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2010年2月

2010年2月28日 (日)

3-3-2:【コラム:「修正主義」という言葉】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第2節:四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~

【コラム:「修正主義」という言葉】

 ずっと後のことになるが、1976年10月、当時まで文化大革命を指導していた江青、姚文元、張春橋、王洪文の「四人組」を追放した華国鋒指導部は、四人組を「修正主義」として批判することになる。「修正主義」というのは、社会主義の路線の観点から見ると「右」に外れた路線である。しかし、「四人組」が推進した「文革路線」は「左」の路線である。従って、「四人組」を「修正主義」と批判するのは言葉の使い方としては、本当はおかしい。華国鋒指導部は、「修正主義」という言葉を、「右」とか「左」とかその路線の実際の内容に即して使ったのではなく、単に「よくないこと」の代名詞として使ったに過ぎない。

 1960年代以降、中国がソ連のことを「修正主義」として批判したのも同じイメージのこととして捕らえてよいと思う。中ソ論争において中国がソ連に対して使った「修正主義」という言葉は、「その路線がイデオロギー的に『右』である」ことを指摘したのではなく、単に「よくないこと」を表す修辞句として使っただけなのだ、と理解した方がわかりやすい。

 中国語は非常に表現が豊かなので、それだけに「実態的な意味のない修辞語句」が氾濫するケースが多い。1986年暮れの学生運動を受けて出された「ブルジョア自由化に反対しよう」というスローガンも同様である。当時、北京に駐在していた私は、「ブルジョア自由化」とは具体的に何を示すのか、よくわからなかった。たぶん「ブルジョア自由化」とは、西側諸国が採用している議会制民主主義なのだろうなぁ、と思っていたが、中国共産党も自ら「集中民主制」を採用していると主張していたし、「民主化」という言葉に反対しているわけではなかった。当時はそこに「ブルジョア」という接頭語を付けて「ブルジョア民主化」と表現して批判していたのであるが、要するに「ブルジョア」とは、中身がどうのこうのというのではなく、単に「よくないこと」の頭に付ける接頭語である、と理解した方がわかりやすい。21世紀になった現在でも、中国で政治について語られる言葉は、完璧に言語としての中国語がわかったとしても、修辞語句が多くて意味不明な文章が多い。これから述べる文化大革命の時代は、それら「意味不明の修辞語句」が最も顕著に氾濫した時代であると言える。

以上

次回「3-3-3:紅衛兵の登場と狂乱」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-9ce3.html
へ続く。

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3-3-2:四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第2節:四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~

 中ソ論争において、中国はソ連を「修正主義」と批判している。当時のソ連は、鉄鋼などの重工業を重視するとともに、農業においてもソフォーズ(集団農場)やコルホーズ(国営農場)による集団経営を行っており、社会主義の基本原則からすれば、それほどはずれたことはやっていなかった。ソ連は「社会主義の原則を修正していた」わけではなかったのである(「平和共存路線」を採ったことが「全世界のプロレタリアートは団結せよ」と主張する国際共産主義運動からの脱落であることは事実であるが、これを「修正」という言葉で表現するのは必ずしも適切ではない。社会主義の原則を「修正」したわけではないからである。また、ソ連は、スターリン批判によって個人崇拝をやめたが、個人崇拝は社会主義の原則ではないので、これを批判したとしても「修正主義」とは言えない)。

 社会主義の原則を「修正」していたのは、実は、ソ連ではなく、農業の集団化を弱め、小規模な生産隊に生産の自主性を任せようとする「経済調整政策」を進めていた劉少奇やトウ小平らが動かしていた当時の中国共産党中央自身であった。つまり中ソ論争の中においてソ連に対して貼られた「修正主義」のレッテルは、実は、劉少奇やトウ小平らの「経済調整政策派」(文化大革命時代に入ると「実権派」と呼ばれることになる)に対する「当てつけ」にほかならないのである。

 劉少奇とトウ小平らが進めた「経済調整政策」は、経済成長を優先する政治理念であるから、どうしても「少々くらい政府の幹部と経済人が癒着しても、経済が発展すればよいのだ」といった考え方が蔓延しがちである。多くの人民は、こういった党や政府の幹部と経済的有力者との癒着に反感を持つようになっていた。毛沢東は、自らの政治権力闘争の中で、こういった人民の中にある素朴な反発感情を利用したのである。「党や政府の幹部の腐敗に反対する」という運動は、全くの正論であり、「経済調整政策」推進派であっても反対することはできないからである。

 1965年1月、中国共産党中央は「農村社会主義教育運動中において現在までに提起されたいくつかの問題」を決定した。これまでは、過去に「三反運動」(汚職、浪費、官僚主義の三つに反対する運動)「五反運動」(賄賂、脱税、仕事の手抜きと材料のごまかし、国家財産を騙し取ること、国家の経済情報を盗むことの五つに反対する運動)などと呼ばれる運動が行われてきていた(「第3章第1部第6節:土地改革から本格的な社会主義化へ」参照)。それを今後は「政治を清め、経済を清め、組織を清め、思想を清める」の「四清」に統一することが決定されたのである。わかりにくい表現ではあるが、これは大衆運動を「汚職や幹部の腐敗防止」という「倫理の確立」の次元から、「政治的統一、経済政策の統一、組織的管理の統一、人々の思想(考え方)の統一」という政治思想の統一化の次元へ向けて拡大強化しようというものであり、後に大運動となる文化大革命の「のろし」とも言うべき決定だった。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「農村社会主義教育運動中において現在までに提起されたいくつかの問題」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/02/content_2539348.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この「四清運動」について、「北京三十五年」(参考資料12)の中で、筆者の山本市朗氏は、「はじめから何となくもやもやした空気が漂っていて」と表現し、運動の方針がたびたび動揺していたことから、「この運動の周辺には、何か中央部の指導者層の間に意見の不一致があるようなにおいが漂っていた。」とする当時北京にいた一市民としての鋭い嗅覚に基づく見方を記している。

 前節の最後で述べたように、1964年6月には「文化革命五人小組」が組織されていた。組長の彭真は北京市長であった。劉少奇やトウ小平らが進めていた「経済調整政策路線」は、北京市党委員会の主要メンバーも支援していたが、この「文化革命五人小組」は、様々な形で行われている文芸統制・思想統制を「経済調整政策派」が牛耳っている党中央の指導の下で行わせるために設置された、と言ってよい。

 毛沢東は、前節の最後で述べたように、この「文化革命五人小組」に歴史学者の呉晗が書いた新編歴史劇「海瑞免官」を審査させた。「海瑞」は明の時代の政治家で、民衆から慕われていたが、時の嘉靖帝を批判して免官された人物である。毛沢東は、歴史劇「海瑞免官」は、この歴史上の事件に名を借りて、毛沢東を批判して失脚させられた彭徳懐を擁護するものであり、歴史に当てこすった毛沢東批判である、とみなしていたことは先に述べた。「海瑞免官」の作者の呉晗は歴史学者であると同時に北京市副市長であり、これは明らかに北京市党委員会グループへの挑戦でもあった。そして、それはとりもなおさず北京市党委員会をバックボーンとする劉少奇やトウ小平らの「経済調整政策派」に対する挑戦でもあったのである。

 江青(毛沢東夫人)は、女優であり、文芸活動家としての立場から「海瑞免官」を批判するよう主張したが、当時の党中央宣伝部はこれを取り上げなかった。そこで、江青は北京ではできない「海瑞免官」批判を上海で行おうと考えて、上海市党委員会宣伝部長の張春橋と相談した。結局、上海の「解放」誌の編集長だった姚文元が「海瑞免官」批判の文章を書くことになった。こうして、1965年11月10日、上海の「文匯報」に姚文元が書いた評論文「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」が掲載された。現在では、これらの江青、張春橋、姚文元の動きは、毛沢東の指示ないし承認の下で行われたものであるとされている。この姚文元の評論が発表されることについて「文化革命五人小組」組長である彭真は何も知らなかった。

 この直後の1965年11月26日、毛沢東はカンボジア代表と会談したが、その後、1966年7月16日に武漢に突然現れて揚子江を遊泳してその健在ぶりをアピールするまで、毛沢東は新聞等の報道から一切姿を消すことになる(この時、毛沢東は72歳)。新聞等に登場しない間も毛沢東はいろいろな都市で中央政府の関係者と会ったりしているが、その居場所は神出鬼没であった。「文化大革命十年史」(参考資料14)によれば、1965年12月22日、毛沢東は浙江省杭州で彭真らに会って「彭徳懐は海瑞である」との自分の考え方を伝えたとのことである。「文化大革命十年史」(参考資料14)では、この時、彭真は「海瑞免官」の毛沢東の考えに対して反論したが、この時点では彭真は毛沢東が本格的な大反撃を考えているとの認識はなかった、と指摘している。

 「文化革命五人小組」は、1966年2月7日、「当面の学術討議に関する報告提網」(いわゆる「二月テーゼ」)を発表し、文芸批判は学術議論の枠の中に収めるよう提案した。この「二月テーゼ」は、結果的に姚文元に攻撃された歴史劇「海瑞免官」を擁護するものであったことから、毛沢東による批判の口実とされた。3月に開かれた政治局拡大会議で、毛沢東は「呉晗らは共産党でありながら反共である。」と自らの考え方をはっきりと述べた。彭真はその後自己批判書を作成したが、毛沢東による攻撃を防ぐことはもやはできなかった。この年の5月1日のメーデーの祝賀行事には、北京市長でもある彭真は姿を見せなかった。

 1966年5月4日~26日、党中央政治局拡大会議が開催された。そして5月16日、中国共産党中央委員会通知(いわゆる「五・一六通知」)が出された。この通知において、「二月テーゼ」は取り消され、「文化革命五人小組」は廃止されることとなり、新たに「中央文化革命小組(組長=陳伯達、顧問=康生、副組長=江青、張春橋ら)が組織された。また、この会議では、彭真が北京市第一書記兼市長の職を解任され、「文化革命五人小組」のメンバーだった陸定一が党宣伝部長の職を解任された。

 5月25日には、北京大学において「宋碩(北京市党委員会大学部副部長)、陸平(北京大学党委員会)らは、文化大革命において何をしているのか」と題する壁新聞(中国語で「大字報」)が張り出された。この壁新聞は、新しくできた「中央文化革命小組」の方針を受けたものであったが、北京市党委員会大学部や北京大学党委員会の幹部を名指しで批判する壁新聞が張り出されたことに多くの人は驚愕した。当時の常識では、壁新聞で自分の組織の党の幹部を批判することなど考えにも及ばなかったからである。

 5月31日、「中央文化革命小組」は、人民日報の編集長で党宣伝部副部長の呉冷西を解任した。翌日の6月1日付けの人民日報には「すべての妖怪変化を一掃しよう」という社説が掲載された。この社説では林彪の論文を引用して「嵐のようなプロレタリア文化大革命の高波が我が国に沸き起こった」と指摘した。また、この日の人民日報には上記の北京大学の壁新聞の全文が掲載された。また6月2日付けの人民日報には「北京大学の壁新聞に歓呼する」と題する評論員論文が掲載され、「毛主席に反対し、毛沢東思想に反対し、毛主席と党中央の指示に反対する者たちがいかなる旗印を掲げていようとも、いかに高い地位にあろうとも、いかに古参のものであろうとも」「徹底的に壊滅」させなくてはならない、との呼び掛けが行われた(参考資料14:文化大革命十年史)。さらに、毛沢東の指示により、上記の壁新聞の内容はラジオ放送で全国放送された。

 北京市党委員会や北京大学党委員会の幹部を批判する壁新聞が人民日報に掲載されたりラジオ放送されたりし、人民日報が「毛主席に反対する者たちは、いかに高い地位にあろうとも徹底的に壊滅させなくてはならない」と主張した、という事実は、人々に「市や大学の党委員会に対して造反せよ、と言っているのだ」というメッセージを与えた。このメッセージは、日頃、党や政府の幹部の腐敗に強い不満を持ちながらも、反右派闘争など過去の様々な政治闘争の中で「党の言うことには逆らえない」と思っていた人々のエネルギーを一気に解放した。その「エネルギー」の中には、大躍進政策期に大量の餓死者を出すという悲惨な生活の中で抑えに抑えて蓄積されてきたエネルギーも含まれていた。エネルギーの蓄積の後に出された「造反せよ」というメッセージは、ちょうどシャンペンの栓が飛んだ時のように、中国全国の人民のエネルギーを一気に噴出させることになった。これが文化大革命十年の狂乱の時代を産むことになるのである。

(注)党の正式決定としては、1966年8月1日~12日に開かれた第8期中国共産党中央委員会第11回全体会議(第8期十一全会)で採択された「プロレタリア文化大革命に関する決定」が出されているためこれが公式な立場での「文化大革命の開始」と見るべきだという考え方もあるが、実質的には「五・一六通知」が文革路線を決定しているので、5月16日をもって「文化大革命の開始」と考えるのが一般的である。

 なお、ここで「造反せよ」と言っているメッセージは、「市や大学などの地方や組織の党委員会に対して造反せよ」と言っているのであって、決して「党中央」に対して造反せよ、と言っているのではないことに注意すべきである。「毛沢東主席と毛主席が統括している党中央」は常に正しいのであって、造反する相手は「毛沢東主席に反対する者」なのである。

 このようして毛沢東は、大躍進政策という自らの決定に基づく失政によって人民の中に溜まった膨大なエネルギーを、自らの政敵を追放するために利用することに成功するのである。70歳を過ぎたこの時期においても、毛沢東はまさに「天才的戦略家」としての能力を遺憾なく発揮したのである。

以上

次回「3-3-2:【コラム:『修正主義』という言葉】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-5d7e.html
へ続く。

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2010年2月27日 (土)

3-3-1:中ソ論争と文化大革命前夜

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第1節:中ソ論争と文化大革命前夜

 次節以降いよいよ中華人民共和国の歴史の中で最も厳しい時代だったといわれる文化大革命の時期について述べていくことになる。「文化大革命」(略して「文革」)とは一体何であったのか、を一言で表すのは難しいし、今でも人によってその捉え方は違うと思う。今後の理解のために「文化大革命とは」という問に対する答をあらかじめ書いておくとすると、おおざっぱに言えば、以下の4つの言い方が可能であろう、と私は考えている。

(i) 「文化大革命」とは、自らのリーダーシップで行った「大躍進政策」「急激な人民公社化」が中国国内に大飢饉をもたらし、政治の中心が劉少奇やトウ小平らに握られるようになり、自らの影響力が薄くなり出したことに危機感を持った毛沢東が、自分が持つカリスマ性を利用し、若者たちを「紅衛兵」として動員して、劉少奇、トウ小平らから政治権力の奪還した権力奪還(奪権)運動であった。

(ii) 「文化大革命」とは、劉少奇やトウ小平らにより進められていた「経済調整政策」が、生産請負制を通じて条件のよい生産者と不利な条件下にある生産者との間の経済格差を広げ、中国共産党が本来目指すべき平等社会とは異なる方向を目指すものであることから、貧農・労働者らを動員して、これを止めさせ、社会保障制度を保持した平等社会を実現するための経済の集団化を進めようとした政策闘争であった。

(iii) 「文化大革命」とは、経済の発展に伴って一部の共産党幹部が経済人と癒着して腐敗が蔓延(まんえん)し、多くの人民の間に不満が高まることによって中国共産党の基盤が揺らぐことを防ぐため、腐敗した共産党幹部を一掃し、中国共産党に対する人民の支持を復活させようとして進めた整党運動であった。

(iv) 「文化大革命」とは、社会的にまだ残っていた封建的な価値観(男尊女卑の思想や迷信の信仰など)を一掃し、現代的な価値観と社会システムを構築するための近代化大衆運動であった。

 経済活動に一定の自由度を与えると、経済の活性化は図れるが、格差は拡大し、底辺層の人々の社会保障が確保できなくなる恐れがある、という考え方は、いつの時代でも、どの国でも政策論争になる重要な論点である。毛沢東は、改革開放政策が進んだ後の現在の中国が抱える様々な問題点を既にこの時点で想定していて、それを避ける意味で、人民公社のような集団的経済活動を社会の基盤とすべきだ、と考えていたのかもしれない。また、広がりつつある共産党内部の腐敗を何とかしなければならない、と考えていたことも疑いがない。従って、「文化大革命」を発動したのは単に毛沢東が自らの手に権力を奪還することだけが目的の利己的なものだった、と考えるのは、物事の一面だけしか見ていないと私は考える。

 また、「公共食堂制度」により女性を家事労働から解放し、乳幼児の保育や高齢者の保護を各家庭ではなく人民公社が行う、という毛沢東が目指した価値観や社会のセーフティ・ネット・システムには、実は現代社会において学ばなければならない部分も少なくない。

 「文革の時代は悲惨な時代だった」というのは事実だとしても、だからといって文化大革命が目指した理想や社会システムの全てを否定するのは正しい態度ではなく、客観的な立ち位置から冷静に是々非々の態度で歴史の教訓を汲み取ることが重要であると私は考えている。

 毛沢東は、「文化大革命」が発動された後、「司令部を砲撃せよ」「造反有理」「革命無罪」といったスローガンを次々に出して、若者が既存の古い体制を破壊することを「よいこどだ」と鼓舞した。毛沢東が掲げたこれらのスローガンは、毛沢東自身が、長い間、中国共産党の司令部におり、自分自身が中国共産党の体制の中で最も古い権威者であることを考えると大いなる自己矛盾をはらんでいるのであるが、これらのスローガンは中国の若者ばかりではなく、様々な社会の矛盾の中でうっ積した気持ちを募らせていた世界の若者の共感を呼び、1960年代後半、全世界に広がった学生運動やアメリカの黒人人権運動、ベトナム戦争反対運動などに大きな影響を与えたことは間違いない。その意味で、この時代、中国は、国際政治的には孤立しており、ほとんど「鎖国状態」だったのであるが、毛沢東による「文化大革命」は1960年代の世界に対して大きな影響を与えていたのである。

 また、ビートルズ(1962年にデビュー、1970年に解散)が当時「既存の価値観を破壊した若者文化」と言われていたことを考えると、ビートルズと「文化大革命」とには、同じ時代にあって一定の共通したものがある、と考えることは、誰にも否定できないと思う。

 発動された後の「文化大革命」が世界に大きな影響を与えていたのと同じように、実は「文化大革命」の発動に至る経緯においては、大躍進政策の失敗のような中国国内の政治状況だけでなく、当時の国際情勢が大きく影響していた。そこで次節以降で文化大革命について述べる前に、まず、この当時の国際情勢について簡単に述べることとしたい。

 1959年9月にアメリカを訪問しアイゼンハワー大統領と会談した時に見せたようなフルシチョフの「米ソ平和共存路線」に対して毛沢東が反発したことは「第3章第2部第4節:フルシチョフによる『平和共存路線』と中ソ対立」で述べたとおりである。フルシチョフはアメリカとの「平和共存路線」を歩むが、この「平和共存路線」とは、お互いに核実験を繰り返す核兵器開発競争や宇宙開発競争に見られるような「競争と緊張を抱えながらの共存」であった。

 当時アメリカ空軍はU-2と呼ばれる超高々度飛行が可能な偵察機を持っていた。U-2は高度70,000フィート(約21,000m:通常の旅客機は高度10,000m程度)を飛ぶことができる偵察機で、当時、この高度までは高射砲は届かないし、ソ連にはこの高度まで到達できる戦闘機はないので、アメリカではU-2を使えばソ連領内を自由に偵察飛行することが可能であると考えられていた。1957年10月のソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の成功以来、アメリカはソ連による大陸間弾道ミサイルの配備の状況に非常に神経質になっており、このU-2にソ連領内におけるミサイル配備状況について偵察をさせていたのである。

 ところが、1960年5月1日、パキスタン領内の空軍基地を飛び立ってソ連領空内に入って偵察飛行していたU-2がソ連の地対空ミサイルにより撃墜される、という事件が起こった。ソ連の地対空ミサイルがU-2を撃墜する能力を持っていたことはアメリカの想定外だった。アメリカは当初「高々度の気象観測を行っていた航空機が機器の故障により誤ってソ連領内に入った」と発表していた。しかし、パラシュートで脱出したU-2のパイロットがソ連側に捕まり、スパイ飛行をしていたことを認めたため、アメリカ側もU-2の飛行が偵察目的であったことを認めざるを得なくなった。これにより米ソ間の緊張が一気に高まった。

 宇宙開発競争でソ連に遅れを取ったことやこのU-2撃墜事件でソ連側の航空機撃墜能力について見誤っていたことが明らかになったことは、アメリカ内部で共和党のアイゼンハワー政権に対する批判を呼んだ。そのこともあり、この年に行われた大統領選挙では、アイゼンハワー政権の副大統領だった共和党のニクソン候補は、民主党のジョン・F・ケネディ候補に敗れた。ケネディ氏は1961年1月、大統領に就任した。

 この頃、ヨーロッパでは、当時、東ドイツの中にあったベルリンは第二次世界大戦後の状況を引き継いで東半分がソ連、西半分が米、仏、英が占領支配していた。当時、東西ベルリンの間で市民の行き来は自由だった。西ベルリンは西側からの経済援助により経済的に発展していたため、多くの東ベルリン市民が西側に流出するようになっていた。この問題を解決するため、フルシチョフは西側に西ベルリンからの米、仏、英軍の撤退(これは実質的には西ベルリンの東ドイツへの吸収を意味していた)を提案していた。

 しかし、「ソ連に弱腰は見せない」という姿勢を示したいケネディ大統領は、このソ連側の要求を拒否した。東ドイツ側では経済が悪化して西ベルリンへの市民の流出が止まらないことから、東側は1961年8月13日、西ベルリンと東ベルリン・東ドイツとの境界線を封鎖した。全面的な対決を避けたい東側は、従来からの規定に基づき、西側の軍隊が東ドイツ領内の定められたルートを通って西ベルリンに入ることは認めたため、戦争には至らなかったが、東側は東ベルリンから西ベルリンへの市民の流出を物理的に阻止するために「ベルリンの壁」を建設した。こうして米ソ間の関係はさらに緊張が高まった。

 一方、カリブ海では、1959年1月、キューバで、カストロ議長をリーダーとする革命が起こっていた。カストロ政権はソ連と接近して国内では社会主義化を進めていた。1962年10月、アメリカの偵察機U-2がキューバ領内においてソ連の中距離核弾頭ミサイル発射基地を発見した。ケネディ大統領は、これを受けてソ連に対し中距離核弾頭ミサイルの撤去を求めるとともに、ソ連からキューバへ向かう船舶を公海上で臨検する、と発表した。ソ連はミサイルの撤去を拒否し、国際法上、アメリカに公海上でソ連の船舶を臨検する権利はない、としてこの発表に反発した。いわゆる「キューバ危機」である。

 CNNのドキュメンタリー番組「Cold War」(映像・音声資料4)第10集「CUBA」に出演していた当時のCIA長官ロジャー・ヒルスマン氏によれば、キューバにあったソ連の中距離核弾頭ミサイルは、シアトルを除く全てのアメリカの都市を射程距離に入れていた、とのことである。一方、この番組で、当時のキューバ駐留ソ連軍司令官のアナトリ・グリブコフ氏は、当時、ソ連本土からアメリカを直接攻撃できる戦略核兵器をソ連は持っていなかった、と証言している。この時期「スプートニク・ショック」におののいていたアメリカは、実は、ソ連の実力を過大評価していたのである。

 ケネディとフルシチョフとの間でギリギリのやりとりが行われた。フルシチョフは、アメリカがトルコに配備した中距離核弾頭ミサイルを撤去すれば、ソ連もキューバからミサイルを撤去する、と提案したが、ケネディは「トルコのミサイルはNATO(北大西洋条約機構)に基づきアメリカの責任として配備しているのであって、アメリカだけの判断で撤去することはできない」としてこれを拒否したため、両国は核戦争開始ギリギリの状態にまで至った。上記のCNNの番組において、キューバのカストロ議長は「10月26日の会議において、ソ連軍司令官は、空軍装備、地対空ミサイル、戦術核兵器の全てが準備完了している」と報告していた、と証言している。まさに全面核戦争直前の事態にまで至っていたのである。

(注1)「キューバ危機」については、いろいろな本が書かれ、いろいろなテレビ番組が制作されているが、上記の「映像・音声資料4」として掲げたCNN「Cold War」第10集「CUBA」(1998年制作)は、カストロ議長本人が出演して証言しているほか、当時のアメリカのマクナマラ国防長官、ソ連のドブルイニン駐米大使など危機の当事者がインタビューに答えて証言しており、史料価値のあるテレビ番組として秀逸である。

 核戦争開始ギリギリの最終段階で、フルシチョフはケネディから「アメリカはキューバに侵攻することはしない」という言質を取ることでソ連側はキューバからミサイルを撤去することに合意し、最悪の事態は回避された。10月28日、モスクワ放送によって米ソの合意が世界に伝えられた。これに関して、キューバのカストロ議長は上記のCNNの番組において「我々は怒りましたよ。我々はどうやってこの合意を知ったと思います? ラジオ放送を聞いて知ったんですよ。こんな合意ができるとは全く思ってもみなかった。」と証言している。

 この「キューバ危機」の結幕は、ケネディから「キューバには侵攻しない」という口約束は得たものの、トルコにあるアメリカの中距離核弾頭ミサイルを撤去させることもできず、ソ連側が一方的にキューバのミサイルを引き上げることになった、という点で、毛沢東には「フルシチョフがアメリカに屈服した」と映ったに違いない。

 この「キューバ危機」の後、米ソ両国は、核戦争の回避について真剣に考えるようになった。ホワイトハウスとクレムリンの間にホットラインを設られたのもこの「キューバ危機」がきっかけだった。米ソ両国は、この後、大気圏内の核実験を禁止する部分的核実験禁止条約の交渉を急ぎ、1963年8月、モスクワにおいてアメリカ、ソ連、イギリスが参加して部分的核実験禁止条約が調印された。

(注2)フランスは部分的核実験禁止条約に反対し、調印に参加しなかった。西側における米英とは一線を画するフランスの外交姿勢が伺える。

 U-2撃墜事件、ベルリンの壁の設置、キューバ危機と高まってきた米ソ両国の緊張関係が、キューバ危機において、本当の核戦争の危機にまで至った時、米ソ両国はその危機を現実のものとしてはならないことを認識し、結局は対立しながらも共存する、という「平和共存路線」を続けることに合意したのだった。毛沢東はこれを「ソ連の裏切り」と捉え、中国国内の思想的引き締めに利用した。中ソ関係自体、1960年には既にソ連が技術専門家を一斉に引き上げて対立が決定的となっていたが、その後、新疆ウィグル自治区のソ連国境で軍事的小競り合いが続いていた。また、1962年10月(キューバ危機と同じ時期)、国境線について意見が異なるインドとの間で軍事衝突が発生した。このこともインドを支援するソ連との関係をさらに悪化させた。

 そもそも毛沢東は、平和時の政治家というよりは、戦争期の戦略家であった。毛沢東にとって、自らの主義主張を推し進めるには、常に「敵」が必要であった。その「敵」は、抗日戦争当時は日本軍であったし、国共内戦時においては国民党であったし、「反右派闘争」においては「右の日和見主義者」であった。党内を牛耳るようになった劉少奇やトウ小平氏に対して権力闘争を展開するに当たって、「経済調整政策」が順調にいっている以上、劉少奇やトウ小平を直接「敵」にするわけにはいかないので、毛沢東は、まずソ連とフルシチョフを「敵」として設定し、中国国内での思想的引き締めを意図したのである。

 人民日報は1963年2月27日、「食い違いはどこから来たか」と題する社説を発表し、公開の場でソ連を非難するようになった。ソ連側は国際情勢の変化に応じた国際共産主義運動のあり方を考えるべきだと主張したのに対し、中国共産党は、6月14日に「国際共産主義運動の総路線に関する見解」を発表し、ソ連側を激しく非難した。7月5日からはトウ小平を団長とする中国共産党代表団がソ連を訪問して、両党の間で論争を行ったが、議論は決裂し、代表団は7月20日に帰国した。これ以降、中国はソ連のことを「修正主義」、ソ連は中国のことを「教条主義」と呼び、非難し合い続けることになる。

(参考URL)日本の外交青書(昭和39年:1964年版)
「中ソ論争」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1964/s39-1-2.htm>

 こういった思想上の論争は、実体政治の上では空虚なものであると言えなくもないが、この時の中ソ論争を行った中国共産党代表団の団長がトウ小平であったことを考えると、毛沢東は中ソ論争を国内政治上の権力闘争のひとつの試金石、即ち、自分に対する忠誠度を測るものさし、として使っていたという見方もできる。

 この中国共産党代表団がまだソ連を訪問中だった1963年7月15日、部分的核実験停止条約を締結するためのアメリカとイギリスの代表団がモスクワに入った。こういったこともあり、中国はソ連による部分的核実験停止条約を「米英帝国主義への投降」(「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」にある表現)とみなした。そしてこれから1年ちょっとたった1964年10月16日、中国は初めての原爆実験に成功した。この原爆実験の成功は、中国国内の愛国心を高めるとともに、「ソ連の協力がなくなっても原爆の開発はできる」と主張して原爆開発を進めさせていた毛沢東の求心力を一層高めることにもなった。

 ちょうど中国の原爆実験の前日の1964年10月15日、ソ連では、フルシチョフが突如失脚し、ブレジネフがソ連共産党の新しい指導者となった。フルシチョフはアグレッシブに即断・即決で物事を決定したが、逆に方針が気分次第でコロコロ変わるため、政策の安定性を求める党内の権力争いで敗れた、と言われている。フルシチョフがブレジネフに変わってもソ連の基本方針は変わらなかったので、中国は、ソ連のブレジネフ政権を「フルシチョフなきフルシチョフ政権」と呼ぶようになる(「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」)。

 ソ連との対立関係は既に1960年の時点で決定的であったのだから、1963年以降の中国のソ連との公開論争は、外交上はそれほど意味を持つものとは思えない。従って、この中ソ論争は、中国が国内における思想的引き締めを目的として仕掛けたもの、と考えるのが自然であろう。実際、この時期から中国国内における思想的引き締めが厳しくなる。当時の中国の文芸界では、歴史上の人物に対する論評などが行われていたが、中国共産党中央はこれらの文芸論評も党中央の指導の下に置くため、1964年6月に「文化革命五人小組」を設置した。この「文化革命五人小組」のメンバーは、組長の彭真(北京市長)以下、陸定一(中国共産党宣伝部長)、周揚(中国共産党宣伝部副部長)、呉冷西(同)、康生(中国共産党中央書記処)であった。

 毛沢東は、歴史学者の呉晗(北京市副市長でもある)が書いた新編歴史劇「海瑞免官」について「文化革命五人小組」に審査させた。「海瑞」は明の時代の政治家で、民衆から慕われていたが、時の嘉靖帝を批判して免官された。毛沢東は、歴史劇「海瑞免官」は、この歴史上の事件に名を借りて、毛沢東を批判して失脚させられた彭徳懐を擁護するものであり、歴史に当てこすった毛沢東批判である、とみなしていたのである。この新編歴史劇「海瑞免官」をどう評価するかを巡って、いよいよ「文化大革命」の火蓋が切って落とされることになるのである。

以上

次回「3-3-2:四清運動と『海瑞免官』批判~文化大革命の開始~」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-e4be.html
へ続く。

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2010年2月26日 (金)

3-2-6:「経済調整政策」に対する毛沢東の反撃

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第6節:「経済調整政策」に対する毛沢東の反撃

 1962年1月11日~2月7日まで、中国共産党中央拡大工作会議が開かれた。この会議は、大躍進期の政策を総括するためのものだった。この会議には、党中央のほか、各地方の省級、市・県級の幹部が参加し、その参加者数は7,000人に上った(通常の党大会や全国人民代表大会の参加者数は多くても2,500人前後である)。このため、この会議は「七千人大会」と呼ばれた。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「重大事件」
「七千人大会」
http://cpc.people.com.cn/GB/33837/2534794.html

 この会議の議長は、毛沢東が務めたが、会議をリードする冒頭の書面報告と講話は劉少奇が行った。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の中で著者の天児慧氏は、劉少奇はこの書面報告を事前に毛沢東に見せることなく会議に提出した、と述べ、この会議が、劉少奇とトウ小平のイニシアティブの下で行われたことを指摘している。

 劉少奇は、この会議における講話の中で、1959年~1961年の3年間の状況について、農業は増産どころか減産になっており、工業生産においては4割(あるいはそれ以上)も減産したことを指摘している。そして、その原因に関して次のように述べている。

「ある地域においては主要な原因は天災であったが、別の地域においては減産の主要な原因は天災ではなく、政策の欠点と誤りであった。去年、私は湖南省のある地方へ行ったが、そこでは非常に大きな困難が発生していた。農民にこの困難の原因は何かと尋ねると、彼らは『天災はあったがその影響は小さい。生産が困難となっている原因は、三分は天災、七分は人災だ』と言っていた。ある一面では三年連続の自然災害が影響している面もあるが、別の方面では、さらに大きな影響としては、我々の政策と仕事のやり方(作風)の欠点と誤りが引き起こしたのである。皆さんには、現実の状況に基づいて討論していただき、『実事求是』(事実に即して真理を追究する)によって判断していただきたい。」

(参考URL2)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中国共産党の建国以来の文献選集(1962年)」
「劉少奇:拡大中央工作会議における講話」(1962年1月27日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/26/content_2510812.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 これは約2年半前に彭徳懐が毛沢東に「私信」で忠告したために失脚したことを踏まえれば、劉少奇としては、かなり「意を決した」発言であったに違いない。しかし、大躍進期3年間の農業・工業の減産と各地域での悲惨な状況は覆うべくもない事実であり、毛沢東としても、政策の失敗を認めざるを得なかった。1月30日、毛沢東自身が講話を行ったが、その講話の中で、毛沢東は党内における「民主集中制」の重要性を強調し、会議を民主的に行い、批判と自己批判を行う会議にしなければならない、中央の主要な指導者も党の政策と「作風」(仕事のやり方)に欠点や誤りがあればこれを批判し、自らの責任について自己批判しなければならない、とした。

(参考URL3)「新華社」ホームページ「新華資料」
「毛沢東:拡大中央工作会議における講話」(1962年1月30日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/26/content_2510714.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この講話の中で、毛沢東は「およそ党中央が犯した誤りについては、直接的には私が責任を負わなければならないし、間接的には私にもその責任の一端がある。なぜなら私は党の中央主席だからである。」と述べている。ここの部分について、天児慧氏は、毛沢東が自己批判した部分であることを指摘しつつ、「しかし、同時に『自分が党の中心であって劉少奇ではない』と言っているようでもある。」と述べて、この会議における劉少奇(国家主席)と毛沢東(党中央主席)との微妙な関係を指摘している。

 このように劉少奇とトウ小平のイニシアティブにより、さすがの毛沢東の「指導性」も絶対的なものではなく、相対的なものである、と毛沢東自らが認めざるを得ない状況となったのである。トウ小平が毛沢東の手法との間に一定の距離を持つようになったのはいつ頃からであったのかという点に関連して、天児慧氏は、現在出版されている「トウ小平文選」に収録されている講話や演説が、1957年~1960年3月の期間のもの(反右派闘争から大躍進期に掛けてのもの)が全くないことから、反右派闘争から大躍進期に掛けては、トウ小平は、毛沢東の部下として忠実に毛沢東の指示に従って動いていた、と推測している。「トウ小平文選」にこの時期のものが収録されていないのは、トウ小平は後に改革開放政策を打ち出すに当たって反右派闘争や大躍進期の「誤り」を指摘することになるが、その「誤り」に自らが積極的に参与していたことを明示したくなかったからだ、というのである。

 いずれにせよ、1962年の「七千人大会」において劉少奇とトウ小平がイニシアティブを取り、トウ小平がこの頃に「白猫黒猫論」を述べていることを考えると、大躍進期の社会の混乱の過程で、トウ小平は毛沢東のやり方に疑問を持つようになり、この「七千人大会」の時点では、明らかに自分の考え方は毛沢東のやり方とは異なることを自覚していたものと思われる。

 「七千人大会」の後、「反右派闘争」で処分された党員、幹部の復権も行われた。農業においては生産責任制度(末端単位に生産を請け負わせて生産を任せる制度)の導入により、農業生産力の回復が見られた。「大躍進期」の傷跡から抜け出したこの「経済調整期」の状況について、「北京三十五年」(参考資料13)の中で著者の山本市朗氏は「帰ってきた北京好日」と表現している。

 1962年前半、全国人民代表大会や党の重要会議が数多く開かれた。「反右派闘争」で失脚した党員、幹部の復権も相次いで検討されるようになったことから、1959年の「廬山会議」の後に国防部長を解任されていた彭徳懐は、1962年6月、毛沢東と党中央に対して長文の弁明書(八万字にも上る長文であることから「八万言書」と呼ばれる)を提出した。天児慧氏は「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」(参考資料8)の中で、この時期に開かれた多くの重要会議について、「これらの会議は、劉少奇、トウ小平、周恩来、陳雲らのイニシアティブによって進められた。」と指摘するとともに、これらの会議については「毛沢東は事実上全てボイコットしている」と記している。この年、毛沢東は既に69歳であり、世代交代の時期が迫っていたことは明らかだった。

 しかし、この年の夏以降、毛沢東は反撃に出る。かつて中国共産党では、夏の暑い時期に渤海湾沿岸にある避暑地・北載河で党の重要会議が開かれることが多かった。1962年も7月末から8月に掛けて北載河で党中央工作会議が開催された。この会議で、8月9日、毛沢東は重要講話を行い、冒頭から「今日は共産党が崩壊するか、しないかという問題を取り上げたい」とその重要性を強調して、生産責任制度は、格差拡大をもたらし、共産党の目指す方向性とは異なる、という自らの危機感を表明した(参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』)。さらに9月24日~27日に開かれた第8期中国共産党中央委員会第10回全体会議(第8期十中全会)では、毛沢東は社会主義国家においても反動階級の復活に警戒し、階級闘争が長期に渡って存在することを認めなければならないことを強調した。

