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2010年1月17日 (日)

2-1-1:日清戦争から戊戌の変法まで

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第1節:日清戦争から戊戌の変法まで

 これから清末から辛亥革命、中華民国時代の中国の列強各国による中国の半植民地化の動きについて述べていくことになる。この部分は、現在の中国政府が外資の導入や欧米各国との関係をどう考えているか、の背景となる部分であるので極めて重要である。

 チベット問題やウィグル問題が現在の中国でも重要な課題であることでわかるように、多民族国家である中国において、多くの民族をひとつの国としてまとめることは非常に重要な問題である。

 日本、韓国(朝鮮)、ベトナムは、中国の周辺地域に居住する民族が形作った国々である。これらの国々は、各民族が生活している地域が地理的に比較的明確に中国と分離しており、民族自立の原則に基づけば、これらの国々がそれぞれ個別の独立国となったことは自然の成り行きであったと言える。しかし、もともと中国は、漢民族が多数を占めるとは言え、チベット族、ウィグル族、朝鮮族、モンゴル族、回族などが地域的に混在して生活している多民族国家である。実際、中国東北部の吉林省等には多数の朝鮮族が住んでいるし、中国の内モンゴル自治区の住民の約2割はモンゴル族である。これら複数の民族が混在して生活している地域を民族ごとに分離することは、物理的に非常に難しい。複数の民族が混在して生活している地域で、各民族が自らの主張を強く出すと大きな混乱を招くことになるのは、旧ユーゴスラビア地域など、世界に多くの地域で実例を見い出すことができる。

 そもそも現在の中国の首都である北京についても、歴史的に見れば、隋唐帝国が崩壊して以降、遼(契丹族:907年~1125年)、金(満族:1125年~1235年)、元(モンゴル族:1235年~1368年)、明(漢族:1368年~1644年)、清(満族:1644年~1911年)といった王朝が支配して来た。北京を漢族の王朝が支配していた期間は、むしろ短いのである。

(注1)金と清を建国したのは中国の東北地方の女真族であるが、現在、中国では多くの場合「満族」という言い方をするので、上記では「満族」と表記した。

 このように「民族のるつぼ」である中国に対し、多民族国家であるがゆえの「ひとつの国」としての求心力のなさに付け込んで、豊富な地下資源と膨大な人口に基づく市場を求めて、19世紀後半以降、列強各国(日本も含む)が殺到し、中国を半植民地化していくのである。この歴史の記憶は、1978年以降の改革開放経済を歩む現代中国の政策の中にも色濃く投影されている。豊富な地下資源と膨大な人口に基づく市場を求めて外国資本が中国に入ろうとしているのは、帝国主義の時代も、現在も、基本的構造は同じであり、だからこそ多民族国家であることを利用して民族間の対立を激化させ、「ひとつの国」としてまとまる力を削ごうとする動きに対しては、中国政府及び多くの中国人民は「過敏」とも言える反応を示すのである。

 これから述べていく中国革命の歴史の中において、日本は最初は列強各国のひとつとして、そして後半はその列強各国の中の最大勢力として登場してくることになるが、本題に入る前に、戦争に関する事実関係を指摘しておきたい。

 日清戦争は日本と中国(清)との戦争であったが、主な陸上における戦闘は朝鮮半島で行われた。日露戦争は日本とロシアとの戦争であったが、主な陸上における戦闘は中国で行われた。第一次世界大戦に日本は参戦したが、日本が参加した陸上における戦闘は山東半島にあるドイツ租界とその周辺、つまり中国で行われた。第二次世界大戦においては、日本本土は空襲や原爆投下で大被害を受けたが、陸上での戦闘は沖縄や硫黄島で行われ、これら島しょ地域以外の日本本土が戦場になることはなかった。つまり、空襲や原爆により大きな被害を受けたのは事実であるが、外国の兵士に領土を蹂躙(じゅうりん)され、文化遺産を破壊されたり略奪されたりした、という経験は日本にはないのである。

 一方、中国においては、1860年のアロー号戦争において、北京は英仏両軍の侵攻を受け、円明園、イ和園(イは「臣」へんに「頁」=いわえん;イーフーユェン)などの歴史的建物が破壊され、文化遺産が略奪された。1900年の義和団事件の際には、日・英・米・露・仏・独・伊・オーストリアの8か国の軍隊によって北京や天津などの華北の要所が占領された。1937年の廬溝橋事件をきっかけにして始まった日中戦争においては、日本軍が中国各地に進撃し、中国の国土を戦場として戦闘を行ったことは御承知のとおりである。中国本土が長い期間にわたり外国の兵士に蹂躙されたという記憶は、今でも中国の人々の心から消えていない。このことは、中国の人々と話をする場合に(特に日本人にとっては)忘れてはならないことであるので、最初に指摘しておきたい。

