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2010年2月 7日 (日)

2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦

【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)

B:アインシュタインからルーズベルト大統領への手紙

 1939年にドイツの科学者によって核分裂現象が発見されたこと、1939年3月にナチス・ドイツがウラン鉱山のあるチェコスロバキアを保護国化したこと、そのナチス・ドイツがウランの対外輸出を禁止する措置を取ったことは、アメリカに亡命していた反ナチス系の科学者を不安に陥れていた。もし原子爆弾がナチス・ドイツによって製造されたら大変なことになる、と考えたからである。

 ハンガリー生まれのユダヤ人で、当時アメリカに亡命していた科学者レオ・シラードは、この危険性を知らせる手紙をアメリカの当時のルーズベルト大統領に宛てて書こうと決心した。しかし、シラードは、単なる一介の科学者に過ぎない自分が大統領に手紙を書いたとしても、大統領は読んではくれないだろうと考えた。そこで、自分で手紙の草案を書いた上で、古くからの友人であり、同じユダヤ人としてアメリカに亡命していたアインシュタインに手紙にサインしてくれるよう依頼した。アインシュタインは1922年にノーベル物理学賞を受賞した世界的な物理学者であり、アインシュタインの書いた手紙ならば大統領も読んでくれるだろうと考えたからであった。

 アインシュタインもシラードの懸念と同じ懸念を持っていた。しかし、アメリカ大統領に原子爆弾の製造を進言し、実際にアメリカが原子爆弾を持った時、世界にどのような恐怖がもたらされるかもアインシュタインはよく理解していた。そのため、アインシュタインは、シラードからの依頼を受けてから1週間迷い続けた、と言われている。アインシュタインは、結局はシラードが書いた手紙にサインした(手紙の日付は1939年8月2日)。アインシュタインが署名し、ルーズベルト大統領のもとへ届けられた手紙の実物は、下記のアメリカ物理学会の歴史博物館のページで見ることができる。

(参考URL1)アメリカ物理学会歴史博物館
「アインシュタインのルーズベルト大統領宛の手紙」
http://www.aip.org/history/einstein/ae43a.htm

 この手紙のポイントは以下のとおりである。

○ウランで見られる連鎖反応現象を使うと、とてつもなく巨大なパワーを出す爆弾を作ることができる。例えば、港でこれを爆発させれば、港全体を破壊することができる。しかし、この爆弾は重すぎるので飛行機で運搬することは難しいだろう。

○アメリカにはウランの資源は少ないが、カナダ、旧チェコスロバキアには有力なウラン鉱山がある。しかし、最も重要な鉱山はベルギー領コンゴにある。

○従って、以下のような措置を取っていただきたい。

(1) この科学現象に対して関心を持ち、特にアメリカに対してウランを供給できる鉱山に大して関心を持つこと。

(2) 関連する研究を行っている大学等に資金的援助を行い産業界の協力も得ること。

○ドイツは占領した旧チェコスロバキアの鉱山からのウランの輸出を禁止したと聞いている。また、ドイツのカイザー・ウィルヘルム研究所において、アメリカで行われている実験の追実験が行われていると聞いている。ドイツがこのような素早い反応を示していることをよく認識する必要がある。

 1939年当時は、まだウランの核分裂現象は、「実験室レベルで現象が見られた」という程度の段階であり、ルーズベルト大統領もこの手紙によって直ちに具体的な計画を始めたわけではなかった。しかし、翌1940年、アインシュタインから再び注意喚起の手紙を受け取った頃から、アメリカ政府は原子爆弾の製造について本気で考え始めたようである。前に書いたように1941年2月にアメリカのシーボーグがプルトニウムの生成・分離に成功した時点では、既にアメリカ政府は原子核反応に関する情報管理を厳しくしており、プルトニウムが生成・分離されたことは完全に秘匿された。そして、1942年8月には、正式に原子爆弾製造のための組織が作られ、原爆製造計画、いわゆる「マンハッタン計画」がスタートした。

 アインシュタインは、ルーズベルト大統領に手紙を書いたものの、マンハッタン計画には全く参画しなかった。しかし、結果的に1945年8月に広島・長崎に原爆が投下されたことに対して、大きな自責の念を感じ、第二次世界大戦終了後は平和運動に力を入れるようになる。なお、広島に投下された原爆の原料となったウランはベルギー領コンゴで採掘されたものであった。このことを見ても、シラードが起草し、アインシュタインが署名した大統領宛の手紙が原子爆弾製造のきっかけになったのは間違いのないことがわかる。

C:日本における原子爆弾製造計画

 日本における原子爆弾製造計画は、関連書類のかなりの部分が終戦時に処分されてしまったのでよくわからない部分も多いが、陸軍が当時理化学研究所の主任研究員だった仁科芳雄博士に依頼して行った研究(暗号名「二号研究」)と海軍が京都大学に依頼して行っていた研究とがあると言われている。仁科芳雄博士が携わった「二号研究」については、2006年8月6日、テレビ朝日が放送した「ザ・スクープ」という番組の中で「終戦61年目の真実~昭和史の『タブー』に迫る~」の第一部「幻の原爆開発計画~若き科学者達の知られざる戦い~」として紹介された。

