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2010年2月21日 (日)

3-2-4(1/2):フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(1/2)

 前節で述べた大躍進政策と人民公社化の進展に伴う混乱は、中国国内政治に大きな影響を与えたが、それについては次節以降で述べることとし、本節では1950年代後半から1960年代に掛けての国際情勢、特に中ソ対立について述べることとしたい。

 どの国の歴史でも同じであるが、各国の歴史は常にその他の国の動きと連動している。1972年2月の電撃的なニクソン大統領の中国訪問は、ソ連が後押ししている北ベトナムとアメリカが戦っていたベトナム戦争と、これから述べる中ソ対立を背景として、「敵の敵は味方」の理論で米中の利害が一致したことに起因している。その後、1980年代半ばになって、ソ連共産党にゴルバチョフ書記長が登場し、ペレストロイカ(改革政策)とグラスノスチ(情報公開)を進め、結局それが1989年の東西冷戦の終結、1991年のソ連とソ連共産党の解体につながったのであるが、元をただせば、ゴルバチョフ書記長は、1978年にトウ小平が始めた中国の改革開放政策の成功を見て、硬直化したソ連内部の改革を図ろうとしたのであった。

 1991年、ソ連とソ連共産党は解体したが、東西冷戦を終結させたとしてゴルバチョフ書記長はノーベル平和賞を受賞した。その一方で、同じ時期、ソ連に先んじて経済的な改革開放路線を進めていた中国では、政治改革は1989年の「第二次天安門事件」以降全く進まず、ゴルバチョフ氏が活躍していたのと同じ時期の1980年代に中国で改革開放政策を強力に推進していた趙紫陽氏(1980年代後半、国務院総理、中国共産党総書記を歴任した)は1989年の事件で失脚し、失意のうちに、2005年1月に死去した。この二人が歩んだ道は、歴史の皮肉と言わざるを得ない。このように、中国の歴史と世界の歴史は常に影響しあいながら変化してきている。

 本節で述べる中ソ対立の問題は、東西冷戦構造の中においては「東側」内部の事情であったため、西側に位置していた日本においては、その状況はあまり明らかにされて来なかった。中国の改革開放政策とソ連の崩壊により、一定の情報公開は進んだものの、中ソ対立の経緯は、中国及びソ連(現在のロシア)の過去の外交上の秘密に関わる問題であるだけに、現在でも必ずしも確実な史料に基づき、客観的に評価されているとは言い難い。

 以下に述べるように、中ソ対立が先鋭化する直接のきっかけは、ソ連から中国への核兵器技術の提供の問題であった。この経緯については、依然として軍事秘密のベールの陰に隠されているが、1987年、中国では「当代中国的核工業」(中国社会科学出版社)という本が出版され、中国の原子力工業(軍事部門も含む)の歴史の外郭が明らかになった。「当代中国的核工業」は、日本語訳が出版されていないこともあり、日本ではあまり知られていない。私はこの本の出版当時、この本(中国語の原本)を読んだが、この本では、中国の原子力工業(核兵器関連産業も含む)について語る部分で、ソ連との関係についてもかなり記述がされている。本節では、それも参考としながら、当時の中ソ関係について述べていきたい。

 「当代中国的核工業」は、中国の核兵器開発を含む原子力産業の歴史を記した本である。もちろん公に出版された本であるので、軍事機密に属する部分は記載されていないが、それまでほとんど外部に出されることのなかった中国の原子力産業の歴史について記されているだけでなく、1950年代から1960年代に掛けての中ソ対立の裏側を生々しく記述しており、歴史資料としても価値が高いと思われる。中国側の出版元の許可が降りなかったためか、残念ながら日本語版は出版されていないが、中国の現代史を理解する上で参考になる図書であるので、いつの日か日本語版が出版されることを期待したい。