 この第8期十中全会においては、彭徳懐の弁明書「八万言書」は受け入れられず、彭徳懐の復権はならなかった。また、前年に制定されたばかりの「農村人民公社工作条例」がより集団化を強める方向(毛沢東が目指す方向)に改正された。明らかに「風向きが変わった」のである。

(参考URL4)「新華社」ホームページ「新華資料」
毛沢東の承認を経て1961年6月15日に制定された「農村人民公社工作条例」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/24/content_2500797.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(参考URL5)「新華社」ホームページ「新華資料」
1962年9月27日に第8期十中全会で議決された「改正農村人民公社工作条例」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/25/content_2505274.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 上記二つの「条例」を詳細に比較してみると、1961年6月に制定された条例にあった「人民公社の規模、特に生産大隊の規模は大き過ぎてはならない」「公共食堂はあってもなくてもよい」といった規定は、1962年9月に議決された改正後の条例では削除されており、人民公社のあり方は毛沢東が当初考えていたものに「揺れ戻って」いることがわかる。

 この1962年8月の時点から始まった毛沢東による反撃と劉少奇・トウ小平ら「経済調整政策」を進めようとする勢力との権力闘争は、1966年に始まった文化大革命による大衆動員により毛沢東側に大きく勢力が傾くことになるのであるが、この1962年1~2月の「七千人大会」から1966年の文化大革命の発動までの間の党内の権力闘争の詳細な状況については、現在見ることができる資料からは必ずしも明確に伺い知ることはできない。1981年6月に採択された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」の中では、この頃の経緯を次のように総括している。

「1962年9月の第8期十中全会の席上、毛沢東同志は、社会主義社会の中にある階級闘争を拡大視して絶対化し、それをプロレタリア階級とブルジョア階級の矛盾は依然として我が国社会における主要な矛盾である、との見方に発展させ、社会主義のこの歴史的段階においてブルジョア階級がまだ存在していてその回復を企図しており、それが党内に修正主義を生む根元となっていると断言した。1963年~1965年の間、一部の農村と少数の都市基層において社会主義教育運動が展開されたが、それは幹部の仕事のやり方や経営管理のやり方に関する問題の是正に一定の効果があったとは言え、いろいろな種類の問題を全て階級闘争あるいは党内の階級闘争が反映したものとみなして、1964年後半には多くの末端の幹部が不当な攻撃を受け、1965年初頭には、いわゆる『党内の資本主義への道を走る実権派』を追放するという誤った方向に運動の重点を設定してしまうことになった。」

(参考URL6)「新華社」ホームページ「資料」のページ
「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」
(1981年6月27日中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議で採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-03/04/content_2543544.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 また、トウ小平は、上記の決議を検討する際に出した意見の中で次のように述べている。

「この時点では毛沢東同志は『左』の誤りを正そうとしていた。(1962年初の)七千人大会での彼の講話は良かった。しかし、1962年7~8月の北載河会議では、また階級闘争を重視しこれをさらに進める方向に転換してしまった。毛沢東同志の(1962年9月の)第8期十中全会における講話は、もちろん階級闘争を提示することによって経済調整政策を攪乱(かくらん)させようとして行われたものではなかったが、この十中全会以降、毛沢東同志はまた階級闘争に力を入れるようになり『四清運動』をやることになってしまった。」

(参考URL7)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選登」-「トウ小平文選第二巻」
「『建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議』の起草に対する意見」(1980年3月~1981年6月)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949705.html

 「四清運動」とは「政治を清める」「経済を清める」「組織を清める」「思想を清める」の四つを進める運動のことで、1964年12月~1965年1月に開催された中国共産党中央政治局全国工作会議で決定された運動のことである。この「四つを清める」という運動の名の下で、様々な問題が全て「階級闘争」の観点から処理され、追放されなくてよい多くの人々が追放されたことを上記「参考URL6」の「歴史問題に関する決議」では述べている。

 劉少奇、トウ小平らが主導する「経済調整政策」は中国国内の経済を回復させた。一方、1963年には70歳になった毛沢東は、休養のために多くの会議を欠席するようになった。このことがこの後も劉少奇らに「経済調整政策」を進めさせる要因になったが、毛沢東は、自分自身の影響力が低下しつつあることに対する危機感を感じ始めていた。

 この頃、世界情勢は、1962年10月の「キューバ危機」を乗り越えて、米ソ両大国が「対立しつつも共存する」という平和共存路線に入りつつあった。1963年8月には大気圏内での核実験を禁止する部分的核実験禁止条約が米ソ英の3か国で署名された。また、ベトナムではアメリカによる介入が強まりつつあった。こうした世界情勢は、「アメリカ帝国主義打倒」とそのアメリカとの平和共存を目指す「ソ連修正主義打倒」を主張する中国の「思想的指導者」たる毛沢東の正当性を証明する役割を果たした。毛沢東は、こうした国際情勢を「中国共産党内にいる『修正主義』を叩く」目的で大いに利用した。1964年10月の中国初の原爆実験成功も、中国のナショナリズムを高揚させ、国際的な「反帝国主義」「反修正主義」を唱える毛沢東を後押しした。

 経済面で「経済調整政策」は比較的順調に進んでおり、経済政策の失敗をネタにして劉少奇・トウ小平グループを攻撃できないと考えた毛沢東は、文芸作品に対する批判を通じて、劉少奇・トウ小平グループを「思想的に批判する」手法を選んだ。従って、毛沢東による本格的な猛反撃は「文芸作品批判」から開始されることになる。この猛反撃の運動がやがて「文化大革命」と命名されることになる理由はここにある。

 こうして「偉大な指導者」毛沢東が70歳を過ぎてから自らの手中に権力を取り戻すために始めた文化大革命(「歴史決議」の表現を借りれば偉大な指導者・毛沢東の「晩年の誤り」)がやがて始まることになるのである。国家主席の劉少奇は文化大革命のさなかの1969年に非業の死を遂げる(当時、劉少奇の死は秘匿された。劉少奇の死亡が公にされたのは1972年になってからである)。一方、トウ小平は文化大革命の荒波をなんとかくぐり抜け、結局は1978年以降、1960年代初頭に劉少奇らとともに自らが始めた「経済調整政策」を本格的に復活させ、「改革開放政策」としてさらに発展させることになるのである。

以上

次回「3-3-1:中ソ論争と文化大革命前夜」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-13eb.html
へ続く。

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2010年2月25日 (木)

3-2-5:「大躍進政策」の結果を受けた権力闘争

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第5節:「大躍進政策」の結果を受けた権力闘争

 「第3節:大躍進政策と人民公社の成立」で述べたように、1958年8月に開催された中国共産党中央政治局拡大会議において、いわゆる「大躍進政策」と「人民公社化」が打ち出され、その後、大衆運動による鉄の増産と急速な人民公社化が進められた。その結果、食糧生産が減少し、大規模な飢餓状態が発生したことは既に述べたとおりである。この「大躍進政策」の弊害は、それがスタートした翌年の1959年初には既に党内で認識され始めていた。1958~1959年の冬を過ぎると、飢餓状態が現実のものとなり始め、1959年の夏穀物(冬小麦:収穫時期は6月頃)の減収が見込まれるようになると、「大躍進政策」の問題点が党中央へも次々に届くようになったのである。しかし、「反右派闘争」などで反対派を徹底的に除いてきた毛沢東のやり方に対して、毛沢東が推し進める「大躍進政策」に表立って異議を唱えようとするものは誰もいなかった。

 ただ、毛沢東に対する不満がくすぶってきたことを感じたからか、毛沢東はかねてから辞任をほのめかしていた国家主席を1959年4月に辞任した。後任の国家主席には劉少奇が就任した(毛沢東は引き続き中国共産党主席の座には就いていた)。

 こうした中、1959年7月2日から、江西省廬山において、中国共産党中央政治局拡大会議が始まった。この会議(廬山会議)は、もともとは地方から届く地方の疲弊した様子を伝える報告を基に、「大躍進政策」の問題点を討議し、一部の「行き過ぎ」を是正しようとするための会議であった。実際、この会議では、冒頭、毛沢東が、始まってから約1年が経過した「大躍進政策」について、「成績は偉大だが、問題は少なくない。ただ、前途は明るい。」と述べた上で、バランスが保たれておらず、目標数字が高過ぎ、改善する必要がある、と指摘した。

 この時の国防部長・彭徳懐は、毛沢東と同じ湖南省出身で、毛沢東の同郷の盟友であり、長征、抗日戦争、国共内戦、朝鮮戦争での人民義勇軍で活躍した有力者だった。彭徳懐は、この会議の前に故郷の湖南省を視察し、実際に餓死者が出ている農村の実情を知った。軍のトップの国防部長で元帥まで務めている彭徳懐は、毛沢東に対する批判がなかなか言い出せない党内の状況を見て、彼の軍人としての正義感と責任感から、この会議の開催中の7月14日、私信の形で、毛沢東に対して「一部において左傾的な熱狂主義の行き過ぎが起き、深刻な事態が発生している」と伝えた。毛沢東は、この彭徳懐の意見を自分に対する批判であると判断し、「私信」であることを無視して、この手紙を「彭徳懐意見書」として中央政治局拡大会議の出席者に回付し、分科会を開いて、この手紙について議論することを求めた。彭徳懐は、私信として送った手紙を公開して討議の場に付した毛沢東に抗議したという(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

 会議では、黄克誠、張聞天、周小舟ら何人かの出席者が彭徳懐の意見に同意する意見を述べた。しかし、7月23日に開かれた全体会議において、毛沢東は、この手紙について「ブルジョア階級の動揺性」を示すものである、と述べた。この発言をきっかけとして、「彭徳懐、黄克誠、張聞天、周小舟反党集団」批判闘争が始まった。中央政治局拡大会議に続いて開かれた中国共産党第8期中央委員会第8回全体会議では、8月16日、「党の総路線を守り、右傾化日和見主義に反対するための闘争について」「彭徳懐同志を首謀者とする反党集団の誤りに関する決議」等の文書が採択された。彭徳懐は、この後、9月17日、国防部長を解任された。この時、彭徳懐の後任として国防部長になったのが、後に「毛沢東の後継者」とまで位置付けられながら1971年に突如失脚した林彪であった。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「重大事件」
「廬山会議」
http://cpc.people.com.cn/GB/33837/2534789.html

 上記の「人民日報」の「中国共産党ニュース」の中にある「廬山会議」の解説では、「廬山会議後半においては、彭徳懐批判と全党的な『右傾化に反対する』闘争が展開され、経済政策の中における『左傾化傾向』を是正するための努力が中断されただけではなく、さらに重要なのは、党内における正常な政治活動の原則が極端に破壊されてしまった。」と述べている。

 彭徳懐の手紙は、「大躍進政策と毛沢東の指導は正しいもの」と強調した上で、「左傾化傾向の熱狂主義の行き過ぎ」を批判したものであり、「一人ひとりに責任があり、一人ひとりが一翼を担っている。毛沢東も含めてだ。」と述べたのであって、毛沢東だけを非難しているものではなかった(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。にも係わらず、毛沢東の同郷の盟友で、歴戦の勇士であり、国防部長・人民解放軍の元帥も務めた功績ある人物がこういった手紙によって失脚させられたことは、上記の「人民日報」ホームページ上の記述で述べているように、中国共産党内の正常な議論を完全にマヒさせることになってしまった。

 彭徳懐は、1959年9月に国防部長を解任された後、後の文化大革命の中では「右の日和見主義者」として徹底的に批判され、紅衛兵に暴行を受けるなどして、1974年11月29日、悲惨な最期を遂げたと言われている。1976年9月9日、毛沢東主席の死去を伝える北京放送では、毛沢東の業績として「左と右の日和見主義者に打ち勝ち・・・」と表現して伝えている中で、彭徳懐は「日和見主義者」として名前を挙げられている。しかし、この放送が伝えられてから約2年3か月後(1978年12月)に開かれた第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(現在の「改革開放路線」が始められた会議)において、「大躍進政策」の時期から「文化大革命」の時期に失脚した有力者の中で、彭徳懐は真っ先に名誉回復がなされている。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ2003年10月24日特集ページ
「彭徳懐の生誕105周年を記念して」
http://politics.people.com.cn/GB/8198/30144/index.html

 彭徳懐の失脚で、誰も毛沢東が進める「大躍進政策」を批判することができなくなってしまった。1959年~1960年は、前節で述べたように、中ソ対立が決定的となる時期だった。中ソ対立の先鋭化という国際情勢の中で、毛沢東は、ソ連を「修正主義路線」と批判するようになり、一方で国内的には自らが進める「大躍進政策」を強力に推進していった。誰からも批判されない「大躍進政策」の進展は、事態をさらに深刻化させていく。「第3節:大躍進政策と人民公社の成立」で述べたように、中国統計年鑑1986年版によれば、1960年の中国の人口の自然増加率(出生率-死亡率)はマイナス9.23‰であった。この時期、数千万人に上る餓死者が出たと見られていることは既に述べた。

 その後も各地から悲惨な状況が次々に報告され続けた。各地の状況はさすがに無視することはできなくなり、彭徳懐が国防部長を解任されてから1年以上経った1960年11月3日、党中央工作会議が開催されて、ようやく事態に対する対策が検討された。そして、「中国共産党中央の農村の人民公社における当面の政策問題に関する緊急指示書」が発出された。

(参考URL3)「新華社」ホームページ重要文献(1960年)
「中国共産党中央の農村の人民公社における当面の政策問題に関する緊急指示書」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/11/content_2445271.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この「緊急指示書」では、「1958年の大躍進以来、党の社会主義建設総路線は、段々と完全に正確であることが証明されつつある。」と述べながらも、農村の人民公社の初期段階における「一平二調」(第一に平均主義を採り、第二に無償調達を行う」といった「共産風」が生産力を破壊し、人民公社の優越性がさらに発揮されることを妨げている、と述べて、以下の是正措置を採るよう指示している。

(1)人民公社の管理単位を「生産大隊」から、それより小さい規模の「生産隊」(従来の自然発生的な村の共同体に相当する)に降ろす(つまり農業集団化の程度を弱める)。

(2)各農家に自留地(自分の責任で作物を栽培する小規模農地)を認め、農家単位での小規模な家庭副業を認める。

(3)個人が人民公社内で消費するのに必要な経費の人民公社への供出費用(給与の「天引き」のようなもの)を給与の30%以内とし、その経費の範囲内で実施できる場合は「公共食堂制」を実施するが、その経費の範囲内で「公共食堂制」が実施できない場合には「食糧配給制」を実施し、「食糧配給制」も実施できない場合は、「食糧半配給制」とし、食糧が標準に達しない家庭については、民主的に議論を行い、公益金の中から補助金を支給する。本人の手取りが70%以上になるように確保した上で、より多く労働した人については、多くの手取りが渡るようにする。

 (3)の部分には、「公共食堂制」で食べ物が自分のものでないことによる食料の浪費に繋がり、働いても働かなくても給与が同じという「平等主義」が生産性を著しく下げたことに対する反省が現れている。

 さらに1961年3月22日、中国共産党中央工作会議は「農村人民公社工作条例(草案)」を作成して、全党に検討を呼びかけた。この「農村人民公社工作条例(通称「農業60条」)」は、その後、1961年5月21日~6月12日に行われた中国共産党工作会議での議論を経て修正を行った後、毛沢東の承認を経て、1961年6月15日に決定された。

(参考URL4)「新華社」ホームページ「新華資料」
「農村人民公社工作条例(修正草案)」(1961年6月15日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-01/24/content_2500797.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この「農村人民公社工作条例」のポイントは以下のとおりである。

・人民公社は、政治活動と社会活動を統合した組織であり、社会主義の基層単位である。

・農村の人民公社は「人民公社」「生産大隊」「生産隊」の3つのレベルに分ける。

・「人民公社」は「生産大隊」の連合組織であり、「生産大隊」は生産と福利厚生事業の実施単位である。

・「人民公社」「生産大隊」「生産隊」の規模については、生産と経営、団結と大衆による管理の観点から有利なようにしなければならず、大き過ぎてはならない。特に分配における平均主義を避けるために、「生産大隊」の規模は大き過ぎてはならない。

・「人民公社」は、一般にもともとの「郷」または「大郷」(日本でいう「村」に相当)を単位とし、生産大隊は、一般には従来の「高級農業生産合作社」(日本でいう「農業協同組合」に相当)とする。しかし、規模は一律に決めてはならず、大きくても小さくてもよく、地方の事情と人民公社社員の状況に応じて、民主的に決めてよい。

・「生産大隊」は「生産隊」に対して生産を請け負わせる。人民公社社員と「生産隊幹部」の積極性を引き出すため、請け負わせた量を超える生産収入や、請け負わせた生産以外の荒れ地に植えた果樹や樹木等によって得た副次的収入は、生産隊の収入とする。物資、農具等については「生産隊」が支配権を有し、「人民公社」や「生産大隊」はこれを無償で徴用してはならない(徴用する場合には、「生産隊」の同意を得た上で、有償で行うものとする)。

・生産のやり方については、請負った量を生産するという前提の下で、「生産隊」に一定の決定自主権を与える。

・「生産大隊」は、その収入の3~5%を「公益金」として留保し、社会保障や福利事業に使うことができる。

・「生産隊」は、人民公社社員に対して、必ず労働に応じた賃金分配をしなければならない。多く働いた者は多くの収入が得られるようにし、社員に対する分配においては平均主義は避けなければならない。

・「生産隊」においては、公共食堂は設置してもしなくてもよく、社員の討論によって決定するようにする。公共食堂を設置する場合にも、自由意志による参加とし、参加者の責任で運営するようにし、公共食堂制度から抜ける自由は確保されることを原則としなければならない。

 上記を見ればわかるように、この「農村人民公社工作条例」は、(参考URL3)に掲げた「中国共産党中央の農村の人民公社における当面の政策問題に関する緊急指示書」をさらに一歩進めたものである。「人民公社を基層単位とする」という原則を掲げながらも、実質的な権限は「生産大隊」に降ろし、さらに実質的な生産は「生産隊」に「生産請け負い」という形で任せている。また、公共食堂も「設置してもしなくてもよい」と定めている。つまり、上記の「農村人民公社工作条例」は、「生産隊」を「各個別の農家」に置き換えれば、1978年以降に始まり現在も続いている「改革開放路線」の下での農業のやり方と基本的な発想は同じである。

 上記の「農村人民公社工作条例」は、生産と政府機能を一体化させた「人民公社」を基本としていることと、最終的な生産請負を「生産隊」という集団にさせることにしており、各個別の農家に対する請負を認めていないという点で現在の「改革開放路線」とは異なっている。しかし、1962年の共産主義青年団の会議で、トウ小平は「安徽省では責任田があり、事実上、土地を各家庭に分配したもので非合法といえる。・・・しかしどういった地域でいかなるやり方が生産を回復し発展させるのか、農民大衆のやり方を採用し、非合法だというなら合法にすればよい。」と述べ、既に実質的に現在の「改革開放路線」と同じやり方をやってもよい、という考え方を示している(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

 この「農村人民公社工作条例」の草案を起草したのは、劉少奇、トウ小平、陳雲、李先念らであったが、この時の中国共産党中央書記処の総書記はトウ小平であった(後に文化大革命で批判される北京市長の彭真はこの時中央書記処の書記だった)。3月22日に「草案」を発表し、全党に討論を呼びかけた際、トウ小平は、毛沢東に前もって相談しなかった、とのことである(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。この1961年6月15日に決定された「農村人民公社工作条例」は、後に文化大革命時に「修正主義的だ」と批判され、これを起草した劉少奇、トウ小平、陳雲、李先念は批判されて失脚することになる。

 トウ小平は、この後、2度失脚し、2度復活することになるが、そのため、トウ小平は「懲りない『走資派』(資本主義に走る派)」と批判されることになる。トウ小平は、復活のたびに「自己批判」をするのであるが、上記の「農村人民公社工作条例」は、後にトウ小平が実現することになる現在の「改革開放路線」の原型である。これを見ても、トウ小平は、実際、何回「自己批判」をしても自分の基本路線は結局は全く変えなかったことがわかる。トウ小平が「何度批判されても懲りない」とか「不倒翁(おきあがりこぼし)」とか呼ばれるゆえんである。

 この頃、トウ小平は「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕まえる猫がよい猫だ」という有名な「白猫黒猫論」を述べている。この「白猫黒猫論」は、もともとはトウ小平が「黄色い(あるいは茶色い)猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫はよい猫だ」というある地方の諺を紹介して、どういうやり方であっても、人民生活を向上させる方法が一番よい方法なのだ、ということを説いたことから始まっている。理想論ではなく、人民生活を向上させることが政治の最終目標なのだ、という意味では、この主張は、至極真っ当な主張である。しかし、この言い方は、「人民生活が向上するならば、社会主義の理想を目指す方向だろうと、資本主義的な方向だろうと、どちらでもよい」というふうに捉えられたため、毛沢東をはじめとする資本主義を打倒して理想的な共産主義を建設しようと考えていたグループからは徹底的に批判されることになる。

 「農村人民公社工作条例」の決定により、「人民公社化」は、徐々に毛沢東の理想からはかなりずれた形で進められていくことになる。「農村人民公社工作条例」は最終的には毛沢東自身も了承した上で決定されたものであるが、了承したのは「大躍進政策」による農業生産の停滞と食糧危機の深刻さの前にあっては、毛沢東も「大躍進政策」の問題点を認めざるを得なかったからである。

 「大躍進政策」によって引き起こされた悲惨な状況の反省の上に立ったこの時期の劉少奇、トウ小平らの政策を「経済調整政策」と呼ぶ。この後、劉少奇、トウ小平らによる「経済調整政策」が進展し、自分の威信が低下しつつあることに危機感を感じた毛沢東は、1962年8月頃から猛然と反撃を開始する。そしてその流れが、1966年から始まる「プロレタリア文化大革命」へと続いていくのであった。

以上

次回「3-2-6:『経済調整政策』に対する毛沢東の反撃」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-e98a.html
へ続く。

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2010年2月24日 (水)

3-2-4:【コラム:フルシチョフとアイゼンハワーの「平和共存」の舞台裏】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立

【コラム:フルシチョフとアイゼンハワーの「平和共存」の舞台裏】

 これまでに述べたようにソ連による中国からの技術者の引き上げ通告は1960年7月16日だった。一方、「映像・音声資料5:ドキュメンタリー番組『イスラエル秘められた核開発』(2002年イスラエル・トゥラ・コミュニケーション制作。2008年7月16日、17日にNHK-BS1「BS世界のドキュメンタリー」で放送された)」によれば、当時、フランスからの技術支援により極秘に核兵器開発計画を進めていたイスラエルに対し、フランスのドゴール大統領が技術支援の停止を指示したのも1960年とのことである。このタイミングの奇妙な一致は、単なる偶然の一致なのか、あるいは外交上の裏の駆け引きによるものなのか、は、将来の歴史家が解明すべき、第二次世界大戦後の歴史の重要な課題であると思われる。

 「ドキュメンタリー番組『イスラエル秘められた核開発』」によれば、イスラエルが秘密裏に原子炉を建設したことを暴露したのは、その情報を偵察衛星により入手したソ連である、とされている。イスラエルによる核兵器開発は、ソ連の友好国であったアラブ連合(現在のエジプト)に対する脅威であり、ソ連のフルシチョフはアメリカのアイゼンハワー大統領に対して、「平和共存路線」を持ちかけると同時に、イスラエルによる核開発を中止するよう要求した、と想像することも可能である。

 アメリカがイスラエルによる核開発計画をどの程度知っていたかは不明である(公式には「知らなかった」ということになっている)。しかし、ソ連からの要求に対し、アイゼンハワーは、フランスにイスラエルに対する核兵器関連技術の提供をやめるよう圧力を掛けると同時に、ソ連に対しては中国への核兵器技術の中止を求めた可能性がある。フルシチョフがこのアイゼンハワーの逆提案に同意したのだと考えると、1960年にほとんど同時に、ソ連が中国に対して、フランスがイスラエルに対して、ぞれぞれ核兵器開発の技術提供を中止した、というタイミングの奇妙な一致について納得の行く説明ができる。実際そうであったのかどうかは、現時点では想像の域を出るものではないが、将来、明らかにされることを期待したい。

(注)フランスは、過去のイスラエルに対する核兵器技術の供与については、現在でも「ノーコメント」の立場を貫いている。

以上

次回「3-2-5:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-9ccc.html
へ続く。

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2010年2月23日 (火)

3-2-4:【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立

【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】

 1960年に決定的となった中ソ対立は、フルシチョフによるスターリン批判に始まった路線上の対立と、中ソ国防新技術条約に基づく原爆に関する模型と技術資料をソ連が中国に提供しなかったことが直接のきっかけであるが、1957年10月に中ソ国防新技術条約を締結した時点で、ソ連が中国に対して、どの程度本気で原爆に関する技術を提供するつもりがあったのか、については、必ずしもはっきりしない。今後の歴史家による検討を待つ必要があると思われる。

 ソ連による中国に対する原爆に関する技術提供に関しては、1987年に中国社会科学出版社から出版された「当代中国的核工業」(参考資料13:日本語の訳本は発行されていない)において、以下の点が明らかにされている。

・中ソ国防新技術条約締結交渉の過程で中国側はソ連に対して原子力潜水艦に関する技術の提供も要請したがソ連側はこれを拒否した。

・ソ連は中国に対してウラン濃縮工場(ガス拡散方式)の建設についての技術協力を行ったが、中国側技術者によるソ連のウラン濃縮工場での研修は拒否していた。

・中ソ国防新技術条約でソ連が中国に提供することが約束されていた原爆の模型と技術資料は結局中国へは提供されなかった。

・この当時、照射済み核燃料からプルトニウムを抽出する再処理技術については、ソ連から中国へは本格的な技術移転は行われていなかった。再処理技術については1950年代半ばから「沈殿法」という技術についてはソ連から中国へは伝えられていたが、現在、世界の再処理技術の主流になっている「溶媒抽出法」(ピューレックス法)については、ソ連から中国への技術移転は行われなかった。中国は、中ソ対立後も、ソ連から教わった「沈殿法」に基づく再処理工場建設の努力を続けていたが、「沈殿法」は技術的には有効ではないことから、中ソ対立後の自主技術開発の過程で「溶媒抽出法」に切り替えた。

 「当代中国的核工業」によれば、中国の軍事用再処理工場(甘粛省酒泉)については、中間規模工場が1964年末着工、1968年9月ウラン燃料投入開始、本格規模工場は着工が1966年1月、ウラン燃料投入開始が1970年4月であった。一方、軍事用プルトニウム生産炉(甘粛省酒泉)の臨界は1966年10月20日である。「当代中国的核工業」には、1984年12月9日に行われた第32回核実験までの全ての中国による核実験の日付が掲載されている。中国の最初の核実験は、東京オリンピック開催中の1964年10月16日だった。この時に使われたのはウラン型爆弾である。しかし、中国において最初のプルトニウム型爆弾による核実験が何回目の核実験として実施されたのかは「当代中国的核工業」では明らかにされていない。

 上記の再処理工場やプルトニウム生産炉の稼働のタイミングからすると、中国でプルトニウム型原子爆弾による核実験が行われたのはかなり遅かった可能性がある。この点に関してはネットワーク上にある(財)高度情報科学技術研究機構が運営する「原子力百科事典」(ATOMICA)の「プルトニウム生産炉」の項目では、中国における最初のプルトニウム爆弾による核実験は1968年12月27日とされている。「当代中国的核工業」によれば、この日に行われたのは第8回目の核実験である。

(参考URL)原子力百科事典ATOMICA
http://www.rist.or.jp/atomica/

 「第2章第3部第6節:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】」で述べたように、一般に、臨界量が大きく(従って重くなる)、かつ、ウラン濃縮を必要とするために大量生産が難しいウラン型爆弾よりも、臨界量が小さく(軽くできる)大量生産がしやすいプルトニウム型爆弾の方が兵器としては便利であると言われている。実際、中国と全く同じ時期にフランスからの技術導入により核兵器の開発を目指していたと言われるイスラエルは、最初からプルトニウム型爆弾の製造を目指していた(「映像・音声資料5:ドキュメンタリー番組「イスラエル秘められた核開発」2002年イスラエル・トゥラ・コミュニケーション制作。2008年7月16日、17日:NHK-BS1「BS世界のドキュメンタリー」で放送された))。2006年10月及び2009年5月に北朝鮮が行った核実験もプルトニウム型原子爆弾だったのであろう、と言われている。

 上記に述べたように、ソ連が中国に対して教えたのが、ウラン濃縮についてはガス拡散法であり、プルトニウムを抽出するための再処理技術としては「沈殿法」だけであったことを考えると、ソ連は最初から中国に対して核兵器に関する技術を本気で移転する気はなかったのかもしれない。ソ連がプルトニウムの「溶媒抽出法」を教えていなかった(それがために中国によるプルトニウム型爆弾の製造はかなり遅くなったと思われる)のは、最も実用的な核兵器になりやすいプルトニウム型爆弾の製造技術をソ連が中国に教えたくなかったからだと推測することも可能だからである(ただし、1950年代後半の時点では、ソ連の再処理技術が実は西側ほど進んでおらず、この時点ではソ連自身が「溶媒抽出法」(ピューレックス法)について、中国に教えるほどの確立した技術を持っていなかった可能性もある)。

 なお、「当代中国的核工業」(参考資料13)によれば、甘粛省酒泉に作られた中国の軍事用プルトニウム生産炉は、石墨(グラファイト)減速軽水冷却型原子炉であり、核燃料は棒状の天然金属ウランにニッケル・メッキを施し、アルミニウムで被覆したものであった。この原子炉の着工は1960年3月であり、核燃料製造については1960年時点では設計研究が開始されたばかりであった。つまり、1960年7月にソ連による技術者の全員引き上げ通告があったために、プルトニウム生産炉の建設及び核燃料の製造は、ほとんど全て中国側が独自に行ったものなのである。

 いずれにしても、「当代中国的核工業」によれば、ソ連が中国に提供したのはウラン濃縮技術の一部とそれに関連する機器までであり、そこから先の核兵器開発(プルトニウムの分離、プルトニウム爆弾の製造及び水爆の製造も含む)は、中ソ対立の中、中国が独自で技術開発を行ったものである。もちろん、中国が諜報活動により外国から情報を入手した可能性はあるが、中国がどの程度の核兵器に関する情報を諜報活動により得ていたかについては、当然のことながら、私は全く知らない。なお、「当代中国的核工業」によれば、中国が最初にミサイル搭載型核兵器の爆発実験に成功したのは1966年10月27日(第4回核実験)、最初に水爆実験に成功したのは1967年12月17日(第6回核実験)であったとのことである。

以上

次回「3-2-4:【コラム:フルシチョフとアイゼンハワーの『平和共存』の舞台裏】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-f8d9.html
へ続く。

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2010年2月22日 (月)

3-2-4(2/2):フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(2/2)

 台湾海峡やインドとの国境における相次ぐ軍事的衝突の発生は、ソ連のフルシチョフに対して「中国は外国との関係において軍事的冒険主義を採っている」との危惧を抱かせた。上記のように、中ソ国防新技術協定に規定されていながら、ソ連が原爆の模型と技術資料を中国側になかなか提供しなかった理由はこのあたりにあると思われる。

 ソ連は、原爆の模型と技術資料の提供はしなかったが、ウラン濃縮工場建設の支援は行っていた。中国政府は、1957年、甘粛省蘭州市にウラン濃縮工場を建設することを決定した。ソ連の技術者の協力を得て、1958年5月にはガス拡散方式によるウラン濃縮工場の設計を完了させた。1958年9月には、北京郊外の中国科学院原子能研究所(注)でウラン濃縮の実験施設の建設が始まった。この北京の実験施設で、技術的な試験を行いながら、蘭州でのウラン濃縮工場の建設が行われていくが、ソ連は、中国の技術者がソ連のウラン濃縮工場を訪問して研修することは認めなかった(参考資料13:「当代中国的核工業」参照)。

(注)中国科学院原子能研究所は、北京市西南郊外にあり、「第二機械工業部北京401研究所」「核工業部原子能研究所」などと名称を変え、現在は、中国科学院から独立して「中国原子能科学研究院」となっている。加速器、重水研究炉があるほか、2009年現在、ロシアの協力によるプルトニウム燃料を用いたナトリウム冷却型高速増殖炉が建設中である。現在は、軍事色はかなり薄まっており、多くの情報が公開されている。

(参考URL)「中国原子能研究院」のホームぺージ「歴史回顧」
http://www.ciae.ac.cn/ls3.jsp
※このホームページでは、2008年の時点では、「58年の歴史の重大事件一覧」の部分に、中国初の原爆実験の約1年前、最初の六フッ化ウランがここで生産された旨の記述があったが、現在はこの文章は削除されている。

 1958年には蘭州のウラン濃縮工場の建設が進められ、1959年には主要な機器がソ連から搬入されることになっていた。

 一方、同じ時期、フルシチョフは、アメリカとの間で「平和共存路線」を歩むことに合意しようとしていた。当時、米ソ両国は大気圏内核実験を繰り返していたが、核実験により大気中に放射性物質が撒き散らされることが地球の環境にとって好ましくない、との認識は米ソ両国でも認識されるようになっており、米ソ及びイギリスとの間で、大気圏内核実験を禁止する条約の交渉も行われていた。1959年9月、フルシチョフはアメリカを訪問した。米ソ冷戦構造の中におけるソ連の最高指導者のアメリカ訪問は画期的なものであり、世界に「米ソ平和共存」のメッセージを強く伝えるものであった(大気圏内核実験を禁止する部分的核実験禁止条約は1963年に調印されたが、調印したのは米ソとイギリスだけであり、フランスはこの条約に調印せず、その後も大気圏内核実験を続けることになる)。

 まさにこのフルシチョフの訪米の準備段階にあった1959年6月20日、ソ連共産党から中国共産党中央に宛てて手紙が届いた。その手紙は、ソ連は、アメリカ及びイギリスとの間で大気圏内核実験の禁止条約を交渉中であり、近々フルシチョフが訪米してアイゼンハワー大統領と会談する予定になっているので、中ソ国防新技術協定で規定されている原子爆弾の模型と図面資料の提供を一時延期し、これらの提供は2年後、情勢を見て判断したい、という内容だった(「参考資料13:当代中国的核工業」参照)。ソ連が米ソ首脳会談の前に、中国に対して一応事前了解を取り付けようとしていた、という点で、この手紙の存在は、この時期の中ソ関係を考える上で極めて興味深い。中国は、このソ連の態度に強烈に反発した。

 フルシチョフは、アメリカでアイゼンハワー大統領と会談したほか、アメリカ各地を視察し、「米ソ共存」時代が来たことを世界に印象付けようとした。このアメリカ訪問の帰途、フルシチョフは、わざわざ北京に立ち寄って毛沢東と会談している。上記のように訪米の前に原爆関連資料の提供を停止することについて中国に事前通告し、訪米の帰途、北京に立ち寄ったことは、フルシチョフも中国との関係が悪化しないよう、かなり神経を使っていたことの表れであると思われる。フルシチョフは、アイゼンハワーとの会談の内容を毛沢東に伝え、中国側の理解を求めたかったのだと思われる。

 しかし、この1959年9月のフルシチョフの北京訪問は、双方が相手側を非難することに終始し、ほとんど決裂状態のようにして終わった。この時の様子については、当時の首脳会談に同席していた人々が「映像・音声資料4:CNNのドキュメンタリー番組 "Cold War", Vol. 15, "China 1949-1972")の中で生々しく語っている。

 翌1960年6月、ソ連共産党は各国共産党が参加していたルーマニアのブカレストで行われた会議で公然と中国共産党を批判した。この会議には劉少奇が参加していたが、フルシチョフと劉少奇との間で激論が交わされた。その直後の7月1日、中ソ国境で軍事的小競り合いが発生した。1960年7月16日、ソ連は中国に対してソ連に派遣している全ての技術者を引き上げる旨を一方的に通告してきた。これにより中ソ両国の対立は決定的となった。ソ連による中国に対する技術的協力は、核兵器関連はもちろんのこと、全ての分野においてこれ以降完全に途絶えた。この後、米ソ冷戦構造の中とともに、中ソ対立は1960年代、70年代の国際情勢の大きな機軸となったのである。

 そもそも「中ソ対立」とは以下の3つを含むと考えられる。

(1)中国共産党とソ連共産党との思想・路線(イデオロギー)上の対立

(2)中国とソ連との国際政治の中での国家の国際戦略(外交戦略)上の対立

(3)中国とソ連という長い国境線で接する隣国としての対立

 基本的にスターリン時代は中国共産党とソ連共産党との思想・路線上の対立はそれほど大きくはなかった。ソ連共産党は、都市部の工場労働者が主導して革命を起こしそれを農村に波及させる、という形で革命を成し遂げたのに対し、中国共産党は、農村部の貧農が地主階級を打倒することで共産主義化を進め、共産主義化した農村が都市部を包囲する形で都市部での社会主義化を進める、という方法を採った。これは、両国の経済発展の状況の違いから来るものであり、「違い」ではあっても「対立」を産むものではなかった。

 中国共産党がソ連共産党によって国際共産主義運動を進めるために結成されたコミンテルンの指導の下で生まれ、成長してきたため、最初は「ソ連留学組」が党組織の中央で力を振るっていた。これに対し、実際に革命運動を進めるに当たって中国の実情に応じた戦略を遂行して頭角を現してきた農村中心主義を掲げる毛沢東が党の主導権を握るようになった頃から、ソ連共産党と中国共産党との間には一定の「すきま」が生じるようになった。しかし、この「すきま」も、ソ連と中国との国情の違いに基づく路線(革命の進め方)の違いによるものであり、「対立」と言えるところまで発展するようなものではなかった。これがだいたい第二時世界大戦終了時点までの状況である。