(参考URL2)「テレビ朝日」ホームページ
「2006年8月6日放送『ザ・スクープスペシャル』」
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/toppage/060806_010.html

※上記のページの「動画配信はこちら」をクリックすると、インターネット上でこの番組を見ることができる。実際に「二号研究」に参加した存命中の方へのインタビュー等も交えた非常に史料価値の高い番組なので、一度御覧になることをお勧めする。

 上記のテレビ番組によれば、陸軍が仁科芳雄博士に原爆製造の研究を依頼したのは1941年4月だったとのことである。この番組で紹介されている「二号研究」の概要は以下のとおりである。

○目標はウラン235を原料とするウラン型原子爆弾を製造することだった。

○ウラン濃縮の方法としては「熱拡散法」を狙っていた。濃縮するために必要な六フッ化ウラン(気体)の製造には成功したが、実際のウラン濃縮には、実験室レベルでも成功していなかった。

○原料となるウランについては、アジア各地で探していたほか、ナチス・ドイツからの移送を試みた。ドイツからの輸送は4回試みられたが、いずれも輸送していた潜水艦が連合国側に撃沈されて日本に到着しなかった。

○日本国内では、福島県石川町で産出するサマルクス石からウランを回収すべく、採掘を行っていた(この番組によれば、石川町は米軍の機銃掃射攻撃などを受けた、とのことである。福島県石川町は、戦略上は重要な地域ではないことから、石川町でウラン鉱石を採掘しているという情報が米軍に漏れていた可能性がある)。

(参考URL3)福島県石川町のホームページ
「石川町の鉱物紹介」
http://www.town.ishikawa.fukushima.jp/new/gyousei/kyouiku/bunkazai/koubutsu.html

※福島県石川町のサマルクス石(サマルクスカイト)については、産出量が極めて少ないことから、戦後行われた日本国内におけるウラン探鉱においては採鉱対象とはなっていない。

 海軍からの依頼で京都大学で行われていた研究では、遠心分離法によるウラン濃縮が研究されていたが、ウラン濃縮を実現するには至らなかったと言われている。

 上記の番組で紹介されている「二号研究」は一貫してウラン235を用いた原子爆弾についてのみ扱われており、プルトニウムを使った爆弾については考慮されていなかった。プルトニウムに関する情報については、アメリカが情報を完全に管理しており、日本やドイツは戦争が終わるまでプルトニウムの存在すら知らなかった可能性が高い。

 なお、上記のテレビ番組でも紹介されているが、1944年(昭和19年)、雑誌「新青年」の7月号に「桑港けし飛ぶ」(作者:立川賢)というSF小説が掲載された。日本人研究者が原油から触媒を使って航空機燃料用の高(ハイ)オクタン価の揮発油を生産する実験をしている過程で、偶然にウラン235濃度の高い鉱石を発見し、原子爆弾の製造に成功する、という物語である。日本が原子爆弾の製造に成功した結果、その原爆で桑港(サンフランシスコ)を攻撃し、アメリカが日本に降伏する、という筋書きの小説である。戦意高揚のための、ある意味では荒唐無稽な小説ではあるが、高濃度のウラン235を用いた爆弾に関する小説が軍の検閲を通って公表されたことは極めて興味深い。

 この小説では、ウラン濃縮とか「臨界」とかいう概念は登場せず、作者が原子爆弾の原理についてどの程度知っていたのかは不明であるが、この小説の中で原子爆弾の製造に成功した研究者が「ハイオク・ガソリンの生産について研究していた」という設定は極めて興味深い。小説で描かれている石油からガソリンを精製する工程が「二号計画」でウラン濃縮のために使われていた「熱拡散法」にかなり似ているからである。この小説の作者が「二号計画」について何らかの情報を知っていた可能性がある。もしそうだったのであれば、軍の検閲がこの小説の公表を認めた理由が不可解である。当時の軍関係者は、原子爆弾について研究は行っているけれどもとても実用化までにはほど遠いまさに「SF的な話」としてそれほど重要視していなかったのか、または軍の検閲の担当者が原子爆弾について全く無知であった(何が機微な情報なのかわからなかった)のか、のどちらかであると思われる。

 この小説の最後には、サンフランシスコに日本の原爆が投下された後、アメリカの研究者が「コレ合衆国科学力ノ敗北ヲ喫セルモノニシテ科学戦ニ於ケル敗北ハ已(すで)ニシテ一国ノ敗退ナリ」と大統領に進言する場面が出てくる。この小説上の文言は約1年後に日本が下した判断を予言したものとなっている。この小説の文言は、原子爆弾の存在が世界に与える影響について、ある程度の認識を持っている者が既に日本にもいたことを表している。

以上

次回「2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(4/4)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-2257.html
へ続く。

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