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2010年2月14日 (日)

3-1-6:土地改革から本格的な社会主義化へ

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第6節:土地改革から本格的な社会主義化へ

 1952年後半から毛沢東は「過渡期の総路線」というスローガンの下、周囲の想定をはるかに上回るスピードで社会主義化を進めている。これは「中国でもソ連型社会主義を目指す」という捉え方をすれば、「第3節:国際情勢に翻弄される建国期の中華人民共和国」で国際情勢の変化について述べた時に指摘したように、この当時、中国が外交面で米ソ冷戦構造の中で「向ソ一辺倒」の路線を歩んでいたことと軌を一にするものであった。

 一方、抗日戦争末期から、中国共産党は、戦線の統一を図る目的から、毛沢東のカリスマ性を利用して、毛沢東に対する個人崇拝の傾向を強めて来ていた。これは、歴代王朝時代から続く素朴で東洋的傾向の残る大多数の人民に対して、「尊敬できる偉大な指導者像」を作り上げることにより、絶対的な精神的支柱である「皇帝」に代わる存在を提供することをも意味していた。しかしこのことにより、中国共産党は、自らの内部で毛沢東を「皇帝化」し、毛沢東が仮に誤った政策判断を下しても党内においてそれを批判できない、という雰囲気を産んでしまっていた。

 実際、1950年代の中華人民共和国建国初期の時期においては、中華人民共和国の成立を成功させた、という圧倒的な実績を前にしては、毛沢東に反対できる者は誰もいなかったのである。中国共産党の内外に「社会主義化より先に国内経済の立て直しが重要だ」と考える人々が多くいたにもかかわらず、米ソ冷戦構造下で軍事戦略家として「敵を作ることによって戦って前進する」方針を進めるため、あえて国内においても「ブルジョア階級を敵とする」社会主義化の推進の方向に舵を切ろうとする毛沢東を止めることは、誰にもできなくなってしまったのである。

 1950年6月「土地改革法」が公布され、まだ地主・小作関係が残っている地区においては、地主から土地を没収し耕作者の農民に土地を与える「土地改革」が強力に進められていった。これより少し前の1950年5月、中国共産党は国内での政権掌握を確実なものとし、党内における官僚主義的傾向を排除するための「整風運動」を開始した。また、朝鮮戦争勃発直後の1950年7月、中国共産党中央は「反革命活動の鎮圧についての指示」を出して、「反革命分子」の鎮圧に乗り出した。これらは、中国共産党が国内での政権掌握を確固としたものにするために党内を引き締めるとともに、朝鮮戦争の勃発に呼応して大陸に残っている国民党の残存勢力が「反攻」に出ることを防止するために国民党残存勢力を一掃しようと意図するものであった。同時に、こららの運動は、地方に存在する地域ボスや秘密結社、暴力団組織など、中央政府の支配に服さない勢力を一掃する、という国内の政治的統一の意味もあった。

 「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」によれば、1950年5月から1953年6月末までの「党内から『思想が不純な分子』や『組織が不純なもの』を排除する」という「整風運動」の期間中、32万7,000人が党の組織から排除され、このうち23万8,000人の「党内に混入した各種破壊分子及び堕落変質分子」が党から「清除」された、とのことである。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第五章:中華人民共和国の成立と新民主主義から社会主義の過渡期へ(2)」
「二.新民主主義改革と建設の全面展開、国民経済の回復」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444782.html

 ここでいう中国語の「清除」は「一掃すること、粛清すること、除名・追放すること」といった意味であるが、具体的にどういう方法で「清除」されたのかは、この「中国共産党簡史」では述べていない。「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」では、「反革命鎮圧運動」の中で「反革命分子129万人を逮捕、123万人を拘束し、71万人を処刑し、武装勢力240万人を壊滅させた。」としている。

 上記の「中国共産党簡史」で述べているのは中国共産党内部の「整風」を述べたものであり、後者の「参考文献8」で述べられているものは、国民党残存勢力の掃討も含めたものであるので、同一視することはできないが、この時期、実際にどのようなことが行われたのかは、現在、必ずしも明らかではない。ソ連共産党によるロシア革命達成直後の「粛清」の問題がソ連崩壊後に明らかになったように、中華人民共和国成立直後の時期に「清除」として実際に何が行われたのかを客観的に検証する作業は、後の歴史家の検証に待つほかはないと思われる。

