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2010年2月25日 (木)

3-2-5:「大躍進政策」の結果を受けた権力闘争

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第5節:「大躍進政策」の結果を受けた権力闘争

 「第3節:大躍進政策と人民公社の成立」で述べたように、1958年8月に開催された中国共産党中央政治局拡大会議において、いわゆる「大躍進政策」と「人民公社化」が打ち出され、その後、大衆運動による鉄の増産と急速な人民公社化が進められた。その結果、食糧生産が減少し、大規模な飢餓状態が発生したことは既に述べたとおりである。この「大躍進政策」の弊害は、それがスタートした翌年の1959年初には既に党内で認識され始めていた。1958~1959年の冬を過ぎると、飢餓状態が現実のものとなり始め、1959年の夏穀物(冬小麦:収穫時期は6月頃)の減収が見込まれるようになると、「大躍進政策」の問題点が党中央へも次々に届くようになったのである。しかし、「反右派闘争」などで反対派を徹底的に除いてきた毛沢東のやり方に対して、毛沢東が推し進める「大躍進政策」に表立って異議を唱えようとするものは誰もいなかった。

 ただ、毛沢東に対する不満がくすぶってきたことを感じたからか、毛沢東はかねてから辞任をほのめかしていた国家主席を1959年4月に辞任した。後任の国家主席には劉少奇が就任した(毛沢東は引き続き中国共産党主席の座には就いていた)。

 こうした中、1959年7月2日から、江西省廬山において、中国共産党中央政治局拡大会議が始まった。この会議(廬山会議)は、もともとは地方から届く地方の疲弊した様子を伝える報告を基に、「大躍進政策」の問題点を討議し、一部の「行き過ぎ」を是正しようとするための会議であった。実際、この会議では、冒頭、毛沢東が、始まってから約1年が経過した「大躍進政策」について、「成績は偉大だが、問題は少なくない。ただ、前途は明るい。」と述べた上で、バランスが保たれておらず、目標数字が高過ぎ、改善する必要がある、と指摘した。

 この時の国防部長・彭徳懐は、毛沢東と同じ湖南省出身で、毛沢東の同郷の盟友であり、長征、抗日戦争、国共内戦、朝鮮戦争での人民義勇軍で活躍した有力者だった。彭徳懐は、この会議の前に故郷の湖南省を視察し、実際に餓死者が出ている農村の実情を知った。軍のトップの国防部長で元帥まで務めている彭徳懐は、毛沢東に対する批判がなかなか言い出せない党内の状況を見て、彼の軍人としての正義感と責任感から、この会議の開催中の7月14日、私信の形で、毛沢東に対して「一部において左傾的な熱狂主義の行き過ぎが起き、深刻な事態が発生している」と伝えた。毛沢東は、この彭徳懐の意見を自分に対する批判であると判断し、「私信」であることを無視して、この手紙を「彭徳懐意見書」として中央政治局拡大会議の出席者に回付し、分科会を開いて、この手紙について議論することを求めた。彭徳懐は、私信として送った手紙を公開して討議の場に付した毛沢東に抗議したという(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

 会議では、黄克誠、張聞天、周小舟ら何人かの出席者が彭徳懐の意見に同意する意見を述べた。しかし、7月23日に開かれた全体会議において、毛沢東は、この手紙について「ブルジョア階級の動揺性」を示すものである、と述べた。この発言をきっかけとして、「彭徳懐、黄克誠、張聞天、周小舟反党集団」批判闘争が始まった。中央政治局拡大会議に続いて開かれた中国共産党第8期中央委員会第8回全体会議では、8月16日、「党の総路線を守り、右傾化日和見主義に反対するための闘争について」「彭徳懐同志を首謀者とする反党集団の誤りに関する決議」等の文書が採択された。彭徳懐は、この後、9月17日、国防部長を解任された。この時、彭徳懐の後任として国防部長になったのが、後に「毛沢東の後継者」とまで位置付けられながら1971年に突如失脚した林彪であった。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「重大事件」
「廬山会議」
http://cpc.people.com.cn/GB/33837/2534789.html

