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2010年2月 3日 (水)

2-3-6(2/2):日本の敗戦(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦(2/2)

 蒋介石が率いる重慶の国民政府軍と共産党の軍隊である八路軍や新四軍とは、依然として実質的な統一戦線が組めない状況が続いていた。それどころか、1941年1月、江南にいた新四軍が北方へ移動する途中、安徽省南部で国民党軍に包囲され、9,000余人の部隊のうちの多くが殺害あるいは捕獲され、軍長の葉挺も殺害されるという事件が起きた(「新四軍事件」(または「皖南事件」)と呼ばれる。下記の「参考URL」に掲げる「人民日報」ホームページ上にある「中国共産党簡史」によれば、包囲を突破できたのは約2,000人だけという)。蒋介石は、この事件は新四軍によるクーデターだとして「国民革命軍新四軍」の名称を取り消した。

 この事件に対し、中国共産党が蒋介石に対して厳重抗議したのは当然のこととして、蒋介石を支援していた英米両国もこれを非難した。「人民日報」のホームページにある「中国共産党簡史」によれば、中国の世論もこの事件に対して蒋介石を非難した、としている。この「新四軍事件」(皖南事件)により、中国共産党は、揚子江以南における軍事的拠点を失った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第三章 抗日戦争の烽火の中における壮大な発展」
三.抗戦を堅持し、団結し、進歩し、新民主主義理論を系統立って作り上げた
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444710.html

 この時期、ヨーロッパでは、ドイツが1939年9月1日に始まったポーランド侵攻電撃作戦によりポーランドの西半分を占領していた。また、ソ連は、独ソ不可侵条約における「秘密協定」に基づき、東からポーランドに侵入し、ポーランドの東半分を占領した。不可侵条約に基づいてソ連との間でポーランドの東西分割を終了したドイツは、一転して戦線を西へ向け、ベルギー、オランダを経由してフランスに攻め入り、1940年6月にはフランスをも降伏させた。イギリスが支援する蒋介石の重慶政府と戦っていた日本は、ヨーロッパにおいて英仏と戦っているドイツと提携する道を選んだ。日独伊の三国は、1940年9月、従来の三国防共協定を発展させて、日独伊三国同盟を締結した。これにより、ヨーロッパとアジアにおいて連合国と日独伊枢軸国との色分けが鮮明になったのである。

 日独伊三国同盟の成立と時を同じくして、日本軍は、フランスがナチス・ドイツの支配下に入った状況を利用して、仏領インドシナ(今のベトナム)北部に侵攻した。本国がドイツの支配下にあるフランス軍は抵抗することができず、日本軍の進駐を認めざるを得なかった。この日本軍の北部仏領インドシナ進駐は、ビルマから雲南へ伸びる「援蒋ルート」を圧迫するとともに、経済封鎖の強化に備えて東南アジアの地下資源を確保することに目的があった。

 第二次世界大戦の開始時点では中立を宣言していたアメリカは、日独伊三国同盟の成立と、日本軍の北部仏領インドシナへの進駐を見て、鉄鉱石・くず鉄などの戦略物資の対日輸出を禁止する措置を取った。この時点で、日本は戦略物資の4割をアメリカからの輸入に頼っている状態だった(映像・音声資料1:ドキュメンタリー映画「東京裁判」による。参考資料リストについては、このページのトップの表題の直下にURLを掲げる「『中国現代史概説』の目次」を参照)。アメリカとの決定的な対立を避け、有利な条件での妥協を図るため、時の日本の外務大臣・松岡洋右はソ連を日独伊三国同盟側に引きつけてアメリカを牽制しようと考えた。松岡は、1941年4月、ドイツ訪問の帰途、モスクワに立ち寄り、スターリンとの間で日ソ中立条約を締結することに成功した。しかしこの直後の1941年6月、ヒトラーは独ソ不可侵条約を無視して東部戦線からソ連側に侵攻し、独ソ戦が開始された。これにより、日独伊三国同盟側にソ連を引き寄せる、という松岡の構想は崩壊した。