 第二次世界大戦終了後、ソ連は東ヨーロッパ諸国に影響力を行使して共産党政権を次々に樹立させていった。これは、理想主義的に見れば「共産主義を世界に広める」という国際共産主義運動の一環であったが、その実態は、ソ連という大国が東ヨーロッパに自らの意志に従順な「衛星国」を樹立していったのに等しい。このあたりから、毛沢東の中にはソ連に対する「警戒感」が生まれていたのではないかと思われる。そもそも、第二次世界大戦の途中において、ソ連は、共産主義運動にとって宿敵であるはずのナチス・ドイツと提携して中ソ不可侵条約を締結したり(1939年8月:後にナチス・ドイツが一方的にこの条約を無視し独ソ戦を開始した)、中国にとって宿敵であった日本との間で日ソ中立条約したり(1941年4月:後に1945年8月、ソ連側がこれを破棄して日本に対し宣戦を布告した)していたことから、抗日戦争中には既に毛沢東の心の中にはソ連に対する一定の警戒感が生まれていたものと思われる。

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発した時、建国直後の中国にとっては国内建設を優先したい時期であったが、北朝鮮の金日成からの要請により、中国は人民義勇軍を組織して北朝鮮側を強力に支援した。しかし、ヨーロッパ方面において西側との緊張関係を高めつつあったソ連は、極東地域においてアメリカと対立することは避けたいと考え、朝鮮戦争に対してソ連軍の派遣はしなかった。朝鮮戦争に対する中ソの対応の相違は、台湾に逃げた蒋介石の国民党との対立関係や朝鮮と地続きであり国内に多くの朝鮮族を抱えている中国と、朝鮮とはほとんど国境線を接していないソ連との違いを考えればやむを得ないところがあるが、中国にとっては「ソ連頼むに足らず」という感情を抱かせたのは間違いないと思われる。

 これらの歴史的状況は、共産党としての思想・路線(イデオロギー)としては国情に基づく「違い」であり「対立」ではなかった中ソ関係が、国家としての国際戦略(外交戦略)の上では「立場の違い」から「反発」へと徐々に変化していったことを表している。

 続いて、1953年のスターリンの死去と1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判が、共産党としての思想・路線の面でも中ソの違いを浮き彫りにしていくことになる。特にスターリン批判の中の個人崇拝批判は、自らのカリスマ性を大いに利用して党内の地位を築いてきた毛沢東にとっては「危険」なものと映ったに違いない。

 さらにフルシチョフがアメリカとの間で「平和共存路線」を打ち出したことは、共産党としての思想・路線の点、及び国としての国際戦略の観点で、中国にとっては許し難いものであった。そもそも共産主義運動は、国を超えた運動であり、ロシア革命で生まれた共産党政権は、世界にその思想を広め、国境を越えて全世界の被抑圧人民と連携して世界革命を起こす、というのが思想の根本原理だった。中国共産党の誕生自体、そういった思想的背景に立って、ロシアの地で生まれた共産主義運動を中国でも広める、との発想に基づいて、ソ連共産党が指導するコミンテルンの指示に従って生まれたものだった。

 ところが「平和共存路線」は、ソ連共産党が共産主義を世界に広めることをやめ、資本主義の総本家であるアメリカと妥協することを意味する。これは国際共産主義運動の理想からすれば「裏切り」としか映らない。「全世界の被抑圧人民との連帯」や「アメリカ帝国主義打倒」を人民に訴え続けてきた中国共産党にとって、ソ連共産党のこの「変節」に追従することは不可能だった。この時点で、中国共産党とソ連共産党の思想と路線は、「国情による違い」を超えて「対立」へと発展したのである。

 さらにソ連による中ソ国防新技術協定の不履行は、国と国との関係としての中ソの関係を決定的な対立関係にした。一度は原子爆弾の模型と技術資料の提供を約束しながら実際には提供しなかったソ連の態度は、ソ連が中国について、一心同体の同盟国ではなく、国境を接する警戒すべき国として見ていることを表しているからである。

 このソ連側の態度の変化は、ある意味では、中国が自ら招いたということもできる。1958年8月の人民解放軍による金門・馬祖島への砲撃と1959年8月の中印国境紛争は、ソ連に対して、中国は時には軍事的な冒険主義に走る可能性がある危険な国、という危惧を与えたからである。アメリカと「平和共存路線」について合意するためには、中国に核兵器の技術を提供しないことが必要だったのと同時に、ソ連自らの安全保障の問題として、長い国境線で接する隣国である中国に核兵器の技術を提供することの危険性をソ連が現実問題として考えるようになったのである。

 このようにして、中ソ間の関係は「中国共産党とソ連共産党との思想・路線上の対立」から「中国とソ連との国際戦略(外交戦略)上の対立」へ変化し、さらには「長い国境線で接する隣国同士との対立」へと発展していったのである。この「長い国境線で接する隣国同士の対立」は、1969年3月、中ソ国境東部のウスリー江の中州である珍宝島(ソ連名「ダマンスキー島」)の領有権を巡る大規模な軍事衝突で最高点に達する。

 しかし、中ソ対立は、別の見方をすれば、そもそもは毛沢東による「中国共産党内で権力を確立する過程でのソ連留学派との対立」、「個人崇拝を否定したスターリン批判への警戒感」、「『アメリカとの平和共存を求めるソ連は国際共産主義運動に対する裏切りである』と考えた毛沢東の認識」から出発していたことから、毛沢東がいなくなれば、必然的に消えていくものだったと言うこともできる。実際、毛沢東の死後、中ソ対立は、徐々に緩和の方向へ向かうことになる。

 毛沢東の死後、中国の実質的な指導者となったトウ小平も、当初はソ連を「覇権主義」としてあからさまな警戒感を示していたが、1978年以降、中国が改革開放路線に入り、1979年1月に米中国交正常化がなされ、1981年6月、トウ小平自身が「歴史決議」において毛沢東に対する個人崇拝を否定した時点で、もはや中ソ間の「共産党としての思想・路線の対立」「外交戦略上の対立」は事実上消滅した。「長い国境線を持つ隣国同士」の関係だけは残ったが、思想・路線や外交戦略上の対立が消滅した以上、それは「普通の隣国同士」の関係が残っただけであった。その「隣国同士の関係」の中でさえ、「対立する」要素は1980年代前半には既に消滅していたのである。

 現在、中国とロシアとは、中央アジアにおけるイスラム原理主義に基づく一部の分離独立勢力に対抗する、という点と、必要に応じてアメリカやヨーロッパに対して中ロが友好関係にあることを示すことが「カード」として使えるという点で利害が一致している。2001年6月15日には、中国、ロシアに加えて中央アジアのカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの6か国にからなる上海協力機構が成立した。「テロ活動、分裂活動、宗教過激派に対する協力」が目的であって、北大西洋条約機構(NATO)のような軍事同盟ではない、というのが参加各国の公式見解であるが、上海協力機構の成立は、1960年代、1970年代の中ソ対立とは時代が変わったことを印象付けるできごとであった。

 なお、1969年3月に武力衝突まで引き起こしたウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)の国境線問題については、2008年7月21日、中ソ両国の外相が協定にサインして国境線が画定し、この問題は完全に解決している。

以上

次回「3-2-4:【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-d1df.html
へ続く。

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2010年2月21日 (日)

3-2-4(1/2):フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(1/2)

 前節で述べた大躍進政策と人民公社化の進展に伴う混乱は、中国国内政治に大きな影響を与えたが、それについては次節以降で述べることとし、本節では1950年代後半から1960年代に掛けての国際情勢、特に中ソ対立について述べることとしたい。

 どの国の歴史でも同じであるが、各国の歴史は常にその他の国の動きと連動している。1972年2月の電撃的なニクソン大統領の中国訪問は、ソ連が後押ししている北ベトナムとアメリカが戦っていたベトナム戦争と、これから述べる中ソ対立を背景として、「敵の敵は味方」の理論で米中の利害が一致したことに起因している。その後、1980年代半ばになって、ソ連共産党にゴルバチョフ書記長が登場し、ペレストロイカ(改革政策)とグラスノスチ(情報公開)を進め、結局それが1989年の東西冷戦の終結、1991年のソ連とソ連共産党の解体につながったのであるが、元をただせば、ゴルバチョフ書記長は、1978年にトウ小平が始めた中国の改革開放政策の成功を見て、硬直化したソ連内部の改革を図ろうとしたのであった。

 1991年、ソ連とソ連共産党は解体したが、東西冷戦を終結させたとしてゴルバチョフ書記長はノーベル平和賞を受賞した。その一方で、同じ時期、ソ連に先んじて経済的な改革開放路線を進めていた中国では、政治改革は1989年の「第二次天安門事件」以降全く進まず、ゴルバチョフ氏が活躍していたのと同じ時期の1980年代に中国で改革開放政策を強力に推進していた趙紫陽氏(1980年代後半、国務院総理、中国共産党総書記を歴任した)は1989年の事件で失脚し、失意のうちに、2005年1月に死去した。この二人が歩んだ道は、歴史の皮肉と言わざるを得ない。このように、中国の歴史と世界の歴史は常に影響しあいながら変化してきている。

 本節で述べる中ソ対立の問題は、東西冷戦構造の中においては「東側」内部の事情であったため、西側に位置していた日本においては、その状況はあまり明らかにされて来なかった。中国の改革開放政策とソ連の崩壊により、一定の情報公開は進んだものの、中ソ対立の経緯は、中国及びソ連(現在のロシア)の過去の外交上の秘密に関わる問題であるだけに、現在でも必ずしも確実な史料に基づき、客観的に評価されているとは言い難い。

 以下に述べるように、中ソ対立が先鋭化する直接のきっかけは、ソ連から中国への核兵器技術の提供の問題であった。この経緯については、依然として軍事秘密のベールの陰に隠されているが、1987年、中国では「当代中国的核工業」(中国社会科学出版社)という本が出版され、中国の原子力工業(軍事部門も含む)の歴史の外郭が明らかになった。「当代中国的核工業」は、日本語訳が出版されていないこともあり、日本ではあまり知られていない。私はこの本の出版当時、この本(中国語の原本)を読んだが、この本では、中国の原子力工業(核兵器関連産業も含む)について語る部分で、ソ連との関係についてもかなり記述がされている。本節では、それも参考としながら、当時の中ソ関係について述べていきたい。

 「当代中国的核工業」は、中国の核兵器開発を含む原子力産業の歴史を記した本である。もちろん公に出版された本であるので、軍事機密に属する部分は記載されていないが、それまでほとんど外部に出されることのなかった中国の原子力産業の歴史について記されているだけでなく、1950年代から1960年代に掛けての中ソ対立の裏側を生々しく記述しており、歴史資料としても価値が高いと思われる。中国側の出版元の許可が降りなかったためか、残念ながら日本語版は出版されていないが、中国の現代史を理解する上で参考になる図書であるので、いつの日か日本語版が出版されることを期待したい。

 さて、「第3章第1部第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期」で述べたとおり、中華人民共和国成立直後の1950年2月、中国とソ連は「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結した。当時の世界の東西冷戦構造を見れば、東側内部における同盟条約と言えるが、この中ソ条約は、西側の同盟条約の典型である日米安全保障条約とは全く異なる条約である。日米安全保障条約は、アメリカ軍が日本に駐留することを認める代わりにアメリカが日本に「核の傘」を提供する(別の言い方をすれば、アメリカは日本の核武装を絶対に認めない)といういわば「片務条約」である。それに対して、「中ソ友好同盟相互援助条約」は、その名称に「相互援助」が入っていることに示されているように(ソ連側がどう考えていたかはともかく、少なくとも中国側から見れば)両国の対等な関係を規定した条約であった。

 中国は、当時の世界人口の4分の1を擁しており、世界の中での「大国」であるとの自負があった。そのため、ソ連の支援を受けて経済建設を進めることとし、ソ連を「社会主義における兄」とは認識していたものの、ソ連の支配下に入ることは最初から考えていなかった。そのため、ソ連の庇護を受けるのではなく、ソ連から支援は受けつつも、中国としては、アメリカやソ連と対等に渡り合える経済力と軍事力を持つことを望んでいた。

 1950年代に入り、曲がりなりにも戦争状態が終わって中国国内の経済建設が進み始めると、次なる課題は中国自身が一定の水準の軍事的力を持つことであった。中国の軍事力保持のひとつの要素は核武装であった。

 毛沢東が中国自らが核兵器を持つべきことを明確に主張したのは、「第3章第2部第1節:社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」でも述べた1956年4月の「十大関係を論ずる」と題する講話だった。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「党史人物記念館」-「毛沢東記念館」
「著作選登」-「毛沢東文集第七巻」
「十大関係を論ずる」(1956年4月25日)(再掲)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70361/4769605.html

 この講話の「経済建設と国防建設の関係」を論ずる中で、毛沢東は次のように述べている。

「我々は現在原子爆弾は持っていない。過去には飛行機や大砲すら持っていなかった。我々は小銃でもって日本帝国主義と蒋介石と戦ったが、これからは我々はもっと強くなる必要がある。もっと多くの飛行機や大砲が必要であるばかりでなく、原子爆弾も必要である。今日の世界において、我々が侮られないようにするためには、こういった物(原子爆弾)を持たない訳にはいかない。

 1950年の第7期中国共産党中央委員会第3回全体会議において、国家財政経済状況を好転させるためには、軍事費を減らす必要がある、との議論が行われた。第一次五カ年計画(1953年~1957年)においては軍事費は国家予算の30%だったが、第二次五カ年計画(1958年~1962年)には20%程度になるだろう。そうして、多くの工場を建設したり、多くの機器を製造したりする資金を捻出することになるだろうが、そういった中でも、一定の時間を掛けて、我々はより多くの飛行機や大砲を持つばかりでなく、自分自身の原子爆弾を持つことさえ可能になるだろう。

 ここにひとつの問題がある。あなたは原子爆弾について真剣に十分に考えたことがあるのか? いくぶんは考えたことはあるのだろうが、十分に考えてはいないのではないか? 軍事費を低減して経済建設に向けるということについて、真剣に、十分に考える必要がある。この戦略方針については、軍事委員会において検討されることを希望する。

 現在、我々の兵力は整っていると言えるか? そんなに整ってはいない。周囲には敵がおり、我々は敵に囲まれて敵に侮られている。だからこそ、我々は絶対に国防を強化しなければならないのであり、だからこそ真っ先に経済建設を強化しなければならないのである。」

 この毛沢東の考え方の背景としては、1950年、朝鮮戦争が勃発し、中国の人民義勇軍がこれに参戦した際、国連軍司令官マッカーサーが中国に対する原爆の使用も視野に入れた考えを持っていたこと(これによりマッカーサーはトルーマン大統領に解任されることになるが)、1952年にはアメリカが、1953年にはソ連が水爆実験に成功し、世界が核開発競争の時代に入ったことを考えておく必要がある。

 原爆製造の技術的バックグラウンドを持たない中国は、ソ連に原爆製造技術の提供を要請した。ソ連は、この中国からの要請を拒否しなかった。アメリカが日本やドイツに対して、原子力の平和利用目的であってもウラン濃縮技術を一切提供せず、(特に過去のアメリカの民主党政権下においては)日本が平和目的でプルトニウムを抽出することについても極めて厳しい注文を付けてきているのに比べて、ソ連の中国に対するこの態度はかなり甘かったと言われても致し方ない。当時のソ連は、東ヨーロッパ諸国において自国の影響力を行使することに成功していたこともあって、中国の国力を過小評価をしていたのではないかと思われる。

 1956年2月にスターリン批判を行って以降、フルシチョフは、国内政治と外交戦略において大きな方向転換を行った。国内政治では、スターリン批判に明示的に示されているように個人崇拝を否定した。外交戦略においては、アメリカとの冷戦構造下において、アメリカとは対立しつつも「超大国」としての立場はお互いに認め合い、アメリカと「平和共存」の道を歩もうとした。

 このフルシチョフの外交戦略を背後から強力にバックアップしたのが、人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功(1957年10月)に見られるような宇宙開発の成功である。スプートニク1号の打ち上げ成功は、ソ連の科学技術力の高さを示すとともに、それまでにソ連が原水爆実験を成功させていることと合わせて考えれば、ソ連から核弾頭を搭載して直接アメリカを攻撃することができる大陸間弾道ミサイル(ICBM)の技術をソ連が既に持ったことを意味するものであった。スプートニク1号の成果は、科学技術の成果という面以上に、アメリカに対しては「ソ連の軍事的脅威」を印象付けるものであった。

 スプートニク1号の打ち上げ成功の後、アメリカは1957年12月、1958年2月に2度人工衛星の打ち上げに失敗し、1958年3月17日になってようやくアメリカ初の人工衛星ヴァンガード1号の打ち上げに成功した。

(参考URL2)宇宙航空研究開発機構「宇宙情報センター」ホームページ
「ロケット」-「ヴァンガード」の項目
http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/kaihatu_rocket_vangardo.html

 この時点で、宇宙開発競争においてソ連が優位に立っていたのは客観的に明らかであり、アメリカ国内では「スプートニク・ショック」による「ソ連脅威論」が渦巻いていた。フルシチョフは、これを利用して、アメリカとの間で「平和共存」路線を打ち出し、米ソ超大国による国際社会のコントロールを目論んだ。このフルシチョフの意図を毛沢東は鋭く見抜いていた。毛沢東は、後に米ソ超大国を第一世界、米ソ両超大国の支配下にあると目される国々(日本や東西ヨーロッパ諸国、カナダ、オーストラリア等)を第二世界と呼び、その他の発展途上国を第三世界と呼んで、中国は国際社会の中で第三世界のリーダーとしての役割を果たす、との意図を明確にする(この立場は中国の外交戦略の基本的発想として現在まで連綿として続いている。中国が現在でもアフリカ諸国との関係を緊密に保っているのは、この発想に基づいている)。

 こういった情勢の下、1957年10月15日、ロシア革命40周年式典に参加するため毛沢東がモスクワを訪問する直前に中ソ国防新技術協定が調印された。この協定において、ソ連は中国に対して原子爆弾の模型と図面資料を提供することを約束した。しかし、この協定交渉の過程において、中国側が要求した原子力潜水艦に関する情報の提供をソ連は拒否した。また、この協定が調印された後、ソ連は中国に対して、情報を提供した後の中国側内部での機密保全体制についていろいろと注文を付け、実際の情報提供はスムーズに進まなかった。具体的には、1958年10月になって「模型と技術資料は11月に中国に提供する」とのレターが来たが、実際には11月の期限までには模型と技術資料は提供されなかった(参考資料13:「当代中国的核工業」)。

 これより先、1858年の7月末~8月、フルシチョフは中国を訪問し、毛沢東らと会談した。この際、ソ連側は、中国の沿岸部にソ連と中国との潜水艦が共同で使えるような無線施設の設置を提案した(映像・音声資料4:CNN制作のドキュメンタリー・シリーズ
"Cold War", Vol. 15, "China 1949-1972")(注1)。

(注1)水の中では波長の短い通常の電波は伝わらないため、潜水艦との交信は波長の長い電波(長波)が使われる。一方、長波は、遠方までは伝わらないために、潜水艦との通信を行う通信施設は、潜水艦の活動海域に近い陸上に設置する必要がある。ソ連は、極東地域のウラジオストック以南の海域における潜水艦のための通信施設を中国の沿岸部に設置したかったのである。

 原子力潜水艦に関する技術提供を拒否しながら、中国の沿岸部に潜水艦用の通信設備の設置を提案してきたソ連の態度に、中国側は激怒した。「映像・音声資料4:CNN "Cold War", Vol. 15, "China 1949-1972"」の中で、当時の中国政府職員 Su Shaozhi 氏は、このフルシチョフの要求について、毛沢東は、ソ連は中国を東欧諸国と同じようにソ連の衛星国にしようと考えている、として反発した、と語っている。

 この時期は、まさに前節で述べたように、国内的には「大躍進政策」が始まろうとしている時期だった。当時の中国は、対外的にも「大躍進」的な発想に基づき、一気に問題解決を図ろうとしていた。フルシチョフ一行が中国を離れた直後の1958年8月23日、人民解放軍は、国民党側が支配している台湾海峡の金門島、馬祖島に砲撃を開始した(注2)

(注2)金門島、馬祖島は、台湾海峡の大陸側のごく近くにある島々で、国民党側が支配していた。特に金門島は福建省廈門(アモイ)市の対岸数キロのところにある。これらの島々は、台湾海峡の大陸側にあるのだけれども、現在も台湾当局が実効支配している地域である。

 これに対してアメリカはこの海域に第7艦隊を派遣した。台湾海峡の緊張は一気に高まったが、人民解放軍は、砲撃以上の行動(金門島、馬祖島への上陸の試みなど)はせず、蒋介石の国民党政権とアメリカも大陸へ反攻することはしない、と宣言したことから、事態はこれ以上は進展しなかった。

 さらに1959年3月10日にはチベットにおいて、ダライ・ラマ14世が「チベット独立」を主張して反乱を起こした。その詳細は現在でも不明な点も多いが、この反乱が起きたのは、おそらくは前年1958年から始まった「大躍進政策」「人民公社化の推進」がチベットにも及び、チベットの人々に対して共産主義的な枠組みを強要した(これは、チベット仏教に基づく社会秩序の破壊を意味する)からではないかと思われる。人民解放軍はこのチベットの反乱を鎮圧し、ダライ・ラマ14世はヒマラヤを越えてインドに亡命した。インド側がダライ・ラマ14世の亡命受け入れを発表したことから、中国とインドとの関係は緊張した。

 もともと中国とインドとの国境線は、ヒマラヤ山脈があるため実効支配が難しいことから、あいまいだった。1914年のシムラ条約において、当時のチベットとイギリスが支配するインド帝国との間の国境線が決定された。これが当時のイギリス側代表者の名前を取って名付けられた「マクマホン・ライン」である。当時の中華民国は、このシムラ条約の成立を認めておらず(当時の中華民国政府は、そもそもチベットは中国の一部であり、チベット支配層が独自に条約を締結する権限は持たない、という立場であった)、従って、マクマホン・ラインも認めなかった。現在の中華人民共和国も同じ立場を踏襲している。一方、インド側はこのマクマホン・ラインが中国とインドとの国境であると主張しており、両国が主張する国境線は現在に至るまで一致していない(従って、日本における出版物では、多くの場合、中印双方が主張する国境線を併記して、その間にある地域については「帰属未定」などと記述している)。

 ダライ・ラマ14世の亡命による中国とインドとの緊張関係は、1959年9月、両国の国境を巡る軍事衝突に発展した(中印国境紛争)。インドと友好関係にあったソ連は、インドと紛争を起こした中国に危機感を感じたに違いない。

以上

次回「3-2-4(2/2):フルシチョフによる『平和共存路線』と中ソ対立(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-8bef.html
へ続く。

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2010年2月20日 (土)

3-2-3:【コラム:大躍進時期の悲惨な記録に関する記述について】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第3節:大躍進政策と人民公社の成立

【コラム:大躍進時期の悲惨な記録に関する記述について】

 中国統計年鑑1986年版には、建国以来の人口の推移の数字が載っており、巻末には、人口や出生率、死亡率、自然増加率のグラフも掲載されていた。それを見れば、1959~1961年の大躍進期における死亡率の増加と出生率の激減は一目瞭然だった。しかし、現在の中国統計年鑑(例えば2008年版)には、人口等のデータは1978年の改革開放が始まって以降の数字しか載っておらず、大躍進期の人口減少を示すグラフも載っていない。本節本文でURLを掲げた人口計画生育委員会のホームページにも、2000年時点での各年齢ごとの人口数の数字は載っているが、通常、人口関係のデータを扱うホームページにはよく出てくる人口ピラミッドのグラフは載っていない。

(参考URL)「中国統計年鑑」2008(中国国家統計局のホームページ上にある)
http://www.sei.gov.cn/hgjj/yearbook/2008/indexch.htm
※このページで数字を見るためにはブラウザとしてインターネット・エクスプローラーを使う必要があるようです。

 大躍進期に数千万人とも言われる多くの餓死者が出たことについては、世界的に有名な中国の映画監督の陳凱歌氏がその著書で書いているように、秘密事項ではなく、多くの中国の人々が知っていることである。しかしながら、現在の政府刊行物や政府のホームページを見ると、大躍進期に多くの餓死者が出たことについて、あまり積極的に言いたくない、という雰囲気が見て取れる。「中国共産党簡史」でも「未曾有の厳しい経済的困難」「沈痛な歴史的教訓」とは述べているが、数千万人のオーダーで餓死者が出た、というような具体的な数字については述べられていない(第二次世界大戦時におけるソ連の死者は2,700万人と言われており、それと比べても、大躍進期の中国での餓死者の多さはとてつもない数であるにも拘わらず、である)。

 これだけインターネット上に情報があふれているにも係わらず、大躍進時期の統計データ等にネットではなかなか辿り着けないことに筆者は危惧を感じている。現在の若い中国の人々が大躍進時期の問題点について正確に把握できないのではないかと思うからである。

 それは日本においても同じであって、「北京三十五年」が絶版になってしまったのと同じように、1980年代にはアクセスしやすかった大躍進時代の情報に対して、現時点では意外にアクセスしにくいのが現状である。そのため、本節においては、分量がやや多くなって冗長になってしまったが、山本市朗氏の「北京三十五年」も長目に引用させていただいた。

 後に述べるように、この大躍進期の社会的混乱によって蓄積されたエネルギーが、後の怒濤のような文化大革命を突き動かすように吹き出すことになる。中国共産党が真に過去の歴史に学び、将来の教訓とする精神を持つのであれば、過去の好ましくない状況に関する具体的なデータについても、若い人が容易にアクセスできるような状態で情報を提供するようにならなければならないと私は考えている。

以上

次回「3-2-4(1/2):フルシチョフによる『平和共存路線』と中ソ対立(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-7b55.html
へ続く。

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3-2-3:【コラム:中国における社会的セーフティ・ネット】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第3節:大躍進政策と人民公社の成立

【コラム:中国における社会的セーフティ・ネット】

 人民公社がそうであったように、中国の国営企業では、従業員の住宅、保育所、学校、病院、高齢者保護施設など従業員の生活の全ての面での面倒を見ていた。病気になっても、高齢になっても、企業が全て面倒を見たのである。従って、人民公社や国営企業だけが存在していた計画経済の時代には、社会的なセーフティ・ネットの制度を作る必要はなかった。

 ところが、改革開放が進み、人民公社が解体され、国営企業が国有企業となって企業としての効率性の追求が求められるようになると、人々の住宅、教育、医療、高齢者保護などは各個人の責任で確保せざるを得なくなるようになった。改革開放により、農村や企業自体が社会のセーフティ・ネットであり得なくなった現在、中国においても社会制度としてのセーフティ・ネットが必要とされてようになってきている。住宅、教育、医療、高齢者保護などの問題は、日本や欧米でもその制度設計には難しいものがあり、選挙のたびにこれらの制度が争点になっている。中国は、改革開放路線を選択したことにより、欧米各国や日本が悩んでいるような社会的セーフティ・ネットの構築の問題に否応なしに直面せざるを得なくなっているのである。

 中国では、例えば、大学や研究所のような機関でも、計画経済時代のなごりで、今でも、従業員の住宅や保育所、学校、病院、高齢者保護施設などを抱えているところが多い。大学や研究所の中には、退官した教官や研究者がそのまま敷地内に残って住んでいるところも数多い。最近は、多くの国有企業と同じように、大学や研究所でも、独立採算性を求められるところが多いので、退職者に対して敷地から出て行くよう要請するところが多くなっている。しかし、自由に購入できる住宅が十分ではない現状において、国有企業や大学、研究所のような公的機関が退職者に敷地内から出て行くことを強制することは実際には難しい。改革開放から既に30年が経過していても、中国においては、市場経済の社会には当然の如く存在している住宅等の社会的インフラがまだ整っていないのである。

 例えば、現在でも多くの政府機関に「国際協力局」などと同じ並びで「離職退職幹部局」といった離退職者対応の専門の部署があるのはそういった理由による。

以上

次回「3-2-3:【コラム:大躍進時期の悲惨な記録に関する記述について】」
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へ続く。

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2010年2月19日 (金)

3-2-3(2/2):大躍進政策と人民公社の成立(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第3節:大躍進政策と人民公社の成立(2/2)

 鉄鋼生産と食糧等の増産を進める「大躍進政策」とともに、1958年8月の中央政治局拡大会議での決定に基づき「人民公社」の設立も急速に進められた。

 日本人の多くは、中国語と同じ漢字を使っているため、「公社」というと日本の専売公社や電電公社のような「公共企業体」をイメージする人が多いが、中国語の「公社」は意味が全く異なる。中国語の「公社」は、フランス語の「コミューン」の中国語訳である。フランス語の「コミューン」とは、1871年に起きた「パリ・コミューン」に代表されるような人民による自治政府組織のことを言う。

 1950年代半ば頃、社会主義化が進みつつあった中国では、農地が公有化され、農作業が協同化されていったが、収穫期の共同作業や灌漑設備の建設・維持管理などの共同作業を行うのは「合作社」と呼ばれる農業協同組合的組織であった。「合作社」は、あくまで農作業を行うための組織であって、政府組織としての村(中国の場合は「鎮」という)は別に存在していた。これら共同農作業を行う主体としての「合作社」と、政府組織としての村(鎮)とを合体させ、生産と政府としての機能とを一括して担うのが「人民公社」である。

 人民公社では、農作業は家族単位ではなく、人民公社単位で共同で行われた。農地は、各家族単位の所有ではなく、人民公社が所有することとなった。学校や保育所、病院といった村(鎮)の政府が管理するような公共施設も人民公社が管理することになった。さらに、女性を家事労働から解放するため、公共食堂が設けられ、人民公社の構成員は、各家庭で食事をするのではなく、人民公社の公共食堂で食事をすることになった。高齢になって農作業から引退した老人は、人民公社が設けた高齢者施設で老後の生活を送るようになった。農作業だけでなく、「揺りかごから墓場まで」、人民公社が人々の生活の全ての面倒を見ることになったのである。人民公社が生産の場であり、村(鎮)としての政府組織でもあり、人々の生活の場でもあった。

 人民公社がスタートすると、全ての農作業は共同化するため、一人の作業者にとっては、一生懸命に働いても、手を抜いて働いても、同じように生活は保証された。そのため農作業に従事する農民のインセンティブが沸かず、労働生産性は低下した。また、公共食堂制度により、食料は全て共有になったため、一人一人が食料を節約しようという意志が働かず、大量の食料が無駄に消費されることになった。人民公社の成立により、女性が家事労働や育児から解放されたが、親子が家庭で一緒に過ごす、というごく普通の「幸せの形態」がなくなることになった。1980年代になって人民公社が解体され、人民公社制度について批判することが許されるようになった時、多くの農民が語った「メシくらい自分の家で家族と一緒に食いたかった」という気持ちは、おそらく人間としての本音だったろうと思われる。

 人民公社では、基本的に農地は公有であったが、各農民の住居の回りの小さな土地に自分の責任である程度の作物を栽培することは認められていた。これを「自留地」と呼ぶ。人民公社の農地では、いくら働いても自分の利益にはならないが、自留地の作物は自分のものになるので、多くの人民公社では、公社の農地よりも、自留地の作物の方がよい実りを見せていた。この自留地での作物の栽培は、人民公社による共同作業が徹底された「文化大革命」の際には、「資本主義のシッポ」として禁止されていた時期があった。

 一方、乳幼児の保育、学校教育、医療、高齢者の保護は、人民公社が行うので、各家庭の負担が減り、病気になったり、高齢になったりした際のセーフティ・ネットは完璧だった。全ての人は人民公社の社員になるので、失業は存在しなかった。中華人民共和国成立後それほど時間を経ない間に、急速に就学率が向上し、小学校への就学率がほぼ100%になったのは、人民公社の成立が大きく寄与したことは間違いない(逆に、改革開放政策により人民公社が解体すると、教育、医療、高齢者保護の問題と余剰労働力の失業の問題(いわゆる「セーフティ・ネットの問題」)は、中国が抱える大きな社会問題として顕在化するようになり、現在に至っている)。

 さらに、1950年代後半以降、大型建設機械がまだ製造できなかった中国において、灌漑施設、治水施設などの公共設備が人海戦術で次々に整備されていったのは、多くの人民を動員して社会的事業を行うという「大躍進政策」に基づく社会の雰囲気と、社会の全ての事業を人民公社が担う、といった体制が後押ししたことは否定できない。1981年6月に出された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」においても、「大躍進政策」は、多くの問題を残したが、この当時における社会インフラの整備の面では大きな役割を果たした、として、そのプラスの面も強調している。

 「大躍進政策」の推進と相まって、人民公社化は急速な勢いで全国に広がっていった。1958年8月の中央政治局拡大会議の直前に河南省の七里営人民公社を訪れた毛沢東は「人民公社はすばらしい」(中国語では「人民公社好。」)と発言した、と言われている。この言葉が、さらに全中国における急速な人民公社成立を加速させた。こういった毛沢東のひとことで、あっという間に人民公社化が進んでしまう、というところに、「大躍進」の時期の時代の雰囲気を感じることができる。

 しかし、急速な人民公社化は、上に述べたように農民の農業に対する意欲を失わせてしまった。それに加えて、同じ時期に鉄鋼増産の大号令の下に各地の農民を動員して行われた製鉄運動は、多くの地方で農作業の停滞をもたらした。この時期の食糧生産は、上記の薄一波の著書にあるように1957年は1.65億トン、1958年には2億トンであったが、1959年には1.7億トンに減少し、1960年にはさらに1.435億トンに激減した。

 こういった食糧生産の減少は、中国国内に大規模な飢餓状況をもたらした。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の中で著者の天児慧氏は、小林弘二氏がその著書「現代中国の歴史」(有斐閣、1986年)の中でこの時期の餓死者数を1,500万~1,800万人と推計し、映画監督の陳凱歌氏がその著書「私の紅衛兵時代」(刈間文俊訳:講談社現代新書、1990年)の中でこの時期の餓死者について2,000万~3,000万人という数字を指摘している旨を紹介している。

 「大躍進時期」(1958年~1960年)の人口減少は各種統計から明らかである。中国統計年鑑1986年版によれば、都市部を除いた農村部の人口の自然増加率(出生率-死亡率)は、1957年の21.74‰から1960年の△9.23‰に激減している。この時期、マイナスどころか、一桁以下だったのは、1959年~1961年の3年しかなかった。大躍進期の中国の状況がいかに危機的であったかについては、下記の資料を見ても伺い知ることができる。

(参考URL1)中国人口生育委員会のホームページ
「2000年中国年齢別、性別人口数」
http://www.chinapop.gov.cn/wxzl/rkgk/200806/t20080629_157000.htm

(参考URL2)日本銀行国際局が日本総合研究所に委託して行った調査報告書
「中国労働市場における労働力移動と需給ミスマッチの現状と展望」(平成20年2月)
http://www.boj.or.jp/type/release/adhoc/itaku0804a.pdf

※上記資料のP.10の「人口の前年比増加数の推移」を見れば、大躍進政策期の人口の推移がいかに異常であったかは一目瞭然である。

 このように国内が飢餓状態にあるにも係わらず、当時の中国は食糧を輸出していた。食糧の輸出量は1957年には209万トンだったものが、1959年には415万トンに増えており、1960年にも272万トンが輸出された。この食糧の輸出はソ連から支援として受けた借款を返済するための外貨を得るため、と言われている。これは、次節で述べるように、毛沢東はソ連による支援からの離脱を考えており、ソ連からの借款は早期に返済したいと考えていたからのようであるが、数千万人単位で餓死者が出るような国内状況において、なお食糧の輸出を行っていた当時の中国の政策遂行のあり方は、歴史的には大いに批判されてしかるべきものだと思われる。

 当時北京にいた日本人技師・山本市朗氏は、「北京三十五年」(参考資料12)の中で、この時期の食糧危機について、以下のように述べている。

---山本市朗著「北京三十五年」からの引用(食糧危機について)始まり---

「大躍進時期の過労と、栄養不足のために、工場一般に病人が増加した。病気は主に肝炎と浮腫であった。政府は『労逸結合』(労働と休養との適当なバランス)というスローガンを大きく表面に押し出さざるを得なくなって、これが大躍進運動の事実上のピリオドを打つ結果となった。

 この食糧不足の原因については、いろいろの説が流布されていた。一般に、公式発表された原因は、連年の自然災害による全国的な農作物の凶作であった。

 『冗談じゃありませんよ。この大きな国だ。自然災害は、毎年毎年どこかにきっとあります。南の方に洪水が出れば、北の方のどこかは日照りがつづいて水不足だという具合にネ。別に全国的に蝗(いなご)の大群が発生したって噂も聞きませんし。そりゃ、ここ二~三年、自然災害を受けた耕作面積が例年より多かったのは事実かもしれませんが、そればかりじゃありませんよ。それに、ひと口に農作物と言ったって、種類も多いし、収穫時期もちがうし、各地方によって特有の作物もあるでしょう。それが一遍にみな減産するなんてことは考えられないでしょう。自然の災害ではなくて人災ですよ。

 お百姓さんが、人民公社員になってから、以前ほど一生懸命に働かなくなってしまったんです。何しろ、自分の努力した結果が直接すぐに目に見えて自分にかえってくるということがなくなりましたからネ。』