 1840年に始まったアヘン戦争以来、列強各国は、中国を半植民地化していく。アヘン戦争の結果1842年に結ばれた南京条約によって香港島が、アロー号戦争の結果1860年に結ばれた北京条約によって九龍半島先端部が、それぞれイギリスに割譲された。また、清は、1884年~1885年に起きたベトナムを巡る清仏戦争に敗れ、ベトナムに対する宗主権を失い、ベトナムはフランスの保護下に入った。

 1894年~1895年の日清戦争においては、朝鮮の支配権を巡って日本と清国とが争い、清は日本に敗れた。日清戦争の結果締結された下関条約では、清は日本に対して台湾を割譲したほか、2億テール(当時の金で約3億円)の賠償金を日本に対して支払った。この賠償金の金額は、当時の日本の国家予算の3.5年分にも上る巨額なものであった。この賠償金を用い、日本は、八幡製鉄所を建設するなどその後の国家建設のインフラ整備を進めていくことになる。

(注2)読者はよく御存じのように、現在の中国は、日中戦争に関する賠償金は放棄している。戦争に対する賠償金と経済協力とを同列に議論することはナンセンスであるが、1979年以降、日本が中国に対して行った経済協力の額(「貸し付け」である円借款や無償協力などを含め2006年3月現在で累計3.4兆円)を踏まえると、日中両国のぞれぞれの時点での財政規模に占める割合を考えた場合、過去150年間で日中両国が相手国から得たものの損得勘定は、日本が中国から得たものの方が圧倒的に大きく、全くバランスが取れていないことがわかる。この点も、日中関係に携わる日本人は、常に頭の片隅に置いておく必要があることである。

 1894~1895年の日清戦争による清の敗北は、欧米列強に対して清の弱体化を強く印象づけ、列強各国による中国の更なる半植民地化の誘い水となった。列強各国は、軍事的圧力を背景として、1898年、ドイツが山東半島の膠州湾を、ロシアが大連・旅順を、イギリスが香港島と対岸の九龍地区の後背地域である「新界」を清から租借(軍事的拠点等とするために借り受ける)し(注3)、フランスが広州湾を占領した。

(注3)1898年に九龍半島の「新界」を租借する時、イギリスは「99年間」という期限付きで租借している。当時は、この「99年間」とは「永遠に」という意味であると考えられていたと思われるが、この時の租借期限の規定に基づき、99年目の1997年、香港はイギリスから中国に返還された。

 列強各国が中国の半植民地化を進める中、日清戦争での敗北を深刻に受け止めた康有為、梁啓超、譚嗣同ら進歩派官僚は、1860年年代頃から行われてきた洋務運動(第1章第2部第1節:19世紀の中国・ロシア・日本の状況参照)が失敗だったと認識した。洋務運動では「中体西用」と言われるように、中国の旧来からの体制を維持しながら西洋の技術だけを取り入れることが行われた。彼ら進歩派官僚は、洋務運動のこういった姿勢が、西洋式の政治システムを積極的に取り入れた日本に負けた原因である、と考えた。彼らはこの反省の上に立って、議会を設置し、立憲君主制を打ち立てるなど政治システム自体を革新させることが重要であると認識し、清朝政府の立て直しを図ろうとした。この改革の試みに、当時の皇帝である光緒帝(当時27歳)も賛同し、1898年6月11日、光緒帝は軍隊の洋式化、科挙の廃止、洋式学校の設立などに関する勅令を発した。これが「戊戌の変法」である。

 ところが、「戊戌の変法」が最終的に目指すものは議会の設立と立憲君主制の確立であることから、これを自らの権力基盤への挑戦と捉えた西太后と保守派官僚は反発し、変法を進める官僚を罷免した。光緒帝は、変法に理解を示していた軍閥政治家の袁世凱に軍事クーデターを起こすよう依頼したが、袁世凱がこれを西太后に通報したため、光緒帝は西太后によって9月11日に幽閉され、「戊戌の変法」は100日足らずの間に瓦解した。

 「戊戌(ぼじゅつ)の変法」は、日清戦争に負けたことにより、清朝内部にも日本の明治政府のように議会を設立した立憲君主制を導入しなければ、中国は列強各国にいいようにされてしまう、という危機感を持つ者が出てきたことを意味する。

 この変法を推し進めた進歩派官僚の一人である梁啓超に関して、東洋大学中国学会会報(現在は「白山中国学」と改名されている)第7号(2000年10月発行)で遠藤賢氏が「梁啓超における変法論の一考察」と題する論文を書いている。

(参考URL)「梁啓超における変法論の一考察」(遠藤賢)
http://bunbun.toyo.ac.jp/chutetsu/institute/vol07/vol7-4.htm

 この論文の中で遠藤賢氏は、梁啓超の考え方を示すものとして、梁啓超の「文集」に収められている「論変法不知本原之害」(「根本を知らずに変法について論ずることの害」)と題する論文に書かれている下記の文章を紹介している。