 ただ、前に述べたように、日ソ中立条約は、中国共産党内部に深刻な影響を与えたものと思われる。抗日戦争に苦しむ中国共産党にとって、日ソ中立条約はソ連による「裏切り」に近いものだったからである。「人民日報」ホームページの「中国共産党簡史」ではこの点には何も触れていないが、コミンテルンのバックアップで誕生した中国共産党は、この第二次世界大戦開始前後のソ連の行動を踏まえ、自らをソ連とは距離を置いた存在として位置付けるようになるのである。なお、国際共産主義運動を進めるために設立されたコミンテルンは、第二次世界大戦における英米両国とソ連との協力関係の中でその存在意義を失い、1943年5月に解散している。

 1941年6月、さらに日本軍が仏領インドシナの南部に侵攻して南方への進出の意図を明らかにすると、アメリカは日本の在米資産を凍結し、経済封鎖を強化した。アメリカ、イギリス、中国、オランダ(石油を生産するインドネシアを支配していた)による経済包囲網はABCD包囲網と呼ばれた(A=American, B=British, C=Chinese, D=Dutch)。このABCD経済封鎖に苦しんだ日本は、米国との間で外交交渉による妥協の道を探るが、結局は1941年12月8日(日付変更線の関係でアメリカでは12月7日)、真珠湾攻撃により米英と開戦することになる。日本軍は石油などの戦略物資を確保するため、インドシナ半島、フィリピン、インドネシア、ニューギニア等へ戦線を拡大した。このため真珠湾攻撃以降の戦争は太平洋戦争と呼ばれる。

 中国における戦線が膠着状態にある中、太平洋地域で戦線を拡大し切った日本は、やがてアメリカの強大な物資の生産力の前に敗退を繰り返していくようになる。そして、1945年8月6日広島に、8月9日には長崎に原爆が投下され、8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、第二次世界大戦は終結した。日本では、アメリカ軍による本土空襲や原爆投下等の印象によって、日本における「戦争」と言うと太平洋戦争の部分のイメージが強いが、実際には中国における戦争の方が期間的には圧倒的に長いものだったことは常に留意しておく必要がある。中国人と日本人が戦争について語る場合、この「戦争のイメージの違い」が、そもそもの認識ギャップの出発点になることが多いからである。

 ポツダム宣言に盛り込まれた条項は、1943年11月に行われたカイロ会談後に発表されたカイロ宣言が基本となっている。カイロ会談には、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相が出席したが、中国代表として出席したのは蒋介石であった。第二次世界大戦の終了時点において、中国を代表する政権として国際的に認められていたのは蒋介石政権だったのである。しかし、第二次世界大戦末期、中国共産党勢力も既に中国国内における有力な勢力のひとつとみなされていたことは間違いない。1944年には、日本との戦いにおける協力の可能性を探るため、アメリカの視察団が中国共産党の拠点である延安を訪問している(映像・音声資料2:NHKスペシャル「映像の世紀 第6集 独立の旗の下に ~祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ~」)。

 8月15日は、日本における「終戦記念日」であるとともに、韓国においては日本の植民地支配が終了し独立が回復したことを記念する「光復節」である。しかし、現在の中国においては、8月15日も、日本が降伏文書に署名した9月2日も、それほど特別な記念日ではない。なぜなら、8月15日の日本の敗戦によって、その日から今まで表に出てこなかった国民党と共産党との間での内戦が表面化することになるのであり、中国にとって「日本の敗戦」は「終戦」ではなかったからである。

 現在の中国にとって、本当の「終戦」、即ち平和が回復した記念日は、1949年10月1日、即ち中華人民共和国が成立した日なのである。

以上

次回「2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(1/4)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-cb8b.html
へ続く。

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