« 3-2-1:急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」 | トップページ | 3-2-3(1/2):大躍進政策と人民公社の成立(1/2) »

2010年2月16日 (火)

3-2-2:反右派闘争

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第2節:反右派闘争

 1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判は、中国や東ヨーロッパ諸国にも動揺をもたらした。強権的な政治の総本家であるソ連において、スターリンの個人崇拝や強権的政治手法が批判されたことの影響は大きかった。中国は、前回述べたように、1956年4月5日に出された人民日報の評論「プロレタリアート階級独裁の歴史的経験について」において、ソ連の立場に理解を示しつつ、「スターリンの全てが誤りだったとする見方は正しくない」との考え方を表明し、フルシチョフの考え方とは一線を画する立場に立った。

 この年の9月、中国共産党第8回全国代表大会が1945年以来11年ぶりに開催された。中華人民共和国成立後、初めて行われたこの中国共産党全国代表大会では、毛沢東が「開幕の詞」を述べたが、重要な討議項目である「政治報告」は劉少奇が、「党規約改正報告」はトウ小平が行った。この時点で毛沢東は国家主席を退く意向を示しており、革命が成立した後の最初の党大会をきっかけとして、指導者層の世代交代を図ることを意図していたものと思われる。さらに、この党大会では、スターリン批判において個人崇拝が否定されたという流れを受けて、党規約における党内手続きを民主的手順で行うことが決められた。特に、党員の義務として従来は「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を基礎として」とあった規定が「マルクス・レーニン主義を学習するよう努力し」と改められた。「毛沢東思想を基礎とし」の部分が削除されたことは注目に値する。

(参考URL1)
「人民日報ホームページ」-「中国共産党新聞」-「資料センター」
「歴代党大会」-「第7回全国代表大会」
「中国共産党第7回全国代表大会(1945年4~6月)で決められた党規約」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64559/4442095.html

(参考URL2)
「人民日報ホームページ」-「中国共産党新聞」-「資料センター」
「歴代党大会」-「第8回全国代表大会」
「中国共産党第8回全国代表大会(1956年9月)で決められた党規約」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64560/65452/6412169.html

 人民日報の評論「プロレタリアート階級独裁の歴史的経験について」では、スターリン批判における個人崇拝の否定については、党内の「集中民主」制度の観点からこれを評価していることから、劉少奇とトウ小平は、この党大会における党規約の改正は、毛沢東の個人崇拝色を薄めるものになるが、それは毛沢東自身の意向に添ったものだと認識していたと思われる。しかし、後に文化大革命時代、この1956年の第8回党大会において党規約から「毛沢東思想」を削除したことがトウ小平の「罪状」のひとつとして挙げられた。この文化大革命の際のトウ小平を弾劾する考え方に対して毛沢東が何ら反対の意向を表明しなかったことを考えると、毛沢東の本心としては、1956年の時点においても、もともとスターリン批判の流れに乗って自分の個人崇拝が否定されることは拒絶したい気持ちがあったのではないかと思われる。

 劉少奇とトウ小平は、この党大会は「世代交代」のための大会、と認識していたことから、国家主席を退く意向を示していた毛沢東に対して「名誉主席」の称号の準備をほのめかしていた、とされている(参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」)。このことも、毛沢東にとっては劉少奇とトウ小平が「自分からの権力の奪取を図ろうとした」と映り、後の二人の失脚の原因のひとつとなった可能性がある。

 上記のように、スターリン批判を巡って1956年の中国共産党内部で様々な思惑が動いていたが、こうした中、中国共産党第8回全国代表大会終了直後の1956年10月、ハンガリーのブタペストで、複数政党制の導入やソ連軍の撤退を求める市民の大規模なデモが発生した。支配政党のハンガリー勤労者党は、スターリン主義に批判的だったために前年に失職していたナジ前首相を復職させて、市民の要求を受け入れようとした。ブタペスト市民やハンガリー勤労者党は、本家のソ連において強権主義的なスターリン主義が批判されたのであるから、ハンガリーにおいても柔軟な政策運営が認められて当然だ、と考えていたようである。しかし、ブタペスト市民がハンガリーのワルシャワ条約機構からの脱退を要求したため、ソ連はこれらの動きをソ連から離反する動き、と判断し、軍隊を投入して市民運動を武力で鎮圧し、ナジ首相を追放して、親ソ連派の政権を樹立させた。いわゆるハンガリー動乱である(ナジ氏は国外に逃れたが、後に拘束され、秘密裁判の後に処刑された)。

 このハンガリー動乱は、スターリン批判の流れを受けて、個人崇拝や強権的な政治運営を否定し、党内民主の確立を推進することの「危険性」を毛沢東に印象付けたのではないかと思われる。しかし、毛沢東は表面上、この時点でも、「百花斉放・百家争鳴」の方針に基づき活発な議論を行うよう引き続き奨励していた(前節「急激な社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」参照)。