 多くの人びとは、自然災害説をあまり信用せずに、人災説を主張していた。

 事実、田舎出身の工場の従業員たちは、郷里へ帰って、農作物の実情を見た後、北京に帰ってくると、眉をひそめて私に語って聞かせた。

 『凶作なんてものじゃないですよ。私の郷里一帯は、小麦は大豊作ですが、その小麦の刈り入れと運搬ができなくて、みんな畑の中でくさっているのです。野菜物などもみんなそうです。人民公社の作物だというと、何かじぶんとはあまり関係のない他人の物のような気がしてそんな状態になっても、百姓たちには、あんまりぴんとこないようです。他人の物でも手伝うような気でぼつぼつやってますよ。』

 『やっぱり人民公社になってから百姓たちは以前ほど働きませんネ。その証拠には、人民公社の共同耕作地の作物は、手入れが悪い、肥料が足らない、水が足らないで、実にあわれな生長ぶりですが、それに引きかえて、自分たちの家の周囲の自留地の作物は、実によく手入れが行きとどいていて青黒く光っていますよ。鶏でもそうですよ。人民公社の鶏は、痩せこけて、ひょろひょろしているのに、自分たち自身で飼っている鶏は、まるまると肥って、つやつやしています。』

 彼らの大部分も、人災説に賛成のようであった。」

---「北京三十五年」からの引用(食糧危機について)終わり---

 山本市朗氏は、私が二度の北京駐在のうち最初の駐在をしていた頃(1986~1988年)には健在で、北京に住んでおられた。山本氏は、文化大革命中は、「外国のスパイ」の疑いを掛けられて投獄されていたが、日中国交正常化がなり、文化大革命が終わった後、一度日本へ帰っていた奥様を北京に呼び戻して、亡くなるまで北京に住み続けた。1980年代には、日中友好のシンボル的存在になっており、北京日本人会の名誉顧問をされていたと記憶している。山本氏の「北京三十五年」は、庶民の目から見た新中国の歴史を生き生きと述べたものであり、あちらこちらに中国と中国の人々に対する愛情が感じられる本であるので、中国に御関心をお持ちの読者諸氏には御一読をお勧めする(ただ、岩波書店がこの本を絶版にしてしまったため、今では古本屋でしか入手できないのが、はなはだ残念である)。

 なお、この大躍進政策と人民公社化の推進について、現在「人民日報ホームページ」に掲載されている「中国共産党簡史」では、「社会主義建設のための道程におけるひとつの大きな誤りであった」と指摘している。そして次のように述べている。

「『大躍進』の誤りは、自然災害とソ連政府の背信行為による契約の破棄が加わって、党と人民に対して建国以来の未曾有の厳しい経済的困難をもたらした。もともとは人民大衆は比較的良い日々を送るようになることを希望していたのに、結果として痛ましい状況が現出することになった。この沈痛な歴史的教訓は、決して忘れてはならない。」

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「中国共産党簡史」
「第6章:中国独自の社会主義建設の道を探る(3)」
「三、『大躍進』、人民公社運動と『左』の過程を進む中での紆余曲折」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444925.html

 上記で述べられている「ソ連政府の背信行為による契約の破棄」については、次節で述べることとする。この時期の悲惨な状況が、あたかもソ連のせいであるかのように述べているのは、事実としては客観的に言えば「こじつけ」に過ぎないであろう。ただ、この「中国共産党簡史」の記述は、自然災害があったことは指摘しながらも、山本市朗氏が述べているように、この大躍進政策と人民公社化がもたらした悲惨な状況が、極めて婉曲な表現ながら、党の政策の失敗による人災であったことを自ら認めているとも読めなくはない、とは言える。

以上

次回「3-2-3:【コラム:中国における社会的セーフティ・ネット】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-2985.html
へ続く。

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2010年2月18日 (木)

3-2-3(1/2):大躍進政策と人民公社の成立(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第3節:大躍進政策と人民公社の成立(1/2)

 いささか個人的な感傷が入って恐縮であるが、このあたりの記述から、単なる「歴史に関する記述」に重畳的に重なるように、私個人の「自分史」が重なり出してくる。私は、1982年7月、仕事上、中国、韓国等アジア諸国との通商貿易に関連する部署に配属された。その当時、上司から最初に読むように言われた資料が私がその部署に配属される約1年前の1981年6月に出された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(歴史決議)であった。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「資料」のページ
「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」
(1981年6月27日中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議で採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-03/04/content_2543544.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この決議は、今読み返してみても、論理が明晰であり、極めて率直かつ客観的に中国共産党の歴史を語ったものであり、外国人である筆者が読んでも大いに納得がいくものである。この職場に着任したての私に対して、上司は、今まさに中国では人民公社が解体されつつあることを説明したのだった。「毛沢東」「文化大革命」「人民公社」が当時の中国をイメージする大きなキーワードだった私にとって、「文化大革命」を誤りと認め「毛沢東も晩年に誤りを犯した」とする「歴史決議」は衝撃的なものだったし、人民公社が解体されつつある、という事実も、また歴史の大きなうねりを感じさせるできごとだった。

 1978年に改革開放政策が始まる前の「毛沢東」「文化大革命」「人民公社」といったキーワードで代表される中国のイメージが始まったのは、まさに前節で述べた「反右派闘争」及び今節で述べようとする「大躍進政策」と「人民公社の成立」からである。

 1957年6月、それまでの「百花斉放・百家争鳴」の方針を急転回させて「反右派闘争」が開始されたことにより、毛沢東に反対する勢力は一掃され、毛沢東に批判的なことは一切言えなくなるような雰囲気が中国を支配するようになった。

 「反右派闘争」が一段落して、反対勢力が一掃された状況を踏まえ、毛沢東は、ここで民衆を大動員して生産力向上のために人民の力を結集すれば、飛躍的に農業及び工業の生産力を向上させることができる、と考えるようになった。毛沢東がこのような考え方を取るようになったひとつのきっかけとなったと考えられるのは、1957年11月のソ連訪問である。この時、ソ連では革命40周年式典が行われ、それに出席するために毛沢東はモスクワを訪問したのであった。

 この毛沢東のモスクワ訪問のさなか、ソ連共産党のフルシチョフ第一書記は、工業生産及び農業生産において15年以内にアメリカを追い越す、との意欲的な演説を行った。この演説の背景には、直前の1957年10月4日にソ連がアメリカに先んじて世界最初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功するなど、この当時のフルシチョフが大いなる自信を持っていたことがあったと思われる。フルシチョフは、こういったアメリカとも対等に対応できる、という自信の裏付けの下、「アメリカを怖れるソ連」から「アメリカと対等に渡り合えるソ連」を目指して「平和共存」路線へと進んで行くことになる。毛沢東は、「アメリカとの平和共存路線」へ進むソ連を「国際共産主義運動に対する裏切り」だと捉え、このモスクワ訪問時に、フルシチョフとの間で激しい路線論争を繰り広げた。これがこの後決定的になる中ソ対立の具体的な始まりであった。

 中国とソ連は、毛沢東のモスクワ訪問直前の1957年10月15日、核兵器の技術供与を含んだ国防新技術協定に調印していた。毛沢東は、それまでは「向ソ一辺倒」の外交方針の下、ソ連に頼った外交戦略を進めていたが、スターリン批判により個人崇拝を否定し、アメリカとの「平和共存」を探ろうとし、さらには1956年のハンガリー動乱に見られるようにソ連から離脱しようとすれば軍事力でそれを押し潰そうとするフルシチョフのソ連に対して、大いなる危機感を感じたのではないかと思われる。毛沢東は、ソ連と長い国境線で接する中国がソ連に依存し続ければ、中国は東ヨーロッパ諸国のようなソ連の属国のような存在になってしまうことを危惧したのである。このため、毛沢東は、ソ連に対抗するためにも、中国の農業力・工業力を独自の方法で飛躍的に向上させる必要があると考えるようになったと思われる。

 中国とソ連との関係については、核兵器技術の供与問題等が絡んだ中ソ対立など重要な問題が含まれるので、次節で改めて述べることとしたい。

 毛沢東は、モスクワから帰国した後、フルシチョフが言った「15年以内にアメリカを追い越す」という表現を意識して、当時の中国の事情を踏まえ、当時世界第二の工業力を持つと考えられていたイギリスを念頭に置いて、「15年以内にイギリスを追い越す」という方針を打ち出した。1958年5月、中国共産党第8回全国代表大会第2回会議が開催された。この会議での工作報告の中で、劉少奇は、経済建設の発展速度を上げるよう強調した。この会議の後、農業・工業の生産力向上のスピード・アップが図られた。8月に行われた中央政治局拡大会議では、鉄鋼生産量を前年の2倍にすることが定められた(1957年の実績は535万トン)。この中央政治局拡大会議では「人民公社設立についての決議」も採択された。

 中央政治局拡大会議で決められた1958年の鉄鋼生産量の目標は1,070万トンであったが、これは単に1957年の実績535万トンを2倍にした数字であり、裏付けとなる実務的なデータがあるわけではなかった。こういった目標数字の設定に当たって、毛沢東は、最初は15年でイギリス(当時の鉄鋼生産量は年間約2,000万トン)に追い付く、と言っていたが、そのうちに「15年も必要ない。10年で追い付く。」と言い出し、最後には「10年も要らない。2~3年あれば追い付ける。」と言い出した。ほとんど「妄想」とも言える毛沢東の目標数字に対しても、「反右派闘争」で反対勢力が一掃されていた当時の中国においては、異を唱えられる者は誰もいなかった。

 当時の毛沢東が、会議で「重要講話」をするたびに、だんだんと高い目標数字を提示するようになっていく様子を、後に「八長老」と呼ばれることになる党の有力者の薄一波が「若干の重大な決定と事件に対する回顧」(中共党史出版社)の中で書いている。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「資料センター」-「図書連載」
「若干の重大な決定と事件に対する回顧」(薄一波)2008年5月7日アップ
「第26章(二)全人民が製鉄を行うことになった経緯」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/82819/122120/122134/7210659.html

(注)薄一波氏は、文化大革命中に失脚し、改革開放時代になって名誉回復された。1982年に引退したが、その後も保守派の重鎮として存在感を示していた。2007年1月15日に98歳で死去した。

 具体的な根拠もなしに「前年の2倍の生産量」を目標に設定すること自体無茶なものであったが、8月の中央政治局拡大会議の後、鉄鋼生産大増産の大号令が出され、全国各地で農民が大動員されて「土法高炉」と呼ばれる手作りの製鉄炉が作られた。このため1958年の鉄鋼生産は目標の1,070万トンが達成された。この「意欲的な(=無茶な)」目標が達成されたことから、1959年の生産目標は、さらにその2倍を上回る2,700万トンに設定された。

 薄一波はその著書「若干の重大な決定と事件に対する回顧」で食糧生産についても述べている。食糧生産は、1957年の実績は1.65億トンであり、1957年2月の全国人民代表大会の段階では1958年の食糧生産の目標は1.96億トンであった。毛沢東による大増産の掛け声の下、8月の中央政治局拡大会議の後、各地からの報告に基づいて1958年の食糧生産は3~3.5億トンに上ることが報告され、10月に行われた報告では4億トンを達成することが可能であるとの報告がなされた。しかし、実際の1958年の食糧生産量は2億トンであった。

(注)2006年における中国の鉄鋼生産量は4.69億トン、食糧生産量は4.97億トンである。中国の鉄鋼生産量は1996年以来、世界でトップの地位を占めており、2006年時点では、世界の鉄鋼のほぼ3分の1は中国で生産されている。大躍進時代に毛沢東が設定した「無茶な」目標を、「世界の工場」と呼ばれるに至った改革開放後の現在の中国はいとも簡単にクリアしてしまっているのである。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「資料センター」-「図書連載」
「若干の重大な決定と事件に対する回顧」(薄一波)2008年5月7日アップ
「第26章(一)農業における『大躍進』の発動」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/82819/122120/122134/7210660.html

 こういった鉄鋼や食糧等の大増産運動を進める政策は「大躍進政策」と呼ばれた。

 「反右派闘争」などの激烈な反対派殲滅(せんめつ)の空気の中で、毛沢東が掲げる目標に反対できる者が誰もいなくなった上に、各地方の幹部は目標不達成により自分が失脚させられることを怖れて虚偽の報告を行ったのである。虚偽の報告を事実だと信じた毛沢東は、さらにそれを上回る目標設定を行い、全国に対して人民を動員してその目標を達成することを命じたのであった。

 「とにかく鉄を作ること」を命じられた農民たちは、農作業そっちのけで「土法高炉」による製鉄に精を出した。原料となる鉄鉱石や砂鉄が必要な量確保できるはずはなく、作られた鉄の原料の多くはくず鉄であった。鉄の生産量を確保するため、農作業に必要な農機具をつぶして鉄を作ったところもあったという。

 この時期の中国の状況については、戦前、三菱鉱業の技師として訪中し戦争終結後も北京に残って様々な技術指導を行っていた日本人技師・山本市朗氏の著書「北京三十五年」(岩波新書:参考資料12)に詳しい。「北京三十五年」は残念ながら本稿執筆時点では絶版になっており、古書店でないと入手できないが、当時北京にいた日本人が感じた率直なレポートであるので、大躍進時期について記述されている個所を下記に引用することとしたい。

---山本市朗著「北京三十五年」からの引用(製鉄について)始まり---

「・・・・というわけで、工場はもちろん、官庁も、学校も、研究所も、病院も、みんなそれぞれ思い思いの方法で、自分の庭の隅に炉を作って、この土法精錬で半融鉄を作り始めた。

(中略)

 この土法製鉄の操作方法やその製品を見ていると、少なくとも北京市の範囲では、これを製鉄と呼ぶのはふさわしくなかった。原料は大部分はスクラップでり、製品は、その中の一番上等な極上品といっても、せいぜいお粗末な海綿鉄の程度であって、最下級品になると、ちょっと熔融粘着度を高くしたスクラップの焼結塊であった。もちろん炭素含有量などは滅茶苦茶で、やっている御本尊自身も、『へぇ、炭素含有量ってのは何のことですかい。とにかく鉄を出せばいいんでしょう。鉄をね』と元気のいい、焼結屋さんもかなりいた。」

---「北京三十五年」からの引用(製鉄について)終わり---

 上記引用部分を見ていただければわかるように、「土法製鉄」については、山本氏自身、金属製造の専門家であるので、用語の使い方を始めとして、指摘しているところはなかなか鋭いと言える。

以上

次回「3-2-3(2/2):大躍進政策と人民公社の成立(2/2)」
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へ続く。

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2010年2月16日 (火)

3-2-2:反右派闘争

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第2節:反右派闘争

 1956年2月のフルシチョフによるスターリン批判は、中国や東ヨーロッパ諸国にも動揺をもたらした。強権的な政治の総本家であるソ連において、スターリンの個人崇拝や強権的政治手法が批判されたことの影響は大きかった。中国は、前回述べたように、1956年4月5日に出された人民日報の評論「プロレタリアート階級独裁の歴史的経験について」において、ソ連の立場に理解を示しつつ、「スターリンの全てが誤りだったとする見方は正しくない」との考え方を表明し、フルシチョフの考え方とは一線を画する立場に立った。

 この年の9月、中国共産党第8回全国代表大会が1945年以来11年ぶりに開催された。中華人民共和国成立後、初めて行われたこの中国共産党全国代表大会では、毛沢東が「開幕の詞」を述べたが、重要な討議項目である「政治報告」は劉少奇が、「党規約改正報告」はトウ小平が行った。この時点で毛沢東は国家主席を退く意向を示しており、革命が成立した後の最初の党大会をきっかけとして、指導者層の世代交代を図ることを意図していたものと思われる。さらに、この党大会では、スターリン批判において個人崇拝が否定されたという流れを受けて、党規約における党内手続きを民主的手順で行うことが決められた。特に、党員の義務として従来は「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を基礎として」とあった規定が「マルクス・レーニン主義を学習するよう努力し」と改められた。「毛沢東思想を基礎とし」の部分が削除されたことは注目に値する。

(参考URL1)
「人民日報ホームページ」-「中国共産党新聞」-「資料センター」
「歴代党大会」-「第7回全国代表大会」
「中国共産党第7回全国代表大会(1945年4~6月)で決められた党規約」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64559/4442095.html

(参考URL2)
「人民日報ホームページ」-「中国共産党新聞」-「資料センター」
「歴代党大会」-「第8回全国代表大会」
「中国共産党第8回全国代表大会(1956年9月)で決められた党規約」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64560/65452/6412169.html

 人民日報の評論「プロレタリアート階級独裁の歴史的経験について」では、スターリン批判における個人崇拝の否定については、党内の「集中民主」制度の観点からこれを評価していることから、劉少奇とトウ小平は、この党大会における党規約の改正は、毛沢東の個人崇拝色を薄めるものになるが、それは毛沢東自身の意向に添ったものだと認識していたと思われる。しかし、後に文化大革命時代、この1956年の第8回党大会において党規約から「毛沢東思想」を削除したことがトウ小平の「罪状」のひとつとして挙げられた。この文化大革命の際のトウ小平を弾劾する考え方に対して毛沢東が何ら反対の意向を表明しなかったことを考えると、毛沢東の本心としては、1956年の時点においても、もともとスターリン批判の流れに乗って自分の個人崇拝が否定されることは拒絶したい気持ちがあったのではないかと思われる。

 劉少奇とトウ小平は、この党大会は「世代交代」のための大会、と認識していたことから、国家主席を退く意向を示していた毛沢東に対して「名誉主席」の称号の準備をほのめかしていた、とされている(参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」)。このことも、毛沢東にとっては劉少奇とトウ小平が「自分からの権力の奪取を図ろうとした」と映り、後の二人の失脚の原因のひとつとなった可能性がある。

 上記のように、スターリン批判を巡って1956年の中国共産党内部で様々な思惑が動いていたが、こうした中、中国共産党第8回全国代表大会終了直後の1956年10月、ハンガリーのブタペストで、複数政党制の導入やソ連軍の撤退を求める市民の大規模なデモが発生した。支配政党のハンガリー勤労者党は、スターリン主義に批判的だったために前年に失職していたナジ前首相を復職させて、市民の要求を受け入れようとした。ブタペスト市民やハンガリー勤労者党は、本家のソ連において強権主義的なスターリン主義が批判されたのであるから、ハンガリーにおいても柔軟な政策運営が認められて当然だ、と考えていたようである。しかし、ブタペスト市民がハンガリーのワルシャワ条約機構からの脱退を要求したため、ソ連はこれらの動きをソ連から離反する動き、と判断し、軍隊を投入して市民運動を武力で鎮圧し、ナジ首相を追放して、親ソ連派の政権を樹立させた。いわゆるハンガリー動乱である(ナジ氏は国外に逃れたが、後に拘束され、秘密裁判の後に処刑された)。

 このハンガリー動乱は、スターリン批判の流れを受けて、個人崇拝や強権的な政治運営を否定し、党内民主の確立を推進することの「危険性」を毛沢東に印象付けたのではないかと思われる。しかし、毛沢東は表面上、この時点でも、「百花斉放・百家争鳴」の方針に基づき活発な議論を行うよう引き続き奨励していた(前節「急激な社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」参照)。

 「百花斉放・百家争鳴」の呼び掛けは、1957年に入っても、さしたる反響を呼ばず、運動は盛り上がらなかった。急速な社会主義化は、小ブルジョア層(中小商工業者)や民族ブルジョア層、知識階層、土地の所有を維持して農地の公有化に反対したいと思っている農民などの間に不満をうっ積させており、彼らの中に「言いたいこと」は山ほどあったと思われる。しかし、多くの人々は中華人民共和国成立後に行われた中国共産党内部における「整風運動」「反革命鎮圧運動」で党内の異端派が排除され、全国規模で行われた「三反五反運動」などで、小ブルジョア、民族ブルジョアが排除されたことを知っていた(「第3章第1部第6節:土地改革から本格的な社会主義化へ」参照)。中国共産党が「百花斉放・百家争鳴」のスローガンの下でいくら「自由な議論」の呼び掛けを行っても、本当におとがめなしに自由に議論ができるのかどうか、多くの人々が疑心暗鬼だったのである。

 毛沢東は、一向に盛り上がらない「百花斉放・百家争鳴」運動を盛り上げるため、1957年2月、民主党派や各層の知識人、著名人を集めて最高国務会議拡大会議を開催し、そこで「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」と題する重要講話を行った。

(参考URL3)
「人民日報ホームページ」-「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」
「毛沢東記念館」-「著作選登」-「毛沢東文集第七巻」
「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」(1957年2月27日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70361/4769631.html

 この重要講話の中で毛沢東はポイントとして以下のように述べている。

○ハンガリー動乱では、ハンガリーの人々は我々(社会主義陣営)の中にある人民民主主義独裁には自由が少な過ぎ、西欧型の複数政党制には自由が多いと考えていたようだが、それは正しくない。西欧型の複数政党制は、資本家階級が独裁的政治運営を行うためのやり方であり、労働者階級にとって自由が多いと考えてはならない。

○社会主義の内部にも矛盾は存在するが、その性質は資本主義社会における矛盾とは全く異なるものである。我々は、社会主義社会においては、絶えずその矛盾を見つけ出し、適切に対処していく必要がある。

○科学や芸術の分野において良し悪しを判断する際には、常に慎重な態度でなければならず、自由に討論することが必要であり、安易に結論を出すようなことがあってはならない。そのような態度が科学や芸術を順調に発展させることになるのである。

○各民主党派と共産党はお互いに意見を出し合い、お互いに批判し合い、共産党が指導するという大前提の下で、積極的に相互監視の役割を果たすべきである。

 この講話で、毛沢東は、「反革命分子が存在しそれに対する粛清が行われていること」「農業協同化には大多数が賛成しているが少数の反対者がいること」「商工業者の中に社会主義化に反対している者が少数ではあるが存在していること」「知識分子(インテリ層)の中に社会主義に懐疑的あるいは不同意な者が少数ではあるが存在していること」「少数民族問題は大部分は解決しているが、一部の地域では大漢族主義と地方民族主義とがぶつかっているところがあること」といった矛盾の存在を率直に認め、これらの矛盾に適切に対処していかなければならない、と指摘している。

 さらに、1957年4月下旬、中国共産党中央は「整風運動」の指示を発出し、党の各レベルでの指導者幹部、学校、科学研究機関、文化芸術機関の党組織において、各種の座談会や討論会を開いて党内外の大衆の意見を聞こう、という運動を展開した。毛沢東は、この段階において「整風運動をやらないことは党を壊すことになる。整風運動を展開し、人民内部にある矛盾を正確に処理すること、これが『天下の最も大事なことである』」と指示した(下記(参考URL4)「中国共産党簡史」参照)。

(参考URL4)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第六章:中国独自の社会主義建設の道を探る(2)」
「二.人民内部の矛盾を正確に処理する議論の提案と全党にわたる整風運動」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444924.html

 こういった広範な議論、意見聴取運動の結果、自由に意見を出すことに慎重だった民主党派や知識人たちも、ようやく様々な意見や現状に対する批判を出すようになった。中国共産党とは独立した政策方針を決める機関「政治設計院」の設立を求める意見、各部門における中国共産党による特権的な支配に対する批判などが出始めた。このようにして「百花斉放・百家争鳴」運動は、ようやく盛り上がりを見せ始め、核心を突く意見・批判が出されるようになったのである。

 ところが、議論が核心を突き始めたタイミングを見計らっていたかのように、中国共産党の方針は、ここで急転回を見せることになる。

 1957年6月8日、中国共産党中央は「力を組織化して右派分子の侵攻に対して反撃する準備をせよ」との指示を発出し、人民日報は「これはどうしたことか?」と題する社説を掲載して「右派」への批判を呼びかけた。「反右派闘争」の始まりである。

(参考URL5)「人民日報」ホームページ「中国共産党の80年の大事件:1957年」
http://www.people.com.cn/GB/shizheng/252/5580/5581/20010605/482242.html

 この1957年6月8日の急転回の直前の状況について、(参考URL4)の「中国共産党簡史」では次のように記述している。

「ごく少数のブルジョア階級の右派分子がこのチャンスに乗じて党と新しくできはじめていた社会主義制度に対して攻撃を開始した。彼らは共産党が国家の政治の中で指導的地位を占めていることを『党天下』だとして批判し、各機関、大学からの共産党の退出を公然と要求し、私営・公営共同企業体からの公営代表の退出を要求し、『輪流座庄』(麻雀等で親が順番に替わること)を要求して、共産党による指導体制を奪取しようと妄動した。社会主義の改造と建設の成果を抹殺し、社会主義制度の優越性を根本から否定し、人民民主主義独裁のことを『官僚主義』『セクト主義』『教条主義』に基づくものだと批判した。」

 この「急転回」の後、「百花斉放・百家争鳴」運動に応じて、様々な意見を表明した人たちが「右派」のレッテルを貼られて排除されていった。「右派分子」とみなされた人の数について、「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」では、公式発表では1957年の段階で49万人余、1958年前半で55万人以上とされていることを指摘する一方、「右派」のレッテル貼られて直接打撃を受けた人は80~100万人、その家族も合わせると300万~400万人という数字を掲げている資料もあることが紹介されている。

 この「反右派闘争」を指揮したのはもちろん毛沢東であるが、当時トウ小平は党総書記で、「取り締まる側の中心人物」として毛沢東の指示に忠実に従って活動していた。1990年代に国務院総理になる朱鎔基は、この当時国家計画委員会の若手幹部だったが「右派」のレッテルを貼られて地方に追いやられたとのことである(参考資料5:「『中国現代史』~壮大なる歴史のドラマ~(新版)」)。

 この「反右派闘争」は、トウ小平がその中心人物の一人であったのだが、1978年以降の改革開放路線の中では、「方向は誤ってはいなかったが、拡大し過ぎた」として自己批判の対象となっている。改革開放が始まって以降、「反右派闘争」で失脚した一部の人たちの名誉回復も行われた。現在、「人民日報」ホームページ上にある上記(参考URL4)の「中国共産党簡史」では、「当時の党は、階級闘争の形を過度に厳重にしてしまい、反右派闘争の重大な拡大化を招いてしまった。一部の知識分子、愛国者、党内の幹部を誤って右派分子とみなしてしまい、不幸な結果を招くことになってしまった。」と反省の念を持って記している。

 「百花斉放・百家争鳴」運動から「反右派闘争」への急転回については、次の二つの見方がある。

(1)ハンガリー動乱のような大規模な人民の直接行動が起こる前に様々な不満を表に出させてそれらの不満に適切に対処すべきだと考えて、自由な意見を広く求めたが、共産党による指導自体を否定するような意見まで想定以上に相次いで出てきてしまったため、やむを得ず収拾方向に動いた、とする見方。

(2)「百花斉放・百家争鳴」運動は最初から「反共産党勢力」をあぶり出すことを目的として開始されたものであり、あるタイミングで「反共産党勢力」に打撃を加える方向に舵を切ったのは予定の行動だった、とする見方。

 毛沢東の真意は不明であるが、現実的には(2)の見方、即ち「『百花斉放・百家争鳴』運動は最初から『だまし討ち』だったのだ」と捉えた人が多かったのではないかと思われる。このことは中国社会に大きな心の傷を残すことになる。「世の中を良くするために自由に発言してくれ」との呼び掛けに応じて発言した人たちが発言したために排除されてしまったからである。これ以降、中国では、「世の中をよくするために声を上げるとバカを見る」という風潮が定着してしまったのである。

 1980年代、改革開放路線が始まって、過去の誤りは率直に誤りだと自ら指摘する態度を中国共産党自身が示したことにより、この「反右派闘争」以来中国の人々の中にあり続けた心のトラウマは解消されたかに思えた。しかし、その淡い期待は1989年の「第二次天安門事件」でさらに重ねて裏切られてしまうことになるのである。この点については後に述べる。

以上

次回「3-2-3(1/2):大躍進政策と人民公社の成立(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-3752.html
へ続く。

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2010年2月15日 (月)

3-2-1:急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第2部:社会主義化の深化と路線闘争

--第1節:急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」

 1954年9月に制定された中華人民共和国最初の憲法においては、農民による土地所有権の保護や資本家による生産財に対する所有権の保護が規定されていた。つまり、この時点では、憲法が定める原則は、将来的には社会主義を目指すものの、現時点はまだそれまでの間の「過渡期」であり、社会主義的要素と資本主義的要素の共存を認めるものだったのである。ところが、毛沢東は、この憲法の制定と相前後して、急速に社会主義化のスピードを上げていくようになる。前節で述べたように1953年12月の段階では、毛沢東自身、「過渡期」は10~15年程度掛かると考えており、社会主義化の完成は1967年頃と考えていた。この時期の社会主義化の急加速の背後に何があったのか、は、現時点ではまだ明らかになっていないことも多い。

 背景が明らかになっていない当時の事件として「高崗・饒漱石(日本語読みで「こうこう・じょうそうせき」)事件」がある。高崗は抗日戦争期や内戦期に活躍した党内の有力者で、スターリンとも関係が深く、ソ連型の経済建設を進める責任者だった。1953年後半、高崗と饒漱石は、周恩来と劉少奇がリードする党中央に反対したと言われている。「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」によれば、この高崗・饒漱石の動きは「党を分裂させる重大事件」と表現されている。彼らは、1954年2月の中国共産党第7期中央委員会第4回全体会議で、反党分裂活動を行ったとして批判された。1955年3月には、党中央は、彼らの党籍を剥奪し、全ての職務を解任する決定を行った(高崗はこの批判・追求の過程で自殺した)。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第五章:中華人民共和国の成立と新民主主義から社会主義への過渡期(3)」
「三、党による過渡期の総路線の提案と計画経済建設の開始」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444783.html

 この「高崗・饒漱石事件」と毛沢東による社会主義化の急加速との間に因果関係があるのかどうかは定かではない。ただ、事実として指摘すると次のようになる。

 高崗・饒漱石の党籍剥奪と職務解任を決定した後の1955年7月に開催された全国人民代表会議(全人大)で第一次五か年計画(1953~1957年)が決定された(全人大が選出される前の1953年に決定し既にスタートしていた五か年計画を追認したもの)。この第一次五か年計画は1953年当時に決定されていたものであったことから、「過渡期は10年~15年続く」という当時毛沢東自身も語っていたペースに合わせたものであった。

 ところが全人代で第一次五か年計画が決定された直後の1955年7月31日、毛沢東は、中国共産党の省・市・自治区の党委員会書記を集めた会議の席上発表した「農業協同化に関する問題について」と題する報告で、全人代で決まったばかりの第一次五か年計画で示された農業集団化のペースを「遅い」と批判し、共産党が指導する大衆運動によって農業集団化のスピードアップを図るべきだ、と主張したのである。「過渡期は10~15年間続く」と発言していた1953年12月の時点と、この1955年7月31日の時点で、毛沢東自身の方針が明らかに変わっていたのであった。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「指導者人物資料庫」
「人民の指導者毛沢東」-「著作選集」-「毛沢東文集第六巻」
「農業協同化問題についての報告」(1955年7月31日)
http://www.people.com.cn/GB/shizheng/8198/30446/30452/2196129.html

 この間の毛沢東の方針の変化の原因がどこにあるのかは不明であるが、1953年3月のスターリンの死去、同年7月の朝鮮戦争休戦協定調印、1954年2月~1955年3月の「高崗・饒漱石事件」が、この間の毛沢東の考え方の変化に影響を与えている可能性がある。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の筆者である天児慧氏は、当時毛沢東のお抱え医師だった李志綏が毛沢東の日常について「党最高幹部との行き来、相互訪問など一切なかった。身辺護衛のボディーガードだけが唯一の日常的な親しい付き合いの仲間であった。」と述べていることに着目して、当時の毛沢東は、現場感覚が徐々に希薄化していく一方で、自己権力が肥大化しており、その思考は次第にバランスを欠くものとなっていた、と指摘している。

 農業の集団化を考える際の背景をここで若干説明する。

 もともと工業においては、生産財を持つ資本家と持たざる者としての労働者とが対立していることから、社会主義化の過程は単純なものであった。資本家が持つ生産財を公有化すればよいだけだからである。しかし、農業における社会主義化は、そう単純ではない。この点については「第1章第1部第2節:『社会主義』と農民・土地との関係」において述べたところである。

 農業においては、大地主と小作農との関係は工業における資本家と労働者の関係に似ているが、自作農は農家各戸がそれぞれ「経営者」であり、農地を持っているという点で「持たざる者」ではなく、工業におけるアナロジーをそのまま適用するわけにはいかない。また、農業においては、大地主が持っていた土地を取り上げて小作農に分配した後でも、それまで大地主がリードして行ってきた灌漑(かんがい)設備の建設や維持・管理、収穫時期における共同農作業などの占める割合の大きさは変わらない。このため、中国共産党が抗日戦争、国共内戦時から中華人民共和国建国期初期に行っていたのは、大地主から土地を取り上げて小作農に分配して全ての農家を自作農化すると同時に、灌漑事業や共同農作業を行うための組織(「互助会」「合作社」などと呼ばれた農業協同組合のような組織)を作ることであった。

 多くの中国共産党の人々は毛沢東も含めて、農業活動全体を共同化し、最終的には農地の所有権自体を公有化することが、農業生産性向上のため最も有効であると考えていた。彼らは、当時のソ連が、国営農場(ソホーズ)や集団農場(コルホーズ)などに見られるように農地を公有化し、大型機械を用いて農作業を共同で行うことによって農業生産力を高めていたのを知っていたからである。

 しかし、農業の完全共同化によるメリットは、農地が広大な大平原地帯に存在し、人口が少なく、大規模な農作業を行う大型農業機械の存在があって初めてもたらされるものであった。中国の農地には様々なタイプがあり、ソ連のような大平原にある農地だけではなく、山間部や河川・水路等によって細分化された農地も多かった。また、ソ連は、第二次世界大戦でナチス・ドイツと戦車や戦闘機で戦ったのを見てもわかる通り、当時既に一定の工業力を持っており、大型農業用機械を自分で生産できた。それに対し、当時の中国は大型農業用機械を生産する工業力を持っておらず、農作業は膨大な農民人口を利用した人の手による作業に頼るものが多かった。また、大型農業機械を導入することは膨大な人口を抱える農村部の雇用機会を奪うことにつながる。ソ連のような大型機械を用いた集団農業は、当時の中国の実情には合わないものだったのである。

 当初「過渡期の総路線」が提唱された頃に考えられていた「社会主義化までは10~15年間の過渡期が必要だ」とするタイムスケジュールの背景には、まず10~15年の間で大型農業機械を生産できる工業力を育成し、同時に工業による雇用の吸収力を付けた上で、農業の集団化を行うことにより、ソ連型社会主義へ移行しよう、とする考え方があった。ところが、1955年7月31日に毛沢東が行った「農業協同化問題についての報告」において、毛沢東は「農業の集団化は機械化を待つ必要はない」と主張したのであった。これは明らかにソ連型社会主義のような農業の集団化とは異なる道を歩むこと意味していた。農業用機械がなく、農村に多くの労働力が存在する段階で農業の集団化を図ることが農業生産力の向上の観点で有利であるのかどうかは疑問の残るところであるが、この時点で毛沢東の方針に異論を唱える者は現れなかった。

 実は、1953年に「過渡期の総路線」の方針が出されてから、農業の集団化が徐々に進められていったが、1954年頃には、農業の集団化は行き詰まりを見せていた。このため1955年1月に党中央は「農業生産合作社(当時の農業協同組合的組織の名称)の整頓・強化に関する決議」を発出し「発展を停止し、うち固めることに全力を上げる」との方針を示していた。

 農業の集団化の行き詰まりは、当時の農民の気持ちを反映していたものと考えられる。多くの中国の農民は、大地主から土地を取り上げて耕作者に分配し、耕作する者が自ら土地を所有する体制(耕者有其田)を望んで中国共産党を支持し、抗日戦争と国共内戦を戦い抜いてきたのだった。だからこそ、中華人民共和国が成立した後、土地が自分のものとなった農民は、生産意欲に燃えて、農業生産量が増加したのであった。ところが今度は中国共産党は「農業を集団化する」と言い出し始めたのである。目指すのは農地が公有化されたソ連型社会主義の農業であるという。農民にとっては、ようやく自分のものになった農地を「公有化」の名の下で再び取り上げられることにはかなりの抵抗感があったのではないかと思われる。灌漑事業や収穫等の作業を共同でやることには協力した農民たちも「土地を公有化する」段階に至ると抵抗を示すようになったと思われる。

 毛沢東は、農地の公有化に反対しているのは比較的広い農地を所有している富裕層であり、狭い土地しか所有していない貧農層は、土地を公有化し、共同で作業して、農業による収入を分配する農業の集団化を望むはずだ、と考えていた。毛沢東は、農民の中でも富裕層は、地主に近い、即ち、資本主義に近い考え方を持った階層だとみなしていた。上記に掲げた「農業協同化問題についての報告」の中で、毛沢東は貧農階層は人口比率で6~7割であり、富裕層は2~3割程度である、と分析し、多数を占める貧農層の積極性を引き出すためには農業の集団化は積極的に進めるべきだ、との方針を示している。その頃までの土地改革の流れのスピードを踏まえれば、10年~15年といった期間、工業化が進むまで待つのではなく、機械化される前でもいいから農業の集団化を進めることはできるし、その方が農民の多数派を占める貧農層からの支持が得られ、農業生産力の向上も図れる、と毛沢東は考えたようである。

 しかし、周恩来をはじめ共産党幹部の中にも、毛沢東が言うようなペースで農業の集団化を進めるのは速すぎる、と考えていた人たちは少なくなかった。1953年7月に朝鮮戦争の休戦協定が調印され、内外ともに戦争状態が終了した当時の中国において必要とされていたのは、地に足を付けて実情を踏まえながら経済建設を着実に進める政策を企画立案する実務官僚型の指導者であった。世の中が平和になり実務官僚型の幹部の力が発揮されるようになった、ということは、裏を返せば、戦争状態において抜群の指導力を発揮した天才的軍事戦略家・毛沢東の党内での存在意義が薄くなったことを意味していた。毛沢東は、党内における自分の役割が低下していくことに危機感を感じて、実務官僚型幹部を批判し、農業集団化の加速、という新たな「戦い」を求めようとしたのかもしれない。高崗・饒漱石事件も、そういった毛沢東と実務官僚型の党幹部との権力闘争であった、という見方ができるのかもしれない。

