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2010年2月 2日 (火)

2-3-6(1/2):日本の敗戦(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦(1/2)

 1937年(昭和12年)12月13日、南京を陥落させた日本軍は、重慶に首都を移した蒋介石の国民政府に和平交渉に臨むように迫った。しかし、蒋介石はこれを拒否して、徹底抗戦の構えを見せた。日本は、「満州国」と同じように、中国本土においても日本に協力的な傀儡(かいらい)政権を樹立してその支配を確立しようとし、12月14日には廬溝橋事件以降日本軍の占領下にあった北平(今の北京)において中華民国臨時政府を成立させた。先に樹立していた冀東防共自治政府も、この中華民国臨時政府に合流することとした。年が開けた1938年1月16日、日本の近衛内閣は「蒋介石を対手とせず」との声明を発表し、重慶にある蒋介石の国民政府を無視する方針を打ち出した。その後、日本軍はさらに西へ進撃し、1938年10月には武漢を占領した。

 こうした華中地域での日本軍の勢力拡大はイギリスとアメリカを強く刺激した。「満州国」建国など中国東北部での日本軍の勢力拡大に当たっては、英米両国は、中国における日本の勢力拡大に懸念を抱きつつも、一方ではそれがソ連に対する圧力になっていることから、必ずしも自らに対する直接的な敵対行為とは見ていなかった。ところが、租界地域を持っている上海をはじめとする華中地域で、日本軍が勢力を拡大させてこの地域を占領したことは、英米両国が中国で持っている権益と真っ正面から衝突することを意味した。このため、英米両国は重慶にある蒋介石政権を支援する方針を打ち出した。イギリスは、当時イギリス領だったビルマから、雲南省を通って陸路を用いて重慶の蒋介石政権に支援物資の輸送を始めた。この陸上輸送ルートがいわゆる「援蒋ルート」である。

 日本軍は重慶に対して繰り返し航空機による戦略爆撃を行って蒋介石の国民政権を圧迫したが、中国大陸の奥深くに入って戦線が伸びすぎた日本軍は、都市と鉄道を確保するのがやっとで、国民政府軍との戦闘やゲリラ的戦闘を行う中国共産党勢力との戦いの中で、戦線は泥沼の膠着状態に入っていった。

 この頃までの日本軍による中国での急速な勢力の拡大の背景には、ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの勢力拡大が影響していることは見逃せない。1933年に政権を獲得したヒトラーが率いるナチス・ドイツは、第一次世界大戦後のヨーロッパ秩序の基礎となったヴェルサイユ条約を無視して、軍備増強の道を歩んだ。ナチス・ドイツと日本は、1936年7月に共産主義勢力に関する情報交換等を目的とする防共協定を締結した(後にイタリアが参加して日独伊防共協定となった)。こういった協定が締結されたのは、日本とドイツはソ連と相対しているという点で利害が一致していたからである。

 日本の華中地域での勢力拡大と時を同じくして、ナチス・ドイツは1938年3月、オーストリアに侵攻しこれを併合した。ナチス・ドイツはそれに続いてチェコスロバキアへの圧力を強めた。英仏は、ドイツとの戦争開始を避けるため、1938年9月に行われたミュンヘン会談において、チェコスロバキアのうちドイツ系住民の多いズデーテン地方のドイツへの併合を認めた。こういったナチス・ドイツの一連の動きは、日本に「軍事力による圧力を加えれば勢力を拡大できる」という慢心を与えたものと思われる。

 ミュンヘン会談における英仏の妥協は、さらにナチス・ドイツの勢力拡張を勢いづかせた。1939年に入ると、ナチス・ドイツはポーランドに対する圧力を加えた。ナチス・ドイツは、ポーランドにおける自らの影響力拡大を意図するソ連の考えを利用して、1939年8月、ソ連との間で独ソ不可侵条約を締結した。この条約にはドイツとソ連によるポーランドの東西分割を含む秘密協定があったことが第二次世界大戦後に明らかにされている。

 この独ソ不可侵条約は世界を驚愕させた。共産主義を目の敵とするファシズムの筆頭であるナチス・ドイツと共産主義の頭目であるソ連が手を結んだからである。不可侵条約の締結により、ソ連と直接対決する心配のなくなったナチス・ドイツは、1939年9月1日、ポーランドに対する電撃的な侵攻作戦を開始した。これに対し英仏はドイツに対して宣戦を布告した。第二次世界大戦の勃発であ。

 中国の華中地方では、南京陥落直後の1938年1月、抗日統一戦線を結集するため、江西省の南昌において、「長征」に加わらずに江西省等に残っていた中国共産党勢力を結集して国民革命軍新四軍が結成された。一方、これより前の廬溝橋事件直後の1937年8月、中国共産党の紅軍を主体とする国民革命軍第八路軍が結成されていた。この新四軍と八路軍が将来の人民解放軍の母胎となる。

 本来は、中国側にとっては、華北地方を八路軍が、華中地方を新四軍が担当するとともに、第二次国共合作により、こられ共産党勢力と国民政府軍とが協力して、共同で日本軍に当たることが理想であったが、中国側内部も完全な一枚岩にはなり切れていなかった。

 なお、現在の中国では、第二次国共合作が成立して以降は「人民が統一して抗日戦線を戦った」というのが歴史の主流とされていることから、現在の中国側の資料では、この時期の中国側内部での路線対立については明確で客観的な記述が少ない。従って、この時期の中国側の内情についての客観的な事実関係については、現在の政権から独立した将来の歴史家による分析を待つ必要があると思われる。