 こういった党内の「整風運動」と「反革命鎮圧運動」と並行して、1951年末から「三反運動」、1952年初から「五反運動」が展開された。「三反運動」とは「汚職、浪費、官僚主義」の三つに反対する運動であった。「五反運動」とは「賄賂、脱税、仕事の手抜きと材料のごまかし、国家財産を騙し取ること、国家の経済情報を盗むこと」の五つに反対する運動であった。これら「三反運動」「五反運動」は、毛沢東をヘッドとする中国共産党の呼びかけによる大衆運動として展開された。

 「中国共産党簡史」(参考URL1)では、これらの運動を通じて資本家階級に残っていた悪行を排除し、私営企業に対する監督と民主改革を推進した、と述べるとともに、「党の中に存在していたブルジョア階級を制限しようとする勢力と制限に反対しようとする勢力の間の闘争において勝利を獲得した」と述べている。この記述は、「三反運動」「五反運動」を通じて、中国共産党内部の路線闘争において、小ブルジョア(私営商工事業者)や民族ブルジョアによる自由な経済活動も活用しながら広範な階級の協力で国内経済建設を進めようとする「新民主主義」の考え方を持つ勢力が排除され、ブルジョア階級の活動を制限して社会主義的な方法で経済建設を進めようとする勢力が主導権を握ったことを意味している。

 前節で述べたように、毛沢東は1952年後半から「現在は社会主義を完成させるまでの過渡期であり、そのための『総路線(=基本方針)』を進めるべきである。」とのを主張し始めている。これは、中国が最終的に目指すべきものは、1949年の中華人民共和国成立時に決定された「中華人民政治協商会議共同綱領」に定められた「新民主主義」ではなく、社会主義であるという方向性を明確に打ち出したものであった。

 しかし、上記(参考URL1)に掲げる「中国共産党簡史」によれば、1952年9月、毛沢東は、中国共産党中央書記処会議の席上「我々は、今、十年ないし十五年の時間を掛けて社会主義を完成させるという過渡期を始めようとしなければならない。十年経たないうちに、あるいはもっと長い時間を掛けてから過渡期を始めなければならない。」と述べている。この時点では、毛沢東は「社会主義化するまでの過渡期」の期間として「十年ないし十五年」を想定し、「過渡期を開始するまで」の時期も十年以上先の話かもしれない、という想定をしているのである。このように1952年の時点においては、毛沢東自身、「社会主義化へ向かう」という方向性は明確にしたものの、実際にそれを実現するまでには、まだかなりの時間が掛かると考えていた。

 さらに1953年12月の時点で、毛沢東は、この頃の中国における農業用機器や工業用工作機械の生産能力等を考えれば、社会主義国家を建設するには3回の五か年計画期間(=15年間)程度の時間を要し、その前に経済回復のための期間としてなお3年程度必要であることから、社会主義国家が完成するまでには中華人民共和国成立後18年程度の時間が掛かる(つまり社会主義国家が完成するのは1967年頃)だろう、という見通しを示している。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党ニュース」-「党史人物記念館」-「毛沢東記念館」-「著作選登」-「毛沢東文集第六巻」
「革命の変転と党が過渡期の総路線にあることについて」
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70360/4769520.html

 こうした中、1953年3月にはソ連のスターリンが死去した。また、1953年7月には朝鮮戦争の休戦協定が調印された。毛沢東が朝鮮戦争において北朝鮮側を強力に支援すること(抗米援朝)を通じて「新民主主義路線」から「明確な社会主義化」へと舵を切り、「向ソ一辺倒」という外交方針と呼応するように「ソ連型社会主義」による経済建設を始めようとした矢先のタイミングで、「模範」と考えていたソ連のスターリンが死去し、朝鮮戦争が休戦状態に入った、というのは、一種の歴史の皮肉と言えるかもしれない。

