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2010年2月12日 (金)

3-1-4:人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第4節:人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)

 中国人民義勇軍による朝鮮戦争への介入とほぼ時期を同じくして、1950年11月、中国人民解放軍は、唯一支配下に入っていなかったチベットに軍を進めた。

 チベットは清朝時代は、チベット仏教の僧侶による支配体制が敷かれ、清王朝は駐蔵大臣(チベットは中国語では「西蔵」と書かれる)を派遣していた。この体制は、チベットが清という国の一部だったと見ることもできるし、チベットは、朝鮮、ベトナム、琉球と同じように清を宗主国とするひとつの独立した国だった、と見ることもできる。清、中華民国、中華人民共和国という中国の歴代政府はいずれも「チベットは一貫して中国の一部である」との認識に立っているが、チベットに住んでいた人たちの全てがそれと同じ認識であったかどうかはわからない。

 チベット族は、現在の中国のチベット自治区だけでなく、青海省、四川省の一部、甘粛省の一部などにまたがる広大な地域に住んでいる人々である。そもそもチベット族にもいろいろなグループがあり、「チベット」をどの範囲の地域として捉えるかは、簡単ではない。一般には、漢族が足を踏み入れにくかった中国の西南部の山岳地帯を「チベット」の範囲と考えることもできる。

 グーグル・マップで四川省成都を中心にして「航空写真」に切り替えると、成都を含む広大な平坦地である四川盆地の西側に急峻な山岳地帯があることがわかる。この平坦な四川盆地とその西側にある急峻な山岳地帯との境は、行政区域でいうところの四川省成都市と四川省アバ・チベット族チャン族自治州の境界線にほぼ一致する。即ち、平坦な盆地の平原地帯には漢族が中心となって住み、山岳地帯には漢族以外の少数民族が住む、という形での「棲み分け」が長い中国の歴史の中で形作られてきたのである。チベット高原の最東端で、さらに東側にある四川盆地と山岳地帯の境界線付近には、2008年5月12日にマグニチュード8の巨大地震を発生させ、甚大な被害をもたらした龍門山断層帯がある。

 もともと現代的な意味での「独立国」とは何か、という概念は、19世紀まではあまり明確な概念ではなかった。明治維新前の琉球国が清と日本の両方を宗主国と考えていたという事実は、当時の「国家」という概念が今とは異なっていたことを表している。

 琉球国については、1871年(明治5年)に日本が領有権を主張し清と争ったが、日本軍による台湾出兵などを通して、1879年、結局、日本領となった。朝鮮については日本が、ベトナムについてはフランスが、中国による宗主権を否定して植民地化し、その後結局は独立して独立国となった。しかし、チベットの地位は不安定だった。1907年、イギリスとロシアが日露戦争後のペルシャ、アフガニスタン、チベットにおける利害関係を調整するために締結した英露協商において、イギリス、ロシア両国は清のチベットへの宗主権を認める(これはイギリスもロシアもともにチベットに対する権利は主張しない、という意味)ことを取り決めた。しかし、これは当時の清朝政府やチベット支配層が預かり知らぬところで英露両国が勝手に決めたことであった。20世紀初頭においては、国際的には、チベットを中国とは独立したひとつの独立国と認める国はなかった。

 この後、1911年に始まった辛亥革命により清朝が倒れて成立した中華民国もチベットは中国の一部と考えていた。辛亥革命の理念のひとつである「五族共和」の「五族」とは、漢族、モンゴル族、満族、チベット族、回族のことであり、このスローガンからも中華民国はチベットを自国の一部であると認識していたことがわかる。モンゴルもある意味ではチベットと同様な位置にいた。しかし、いわゆる「外モンゴル地域」は、辛亥革命で清朝が倒されると独立運動が起こり、ソ連の後押しもあり、モンゴルは1924年に中国から独立した。

 辛亥革命当時、チベット支配層は、中国とは独立した存在である、と主張していたため、イギリスが仲介に入って、1914年、インドのシムラで中華民国、チベット支配層、イギリスが条約締結の交渉を行った。条約の内容は、チベットの自治権を認める、中華民国のチベットに対する宗主権を認める、というものだったが、結局、1914年7月、中華民国側は署名を拒否し、イギリスとチベット支配層のみが署名した(シムラ条約)。このシムラ条約によりチベットは(少なくともイギリスには認められた)独立した国家として成立した、という立場を取る人もいる。一方で、シムラ条約の締結はイギリスによる中国の半植民地化政策のひとつであり、「チベット政府」とはシムラ条約によってチベット支配層がイギリスの傀儡(かいらい)政権となったものであって、中国と独立したチベット政府がこのシムラ条約をもって成立したと考えるのは誤りである、と主張する人もいる。チベットの独立を主張する人は前者の考え方に立ち、歴代の中国政府は後者の考え方に立っている。

