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2010年2月10日 (水)

3-1-2:中華人民共和国の成立

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第2節:中華人民共和国の成立

 1946年6月、本格的な国共内戦が始まった時、当時、兵力等の点で優勢だった国民党の蒋介石は、1年経たないうちに共産党軍を殲滅(せんめつ)できると考えていたようである。ところが、これに対して毛沢東は「敵進めば我退き、敵駐屯せば我擾乱(じょうらん)し、敵戦闘を避ければ我これを攻め、敵退けば我進む」という抗日戦争で培(つちか)った戦術を国民党軍に対しても実行した。

 毛沢東は、本格的内戦が始まった直後の1946年7月20日、「いくつかの地方や都市の放棄は避けられないばかりではなく、必要でもある」として、戦局が不利な地域においては「戦略的撤退」を恐れなかった。かつて日本軍に対して行ったのと同じように「敵を人民の海へ誘い込み、敵を消耗させた後、反撃に出て敵を殲滅させる」という作戦に出たのである。

 この毛沢東の作戦に絶対的に必要だったのは、中国共産党が大多数の人民から支持を得ることであった。そのためには、「抗日」という統一的な目標がなくなった今、中国共産党の本来の目的である貧しい小作農を地主から解放することを前面に押し出す必要が生じた。このため、共産党は抗日戦争期には国民党との対立を避けるために停止していた地主から土地を没収し貧農(小作農)に土地を与えるという「土地革命」を再び推し進め始めた。この内戦の過程で、抗日戦争中に日本を相手に戦っていた中国共産党の軍隊である八路軍と新四軍は「人民解放軍」として再編成されたが、毛沢東はこの人民解放軍に対して、井岡山を根拠地にして以来唱えてきた簡単な軍の規律である「三大規律と八項注意」(「第2章第3部第3節:中国共産党による『長征』と毛沢東による指導体制の確立【コラム:三大規律と八項注意】」参照)を改めて徹底するよう指示し、軍隊として人民からの積極的な支持を得るよう努めた。

 この頃、アメリカは、日本における占領政策と朝鮮半島情勢の安定化を重視しており、中国で内戦が拡大することを望まなかった。このため、アメリカは蒋介石に対しては、国民党以外の民主派政党も結集しながら、共産党とも連携して中国の統治機構を安定させることを望んでいた。しかし、蒋介石は(短期間で共産党勢力に勝てる、という自信があったためと思われるが)こういったアメリカの意向を無視し、非共産党系の民主政党である中国民主同盟の賛同も得られないまま、1946年11月、「国民大会」の開催を強行し、1947年1月1日をもって「中華民国憲法」を公布することを決定した。また、1947年4月には、南京において、国民党に加えて、青年党、民主党からなる「連立政権」を成立させ「国民政府は複数政党による政権である」と宣言した。

 この間、軍事的には国民党軍は共産党軍を圧迫し続けた。1947年3月には、共産党軍は、毛沢東よる「戦略的撤退」の考え方に基づいて、「革命の聖地」である延安からも撤退した。これは都市部を国民党軍に空け渡し、周辺の山岳部等へ国民党軍を誘い込んでゲリラ的戦法によって国民党軍を消耗させる作戦であった。この共産党軍の作戦に遭い、国民党軍は、この後、都市部は確保しているものの、各地に点在する国民党軍の拠点は次第に孤立化するようになっていった。

 アメリカは、後に朝鮮戦争において「国連軍」として韓国側を支援したような、さらには1960年代ベトナムにおいて南ベトナムに対して支援したような直接的な軍事支援は、蒋介石の国民党軍に対して行うことはしなかった。ひとつの理由は、この時期のアメリカにとっては、まず日本におけるアメリカの影響力を確固たるものにし、朝鮮半島において親米勢力による政権を確立することが重要だったからである。中国大陸は広大であり、いかにアメリカといえども、中国大陸全土で繰り広げられる内戦において、蒋介石軍に全面的な軍事的バックアップを与えることは不可能だと考えたことが積極的な軍事介入を見送った理由だったと思われる。その上、蒋介石は、アメリカの意向通りに動こうとはせず、アメリカの意図に反して自らの意志で内戦を拡大していったことから、アメリカには蒋介石に対する不信感があり、アメリカとしても軍事面で全面的に支援することを躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかったのである。