 さて、「第3章第1部第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期」で述べたとおり、中華人民共和国成立直後の1950年2月、中国とソ連は「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結した。当時の世界の東西冷戦構造を見れば、東側内部における同盟条約と言えるが、この中ソ条約は、西側の同盟条約の典型である日米安全保障条約とは全く異なる条約である。日米安全保障条約は、アメリカ軍が日本に駐留することを認める代わりにアメリカが日本に「核の傘」を提供する(別の言い方をすれば、アメリカは日本の核武装を絶対に認めない)といういわば「片務条約」である。それに対して、「中ソ友好同盟相互援助条約」は、その名称に「相互援助」が入っていることに示されているように(ソ連側がどう考えていたかはともかく、少なくとも中国側から見れば)両国の対等な関係を規定した条約であった。

 中国は、当時の世界人口の4分の1を擁しており、世界の中での「大国」であるとの自負があった。そのため、ソ連の支援を受けて経済建設を進めることとし、ソ連を「社会主義における兄」とは認識していたものの、ソ連の支配下に入ることは最初から考えていなかった。そのため、ソ連の庇護を受けるのではなく、ソ連から支援は受けつつも、中国としては、アメリカやソ連と対等に渡り合える経済力と軍事力を持つことを望んでいた。

 1950年代に入り、曲がりなりにも戦争状態が終わって中国国内の経済建設が進み始めると、次なる課題は中国自身が一定の水準の軍事的力を持つことであった。中国の軍事力保持のひとつの要素は核武装であった。

 毛沢東が中国自らが核兵器を持つべきことを明確に主張したのは、「第3章第2部第1節:社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」でも述べた1956年4月の「十大関係を論ずる」と題する講話だった。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「党史人物記念館」-「毛沢東記念館」
「著作選登」-「毛沢東文集第七巻」
「十大関係を論ずる」(1956年4月25日)(再掲)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70361/4769605.html

 この講話の「経済建設と国防建設の関係」を論ずる中で、毛沢東は次のように述べている。

「我々は現在原子爆弾は持っていない。過去には飛行機や大砲すら持っていなかった。我々は小銃でもって日本帝国主義と蒋介石と戦ったが、これからは我々はもっと強くなる必要がある。もっと多くの飛行機や大砲が必要であるばかりでなく、原子爆弾も必要である。今日の世界において、我々が侮られないようにするためには、こういった物(原子爆弾)を持たない訳にはいかない。

 1950年の第7期中国共産党中央委員会第3回全体会議において、国家財政経済状況を好転させるためには、軍事費を減らす必要がある、との議論が行われた。第一次五カ年計画(1953年~1957年)においては軍事費は国家予算の30%だったが、第二次五カ年計画(1958年~1962年)には20%程度になるだろう。そうして、多くの工場を建設したり、多くの機器を製造したりする資金を捻出することになるだろうが、そういった中でも、一定の時間を掛けて、我々はより多くの飛行機や大砲を持つばかりでなく、自分自身の原子爆弾を持つことさえ可能になるだろう。

 ここにひとつの問題がある。あなたは原子爆弾について真剣に十分に考えたことがあるのか? いくぶんは考えたことはあるのだろうが、十分に考えてはいないのではないか? 軍事費を低減して経済建設に向けるということについて、真剣に、十分に考える必要がある。この戦略方針については、軍事委員会において検討されることを希望する。

 現在、我々の兵力は整っていると言えるか? そんなに整ってはいない。周囲には敵がおり、我々は敵に囲まれて敵に侮られている。だからこそ、我々は絶対に国防を強化しなければならないのであり、だからこそ真っ先に経済建設を強化しなければならないのである。」

 この毛沢東の考え方の背景としては、1950年、朝鮮戦争が勃発し、中国の人民義勇軍がこれに参戦した際、国連軍司令官マッカーサーが中国に対する原爆の使用も視野に入れた考えを持っていたこと(これによりマッカーサーはトルーマン大統領に解任されることになるが)、1952年にはアメリカが、1953年にはソ連が水爆実験に成功し、世界が核開発競争の時代に入ったことを考えておく必要がある。