 中国では、1950年代初頭、朝鮮戦争への人民義勇軍の派遣、チベットへの人民解放軍の進駐など、なお軍事的行動は続いていたが、中国国内の多くの地域においては国共内戦が終了したことにより、長らく続いていた戦争の時代がようやく終わり、平和な時代が始まっていた。また、1950年6月に公布された「土地改革法」に基づき、地主が持っていた土地が没収され、小作農に分配されることにより、「耕すものが農地を所有する」(=「耕者有其田」)という孫文ら中国革命を始めた人々が革命運動開始以来目指していた目標であり、大多数の農民が望んでいた状況が、現実のものとなっていった。

 「平和の実現」と「土地が自分のものになった」という状況は、全国の農民に希望を与え、その生産意欲を大いに刺激して、農業生産量は大いに発展した。「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、1949年以前の最高生産水準を100とした指数で示すと、1952年の生産量は、穀物で109、綿花で154、サトウキビで126、豚で114、魚介類で111であった。同様な現象は工業部門でも見られた。「平和の到来」により経済活動は安定化し、都市部労働者の生産意欲も向上したことから、工業製品生産量の指数は1949年以前の最高水準を100とすれば、1952年には、薄絹で147、布で137、鋼で146、セメントで125、発電量で122などの大きな伸びを示した。また(参考URL1)に掲げる「中国共産党簡史」によれば、1952年には1949年と比べて労働者賃金は70%増、農民収入は30%増となったとのことである。

 こういった予想を超える国内経済の発展振りは、毛沢東に大いなる自信を与えたと考えられる。この好調な経済回復は、朝鮮戦争における「抗米援朝」や「三反運動」「五反運動」といった共産党が指導する大衆運動と同じ時期であったことから、毛沢東は、戦争状態が終わった平和な経済建設の時期になっても、自分が指導して大衆運動を起こせば、社会の変革をどんどん前進させることができる、と考えるようになったのではないか、と思われる。この毛沢東の「自信」(「過信」とも言える)が、後の「大躍進」や「文化大革命」の悲劇を生むことになるのである。

 実際、1949年の中華人民共和国成立から1952年までの間の経済成長の原動力になったのは、新国家建設の希望に燃えた農民や労働者の生産意欲の向上であり、小ブルジョア(中小商工業者)や民族ブルジョアによる経済運営の力によるものではなかった。これらの状況は、中国共産党内部に「経済建設のために小ブルジョア層、民族ブルジョア層の助けは必要なく、共産党の指導を強力に進めることこそが経済発展に繋がる」という自信(過信)を与えた。このことが、中国共産党内部の路線闘争において、「新民主主義による国内経済建設」を進める一派が力を失い、「社会主義化への道」を進める一派を勢い付かせることになったのである。

 1953年から1954年に掛けて「共同綱領」の規定に基づき、全国人民代表の選挙が行われ、1954年9月、第一回全国人民代表大会が開催された。ここで、この時の選挙制度がどのようなもので、実際の選挙がどのような形態で行われたのかは必ずしも明らかではないが、中国共産党の指導により内戦が終わり、外国勢力が排除され、土地改革によって耕作する農民に土地が与えられ、農業・工業の生産が発展した、という当時の状況を踏まえれば、全国人民代表の多くに共産党系の人士が選出されたことは、この時点では、それほど不自然ではなかったと思われる。第一回全国人民代表会議の様子がどのようなものであったか、については、全国人民代表大会のホームページの「第一期全国人民代表大会第一回会議盛況の実録」で見ることができる。

(参考URL3)「全国人民代表大会」ホームページ
「全国人民代表大会概要」-「全人代の歴史」
「第1期全国人民代表大会第一回会議盛況実録」(2004年2月12日付けで劉政氏がアップしたもの)
http://www.npc.gov.cn/npc/rdgl/rdsh/2004-02/12/content_327928.htm