(注)国際社会においては、歴史的には(シムラ条約を締結したイギリスを除いては)チベットを独立国家として承認していた国はなく、世界各国の政府はチベットに対する上記の歴代中国政府の考え方を認めている、と考えてよい。また、現在、ダライ・ラマ14世はチベットの独立を主張していない。従って、ダライ・ラマ14世をヘッドとするグループを「チベット亡命政府」と呼ぶ言い方は、正しい呼称ではない。「亡命政府」とは、ある独立国の政権が外国に亡命した場合に使われる呼称だからである。

 この後、中華民国側は諸外国の干渉等により混乱し、チベットに対する実効的な支配権を確立するには至らなかった。一方、列強各国(日本も含む)も、急峻な山岳地帯が続き、人口も少ないチベット地区に対して支配権を確立しようという積極的な動きを見せなかった。このようにして、チベットでは、1949年の中華人民共和国成立まで、清の時代のチベット仏教の僧侶を中心とする支配層による政治支配という旧来からの体制が続いていたのである。

 1950年11月に人民解放軍がチベットへ進出した時、チベット支配層も軍隊を持っていたが、人民解放軍の相手となる力はなく、チベット支配層は人民解放軍の進駐を受けて1951年5月「チベット平和解放に関する協定」(17条協定)に調印した。中国政府側の立場から見れば、この協定により前近代的な宗教者による政治支配から人民が解放された、ということになるし、チベットを独立国として認めるべきだという立場の人から見れば、この協定により中国政府によるチベット支配が始まった、ということになる。

 1950年代半ば以降、中華人民共和国全体における社会主義化の動きがチベットにも及んでいくが、「チベットの社会主義化」は、「チベット仏教による政治支配」を排除することを意味し、伝統的なチベットの社会構造を抜本的に変革することを意味する。そのため、この後、様々な抵抗運動が続くことになる。1959年には中国政府に対する大規模な反乱が起きた。背景には、後に述べるような1958年から中国全土で繰り広げられ始めた「大躍進」運動と人民公社化の動きがあった。理想主義的な共産主義社会を目指そうとするこれらの動きは、依然としてチベット仏教を生活の大きな支えとしているチベットの人々の反発を招いたのである。1959年の大規模な反乱が起きたのが3月10日であった。この反乱を人民解放軍は武力で鎮圧するが、その過程でチベット支配層のトップのダライ・ラマ14世はインドに亡命した。それ以来、3月10日をひとつの「記念日」として、チベットにおいてはたびたび争乱が起きている。北京オリンピックを前にして2008年3月10日をきっかけにして起きた民衆暴動は記憶に新しいところである。

 中国の他の地域と比較すると、チベット地区については以下のような特徴がある。

○清の時代、中華民国の時代を通じて、中国の中央政府がチベットを直接的に実効支配していた時期がなかったこと。

○チベット仏教による政治支配という他の地域にはない独自の政治システムは、理念的に宗教の政治的役割を否定する共産主義的思想と相容れなかったこと。

○(新疆ウィグル自治区など他の少数民族地域と同様であるが)経済発展が住民の圧倒的多数を占めるチベット族ではなく少数の漢族主導で行われたこと。

 これらが、現在に至るまで、チベットの人々の中にある中国政府による支配に対する反発の背景にあるものと思われる。

 そのほか、中華民国の時代において、日本を含む列強各国がチベット地区を実効支配することがなく、国民党政権もチベットを掌握できていなかったことが現在のチベットの人々の中国政府に対する反感の背景にある、と考えてよい。というのは、日本をはじめとする列強各国の影響が強かった中国の大部分の地域では、中国共産党には、外国勢力を排除し、国民党との間の内戦も終わらせて最終的な平和をもたらした「解放勢力」としての位置付けが大なり小なりあったが、チベットには、そもそも「解放」を必要とする外国勢力もなかったし、国民党などによる抑圧もなかったのである。従って、人民解放軍のチベットの進出については、チベット側の観点から見ると、それは「解放」ではなく「侵略」である、という見方が成立しうる。

