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2010年2月11日 (木)

3-1-3:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国

  1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の上に立って中華人民共和国の成立を宣言したが、この時、重慶にはまだ蒋介石が残っており、共産党軍と国民党軍の内戦は続いていた。このため、トウ小平は、中華人民共和国の成立宣言の直後の10月5日、劉伯承らとともに、国民党軍との戦いに参加するため、南京へ向かった。

 この時期(中華人民共和国成立宣言の直後)、国共内戦は継続してていたのだが、全国の軍事的状況を見れば共産党軍の勝利は明らかだった。2008年8月1日付けの朝日新聞の記事によれば、最近アメリカで公開された蒋介石の日記を見ると、蒋介石は、この時点より1年ほど前の1948年11月には台湾へ撤退して再起を図ることを決意していたとのことである。やがて蒋介石は、共産党軍の圧迫に重慶を支えることもできなくなり、1949年11月には重慶から成都へ移転し、さらに12月には成都も脱出し、遂に台湾へ逃れた。

 蒋介石が「台湾へ逃れることもやむなし」と考えた背景には、一時的に台湾に逃れたとしても、時期が来れば再起が図れると考えていたからだと思われる。大陸での決定的な敗北にも係わらず、蒋介石が再起の望みをつないでいた背景には、アメリカのバックアップが得られるはずだ、との読みがあったと思われる。この頃、アメリカは、占領統治により日本を確保していたし、朝鮮半島では、1948年8月、朝鮮半島の南半分でアメリカの後押しによる李承晩を大統領とする大韓民国が成立していた。蒋介石は、韓国と同じように、米ソ対立の中で、自分もアメリカから一定の協力が得られると考えていたに違いない。

 朝鮮半島北部では、大韓民国の成立に対抗し、ソ連のバックアップの下、同年9月に金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立していた。

 この頃、ヨーロッパでは、東ヨーロッパを占領したソ連がその影響範囲内にある国々で共産党による政権を次々に樹立していったのに対し、アメリカは1947年に「マーシャル・プラン」を発表し、圧倒的な経済力で西ヨーロッパ諸国を支援する方策に出た。当時ドイツでは、西半分をアメリカ・イギリス・フランスが、東半分をソ連が占領していた上に、ソ連占領地域の中に孤島のように浮かぶ首都ベルリンをこの四カ国が分割占領していた。米英仏三国が西ベルリンの占領地域において独自の通貨改革を始めたことから、ソ連はこれに抗議して、1948年6月、西ベルリンに通じる陸上交通路を封鎖した。いわゆる「ベルリン封鎖」である。この「ベルリン封鎖」により西側各国とソ連との間の緊張は一気に高まった。「ベルリン封鎖」に対し、アメリカは大量の航空機を動員して西ベルリン市民の生活に必要な物資を空輸した。結局、陸上封鎖の効果がないことを悟ったソ連は、翌1949年5月には封鎖を解除した。

 こういった国際情勢は、中国の情勢にも影響を及ぼした。蒋介石は、世界各地における米ソ対立の中で、アメリカによるバックアップが得られる可能性に期待していたのである。中国共産党勢力は、軍事的なソ連のバックアップを受けて国共内戦に勝利したわけではないが、蒋介石の後ろに彼をバックアップする可能性があるアメリカがいることに対して警戒感を持たざるを得なかった。アメリカの脅威に対抗するためには、中国はソ連に後ろ盾になってもらう必要がある、と考えたのである。

 毛沢東は、革命エリートと都市労働者による蜂起に頼ろうとするソ連留学派と対立し、農民中心の中国型の社会主義革命を主張して中国共産党内部の主導権を獲得してきたのであるから、そもそもソ連による中国共産党に対するコントロールを好ましく思っていなかった。また、第二次世界大戦の最中に見せた独ソ不可侵条約と日ソ中立条約の締結、そして日ソ中立条約を無視しての対日参戦といったソ連の「大国」としての冷徹な戦略は、毛沢東にソ連に対する相当の警戒感を持せたことは疑いがない。しかしながら、戦略家である毛沢東は、自分が持つソ連に対する警戒感を考慮したとしても、当時の米ソ対立が激化する国際情勢と、生まれたばかりでまだしっかりした経済基盤ができていない中国の国内事情に鑑みれば、当時の中国にとってはソ連の後ろ盾が必要不可欠であると考えていたのである。

 毛沢東は、中華人民共和国成立直前の1949年6月30日、「人民民主主義独裁を論ず」と題する講話を行い、「向ソ一辺倒」という言葉で表現されるソ連と強力に連携していくべきとの方針を明確に打ち出した。

(参考URL)人民日報「中国共産党ニュース」-「党史人物記念館」-「毛沢東記念館」-「著作選」-「毛沢東選集第四巻」
「人民民主主義独裁を論ず~中国共産党28周年を記念して~」
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70354/4768598.html

