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2010年2月22日 (月)

3-2-4(2/2):フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(2/2)

 台湾海峡やインドとの国境における相次ぐ軍事的衝突の発生は、ソ連のフルシチョフに対して「中国は外国との関係において軍事的冒険主義を採っている」との危惧を抱かせた。上記のように、中ソ国防新技術協定に規定されていながら、ソ連が原爆の模型と技術資料を中国側になかなか提供しなかった理由はこのあたりにあると思われる。

 ソ連は、原爆の模型と技術資料の提供はしなかったが、ウラン濃縮工場建設の支援は行っていた。中国政府は、1957年、甘粛省蘭州市にウラン濃縮工場を建設することを決定した。ソ連の技術者の協力を得て、1958年5月にはガス拡散方式によるウラン濃縮工場の設計を完了させた。1958年9月には、北京郊外の中国科学院原子能研究所(注)でウラン濃縮の実験施設の建設が始まった。この北京の実験施設で、技術的な試験を行いながら、蘭州でのウラン濃縮工場の建設が行われていくが、ソ連は、中国の技術者がソ連のウラン濃縮工場を訪問して研修することは認めなかった(参考資料13:「当代中国的核工業」参照)。

(注)中国科学院原子能研究所は、北京市西南郊外にあり、「第二機械工業部北京401研究所」「核工業部原子能研究所」などと名称を変え、現在は、中国科学院から独立して「中国原子能科学研究院」となっている。加速器、重水研究炉があるほか、2009年現在、ロシアの協力によるプルトニウム燃料を用いたナトリウム冷却型高速増殖炉が建設中である。現在は、軍事色はかなり薄まっており、多くの情報が公開されている。

(参考URL)「中国原子能研究院」のホームぺージ「歴史回顧」
http://www.ciae.ac.cn/ls3.jsp
※このホームページでは、2008年の時点では、「58年の歴史の重大事件一覧」の部分に、中国初の原爆実験の約1年前、最初の六フッ化ウランがここで生産された旨の記述があったが、現在はこの文章は削除されている。

 1958年には蘭州のウラン濃縮工場の建設が進められ、1959年には主要な機器がソ連から搬入されることになっていた。

 一方、同じ時期、フルシチョフは、アメリカとの間で「平和共存路線」を歩むことに合意しようとしていた。当時、米ソ両国は大気圏内核実験を繰り返していたが、核実験により大気中に放射性物質が撒き散らされることが地球の環境にとって好ましくない、との認識は米ソ両国でも認識されるようになっており、米ソ及びイギリスとの間で、大気圏内核実験を禁止する条約の交渉も行われていた。1959年9月、フルシチョフはアメリカを訪問した。米ソ冷戦構造の中におけるソ連の最高指導者のアメリカ訪問は画期的なものであり、世界に「米ソ平和共存」のメッセージを強く伝えるものであった(大気圏内核実験を禁止する部分的核実験禁止条約は1963年に調印されたが、調印したのは米ソとイギリスだけであり、フランスはこの条約に調印せず、その後も大気圏内核実験を続けることになる)。

 まさにこのフルシチョフの訪米の準備段階にあった1959年6月20日、ソ連共産党から中国共産党中央に宛てて手紙が届いた。その手紙は、ソ連は、アメリカ及びイギリスとの間で大気圏内核実験の禁止条約を交渉中であり、近々フルシチョフが訪米してアイゼンハワー大統領と会談する予定になっているので、中ソ国防新技術協定で規定されている原子爆弾の模型と図面資料の提供を一時延期し、これらの提供は2年後、情勢を見て判断したい、という内容だった(「参考資料13:当代中国的核工業」参照)。ソ連が米ソ首脳会談の前に、中国に対して一応事前了解を取り付けようとしていた、という点で、この手紙の存在は、この時期の中ソ関係を考える上で極めて興味深い。中国は、このソ連の態度に強烈に反発した。

 フルシチョフは、アメリカでアイゼンハワー大統領と会談したほか、アメリカ各地を視察し、「米ソ共存」時代が来たことを世界に印象付けようとした。このアメリカ訪問の帰途、フルシチョフは、わざわざ北京に立ち寄って毛沢東と会談している。上記のように訪米の前に原爆関連資料の提供を停止することについて中国に事前通告し、訪米の帰途、北京に立ち寄ったことは、フルシチョフも中国との関係が悪化しないよう、かなり神経を使っていたことの表れであると思われる。フルシチョフは、アイゼンハワーとの会談の内容を毛沢東に伝え、中国側の理解を求めたかったのだと思われる。

 しかし、この1959年9月のフルシチョフの北京訪問は、双方が相手側を非難することに終始し、ほとんど決裂状態のようにして終わった。この時の様子については、当時の首脳会談に同席していた人々が「映像・音声資料4:CNNのドキュメンタリー番組 "Cold War", Vol. 15, "China 1949-1972")の中で生々しく語っている。