 「百花斉放・百家争鳴」の呼び掛けは、1957年に入っても、さしたる反響を呼ばず、運動は盛り上がらなかった。急速な社会主義化は、小ブルジョア層(中小商工業者)や民族ブルジョア層、知識階層、土地の所有を維持して農地の公有化に反対したいと思っている農民などの間に不満をうっ積させており、彼らの中に「言いたいこと」は山ほどあったと思われる。しかし、多くの人々は中華人民共和国成立後に行われた中国共産党内部における「整風運動」「反革命鎮圧運動」で党内の異端派が排除され、全国規模で行われた「三反五反運動」などで、小ブルジョア、民族ブルジョアが排除されたことを知っていた(「第3章第1部第6節:土地改革から本格的な社会主義化へ」参照)。中国共産党が「百花斉放・百家争鳴」のスローガンの下でいくら「自由な議論」の呼び掛けを行っても、本当におとがめなしに自由に議論ができるのかどうか、多くの人々が疑心暗鬼だったのである。

 毛沢東は、一向に盛り上がらない「百花斉放・百家争鳴」運動を盛り上げるため、1957年2月、民主党派や各層の知識人、著名人を集めて最高国務会議拡大会議を開催し、そこで「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」と題する重要講話を行った。

(参考URL3)
「人民日報ホームページ」-「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」
「毛沢東記念館」-「著作選登」-「毛沢東文集第七巻」
「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」(1957年2月27日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70361/4769631.html

 この重要講話の中で毛沢東はポイントとして以下のように述べている。

○ハンガリー動乱では、ハンガリーの人々は我々(社会主義陣営)の中にある人民民主主義独裁には自由が少な過ぎ、西欧型の複数政党制には自由が多いと考えていたようだが、それは正しくない。西欧型の複数政党制は、資本家階級が独裁的政治運営を行うためのやり方であり、労働者階級にとって自由が多いと考えてはならない。

○社会主義の内部にも矛盾は存在するが、その性質は資本主義社会における矛盾とは全く異なるものである。我々は、社会主義社会においては、絶えずその矛盾を見つけ出し、適切に対処していく必要がある。

○科学や芸術の分野において良し悪しを判断する際には、常に慎重な態度でなければならず、自由に討論することが必要であり、安易に結論を出すようなことがあってはならない。そのような態度が科学や芸術を順調に発展させることになるのである。

○各民主党派と共産党はお互いに意見を出し合い、お互いに批判し合い、共産党が指導するという大前提の下で、積極的に相互監視の役割を果たすべきである。

 この講話で、毛沢東は、「反革命分子が存在しそれに対する粛清が行われていること」「農業協同化には大多数が賛成しているが少数の反対者がいること」「商工業者の中に社会主義化に反対している者が少数ではあるが存在していること」「知識分子(インテリ層)の中に社会主義に懐疑的あるいは不同意な者が少数ではあるが存在していること」「少数民族問題は大部分は解決しているが、一部の地域では大漢族主義と地方民族主義とがぶつかっているところがあること」といった矛盾の存在を率直に認め、これらの矛盾に適切に対処していかなければならない、と指摘している。

 さらに、1957年4月下旬、中国共産党中央は「整風運動」の指示を発出し、党の各レベルでの指導者幹部、学校、科学研究機関、文化芸術機関の党組織において、各種の座談会や討論会を開いて党内外の大衆の意見を聞こう、という運動を展開した。毛沢東は、この段階において「整風運動をやらないことは党を壊すことになる。整風運動を展開し、人民内部にある矛盾を正確に処理すること、これが『天下の最も大事なことである』」と指示した(下記(参考URL4)「中国共産党簡史」参照)。

(参考URL4)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第六章:中国独自の社会主義建設の道を探る(2)」
「二.人民内部の矛盾を正確に処理する議論の提案と全党にわたる整風運動」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444924.html

 こういった広範な議論、意見聴取運動の結果、自由に意見を出すことに慎重だった民主党派や知識人たちも、ようやく様々な意見や現状に対する批判を出すようになった。中国共産党とは独立した政策方針を決める機関「政治設計院」の設立を求める意見、各部門における中国共産党による特権的な支配に対する批判などが出始めた。このようにして「百花斉放・百家争鳴」運動は、ようやく盛り上がりを見せ始め、核心を突く意見・批判が出されるようになったのである。

 ところが、議論が核心を突き始めたタイミングを見計らっていたかのように、中国共産党の方針は、ここで急転回を見せることになる。

 1957年6月8日、中国共産党中央は「力を組織化して右派分子の侵攻に対して反撃する準備をせよ」との指示を発出し、人民日報は「これはどうしたことか?」と題する社説を掲載して「右派」への批判を呼びかけた。「反右派闘争」の始まりである。

