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2010年2月18日 (木)

3-2-3(1/2):大躍進政策と人民公社の成立(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第3節:大躍進政策と人民公社の成立(1/2)

 いささか個人的な感傷が入って恐縮であるが、このあたりの記述から、単なる「歴史に関する記述」に重畳的に重なるように、私個人の「自分史」が重なり出してくる。私は、1982年7月、仕事上、中国、韓国等アジア諸国との通商貿易に関連する部署に配属された。その当時、上司から最初に読むように言われた資料が私がその部署に配属される約1年前の1981年6月に出された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(歴史決議)であった。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「資料」のページ
「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」
(1981年6月27日中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議で採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-03/04/content_2543544.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この決議は、今読み返してみても、論理が明晰であり、極めて率直かつ客観的に中国共産党の歴史を語ったものであり、外国人である筆者が読んでも大いに納得がいくものである。この職場に着任したての私に対して、上司は、今まさに中国では人民公社が解体されつつあることを説明したのだった。「毛沢東」「文化大革命」「人民公社」が当時の中国をイメージする大きなキーワードだった私にとって、「文化大革命」を誤りと認め「毛沢東も晩年に誤りを犯した」とする「歴史決議」は衝撃的なものだったし、人民公社が解体されつつある、という事実も、また歴史の大きなうねりを感じさせるできごとだった。

 1978年に改革開放政策が始まる前の「毛沢東」「文化大革命」「人民公社」といったキーワードで代表される中国のイメージが始まったのは、まさに前節で述べた「反右派闘争」及び今節で述べようとする「大躍進政策」と「人民公社の成立」からである。

 1957年6月、それまでの「百花斉放・百家争鳴」の方針を急転回させて「反右派闘争」が開始されたことにより、毛沢東に反対する勢力は一掃され、毛沢東に批判的なことは一切言えなくなるような雰囲気が中国を支配するようになった。

 「反右派闘争」が一段落して、反対勢力が一掃された状況を踏まえ、毛沢東は、ここで民衆を大動員して生産力向上のために人民の力を結集すれば、飛躍的に農業及び工業の生産力を向上させることができる、と考えるようになった。毛沢東がこのような考え方を取るようになったひとつのきっかけとなったと考えられるのは、1957年11月のソ連訪問である。この時、ソ連では革命40周年式典が行われ、それに出席するために毛沢東はモスクワを訪問したのであった。

 この毛沢東のモスクワ訪問のさなか、ソ連共産党のフルシチョフ第一書記は、工業生産及び農業生産において15年以内にアメリカを追い越す、との意欲的な演説を行った。この演説の背景には、直前の1957年10月4日にソ連がアメリカに先んじて世界最初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功するなど、この当時のフルシチョフが大いなる自信を持っていたことがあったと思われる。フルシチョフは、こういったアメリカとも対等に対応できる、という自信の裏付けの下、「アメリカを怖れるソ連」から「アメリカと対等に渡り合えるソ連」を目指して「平和共存」路線へと進んで行くことになる。毛沢東は、「アメリカとの平和共存路線」へ進むソ連を「国際共産主義運動に対する裏切り」だと捉え、このモスクワ訪問時に、フルシチョフとの間で激しい路線論争を繰り広げた。これがこの後決定的になる中ソ対立の具体的な始まりであった。

 中国とソ連は、毛沢東のモスクワ訪問直前の1957年10月15日、核兵器の技術供与を含んだ国防新技術協定に調印していた。毛沢東は、それまでは「向ソ一辺倒」の外交方針の下、ソ連に頼った外交戦略を進めていたが、スターリン批判により個人崇拝を否定し、アメリカとの「平和共存」を探ろうとし、さらには1956年のハンガリー動乱に見られるようにソ連から離脱しようとすれば軍事力でそれを押し潰そうとするフルシチョフのソ連に対して、大いなる危機感を感じたのではないかと思われる。毛沢東は、ソ連と長い国境線で接する中国がソ連に依存し続ければ、中国は東ヨーロッパ諸国のようなソ連の属国のような存在になってしまうことを危惧したのである。このため、毛沢東は、ソ連に対抗するためにも、中国の農業力・工業力を独自の方法で飛躍的に向上させる必要があると考えるようになったと思われる。

 中国とソ連との関係については、核兵器技術の供与問題等が絡んだ中ソ対立など重要な問題が含まれるので、次節で改めて述べることとしたい。

 毛沢東は、モスクワから帰国した後、フルシチョフが言った「15年以内にアメリカを追い越す」という表現を意識して、当時の中国の事情を踏まえ、当時世界第二の工業力を持つと考えられていたイギリスを念頭に置いて、「15年以内にイギリスを追い越す」という方針を打ち出した。1958年5月、中国共産党第8回全国代表大会第2回会議が開催された。この会議での工作報告の中で、劉少奇は、経済建設の発展速度を上げるよう強調した。この会議の後、農業・工業の生産力向上のスピード・アップが図られた。8月に行われた中央政治局拡大会議では、鉄鋼生産量を前年の2倍にすることが定められた(1957年の実績は535万トン)。この中央政治局拡大会議では「人民公社設立についての決議」も採択された。

 中央政治局拡大会議で決められた1958年の鉄鋼生産量の目標は1,070万トンであったが、これは単に1957年の実績535万トンを2倍にした数字であり、裏付けとなる実務的なデータがあるわけではなかった。こういった目標数字の設定に当たって、毛沢東は、最初は15年でイギリス(当時の鉄鋼生産量は年間約2,000万トン)に追い付く、と言っていたが、そのうちに「15年も必要ない。10年で追い付く。」と言い出し、最後には「10年も要らない。2~3年あれば追い付ける。」と言い出した。ほとんど「妄想」とも言える毛沢東の目標数字に対しても、「反右派闘争」で反対勢力が一掃されていた当時の中国においては、異を唱えられる者は誰もいなかった。