 翌1960年6月、ソ連共産党は各国共産党が参加していたルーマニアのブカレストで行われた会議で公然と中国共産党を批判した。この会議には劉少奇が参加していたが、フルシチョフと劉少奇との間で激論が交わされた。その直後の7月1日、中ソ国境で軍事的小競り合いが発生した。1960年7月16日、ソ連は中国に対してソ連に派遣している全ての技術者を引き上げる旨を一方的に通告してきた。これにより中ソ両国の対立は決定的となった。ソ連による中国に対する技術的協力は、核兵器関連はもちろんのこと、全ての分野においてこれ以降完全に途絶えた。この後、米ソ冷戦構造の中とともに、中ソ対立は1960年代、70年代の国際情勢の大きな機軸となったのである。

 そもそも「中ソ対立」とは以下の3つを含むと考えられる。

(1)中国共産党とソ連共産党との思想・路線(イデオロギー)上の対立

(2)中国とソ連との国際政治の中での国家の国際戦略(外交戦略)上の対立

(3)中国とソ連という長い国境線で接する隣国としての対立

 基本的にスターリン時代は中国共産党とソ連共産党との思想・路線上の対立はそれほど大きくはなかった。ソ連共産党は、都市部の工場労働者が主導して革命を起こしそれを農村に波及させる、という形で革命を成し遂げたのに対し、中国共産党は、農村部の貧農が地主階級を打倒することで共産主義化を進め、共産主義化した農村が都市部を包囲する形で都市部での社会主義化を進める、という方法を採った。これは、両国の経済発展の状況の違いから来るものであり、「違い」ではあっても「対立」を産むものではなかった。

 中国共産党がソ連共産党によって国際共産主義運動を進めるために結成されたコミンテルンの指導の下で生まれ、成長してきたため、最初は「ソ連留学組」が党組織の中央で力を振るっていた。これに対し、実際に革命運動を進めるに当たって中国の実情に応じた戦略を遂行して頭角を現してきた農村中心主義を掲げる毛沢東が党の主導権を握るようになった頃から、ソ連共産党と中国共産党との間には一定の「すきま」が生じるようになった。しかし、この「すきま」も、ソ連と中国との国情の違いに基づく路線(革命の進め方)の違いによるものであり、「対立」と言えるところまで発展するようなものではなかった。これがだいたい第二時世界大戦終了時点までの状況である。

 第二次世界大戦終了後、ソ連は東ヨーロッパ諸国に影響力を行使して共産党政権を次々に樹立させていった。これは、理想主義的に見れば「共産主義を世界に広める」という国際共産主義運動の一環であったが、その実態は、ソ連という大国が東ヨーロッパに自らの意志に従順な「衛星国」を樹立していったのに等しい。このあたりから、毛沢東の中にはソ連に対する「警戒感」が生まれていたのではないかと思われる。そもそも、第二次世界大戦の途中において、ソ連は、共産主義運動にとって宿敵であるはずのナチス・ドイツと提携して中ソ不可侵条約を締結したり(1939年8月:後にナチス・ドイツが一方的にこの条約を無視し独ソ戦を開始した)、中国にとって宿敵であった日本との間で日ソ中立条約したり(1941年4月:後に1945年8月、ソ連側がこれを破棄して日本に対し宣戦を布告した)していたことから、抗日戦争中には既に毛沢東の心の中にはソ連に対する一定の警戒感が生まれていたものと思われる。

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発した時、建国直後の中国にとっては国内建設を優先したい時期であったが、北朝鮮の金日成からの要請により、中国は人民義勇軍を組織して北朝鮮側を強力に支援した。しかし、ヨーロッパ方面において西側との緊張関係を高めつつあったソ連は、極東地域においてアメリカと対立することは避けたいと考え、朝鮮戦争に対してソ連軍の派遣はしなかった。朝鮮戦争に対する中ソの対応の相違は、台湾に逃げた蒋介石の国民党との対立関係や朝鮮と地続きであり国内に多くの朝鮮族を抱えている中国と、朝鮮とはほとんど国境線を接していないソ連との違いを考えればやむを得ないところがあるが、中国にとっては「ソ連頼むに足らず」という感情を抱かせたのは間違いないと思われる。

 これらの歴史的状況は、共産党としての思想・路線(イデオロギー)としては国情に基づく「違い」であり「対立」ではなかった中ソ関係が、国家としての国際戦略(外交戦略)の上では「立場の違い」から「反発」へと徐々に変化していったことを表している。

 続いて、1953年のスターリンの死去と1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判が、共産党としての思想・路線の面でも中ソの違いを浮き彫りにしていくことになる。特にスターリン批判の中の個人崇拝批判は、自らのカリスマ性を大いに利用して党内の地位を築いてきた毛沢東にとっては「危険」なものと映ったに違いない。