(参考URL5)「人民日報」ホームページ「中国共産党の80年の大事件:1957年」
http://www.people.com.cn/GB/shizheng/252/5580/5581/20010605/482242.html

 この1957年6月8日の急転回の直前の状況について、(参考URL4)の「中国共産党簡史」では次のように記述している。

「ごく少数のブルジョア階級の右派分子がこのチャンスに乗じて党と新しくできはじめていた社会主義制度に対して攻撃を開始した。彼らは共産党が国家の政治の中で指導的地位を占めていることを『党天下』だとして批判し、各機関、大学からの共産党の退出を公然と要求し、私営・公営共同企業体からの公営代表の退出を要求し、『輪流座庄』(麻雀等で親が順番に替わること)を要求して、共産党による指導体制を奪取しようと妄動した。社会主義の改造と建設の成果を抹殺し、社会主義制度の優越性を根本から否定し、人民民主主義独裁のことを『官僚主義』『セクト主義』『教条主義』に基づくものだと批判した。」

 この「急転回」の後、「百花斉放・百家争鳴」運動に応じて、様々な意見を表明した人たちが「右派」のレッテルを貼られて排除されていった。「右派分子」とみなされた人の数について、「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」では、公式発表では1957年の段階で49万人余、1958年前半で55万人以上とされていることを指摘する一方、「右派」のレッテル貼られて直接打撃を受けた人は80~100万人、その家族も合わせると300万~400万人という数字を掲げている資料もあることが紹介されている。

 この「反右派闘争」を指揮したのはもちろん毛沢東であるが、当時トウ小平は党総書記で、「取り締まる側の中心人物」として毛沢東の指示に忠実に従って活動していた。1990年代に国務院総理になる朱鎔基は、この当時国家計画委員会の若手幹部だったが「右派」のレッテルを貼られて地方に追いやられたとのことである(参考資料5:「『中国現代史』~壮大なる歴史のドラマ~(新版)」)。

 この「反右派闘争」は、トウ小平がその中心人物の一人であったのだが、1978年以降の改革開放路線の中では、「方向は誤ってはいなかったが、拡大し過ぎた」として自己批判の対象となっている。改革開放が始まって以降、「反右派闘争」で失脚した一部の人たちの名誉回復も行われた。現在、「人民日報」ホームページ上にある上記(参考URL4)の「中国共産党簡史」では、「当時の党は、階級闘争の形を過度に厳重にしてしまい、反右派闘争の重大な拡大化を招いてしまった。一部の知識分子、愛国者、党内の幹部を誤って右派分子とみなしてしまい、不幸な結果を招くことになってしまった。」と反省の念を持って記している。

 「百花斉放・百家争鳴」運動から「反右派闘争」への急転回については、次の二つの見方がある。

(1)ハンガリー動乱のような大規模な人民の直接行動が起こる前に様々な不満を表に出させてそれらの不満に適切に対処すべきだと考えて、自由な意見を広く求めたが、共産党による指導自体を否定するような意見まで想定以上に相次いで出てきてしまったため、やむを得ず収拾方向に動いた、とする見方。

(2)「百花斉放・百家争鳴」運動は最初から「反共産党勢力」をあぶり出すことを目的として開始されたものであり、あるタイミングで「反共産党勢力」に打撃を加える方向に舵を切ったのは予定の行動だった、とする見方。

 毛沢東の真意は不明であるが、現実的には(2)の見方、即ち「『百花斉放・百家争鳴』運動は最初から『だまし討ち』だったのだ」と捉えた人が多かったのではないかと思われる。このことは中国社会に大きな心の傷を残すことになる。「世の中を良くするために自由に発言してくれ」との呼び掛けに応じて発言した人たちが発言したために排除されてしまったからである。これ以降、中国では、「世の中をよくするために声を上げるとバカを見る」という風潮が定着してしまったのである。

 1980年代、改革開放路線が始まって、過去の誤りは率直に誤りだと自ら指摘する態度を中国共産党自身が示したことにより、この「反右派闘争」以来中国の人々の中にあり続けた心のトラウマは解消されたかに思えた。しかし、その淡い期待は1989年の「第二次天安門事件」でさらに重ねて裏切られてしまうことになるのである。この点については後に述べる。

以上

次回「3-2-3(1/2):大躍進政策と人民公社の成立(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-3752.html
へ続く。

|

« 3-2-1:急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」 | トップページ | 3-2-3(1/2):大躍進政策と人民公社の成立(1/2) »

「中国現代史概説」」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 3-2-1:急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」 | トップページ | 3-2-3(1/2):大躍進政策と人民公社の成立(1/2) »