 上記の「人民日報」の「中国共産党ニュース」の中にある「廬山会議」の解説では、「廬山会議後半においては、彭徳懐批判と全党的な『右傾化に反対する』闘争が展開され、経済政策の中における『左傾化傾向』を是正するための努力が中断されただけではなく、さらに重要なのは、党内における正常な政治活動の原則が極端に破壊されてしまった。」と述べている。

 彭徳懐の手紙は、「大躍進政策と毛沢東の指導は正しいもの」と強調した上で、「左傾化傾向の熱狂主義の行き過ぎ」を批判したものであり、「一人ひとりに責任があり、一人ひとりが一翼を担っている。毛沢東も含めてだ。」と述べたのであって、毛沢東だけを非難しているものではなかった(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。にも係わらず、毛沢東の同郷の盟友で、歴戦の勇士であり、国防部長・人民解放軍の元帥も務めた功績ある人物がこういった手紙によって失脚させられたことは、上記の「人民日報」ホームページ上の記述で述べているように、中国共産党内の正常な議論を完全にマヒさせることになってしまった。

 彭徳懐は、1959年9月に国防部長を解任された後、後の文化大革命の中では「右の日和見主義者」として徹底的に批判され、紅衛兵に暴行を受けるなどして、1974年11月29日、悲惨な最期を遂げたと言われている。1976年9月9日、毛沢東主席の死去を伝える北京放送では、毛沢東の業績として「左と右の日和見主義者に打ち勝ち・・・」と表現して伝えている中で、彭徳懐は「日和見主義者」として名前を挙げられている。しかし、この放送が伝えられてから約2年3か月後(1978年12月)に開かれた第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(現在の「改革開放路線」が始められた会議)において、「大躍進政策」の時期から「文化大革命」の時期に失脚した有力者の中で、彭徳懐は真っ先に名誉回復がなされている。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ2003年10月24日特集ページ
「彭徳懐の生誕105周年を記念して」
http://politics.people.com.cn/GB/8198/30144/index.html

 彭徳懐の失脚で、誰も毛沢東が進める「大躍進政策」を批判することができなくなってしまった。1959年~1960年は、前節で述べたように、中ソ対立が決定的となる時期だった。中ソ対立の先鋭化という国際情勢の中で、毛沢東は、ソ連を「修正主義路線」と批判するようになり、一方で国内的には自らが進める「大躍進政策」を強力に推進していった。誰からも批判されない「大躍進政策」の進展は、事態をさらに深刻化させていく。「第3節:大躍進政策と人民公社の成立」で述べたように、中国統計年鑑1986年版によれば、1960年の中国の人口の自然増加率(出生率-死亡率)はマイナス9.23‰であった。この時期、数千万人に上る餓死者が出たと見られていることは既に述べた。

 その後も各地から悲惨な状況が次々に報告され続けた。各地の状況はさすがに無視することはできなくなり、彭徳懐が国防部長を解任されてから1年以上経った1960年11月3日、党中央工作会議が開催されて、ようやく事態に対する対策が検討された。そして、「中国共産党中央の農村の人民公社における当面の政策問題に関する緊急指示書」が発出された。

(参考URL3)「新華社」ホームページ重要文献(1960年)
「中国共産党中央の農村の人民公社における当面の政策問題に関する緊急指示書」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/11/content_2445271.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この「緊急指示書」では、「1958年の大躍進以来、党の社会主義建設総路線は、段々と完全に正確であることが証明されつつある。」と述べながらも、農村の人民公社の初期段階における「一平二調」(第一に平均主義を採り、第二に無償調達を行う」といった「共産風」が生産力を破壊し、人民公社の優越性がさらに発揮されることを妨げている、と述べて、以下の是正措置を採るよう指示している。