 しかし、一方で、限定的とはいいながら、蒋介石がアメリカの支援を受けていたことは事実であり、このことが「愛国的な」非共産党勢力の中に、蒋介石政権に対する不満を植え付けることになった。そもそも、その当時の中国の人々の目標のひとつが「外国勢力の排除」だったからである。アメリカの支援を仰ぐ蒋介石に対して、中国の人々の民族主義的な感情は必ずしも同情的ではなかった。中国の人々の素朴な愛国的感情は、この時点においては、共産党には有利に、国民党には不利に働いたのである(前節で述べたように、ソ連は蒋介石政権と「中ソ友好同盟条約」を締結しており、この時期においては中国共産党軍はソ連からの直接的な支援を受けられる立場になかった)。

 さらに国民党政権は、抗日戦争から内戦勃発に続く社会的混乱の中で発生した経済上の混乱を収拾することができなかった。終戦直後の日本がそうであったように、抗日戦争終結後の中国においても、急速なインフレが起き経済が混乱したが、アメリカからの経済的支援にもかかわらず、国民党政権は経済的混乱を抑えることができなかったのである。そのため、国民党政権が支配する都市部の中流層以下の人々は経済的困窮に苦しむことになり、それが国民党政権への反発へと繋がっていく。それに対して中国共産党が支配した地区、即ち「解放区」では、その多くが農村部や地方都市であったことから、貨幣経済が大きく発達した大都市と異なり、社会主義的な「統制経済」により比較的容易に経済をコントロールすることができた。このことが、地方都市において農民以外の人々からも共産党が支持を獲得していくひとつの要因となった。戦争直後の経済の混乱期においては、自由経済よりも社会主義的な統制経済の方が有効な経済政策が採りやすかったからである。

 国民党政権は、共産党に限らず、中国民主同盟など自らの主張に同調しない勢力に対してはこれを弾圧するという強権的政策を採った。国民党政権は、上に述べたように1947年1月1日には「中華民国憲法」を公布して、孫文が提唱したところの革命の第三段階である「憲政」に入ったことを宣言したのであるが、内戦の最中には「動員戡乱(かんらん)期臨時条項」を発動して、憲法執行の一部を停止し、総統に権限を集中させる措置を取った。この条項の発動は、蒋介石が台湾に逃れてからも存続した。この「動員戡乱期臨時条項」に基づいて発せられた戒厳令は、台湾に逃れた国民党政権に引き継がれ、蒋介石が1975に死去した12年後の1987年に解除されるまで継続した。さらに「動員戡乱期臨時条項」自体が解除されたのは1991年になってからのことである。蒋介石によるこういった強権的な政策は、一部の民主党派支持者の間に「反蒋介石」の機運を高めることになった。

 1947年5月20日には、北京・上海・蘇州・杭州で「反飢餓・反内戦」の大規模な学生デモが行われ、この動きが各地に広がった。国民党政権は、こういった学生等の動きを弾圧した。また、このころの台湾では、日本の敗戦の後、国民党政権の官僚が統治していたが、1947年2月28日、ヤミたばこ販売の取り締まりに端を発して国民党政権の官僚と台湾住民との間で衝突が発生した。国民党政権は大陸から軍隊を派遣して、これを徹底的に鎮圧し、2万人前後の死者が出たと言われている(2・28事件)。これらの動きについては、現在の大陸では、当時の経済的混乱の中での国民党政権の腐敗ぶりが多くの人々の反発を招き、人々の間で不満がうっ積していた証拠である、と捉えている。

 なお、2・28事件は、台湾では、現在でも台湾人と大陸から来た本省人の間の「わだかまり」のひとつであり、長らく国民党政権にとっては一種のタブーだった。中国国民党が2・28事件を歴史上の事実として認めて、率直に語り出すようになったのは1990年代になってからのことである。

