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2010年2月19日 (金)

3-2-3(2/2):大躍進政策と人民公社の成立(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第3節:大躍進政策と人民公社の成立(2/2)

 鉄鋼生産と食糧等の増産を進める「大躍進政策」とともに、1958年8月の中央政治局拡大会議での決定に基づき「人民公社」の設立も急速に進められた。

 日本人の多くは、中国語と同じ漢字を使っているため、「公社」というと日本の専売公社や電電公社のような「公共企業体」をイメージする人が多いが、中国語の「公社」は意味が全く異なる。中国語の「公社」は、フランス語の「コミューン」の中国語訳である。フランス語の「コミューン」とは、1871年に起きた「パリ・コミューン」に代表されるような人民による自治政府組織のことを言う。

 1950年代半ば頃、社会主義化が進みつつあった中国では、農地が公有化され、農作業が協同化されていったが、収穫期の共同作業や灌漑設備の建設・維持管理などの共同作業を行うのは「合作社」と呼ばれる農業協同組合的組織であった。「合作社」は、あくまで農作業を行うための組織であって、政府組織としての村(中国の場合は「鎮」という)は別に存在していた。これら共同農作業を行う主体としての「合作社」と、政府組織としての村(鎮)とを合体させ、生産と政府としての機能とを一括して担うのが「人民公社」である。

 人民公社では、農作業は家族単位ではなく、人民公社単位で共同で行われた。農地は、各家族単位の所有ではなく、人民公社が所有することとなった。学校や保育所、病院といった村(鎮)の政府が管理するような公共施設も人民公社が管理することになった。さらに、女性を家事労働から解放するため、公共食堂が設けられ、人民公社の構成員は、各家庭で食事をするのではなく、人民公社の公共食堂で食事をすることになった。高齢になって農作業から引退した老人は、人民公社が設けた高齢者施設で老後の生活を送るようになった。農作業だけでなく、「揺りかごから墓場まで」、人民公社が人々の生活の全ての面倒を見ることになったのである。人民公社が生産の場であり、村(鎮)としての政府組織でもあり、人々の生活の場でもあった。

 人民公社がスタートすると、全ての農作業は共同化するため、一人の作業者にとっては、一生懸命に働いても、手を抜いて働いても、同じように生活は保証された。そのため農作業に従事する農民のインセンティブが沸かず、労働生産性は低下した。また、公共食堂制度により、食料は全て共有になったため、一人一人が食料を節約しようという意志が働かず、大量の食料が無駄に消費されることになった。人民公社の成立により、女性が家事労働や育児から解放されたが、親子が家庭で一緒に過ごす、というごく普通の「幸せの形態」がなくなることになった。1980年代になって人民公社が解体され、人民公社制度について批判することが許されるようになった時、多くの農民が語った「メシくらい自分の家で家族と一緒に食いたかった」という気持ちは、おそらく人間としての本音だったろうと思われる。

 人民公社では、基本的に農地は公有であったが、各農民の住居の回りの小さな土地に自分の責任である程度の作物を栽培することは認められていた。これを「自留地」と呼ぶ。人民公社の農地では、いくら働いても自分の利益にはならないが、自留地の作物は自分のものになるので、多くの人民公社では、公社の農地よりも、自留地の作物の方がよい実りを見せていた。この自留地での作物の栽培は、人民公社による共同作業が徹底された「文化大革命」の際には、「資本主義のシッポ」として禁止されていた時期があった。

 一方、乳幼児の保育、学校教育、医療、高齢者の保護は、人民公社が行うので、各家庭の負担が減り、病気になったり、高齢になったりした際のセーフティ・ネットは完璧だった。全ての人は人民公社の社員になるので、失業は存在しなかった。中華人民共和国成立後それほど時間を経ない間に、急速に就学率が向上し、小学校への就学率がほぼ100%になったのは、人民公社の成立が大きく寄与したことは間違いない(逆に、改革開放政策により人民公社が解体すると、教育、医療、高齢者保護の問題と余剰労働力の失業の問題(いわゆる「セーフティ・ネットの問題」)は、中国が抱える大きな社会問題として顕在化するようになり、現在に至っている)。

 さらに、1950年代後半以降、大型建設機械がまだ製造できなかった中国において、灌漑施設、治水施設などの公共設備が人海戦術で次々に整備されていったのは、多くの人民を動員して社会的事業を行うという「大躍進政策」に基づく社会の雰囲気と、社会の全ての事業を人民公社が担う、といった体制が後押ししたことは否定できない。1981年6月に出された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」においても、「大躍進政策」は、多くの問題を残したが、この当時における社会インフラの整備の面では大きな役割を果たした、として、そのプラスの面も強調している。