 さらにフルシチョフがアメリカとの間で「平和共存路線」を打ち出したことは、共産党としての思想・路線の点、及び国としての国際戦略の観点で、中国にとっては許し難いものであった。そもそも共産主義運動は、国を超えた運動であり、ロシア革命で生まれた共産党政権は、世界にその思想を広め、国境を越えて全世界の被抑圧人民と連携して世界革命を起こす、というのが思想の根本原理だった。中国共産党の誕生自体、そういった思想的背景に立って、ロシアの地で生まれた共産主義運動を中国でも広める、との発想に基づいて、ソ連共産党が指導するコミンテルンの指示に従って生まれたものだった。

 ところが「平和共存路線」は、ソ連共産党が共産主義を世界に広めることをやめ、資本主義の総本家であるアメリカと妥協することを意味する。これは国際共産主義運動の理想からすれば「裏切り」としか映らない。「全世界の被抑圧人民との連帯」や「アメリカ帝国主義打倒」を人民に訴え続けてきた中国共産党にとって、ソ連共産党のこの「変節」に追従することは不可能だった。この時点で、中国共産党とソ連共産党の思想と路線は、「国情による違い」を超えて「対立」へと発展したのである。

 さらにソ連による中ソ国防新技術協定の不履行は、国と国との関係としての中ソの関係を決定的な対立関係にした。一度は原子爆弾の模型と技術資料の提供を約束しながら実際には提供しなかったソ連の態度は、ソ連が中国について、一心同体の同盟国ではなく、国境を接する警戒すべき国として見ていることを表しているからである。

 このソ連側の態度の変化は、ある意味では、中国が自ら招いたということもできる。1958年8月の人民解放軍による金門・馬祖島への砲撃と1959年8月の中印国境紛争は、ソ連に対して、中国は時には軍事的な冒険主義に走る可能性がある危険な国、という危惧を与えたからである。アメリカと「平和共存路線」について合意するためには、中国に核兵器の技術を提供しないことが必要だったのと同時に、ソ連自らの安全保障の問題として、長い国境線で接する隣国である中国に核兵器の技術を提供することの危険性をソ連が現実問題として考えるようになったのである。

 このようにして、中ソ間の関係は「中国共産党とソ連共産党との思想・路線上の対立」から「中国とソ連との国際戦略(外交戦略)上の対立」へ変化し、さらには「長い国境線で接する隣国同士との対立」へと発展していったのである。この「長い国境線で接する隣国同士の対立」は、1969年3月、中ソ国境東部のウスリー江の中州である珍宝島(ソ連名「ダマンスキー島」)の領有権を巡る大規模な軍事衝突で最高点に達する。

 しかし、中ソ対立は、別の見方をすれば、そもそもは毛沢東による「中国共産党内で権力を確立する過程でのソ連留学派との対立」、「個人崇拝を否定したスターリン批判への警戒感」、「『アメリカとの平和共存を求めるソ連は国際共産主義運動に対する裏切りである』と考えた毛沢東の認識」から出発していたことから、毛沢東がいなくなれば、必然的に消えていくものだったと言うこともできる。実際、毛沢東の死後、中ソ対立は、徐々に緩和の方向へ向かうことになる。

 毛沢東の死後、中国の実質的な指導者となったトウ小平も、当初はソ連を「覇権主義」としてあからさまな警戒感を示していたが、1978年以降、中国が改革開放路線に入り、1979年1月に米中国交正常化がなされ、1981年6月、トウ小平自身が「歴史決議」において毛沢東に対する個人崇拝を否定した時点で、もはや中ソ間の「共産党としての思想・路線の対立」「外交戦略上の対立」は事実上消滅した。「長い国境線を持つ隣国同士」の関係だけは残ったが、思想・路線や外交戦略上の対立が消滅した以上、それは「普通の隣国同士」の関係が残っただけであった。その「隣国同士の関係」の中でさえ、「対立する」要素は1980年代前半には既に消滅していたのである。

 現在、中国とロシアとは、中央アジアにおけるイスラム原理主義に基づく一部の分離独立勢力に対抗する、という点と、必要に応じてアメリカやヨーロッパに対して中ロが友好関係にあることを示すことが「カード」として使えるという点で利害が一致している。2001年6月15日には、中国、ロシアに加えて中央アジアのカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの6か国にからなる上海協力機構が成立した。「テロ活動、分裂活動、宗教過激派に対する協力」が目的であって、北大西洋条約機構(NATO)のような軍事同盟ではない、というのが参加各国の公式見解であるが、上海協力機構の成立は、1960年代、1970年代の中ソ対立とは時代が変わったことを印象付けるできごとであった。

 なお、1969年3月に武力衝突まで引き起こしたウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)の国境線問題については、2008年7月21日、中ソ両国の外相が協定にサインして国境線が画定し、この問題は完全に解決している。

以上

次回「3-2-4:【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】」
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へ続く。

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