 国民党政権の持つ強権的体質と腐敗体質、それに急激なインフレ等に対して有効な経済的政策が取れなかったという事実が、国民党軍の兵士の士気を急速に低下させていくことになる。中国共産党の人民解放軍は、地主による支配からの解放という貧農階層が持つ根本的欲求と、都市中小商工業者が持つ社会主義的統制経済による経済の安定への期待とを背景として、その士気は揚々たるものがあったが、国民党軍の兵士には、同じ中国人同士がなぜ戦わねばならないのかを納得させる明確な理由が提示されていなかった。こういった兵士一人一人が持つ「戦う意志」の差が、全体的な「戦局の流れ」として現れ、1947年の夏頃を境にして、中国共産党の反攻は急速に勢いを増していくことになる。

 こうした中、1947年7月、劉伯承・トウ小平が指揮する人民解放軍が武漢の北にある大別山区に根拠地を打ち立てたことを皮切りに、中国共産党は華中のど真ん中の地域に「中原解放区」を確保することに成功する。大陸の心臓部に「解放区」を作られた国民党軍は徐々に苦戦を強いられるようになっていく。

 このような状況の下、1948年1月1日、中国国民党内部の反蒋介石グループが香港において「中国国民党革命委員会」を発足させた。その名誉主席には、孫文の遺志を継いで革命運動を進めているとして中国の人々から尊敬を集めていた孫文夫人の宋慶齢が就任した(なお、蒋介石夫人の宋美齢は宋慶齢の実妹である)。

 「反蒋介石」の雰囲気の高まりの中、人民解放軍は各地で反撃に出、1948年4月には「革命の聖地」延安を国民党軍から奪還することに成功した。1948年9月から11月にかけての「遼瀋戦役」において人民解放軍は東北地方の長春、瀋陽、営口等から国民党勢力を駆逐した(現在、中国では国民党勢力の追放を「解放」と称している)。また1948年11月~1949年1月の「淮海戦役」において山東省、江蘇省一帯へ進出した。さらに1948年12月から行われた「平津戦役」では、1949年1月に北平(今の北京)と天津を解放した。これらの戦役を通じて、国民党軍は次々に敗れ、共産党軍と国民党軍との兵力は完全に逆転していった。

 1949年1月31日に北平(今の北京)に人民解放軍が入城した時の様子については、日本の敗戦の後も中国に在留していた技師・山本市朗氏が岩波新書の「北京三十五年」(参考資料12)の中で活き活きと描いている。一般庶民の目線から見れば、「とにかく内戦が終わる。平和な時代になる。」という思いが、何よりも嬉しいものだったに違いない。

(参考URL)「人民中国」2007年1月号
北京東眺西望「一九四九年一月三十一日」(北京放送元編集長・李順然)
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200701/22li.htm

 人民解放軍の支配下に入った地域では、次々に「人民政府」が樹立されていった。既に上記戦役のさなかの1948年12月には中国人民銀行が創立されて、人民銀行券が発行されるようになった。このようにして、中国共産党による政権の基盤が確立されていく中、1949年3月には、中国共産党第7期中央委員会第2回総会(第7期二中全会)が開催され、党の活動の中心を農村から都市へ移すことが議論された。

 農村部で大多数の人民の支持を受けていた中国共産党にとっては、都市部でいかにして住民の支持を得るか、が課題だった。都市部の住民のうち労働者等のいわゆるプロレタリアートは共産党を支持していたが、知識階層や中小商工事業者らは、強圧的・独裁的な国民党は支持しないものの、共産党には同調せず民主的な政権を願っていた。彼らは、中国共産党の都市への進出により自分たちの地位が脅かされるのではないか、との不安を抱いていた。

 このため、毛沢東は、この第7期二中全会において「新しい政治協商会議を開いて、多くの民主党派の力を結集し、民主連合政府を樹立すること」を呼びかけた(「新しい政治協商会議」とは「1946年1月に開催された国民党と共産党とその他の党派を交えた政治協商会議とは異なる政治協商会議」という意味)。この呼びかけは、中国共産党を通じた労働者階級の指導する労農同盟を基礎としつつも、経済建設に必要な私有財産制に基づく資本主義も排除せず、幅広い勢力が協力して「内戦の終結」「外国勢力による支配の排除」「経済の回復による民生の向上」という多くの人々の願望を実現しようとするものであった。