 冷戦時代、西側に位置していた日本では、中国共産党はソ連のコミンテルンの指導で結成され、その後もソ連の指導の下に革命を遂行し国共内戦を戦ってきたのであるから、中国共産党は最初から一貫して「向ソ一辺倒」だった、と考えがちであるが、今まで見てきたように、毛沢東自身は一貫して「向ソ一辺倒」だったのではなかった。むしろ、逆に、毛沢東は、一貫してソ連型革命モデルを中国に適用することに疑問を持ち、ソ連の大国主義的行動に対して大いなる警戒感を持っていたと考えた方がよい。毛沢東が中華人民共和国成立当時「向ソ一辺倒」という方針を打ち出したのは、米ソ冷戦構造が固まっていく中で、国際戦略上、ソ連と一心同体のように振る舞うことがこの時点では最も有利だ、と戦略家として冷静に判断したからに過ぎない。

 一方、ソ連は、対日参戦して中国東北地方に軍隊を進めた後、日本の敗戦の前日の1945年8月14日に蒋介石政権と「中ソ友好同盟条約」を締結するなど、当初は蒋介石政権を中国の正当な政府として認めていたが、戦後4年間における急速な米ソ対立の先鋭化と国共内戦での共産党側の勝利により、中国については中国共産党勢力を支持すべきとの立場を明確にしていく。毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した翌日の1949年10月2日、ソ連が中華人民共和国政府を中国の正当な政府として直ちに承認したことがそれを如実に表している。

 こうした中国側とソ連側の思惑を踏まえて、生まれて間もない中国の立場を安定させるため、1949年12月、まだ蒋介石が成都において抗戦しているにも係わらず、毛沢東はモスクワへ向けて出発した。

 しかし、毛沢東が持つソ連に対する警戒感がわざわいしたからか、毛沢東によるソ連と中国との協力関係樹立のための交渉は当初はスムーズには行かなかった。そもそもスターリンと毛沢東という個性と自尊心の強い二人の指導者は、個人的にはそりが合わなかったのではないか、と思われる。スターリンは、毛沢東のことを、優れた軍事戦略家・思想家だとは思っていたが、毛沢東はそれまで外国に出たことがなく外交経験がなかったことから、モスクワを訪問した毛沢東を軽くあしらっていたようである。この時、ソ連は旅順などの中国東北地方におけるソ連の一定の権益を留保することを約した「中ソ友好同盟条約」の内容を変更する必要はないと考えていたのに対し、毛沢東としてははかつての「列強各国」のようなソ連の要求はとても飲めるものではないと考えており、両者の主張の間のミゾは相当に深かったと思われる。

 交渉を打開するため、年が明けた1950年1月、毛沢東は北京から周恩来をモスクワへ呼び寄せて、ソ連との交渉に当たらせた。周恩来による交渉の結果、1950年2月14日、ソ連は蒋介石政権と締結した「中ソ友好同盟条約」を破棄し、新たに「中ソ友好同盟相互援助条約」が締結された。建国間もないこの時期に、毛沢東が2か月も北京を離れてモスクワに滞在せざるを得なかったことを見ても、この時の中ソ交渉がいかに難しいものだったかが窺える。

 条約の名称に「相互援助」が入ったことに象徴されるように、この条約は基本的には両国の平等の立場が謳われたものだった。この新しい中ソ条約のポイントは以下のとおりである。

・ソ連は中国に対し1950~54年に3億ドルの借款を供与する。

・旅順、大連、長春鉄道は1952年までに中国に返還する(ここで、スターリンは、ヤルタ協定でアメリカとイギリスに認めさせ、蒋介石政権との間で締結した「中ソ友好同盟条約」にも盛り込まれていた中国東北地方におけるソ連の権益を放棄する、という譲歩を示している)

・外モンゴル(現在のモンゴル人民共和国)に中国の主権が及ばないことを中国が承認する(中華民国は、従来、外モンゴルの独立を認めていなかったが、「中ソ友好同盟条約」では、事実上独立状態にあった外モンゴルの現状を蒋介石政権は認めていた。ソ連は中華人民共和国政府に対しても、外モンゴルは中国の一部ではないことを認めさせることに成功した)。

・現在の新疆ウィグル自治区にある鉱山・石油の採掘権をソ連に認める(これはいわば東北地方におけるソ連の権益を放棄することに対する「見返り」だったが、この部分は、後に中ソ対立の一つの要因となる)。