 この「実録」によると、この会議に出席したのは1,226名の代表で、人民代表には、中国共産党だけではなく、民主階級や民主党派の代表、著名な文学者、芸術家、科学者等の知識人も含まれていた、とのことである。この会議では、中華人民共和国の初めての憲法草案について議論された。この憲法の草案は、中国共産党が起草し、全国の人民の間で議論がなされた後、この全国人民代表大会に提案されて議論がなされたのである。この全国人民代表大会で出された意見に基づき、憲法草案の一部が修正された上で採決が行われ、投票総数1,197、賛成1,197で憲法草案は可決された、とのことである(この「実録」では何も述べていないが、出席者数と投票総数に差があることから、反対票はなかったが、会議には出席したが投票しなかった人民代表が29名いた、ということになる)。

 この1954年に制定された中華人民共和国最初の憲法は、前文で「中華人民共和国は社会主義国家を目指すものであり、現在はその過渡期にある。」と位置付けている。

(参考URL4)「人民日報」ホームページ
「中華人民共和国憲法(1954年9月20日第一期全国人民代表大会第一回会議決定)」
http://www.people.com.cn/item/xianfa/01.html

 この憲法では、社会主義を目指すものの現在は「過渡期」であることから、社会主義経済と資本主義経済が共存することを認めている(第5条)。また、第8条には「国家の法律に基づき、農民の土地とその他の生産に必要な物資に対する所有権を保護する」と規定されている。さらに第10条では「国家の法律に基づき、資本家の生産財とその他の資本に対する所有権を保護する」と規定されている。前文では「中国共産党の指導により革命を成し遂げ、統一戦線を形成してきた」と中国共産党が中華人民共和国成立のために主導的役割を果たしたことを述べてはいるが、この1954年の憲法の中では中国共産党の優位性を規定する条文や他の政党を排除する規定はない。その意味ではこの1954年憲法は、将来は社会主義を目指す、という方向性は書き加えられたものの、政治のあり方については、中華人民共和国成立時に定められた「共同綱領」の線に則ったものであると言うことができる。

 この後、第1期全国人民代表大会第一回会議は、国家主席と国家副主席の選出を行った。上記(参考URL3)の「実録」によると、国家主席の候補者として毛沢東、副主席の候補者として朱徳の推薦があったが、その他の候補者の推薦がなく、投票の結果、毛沢東が国家主席に、朱徳が副主席に選出された、とのことである。このほか、この会議では、全人代委員長に劉少奇、国務院総理に周恩来が選出された。副総理10名も選出されたが、彼らは全て共産党員であった(ただし、国務院の閣僚クラスには共産党員でない者もいた)。このように新しくできた憲法の上では中国共産党は特別な地位を持つ党ではなかったが、実質的には全国人民代表大会は中国共産党によってコントロールされる状態になった、と言ってよい。

 「共同綱領」の規定と新しい憲法の制定により、法律制定等の権限は「共同綱領」を制定し中華人民共和国の成立を決定した中国人民政治協商会議から全国人民代表大会(全人代)へ移ることとなった。中国人民政治協商会議は、その後も存続し、現在に至っているが、現在の政治協商会議は、法律案について議論し、意見を提出することはあっても、何の決定権も与えられていないので、現在では「共産党以外の民主党派の人々も政治に対して意見を言える場を提供している」という形を示すだけのものとなっている。別の言い方をすれば、現在も存続している中国人民政治協商会議は、中華人民共和国建国期の「新民主主義」の「残骸」と言えるものなのである。

 この後、憲法上は中国共産党の優位性が規定されていないのに実質的には中国共産党による各機関のコントロールが可能となるよう各組織に党委員会が設置され、憲法上は農民の土地所有権の保護が謳われているのに実質的には農地の公有化が進められ、憲法上は資本家による生産財の所有が認められているのに国家による資本家からの生産財の徴用が進められる、など憲法上のタテマエと実際の政治状況が合致しない状況が長らく続くことになる。憲法上「中国共産党は中国人民を指導する核心である」旨が明記され、実際の政治支配体制と憲法の規定とが一致するのは、1975年の憲法改正まで待たなければならないことになる。

 中国では、法律よりも現実の政治状況が先行し、法律が後から「現実追認」の形で改正されることが多い。後にも述べるが、これが「よいこと(と自分が思うこと)ならば、法律に違反していてもやってよい」という風潮を呼び、中国において遵法意識が育たない背景になっていると言える。

以上

次回「3-2-1:急激な社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-d0c0.html
へ続く。

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