(1)人民公社の管理単位を「生産大隊」から、それより小さい規模の「生産隊」(従来の自然発生的な村の共同体に相当する)に降ろす(つまり農業集団化の程度を弱める)。

(2)各農家に自留地(自分の責任で作物を栽培する小規模農地)を認め、農家単位での小規模な家庭副業を認める。

(3)個人が人民公社内で消費するのに必要な経費の人民公社への供出費用(給与の「天引き」のようなもの)を給与の30%以内とし、その経費の範囲内で実施できる場合は「公共食堂制」を実施するが、その経費の範囲内で「公共食堂制」が実施できない場合には「食糧配給制」を実施し、「食糧配給制」も実施できない場合は、「食糧半配給制」とし、食糧が標準に達しない家庭については、民主的に議論を行い、公益金の中から補助金を支給する。本人の手取りが70%以上になるように確保した上で、より多く労働した人については、多くの手取りが渡るようにする。

 (3)の部分には、「公共食堂制」で食べ物が自分のものでないことによる食料の浪費に繋がり、働いても働かなくても給与が同じという「平等主義」が生産性を著しく下げたことに対する反省が現れている。

 さらに1961年3月22日、中国共産党中央工作会議は「農村人民公社工作条例(草案)」を作成して、全党に検討を呼びかけた。この「農村人民公社工作条例(通称「農業60条」)」は、その後、1961年5月21日~6月12日に行われた中国共産党工作会議での議論を経て修正を行った後、毛沢東の承認を経て、1961年6月15日に決定された。

(参考URL4)「新華社」ホームページ「新華資料」
「農村人民公社工作条例(修正草案)」(1961年6月15日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/24/content_2500797.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この「農村人民公社工作条例」のポイントは以下のとおりである。

・人民公社は、政治活動と社会活動を統合した組織であり、社会主義の基層単位である。

・農村の人民公社は「人民公社」「生産大隊」「生産隊」の3つのレベルに分ける。

・「人民公社」は「生産大隊」の連合組織であり、「生産大隊」は生産と福利厚生事業の実施単位である。

・「人民公社」「生産大隊」「生産隊」の規模については、生産と経営、団結と大衆による管理の観点から有利なようにしなければならず、大き過ぎてはならない。特に分配における平均主義を避けるために、「生産大隊」の規模は大き過ぎてはならない。

・「人民公社」は、一般にもともとの「郷」または「大郷」(日本でいう「村」に相当)を単位とし、生産大隊は、一般には従来の「高級農業生産合作社」(日本でいう「農業協同組合」に相当)とする。しかし、規模は一律に決めてはならず、大きくても小さくてもよく、地方の事情と人民公社社員の状況に応じて、民主的に決めてよい。

・「生産大隊」は「生産隊」に対して生産を請け負わせる。人民公社社員と「生産隊幹部」の積極性を引き出すため、請け負わせた量を超える生産収入や、請け負わせた生産以外の荒れ地に植えた果樹や樹木等によって得た副次的収入は、生産隊の収入とする。物資、農具等については「生産隊」が支配権を有し、「人民公社」や「生産大隊」はこれを無償で徴用してはならない(徴用する場合には、「生産隊」の同意を得た上で、有償で行うものとする)。

・生産のやり方については、請負った量を生産するという前提の下で、「生産隊」に一定の決定自主権を与える。

・「生産大隊」は、その収入の3~5%を「公益金」として留保し、社会保障や福利事業に使うことができる。

・「生産隊」は、人民公社社員に対して、必ず労働に応じた賃金分配をしなければならない。多く働いた者は多くの収入が得られるようにし、社員に対する分配においては平均主義は避けなければならない。

・「生産隊」においては、公共食堂は設置してもしなくてもよく、社員の討論によって決定するようにする。公共食堂を設置する場合にも、自由意志による参加とし、参加者の責任で運営するようにし、公共食堂制度から抜ける自由は確保されることを原則としなければならない。

 上記を見ればわかるように、この「農村人民公社工作条例」は、(参考URL3)に掲げた「中国共産党中央の農村の人民公社における当面の政策問題に関する緊急指示書」をさらに一歩進めたものである。「人民公社を基層単位とする」という原則を掲げながらも、実質的な権限は「生産大隊」に降ろし、さらに実質的な生産は「生産隊」に「生産請け負い」という形で任せている。また、公共食堂も「設置してもしなくてもよい」と定めている。つまり、上記の「農村人民公社工作条例」は、「生産隊」を「各個別の農家」に置き換えれば、1978年以降に始まり現在も続いている「改革開放路線」の下での農業のやり方と基本的な発想は同じである。

