは提供されなかった。

・この当時、照射済み核燃料からプルトニウムを抽出する再処理技術については、ソ連から中国へは本格的な技術移転は行われていなかった。再処理技術については1950年代半ばから「沈殿法」という技術についてはソ連から中国へは伝えられていたが、現在、世界の再処理技術の主流になっている「溶媒抽出法」(ピューレックス法)については、ソ連から中国への技術移転は行われなかった。中国は、中ソ対立後も、ソ連から教わった「沈殿法」に基づく再処理工場建設の努力を続けていたが、「沈殿法」は技術的には有効ではないことから、中ソ対立後の自主技術開発の過程で「溶媒抽出法」に切り替えた。

 「当代中国的核工業」によれば、中国の軍事用再処理工場(甘粛省酒泉)については、中間規模工場が1964年末着工、1968年9月ウラン燃料投入開始、本格規模工場は着工が1966年1月、ウラン燃料投入開始が1970年4月であった。一方、軍事用プルトニウム生産炉(甘粛省酒泉)の臨界は1966年10月20日である。「当代中国的核工業」には、1984年12月9日に行われた第32回核実験までの全ての中国による核実験の日付が掲載されている。中国の最初の核実験は、東京オリンピック開催中の1964年10月16日だった。この時に使われたのはウラン型爆弾である。しかし、中国において最初のプルトニウム型爆弾による核実験が何回目の核実験として実施されたのかは「当代中国的核工業」では明らかにされていない。

 上記の再処理工場やプルトニウム生産炉の稼働のタイミングからすると、中国でプルトニウム型原子爆弾による核実験が行われたのはかなり遅かった可能性がある。この点に関してはネットワーク上にある(財)高度情報科学技術研究機構が運営する「原子力百科事典」(ATOMICA)の「プルトニウム生産炉」の項目では、中国における最初のプルトニウム爆弾による核実験は1968年12月27日とされている。「当代中国的核工業」によれば、この日に行われたのは第8回目の核実験である。

(参考URL)原子力百科事典ATOMICA
http://www.rist.or.jp/atomica/

 「第2章第3部第6節:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】」で述べたように、一般に、臨界量が大きく(従って重くなる)、かつ、ウラン濃縮を必要とするために大量生産が難しいウラン型爆弾よりも、臨界量が小さく(軽くできる)大量生産がしやすいプルトニウム型爆弾の方が兵器としては便利であると言われている。実際、中国と全く同じ時期にフランスからの技術導入により核兵器の開発を目指していたと言われるイスラエルは、最初からプルトニウム型爆弾の製造を目指していた(「映像・音声資料5:ドキュメンタリー番組「イスラエル秘められた核開発」2002年イスラエル・トゥラ・コミュニケーション制作。2008年7月16日、17日:NHK-BS1「BS世界のドキュメンタリー」で放送された))。2006年10月及び2009年5月に北朝鮮が行った核実験もプルトニウム型原子爆弾だったのであろう、と言われている。

 上記に述べたように、ソ連が中国に対して教えたのが、ウラン濃縮についてはガス拡散法であり、プルトニウムを抽出するための再処理技術としては「沈殿法」だけであったことを考えると、ソ連は最初から中国に対して核兵器に関する技術を本気で移転する気はなかったのかもしれない。ソ連がプルトニウムの「溶媒抽出法」を教えていなかった(それがために中国によるプルトニウム型爆弾の製造はかなり遅くなったと思われる)のは、最も実用的な核兵器になりやすいプルトニウム型爆弾の製造技術をソ連が中国に教えたくなかったからだと推測することも可能だからである(ただし、1950年代後半の時点では、ソ連の再処理技術が実は西側ほど進んでおらず、この時点ではソ連自身が「溶媒抽出法」(ピューレックス法)について、中国に教えるほどの確立した技術を持っていなかった可能性もある)。

 なお、「当代中国的核工業」(参考資料13)によれば、甘粛省酒泉に作られた中国の軍事用プルトニウム生産炉は、石墨(グラファイト)減速軽水冷却型原子炉であり、核燃料は棒状の天然金属ウランにニッケル・メッキを施し、アルミニウムで被覆したものであった。この原子炉の着工は1960年3月であり、核燃料製造については1960年時点では設計研究が開始されたばかりであった。つまり、1960年7月にソ連による技術者の全員引き上げ通告があったために、プルトニウム生産炉の建設及び核燃料の製造は、ほとんど全て中国側が独自に行ったものなのである。

 いずれにしても、「当代中国的核工業」によれば、ソ連が中国に提供したのはウラン濃縮技術の一部とそれに関連する機器までであり、そこから先の核兵器開発(プルトニウムの分離、プルトニウム爆弾の製造及び水爆の製造も含む)は、中ソ対立の中、中国が独自で技術開発を行ったものである。もちろん、中国が諜報活動により外国から情報を入手した可能性はあるが、中国がどの程度の核兵器に関する情報を諜報活動により得ていたかについては、当然のことながら、私は全く知らない。なお、「当代中国的核工業」によれば、中国が最初にミサイル搭載型核兵器の爆発実験に成功したのは1966年10月27日(第4回核実験)、最初に水爆実験に成功したのは1967年12月17日(第6回核実験)であったとのことである。

以上

次回「3-2-4:【コラム:フルシチョフとアイゼンハワーの『平和共存』の舞台裏】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-f8d9.html
へ続く。

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