 原爆製造の技術的バックグラウンドを持たない中国は、ソ連に原爆製造技術の提供を要請した。ソ連は、この中国からの要請を拒否しなかった。アメリカが日本やドイツに対して、原子力の平和利用目的であってもウラン濃縮技術を一切提供せず、(特に過去のアメリカの民主党政権下においては)日本が平和目的でプルトニウムを抽出することについても極めて厳しい注文を付けてきているのに比べて、ソ連の中国に対するこの態度はかなり甘かったと言われても致し方ない。当時のソ連は、東ヨーロッパ諸国において自国の影響力を行使することに成功していたこともあって、中国の国力を過小評価をしていたのではないかと思われる。

 1956年2月にスターリン批判を行って以降、フルシチョフは、国内政治と外交戦略において大きな方向転換を行った。国内政治では、スターリン批判に明示的に示されているように個人崇拝を否定した。外交戦略においては、アメリカとの冷戦構造下において、アメリカとは対立しつつも「超大国」としての立場はお互いに認め合い、アメリカと「平和共存」の道を歩もうとした。

 このフルシチョフの外交戦略を背後から強力にバックアップしたのが、人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功(1957年10月)に見られるような宇宙開発の成功である。スプートニク1号の打ち上げ成功は、ソ連の科学技術力の高さを示すとともに、それまでにソ連が原水爆実験を成功させていることと合わせて考えれば、ソ連から核弾頭を搭載して直接アメリカを攻撃することができる大陸間弾道ミサイル(ICBM)の技術をソ連が既に持ったことを意味するものであった。スプートニク1号の成果は、科学技術の成果という面以上に、アメリカに対しては「ソ連の軍事的脅威」を印象付けるものであった。

 スプートニク1号の打ち上げ成功の後、アメリカは1957年12月、1958年2月に2度人工衛星の打ち上げに失敗し、1958年3月17日になってようやくアメリカ初の人工衛星ヴァンガード1号の打ち上げに成功した。

(参考URL2)宇宙航空研究開発機構「宇宙情報センター」ホームページ
「ロケット」-「ヴァンガード」の項目
http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/kaihatu_rocket_vangardo.html

 この時点で、宇宙開発競争においてソ連が優位に立っていたのは客観的に明らかであり、アメリカ国内では「スプートニク・ショック」による「ソ連脅威論」が渦巻いていた。フルシチョフは、これを利用して、アメリカとの間で「平和共存」路線を打ち出し、米ソ超大国による国際社会のコントロールを目論んだ。このフルシチョフの意図を毛沢東は鋭く見抜いていた。毛沢東は、後に米ソ超大国を第一世界、米ソ両超大国の支配下にあると目される国々(日本や東西ヨーロッパ諸国、カナダ、オーストラリア等)を第二世界と呼び、その他の発展途上国を第三世界と呼んで、中国は国際社会の中で第三世界のリーダーとしての役割を果たす、との意図を明確にする(この立場は中国の外交戦略の基本的発想として現在まで連綿として続いている。中国が現在でもアフリカ諸国との関係を緊密に保っているのは、この発想に基づいている)。

 こういった情勢の下、1957年10月15日、ロシア革命40周年式典に参加するため毛沢東がモスクワを訪問する直前に中ソ国防新技術協定が調印された。この協定において、ソ連は中国に対して原子爆弾の模型と図面資料を提供することを約束した。しかし、この協定交渉の過程において、中国側が要求した原子力潜水艦に関する情報の提供をソ連は拒否した。また、この協定が調印された後、ソ連は中国に対して、情報を提供した後の中国側内部での機密保全体制についていろいろと注文を付け、実際の情報提供はスムーズに進まなかった。具体的には、1958年10月になって「模型と技術資料は11月に中国に提供する」とのレターが来たが、実際には11月の期限までには模型と技術資料は提供されなかった(参考資料13:「当代中国的核工業」)。

 これより先、1858年の7月末~8月、フルシチョフは中国を訪問し、毛沢東らと会談した。この際、ソ連側は、中国の沿岸部にソ連と中国との潜水艦が共同で使えるような無線施設の設置を提案した(映像・音声資料4:CNN制作のドキュメンタリー・シリーズ
"Cold War", Vol. 15, "China 1949-1972")(注1)。