 上記の「農業協同化問題についての報告」の冒頭、毛沢東は「我々の一部の同志ときたら、纏足(てんそく)の女性のように、あっちによろよろ、こちらによろよろしながら『速すぎる、速すぎる』とグチばかりこぼしている。やり過ぎの品定め、不適切なグチ、無限の心配、尽きることのない規則や戒律などが社会主義大衆運動の正確な方針だと思って農村での指導に当たっている。」と批判している。この言い方は、地に足を着けて実情を踏まえながら経済建設を着実に進めようとしている実務官僚型の幹部に対する、毛沢東のいらだちと批判を表現しているものと思われる。

 こういった共産党内部の「実務官僚型幹部」に対する毛沢東の反感をさらに燃え上がらせる出来事がソ連から伝えられた。スターリンの死後、ソ連共産党第一書記になっていたフルシチョフが1956年2月に行ったスターリン批判である。スターリン批判は、スターリンによる強権的独裁と個人崇拝を非難したもので、ソ連内外に大きな衝撃を与えた。これはまさに中国が「ソ連型社会主義」への道を歩み出したばかりの時期であっただけに、毛沢東ら中国共産党幹部を大いに困惑させた。特にスターリンに対する個人崇拝を批判した文脈は、自らのカリスマ性によって中国共産党の中における地位を確立してきた毛沢東にとっては、どう対応すべきか難しい問題を含んでいた。スターリン批判が行われてから約2か月たってから、「人民日報」はソ連のスターリン批判に対する見解を掲載した。それが「プロレタリアート階級の歴史的経験について」(1956年4月5日に人民日報に掲載)である。

(参考URL3)新華社ホームページ「新華資料」
「プロレタリアート階級独裁の歴史的経験について」(1956年4月5日付け人民日報)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2004-12/30/content_2394333.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この見解では、ソ連共産党が自らの過去のうち誤りと考えられるところを認め自己批判していることを評価し、ソ連共産党が個人崇拝を党内の「集中民主」制度に反するものだとして批判していることを評価している。一方で「スターリンは完全に誤っていると認識している人もいるが、それは重大な誤解である。スターリンは偉大なマルクス・レーニン主義者であるが、一部において大きな誤りを犯しそれを自覚していなかったのである。彼の正しい部分と誤った部分を全体的に適切に分析し、有益な教訓を汲み取らなければならない。」として、全面的にスターリンを非難することには反対している。この点は、フルシチョフが行ったスターリン批判とは方向性を異にしている。中国共産党は、ソ連共産党による指導の下で生まれて革命を成功させ、ソ連をひとつのモデルとしながら新しい国家の建設を進めてきたのであるが、ここで初めて、ソ連共産党との路線の違いを明確に示したのである。これが目に見える形での「中ソ対立」の出発点となったのである。

 毛沢東は、これまで述べてきたように、アメリカとの対抗上、外交戦略上はこの時期「向ソ一辺倒」の方針を採ってきていたが、内政上は、中国がソ連と同じような社会主義の道を歩むことになるとは考えていなかった。農業機械を生産できる工業力が付く前に農業の集団化を進めたこともその一例である。毛沢東は、フルシチョフによるスターリン批判により、より一層、ソ連とは異なる「中国独自の社会主義」の道を目指すようになる。その方針を如実に示したのが、1956年4月25~28日に開かれた党中央政治局拡大会議で行った重要講話「十大関係を論ずる」である。

(参考URL4)「人民日報」ホームページ「党史人物記念館」-「毛沢東記念館」-「著作選登」-「毛沢東文集第七巻」
「十大関係を論ずる」(1956年4月25日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70361/4769605.html

 この中で毛沢東は次の10個の関係について論じている。即ち「重工業と軽工業・農業との関係」「沿海部の工業と内陸部の工業との関係」「経済建設と国防建設との関係」「国家や生産機関と生産者個人との関係」「中央と地方との関係」「漢族と少数民族との関係」「中国共産党と中国共産党以外の人士との関係」「革命と反革命との関係」「是と非との関係」「中国と外国との関係」である。これらの観点は、現在でも中国における問題を考える上で重要なポイントである。毛沢東は、これらの各関係について、ソ連とは異なる中国の特徴を踏まえて議論すべきことを強調した。そして、毛沢東は、党中央政治局拡大会議における議論を受けて最終日の4月28日に行った総括講話の中で「芸術の問題においては『百花斉放』、学術問題においては『百家争鳴』を我々の方針としなければならないと私は思っている」と語った(上記(参考URL4)の「注釈(1)」参照)。

 「百花斉放・百家争鳴」とは、幅広く大いに議論しよう、という意味である。毛沢東がこの時点で、このように幅広い議論を呼びかけた理由については、様々な見方がある。

 毛沢東のリーダー・シップによる強力な(別の言い方をすれば強引な)社会主義化の加速は、まず「新民主主義」による新中国の建設を目指して中国共産党と協力することに合意していた小ブルジョア(中小商工業者)や民族ブルジョア階級に大きな不安をもたらした。土地を分配してもらい意気の上がっていた農民たちも、「農地の公有化」という名目で自分たちの土地所有権が否定されていくことに対して不満を募らせていた。中国共産党内部にすら、工業化が進んでいない段階で農業の集団化だけを突出して進めようとしている毛沢東の方針に疑念を抱く人々も多かった。さらに、フルシチョフのスターリン批判によりスターリンの個人崇拝が批判されたことは、中国における毛沢東への個人崇拝に対する疑念を惹起し、毛沢東に対して反対意見が言えない雰囲気があるのはおかしい、と不満を感じる人も多くなった可能性がある。

 毛沢東の絶対的な権威の前に、これまでこれら不満を持つ人々も敢えてそれを口に出すことはしなかった。しかし、そういった不満がうっ積することの危険性は、毛沢東自身も感じていたと思われる。党内で議論を活発化させることによって、そういった不満について議論し、必要な対策を講じようと毛沢東が考えて「百花斉放・百家争鳴」を提唱した、というのがひとつの見方である。

 実際に1956年4月に「百花斉放・百家争鳴」を提唱した段階で、毛沢東自身がどういう考え方をしていたのかは不明である。しかし、これから見ていくように、結果的には、「百花斉放・百家争鳴」の運動に応じて意見を表明した人たちのうち、毛沢東の方針に反対するような意見を述べた多くの人々は、この後に展開される「反右派闘争」において徹底的に排除されていった。この事実を見る時、「百花斉放・百家争鳴」の提唱は、最初から反毛沢東勢力をあぶり出すための毛沢東による「おとり作戦」だったのではないか、とする見方を完全に否定することは困難である。いずれにせよ、この「百花斉放・百家争鳴」運動が開始された時点で毛沢東がどう考えていたのかを分析するのは、今後、様々な資料に自由にアクセスできるようになる時期を待って、将来の歴史家による議論に委ねる必要があると考える。

以上

次回「3-2-2:反右派闘争」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-a248.html
へ続く。

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2010年2月14日 (日)

3-1-6:土地改革から本格的な社会主義化へ

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第6節:土地改革から本格的な社会主義化へ

 1952年後半から毛沢東は「過渡期の総路線」というスローガンの下、周囲の想定をはるかに上回るスピードで社会主義化を進めている。これは「中国でもソ連型社会主義を目指す」という捉え方をすれば、「第3節:国際情勢に翻弄される建国期の中華人民共和国」で国際情勢の変化について述べた時に指摘したように、この当時、中国が外交面で米ソ冷戦構造の中で「向ソ一辺倒」の路線を歩んでいたことと軌を一にするものであった。

 一方、抗日戦争末期から、中国共産党は、戦線の統一を図る目的から、毛沢東のカリスマ性を利用して、毛沢東に対する個人崇拝の傾向を強めて来ていた。これは、歴代王朝時代から続く素朴で東洋的傾向の残る大多数の人民に対して、「尊敬できる偉大な指導者像」を作り上げることにより、絶対的な精神的支柱である「皇帝」に代わる存在を提供することをも意味していた。しかしこのことにより、中国共産党は、自らの内部で毛沢東を「皇帝化」し、毛沢東が仮に誤った政策判断を下しても党内においてそれを批判できない、という雰囲気を産んでしまっていた。

 実際、1950年代の中華人民共和国建国初期の時期においては、中華人民共和国の成立を成功させた、という圧倒的な実績を前にしては、毛沢東に反対できる者は誰もいなかったのである。中国共産党の内外に「社会主義化より先に国内経済の立て直しが重要だ」と考える人々が多くいたにもかかわらず、米ソ冷戦構造下で軍事戦略家として「敵を作ることによって戦って前進する」方針を進めるため、あえて国内においても「ブルジョア階級を敵とする」社会主義化の推進の方向に舵を切ろうとする毛沢東を止めることは、誰にもできなくなってしまったのである。

 1950年6月「土地改革法」が公布され、まだ地主・小作関係が残っている地区においては、地主から土地を没収し耕作者の農民に土地を与える「土地改革」が強力に進められていった。これより少し前の1950年5月、中国共産党は国内での政権掌握を確実なものとし、党内における官僚主義的傾向を排除するための「整風運動」を開始した。また、朝鮮戦争勃発直後の1950年7月、中国共産党中央は「反革命活動の鎮圧についての指示」を出して、「反革命分子」の鎮圧に乗り出した。これらは、中国共産党が国内での政権掌握を確固としたものにするために党内を引き締めるとともに、朝鮮戦争の勃発に呼応して大陸に残っている国民党の残存勢力が「反攻」に出ることを防止するために国民党残存勢力を一掃しようと意図するものであった。同時に、こららの運動は、地方に存在する地域ボスや秘密結社、暴力団組織など、中央政府の支配に服さない勢力を一掃する、という国内の政治的統一の意味もあった。

 「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」によれば、1950年5月から1953年6月末までの「党内から『思想が不純な分子』や『組織が不純なもの』を排除する」という「整風運動」の期間中、32万7,000人が党の組織から排除され、このうち23万8,000人の「党内に混入した各種破壊分子及び堕落変質分子」が党から「清除」された、とのことである。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第五章:中華人民共和国の成立と新民主主義から社会主義の過渡期へ(2)」
「二.新民主主義改革と建設の全面展開、国民経済の回復」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444782.html

 ここでいう中国語の「清除」は「一掃すること、粛清すること、除名・追放すること」といった意味であるが、具体的にどういう方法で「清除」されたのかは、この「中国共産党簡史」では述べていない。「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」では、「反革命鎮圧運動」の中で「反革命分子129万人を逮捕、123万人を拘束し、71万人を処刑し、武装勢力240万人を壊滅させた。」としている。

 上記の「中国共産党簡史」で述べているのは中国共産党内部の「整風」を述べたものであり、後者の「参考文献8」で述べられているものは、国民党残存勢力の掃討も含めたものであるので、同一視することはできないが、この時期、実際にどのようなことが行われたのかは、現在、必ずしも明らかではない。ソ連共産党によるロシア革命達成直後の「粛清」の問題がソ連崩壊後に明らかになったように、中華人民共和国成立直後の時期に「清除」として実際に何が行われたのかを客観的に検証する作業は、後の歴史家の検証に待つほかはないと思われる。

 こういった党内の「整風運動」と「反革命鎮圧運動」と並行して、1951年末から「三反運動」、1952年初から「五反運動」が展開された。「三反運動」とは「汚職、浪費、官僚主義」の三つに反対する運動であった。「五反運動」とは「賄賂、脱税、仕事の手抜きと材料のごまかし、国家財産を騙し取ること、国家の経済情報を盗むこと」の五つに反対する運動であった。これら「三反運動」「五反運動」は、毛沢東をヘッドとする中国共産党の呼びかけによる大衆運動として展開された。

 「中国共産党簡史」(参考URL1)では、これらの運動を通じて資本家階級に残っていた悪行を排除し、私営企業に対する監督と民主改革を推進した、と述べるとともに、「党の中に存在していたブルジョア階級を制限しようとする勢力と制限に反対しようとする勢力の間の闘争において勝利を獲得した」と述べている。この記述は、「三反運動」「五反運動」を通じて、中国共産党内部の路線闘争において、小ブルジョア(私営商工事業者)や民族ブルジョアによる自由な経済活動も活用しながら広範な階級の協力で国内経済建設を進めようとする「新民主主義」の考え方を持つ勢力が排除され、ブルジョア階級の活動を制限して社会主義的な方法で経済建設を進めようとする勢力が主導権を握ったことを意味している。

 前節で述べたように、毛沢東は1952年後半から「現在は社会主義を完成させるまでの過渡期であり、そのための『総路線(=基本方針)』を進めるべきである。」とのを主張し始めている。これは、中国が最終的に目指すべきものは、1949年の中華人民共和国成立時に決定された「中華人民政治協商会議共同綱領」に定められた「新民主主義」ではなく、社会主義であるという方向性を明確に打ち出したものであった。

 しかし、上記(参考URL1)に掲げる「中国共産党簡史」によれば、1952年9月、毛沢東は、中国共産党中央書記処会議の席上「我々は、今、十年ないし十五年の時間を掛けて社会主義を完成させるという過渡期を始めようとしなければならない。十年経たないうちに、あるいはもっと長い時間を掛けてから過渡期を始めなければならない。」と述べている。この時点では、毛沢東は「社会主義化するまでの過渡期」の期間として「十年ないし十五年」を想定し、「過渡期を開始するまで」の時期も十年以上先の話かもしれない、という想定をしているのである。このように1952年の時点においては、毛沢東自身、「社会主義化へ向かう」という方向性は明確にしたものの、実際にそれを実現するまでには、まだかなりの時間が掛かると考えていた。

 さらに1953年12月の時点で、毛沢東は、この頃の中国における農業用機器や工業用工作機械の生産能力等を考えれば、社会主義国家を建設するには3回の五か年計画期間(=15年間)程度の時間を要し、その前に経済回復のための期間としてなお3年程度必要であることから、社会主義国家が完成するまでには中華人民共和国成立後18年程度の時間が掛かる(つまり社会主義国家が完成するのは1967年頃)だろう、という見通しを示している。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党ニュース」-「党史人物記念館」-「毛沢東記念館」-「著作選登」-「毛沢東文集第六巻」
「革命の変転と党が過渡期の総路線にあることについて」
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70360/4769520.html

 こうした中、1953年3月にはソ連のスターリンが死去した。また、1953年7月には朝鮮戦争の休戦協定が調印された。毛沢東が朝鮮戦争において北朝鮮側を強力に支援すること(抗米援朝)を通じて「新民主主義路線」から「明確な社会主義化」へと舵を切り、「向ソ一辺倒」という外交方針と呼応するように「ソ連型社会主義」による経済建設を始めようとした矢先のタイミングで、「模範」と考えていたソ連のスターリンが死去し、朝鮮戦争が休戦状態に入った、というのは、一種の歴史の皮肉と言えるかもしれない。

 中国では、1950年代初頭、朝鮮戦争への人民義勇軍の派遣、チベットへの人民解放軍の進駐など、なお軍事的行動は続いていたが、中国国内の多くの地域においては国共内戦が終了したことにより、長らく続いていた戦争の時代がようやく終わり、平和な時代が始まっていた。また、1950年6月に公布された「土地改革法」に基づき、地主が持っていた土地が没収され、小作農に分配されることにより、「耕すものが農地を所有する」(=「耕者有其田」)という孫文ら中国革命を始めた人々が革命運動開始以来目指していた目標であり、大多数の農民が望んでいた状況が、現実のものとなっていった。

 「平和の実現」と「土地が自分のものになった」という状況は、全国の農民に希望を与え、その生産意欲を大いに刺激して、農業生産量は大いに発展した。「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、1949年以前の最高生産水準を100とした指数で示すと、1952年の生産量は、穀物で109、綿花で154、サトウキビで126、豚で114、魚介類で111であった。同様な現象は工業部門でも見られた。「平和の到来」により経済活動は安定化し、都市部労働者の生産意欲も向上したことから、工業製品生産量の指数は1949年以前の最高水準を100とすれば、1952年には、薄絹で147、布で137、鋼で146、セメントで125、発電量で122などの大きな伸びを示した。また(参考URL1)に掲げる「中国共産党簡史」によれば、1952年には1949年と比べて労働者賃金は70%増、農民収入は30%増となったとのことである。

 こういった予想を超える国内経済の発展振りは、毛沢東に大いなる自信を与えたと考えられる。この好調な経済回復は、朝鮮戦争における「抗米援朝」や「三反運動」「五反運動」といった共産党が指導する大衆運動と同じ時期であったことから、毛沢東は、戦争状態が終わった平和な経済建設の時期になっても、自分が指導して大衆運動を起こせば、社会の変革をどんどん前進させることができる、と考えるようになったのではないか、と思われる。この毛沢東の「自信」(「過信」とも言える)が、後の「大躍進」や「文化大革命」の悲劇を生むことになるのである。

 実際、1949年の中華人民共和国成立から1952年までの間の経済成長の原動力になったのは、新国家建設の希望に燃えた農民や労働者の生産意欲の向上であり、小ブルジョア(中小商工業者)や民族ブルジョアによる経済運営の力によるものではなかった。これらの状況は、中国共産党内部に「経済建設のために小ブルジョア層、民族ブルジョア層の助けは必要なく、共産党の指導を強力に進めることこそが経済発展に繋がる」という自信(過信)を与えた。このことが、中国共産党内部の路線闘争において、「新民主主義による国内経済建設」を進める一派が力を失い、「社会主義化への道」を進める一派を勢い付かせることになったのである。

 1953年から1954年に掛けて「共同綱領」の規定に基づき、全国人民代表の選挙が行われ、1954年9月、第一回全国人民代表大会が開催された。ここで、この時の選挙制度がどのようなもので、実際の選挙がどのような形態で行われたのかは必ずしも明らかではないが、中国共産党の指導により内戦が終わり、外国勢力が排除され、土地改革によって耕作する農民に土地が与えられ、農業・工業の生産が発展した、という当時の状況を踏まえれば、全国人民代表の多くに共産党系の人士が選出されたことは、この時点では、それほど不自然ではなかったと思われる。第一回全国人民代表会議の様子がどのようなものであったか、については、全国人民代表大会のホームページの「第一期全国人民代表大会第一回会議盛況の実録」で見ることができる。

(参考URL3)「全国人民代表大会」ホームページ
「全国人民代表大会概要」-「全人代の歴史」
「第1期全国人民代表大会第一回会議盛況実録」(2004年2月12日付けで劉政氏がアップしたもの)
http://www.npc.gov.cn/npc/rdgl/rdsh/2004-02/12/content_327928.htm

 この「実録」によると、この会議に出席したのは1,226名の代表で、人民代表には、中国共産党だけではなく、民主階級や民主党派の代表、著名な文学者、芸術家、科学者等の知識人も含まれていた、とのことである。この会議では、中華人民共和国の初めての憲法草案について議論された。この憲法の草案は、中国共産党が起草し、全国の人民の間で議論がなされた後、この全国人民代表大会に提案されて議論がなされたのである。この全国人民代表大会で出された意見に基づき、憲法草案の一部が修正された上で採決が行われ、投票総数1,197、賛成1,197で憲法草案は可決された、とのことである(この「実録」では何も述べていないが、出席者数と投票総数に差があることから、反対票はなかったが、会議には出席したが投票しなかった人民代表が29名いた、ということになる)。

 この1954年に制定された中華人民共和国最初の憲法は、前文で「中華人民共和国は社会主義国家を目指すものであり、現在はその過渡期にある。」と位置付けている。

(参考URL4)「人民日報」ホームページ
「中華人民共和国憲法(1954年9月20日第一期全国人民代表大会第一回会議決定)」
http://www.people.com.cn/item/xianfa/01.html

 この憲法では、社会主義を目指すものの現在は「過渡期」であることから、社会主義経済と資本主義経済が共存することを認めている(第5条)。また、第8条には「国家の法律に基づき、農民の土地とその他の生産に必要な物資に対する所有権を保護する」と規定されている。さらに第10条では「国家の法律に基づき、資本家の生産財とその他の資本に対する所有権を保護する」と規定されている。前文では「中国共産党の指導により革命を成し遂げ、統一戦線を形成してきた」と中国共産党が中華人民共和国成立のために主導的役割を果たしたことを述べてはいるが、この1954年の憲法の中では中国共産党の優位性を規定する条文や他の政党を排除する規定はない。その意味ではこの1954年憲法は、将来は社会主義を目指す、という方向性は書き加えられたものの、政治のあり方については、中華人民共和国成立時に定められた「共同綱領」の線に則ったものであると言うことができる。

 この後、第1期全国人民代表大会第一回会議は、国家主席と国家副主席の選出を行った。上記(参考URL3)の「実録」によると、国家主席の候補者として毛沢東、副主席の候補者として朱徳の推薦があったが、その他の候補者の推薦がなく、投票の結果、毛沢東が国家主席に、朱徳が副主席に選出された、とのことである。このほか、この会議では、全人代委員長に劉少奇、国務院総理に周恩来が選出された。副総理10名も選出されたが、彼らは全て共産党員であった(ただし、国務院の閣僚クラスには共産党員でない者もいた)。このように新しくできた憲法の上では中国共産党は特別な地位を持つ党ではなかったが、実質的には全国人民代表大会は中国共産党によってコントロールされる状態になった、と言ってよい。

 「共同綱領」の規定と新しい憲法の制定により、法律制定等の権限は「共同綱領」を制定し中華人民共和国の成立を決定した中国人民政治協商会議から全国人民代表大会(全人代)へ移ることとなった。中国人民政治協商会議は、その後も存続し、現在に至っているが、現在の政治協商会議は、法律案について議論し、意見を提出することはあっても、何の決定権も与えられていないので、現在では「共産党以外の民主党派の人々も政治に対して意見を言える場を提供している」という形を示すだけのものとなっている。別の言い方をすれば、現在も存続している中国人民政治協商会議は、中華人民共和国建国期の「新民主主義」の「残骸」と言えるものなのである。

 この後、憲法上は中国共産党の優位性が規定されていないのに実質的には中国共産党による各機関のコントロールが可能となるよう各組織に党委員会が設置され、憲法上は農民の土地所有権の保護が謳われているのに実質的には農地の公有化が進められ、憲法上は資本家による生産財の所有が認められているのに国家による資本家からの生産財の徴用が進められる、など憲法上のタテマエと実際の政治状況が合致しない状況が長らく続くことになる。憲法上「中国共産党は中国人民を指導する核心である」旨が明記され、実際の政治支配体制と憲法の規定とが一致するのは、1975年の憲法改正まで待たなければならないことになる。

 中国では、法律よりも現実の政治状況が先行し、法律が後から「現実追認」の形で改正されることが多い。後にも述べるが、これが「よいこと(と自分が思うこと)ならば、法律に違反していてもやってよい」という風潮を呼び、中国において遵法意識が育たない背景になっていると言える。

以上

次回「3-2-1:急激な社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-d0c0.html
へ続く。

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2010年2月13日 (土)

3-1-5:「中華人民政治協商会議共同綱領」と「過渡期の総路線」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第5節:「中華人民政治協商会議共同綱領」と「過渡期の総路線」

 今まで何回も述べてきたように、国共内戦の中で中国の人々の多くが中国共産党勢力を支持するようになった背景には、中国の広範な人々の間に下記の3つの願望があり、国民党よりも共産党の方がその「願望」を実現してくれそうだ、という強い期待があった。

(1) 内戦を終わらせて平和を確立すること。

(2) 外国勢力を排除して中国人民の民族独立を達成すること。

(3) 経済を発展させ人々の生活の向上を図ること。

 これら3つは、中国だけではなく、第二次世界大戦後、アジア・アフリカ各国で行われた独立運動と共通する理念であった。(1)に関しては、国民党と共産党のどちらが勝っても早く内戦状態が終わればよい、と人々は思っていたので、国民党と共産党とを選ぶ基準とはならない。

 (2)に関しては、蒋介石の後ろにアメリカの影が見え隠れしていたことについて、中国の多くの人々は懸念を感じていたものと思われる。一方、これまで述べてきたように、国共内戦時までは中国はソ連からの直接的な支援を得ていたわけではなかった。むしろ前回述べたように、1950年2月に調印した「中ソ友好同盟相互援助条約」では、毛沢東が指導する中華人民共和国政府は、ソ連が従来から求めていた東北部における権益をあきらめさせることに成功している。従って、(2)については、多くの人々は共産党の方にシンパシィを感じていたと思われる。

 (3)については、中国の人々の大多数を占める貧しい農民は、中国共産党が進める土地改革に期待を寄せていたと思われる。また、アメリカの経済的支援を受けていたとは言え、抗日戦争後の混乱した社会では、国民党支配地域における自由主義経済では極端なインフレを抑制することが難しかったのに対し、統制経済により物資の配給等を行っていた共産党支配地域の方が経済的な「安心感」があったことから、商工業者の中にも、共産党支配に対して一定の警戒感は持ちつつも、「国民党よりは共産党の方が経済を安定化させてくれそうだ」という感覚を持っていた人も多かったものと思われる。

 これらの状況を背景として、結果的に中国の人々の多数は中国共産党勢力の方をより強く支持した結果が国共内戦の結果として現れた、ということができる。

 しかし、中国共産党が進める土地改革に期待を寄せる貧しい農民が中国における多数派であったことは間違いがないにしても、中国には貧農以外の人々もたくさんいた。従って、多くの人が中国共産党に対して上記の3つの願望を実現に対する「期待」を示していたのは事実だったとしても、全ての中国の人々が中国の「社会主義化」を望んでいたわけではなかった。この当時、中国にはどういう種類の人々がいたかについて頭を整理するため、ここに「第1章第2部第3節:第一次国共合作」で述べた中国社会にいる様々な階層の人々のリストを再び掲げることにする。

<都市部>
(1) 資本家
 ・列強各国の外国資本と強く結びついた資本家(「買弁資本家」とも言う)
 ・外国資本との結びつきが弱い民族資本家
(2) 中小企業経営者(小規模工場の経営者:工場・機械設備などは所有しているが、大型のプロジェクトに投資する程の資本力は持たない)
(3) 個人商店経営者(都市部でもっぱら家族を従業員として営業している商店主など)
(4) 大学教授・文化人などの知識人
(5) 政府職員・学校の教師などの公務員
(6) 民間企業で働く賃金労働者
(7) 鉄道など公的機関で働く賃金労働者
(8) 軍隊の中の下士官(地主・自作農の次男、三男などが多く、外国留学経験者も多い)
(9) 兵士(都市の失業者だった者や農村で職にあぶれた貧農の次男、三男などが多い)

<農村部>
(10) 自らは耕作せず小作料収入だけで生活している地主(「寄生地主」とも言う)
(11) 所有する一部の土地を自ら耕作し、一部は小作地として小作人に貸し付けている富農
(12) 自らの土地を所有し、その土地を耕作して生計を立てているが、小作地は所有していない自作農
(13) 自らの土地を持たず、小作料を支払うことによって地主から土地を借りて行う耕作によって生計を立てている小作農(「貧農」とも言う)。
(14) 土地は所有せず、家畜のみを所有し、草原を渡り歩く遊牧民

 中国共産党は、抗日戦争期、国共内戦期を通じて、外国勢力の追放により(1)資本家のうち「外国資本と強く結びついた資本家」を、土地改革により(10)「寄生地主」を、それぞれ打倒しようと考えていたが、それ以外の人々からは広範な支持を得ようと考えていた。国民党勢力を追放した後も、その考え方を変えることはしなかった。戦争と内戦を通じて混乱した当時の中国社会の中では、強圧的に中国共産党の主義主張を押しつけて無理に社会主義化を進めることは国内の分裂を招くと考えたからである。当時の中国では、戦争と内戦で荒廃した国内経済の建設を進めることが最大の課題であり、そのためには中国共産党に対する求心力を維持して安定した政権を作ることがまず最初にやるべき最大の課題だった。

 こうした考え方に基づき、国共内戦末期、中国共産党勢力による軍事的優勢が確定した情勢の中で、国内各勢力の融和を図り、内戦後の国内建設をスムーズに進めるため、1949年9月21日から中国共産党と非共産党勢力も含めた幅広い勢力を集めた中華人民政治協商会議が開催された。この会議では、中華人民共和国の成立が決定されるとともに、新しい国家の憲法とも言うべき「中華人民政治協商会議共同綱領」が策定された。この点については「第3章第1部第2節:中華人民共和国の成立」のところで述べた通りである。この会議の決定に基づいて、1949年10月1日、毛沢東が天安門の上に立って中華人民共和国の成立を宣言したのであるが、下記に述べる「共同綱領」の内容を見ればわかるとおり、この時点で成立した中華人民共和国は「社会主義国」ではなかった。

○「中華人民政治協商会議共同綱領」(1949年9月29日決定)の主なポイント

・中華人民共和国は新民主主義即ち人民民主主義の国家であり、労働者階級が指導し、労農連盟を基礎とし、各民主階級と国内各民族が団結した人民民主主義独裁を実行するものである(第一条)

・中華人民共和国人民は、法に基づき選挙権及び非選挙権を有する(第四条)

・中華人民共和国人民は、思想、言論、出版、集会、結社、通信、人格、居住、引っ越し、宗教の信仰及びデモを行う自由権を有する(第五条)。

・中華人民共和国の国家政権は人民に帰属する。各クラスの人民代表は、人民による普通選挙により選出される。国家最高政権機関は全国人民代表大会である。全国人民代表大会の閉会期間においては、中央人民政府が国家政権の最高機関となる(第十二条)。

・中国人民政治協商会議は、人民民主統一戦線の形式を取り、その構成員は、労働者階級、農民階級、革命的軍人、知識階級、小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級、少数民族、国外華僑及びその他の愛国的民主組織の代表から成る(第十三条)。

・土地改革を実行した地区においては、農民の土地所有権は保護されなければならない。土地改革が未実施の地区においては、土地の不法な支配を排除し、土地の分配を進め、耕作者が土地を所有するという原則を実現しなければならない(第二十七条)。

・国営経済は社会主義の性質を持つ経済である(第二十八条)。

・合作社(農業協同組合)経済は半社会主義の性質を持つ経済であり、人民経済の重要な構成部分である(第二十九条)

・国の計画と民生のための私営経済事業については、人民政府はその経営を積極性を持って援助し発展させなければならない(第三十条)

・国家資本と私的資本とが協力した経済は国家資本主義の性質を持つ経済であり、必要かつ可能な条件の下で、私的資本を国家資本主義の方向に発展させることを奨励しなければならない(第三十一条)

・私的経営企業においては、労働者・資本家の双方を利するとの原則の下、労働者を代表する労働組合と資本家が共同で契約を締結しなければならない(第三十二条)

 上記の「共同綱領」では、中華人民共和国成立当初においては「労働者階級が指導し、労農連盟を基礎とし」という前提に立ってはいるものの、中国共産党だけが特別な地位を占めていることは明示されていなかった。人民の権利として、居住地選択の自由やデモの自由も保障され、人民代表は普通選挙によって選ばれることが規定されていた。人民代表が選ばれるまでの間権限を行使する政治協商会議には、小ブルジョア階級や民族ブルジョア階級も参加していた。経済的には、私的資本の経済への参加や私営企業の経営参加が「労働組合と資本家との契約に基づく」という前提の上で認められていた。また、「寄生地主」から土地を没収する「土地改革」は行うことが規定されていたが、地主から没収された土地の所有権は耕作者に与えられる、つまり農民の農地の所有権を認めることが明記されていた。これらは「私営企業は認めない」「農地は全て公有である」とする社会主義の原則とは全く異なるものであった。

 これら多くの階層(小ブルジョア、民族ブルジョアも含む)からなる政権運営方法は、当時「新民主主義」と呼ばれていた。

 中華人民共和国成立の時点で、毛沢東がこの「共同綱領」で定められている各項目を忠実に実現しようと考えていたのか、それともこの「共同綱領」は中国共産党が政権を確実に獲得するまでの間の国内各党派の支持を集めるための一時的な「方便」に過ぎないと考えていたのかは不明である。しかし、下記に述べるように、中華人民共和国は、数年たたないうちにこの「共同綱領」で定められた事項から大きく掛け離れた社会主義化への道(私営企業は認めない。農地は公有とする)へと歩み出し、政治的には「中国共産党が全てを指導する」という一党独裁体制の道へ進むことになるのである。

 1950年6月、土地改革法が公布され、国家の政策として土地政策が推進されることになった。しかし、国共内戦が終結した直後の中国国内は、まだ社会が安定していなかったことから、中国共産党中央でも、改革は穏健に進めるべきであり、急激な社会主義化は好ましくない、と考えられていた。毛沢東自身、1950年6月の中国共産党第7期中央委員会第3回全体会議において「ある人は資本主義を早く消滅させて社会主義を実行できると考えているが、それは誤りである」と語り、直後に開かれた中国人民政治協商会議全国委員会第二回会議では「将来、私営工業の国有化と農業の社会化が実行されるとき、最もそうした時期はかなり遠い将来のことではあるが」と語っていた(参考資料8:「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」)。

 しかし、毛沢東は、それほど時間が経たないうちにこの方針を修正する。1952年9月24日の中国共産党中央書記処会議で毛沢東は「社会主義への移行、即ち『過渡期』の問題」を提唱し、社会主義化を進めることを提唱した。国内建設が始まったばかりのこの時期に毛沢東が社会主義化を進める方向に舵を切ったことは、周恩来のように中国共産党中央の有力者の中からですら驚きを持って受け止められた。周恩来は毛沢東が「社会主義への『過渡期』の問題」を提起した直後の1952年10月段階でも「毛主席の方針は穏歩前進である。新民主主義の発展は10年、20年を要するかもしれない」と指摘していた(参考資料8)及び下記「参考URL」)。

(参考URL)「人民日報ホームページ」-「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」-「周恩来記念館」-「著作選登」-「周恩来統一戦線文選」
「民族ブルジョア階級と団結し、国民経済を発展させる」(1952年10月25日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/75843/75874/75992/5181278.html

 周恩来ですら毛沢東の「社会主義化」への方針転換にとまどっていたのであるから、「新民主主義」の路線に従って国内建設に協力しようとしていた中国共産党以外の勢力の人々にとっては、その驚きはなおさらであった。

(注)毛沢東と周恩来は生涯の盟友であるが、ひたすら自らが信じる共産主義の理想を実現しようとする理想家・毛沢東に対し、常に現実に立脚し現実の政策課題を実現可能な方法で実施することを考えていたのが実務政治家・周恩来である。毛沢東は常に周恩来を信頼し、周恩来も毛沢東の方針に徹底的に反対することはなかったため、この二人は死去するまでお互いに信頼する盟友として中国共産党の指導部に居続けられたが、この二人の路線の違いがこの後の中華人民共和国の政策の歴史の2本の軸を構成することになる。

 この時の毛沢東の方針の変化の理由について「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の著者・天児慧氏の概ね次のような指摘をしている。

(1) 貧農階層の主体的な改革参加により、土地改革が当初の想定より速いスピードで進展したこと。

(2) 朝鮮戦争の勃発を受けて、アメリカや蒋介石の支援によって中国国内に残っているブルジョア階級が中国共産党を排除しようとする「反攻」に出る恐れが生じ、「新民主主義」という形でブルジョア階級を体制内の一部として位置付けていることはむしろ国家を不安定にする恐れがあると毛沢東が考えたこと。

(3) 毛沢東は「国民経済の建設者」というより「軍事的戦略家」であり、常に「敵」を想定し、「敵と戦う」ことを通じて自らの地位を高めて前進するタイプの政治家だった。このため、朝鮮戦争の勃発により「国際戦略上はアメリカを、国内政治上はブルジョア階級を『敵』とみなすことにより、自らの権力を強化しよう」という「軍事戦略家・毛沢東」の「作戦感覚」が発揮される状況が生じたこと。

(注)毛沢東の「『敵と戦う』ことを通じて自らの地位を高めて前進する」という戦略は、後に(文化大革命期に)毛沢東に「無理にでも『敵』を作り上げる」方法を選択させることになる。

以上

次回「3-1-6:土地改革から本格的な社会主義化へ」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-7e87.html
へ続く。

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2010年2月12日 (金)

3-1-4:人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第4節:人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)

 中国人民義勇軍による朝鮮戦争への介入とほぼ時期を同じくして、1950年11月、中国人民解放軍は、唯一支配下に入っていなかったチベットに軍を進めた。

 チベットは清朝時代は、チベット仏教の僧侶による支配体制が敷かれ、清王朝は駐蔵大臣(チベットは中国語では「西蔵」と書かれる)を派遣していた。この体制は、チベットが清という国の一部だったと見ることもできるし、チベットは、朝鮮、ベトナム、琉球と同じように清を宗主国とするひとつの独立した国だった、と見ることもできる。清、中華民国、中華人民共和国という中国の歴代政府はいずれも「チベットは一貫して中国の一部である」との認識に立っているが、チベットに住んでいた人たちの全てがそれと同じ認識であったかどうかはわからない。

 チベット族は、現在の中国のチベット自治区だけでなく、青海省、四川省の一部、甘粛省の一部などにまたがる広大な地域に住んでいる人々である。そもそもチベット族にもいろいろなグループがあり、「チベット」をどの範囲の地域として捉えるかは、簡単ではない。一般には、漢族が足を踏み入れにくかった中国の西南部の山岳地帯を「チベット」の範囲と考えることもできる。