 当時の毛沢東が、会議で「重要講話」をするたびに、だんだんと高い目標数字を提示するようになっていく様子を、後に「八長老」と呼ばれることになる党の有力者の薄一波が「若干の重大な決定と事件に対する回顧」(中共党史出版社)の中で書いている。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「資料センター」-「図書連載」
「若干の重大な決定と事件に対する回顧」(薄一波)2008年5月7日アップ
「第26章(二)全人民が製鉄を行うことになった経緯」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/82819/122120/122134/7210659.html

(注)薄一波氏は、文化大革命中に失脚し、改革開放時代になって名誉回復された。1982年に引退したが、その後も保守派の重鎮として存在感を示していた。2007年1月15日に98歳で死去した。

 具体的な根拠もなしに「前年の2倍の生産量」を目標に設定すること自体無茶なものであったが、8月の中央政治局拡大会議の後、鉄鋼生産大増産の大号令が出され、全国各地で農民が大動員されて「土法高炉」と呼ばれる手作りの製鉄炉が作られた。このため1958年の鉄鋼生産は目標の1,070万トンが達成された。この「意欲的な(=無茶な)」目標が達成されたことから、1959年の生産目標は、さらにその2倍を上回る2,700万トンに設定された。

 薄一波はその著書「若干の重大な決定と事件に対する回顧」で食糧生産についても述べている。食糧生産は、1957年の実績は1.65億トンであり、1957年2月の全国人民代表大会の段階では1958年の食糧生産の目標は1.96億トンであった。毛沢東による大増産の掛け声の下、8月の中央政治局拡大会議の後、各地からの報告に基づいて1958年の食糧生産は3~3.5億トンに上ることが報告され、10月に行われた報告では4億トンを達成することが可能であるとの報告がなされた。しかし、実際の1958年の食糧生産量は2億トンであった。

(注)2006年における中国の鉄鋼生産量は4.69億トン、食糧生産量は4.97億トンである。中国の鉄鋼生産量は1996年以来、世界でトップの地位を占めており、2006年時点では、世界の鉄鋼のほぼ3分の1は中国で生産されている。大躍進時代に毛沢東が設定した「無茶な」目標を、「世界の工場」と呼ばれるに至った改革開放後の現在の中国はいとも簡単にクリアしてしまっているのである。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「資料センター」-「図書連載」
「若干の重大な決定と事件に対する回顧」(薄一波)2008年5月7日アップ
「第26章(一)農業における『大躍進』の発動」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/82819/122120/122134/7210660.html

 こういった鉄鋼や食糧等の大増産運動を進める政策は「大躍進政策」と呼ばれた。

 「反右派闘争」などの激烈な反対派殲滅(せんめつ)の空気の中で、毛沢東が掲げる目標に反対できる者が誰もいなくなった上に、各地方の幹部は目標不達成により自分が失脚させられることを怖れて虚偽の報告を行ったのである。虚偽の報告を事実だと信じた毛沢東は、さらにそれを上回る目標設定を行い、全国に対して人民を動員してその目標を達成することを命じたのであった。

 「とにかく鉄を作ること」を命じられた農民たちは、農作業そっちのけで「土法高炉」による製鉄に精を出した。原料となる鉄鉱石や砂鉄が必要な量確保できるはずはなく、作られた鉄の原料の多くはくず鉄であった。鉄の生産量を確保するため、農作業に必要な農機具をつぶして鉄を作ったところもあったという。

 この時期の中国の状況については、戦前、三菱鉱業の技師として訪中し戦争終結後も北京に残って様々な技術指導を行っていた日本人技師・山本市朗氏の著書「北京三十五年」(岩波新書:参考資料12)に詳しい。「北京三十五年」は残念ながら本稿執筆時点では絶版になっており、古書店でないと入手できないが、当時北京にいた日本人が感じた率直なレポートであるので、大躍進時期について記述されている個所を下記に引用することとしたい。

---山本市朗著「北京三十五年」からの引用(製鉄について)始まり---

「・・・・というわけで、工場はもちろん、官庁も、学校も、研究所も、病院も、みんなそれぞれ思い思いの方法で、自分の庭の隅に炉を作って、この土法精錬で半融鉄を作り始めた。

(中略)

 この土法製鉄の操作方法やその製品を見ていると、少なくとも北京市の範囲では、これを製鉄と呼ぶのはふさわしくなかった。原料は大部分はスクラップでり、製品は、その中の一番上等な極上品といっても、せいぜいお粗末な海綿鉄の程度であって、最下級品になると、ちょっと熔融粘着度を高くしたスクラップの焼結塊であった。もちろん炭素含有量などは滅茶苦茶で、やっている御本尊自身も、『へぇ、炭素含有量ってのは何のことですかい。とにかく鉄を出せばいいんでしょう。鉄をね』と元気のいい、焼結屋さんもかなりいた。」

---「北京三十五年」からの引用(製鉄について)終わり---

 上記引用部分を見ていただければわかるように、「土法製鉄」については、山本氏自身、金属製造の専門家であるので、用語の使い方を始めとして、指摘しているところはなかなか鋭いと言える。

以上

次回「3-2-3(2/2):大躍進政策と人民公社の成立(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-291f.html
へ続く。

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