 こうした考え方に基づき、1949年9月21日、中国共産党のほか、様々な民主政党、無党派知識人、各種団体、各民族の代表、在外華僑の代表が集まって中国人民政治協商会議第1回全体会議が開催された(1946年1月の「政治協商会議」とは異なり「人民」の文字が入っていることに注意)。この会議では「中国人民政治協商会議共同綱領」が取りまとめられた。この「共同綱領」では、普通選挙によって選ばれた人民代表による全国人民代表大会(全人大)が開催されるまで、この中国人民政治協商会議の全体会議が全人大の職権を代行することが定められた。また、この「共同綱領」において、労働者階級の指導による労農連盟を基礎として、各民主階級と国内各民族の団結の下での人民民主主義による政治により中華人民共和国を設立することが決定された。この決定に基づき、1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の上に立って「中華人民共和国が今日成立した」と宣言した。

 つまり、1949年10月1日に成立した中華人民共和国は、「労働者・農民階級が指導する」ことにはなっていたが、経済面では私有財産制に基づく資本主義も認めているほか、政権自体は非共産党系の知識人も含めた連合体であり、まだ「社会主義国」ではなかったのである。「労働者階級による指導」を具体的にどのような政策で実現し、その中で私有財産制に基づく資本主義をどのように扱っていくのかについては、中華人民共和国成立後の課題として残されたのである。

 建国後の政治体制をどう固めていくか、については、10年~20年のオーダーで漸進的に議論していくもの、と中華人民共和国成立当時の多くの人は考えていたと思われるが、建国直後に起こった朝鮮戦争の勃発に見られるような米ソ冷戦構造の過激化という国際情勢の中で、中国にとって、そういった「ゆっくりとした建国過程」は許されない状況になっていった。

 なお、現在でも、年に1回開催される全国人民代表大会(全人大)の全体会議と並行して中国人民政治協商会議が開催されているが、これは上記の中華人民共和国成立の過程でできた中国人民政治協商会議が現在でも継続して開催されているものである。1954年9月に全国人民代表が選出され全人大全体会議が開催されて以降は、政策決定権限は完全に全人大に移管されたので、現在の中国人民政治協商会議は、各民主党派が政策について「意見を言う」ことができる場ではあるが、何の政策決定権限も持っていない。

以上

次回「3-1-3:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-2ed4.html
へ続く。

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コメント

初めまして。シナ事変について勉強している者です。シナ事変が勃発したときの中国の状況はどうだったのでしょうか?国民党の勢力はどの程度だったのでしょうか?中国全土を支配していませんでしたよね?

中華民国と中国国民党の関係がよくわからないのです。中国国民党とは中華民国の党の一つだったのでしょうか?他にも政党はあったのでしょうか?

国際連盟では中国国民党は中華民国代表として参加していました。ですから中華民国=中国国民党と考えていいのでしょうか?

投稿: ユトウト | 2013年8月26日 (月) 13時53分

ユトウトさんfrom:イヴァン・ウィル

 1937年7月7日に起きた盧溝橋事件とそれに続く戦いについては、日本は中国に対して戦線布告をしなかったので、当時の日本では「戦争」とは呼ばずに「支那事変」と呼びました。しかし、実体的には、日本と中国との戦争状態だったので、私は「中国現代史概説」の中では「支那事変」とは呼ばずに「日中戦争」という言葉を使っています。

 当時、国民党政権が中国(当時の国名は「中華民国」)を代表する政府であると国際的にも認知されていましたが、中国国内には中国共産党が支配する地域もありました。また、現在の中国東北部には日本が後ろ盾となってできた「満州国」がありましたので、国民党政権が中国全土を実効支配していたわけではありませんでした。

 詳しくは、このブログの中にある「中国現代史概説」の「2-3-4:西安事件と第二次国共合作」「2-3-5:廬溝橋事件から日中戦争へ」あたりを御覧ください。

投稿: イヴァン・ウィル | 2013年8月26日 (月) 22時54分

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