 上記のように新しい「中ソ友好同盟相互援助条約」は、蒋介石政権との間でわずか4年半前に締結された「中ソ友好同盟条約」とはだいぶ内容が異ななり、ソ連は、ロシア時代から継続して関心を持ち続け、かつて日本との対立の原因ともなった中国東北部における権益を放棄した。このソ連の譲歩は、一面では米ソ対立という国際情勢の変化の中で、ソ連が中国を味方に付けておきたい、と考えた結果であると言える。別の一面では、米ソ対立という世界情勢を利用してソ連に中国東北部に対する権益を放棄させ建国期の中国を援助させることに成功した、周恩来の外交政治家としての手腕が発揮された結果とも言うことができる(別の意味で言えば、そういう優れた交渉力を持つ周恩来を北京から呼び寄せて交渉に当たらせた毛沢東の指導者としての「人を使う能力」が発揮された結果だと言っても差し支えない)。

 中国が、蒋介石を台湾に追い落とし、ソ連との協力関係を樹立し、これから中国国内の経済建設に取りかかろうとした矢先の1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が韓国との国境であった北緯38度線を越えて南進したのである。この北朝鮮軍の南への越境は、北朝鮮の金日成が中ソ両国の同意を得て行ったもの、とするのが一般的であるが、「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の著者の天児慧氏は、アメリカのジャーナリストH・E・ソールズベリーが「ニュー・エンペラー」(天児慧監訳:福武書店1993年)の中で「(北の)攻撃が毛にとって事前に特に警告もなく、晴天の霹靂(へきれき)であったという証拠には事欠かない」と述べていることを指摘して、朝鮮戦争が中国の予期せぬ時期に始まったことを示唆している。

 ソ連は1949年8月、初めての核実験に成功した。その直後の10月に中華人民共和国の建国宣言がなされて中国における共産党勢力の勝利が世界に向けて宣言されたことにより、この当時、ソ連をはじめとする東側諸国はかなり強気だったと考えられる。そういった東側の強気の雰囲気が北朝鮮に南への進出を後押しした可能性がある。しかし、そういった東側の「強気」の原因のひとつを作った中国自身は、この時点では国共内戦から立ち直り国内建設を始めることが先決であり、周辺で国際紛争が起こることは好まなかったに違いない。従って、例え北朝鮮が中国に韓国に対する開戦の同意を求めてきても、中国側はそれを積極的に後押しはしたくなかっただろうと思われる。

 北朝鮮の南への越境を受けて、アメリカは直ちに国連安全保障理事会の開催を求めた。6月27日、国連安全保障理事会が開かれたが、拒否権を持つソ連はこれに欠席し、アメリカ軍を主体とする国連軍の朝鮮戦争への介入が決まった(当時の国連安全保障理事会常任理事国としての中国は蒋介石の「中華民国」だった)。ソ連がこの時の国連安全保障理事会を欠席した理由についてはいろいろな説があるが、2008年6月26日付けのMSN産経ニュースは、ソ連には、むしろ朝鮮戦争におけるアメリカの参戦を誘導し、ヨーロッパにおけるアメリカの影響力を削ぐ意図があった、とする韓国人研究者の説を紹介している。

※MSN産経ニュース2008年6月26日21:24アップ記事「朝鮮戦争の謎『ソ連の安保理欠席』スターリンの証言判明」は既にネット上からは削除されている。

 当初、北朝鮮軍は勢いに乗って南進を続け、韓国軍とアメリカ軍を中心とする国連軍は朝鮮半島南部に追い詰められた。1950年9月15日、国連軍総司令官マッカーサーはインチョン(仁川)上陸作戦を敢行し、反撃に出た。猛烈な国連軍の反撃に押された金日成は10月1日、毛沢東に対して援助を要請した。中国はソ連に対し、協力して朝鮮半島で戦おうと呼び掛けたが、ソ連は動かなかった。スターリンの考え方が仮に上記に掲げたように朝鮮半島情勢よりもヨーロッパでのソ連の影響力を強めることの方を重視したものだったとすると、この時、ソ連が中国からの誘いに乗らなかったことも了解できる。毛沢東はソ連からの回答を待たずに朝鮮戦争への参戦を決定した。10月19日、彭徳懐を総司令官とする中国人民義勇軍は、中国と北朝鮮の国境にある鴨緑江を越えて、朝鮮半島に入って進撃した。

 中国から圧倒的な人数が投入された(1950年11月までに38万人が投入されたという)中国人民義勇軍に対し、国連軍総司令官マッカーサーはトルーマン大統領に対して中国への爆撃と原爆の使用を提言した。マッカーサーの提言は、「部下の将兵の損失を少なくできる手段があるのならばそれを使うべきだ」という純粋に軍事的効果だけから見た軍隊の司令官の考え方としては理解できるものであったが、米中全面戦争、ひいては米ソ両国が核兵器を持つに至ったという状況下における米ソ全面対決に発展しかねないマッカーサーの提案を、トルーマン大統領は受け入れることはできなかった。トルーマン大統領は、1951年4月、マッカーサーを解任した。その後、朝鮮半島での戦闘は双方とも決め手を欠き、1953年7月に停戦協定が成立するまで、戦闘は一進一退を続けた。

以上

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へ続く。

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