 グーグル・マップで四川省成都を中心にして「航空写真」に切り替えると、成都を含む広大な平坦地である四川盆地の西側に急峻な山岳地帯があることがわかる。この平坦な四川盆地とその西側にある急峻な山岳地帯との境は、行政区域でいうところの四川省成都市と四川省アバ・チベット族チャン族自治州の境界線にほぼ一致する。即ち、平坦な盆地の平原地帯には漢族が中心となって住み、山岳地帯には漢族以外の少数民族が住む、という形での「棲み分け」が長い中国の歴史の中で形作られてきたのである。チベット高原の最東端で、さらに東側にある四川盆地と山岳地帯の境界線付近には、2008年5月12日にマグニチュード8の巨大地震を発生させ、甚大な被害をもたらした龍門山断層帯がある。

 もともと現代的な意味での「独立国」とは何か、という概念は、19世紀まではあまり明確な概念ではなかった。明治維新前の琉球国が清と日本の両方を宗主国と考えていたという事実は、当時の「国家」という概念が今とは異なっていたことを表している。

 琉球国については、1871年(明治5年)に日本が領有権を主張し清と争ったが、日本軍による台湾出兵などを通して、1879年、結局、日本領となった。朝鮮については日本が、ベトナムについてはフランスが、中国による宗主権を否定して植民地化し、その後結局は独立して独立国となった。しかし、チベットの地位は不安定だった。1907年、イギリスとロシアが日露戦争後のペルシャ、アフガニスタン、チベットにおける利害関係を調整するために締結した英露協商において、イギリス、ロシア両国は清のチベットへの宗主権を認める(これはイギリスもロシアもともにチベットに対する権利は主張しない、という意味)ことを取り決めた。しかし、これは当時の清朝政府やチベット支配層が預かり知らぬところで英露両国が勝手に決めたことであった。20世紀初頭においては、国際的には、チベットを中国とは独立したひとつの独立国と認める国はなかった。

 この後、1911年に始まった辛亥革命により清朝が倒れて成立した中華民国もチベットは中国の一部と考えていた。辛亥革命の理念のひとつである「五族共和」の「五族」とは、漢族、モンゴル族、満族、チベット族、回族のことであり、このスローガンからも中華民国はチベットを自国の一部であると認識していたことがわかる。モンゴルもある意味ではチベットと同様な位置にいた。しかし、いわゆる「外モンゴル地域」は、辛亥革命で清朝が倒されると独立運動が起こり、ソ連の後押しもあり、モンゴルは1924年に中国から独立した。

 辛亥革命当時、チベット支配層は、中国とは独立した存在である、と主張していたため、イギリスが仲介に入って、1914年、インドのシムラで中華民国、チベット支配層、イギリスが条約締結の交渉を行った。条約の内容は、チベットの自治権を認める、中華民国のチベットに対する宗主権を認める、というものだったが、結局、1914年7月、中華民国側は署名を拒否し、イギリスとチベット支配層のみが署名した(シムラ条約)。このシムラ条約によりチベットは(少なくともイギリスには認められた)独立した国家として成立した、という立場を取る人もいる。一方で、シムラ条約の締結はイギリスによる中国の半植民地化政策のひとつであり、「チベット政府」とはシムラ条約によってチベット支配層がイギリスの傀儡(かいらい)政権となったものであって、中国と独立したチベット政府がこのシムラ条約をもって成立したと考えるのは誤りである、と主張する人もいる。チベットの独立を主張する人は前者の考え方に立ち、歴代の中国政府は後者の考え方に立っている。

(注)国際社会においては、歴史的には(シムラ条約を締結したイギリスを除いては)チベットを独立国家として承認していた国はなく、世界各国の政府はチベットに対する上記の歴代中国政府の考え方を認めている、と考えてよい。また、現在、ダライ・ラマ14世はチベットの独立を主張していない。従って、ダライ・ラマ14世をヘッドとするグループを「チベット亡命政府」と呼ぶ言い方は、正しい呼称ではない。「亡命政府」とは、ある独立国の政権が外国に亡命した場合に使われる呼称だからである。

 この後、中華民国側は諸外国の干渉等により混乱し、チベットに対する実効的な支配権を確立するには至らなかった。一方、列強各国(日本も含む)も、急峻な山岳地帯が続き、人口も少ないチベット地区に対して支配権を確立しようという積極的な動きを見せなかった。このようにして、チベットでは、1949年の中華人民共和国成立まで、清の時代のチベット仏教の僧侶を中心とする支配層による政治支配という旧来からの体制が続いていたのである。

 1950年11月に人民解放軍がチベットへ進出した時、チベット支配層も軍隊を持っていたが、人民解放軍の相手となる力はなく、チベット支配層は人民解放軍の進駐を受けて1951年5月「チベット平和解放に関する協定」(17条協定)に調印した。中国政府側の立場から見れば、この協定により前近代的な宗教者による政治支配から人民が解放された、ということになるし、チベットを独立国として認めるべきだという立場の人から見れば、この協定により中国政府によるチベット支配が始まった、ということになる。

 1950年代半ば以降、中華人民共和国全体における社会主義化の動きがチベットにも及んでいくが、「チベットの社会主義化」は、「チベット仏教による政治支配」を排除することを意味し、伝統的なチベットの社会構造を抜本的に変革することを意味する。そのため、この後、様々な抵抗運動が続くことになる。1959年には中国政府に対する大規模な反乱が起きた。背景には、後に述べるような1958年から中国全土で繰り広げられ始めた「大躍進」運動と人民公社化の動きがあった。理想主義的な共産主義社会を目指そうとするこれらの動きは、依然としてチベット仏教を生活の大きな支えとしているチベットの人々の反発を招いたのである。1959年の大規模な反乱が起きたのが3月10日であった。この反乱を人民解放軍は武力で鎮圧するが、その過程でチベット支配層のトップのダライ・ラマ14世はインドに亡命した。それ以来、3月10日をひとつの「記念日」として、チベットにおいてはたびたび争乱が起きている。北京オリンピックを前にして2008年3月10日をきっかけにして起きた民衆暴動は記憶に新しいところである。

 中国の他の地域と比較すると、チベット地区については以下のような特徴がある。

○清の時代、中華民国の時代を通じて、中国の中央政府がチベットを直接的に実効支配していた時期がなかったこと。

○チベット仏教による政治支配という他の地域にはない独自の政治システムは、理念的に宗教の政治的役割を否定する共産主義的思想と相容れなかったこと。

○(新疆ウィグル自治区など他の少数民族地域と同様であるが)経済発展が住民の圧倒的多数を占めるチベット族ではなく少数の漢族主導で行われたこと。

 これらが、現在に至るまで、チベットの人々の中にある中国政府による支配に対する反発の背景にあるものと思われる。

 そのほか、中華民国の時代において、日本を含む列強各国がチベット地区を実効支配することがなく、国民党政権もチベットを掌握できていなかったことが現在のチベットの人々の中国政府に対する反感の背景にある、と考えてよい。というのは、日本をはじめとする列強各国の影響が強かった中国の大部分の地域では、中国共産党には、外国勢力を排除し、国民党との間の内戦も終わらせて最終的な平和をもたらした「解放勢力」としての位置付けが大なり小なりあったが、チベットには、そもそも「解放」を必要とする外国勢力もなかったし、国民党などによる抑圧もなかったのである。従って、人民解放軍のチベットの進出については、チベット側の観点から見ると、それは「解放」ではなく「侵略」である、という見方が成立しうる。

 チベットの人々の中には、前近代的なチベット仏教指導者による政治支配を終わらせた、という意味で、中国政府による支配の開始は歴史を前進させた、と前向きに評価する人々もいる。実際、チベットの人々の中には、中国政府による支配に協力する立場の人々も少なくない。ただ、人民解放軍による「解放」やその後の「騒乱の平定」の過程で、数多くの死者・負傷者が出たことは事実であり、それが現在のチベットの人々に中国政府に対する屈折した感情を抱かせているものと思われる。

 多民族国家において、各民族の融和はどこの国においても重要かつ非常に難しい問題である。中華人民共和国政府は、圧倒的多数を占める漢族に対して、少数民族を優遇する政策を採ってきた。それが中国共産党が少数民族の人々からの支持を受けるための重要なポイントだからである。例えば、中国政府は、具体的には後に採られることになる「一人っ子政策」を少数民族には適用しない、とか「大学への入学者数のうち一定の割合を少数民族枠として設ける」といった少数民族優遇政策を採っている。そのため、チベットと新疆ウィグル族自治区以外の場所においては、中国政府に対する少数民族による反発というのは、あまり表立っていない。中国政府は、世界の多民族国家の中では中国は少数民族対策に最も力を入れて努力している国のひとつだ、と主張しているが、その主張は必ずしも誤りではない(例えば、中国国内線の航空機の中では豚肉を使った食事は出ない。中華料理において豚肉は最も重要な食材であることを考えれば奇異なことであるが、これもイスラム系の乗客に対する配慮に基づくものである)。

 人民解放軍のチベット進出による北京政府によるチベットの実効支配が確立した後、中国政府は、1965年に「チベット自治区」を成立させるなどチベットの経済開発を進めていくが、経済発展に伴いチベットに移住する漢族は増加し、チベット経済における漢族の比重が増していった。また、特に1966年~1976年に起きた「文化大革命」の期間においては、理想主義的な共産主義化を進める観点から、宗教的行事が禁止されたり、宗教的文化物が破壊されたりした。このことが、宗教心に厚いチベットの人々に中国政府による支配に対する反発を強めることになった。このため、その後も、チベットの人々による騒乱がたびたび起こるようになる。

 上記に述べたように、国際的に見れば、歴史上、チベット支配層をひとつの国の政府として認めていたのは、シムラ条約に調印したイギリスのみであった。そのイギリス自身、1950年11月に人民解放軍がチベットに進出した当時は既に中華人民共和国と外交関係を樹立しており、人民解放軍のチベットへの進出に対して何らの行動も起こさなかった。アメリカ等その他の国々も、人民解放軍のチベットへの進出は中国の国内問題だ、としてこれを問題視するところはなかった。従って、国際問題としてのチベットの独立の問題は既に解決済みであると考えるのが妥当であると思われる(しかも、かつてのチベット支配層のトップで、後に中国国外へ脱出したダライ・ラマ14世自身「チベットの独立を求めているわけではない」との立場を取っている)。

 一方、現在の中国政府がチベットに居住する人たちの宗教活動、独立を指向する人たちに対する取り締まり等の面において、人権上、問題となる扱いをしているのではないか、という批判が国際的に存在するのは事実である。チベット問題を考えるに当たっては、チベットを独立した国家として認めることが妥当であるのかどうか、という国家の独立という観点からの問題と、チベット地域に住む人々に対する中国政府の扱いが人権上問題があるのかどうか、という人権問題とは分けて捉える必要があると考える。2008年の北京オリンピックを機会にして議論が活発になったチベット問題に関する議論では、この国家としての独立の問題と人々の人権問題とを混同した議論が散見されたが、この二つの問題は混同すべきではないと考える(人権問題は、チベットだけにかかわらず現在の中国全体に関係する問題なので、本来は、チベットだけを取り出して議論すべき問題ではない、と私は考えている)。

 1950年という年は、中国にとっては、国民党軍を台湾に追い出して国内の経済建設を始めるために重要な時期であったのだが、朝鮮戦争への義勇軍の派遣、チベットへの人民解放軍の派遣など、軍事的な動きが続き、落ち着いて国内経済・社会の基盤を固め始めようという状況にはならなかったのである。

 そのような中、どのような形で国内体制を作り上げていくか、という模索が始まっていくことになる。

以上

次回「3-1-5:『中華人民政治協商会議共同綱領』と『過渡期の総路線』」
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へ続く。

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2010年2月11日 (木)

3-1-3:【コラム:イギリスとフランスの中国に対する立場】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国

【コラム:イギリスとフランスの中国に対する立場】

 1949年10月1日に毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した翌日、ソ連は中華人民共和国政府を承認したが、10月4日、逆にアメリカは中華人民共和国を承認しないことを宣言した。これは冷戦構造が確定していく中、アメリカは蒋介石を支援する、という立場を明確にしたことを意味している。

 中華人民共和国の成立が宣言されたことを受けて、西側諸国では、1950年1月6日、イギリスが早々と中華人民共和国政府を承認している(蒋介石の「中華民国」とは断交した)。これは、中華人民共和国政府がイギリスの植民地である香港の返還を要求せず、イギリスももはや香港以外の中国本土に権益を持つことを求めなかったからである。イギリスがアヘン戦争以来、最も早くから列強の先頭に立って中国を半植民地化していったのにも係わらず、現在の中国において必ずしも反イギリス感情がそれほど強くないことの原因として、この中華人民共和国成立直後のイギリスの態度が影響しているものと思われる。

 また、フランスは、日本の敗戦後、インドシナ半島の植民地支配を復活させようとしており、1945年9月にホーチミンが建国を宣言したヴェトナム民主共和国と戦っていた(第一次インドシナ戦争)。中国は、1950年1月、このヴェトナム民主共和国を承認していたことから、フランスは当初は中華人民共和国政府を認めていなかった。しかし、1954年、フランスは、第一次インドシナ戦争に敗れ、アジアから完全に手を引いた(フランスの後をアメリカが継いで、アメリカがベトナム戦争の泥沼にはまり込んでいくことになる)。その後、1964年2月10日、フランスは中華人民共和国と国交を樹立した(台湾にある蒋介石の「中華民国」とは断交した)。

 このように、ヨーロッパにおける冷戦構造はアメリカ・イギリス・フランス対ソ連という構図だったが、アジアにおいては明示的にアメリカ対ソ連の1対1の対立関係になったのである(日本はアメリカの方針に同調して、1972年(昭和47年)まで中華人民共和国政府を承認せず、台湾にある蒋介石政権を「中華民国」として認め続けた)。

以上

次回「3-1-4:人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)」
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へ続く。

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3-1-3:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国

  1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の上に立って中華人民共和国の成立を宣言したが、この時、重慶にはまだ蒋介石が残っており、共産党軍と国民党軍の内戦は続いていた。このため、トウ小平は、中華人民共和国の成立宣言の直後の10月5日、劉伯承らとともに、国民党軍との戦いに参加するため、南京へ向かった。

 この時期(中華人民共和国成立宣言の直後)、国共内戦は継続してていたのだが、全国の軍事的状況を見れば共産党軍の勝利は明らかだった。2008年8月1日付けの朝日新聞の記事によれば、最近アメリカで公開された蒋介石の日記を見ると、蒋介石は、この時点より1年ほど前の1948年11月には台湾へ撤退して再起を図ることを決意していたとのことである。やがて蒋介石は、共産党軍の圧迫に重慶を支えることもできなくなり、1949年11月には重慶から成都へ移転し、さらに12月には成都も脱出し、遂に台湾へ逃れた。

 蒋介石が「台湾へ逃れることもやむなし」と考えた背景には、一時的に台湾に逃れたとしても、時期が来れば再起が図れると考えていたからだと思われる。大陸での決定的な敗北にも係わらず、蒋介石が再起の望みをつないでいた背景には、アメリカのバックアップが得られるはずだ、との読みがあったと思われる。この頃、アメリカは、占領統治により日本を確保していたし、朝鮮半島では、1948年8月、朝鮮半島の南半分でアメリカの後押しによる李承晩を大統領とする大韓民国が成立していた。蒋介石は、韓国と同じように、米ソ対立の中で、自分もアメリカから一定の協力が得られると考えていたに違いない。

 朝鮮半島北部では、大韓民国の成立に対抗し、ソ連のバックアップの下、同年9月に金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立していた。

 この頃、ヨーロッパでは、東ヨーロッパを占領したソ連がその影響範囲内にある国々で共産党による政権を次々に樹立していったのに対し、アメリカは1947年に「マーシャル・プラン」を発表し、圧倒的な経済力で西ヨーロッパ諸国を支援する方策に出た。当時ドイツでは、西半分をアメリカ・イギリス・フランスが、東半分をソ連が占領していた上に、ソ連占領地域の中に孤島のように浮かぶ首都ベルリンをこの四カ国が分割占領していた。米英仏三国が西ベルリンの占領地域において独自の通貨改革を始めたことから、ソ連はこれに抗議して、1948年6月、西ベルリンに通じる陸上交通路を封鎖した。いわゆる「ベルリン封鎖」である。この「ベルリン封鎖」により西側各国とソ連との間の緊張は一気に高まった。「ベルリン封鎖」に対し、アメリカは大量の航空機を動員して西ベルリン市民の生活に必要な物資を空輸した。結局、陸上封鎖の効果がないことを悟ったソ連は、翌1949年5月には封鎖を解除した。

 こういった国際情勢は、中国の情勢にも影響を及ぼした。蒋介石は、世界各地における米ソ対立の中で、アメリカによるバックアップが得られる可能性に期待していたのである。中国共産党勢力は、軍事的なソ連のバックアップを受けて国共内戦に勝利したわけではないが、蒋介石の後ろに彼をバックアップする可能性があるアメリカがいることに対して警戒感を持たざるを得なかった。アメリカの脅威に対抗するためには、中国はソ連に後ろ盾になってもらう必要がある、と考えたのである。

 毛沢東は、革命エリートと都市労働者による蜂起に頼ろうとするソ連留学派と対立し、農民中心の中国型の社会主義革命を主張して中国共産党内部の主導権を獲得してきたのであるから、そもそもソ連による中国共産党に対するコントロールを好ましく思っていなかった。また、第二次世界大戦の最中に見せた独ソ不可侵条約と日ソ中立条約の締結、そして日ソ中立条約を無視しての対日参戦といったソ連の「大国」としての冷徹な戦略は、毛沢東にソ連に対する相当の警戒感を持せたことは疑いがない。しかしながら、戦略家である毛沢東は、自分が持つソ連に対する警戒感を考慮したとしても、当時の米ソ対立が激化する国際情勢と、生まれたばかりでまだしっかりした経済基盤ができていない中国の国内事情に鑑みれば、当時の中国にとってはソ連の後ろ盾が必要不可欠であると考えていたのである。

 毛沢東は、中華人民共和国成立直前の1949年6月30日、「人民民主主義独裁を論ず」と題する講話を行い、「向ソ一辺倒」という言葉で表現されるソ連と強力に連携していくべきとの方針を明確に打ち出した。

(参考URL)人民日報「中国共産党ニュース」-「党史人物記念館」-「毛沢東記念館」-「著作選」-「毛沢東選集第四巻」
「人民民主主義独裁を論ず~中国共産党28周年を記念して~」
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/70190/70197/70354/4768598.html

 冷戦時代、西側に位置していた日本では、中国共産党はソ連のコミンテルンの指導で結成され、その後もソ連の指導の下に革命を遂行し国共内戦を戦ってきたのであるから、中国共産党は最初から一貫して「向ソ一辺倒」だった、と考えがちであるが、今まで見てきたように、毛沢東自身は一貫して「向ソ一辺倒」だったのではなかった。むしろ、逆に、毛沢東は、一貫してソ連型革命モデルを中国に適用することに疑問を持ち、ソ連の大国主義的行動に対して大いなる警戒感を持っていたと考えた方がよい。毛沢東が中華人民共和国成立当時「向ソ一辺倒」という方針を打ち出したのは、米ソ冷戦構造が固まっていく中で、国際戦略上、ソ連と一心同体のように振る舞うことがこの時点では最も有利だ、と戦略家として冷静に判断したからに過ぎない。

 一方、ソ連は、対日参戦して中国東北地方に軍隊を進めた後、日本の敗戦の前日の1945年8月14日に蒋介石政権と「中ソ友好同盟条約」を締結するなど、当初は蒋介石政権を中国の正当な政府として認めていたが、戦後4年間における急速な米ソ対立の先鋭化と国共内戦での共産党側の勝利により、中国については中国共産党勢力を支持すべきとの立場を明確にしていく。毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した翌日の1949年10月2日、ソ連が中華人民共和国政府を中国の正当な政府として直ちに承認したことがそれを如実に表している。

 こうした中国側とソ連側の思惑を踏まえて、生まれて間もない中国の立場を安定させるため、1949年12月、まだ蒋介石が成都において抗戦しているにも係わらず、毛沢東はモスクワへ向けて出発した。

 しかし、毛沢東が持つソ連に対する警戒感がわざわいしたからか、毛沢東によるソ連と中国との協力関係樹立のための交渉は当初はスムーズには行かなかった。そもそもスターリンと毛沢東という個性と自尊心の強い二人の指導者は、個人的にはそりが合わなかったのではないか、と思われる。スターリンは、毛沢東のことを、優れた軍事戦略家・思想家だとは思っていたが、毛沢東はそれまで外国に出たことがなく外交経験がなかったことから、モスクワを訪問した毛沢東を軽くあしらっていたようである。この時、ソ連は旅順などの中国東北地方におけるソ連の一定の権益を留保することを約した「中ソ友好同盟条約」の内容を変更する必要はないと考えていたのに対し、毛沢東としてははかつての「列強各国」のようなソ連の要求はとても飲めるものではないと考えており、両者の主張の間のミゾは相当に深かったと思われる。

 交渉を打開するため、年が明けた1950年1月、毛沢東は北京から周恩来をモスクワへ呼び寄せて、ソ連との交渉に当たらせた。周恩来による交渉の結果、1950年2月14日、ソ連は蒋介石政権と締結した「中ソ友好同盟条約」を破棄し、新たに「中ソ友好同盟相互援助条約」が締結された。建国間もないこの時期に、毛沢東が2か月も北京を離れてモスクワに滞在せざるを得なかったことを見ても、この時の中ソ交渉がいかに難しいものだったかが窺える。

 条約の名称に「相互援助」が入ったことに象徴されるように、この条約は基本的には両国の平等の立場が謳われたものだった。この新しい中ソ条約のポイントは以下のとおりである。

・ソ連は中国に対し1950~54年に3億ドルの借款を供与する。

・旅順、大連、長春鉄道は1952年までに中国に返還する(ここで、スターリンは、ヤルタ協定でアメリカとイギリスに認めさせ、蒋介石政権との間で締結した「中ソ友好同盟条約」にも盛り込まれていた中国東北地方におけるソ連の権益を放棄する、という譲歩を示している)

・外モンゴル(現在のモンゴル人民共和国)に中国の主権が及ばないことを中国が承認する(中華民国は、従来、外モンゴルの独立を認めていなかったが、「中ソ友好同盟条約」では、事実上独立状態にあった外モンゴルの現状を蒋介石政権は認めていた。ソ連は中華人民共和国政府に対しても、外モンゴルは中国の一部ではないことを認めさせることに成功した)。

・現在の新疆ウィグル自治区にある鉱山・石油の採掘権をソ連に認める(これはいわば東北地方におけるソ連の権益を放棄することに対する「見返り」だったが、この部分は、後に中ソ対立の一つの要因となる)。

 上記のように新しい「中ソ友好同盟相互援助条約」は、蒋介石政権との間でわずか4年半前に締結された「中ソ友好同盟条約」とはだいぶ内容が異ななり、ソ連は、ロシア時代から継続して関心を持ち続け、かつて日本との対立の原因ともなった中国東北部における権益を放棄した。このソ連の譲歩は、一面では米ソ対立という国際情勢の変化の中で、ソ連が中国を味方に付けておきたい、と考えた結果であると言える。別の一面では、米ソ対立という世界情勢を利用してソ連に中国東北部に対する権益を放棄させ建国期の中国を援助させることに成功した、周恩来の外交政治家としての手腕が発揮された結果とも言うことができる(別の意味で言えば、そういう優れた交渉力を持つ周恩来を北京から呼び寄せて交渉に当たらせた毛沢東の指導者としての「人を使う能力」が発揮された結果だと言っても差し支えない)。

 中国が、蒋介石を台湾に追い落とし、ソ連との協力関係を樹立し、これから中国国内の経済建設に取りかかろうとした矢先の1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が韓国との国境であった北緯38度線を越えて南進したのである。この北朝鮮軍の南への越境は、北朝鮮の金日成が中ソ両国の同意を得て行ったもの、とするのが一般的であるが、「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」の著者の天児慧氏は、アメリカのジャーナリストH・E・ソールズベリーが「ニュー・エンペラー」(天児慧監訳:福武書店1993年)の中で「(北の)攻撃が毛にとって事前に特に警告もなく、晴天の霹靂(へきれき)であったという証拠には事欠かない」と述べていることを指摘して、朝鮮戦争が中国の予期せぬ時期に始まったことを示唆している。

 ソ連は1949年8月、初めての核実験に成功した。その直後の10月に中華人民共和国の建国宣言がなされて中国における共産党勢力の勝利が世界に向けて宣言されたことにより、この当時、ソ連をはじめとする東側諸国はかなり強気だったと考えられる。そういった東側の強気の雰囲気が北朝鮮に南への進出を後押しした可能性がある。しかし、そういった東側の「強気」の原因のひとつを作った中国自身は、この時点では国共内戦から立ち直り国内建設を始めることが先決であり、周辺で国際紛争が起こることは好まなかったに違いない。従って、例え北朝鮮が中国に韓国に対する開戦の同意を求めてきても、中国側はそれを積極的に後押しはしたくなかっただろうと思われる。

 北朝鮮の南への越境を受けて、アメリカは直ちに国連安全保障理事会の開催を求めた。6月27日、国連安全保障理事会が開かれたが、拒否権を持つソ連はこれに欠席し、アメリカ軍を主体とする国連軍の朝鮮戦争への介入が決まった(当時の国連安全保障理事会常任理事国としての中国は蒋介石の「中華民国」だった)。ソ連がこの時の国連安全保障理事会を欠席した理由についてはいろいろな説があるが、2008年6月26日付けのMSN産経ニュースは、ソ連には、むしろ朝鮮戦争におけるアメリカの参戦を誘導し、ヨーロッパにおけるアメリカの影響力を削ぐ意図があった、とする韓国人研究者の説を紹介している。

※MSN産経ニュース2008年6月26日21:24アップ記事「朝鮮戦争の謎『ソ連の安保理欠席』スターリンの証言判明」は既にネット上からは削除されている。

 当初、北朝鮮軍は勢いに乗って南進を続け、韓国軍とアメリカ軍を中心とする国連軍は朝鮮半島南部に追い詰められた。1950年9月15日、国連軍総司令官マッカーサーはインチョン(仁川)上陸作戦を敢行し、反撃に出た。猛烈な国連軍の反撃に押された金日成は10月1日、毛沢東に対して援助を要請した。中国はソ連に対し、協力して朝鮮半島で戦おうと呼び掛けたが、ソ連は動かなかった。スターリンの考え方が仮に上記に掲げたように朝鮮半島情勢よりもヨーロッパでのソ連の影響力を強めることの方を重視したものだったとすると、この時、ソ連が中国からの誘いに乗らなかったことも了解できる。毛沢東はソ連からの回答を待たずに朝鮮戦争への参戦を決定した。10月19日、彭徳懐を総司令官とする中国人民義勇軍は、中国と北朝鮮の国境にある鴨緑江を越えて、朝鮮半島に入って進撃した。

 中国から圧倒的な人数が投入された(1950年11月までに38万人が投入されたという)中国人民義勇軍に対し、国連軍総司令官マッカーサーはトルーマン大統領に対して中国への爆撃と原爆の使用を提言した。マッカーサーの提言は、「部下の将兵の損失を少なくできる手段があるのならばそれを使うべきだ」という純粋に軍事的効果だけから見た軍隊の司令官の考え方としては理解できるものであったが、米中全面戦争、ひいては米ソ両国が核兵器を持つに至ったという状況下における米ソ全面対決に発展しかねないマッカーサーの提案を、トルーマン大統領は受け入れることはできなかった。トルーマン大統領は、1951年4月、マッカーサーを解任した。その後、朝鮮半島での戦闘は双方とも決め手を欠き、1953年7月に停戦協定が成立するまで、戦闘は一進一退を続けた。

以上

次回「3-1-3:【コラム:イギリスとフランスの中国に対する立場】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-58c7.html
へ続く。

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2010年2月10日 (水)

3-1-2:中華人民共和国の成立

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第2節:中華人民共和国の成立

 1946年6月、本格的な国共内戦が始まった時、当時、兵力等の点で優勢だった国民党の蒋介石は、1年経たないうちに共産党軍を殲滅(せんめつ)できると考えていたようである。ところが、これに対して毛沢東は「敵進めば我退き、敵駐屯せば我擾乱(じょうらん)し、敵戦闘を避ければ我これを攻め、敵退けば我進む」という抗日戦争で培(つちか)った戦術を国民党軍に対しても実行した。

 毛沢東は、本格的内戦が始まった直後の1946年7月20日、「いくつかの地方や都市の放棄は避けられないばかりではなく、必要でもある」として、戦局が不利な地域においては「戦略的撤退」を恐れなかった。かつて日本軍に対して行ったのと同じように「敵を人民の海へ誘い込み、敵を消耗させた後、反撃に出て敵を殲滅させる」という作戦に出たのである。

 この毛沢東の作戦に絶対的に必要だったのは、中国共産党が大多数の人民から支持を得ることであった。そのためには、「抗日」という統一的な目標がなくなった今、中国共産党の本来の目的である貧しい小作農を地主から解放することを前面に押し出す必要が生じた。このため、共産党は抗日戦争期には国民党との対立を避けるために停止していた地主から土地を没収し貧農(小作農)に土地を与えるという「土地革命」を再び推し進め始めた。この内戦の過程で、抗日戦争中に日本を相手に戦っていた中国共産党の軍隊である八路軍と新四軍は「人民解放軍」として再編成されたが、毛沢東はこの人民解放軍に対して、井岡山を根拠地にして以来唱えてきた簡単な軍の規律である「三大規律と八項注意」(「第2章第3部第3節:中国共産党による『長征』と毛沢東による指導体制の確立【コラム:三大規律と八項注意】」参照)を改めて徹底するよう指示し、軍隊として人民からの積極的な支持を得るよう努めた。

 この頃、アメリカは、日本における占領政策と朝鮮半島情勢の安定化を重視しており、中国で内戦が拡大することを望まなかった。このため、アメリカは蒋介石に対しては、国民党以外の民主派政党も結集しながら、共産党とも連携して中国の統治機構を安定させることを望んでいた。しかし、蒋介石は(短期間で共産党勢力に勝てる、という自信があったためと思われるが)こういったアメリカの意向を無視し、非共産党系の民主政党である中国民主同盟の賛同も得られないまま、1946年11月、「国民大会」の開催を強行し、1947年1月1日をもって「中華民国憲法」を公布することを決定した。また、1947年4月には、南京において、国民党に加えて、青年党、民主党からなる「連立政権」を成立させ「国民政府は複数政党による政権である」と宣言した。

 この間、軍事的には国民党軍は共産党軍を圧迫し続けた。1947年3月には、共産党軍は、毛沢東よる「戦略的撤退」の考え方に基づいて、「革命の聖地」である延安からも撤退した。これは都市部を国民党軍に空け渡し、周辺の山岳部等へ国民党軍を誘い込んでゲリラ的戦法によって国民党軍を消耗させる作戦であった。この共産党軍の作戦に遭い、国民党軍は、この後、都市部は確保しているものの、各地に点在する国民党軍の拠点は次第に孤立化するようになっていった。

 アメリカは、後に朝鮮戦争において「国連軍」として韓国側を支援したような、さらには1960年代ベトナムにおいて南ベトナムに対して支援したような直接的な軍事支援は、蒋介石の国民党軍に対して行うことはしなかった。ひとつの理由は、この時期のアメリカにとっては、まず日本におけるアメリカの影響力を確固たるものにし、朝鮮半島において親米勢力による政権を確立することが重要だったからである。中国大陸は広大であり、いかにアメリカといえども、中国大陸全土で繰り広げられる内戦において、蒋介石軍に全面的な軍事的バックアップを与えることは不可能だと考えたことが積極的な軍事介入を見送った理由だったと思われる。その上、蒋介石は、アメリカの意向通りに動こうとはせず、アメリカの意図に反して自らの意志で内戦を拡大していったことから、アメリカには蒋介石に対する不信感があり、アメリカとしても軍事面で全面的に支援することを躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかったのである。

 しかし、一方で、限定的とはいいながら、蒋介石がアメリカの支援を受けていたことは事実であり、このことが「愛国的な」非共産党勢力の中に、蒋介石政権に対する不満を植え付けることになった。そもそも、その当時の中国の人々の目標のひとつが「外国勢力の排除」だったからである。アメリカの支援を仰ぐ蒋介石に対して、中国の人々の民族主義的な感情は必ずしも同情的ではなかった。中国の人々の素朴な愛国的感情は、この時点においては、共産党には有利に、国民党には不利に働いたのである(前節で述べたように、ソ連は蒋介石政権と「中ソ友好同盟条約」を締結しており、この時期においては中国共産党軍はソ連からの直接的な支援を受けられる立場になかった)。

 さらに国民党政権は、抗日戦争から内戦勃発に続く社会的混乱の中で発生した経済上の混乱を収拾することができなかった。終戦直後の日本がそうであったように、抗日戦争終結後の中国においても、急速なインフレが起き経済が混乱したが、アメリカからの経済的支援にもかかわらず、国民党政権は経済的混乱を抑えることができなかったのである。そのため、国民党政権が支配する都市部の中流層以下の人々は経済的困窮に苦しむことになり、それが国民党政権への反発へと繋がっていく。それに対して中国共産党が支配した地区、即ち「解放区」では、その多くが農村部や地方都市であったことから、貨幣経済が大きく発達した大都市と異なり、社会主義的な「統制経済」により比較的容易に経済をコントロールすることができた。このことが、地方都市において農民以外の人々からも共産党が支持を獲得していくひとつの要因となった。戦争直後の経済の混乱期においては、自由経済よりも社会主義的な統制経済の方が有効な経済政策が採りやすかったからである。

 国民党政権は、共産党に限らず、中国民主同盟など自らの主張に同調しない勢力に対してはこれを弾圧するという強権的政策を採った。国民党政権は、上に述べたように1947年1月1日には「中華民国憲法」を公布して、孫文が提唱したところの革命の第三段階である「憲政」に入ったことを宣言したのであるが、内戦の最中には「動員戡乱(かんらん)期臨時条項」を発動して、憲法執行の一部を停止し、総統に権限を集中させる措置を取った。この条項の発動は、蒋介石が台湾に逃れてからも存続した。この「動員戡乱期臨時条項」に基づいて発せられた戒厳令は、台湾に逃れた国民党政権に引き継がれ、蒋介石が1975に死去した12年後の1987年に解除されるまで継続した。さらに「動員戡乱期臨時条項」自体が解除されたのは1991年になってからのことである。蒋介石によるこういった強権的な政策は、一部の民主党派支持者の間に「反蒋介石」の機運を高めることになった。

 1947年5月20日には、北京・上海・蘇州・杭州で「反飢餓・反内戦」の大規模な学生デモが行われ、この動きが各地に広がった。国民党政権は、こういった学生等の動きを弾圧した。また、このころの台湾では、日本の敗戦の後、国民党政権の官僚が統治していたが、1947年2月28日、ヤミたばこ販売の取り締まりに端を発して国民党政権の官僚と台湾住民との間で衝突が発生した。国民党政権は大陸から軍隊を派遣して、これを徹底的に鎮圧し、2万人前後の死者が出たと言われている(2・28事件)。これらの動きについては、現在の大陸では、当時の経済的混乱の中での国民党政権の腐敗ぶりが多くの人々の反発を招き、人々の間で不満がうっ積していた証拠である、と捉えている。

 なお、2・28事件は、台湾では、現在でも台湾人と大陸から来た本省人の間の「わだかまり」のひとつであり、長らく国民党政権にとっては一種のタブーだった。中国国民党が2・28事件を歴史上の事実として認めて、率直に語り出すようになったのは1990年代になってからのことである。

 国民党政権の持つ強権的体質と腐敗体質、それに急激なインフレ等に対して有効な経済的政策が取れなかったという事実が、国民党軍の兵士の士気を急速に低下させていくことになる。中国共産党の人民解放軍は、地主による支配からの解放という貧農階層が持つ根本的欲求と、都市中小商工業者が持つ社会主義的統制経済による経済の安定への期待とを背景として、その士気は揚々たるものがあったが、国民党軍の兵士には、同じ中国人同士がなぜ戦わねばならないのかを納得させる明確な理由が提示されていなかった。こういった兵士一人一人が持つ「戦う意志」の差が、全体的な「戦局の流れ」として現れ、1947年の夏頃を境にして、中国共産党の反攻は急速に勢いを増していくことになる。

 こうした中、1947年7月、劉伯承・トウ小平が指揮する人民解放軍が武漢の北にある大別山区に根拠地を打ち立てたことを皮切りに、中国共産党は華中のど真ん中の地域に「中原解放区」を確保することに成功する。大陸の心臓部に「解放区」を作られた国民党軍は徐々に苦戦を強いられるようになっていく。

 このような状況の下、1948年1月1日、中国国民党内部の反蒋介石グループが香港において「中国国民党革命委員会」を発足させた。その名誉主席には、孫文の遺志を継いで革命運動を進めているとして中国の人々から尊敬を集めていた孫文夫人の宋慶齢が就任した(なお、蒋介石夫人の宋美齢は宋慶齢の実妹である)。

 「反蒋介石」の雰囲気の高まりの中、人民解放軍は各地で反撃に出、1948年4月には「革命の聖地」延安を国民党軍から奪還することに成功した。1948年9月から11月にかけての「遼瀋戦役」において人民解放軍は東北地方の長春、瀋陽、営口等から国民党勢力を駆逐した(現在、中国では国民党勢力の追放を「解放」と称している)。また1948年11月~1949年1月の「淮海戦役」において山東省、江蘇省一帯へ進出した。さらに1948年12月から行われた「平津戦役」では、1949年1月に北平(今の北京)と天津を解放した。これらの戦役を通じて、国民党軍は次々に敗れ、共産党軍と国民党軍との兵力は完全に逆転していった。