 チベットの人々の中には、前近代的なチベット仏教指導者による政治支配を終わらせた、という意味で、中国政府による支配の開始は歴史を前進させた、と前向きに評価する人々もいる。実際、チベットの人々の中には、中国政府による支配に協力する立場の人々も少なくない。ただ、人民解放軍による「解放」やその後の「騒乱の平定」の過程で、数多くの死者・負傷者が出たことは事実であり、それが現在のチベットの人々に中国政府に対する屈折した感情を抱かせているものと思われる。

 多民族国家において、各民族の融和はどこの国においても重要かつ非常に難しい問題である。中華人民共和国政府は、圧倒的多数を占める漢族に対して、少数民族を優遇する政策を採ってきた。それが中国共産党が少数民族の人々からの支持を受けるための重要なポイントだからである。例えば、中国政府は、具体的には後に採られることになる「一人っ子政策」を少数民族には適用しない、とか「大学への入学者数のうち一定の割合を少数民族枠として設ける」といった少数民族優遇政策を採っている。そのため、チベットと新疆ウィグル族自治区以外の場所においては、中国政府に対する少数民族による反発というのは、あまり表立っていない。中国政府は、世界の多民族国家の中では中国は少数民族対策に最も力を入れて努力している国のひとつだ、と主張しているが、その主張は必ずしも誤りではない(例えば、中国国内線の航空機の中では豚肉を使った食事は出ない。中華料理において豚肉は最も重要な食材であることを考えれば奇異なことであるが、これもイスラム系の乗客に対する配慮に基づくものである)。

 人民解放軍のチベット進出による北京政府によるチベットの実効支配が確立した後、中国政府は、1965年に「チベット自治区」を成立させるなどチベットの経済開発を進めていくが、経済発展に伴いチベットに移住する漢族は増加し、チベット経済における漢族の比重が増していった。また、特に1966年~1976年に起きた「文化大革命」の期間においては、理想主義的な共産主義化を進める観点から、宗教的行事が禁止されたり、宗教的文化物が破壊されたりした。このことが、宗教心に厚いチベットの人々に中国政府による支配に対する反発を強めることになった。このため、その後も、チベットの人々による騒乱がたびたび起こるようになる。

 上記に述べたように、国際的に見れば、歴史上、チベット支配層をひとつの国の政府として認めていたのは、シムラ条約に調印したイギリスのみであった。そのイギリス自身、1950年11月に人民解放軍がチベットに進出した当時は既に中華人民共和国と外交関係を樹立しており、人民解放軍のチベットへの進出に対して何らの行動も起こさなかった。アメリカ等その他の国々も、人民解放軍のチベットへの進出は中国の国内問題だ、としてこれを問題視するところはなかった。従って、国際問題としてのチベットの独立の問題は既に解決済みであると考えるのが妥当であると思われる(しかも、かつてのチベット支配層のトップで、後に中国国外へ脱出したダライ・ラマ14世自身「チベットの独立を求めているわけではない」との立場を取っている)。

 一方、現在の中国政府がチベットに居住する人たちの宗教活動、独立を指向する人たちに対する取り締まり等の面において、人権上、問題となる扱いをしているのではないか、という批判が国際的に存在するのは事実である。チベット問題を考えるに当たっては、チベットを独立した国家として認めることが妥当であるのかどうか、という国家の独立という観点からの問題と、チベット地域に住む人々に対する中国政府の扱いが人権上問題があるのかどうか、という人権問題とは分けて捉える必要があると考える。2008年の北京オリンピックを機会にして議論が活発になったチベット問題に関する議論では、この国家としての独立の問題と人々の人権問題とを混同した議論が散見されたが、この二つの問題は混同すべきではないと考える(人権問題は、チベットだけにかかわらず現在の中国全体に関係する問題なので、本来は、チベットだけを取り出して議論すべき問題ではない、と私は考えている)。

 1950年という年は、中国にとっては、国民党軍を台湾に追い出して国内の経済建設を始めるために重要な時期であったのだが、朝鮮戦争への義勇軍の派遣、チベットへの人民解放軍の派遣など、軍事的な動きが続き、落ち着いて国内経済・社会の基盤を固め始めようという状況にはならなかったのである。

 そのような中、どのような形で国内体制を作り上げていくか、という模索が始まっていくことになる。

以上

次回「3-1-5:『中華人民政治協商会議共同綱領』と『過渡期の総路線』」
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へ続く。

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