 「大躍進政策」の推進と相まって、人民公社化は急速な勢いで全国に広がっていった。1958年8月の中央政治局拡大会議の直前に河南省の七里営人民公社を訪れた毛沢東は「人民公社はすばらしい」(中国語では「人民公社好。」)と発言した、と言われている。この言葉が、さらに全中国における急速な人民公社成立を加速させた。こういった毛沢東のひとことで、あっという間に人民公社化が進んでしまう、というところに、「大躍進」の時期の時代の雰囲気を感じることができる。

 しかし、急速な人民公社化は、上に述べたように農民の農業に対する意欲を失わせてしまった。それに加えて、同じ時期に鉄鋼増産の大号令の下に各地の農民を動員して行われた製鉄運動は、多くの地方で農作業の停滞をもたらした。この時期の食糧生産は、上記の薄一波の著書にあるように1957年は1.65億トン、1958年には2億トンであったが、1959年には1.7億トンに減少し、1960年にはさらに1.435億トンに激減した。

 こういった食糧生産の減少は、中国国内に大規模な飢餓状況をもたらした。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の中で著者の天児慧氏は、小林弘二氏がその著書「現代中国の歴史」(有斐閣、1986年)の中でこの時期の餓死者数を1,500万~1,800万人と推計し、映画監督の陳凱歌氏がその著書「私の紅衛兵時代」(刈間文俊訳:講談社現代新書、1990年)の中でこの時期の餓死者について2,000万~3,000万人という数字を指摘している旨を紹介している。

 「大躍進時期」(1958年~1960年)の人口減少は各種統計から明らかである。中国統計年鑑1986年版によれば、都市部を除いた農村部の人口の自然増加率(出生率-死亡率)は、1957年の21.74‰から1960年の△9.23‰に激減している。この時期、マイナスどころか、一桁以下だったのは、1959年~1961年の3年しかなかった。大躍進期の中国の状況がいかに危機的であったかについては、下記の資料を見ても伺い知ることができる。

(参考URL1)中国人口生育委員会のホームページ
「2000年中国年齢別、性別人口数」
http://www.chinapop.gov.cn/wxzl/rkgk/200806/t20080629_157000.htm

(参考URL2)日本銀行国際局が日本総合研究所に委託して行った調査報告書
「中国労働市場における労働力移動と需給ミスマッチの現状と展望」(平成20年2月)
http://www.boj.or.jp/type/release/adhoc/itaku0804a.pdf

※上記資料のP.10の「人口の前年比増加数の推移」を見れば、大躍進政策期の人口の推移がいかに異常であったかは一目瞭然である。

 このように国内が飢餓状態にあるにも係わらず、当時の中国は食糧を輸出していた。食糧の輸出量は1957年には209万トンだったものが、1959年には415万トンに増えており、1960年にも272万トンが輸出された。この食糧の輸出はソ連から支援として受けた借款を返済するための外貨を得るため、と言われている。これは、次節で述べるように、毛沢東はソ連による支援からの離脱を考えており、ソ連からの借款は早期に返済したいと考えていたからのようであるが、数千万人単位で餓死者が出るような国内状況において、なお食糧の輸出を行っていた当時の中国の政策遂行のあり方は、歴史的には大いに批判されてしかるべきものだと思われる。

 当時北京にいた日本人技師・山本市朗氏は、「北京三十五年」(参考資料12)の中で、この時期の食糧危機について、以下のように述べている。

---山本市朗著「北京三十五年」からの引用(食糧危機について)始まり---

「大躍進時期の過労と、栄養不足のために、工場一般に病人が増加した。病気は主に肝炎と浮腫であった。政府は『労逸結合』(労働と休養との適当なバランス)というスローガンを大きく表面に押し出さざるを得なくなって、これが大躍進運動の事実上のピリオドを打つ結果となった。