 1949年1月31日に北平(今の北京)に人民解放軍が入城した時の様子については、日本の敗戦の後も中国に在留していた技師・山本市朗氏が岩波新書の「北京三十五年」(参考資料12)の中で活き活きと描いている。一般庶民の目線から見れば、「とにかく内戦が終わる。平和な時代になる。」という思いが、何よりも嬉しいものだったに違いない。

(参考URL)「人民中国」2007年1月号
北京東眺西望「一九四九年一月三十一日」(北京放送元編集長・李順然)
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200701/22li.htm

 人民解放軍の支配下に入った地域では、次々に「人民政府」が樹立されていった。既に上記戦役のさなかの1948年12月には中国人民銀行が創立されて、人民銀行券が発行されるようになった。このようにして、中国共産党による政権の基盤が確立されていく中、1949年3月には、中国共産党第7期中央委員会第2回総会(第7期二中全会)が開催され、党の活動の中心を農村から都市へ移すことが議論された。

 農村部で大多数の人民の支持を受けていた中国共産党にとっては、都市部でいかにして住民の支持を得るか、が課題だった。都市部の住民のうち労働者等のいわゆるプロレタリアートは共産党を支持していたが、知識階層や中小商工事業者らは、強圧的・独裁的な国民党は支持しないものの、共産党には同調せず民主的な政権を願っていた。彼らは、中国共産党の都市への進出により自分たちの地位が脅かされるのではないか、との不安を抱いていた。

 このため、毛沢東は、この第7期二中全会において「新しい政治協商会議を開いて、多くの民主党派の力を結集し、民主連合政府を樹立すること」を呼びかけた(「新しい政治協商会議」とは「1946年1月に開催された国民党と共産党とその他の党派を交えた政治協商会議とは異なる政治協商会議」という意味)。この呼びかけは、中国共産党を通じた労働者階級の指導する労農同盟を基礎としつつも、経済建設に必要な私有財産制に基づく資本主義も排除せず、幅広い勢力が協力して「内戦の終結」「外国勢力による支配の排除」「経済の回復による民生の向上」という多くの人々の願望を実現しようとするものであった。

 こうした考え方に基づき、1949年9月21日、中国共産党のほか、様々な民主政党、無党派知識人、各種団体、各民族の代表、在外華僑の代表が集まって中国人民政治協商会議第1回全体会議が開催された(1946年1月の「政治協商会議」とは異なり「人民」の文字が入っていることに注意)。この会議では「中国人民政治協商会議共同綱領」が取りまとめられた。この「共同綱領」では、普通選挙によって選ばれた人民代表による全国人民代表大会(全人大)が開催されるまで、この中国人民政治協商会議の全体会議が全人大の職権を代行することが定められた。また、この「共同綱領」において、労働者階級の指導による労農連盟を基礎として、各民主階級と国内各民族の団結の下での人民民主主義による政治により中華人民共和国を設立することが決定された。この決定に基づき、1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の上に立って「中華人民共和国が今日成立した」と宣言した。

 つまり、1949年10月1日に成立した中華人民共和国は、「労働者・農民階級が指導する」ことにはなっていたが、経済面では私有財産制に基づく資本主義も認めているほか、政権自体は非共産党系の知識人も含めた連合体であり、まだ「社会主義国」ではなかったのである。「労働者階級による指導」を具体的にどのような政策で実現し、その中で私有財産制に基づく資本主義をどのように扱っていくのかについては、中華人民共和国成立後の課題として残されたのである。

 建国後の政治体制をどう固めていくか、については、10年~20年のオーダーで漸進的に議論していくもの、と中華人民共和国成立当時の多くの人は考えていたと思われるが、建国直後に起こった朝鮮戦争の勃発に見られるような米ソ冷戦構造の過激化という国際情勢の中で、中国にとって、そういった「ゆっくりとした建国過程」は許されない状況になっていった。

 なお、現在でも、年に1回開催される全国人民代表大会(全人大)の全体会議と並行して中国人民政治協商会議が開催されているが、これは上記の中華人民共和国成立の過程でできた中国人民政治協商会議が現在でも継続して開催されているものである。1954年9月に全国人民代表が選出され全人大全体会議が開催されて以降は、政策決定権限は完全に全人大に移管されたので、現在の中国人民政治協商会議は、各民主党派が政策について「意見を言う」ことができる場ではあるが、何の政策決定権限も持っていない。

以上

次回「3-1-3:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国」
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へ続く。

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2010年2月 9日 (火)

3-1-1:国共内戦

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第1部:中華人民共和国の建国期

--第1節:国共内戦

 日本の敗戦により、中国国内では国民党と共産党との争いが表面化する。今の目で見ると、中国における国共内戦は、資本主義社会を守ろうとする国民党と社会主義社会を建設したいと考える共産党との争い、と見ることができる。しかし、それは米ソ両大国が対立した冷戦構造を経た現在から見たいささか単純化した見方である。単なる資本主義と社会主義の対立、といった視点だけから見ると、なぜ多くの中国人民が結果的に中国共産党支持に傾いていったかを理解することはできない。

 そもそも国共内戦に勝利した中国共産党は1949年に中華人民共和国を成立させ、現在に至っているのであるが、中華人民共和国の成立により「社会主義体制が確立した」と考えてよいのかどうか自体、なお議論を要するところである。ソ連は1917年のロシア革命から1991年のソ連の崩壊まで、一貫して70年以上に渡り社会主義体制を堅持してきた、と言ってよい。しかし、中国の場合、1978年に始まり現在まで続いている改革開放路線は、原則的な社会主義とはかなり異なっている。中華人民共和国は、2008年で改革開放30周年を迎え2009年には建国60周年を迎えたが、これは中華人民共和国の歴史の中では、改革開放路線になってから後の期間の方がそれ以前よりも既に長くなったことを意味している。

 中華人民共和国建国直後の1950年代前半は、非共産党系の勢力とも協力しながら経済建設が進められた。1950年代後半から急激な社会主義化が進められるが、これから述べていくように、その過程で「大躍進政策」による経済的荒廃があり、それを修正した1960年代前半の「経済調整の時代」へと続き、さらにその経済調整路線に対して毛沢東が大反撃に出た「文化大革命」が1966年~1976年まで続き、1978年以降は市場経済原理も取り入れた現在の改革開放路線に転換したこと、などを考えると、ソ連とは異なり、中華人民共和国の歴史においては「典型的な社会主義体制」が安定して存在していた時期はない。1992年頃以降、経済成長のレールに乗った現在の中国は、比較的安定した体制が維持されている、と言えるが、現在の改革開放政策下にある中国のあり様が国共内戦時に多くの人が求めていた社会主義体制と同じであるかどうかは、はなはだ疑問である。従って、「国共内戦の結果、中華人民共和国が成立した」という記述は正しいが、「国共内戦の結果、中国において社会主義体制が確立した」という記述は事実としては正しくない。

 それでは「国共内戦」とは何だったのか。

 1945年8月15日、日本の敗戦が決まった時、中国の人民が願ったことは「戦争状態の終了=平和の確立」「外国支配からの脱却」「民生の安定・向上」の3つであることは明らかだった。中国の人民にとって、この3つを保証してくれるのであれば、政治を担うのが国民党でも共産党でもどちらでもよかったのである。別の言い方をすれば、国民党と共産党のどちらが、この3つを確実にもたらしてくれるか、が中国人民がどちらを支持するかの判断基準であった。「国共内戦」とは、中国人民の多数が、中国国民党より中国共産党の方が上記の3つを保証してくれそうだ、との期待に基づく選択をする過程だったのである。

 上記の3つの当時の中国人民の願いは、孫文が掲げた三民主義(民主主義・民族主義・民生主義)に重なっている。孫文は、最終的には議会制民主主義を目指していたが、歴史的に長い期間にわたり東洋的皇帝支配になじんできた中国社会に西欧型の議会制民主主義が定着するには相当の時間が掛かる、と考えていた。そのため、孫文は、中国革命は「軍政」「訓政」「憲政」の3段階を経る、と提唱していた。最初の段階では、中国をひとつにまとめて外国勢力を追い出すために軍事力を背景とした強力な中央政府を作り(軍政)、続いて軍事力から脱却して優れた文官政治指導者がリーダーシップを発揮して国の基盤を作り(訓政)、最後に憲法に基づき国民の選挙により政治担当者を選ぶ議会制民主主義政権(憲政)に移行すべき、と考えたのである。孫文が辛亥革命の当初の1912年に軍閥政治家・袁世凱に臨時大総統の職を譲ることを決意したのも、革命当初は「軍政」によって外国勢力と対抗することが重要と考えたからであった。

 孫文の跡を継いだ蒋介石もこの考え方を踏襲していた。外国勢力を駆逐しようとしている時期においては、「軍政」により政治を運営し、それが終わった後はしばらく優れた指導者が政治をリードする「訓政」の時期を設けて国内の安定化を図り、しかる後に議会制民主主義による「憲政」を確立すべき、と考えたのである。蒋介石は1928年の「北伐」の終了時に、既に「軍政」から「訓政」への移行を宣言していた。この宣言は、別の見方をすれば、しばらくは選挙を行うことはせず、国民党が国全体の指導主体として政策運営に当たり、国内政治の安定化を図ること宣言したことに等しい。この考え方に基づいて、蒋介石は、安定した政治運営に対する対抗勢力となりうる中国共産党の動きを警戒し、日本に対して中国全体が一致して戦わなければならない時期にあっても、中国共産党の勢力をいかにしてつぶしていくかに腐心していたのである。

 こうした蒋介石の考え方は「西安事件」(1936年12月)によって成立した第二次国共合作後においても全く変わることがなかった。共産党系の軍隊である新四軍を国民党軍が攻撃した1941年1月の「新四軍事件」(「第2章第3部第5節:日本の敗戦(2/2)」参照)はその典型例である。こうした状況から、多くの人々は、もし抗日戦争に勝利して日本が中国から撤退したら、今度は国民党と共産党による内戦が勃発するのではないか、と憂慮していた。

 非共産党勢力の中にも蒋介石政権の中にある国民党独裁の傾向に危機感を抱き、第二次国共合作による統一抗日戦線を継続させ、戦争終了後も国民党と共産党とその他の党派が連合協力して国家建設に当たるべきと考える知識人が多くいた。こうした知識人たちは、「新四軍事件」直後の1941年3月、中国民主政団連盟を成立させていた。

 1944年6月、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において連合国側がノルマンディ上陸作戦を敢行し、その後ドイツの敗色が濃厚になり、太平洋戦線においても日本が連合国側に押されて撤退を繰り返す状況を見て、日本の敗戦の可能性が見え始めると、日本との戦いが終わったら中国国内での国共の対立はどうしても避けるべきとの機運が高まった。蒋介石政権の足下である重慶にもそういった考えの知識人は多くいた。1944年7月、重慶の有力知識人が国民政府を改組して連合政府を設立すべきとの声明を発表した。それと時を同じくして、中国民主政団連盟は、新しい綱領を採択して中国民主同盟と改称した。この頃、アメリカも中国国内での対立を回避させ一致して日本に当たるようにさせるため、特使ハーレーを重慶と延安に派遣して、国民党と共産党との協力体制の確立を模索していた。

 ドイツが降伏した1945年5月、中国国民党は第6回全国大会を開催し、孫文が唱えた三段階のうち「憲政」に入ることを宣言した。これは国民党が主導する国民大会によって政権を運営する、というものであった。この宣言は、中国国内に「連合政府構想」が生まれつつある状況を踏まえ、戦争終結をにらみ、終戦後の政権の主導権を握ろうという蒋介石の意思表示であった。同じ時期に開かれた中国共産党第7回党大会において、中国共産党側は、国民党側の考え方を拒否する考えを示した。

 中国共産党勢力は、アメリカもその存在を意識していたように、政治勢力としては無視できないものになっていたが、国際政治の舞台においては、あくまでも蒋介石の国民政府が中国を代表する政府であった。1943年11月、エジプトのカイロにおいて、アメリカ、イギリス、中国の首脳が集まって対日戦遂行の基本方針が話し合われた。この会議に出席したのは、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相であり、中国からは蒋介石が出席した。この会議後に発せられたカイロ宣言では、「満州」(中国東北部)、台湾島の中華民国への返還、朝鮮の独立等が盛り込まれ、カイロ宣言の骨子は後のポツダム宣言に引き継がれた。

 アメリカは1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆を投下した。一方、8月8日にはソ連が日本に対して宣戦を布告して8月9日「満州国」等の日本占領地域への侵攻を開始した。これにより日本の敗戦は決定的となったが、ソ連は、日本によるポツダム宣言受諾発表前日の8月14日、モスクワにおいて、日本敗戦後の中ソ関係を規定した「中ソ友好同盟条約」を蒋介石の国民政府との間で締結した。これは、日本の敗戦の時点においては、ソ連も中国を代表する政府は蒋介石の国民政府であると認識してしていたことを示している。

 これより前、1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領、、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンがクリミア半島のヤルタに集まり、先が見えつつあった第二次世界大戦終結後の処理についての議論が行われた。ヤルタ会談では、ルーズベルトは、対日戦争を早期に終結させるため、ドイツ敗戦後、ソ連が日ソ中立条約を無視して対日参戦することを要請した。

 この会談では、ソ連は対日参戦に同意すること、日本敗戦の後は千島列島はソ連へ返還されること、ソ連は終戦後の中国における一定の権利(大連港におけるソ連の優先的利益、旅順海軍基地の租借権、東清・南満州鉄道のソ連利益優先の条件下での中ソ共同経営、外モンゴルの現状維持等)を保持すること、等が合意された。これらの合意は秘密裏に行われ「ヤルタ協定」と呼ばれている。8月14日にソ連が蒋介石政権と締結した「中ソ友好同盟条約」は、このヤルタ協定(ヤルタ密約)の中国関連事項について、中国側にもそれを承認させるものだったのである。この条約の締結時、スターリンは、ソ連は日本が降伏した際には3週間以内に撤退を開始し、3か月以内に撤退を完了すると言明したと言われている。

 このソ連が蒋介石政権と1945年8月に結んだ「中ソ友好同盟条約」は、中華人民共和国成立後の1950年2月に改めて締結された「中ソ友好同盟相互援助条約」により破棄されるので、条約としてはほとんど歴史的には意味のない条約であるが、この条約締結は、毛沢東に対して大国主義的なソ連の本質を見せつけ、後に(1960年代)毛沢東にソ連との対立を決意させた伏線になっていたと考えられる。また、この「中ソ友好同盟条約」に含まれている中国におけるソ連の権益を中国に認めさせる条項は、半植民地状態から脱し「外国支配からの脱却」を願う中国人民の中にあっては、蒋介石に対する失望感を呼び起こし、結局は国民党が多くの人々からの支持を失う一因ともなったのである。

 8月15日、日本はポツダム宣言受諾を内外に発表した。日本の敗戦を受けて、中国国内の最大の問題は、いかにして内戦の勃発を防ぐか、であった。中国人民の多くは内戦回避を望んでいた。そういった国内の情勢に押されて、8月28日、毛沢東は重慶に赴き、蒋介石との間でのトップ会談が重慶で始まった。

 この時点では、実力的には、国民党勢力の方が優位であった。「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」によれば、1946年6月に国共内戦が本格的に勃発した時点での国共両党の勢力は以下の通りである。

兵力:共産党120万人、国民党430万人(1対3.58)

支配地域:共産党229万平方キロ(23.8%)、国民党731万平方キロ(76.2%)

支配地域の人口:共産党1億3,607万人(28.6%)、国民党3億3,893万人(71.4%)

 このようにこの時点での客観情勢としては共産党側は不利であったが、毛沢東は、抗日戦争中に確立した支配地域の国民党支配地域への編入と共産党軍の国民政府軍への統合を拒否した。毛沢東には、中国共産党の下に結集した人民によるゲリラ的な抗日戦争が日本を敗北に追いやったのだ、という自信があり、毛沢東はここで国民党側に妥協する必要はない、と考えていたものと思われる。国共両党の協議は、43日間に渡って行われたが、結局主要な点については合意に達せず、1945年10月10日、内戦の回避と政治の民主化を図るための党派間の協議の場である「政治協商会議」の開催を決定したものの、主要な点については両者の主張を併記したに留まる「双十協定(10月10日に締結されたので、こう呼ばれる)」を調印することで終了した。

 一方、この重慶会談と並行して、日本軍が撤退した後の権力の空白を埋めるために各地に国民政府軍と共産党軍が進駐し、国共両党間で軍事的な緊張が高まっていた。山西省などでは「双十協定」が成立した10月には既に国共両党による戦闘が行われていた。1946年1月、アメリカの仲介により国共両党は停戦協定に調印した。そして、同じ月、「双十協定」に基づいて「政治協商会議」が開催された。この「政治協商会議」の代表構成は、国民党8、共産党7、青年党5、民主同盟2、その他の政党と無党派16、という形で、一応国共両党でバランスを取ったものになっていた。この「政治協商会議」では、政府組織案、憲法草案など国家の骨格をなす計画草案が採択された。

 一方、東北三省では、「中ソ友好同盟条約」締結時におけるスターリンの言明に基づいてソ連軍の撤退が開始され、その後へ国民政府軍による進駐が行われつつあったが、ソ連軍は、何かと言い訳を付けてズルズルと撤退を遅らせていた。一方、国民政府軍は、アメリカの輸送機や輸送船の支援を受けて、中国各地の主要都市の確保を進めて行った。こうして、ソ連軍が撤退した後の東北三省地域を国民政府と共産党勢力のどちらの側が支配することになるのか、が焦点として浮かび上がってきた。

 こういった緊張関係の高まりの背景には、1946年前半の全世界における冷戦の顕在化があった。

 既に1945年2月のヤルタ会談においてルーズベルトがスターリンに対日参戦を促した時、反共主義者のチャーチルはソ連の対日参戦によりソ連の影響力が強大になることを警戒していた。一方、ルーズベルトは対日戦争を早期に終結させるためにはソ連の協力が不可欠であり、ソ連とは協調していける、と考えていた。

 1945年4月にルーズベルトが死去し、アメリカでは副大統領だったトルーマンが大統領となった。トルーマンは、1945年7月17日から開かれたポツダム会議に出席した。会議に出席する前までは、トルーマンは、ヤルタにおいてルーズベルトが行ったのと同様、ポツダムでもソ連に対して対日参戦を要請するつもりであった。しかし、会議前日の7月16日、アメリカ・ニューメキシコ州において原子爆弾の実験に成功したとの知らせがトルーマンのもとに届いたことから、もはやアメリカにとってソ連の参戦は必要不可欠なものではなくなり、ポツダム会談においてトルーマンはソ連に対日参戦を要請をしなかった。一方、ソ連は、8月6日のアメリカによる広島への原爆投下を見て、ソ連が参戦する前に日本が降伏してしまうことは戦後処理におけるソ連の立場を弱めると考えて、急遽、対日宣戦布告を決断したと言われている。これらのことから、広島・長崎への原爆投下が米ソ両国を軸とする冷戦構造の出発点であると考えられている。

 ソ連は、ヨーロッパにおいて、ソ連が占領した地域で共産主義勢力による政権樹立を図り、自国の影響力を行使しようとし始めていた。このことに対する懸念を端的に表現したのが、1946年3月、トルーマンの招きで訪米したチャーチル(既にポツダム会談中に行われた総選挙で敗北して首相は退いていた)がミズーリ州フルトン市の大学で行った「鉄のカーテン」演説である。この演説でチャーチルは「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステに至るまで、大陸を横切って鉄のカーテンが降りている」と述べ、ソ連による秘密主義政策を非難した。

 そうした情勢の下、ソ連は、アメリカによる蒋介石政権への側面支援を牽制する意味もあって、中国東北三省からの撤退をズルズルと引き延ばしていたものと思われる。しかし、ソ連は、1945年8月の時点では、「中ソ友好同盟条約」の締結に見られるように、中国共産党を支援することによって、ではなく、蒋介石の国民政府を支援することによって、中国における自国の権益を維持しようと考えていた。従って、この時期、ソ連が軍事的に中国共産党側を支援するようなことはしていなかった。国民政府軍は、中国全土の主要都市を押さえる、との方針に基づき、1946年3月には、東北地方の鞍山、長春、ハルピンを占領した。

 しかし、世界における冷戦構造の顕在化は、1946年前半頃から、中国の国共対立にも色濃く影を落とすようになった。アメリカは中国での内戦回避の努力を続ける一方、蒋介石政権を支援するため、1946年3月には駐華軍事顧問団を発足させ、6月にはアメリカ議会が対華軍事援助法案を可決させた。上記のように、兵力や支配面積、支配地域の人口においては優位に立っていた蒋介石は、1946年5月、首都を重慶から南京に戻して体制を固め、アメリカからの支援のメドが着いたことを踏まえて、共産党勢力を一気に撃破できると考えて、1946年6月26日、中国の中原地域に存在する共産党支配地域への大規模な攻撃を開始した。こうして、多くの中国人民の平和への願いもむなしく、中国はさらに国共内戦の時代へと突入していったのである。

以上

次回「3-1-2:中華人民共和国の成立」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-2f12.html
へ続く。

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2010年2月 8日 (月)

2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(4/4)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦

【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(4/4)

D:仁科博士による原爆投下後の調査と日本の終戦の決定

 1945年8月6日8:15、アメリカ軍は広島上空にウラン型原子爆弾を投下した。アメリカのトルーマン大統領は約17時間後の日本時間8月7日午前1:30、広島に投下した新型爆弾は原子爆弾であるとの声明を発表した。

(参考URL1)NHK平和アーカイブス
「原爆・平和番組小史~原爆投下・核時代の到来~」
http://www.nhk.or.jp/peace/chrono/history/his_p04.html

 上記のNHKのホームページは、原爆投下直後、NHK(日本放送協会)の記者がラジオでどのように広島の状況を伝えようとしたのかが記されている。NHK記者は「広島に『特殊爆弾』が投下され、広島市は全滅した」との第一報を大本営に伝えたが、大本営はこの情報を握りつぶした、とのことである。この広島の状況とトルーマン大統領の声明を受けて、陸軍は仁科博士に広島での現地調査を依頼する。仁科博士は、原爆投下翌日の8月7日、「今度のトルーマン声明が事実とすれば吾々『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思う」との書き出しで始まる手紙を残して、広島の現地への調査に出発した。この時の調査の様子については、下記の「理研ニュース」に詳しく記されている。

(参考URL2)理化学研究所ホームページ
「理研ニュース」2000年11月号及び12月号
「記念資料室から」の「広島・長崎の新型爆弾調査を探る」(執筆・文責:理研広報室嶋田庸嗣)
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/news/2000/nov/
http://www.riken.go.jp/r-world/info/release/news/2000/dec/

 上記の「理研ニュース」の記事によれば、仁科博士を筆頭とする調査チームは、現地で放射線を測定したほか、銅線等のサンプルを採取して理研本部に空輸して放射性物質の存在について測定を行った。もし本当に核爆発が起こったのだとしたら、発生する中性子線で銅等の金属が放射化(中線子線などの照射を受けた物質が放射能を持つ物質に変化する現象)が起きているはずだからである。また、調査チームは、広島市内の病院に残されていたX線フィルムを集めて確認した。核爆発が起きたのだとすれば、大量のX線が発生しているので、X線フィルムは感光しているはずだからである。また、調査チームは、広島にいた人々の血液の状態も調べた。大量の放射線を浴びた人には、白血球の減少等の症状が現れるからである。これらの様々な測定がただちに行われたということは、仁科博士らが原子爆弾が投下されたらどのような現象が起こるのかを正確に知っていたことを意味している。

 調査の結果は明らかだった。上記の「理研ニュース」の記事によれば、調査結果は、長崎にも原爆が投下された翌日の8月10日に広島の補給兵廠(しょう)で行われた大本営調査団による陸海軍合同の研究会議で報告され、研究会議はこの新型爆弾が「原子爆弾」であるとの判断を下した。

 4日後の8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することを決定した。この日本政府の決定は、翌8月15日の正午から行われた昭和天皇の玉音放送によって、全ての日本国民に伝えられた。昭和天皇自身によって読み上げられた終戦の詔書は以下のとおりである。

(参考URL3)国立公文書館ホームページ
「終戦の詔書」(テキスト)
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/017/017tx.html

「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
(中略)
交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ心霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
(後略)」

 上記の部分を口語文で書き下すと以下のとおりである。

 「私(昭和天皇)は世界の大勢と日本が置かれた現状とに鑑みて、通常とは異なる措置を採ることによって時局を収拾しようと考え、善良なる国民に対して告げる。私は、日本政府に命じてアメリカ・イギリス・中国・ソ連の四か国に対して、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨通告させた。

(中略)

戦いは既に四年になろうとしている。日本の陸海軍の将兵は勇敢に戦い、日本政府の官僚は懸命の努力をし、全国の一般国民のそれぞれが最善を尽くしたのにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢もまた日本に有利にはならなかった。それに加えて敵は新たに残虐な爆弾を使用して、みだりに罪もない人々を殺傷し、その惨状は実に想像を絶する事態に至っている。それでもなお戦争を継続すべきなのだろうか。もしこれ以上戦争を継続したならば、日本民族の滅亡を招くばかりでなく、結局は人類の文明をも破壊してしまうことになるだろう。もし、そのようになることになるとすれば、私は、どのようにしたら多くの日本国民を守り、天皇家の祖先の霊に対して謝ることができるというのだろうか(そのようなことは決してできない)。これが私が日本政府に共同宣言(ポツダム宣言)を受諾するよう命じた理由である。

(後略)」

 この終戦の詔書は、終戦を決断した最終的な理由として、明示的に原子爆弾が投下されたことを指摘している。しかも、原子爆弾が存在する状態で戦争を続けると「日本民族の滅亡を招くばかりでなく、結局は人類の文明をも破壊することになる」と述べ、核兵器がこの世に現れたことの意味を正確に述べている。このように原子爆弾が実際に投下されてから1週間も経たないうちに、その事実を正確に把握し、その影響を正確に評価できたのは、仁科博士等科学者が当時原子爆弾に関して極めて正確な科学的知識を持っており、当時の政府や軍の首脳も原子爆弾が与える影響について正確に理解していたからである。

 調査団に加わったある科学者は「米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を収めたのである」と書き残したが、原子爆弾に対する正確な科学者の知識が、日本に無謀な戦争の継続をさせなかった、という点において、日本の研究者は敗北を喫したわけでは決してなかった、と私は思っている。

 なお、仁科芳雄博士は、量子力学の創始者の一人であるニールス・ボーアが設立したニールス・ボーア研究所で研究し、後にノーベル賞を獲ることになる湯川秀樹博士や朝永振一郎博士を指導したりしている(前回述べたテレビ朝日の番組によれば、朝永振一郎博士も「二号計画」に参画していたとのことである)。仁科芳雄博士は、今では日本の「お家芸」とも言える日本の素粒子物理学の基礎を築いた方であるが、上記に述べたように、日本の歴史に対して直接的に大きな影響を与えた方でもある。基礎的な科学技術に関する研究や知識が現実的な歴史の進展に対して極めて大きな影響を与えることがある、という典型的な例として、日本の終戦と仁科芳雄博士との関係について述べさせていただいた。

以上

次回「3-1-1:国共内戦」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-ffdc.html
へ続く。

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2010年2月 7日 (日)

2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦

【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)

B:アインシュタインからルーズベルト大統領への手紙

 1939年にドイツの科学者によって核分裂現象が発見されたこと、1939年3月にナチス・ドイツがウラン鉱山のあるチェコスロバキアを保護国化したこと、そのナチス・ドイツがウランの対外輸出を禁止する措置を取ったことは、アメリカに亡命していた反ナチス系の科学者を不安に陥れていた。もし原子爆弾がナチス・ドイツによって製造されたら大変なことになる、と考えたからである。

 ハンガリー生まれのユダヤ人で、当時アメリカに亡命していた科学者レオ・シラードは、この危険性を知らせる手紙をアメリカの当時のルーズベルト大統領に宛てて書こうと決心した。しかし、シラードは、単なる一介の科学者に過ぎない自分が大統領に手紙を書いたとしても、大統領は読んではくれないだろうと考えた。そこで、自分で手紙の草案を書いた上で、古くからの友人であり、同じユダヤ人としてアメリカに亡命していたアインシュタインに手紙にサインしてくれるよう依頼した。アインシュタインは1922年にノーベル物理学賞を受賞した世界的な物理学者であり、アインシュタインの書いた手紙ならば大統領も読んでくれるだろうと考えたからであった。

 アインシュタインもシラードの懸念と同じ懸念を持っていた。しかし、アメリカ大統領に原子爆弾の製造を進言し、実際にアメリカが原子爆弾を持った時、世界にどのような恐怖がもたらされるかもアインシュタインはよく理解していた。そのため、アインシュタインは、シラードからの依頼を受けてから1週間迷い続けた、と言われている。アインシュタインは、結局はシラードが書いた手紙にサインした(手紙の日付は1939年8月2日)。アインシュタインが署名し、ルーズベルト大統領のもとへ届けられた手紙の実物は、下記のアメリカ物理学会の歴史博物館のページで見ることができる。

(参考URL1)アメリカ物理学会歴史博物館
「アインシュタインのルーズベルト大統領宛の手紙」
http://www.aip.org/history/einstein/ae43a.htm

 この手紙のポイントは以下のとおりである。

○ウランで見られる連鎖反応現象を使うと、とてつもなく巨大なパワーを出す爆弾を作ることができる。例えば、港でこれを爆発させれば、港全体を破壊することができる。しかし、この爆弾は重すぎるので飛行機で運搬することは難しいだろう。

○アメリカにはウランの資源は少ないが、カナダ、旧チェコスロバキアには有力なウラン鉱山がある。しかし、最も重要な鉱山はベルギー領コンゴにある。

○従って、以下のような措置を取っていただきたい。

(1) この科学現象に対して関心を持ち、特にアメリカに対してウランを供給できる鉱山に大して関心を持つこと。

(2) 関連する研究を行っている大学等に資金的援助を行い産業界の協力も得ること。

○ドイツは占領した旧チェコスロバキアの鉱山からのウランの輸出を禁止したと聞いている。また、ドイツのカイザー・ウィルヘルム研究所において、アメリカで行われている実験の追実験が行われていると聞いている。ドイツがこのような素早い反応を示していることをよく認識する必要がある。

 1939年当時は、まだウランの核分裂現象は、「実験室レベルで現象が見られた」という程度の段階であり、ルーズベルト大統領もこの手紙によって直ちに具体的な計画を始めたわけではなかった。しかし、翌1940年、アインシュタインから再び注意喚起の手紙を受け取った頃から、アメリカ政府は原子爆弾の製造について本気で考え始めたようである。前に書いたように1941年2月にアメリカのシーボーグがプルトニウムの生成・分離に成功した時点では、既にアメリカ政府は原子核反応に関する情報管理を厳しくしており、プルトニウムが生成・分離されたことは完全に秘匿された。そして、1942年8月には、正式に原子爆弾製造のための組織が作られ、原爆製造計画、いわゆる「マンハッタン計画」がスタートした。

 アインシュタインは、ルーズベルト大統領に手紙を書いたものの、マンハッタン計画には全く参画しなかった。しかし、結果的に1945年8月に広島・長崎に原爆が投下されたことに対して、大きな自責の念を感じ、第二次世界大戦終了後は平和運動に力を入れるようになる。なお、広島に投下された原爆の原料となったウランはベルギー領コンゴで採掘されたものであった。このことを見ても、シラードが起草し、アインシュタインが署名した大統領宛の手紙が原子爆弾製造のきっかけになったのは間違いのないことがわかる。

C:日本における原子爆弾製造計画

 日本における原子爆弾製造計画は、関連書類のかなりの部分が終戦時に処分されてしまったのでよくわからない部分も多いが、陸軍が当時理化学研究所の主任研究員だった仁科芳雄博士に依頼して行った研究(暗号名「二号研究」)と海軍が京都大学に依頼して行っていた研究とがあると言われている。仁科芳雄博士が携わった「二号研究」については、2006年8月6日、テレビ朝日が放送した「ザ・スクープ」という番組の中で「終戦61年目の真実~昭和史の『タブー』に迫る~」の第一部「幻の原爆開発計画~若き科学者達の知られざる戦い~」として紹介された。

(参考URL2)「テレビ朝日」ホームページ
「2006年8月6日放送『ザ・スクープスペシャル』」
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/toppage/060806_010.html

※上記のページの「動画配信はこちら」をクリックすると、インターネット上でこの番組を見ることができる。実際に「二号研究」に参加した存命中の方へのインタビュー等も交えた非常に史料価値の高い番組なので、一度御覧になることをお勧めする。

 上記のテレビ番組によれば、陸軍が仁科芳雄博士に原爆製造の研究を依頼したのは1941年4月だったとのことである。この番組で紹介されている「二号研究」の概要は以下のとおりである。

○目標はウラン235を原料とするウラン型原子爆弾を製造することだった。

○ウラン濃縮の方法としては「熱拡散法」を狙っていた。濃縮するために必要な六フッ化ウラン(気体)の製造には成功したが、実際のウラン濃縮には、実験室レベルでも成功していなかった。

○原料となるウランについては、アジア各地で探していたほか、ナチス・ドイツからの移送を試みた。ドイツからの輸送は4回試みられたが、いずれも輸送していた潜水艦が連合国側に撃沈されて日本に到着しなかった。

○日本国内では、福島県石川町で産出するサマルクス石からウランを回収すべく、採掘を行っていた(この番組によれば、石川町は米軍の機銃掃射攻撃などを受けた、とのことである。福島県石川町は、戦略上は重要な地域ではないことから、石川町でウラン鉱石を採掘しているという情報が米軍に漏れていた可能性がある)。

(参考URL3)福島県石川町のホームページ
「石川町の鉱物紹介」
http://www.town.ishikawa.fukushima.jp/new/gyousei/kyouiku/bunkazai/koubutsu.html

※福島県石川町のサマルクス石(サマルクスカイト)については、産出量が極めて少ないことから、戦後行われた日本国内におけるウラン探鉱においては採鉱対象とはなっていない。

 海軍からの依頼で京都大学で行われていた研究では、遠心分離法によるウラン濃縮が研究されていたが、ウラン濃縮を実現するには至らなかったと言われている。

 上記の番組で紹介されている「二号研究」は一貫してウラン235を用いた原子爆弾についてのみ扱われており、プルトニウムを使った爆弾については考慮されていなかった。プルトニウムに関する情報については、アメリカが情報を完全に管理しており、日本やドイツは戦争が終わるまでプルトニウムの存在すら知らなかった可能性が高い。

 なお、上記のテレビ番組でも紹介されているが、1944年(昭和19年)、雑誌「新青年」の7月号に「桑港けし飛ぶ」(作者:立川賢)というSF小説が掲載された。日本人研究者が原油から触媒を使って航空機燃料用の高(ハイ)オクタン価の揮発油を生産する実験をしている過程で、偶然にウラン235濃度の高い鉱石を発見し、原子爆弾の製造に成功する、という物語である。日本が原子爆弾の製造に成功した結果、その原爆で桑港(サンフランシスコ)を攻撃し、アメリカが日本に降伏する、という筋書きの小説である。戦意高揚のための、ある意味では荒唐無稽な小説ではあるが、高濃度のウラン235を用いた爆弾に関する小説が軍の検閲を通って公表されたことは極めて興味深い。

 この小説では、ウラン濃縮とか「臨界」とかいう概念は登場せず、作者が原子爆弾の原理についてどの程度知っていたのかは不明であるが、この小説の中で原子爆弾の製造に成功した研究者が「ハイオク・ガソリンの生産について研究していた」という設定は極めて興味深い。小説で描かれている石油からガソリンを精製する工程が「二号計画」でウラン濃縮のために使われていた「熱拡散法」にかなり似ているからである。この小説の作者が「二号計画」について何らかの情報を知っていた可能性がある。もしそうだったのであれば、軍の検閲がこの小説の公表を認めた理由が不可解である。当時の軍関係者は、原子爆弾について研究は行っているけれどもとても実用化までにはほど遠いまさに「SF的な話」としてそれほど重要視していなかったのか、または軍の検閲の担当者が原子爆弾について全く無知であった(何が機微な情報なのかわからなかった)のか、のどちらかであると思われる。

 この小説の最後には、サンフランシスコに日本の原爆が投下された後、アメリカの研究者が「コレ合衆国科学力ノ敗北ヲ喫セルモノニシテ科学戦ニ於ケル敗北ハ已(すで)ニシテ一国ノ敗退ナリ」と大統領に進言する場面が出てくる。この小説上の文言は約1年後に日本が下した判断を予言したものとなっている。この小説の文言は、原子爆弾の存在が世界に与える影響について、ある程度の認識を持っている者が既に日本にもいたことを表している。

以上

次回「2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(4/4)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-2257.html
へ続く。

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2010年2月 6日 (土)

2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(2/4)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦

【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(2/4)

A:原子爆弾開発の歴史(後半)

 ウラン235やプルトニウム239は、「一定の量」を集めると連鎖反応を起こす(臨界に達する)が、「一定の量」以下だと臨界に達しない。量が小さいと核分裂で発生した中性子が別の原子核の核分裂に使われずに外部に漏れ出してしまうからである。物質を球形に固めた場合、物質の量(質量)は、その直径の3乗に比例して大きくなるが、表面積は直系の2乗に比例して大きくなる。つまり物質の量が多くなれば多くなるほど、存在する物質の量に対する表面積の大きさの比率は小さくなる。つまり物質の量が多くなればなるほど、核分裂で発生した中性子が外部へ漏れ出さずに別の原子核の核分裂に寄与する可能性が高くなるため、ウラン235やプルトニウム239のような核分裂性の物質が一定の量を超えて一個所に集まると核分裂の連鎖反応が起きるようになるのである。核分裂の連鎖反応が起きるために必要な最小の量を「臨界量」という。核爆発を起こすためには、核分裂性物質を「臨界量」以上の量、一個所に集める必要がある。