(注1)水の中では波長の短い通常の電波は伝わらないため、潜水艦との交信は波長の長い電波(長波)が使われる。一方、長波は、遠方までは伝わらないために、潜水艦との通信を行う通信施設は、潜水艦の活動海域に近い陸上に設置する必要がある。ソ連は、極東地域のウラジオストック以南の海域における潜水艦のための通信施設を中国の沿岸部に設置したかったのである。

 原子力潜水艦に関する技術提供を拒否しながら、中国の沿岸部に潜水艦用の通信設備の設置を提案してきたソ連の態度に、中国側は激怒した。「映像・音声資料4:CNN "Cold War", Vol. 15, "China 1949-1972"」の中で、当時の中国政府職員 Su Shaozhi 氏は、このフルシチョフの要求について、毛沢東は、ソ連は中国を東欧諸国と同じようにソ連の衛星国にしようと考えている、として反発した、と語っている。

 この時期は、まさに前節で述べたように、国内的には「大躍進政策」が始まろうとしている時期だった。当時の中国は、対外的にも「大躍進」的な発想に基づき、一気に問題解決を図ろうとしていた。フルシチョフ一行が中国を離れた直後の1958年8月23日、人民解放軍は、国民党側が支配している台湾海峡の金門島、馬祖島に砲撃を開始した(注2)

(注2)金門島、馬祖島は、台湾海峡の大陸側のごく近くにある島々で、国民党側が支配していた。特に金門島は福建省廈門(アモイ)市の対岸数キロのところにある。これらの島々は、台湾海峡の大陸側にあるのだけれども、現在も台湾当局が実効支配している地域である。

 これに対してアメリカはこの海域に第7艦隊を派遣した。台湾海峡の緊張は一気に高まったが、人民解放軍は、砲撃以上の行動(金門島、馬祖島への上陸の試みなど)はせず、蒋介石の国民党政権とアメリカも大陸へ反攻することはしない、と宣言したことから、事態はこれ以上は進展しなかった。

 さらに1959年3月10日にはチベットにおいて、ダライ・ラマ14世が「チベット独立」を主張して反乱を起こした。その詳細は現在でも不明な点も多いが、この反乱が起きたのは、おそらくは前年1958年から始まった「大躍進政策」「人民公社化の推進」がチベットにも及び、チベットの人々に対して共産主義的な枠組みを強要した(これは、チベット仏教に基づく社会秩序の破壊を意味する)からではないかと思われる。人民解放軍はこのチベットの反乱を鎮圧し、ダライ・ラマ14世はヒマラヤを越えてインドに亡命した。インド側がダライ・ラマ14世の亡命受け入れを発表したことから、中国とインドとの関係は緊張した。

 もともと中国とインドとの国境線は、ヒマラヤ山脈があるため実効支配が難しいことから、あいまいだった。1914年のシムラ条約において、当時のチベットとイギリスが支配するインド帝国との間の国境線が決定された。これが当時のイギリス側代表者の名前を取って名付けられた「マクマホン・ライン」である。当時の中華民国は、このシムラ条約の成立を認めておらず(当時の中華民国政府は、そもそもチベットは中国の一部であり、チベット支配層が独自に条約を締結する権限は持たない、という立場であった)、従って、マクマホン・ラインも認めなかった。現在の中華人民共和国も同じ立場を踏襲している。一方、インド側はこのマクマホン・ラインが中国とインドとの国境であると主張しており、両国が主張する国境線は現在に至るまで一致していない(従って、日本における出版物では、多くの場合、中印双方が主張する国境線を併記して、その間にある地域については「帰属未定」などと記述している)。

 ダライ・ラマ14世の亡命による中国とインドとの緊張関係は、1959年9月、両国の国境を巡る軍事衝突に発展した(中印国境紛争)。インドと友好関係にあったソ連は、インドと紛争を起こした中国に危機感を感じたに違いない。

以上

次回「3-2-4(2/2):フルシチョフによる『平和共存路線』と中ソ対立(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-8bef.html
へ続く。

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