 蒋介石は、「共産主義は中国の国情に合わない」として、依然として中国共産党勢力と協力しない立場を取っていた。一方、国民党内部では、日本軍の華中地方での急速な勢力拡大と戦闘による被害の拡大を受けて、ある程度日本との妥協を図ることもやむなしと考える汪兆銘(字(あざな)は「精衛」)と、英米に依存して徹底して日本に対抗すべきと考える蒋介石との間で路線対立があった。汪兆銘は、第一次国共合作の立役者であり(「第2章第2部第4節:中国革命の父・孫文の死」参照)、国民党の有力者ではあったが、日本との妥協を図ろうとする考え方はこの時点では既に少数派だった。汪兆銘は1938年暮れに重慶を脱出したため、1939年1月、国民党は汪兆銘を除名処分にした。そうした中、蒋介石は、日本との戦いにおいては、英米両国からの支援には頼るが、中国共産党側とは一向に協力を進めようとはしなかった。それどころか、この時期、各地で国民党軍と八路軍との間で散発的な小競り合いが発生していた。1939年の頃には、既に第二次国共合作は破綻し、実質上、国共内戦とも言える状況が始まっていた、と言ってもよい。

 一方、中国共産党内部では、優れた軍事的指導者としての毛沢東の地位は確立していたが、共産主義思想の面においては、ソ連留学帰国組のソ連型共産主義思想もまだ幅を効かせていた。「共産主義は中国の国情に合わない」という蒋介石の考え方は、「ソ連型共産主義は中国の国情に合わない」という意味では、毛沢東にも共通するものだった。

 ソ連型共産主義思想とは、最終的には労働者・貧農という「持たざる者=プロレタリアート」が全ての権力を掌握するとともに、世界各国の「持たざる者」と協力することによって「国家」という枠を超えた政権を作り上げる、というインターナショナリズムに立脚したものであった。一方、毛沢東は、現実の中国の農民の欲求に立脚し、労働者・貧農だけではなく、自作農や商工業者(いわゆるプチブル)も含めた幅広い社会階層を連合させるとともに、外国勢力を排除した民族主義に基づく中国を作るというナショナリズム指向の強い考え方を主張していた。これはいわば「マルクス主義の中国化」を目指すものである。日中戦争という「国対国」の戦いに直面し、日本に対抗するためには全ての階層は協力すべき、と考える人が多かった当時の状況において、多くの人々は毛沢東の考えの方がソ連留学組が主張するソ連型共産主義理論よりも受け入れやすい、と思うようになったのである。

 さらにソ連がナチス・ドイツと妥協して締結した独ソ不可侵条約、そして下記に述べるように1941年4月に日ソ中立条約を締結したことは、日本軍と戦う日々を送る中国の人々の中に、ソ連に対する大きな幻滅を与え、中国共産党の中におけるソ連留学組の影響力を小さいものにしていくのである。この点は、1960年代に頂点に達する中ソ対立のひとつの原点として留意しておくべき点である。

 なお、この時期の中国共産党内部での路線対立の過程で、ソ連留学組の地位が低下し、毛沢東の指導者としての位置付けが高まっていったことは、日本軍に対抗するために結束を固める必要がある、という戦闘遂行上の必要性とも相まって、毛沢東に対する個人崇拝の萌芽となっていく。「毛沢東に対する個人崇拝」は、21世紀の現在に至るまで続く、中国革命の中における重要な視点の一つである。1956年にソ連のフルシチョフがスターリン批判においてスターリンに対する個人崇拝を批判したことを中国が毛沢東に対する個人崇拝に対する批判と受け止めたこと、1981年にトウ小平が改革開放政策の中で行った「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」の中で毛沢東に対する個人崇拝を批判したこと、1989年以降の中国共産党が求心力を維持するために毛沢東のカリスマ性に頼る路線に揺れ戻っていること、など、「毛沢東に対する個人崇拝」は、中華人民共和国建国後の歴史を語る上でも、ひとつの重要な「キーワード」となっていくのである。

 日本は、国民党から除名された汪兆銘と交渉を行い、1940年3月に南京において重慶政権とは別に汪兆銘を代理主席とする「南京国民政府」を成立させ、この政権を「中国の政府」として承認した(汪兆銘は1944年に死去するが、こういった経緯から、汪兆銘は第一次国共合作の立役者でありながら現在の中国では「漢奸」と呼ばれて批判されていることは前に述べた)。日本軍によって1937年12月に北平において成立されていた「中華民国臨時政府」は、この「南京国民政府」に吸収されることになる。

(注)蒋介石の政権も、本来の首都は南京であり、一時的に首都機能を重慶に移しているだけ、との立場からこの時期の蒋介石の政権も「南京国民政府」と呼ばれることがある。このため、「南京国民政府」と言う場合、どちらの政権を指すのか紛らわしいので要注意である。当時の日本は汪兆銘をトップとする政権を「南京国民政府」と呼んでいたが、この政権は実質的には日本による傀儡(かいらい)政権であることから、歴史を語る上では「新国民政府」と呼んだり「汪兆銘政権」と呼んだりした方が呼び方としては紛れがない。

以上

次回「2-3-6(2/2):日本の敗戦(2/2)」
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へ続く。

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