 プルトニウム239の臨界量は、ウラン235の臨界量よりも少ない。核兵器に関する情報は、その多くが現在でも非公開なので、例えば、臨界量ギリギリの量で実際に核兵器ができるのかどうかは私は知らない。最低、どのくらいの量があれば原子爆弾ができるのかは公開されていないが、IAEA(国際原子力機関)が規定しているひとつの値が参考になると考えられている。現在、IAEA(国際原子力機関)では、プルトニウムやウランの取り扱いに関して、核兵器に転用されていないかどうかを国際的に監視する制度(保障措置制度)を運用しているが、IAEAの規定では、保障措置の観点から取り扱いに注意を要する量(有意量)として、プルトニウムでは8kg、高濃縮ウランでは25kg、低濃縮ウランでは75kgという数字を使っている。

 この量がプルトニウム239やウラン235で原子爆弾を作れる量とイコールなのかどうかは定かではないが、ひとつの目安として考えることはできると思われている。

 「兵器」として考える場合、その軽さ(運搬のしやすさ)は重要なファクターである。現在、多くの核兵器に関する問題において、濃縮ウランよりプルトニウムの方に注意が払われているのは、プルトニウムの方が濃縮ウランより小さな量で核爆発を起こすことができるため、運搬可能な兵器として利用しやすいからである。また、プルトニウムは原子炉で中性子を照射された天然ウランから化学的方法で分離できるので、ウラン濃縮というやっかいな過程を経ない分だけ「作りやすい」と考えられていることも、プルトニウムがウランより注意を要する物質と考えられている理由である。

 アメリカは、1942年12月にシカゴ・パイルにおいて天然ウランによる臨界実験を成功させて以降、原子炉によるウランに関する原子核物理上の各種データ収集と様々な研究室レベルでの実験を通じて、ウラン235を一定濃度以上にして一定の量以上を集めれば必ず原子爆弾が作れる、という自信を持つに至った。一方、プルトニウムについては、得られるサンプルがごくわずかであり、プルトニウムに関する原子核物理上のデータは十分に得られていなかった。このためアメリカは最後までプルトニウムが本当に原子爆弾として利用できるかどうかの確信は持てないでいた。

 プルトニウムが小さな量で臨界に達する、という点も「原子爆弾を確実に爆発させる」という点では不利な点であった。というのは、原子爆弾は、当初、臨界量以下の小片に分割しておいた核分裂性物質を火薬などで一か所に集め(爆縮させ)、一気に核分裂の連鎖反応を起こさせる必要がある。しかし、核分裂性物質が一か所に集まって核分裂が始まると、その時点で膨大なエネルギーが出始めるので、核分裂によって発生したエネルギーにより核分裂性物質自体が飛び散ってしまう可能性がある。そうなると、多くの核分裂性物質は核分裂せずに飛散してしまい、放出されるエネルギーも非常に小さなものになってしまう。それでは「核兵器」としての効果が出ない。ウラン235の場合は、臨界量が大きいので、臨界量に達したウラン235を「飛び散らす」のには大きなエネルギーが必要であるのに対し、プルトニウム239の場合は、臨界量が小さいので、ちょっとしたエネルギー放出でプルトニウム自身が飛び散ってしまう可能性がある。従って、プルトニウムの場合は、最初に起きた核分裂でプルトニウムが飛び散る力に打ち勝てる程度の強さで、臨界量以下に小分けされたプルトニウムを強く「爆縮」させて臨界以上の量に保持する必要があるのである。

 ウランについては、核物理学上のデータが十分にあったことから、臨界量以上の濃縮ウランを2つに分け、円筒形の容器の両端に配置し、一方の断片の背後に火薬を置いておき、火薬に点火すれば2つの断片が一緒になり、それだけで十分な威力の核爆発が起きることは計算上わかっていた(広島に投下されたのはウラン型原子爆弾であるが、広島に落とされた原爆(暗号名「リトルボーイ」)が円筒形をしているのはこのためである)。

 しかし、プルトニウムについては、円筒形タイプの配置で確実に核爆発が起きるのかわからなかったので、臨界量のプルトニウムをいくつかに分け、それを球状に配置して、その外側に火薬を置いて、外側にある火薬を同時に点火してプルトニウムを球の中心に「爆縮」させる方法が考えられた(長崎に投下されたのはプルトニウム型原子爆弾であるが、長崎に落とされた原爆(暗号名「ファットマン」)がその名の通りずんぐりとした球形に近い形をしているのはそのためである。)

 アメリカは、ウラン型原子爆弾については、計算上、確実に核爆発を起こす自信があったが、プルトニウム型爆弾については、プルトニウムの核物理上のデータが不十分であることと、「爆縮」が設計通りに起こるかどうかについて確信が持てなかったため、実際に核爆発実験を行うまではプルトニウム型原子爆弾で確実に核爆発が起きるかどうか自信を持ってはいなかった。そこで、1945年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠において、このプルトニウム型原子爆弾についての核爆発実験を行った。この人類最初の核爆発実験に使われた爆弾(暗号名「トリニティ」)は下記の米国エネルギー省のページに掲載されている写真を見てわかる通り、完全な球形をしていた。

(参考URL)アメリカ・エネルギー省歴史遺産局ホームページ内
「マンハッタン計画~対話による歴史~」
トップページ
http://www.cfo.doe.gov/me70/manhattan/index.htm

「広島への原爆投下(1945年8月6日)」
http://www.cfo.doe.gov/me70/manhattan/hiroshima.htm

「長崎への原爆投下(1945年8月9日)」
http://www.cfo.doe.gov/me70/manhattan/nagasaki.htm

「トリニティ・テスト」(1945年7月16日)
http://www.cfo.doe.gov/me70/manhattan/trinity.htm

 ウラン型原子爆弾は、核実験を行うことなく広島に投下された。その意味では、アメリカは数十万人の広島市民の頭上で核実験を行ったのだ、と言うことができる。アメリカは、現在でも「原爆投下は戦争を早期に終わらせるためだった」と主張しているが、本当に戦争の早期終結だけが目的だったのならば、広島と長崎の2回、原爆を投下する必要が本当にあったのかどうかは疑問である。「トリニティ」の実験成功により、プルトニウム型原子爆弾が「核兵器」として使えることは既に証明されていたのであるから、プルトニウム型爆弾を1回投下すれば「戦争の早期終結」というアメリカの意図は果たせたはずである。この部分は歴史の「陰の部分」として永久に表に出ることはないであろうが、アメリカにウラン型原子爆弾とプルトニウム型原子爆弾の2つのタイプの原子爆弾の両方を「試してみたかった」という意図があったであろうことを想像することは難しくない。このことは、戦争とは何か、科学技術を戦争に利用するということは何を意味するのか、を考える上で重要な点であり、後世に伝えていかなければならない重要なポイントであると私は考えている。

以上

次回「2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-376d.html
へ続く。

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2010年2月 5日 (金)

2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(1/4)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦

【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(1/4)

A:原子爆弾開発の歴史(前半)

 20世紀の歴史の流れは、科学技術の進展と密接不可分である。戦後の中国の歴史の基軸のひとつとなる中ソ対立も直接のきっかけは、核兵器技術のソ連から中国への移転をソ連が拒否したことにある。そういったことを考える際の参考として、敗戦の時点において日本において核兵器研究に携わっていた仁科芳雄博士について紹介し、博士らの科学知識が広島・長崎に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを正確に理解させ、当時の日本政府がポツダム宣言を受諾する決断をする大きなきっかけになったことをここで紹介しておきたい。

 以下に述べる話の中には、核兵器に関するやや技術的に専門的な事項も含まれているが、これらは1960年代の中ソ対立のきっかけとなったソ連から中国への核兵器技術移転問題を理解する上でも参考になると思われる。また、21世紀の今日、極めて重要な政治課題となっている核不拡散問題に関する日々のニュースについて考える際にも参考になるであろう。

 お断りしておくが、以下に述べる核兵器に関する知識は、原子力関係に携わっている人ならば誰でも知っている話(というか、むしろ原子力の平和利用に携わる人は知っておくべき話)であり、何ら取り扱いに注意すべき機微な情報に該当するものは含まれていないことを申し上げておく。

1.原子爆弾に関する基礎知識

 日本の終戦(1945年8月)の時点では、核兵器といってもまだ原子爆弾しかなく、水素爆弾はできていなかったので、ここでは原子爆弾についてだけ述べることにする。

 20世紀に入って、物質の構造についての仮説がいろいろ立てられ、数々の実験によって、物質の構造が徐々に明らかにされてきた。物質を小さく分けていくと、原子という最小単位にたどり着き、その原子の中心に原子核と呼ばれるものがあることがわかってきた。原子核は、プラスの電荷を持った陽子と、陽子とほぼ同じ質量を持つが電荷を持たない中性子とから構成されている。

 1938年12月、ドイツのハーン、シュトラスマンらは、自然界に存在する最も重い原子核であるウランの原子核に中性子を外からぶつけてやると、ウランの原子核がいくつかの破片に割れる現象が起きる、という仮説を発表し、その後、実験によりそれを確認した(核分裂の発見)。その後の実験により、ウランの核分裂に際しては数個の中性子が放出されること、核分裂によっていくつかに割れた破片と放出された中性子の重さを合計しても元のウランの重さより小さいこと、がわかった。

 核分裂現象の発見よりだいぶ前の1905年、アインシュタインは、質量とエネルギーは本質的には同じものであり、エネルギーをE、物質の質量をmとし、真空中の高速をcとすれば、E=mc2(エネルギー=質量×光速の2乗)という式で表せる量に従って質量はエネルギーに変換される、との理論を打ち出していた。アインシュタインの理論を踏まえれば、核分裂反応で起こるわずかな質量の減少は、減少した質量の分だけ核分裂に際してエネルギーが放出されることを意味していると考えられた。上記の式を見ればわかるように、光速cは秒速30万kmという非常に大きな値であり、減少した質量がごくわずかなものであっても、それが変換されて放出されるエネルギーは膨大なものとなることが予想された。

 核分裂は、ウランの原子核に外から中性子を当てることによって起こり、その核分裂によって数個の中性子が飛び出すことから、一定の量のウラン原子核が存在し、そこに1個の中性子が当たって核分裂が起きると、その核分裂によって飛び出した中性子が別のウラン原子核の核分裂を起こし、それが次から次へと起こる現象(いわゆる「連鎖反応」)が起こることが想像された。この連鎖反応が起これば、膨大な量のエネルギーが一瞬のうちに放出され、大爆発が起こることになる。まさに第二次世界大戦が勃発しようとしていたこの時期、この現象を兵器として利用できるのではないか、と考える人々が出始めた。

 一方、核分裂の連鎖反応は、一度に発生させれば一瞬のうちに大量のエネルギーを放出することになるが、核分裂に伴って発生する中性子をうまくコントロールすることができれば、連鎖反応をコントロールすることができるのではないかと考えられた。核分裂により発生した中性子を吸収する材料(制御棒)を使って核分裂の連鎖反応をうまくコントロールできるようにした装置が原子炉である。

 後に述べるように、アメリカは、1942年8月から密かに原子爆弾製造計画(秘密暗号名「マンハッタン計画」)をスタートさせていたが、その計画の中で、エンリコ・フェルミ(イタリアからアメリカに亡命した研究者)により世界最初の原子炉シカゴ・パイルが作られ、1942年12月、初めて連鎖反応をコントロールしながら持続的に行う実験に成功した(連鎖反応が持続的に起こる状況に達することを「臨界に達する」という)。このシカゴ・パイルは、ウランと黒鉛をサンドイッチのように積み重ねたものである。このため「積み重ねたもの」という意味で「パイル」という言葉が使われている。中国語では現在でも原子炉のことを「核反応堆」と言うが「堆」の字を使っているのは、この「パイル」に由来している。

 自然界にあるウランには、その原子核が陽子92個と中性子146個(合計238個)からなるウラン238と陽子92個と中性子143個(合計235個)からなるウラン235があるが、核分裂するのはウラン235の方だけである。自然界にあるウラン(天然ウラン)は、ほとんどがウラン238であり、ウラン235は0.7%しか含まれていない。一方、核分裂が起きたときに発生する中性子は非常に高速であり、この高速の中性子はウラン235の原子核を核分裂させる能力が高くない。従って、天然ウランを大量に用意して、そこに中性子を1個当てても、ウラン235の濃度が低すぎて連鎖反応は起きない。一方、中性子を通常の熱運動で発生しているエネルギーに相当する程度のスピードに落とすと、それがウラン235に当たった時に核分裂を起こす確率が非常に大きくなる(熱運動のエネルギーと同程度のエネルギーに相当する速度までスピードが落ちた中性子を「熱中性子」という)。従って、核分裂で発生した中性子のスピードを落とす材料と天然ウランを適当な量で混ぜてやれば、核分裂が持続する状態、即ち連鎖反応を持続させることができる。

(注1)物理的に正確にいうとウラン238もごく小さな確率ながら核分裂を起こすので「ウラン238は核分裂しない」と表現するのは正確ではない。ただそういった物理的な正確さを追求すると表現が複雑になるだけなので、この文章では「ウラン238は核分裂をしない」という割り切った表現をさせていただくことにする。

(注2)核分裂で発生した高速の中性子を減速させずに利用する原子炉のことを「高速炉」と呼ぶ。また、核分裂で発生した高速の中性子を減速させて(熱中性子にして)利用する原子炉のことを「熱中性子炉」(英語で「サーマル・リアクター」)と呼ぶ。プルトニウムを利用する原子炉では核分裂で発生した高速中性子を減速させずにそのまま利用するもの(「高速炉」)が多いが(日本の場合は「常陽」や「もんじゅ」がこのタイプ)、「熱中性子」を使った原子炉(現在の日本の電力会社が運転している原子力発電所で使われているタイプの軽水炉など)でプルトニウムを利用することもできる。「熱中性子」を使った原子炉でのプルトニウムの利用を「プルトニウムのサーマル・リアクターでの利用」という意味で日本では「プル・サーマル」と呼んでいる(「プル・サーマル」は「和製英語」であり、外国では通用しないので要注意)。

 最も効率的に中性子のスピードを落とす材料(「減速材」)のひとつに黒鉛がある。黒鉛を使って天然ウランで臨界状態を維持するようにした装置がシカゴ・パイルである。シカゴ・パイルは、極秘裏に進められた「マンハッタン計画」の一貫として作られたため、その写真は残っておらず、イラストが残っているだけである。

(参考URL)(財)エネルギー総合工学研究所のホームページ
「核分裂の発見」
http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data3002.html

 減速材として黒鉛を使い、核燃料として天然ウランを使った原子炉は、最も原始的な形の原子炉であるため、多くの国で最初に作られるのが黒鉛減速原子炉(普通「黒鉛炉」と呼ばれる)である。

 一方、天然の状態では0.7%しかないウラン235の濃度を一定の濃度以上に高くすれば減速材なしで(あるいは減速性能があまり高くない減速材(例えば普通の水(=軽水))を用いて)核分裂の連鎖反応を起こすようにすることができる。普通の水など減速性能が黒鉛などほど高くない減速材を使って原子炉を作ろうとすると、核燃料として使うウランの中の核分裂する成分であるウラン235の濃度を高くする必要がある。天然ウランよりウラン235の濃度を高める作業のことを「ウラン濃縮」という。

 核分裂を起こすウラン235と起こさないウラン238は、化学的には全く同じ性質を示すため、ウランを濃縮する、即ちウラン235だけを集めようとするためには、これら二種類の原子のわずかな重さの差を利用するしかなく、高度な技術または巨大な施設を必要とする。ウラン濃縮を行うためには、ウランを含む気体状の化合物を作り、その気体に圧力を掛けて小さな孔の空いたフィルターを通すことによってウラン235を含む気体分子とウラン238を含む気体分子のスピードの違いを利用して少しづつウラン235を含む気体の濃度を濃くしていく「ガス拡散法」、ウランを含む気体を加熱して熱による拡散の仕方の違いを利用してウラン235を含む気体を濃縮する「熱拡散法」、気体分子の重さの差を直接利用して遠心分離器によってウラン235の濃度を高くする「遠心分離法」などの方法がある。

 「ガス拡散法」では、1回フィルターを通すことによるウラン235を含む気体の濃度の上昇はごくわずかであり、何段階もフィルターを通す必要があるが、そのためには膨大な力で気体に圧力を掛けるポンプを何台も駆動する必要があり、多数のポンプ駆動のために相当量のエネルギーを消費する。装置も巨大なものになるが、原理は単純なので、アメリカが最初にウランで原子爆弾を作った際には、この「ガス拡散法」が使われた。現在の原子力発電に用いられているウラン濃縮では、「ガス拡散法」を使ったのでは大量にエネルギーを消費するため経済的にペイしないので、「遠心分離法」が広く用いられている。「遠心分離法」は、高速回転する遠心分離器を利用する必要があるが、安定して高速回転する回転体を製造するためには精密加工技術等が必要である。1945年にアメリカが最初に原爆を製造した時点では、遠心分離器によるウラン濃縮技術はまだ確立されていなかった。

 一方、天然ウランに多く(約99.3%)含まれているウラン238に中性子を照射すると、ウラン238は中性子を吸収し、その後、その原子核が電子を放出して原子核中の1個の中性子が陽子に変わること(つまりウランではない別の元素に変わること。これを「β崩壊」という)により新しい元素が生成されることが理論的に予想されていた。1941年2月、アメリカのシーボーグらのグループは、加速器によってウラン238に重水素を衝突される実験によって、この新しい元素を合成し、分離することに成功した。この新しい元素は、陽子の数が94個、中性子の数が145個(合計239個)であり、プルトニウムと命名された(陽子の数と中性子の数が合計239個あるプルトニウムは、プルトニウム239と呼ばれる。プルトニウムには、陽子と中性子の数の合計が240個のプルトニウム240、241個のプルトニウム241等があることも確認された。陽子の数が同じ元素はその回りにある電子の数も同じであるため、化学的には同じ性質を示す。このため陽子の数が同じで中性子の数だけが違う元素群は「同位体」と呼ばれ、ひとつのグループとして取り扱われる)。

(注3)陽子の数(原子番号)が93個の元素(ネプツニウム)はシーボーグらがプルトニウムを分離する以前に発見されていた。ウランは、1789年に発見されているが、その8年前の1781年に新しい惑星が発見されていた。新しい惑星が発見された時、この惑星はギリシャ・ローマ神話の神の名にちなんでウラヌス(天王星)と命名された。ウランが発見された頃、まだ天王星の発見が科学界では記憶に新しかったため、当時「人類が新たに発見した元素」という意味で、新しく発見された元素は天王星(ウラヌス)にちなんで「ウラン」と命名された。原子番号が93、94の元素が合成された時、このウラン命名時の故事に学んで、原子番号93の元素は海王星(ネプチューン)にちなんで「ネプツニウム」と、原子番号94の元素は冥王星(プルトー)にちなんで「プルトニウム」と命名された。

 プルトニウム239が合成・分離されると、ウラン235と同じように核分裂することがわかった。天然ウランに中性子を照射すると天然ウランに含まれるウラン238が中性子を吸収してプルトニウム239が生成するのであるが、ウランとプルトニウムは化学的には別の性質を示すことから、天然ウランに中性子を照射した後、化学的な処理によりプルトニウム239を分離することができる(ウランとプルトニウムの混合物からプルトニウムを抽出する化学工程を「再処理」と呼ぶ)。即ち、プルトニウムは、ウランの場合に必要な「濃縮」というやっかいな作業を経ることなく化学処理だけで抽出できる核分裂性物質なのである。こういった事情から、プルトニウムの発見当時、この新しい元素の発見に関する情報は厳密に秘匿された(後に述べる日本における原子爆弾の研究の状況などから判断して、プルトニウム発見の情報は、第二次世界大戦終了後まで日本では知られていなかったと思われる)。上記に述べたシカゴ・パイルは、アメリカが原子爆弾製造計画「マンハッタン計画」においてプルトニウムを生成させるため、天然ウランに中性子を照射する目的で作られた原子炉だったのである。

以上

次回「2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(2/4)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-7477.html
へ続く。

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2010年2月 3日 (水)

2-3-6(2/2):日本の敗戦(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦(2/2)

 蒋介石が率いる重慶の国民政府軍と共産党の軍隊である八路軍や新四軍とは、依然として実質的な統一戦線が組めない状況が続いていた。それどころか、1941年1月、江南にいた新四軍が北方へ移動する途中、安徽省南部で国民党軍に包囲され、9,000余人の部隊のうちの多くが殺害あるいは捕獲され、軍長の葉挺も殺害されるという事件が起きた(「新四軍事件」(または「皖南事件」)と呼ばれる。下記の「参考URL」に掲げる「人民日報」ホームページ上にある「中国共産党簡史」によれば、包囲を突破できたのは約2,000人だけという)。蒋介石は、この事件は新四軍によるクーデターだとして「国民革命軍新四軍」の名称を取り消した。

 この事件に対し、中国共産党が蒋介石に対して厳重抗議したのは当然のこととして、蒋介石を支援していた英米両国もこれを非難した。「人民日報」のホームページにある「中国共産党簡史」によれば、中国の世論もこの事件に対して蒋介石を非難した、としている。この「新四軍事件」(皖南事件)により、中国共産党は、揚子江以南における軍事的拠点を失った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第三章 抗日戦争の烽火の中における壮大な発展」
三.抗戦を堅持し、団結し、進歩し、新民主主義理論を系統立って作り上げた
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444710.html

 この時期、ヨーロッパでは、ドイツが1939年9月1日に始まったポーランド侵攻電撃作戦によりポーランドの西半分を占領していた。また、ソ連は、独ソ不可侵条約における「秘密協定」に基づき、東からポーランドに侵入し、ポーランドの東半分を占領した。不可侵条約に基づいてソ連との間でポーランドの東西分割を終了したドイツは、一転して戦線を西へ向け、ベルギー、オランダを経由してフランスに攻め入り、1940年6月にはフランスをも降伏させた。イギリスが支援する蒋介石の重慶政府と戦っていた日本は、ヨーロッパにおいて英仏と戦っているドイツと提携する道を選んだ。日独伊の三国は、1940年9月、従来の三国防共協定を発展させて、日独伊三国同盟を締結した。これにより、ヨーロッパとアジアにおいて連合国と日独伊枢軸国との色分けが鮮明になったのである。

 日独伊三国同盟の成立と時を同じくして、日本軍は、フランスがナチス・ドイツの支配下に入った状況を利用して、仏領インドシナ(今のベトナム)北部に侵攻した。本国がドイツの支配下にあるフランス軍は抵抗することができず、日本軍の進駐を認めざるを得なかった。この日本軍の北部仏領インドシナ進駐は、ビルマから雲南へ伸びる「援蒋ルート」を圧迫するとともに、経済封鎖の強化に備えて東南アジアの地下資源を確保することに目的があった。

 第二次世界大戦の開始時点では中立を宣言していたアメリカは、日独伊三国同盟の成立と、日本軍の北部仏領インドシナへの進駐を見て、鉄鉱石・くず鉄などの戦略物資の対日輸出を禁止する措置を取った。この時点で、日本は戦略物資の4割をアメリカからの輸入に頼っている状態だった(映像・音声資料1:ドキュメンタリー映画「東京裁判」による。参考資料リストについては、このページのトップの表題の直下にURLを掲げる「『中国現代史概説』の目次」を参照)。アメリカとの決定的な対立を避け、有利な条件での妥協を図るため、時の日本の外務大臣・松岡洋右はソ連を日独伊三国同盟側に引きつけてアメリカを牽制しようと考えた。松岡は、1941年4月、ドイツ訪問の帰途、モスクワに立ち寄り、スターリンとの間で日ソ中立条約を締結することに成功した。しかしこの直後の1941年6月、ヒトラーは独ソ不可侵条約を無視して東部戦線からソ連側に侵攻し、独ソ戦が開始された。これにより、日独伊三国同盟側にソ連を引き寄せる、という松岡の構想は崩壊した。

 ただ、前に述べたように、日ソ中立条約は、中国共産党内部に深刻な影響を与えたものと思われる。抗日戦争に苦しむ中国共産党にとって、日ソ中立条約はソ連による「裏切り」に近いものだったからである。「人民日報」ホームページの「中国共産党簡史」ではこの点には何も触れていないが、コミンテルンのバックアップで誕生した中国共産党は、この第二次世界大戦開始前後のソ連の行動を踏まえ、自らをソ連とは距離を置いた存在として位置付けるようになるのである。なお、国際共産主義運動を進めるために設立されたコミンテルンは、第二次世界大戦における英米両国とソ連との協力関係の中でその存在意義を失い、1943年5月に解散している。

 1941年6月、さらに日本軍が仏領インドシナの南部に侵攻して南方への進出の意図を明らかにすると、アメリカは日本の在米資産を凍結し、経済封鎖を強化した。アメリカ、イギリス、中国、オランダ(石油を生産するインドネシアを支配していた)による経済包囲網はABCD包囲網と呼ばれた(A=American, B=British, C=Chinese, D=Dutch)。このABCD経済封鎖に苦しんだ日本は、米国との間で外交交渉による妥協の道を探るが、結局は1941年12月8日(日付変更線の関係でアメリカでは12月7日)、真珠湾攻撃により米英と開戦することになる。日本軍は石油などの戦略物資を確保するため、インドシナ半島、フィリピン、インドネシア、ニューギニア等へ戦線を拡大した。このため真珠湾攻撃以降の戦争は太平洋戦争と呼ばれる。

 中国における戦線が膠着状態にある中、太平洋地域で戦線を拡大し切った日本は、やがてアメリカの強大な物資の生産力の前に敗退を繰り返していくようになる。そして、1945年8月6日広島に、8月9日には長崎に原爆が投下され、8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して、第二次世界大戦は終結した。日本では、アメリカ軍による本土空襲や原爆投下等の印象によって、日本における「戦争」と言うと太平洋戦争の部分のイメージが強いが、実際には中国における戦争の方が期間的には圧倒的に長いものだったことは常に留意しておく必要がある。中国人と日本人が戦争について語る場合、この「戦争のイメージの違い」が、そもそもの認識ギャップの出発点になることが多いからである。

 ポツダム宣言に盛り込まれた条項は、1943年11月に行われたカイロ会談後に発表されたカイロ宣言が基本となっている。カイロ会談には、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相が出席したが、中国代表として出席したのは蒋介石であった。第二次世界大戦の終了時点において、中国を代表する政権として国際的に認められていたのは蒋介石政権だったのである。しかし、第二次世界大戦末期、中国共産党勢力も既に中国国内における有力な勢力のひとつとみなされていたことは間違いない。1944年には、日本との戦いにおける協力の可能性を探るため、アメリカの視察団が中国共産党の拠点である延安を訪問している(映像・音声資料2:NHKスペシャル「映像の世紀 第6集 独立の旗の下に ~祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ~」)。

 8月15日は、日本における「終戦記念日」であるとともに、韓国においては日本の植民地支配が終了し独立が回復したことを記念する「光復節」である。しかし、現在の中国においては、8月15日も、日本が降伏文書に署名した9月2日も、それほど特別な記念日ではない。なぜなら、8月15日の日本の敗戦によって、その日から今まで表に出てこなかった国民党と共産党との間での内戦が表面化することになるのであり、中国にとって「日本の敗戦」は「終戦」ではなかったからである。

 現在の中国にとって、本当の「終戦」、即ち平和が回復した記念日は、1949年10月1日、即ち中華人民共和国が成立した日なのである。

以上

次回「2-3-6:【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(1/4)」
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2010年2月 2日 (火)

2-3-6(1/2):日本の敗戦(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第6節:日本の敗戦(1/2)

 1937年(昭和12年)12月13日、南京を陥落させた日本軍は、重慶に首都を移した蒋介石の国民政府に和平交渉に臨むように迫った。しかし、蒋介石はこれを拒否して、徹底抗戦の構えを見せた。日本は、「満州国」と同じように、中国本土においても日本に協力的な傀儡(かいらい)政権を樹立してその支配を確立しようとし、12月14日には廬溝橋事件以降日本軍の占領下にあった北平(今の北京)において中華民国臨時政府を成立させた。先に樹立していた冀東防共自治政府も、この中華民国臨時政府に合流することとした。年が開けた1938年1月16日、日本の近衛内閣は「蒋介石を対手とせず」との声明を発表し、重慶にある蒋介石の国民政府を無視する方針を打ち出した。その後、日本軍はさらに西へ進撃し、1938年10月には武漢を占領した。

 こうした華中地域での日本軍の勢力拡大はイギリスとアメリカを強く刺激した。「満州国」建国など中国東北部での日本軍の勢力拡大に当たっては、英米両国は、中国における日本の勢力拡大に懸念を抱きつつも、一方ではそれがソ連に対する圧力になっていることから、必ずしも自らに対する直接的な敵対行為とは見ていなかった。ところが、租界地域を持っている上海をはじめとする華中地域で、日本軍が勢力を拡大させてこの地域を占領したことは、英米両国が中国で持っている権益と真っ正面から衝突することを意味した。このため、英米両国は重慶にある蒋介石政権を支援する方針を打ち出した。イギリスは、当時イギリス領だったビルマから、雲南省を通って陸路を用いて重慶の蒋介石政権に支援物資の輸送を始めた。この陸上輸送ルートがいわゆる「援蒋ルート」である。

 日本軍は重慶に対して繰り返し航空機による戦略爆撃を行って蒋介石の国民政権を圧迫したが、中国大陸の奥深くに入って戦線が伸びすぎた日本軍は、都市と鉄道を確保するのがやっとで、国民政府軍との戦闘やゲリラ的戦闘を行う中国共産党勢力との戦いの中で、戦線は泥沼の膠着状態に入っていった。

 この頃までの日本軍による中国での急速な勢力の拡大の背景には、ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの勢力拡大が影響していることは見逃せない。1933年に政権を獲得したヒトラーが率いるナチス・ドイツは、第一次世界大戦後のヨーロッパ秩序の基礎となったヴェルサイユ条約を無視して、軍備増強の道を歩んだ。ナチス・ドイツと日本は、1936年7月に共産主義勢力に関する情報交換等を目的とする防共協定を締結した(後にイタリアが参加して日独伊防共協定となった)。こういった協定が締結されたのは、日本とドイツはソ連と相対しているという点で利害が一致していたからである。

 日本の華中地域での勢力拡大と時を同じくして、ナチス・ドイツは1938年3月、オーストリアに侵攻しこれを併合した。ナチス・ドイツはそれに続いてチェコスロバキアへの圧力を強めた。英仏は、ドイツとの戦争開始を避けるため、1938年9月に行われたミュンヘン会談において、チェコスロバキアのうちドイツ系住民の多いズデーテン地方のドイツへの併合を認めた。こういったナチス・ドイツの一連の動きは、日本に「軍事力による圧力を加えれば勢力を拡大できる」という慢心を与えたものと思われる。

 ミュンヘン会談における英仏の妥協は、さらにナチス・ドイツの勢力拡張を勢いづかせた。1939年に入ると、ナチス・ドイツはポーランドに対する圧力を加えた。ナチス・ドイツは、ポーランドにおける自らの影響力拡大を意図するソ連の考えを利用して、1939年8月、ソ連との間で独ソ不可侵条約を締結した。この条約にはドイツとソ連によるポーランドの東西分割を含む秘密協定があったことが第二次世界大戦後に明らかにされている。

 この独ソ不可侵条約は世界を驚愕させた。共産主義を目の敵とするファシズムの筆頭であるナチス・ドイツと共産主義の頭目であるソ連が手を結んだからである。不可侵条約の締結により、ソ連と直接対決する心配のなくなったナチス・ドイツは、1939年9月1日、ポーランドに対する電撃的な侵攻作戦を開始した。これに対し英仏はドイツに対して宣戦を布告した。第二次世界大戦の勃発であ。

 中国の華中地方では、南京陥落直後の1938年1月、抗日統一戦線を結集するため、江西省の南昌において、「長征」に加わらずに江西省等に残っていた中国共産党勢力を結集して国民革命軍新四軍が結成された。一方、これより前の廬溝橋事件直後の1937年8月、中国共産党の紅軍を主体とする国民革命軍第八路軍が結成されていた。この新四軍と八路軍が将来の人民解放軍の母胎となる。

 本来は、中国側にとっては、華北地方を八路軍が、華中地方を新四軍が担当するとともに、第二次国共合作により、こられ共産党勢力と国民政府軍とが協力して、共同で日本軍に当たることが理想であったが、中国側内部も完全な一枚岩にはなり切れていなかった。

 なお、現在の中国では、第二次国共合作が成立して以降は「人民が統一して抗日戦線を戦った」というのが歴史の主流とされていることから、現在の中国側の資料では、この時期の中国側内部での路線対立については明確で客観的な記述が少ない。従って、この時期の中国側の内情についての客観的な事実関係については、現在の政権から独立した将来の歴史家による分析を待つ必要があると思われる。

 蒋介石は、「共産主義は中国の国情に合わない」として、依然として中国共産党勢力と協力しない立場を取っていた。一方、国民党内部では、日本軍の華中地方での急速な勢力拡大と戦闘による被害の拡大を受けて、ある程度日本との妥協を図ることもやむなしと考える汪兆銘(字(あざな)は「精衛」)と、英米に依存して徹底して日本に対抗すべきと考える蒋介石との間で路線対立があった。汪兆銘は、第一次国共合作の立役者であり(「第2章第2部第4節:中国革命の父・孫文の死」参照)、国民党の有力者ではあったが、日本との妥協を図ろうとする考え方はこの時点では既に少数派だった。汪兆銘は1938年暮れに重慶を脱出したため、1939年1月、国民党は汪兆銘を除名処分にした。そうした中、蒋介石は、日本との戦いにおいては、英米両国からの支援には頼るが、中国共産党側とは一向に協力を進めようとはしなかった。それどころか、この時期、各地で国民党軍と八路軍との間で散発的な小競り合いが発生していた。1939年の頃には、既に第二次国共合作は破綻し、実質上、国共内戦とも言える状況が始まっていた、と言ってもよい。

 一方、中国共産党内部では、優れた軍事的指導者としての毛沢東の地位は確立していたが、共産主義思想の面においては、ソ連留学帰国組のソ連型共産主義思想もまだ幅を効かせていた。「共産主義は中国の国情に合わない」という蒋介石の考え方は、「ソ連型共産主義は中国の国情に合わない」という意味では、毛沢東にも共通するものだった。

 ソ連型共産主義思想とは、最終的には労働者・貧農という「持たざる者=プロレタリアート」が全ての権力を掌握するとともに、世界各国の「持たざる者」と協力することによって「国家」という枠を超えた政権を作り上げる、というインターナショナリズムに立脚したものであった。一方、毛沢東は、現実の中国の農民の欲求に立脚し、労働者・貧農だけではなく、自作農や商工業者(いわゆるプチブル)も含めた幅広い社会階層を連合させるとともに、外国勢力を排除した民族主義に基づく中国を作るというナショナリズム指向の強い考え方を主張していた。これはいわば「マルクス主義の中国化」を目指すものである。日中戦争という「国対国」の戦いに直面し、日本に対抗するためには全ての階層は協力すべき、と考える人が多かった当時の状況において、多くの人々は毛沢東の考えの方がソ連留学組が主張するソ連型共産主義理論よりも受け入れやすい、と思うようになったのである。

 さらにソ連がナチス・ドイツと妥協して締結した独ソ不可侵条約、そして下記に述べるように1941年4月に日ソ中立条約を締結したことは、日本軍と戦う日々を送る中国の人々の中に、ソ連に対する大きな幻滅を与え、中国共産党の中におけるソ連留学組の影響力を小さいものにしていくのである。この点は、1960年代に頂点に達する中ソ対立のひとつの原点として留意しておくべき点である。

 なお、この時期の中国共産党内部での路線対立の過程で、ソ連留学組の地位が低下し、毛沢東の指導者としての位置付けが高まっていったことは、日本軍に対抗するために結束を固める必要がある、という戦闘遂行上の必要性とも相まって、毛沢東に対する個人崇拝の萌芽となっていく。「毛沢東に対する個人崇拝」は、21世紀の現在に至るまで続く、中国革命の中における重要な視点の一つである。1956年にソ連のフルシチョフがスターリン批判においてスターリンに対する個人崇拝を批判したことを中国が毛沢東に対する個人崇拝に対する批判と受け止めたこと、1981年にトウ小平が改革開放政策の中で行った「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」の中で毛沢東に対する個人崇拝を批判したこと、1989年以降の中国共産党が求心力を維持するために毛沢東のカリスマ性に頼る路線に揺れ戻っていること、など、「毛沢東に対する個人崇拝」は、中華人民共和国建国後の歴史を語る上でも、ひとつの重要な「キーワード」となっていくのである。

 日本は、国民党から除名された汪兆銘と交渉を行い、1940年3月に南京において重慶政権とは別に汪兆銘を代理主席とする「南京国民政府」を成立させ、この政権を「中国の政府」として承認した(汪兆銘は1944年に死去するが、こういった経緯から、汪兆銘は第一次国共合作の立役者でありながら現在の中国では「漢奸」と呼ばれて批判されていることは前に述べた)。日本軍によって1937年12月に北平において成立されていた「中華民国臨時政府」は、この「南京国民政府」に吸収されることになる。

(注)蒋介石の政権も、本来の首都は南京であり、一時的に首都機能を重慶に移しているだけ、との立場からこの時期の蒋介石の政権も「南京国民政府」と呼ばれることがある。このため、「南京国民政府」と言う場合、どちらの政権を指すのか紛らわしいので要注意である。当時の日本は汪兆銘をトップとする政権を「南京国民政府」と呼んでいたが、この政権は実質的には日本による傀儡(かいらい)政権であることから、歴史を語る上では「新国民政府」と呼んだり「汪兆銘政権」と呼んだりした方が呼び方としては紛れがない。

以上

次回「2-3-6(2/2):日本の敗戦(2/2)」
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