 上記の「農村人民公社工作条例」は、生産と政府機能を一体化させた「人民公社」を基本としていることと、最終的な生産請負を「生産隊」という集団にさせることにしており、各個別の農家に対する請負を認めていないという点で現在の「改革開放路線」とは異なっている。しかし、1962年の共産主義青年団の会議で、トウ小平は「安徽省では責任田があり、事実上、土地を各家庭に分配したもので非合法といえる。・・・しかしどういった地域でいかなるやり方が生産を回復し発展させるのか、農民大衆のやり方を採用し、非合法だというなら合法にすればよい。」と述べ、既に実質的に現在の「改革開放路線」と同じやり方をやってもよい、という考え方を示している(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

 この「農村人民公社工作条例」の草案を起草したのは、劉少奇、トウ小平、陳雲、李先念らであったが、この時の中国共産党中央書記処の総書記はトウ小平であった(後に文化大革命で批判される北京市長の彭真はこの時中央書記処の書記だった)。3月22日に「草案」を発表し、全党に討論を呼びかけた際、トウ小平は、毛沢東に前もって相談しなかった、とのことである(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。この1961年6月15日に決定された「農村人民公社工作条例」は、後に文化大革命時に「修正主義的だ」と批判され、これを起草した劉少奇、トウ小平、陳雲、李先念は批判されて失脚することになる。

 トウ小平は、この後、2度失脚し、2度復活することになるが、そのため、トウ小平は「懲りない『走資派』(資本主義に走る派)」と批判されることになる。トウ小平は、復活のたびに「自己批判」をするのであるが、上記の「農村人民公社工作条例」は、後にトウ小平が実現することになる現在の「改革開放路線」の原型である。これを見ても、トウ小平は、実際、何回「自己批判」をしても自分の基本路線は結局は全く変えなかったことがわかる。トウ小平が「何度批判されても懲りない」とか「不倒翁(おきあがりこぼし)」とか呼ばれるゆえんである。

 この頃、トウ小平は「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕まえる猫がよい猫だ」という有名な「白猫黒猫論」を述べている。この「白猫黒猫論」は、もともとはトウ小平が「黄色い(あるいは茶色い)猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫はよい猫だ」というある地方の諺を紹介して、どういうやり方であっても、人民生活を向上させる方法が一番よい方法なのだ、ということを説いたことから始まっている。理想論ではなく、人民生活を向上させることが政治の最終目標なのだ、という意味では、この主張は、至極真っ当な主張である。しかし、この言い方は、「人民生活が向上するならば、社会主義の理想を目指す方向だろうと、資本主義的な方向だろうと、どちらでもよい」というふうに捉えられたため、毛沢東をはじめとする資本主義を打倒して理想的な共産主義を建設しようと考えていたグループからは徹底的に批判されることになる。

 「農村人民公社工作条例」の決定により、「人民公社化」は、徐々に毛沢東の理想からはかなりずれた形で進められていくことになる。「農村人民公社工作条例」は最終的には毛沢東自身も了承した上で決定されたものであるが、了承したのは「大躍進政策」による農業生産の停滞と食糧危機の深刻さの前にあっては、毛沢東も「大躍進政策」の問題点を認めざるを得なかったからである。

 「大躍進政策」によって引き起こされた悲惨な状況の反省の上に立ったこの時期の劉少奇、トウ小平らの政策を「経済調整政策」と呼ぶ。この後、劉少奇、トウ小平らによる「経済調整政策」が進展し、自分の威信が低下しつつあることに危機感を感じた毛沢東は、1962年8月頃から猛然と反撃を開始する。そしてその流れが、1966年から始まる「プロレタリア文化大革命」へと続いていくのであった。

以上

次回「3-2-6:『経済調整政策』に対する毛沢東の反撃」
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へ続く。

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