 この食糧不足の原因については、いろいろの説が流布されていた。一般に、公式発表された原因は、連年の自然災害による全国的な農作物の凶作であった。

 『冗談じゃありませんよ。この大きな国だ。自然災害は、毎年毎年どこかにきっとあります。南の方に洪水が出れば、北の方のどこかは日照りがつづいて水不足だという具合にネ。別に全国的に蝗(いなご)の大群が発生したって噂も聞きませんし。そりゃ、ここ二~三年、自然災害を受けた耕作面積が例年より多かったのは事実かもしれませんが、そればかりじゃありませんよ。それに、ひと口に農作物と言ったって、種類も多いし、収穫時期もちがうし、各地方によって特有の作物もあるでしょう。それが一遍にみな減産するなんてことは考えられないでしょう。自然の災害ではなくて人災ですよ。

 お百姓さんが、人民公社員になってから、以前ほど一生懸命に働かなくなってしまったんです。何しろ、自分の努力した結果が直接すぐに目に見えて自分にかえってくるということがなくなりましたからネ。』

 多くの人びとは、自然災害説をあまり信用せずに、人災説を主張していた。

 事実、田舎出身の工場の従業員たちは、郷里へ帰って、農作物の実情を見た後、北京に帰ってくると、眉をひそめて私に語って聞かせた。

 『凶作なんてものじゃないですよ。私の郷里一帯は、小麦は大豊作ですが、その小麦の刈り入れと運搬ができなくて、みんな畑の中でくさっているのです。野菜物などもみんなそうです。人民公社の作物だというと、何かじぶんとはあまり関係のない他人の物のような気がしてそんな状態になっても、百姓たちには、あんまりぴんとこないようです。他人の物でも手伝うような気でぼつぼつやってますよ。』

 『やっぱり人民公社になってから百姓たちは以前ほど働きませんネ。その証拠には、人民公社の共同耕作地の作物は、手入れが悪い、肥料が足らない、水が足らないで、実にあわれな生長ぶりですが、それに引きかえて、自分たちの家の周囲の自留地の作物は、実によく手入れが行きとどいていて青黒く光っていますよ。鶏でもそうですよ。人民公社の鶏は、痩せこけて、ひょろひょろしているのに、自分たち自身で飼っている鶏は、まるまると肥って、つやつやしています。』

 彼らの大部分も、人災説に賛成のようであった。」

---「北京三十五年」からの引用(食糧危機について)終わり---

 山本市朗氏は、私が二度の北京駐在のうち最初の駐在をしていた頃(1986~1988年)には健在で、北京に住んでおられた。山本氏は、文化大革命中は、「外国のスパイ」の疑いを掛けられて投獄されていたが、日中国交正常化がなり、文化大革命が終わった後、一度日本へ帰っていた奥様を北京に呼び戻して、亡くなるまで北京に住み続けた。1980年代には、日中友好のシンボル的存在になっており、北京日本人会の名誉顧問をされていたと記憶している。山本氏の「北京三十五年」は、庶民の目から見た新中国の歴史を生き生きと述べたものであり、あちらこちらに中国と中国の人々に対する愛情が感じられる本であるので、中国に御関心をお持ちの読者諸氏には御一読をお勧めする(ただ、岩波書店がこの本を絶版にしてしまったため、今では古本屋でしか入手できないのが、はなはだ残念である)。

 なお、この大躍進政策と人民公社化の推進について、現在「人民日報ホームページ」に掲載されている「中国共産党簡史」では、「社会主義建設のための道程におけるひとつの大きな誤りであった」と指摘している。そして次のように述べている。

「『大躍進』の誤りは、自然災害とソ連政府の背信行為による契約の破棄が加わって、党と人民に対して建国以来の未曾有の厳しい経済的困難をもたらした。もともとは人民大衆は比較的良い日々を送るようになることを希望していたのに、結果として痛ましい状況が現出することになった。この沈痛な歴史的教訓は、決して忘れてはならない。」

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「中国共産党簡史」
「第6章:中国独自の社会主義建設の道を探る(3)」
「三、『大躍進』、人民公社運動と『左』の過程を進む中での紆余曲折」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444925.html

 上記で述べられている「ソ連政府の背信行為による契約の破棄」については、次節で述べることとする。この時期の悲惨な状況が、あたかもソ連のせいであるかのように述べているのは、事実としては客観的に言えば「こじつけ」に過ぎないであろう。ただ、この「中国共産党簡史」の記述は、自然災害があったことは指摘しながらも、山本市朗氏が述べているように、この大躍進政策と人民公社化がもたらした悲惨な状況が、極めて婉曲な表現ながら、党の政策の失敗による人災であったことを自ら認めているとも読めなくはない、とは言える。

以上

次回「3-2-3:【コラム:中国における社会的セーフティ・ネット】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-2985.html
へ続く。

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