「同治の初年にドイツの首相ビスマルクが人に語って次のように言った。三十年後には日本は発展し、中国は弱くなってしまうだろう。日本人で欧州に游ぶ者は、学業を討論し官制を講究してから自国へ帰って学んだことを施行する。中国人で欧州に游ぶ者は、あちらの工場へ行っては戦艦に設置する大砲の性能を聞き、こちらの工場へ行っては値段の安さを聞き、それを購入しては自国で用いている。強弱の根源はここにあるのだろう、と。ああ、今不幸ではあるがビスマルクの言葉は当たってしまった。」

 「同治」とは清の第10代皇帝の穆宗(=同治帝:在位1861~1875年)の時代のことで、ちょうど「洋務運動」が始まった頃の時代を指す。また、御存じのようにビスマルクとは、1862年~1890年の間ドイツ(当時はプロセイン)の首相を務め、鉄血宰相と呼ばれた人物である。梁啓超は、「中体西用」(中国式の体制で西洋の技術を用いる)をモットーとした「洋務運動」の敗北が日清戦争によって明確になってしまったことを嘆いたのである。技術を単体で導入しただけではその技術の力を発揮させることはできず、その技術を支えている周囲の様々なシステムを合わせて取り入れないと、自らの手でその技術を活かすことはできないのだ、と考えたこの時の梁啓超の考え方は、非常に示唆に富むものであり、重要な視点であると考えられる。

 しかしながら、「戊戌の変法」は、西太后と保守派官僚らによってあっけなく封殺されてしまった。これは「戊戌の変法」が進歩派官僚と光緒帝の同意の下で進められていたとは言え、社会にこれを支えるバックグラウンドがなかったことを意味する。「戊戌の変法」は、日本の明治維新のような改革を導入することによって清朝政権を維持しようとするものであったが、この当時、多くの中国の人々は、列強各国による中国の半植民地化に怒りを覚えてはいたが、西太后が支配する清王朝を守ろうなどとは誰も思っていなかったからである。

 進歩派官僚らが西太后派によって罷免されると、光緒帝は、軍閥政治家の袁世凱の軍事力に期待し、彼に軍事クーデターを起こすよう頼んだ。しかし、袁世凱はこのことを西太后に通報し、逆に光緒帝は西太后に幽閉されてしまったのである。辛亥革命の後で明らかになるが、この軍閥政治家・袁世凱が目指していたものは、戊戌の変法の最終目標である議会の設立や立憲君主制の確立とは全く別のものだった。若き光緒帝がこういった袁世凱に頼らざるを得ないほど社会の他の勢力からの支援を受けることができなかった点が悲劇だったと言える(後述するように、辛亥革命を進めようとした孫文も袁世凱の軍事力に頼らざるを得なくなった。革命の理想とはほど遠い軍閥政治家の力を借りなければ事態を動かせなかった中国革命の悲劇的な一面を示している)。

 「戊戌の変法」が失敗した背景としては、以下の2つを指摘することができる。

(i) 「戊戌の変法」は、列強各国による支配を防ぐ、という愛国的性格を帯びてはいたが、それはあくまで改革によって清朝政府を維持することによって諸外国を排除しようとするものであり、既に清朝政府に愛想を尽かしていた多くの中国の人々の共感を得ることはできなかったこと。

(ii) 「戊戌の変法」を進め、列強各国を排除することによって活躍の場を広げたいと願う民族系資本家層がこの時点の中国では育っていなかったこと。当時、中国人資本家の一部は、外国の資本家と協力して、列強各国による中国の半植民地化政策をむしろ背後で支えていた。もはや崩壊寸前の清王朝と結ぶより、外国資本と結んだ方が資本家としての成長の可能性が大きいと判断したからである。これら、外国資本と結んだ中国の資本家たちを「買弁(ばいべん)資本家」と呼ぶ。「買弁資本家」は、この後の中国革命の中で、その売国的性格を徹底的に批判されていくことになる。

 上記の(ii)の点、即ち、清朝末期の時点では、中国には民族資本家層が育っていなかった(外国資本と結んだ買弁資本家しかいなかった)という点は、今後、中国の革命の過程を見る上で重要なポイントである。後で述べるように、辛亥革命は、外国の支配を排除するという「独立革命」の側面と、西欧の市民革命のような絶対王政を倒して資本家による政治支配を打ち立てるという「ブルジョア革命」の側面とがあるが、中国には「ブルジョア革命」を強力に推進する主体となるべき民族資本家がいなかったのある。資本家はいることはいたが、中国の場合それは「買弁資本家」であった。買弁資本家にとって外国勢力を追い出すことは自分たちの存在基盤を失うことを意味するので、買弁資本家は、辛亥革命を後押しするどころか、むしろ妨害する役目を果たしたのである。

 中国において、外国資本と縁を切った民族資本家が育っていなかったことは、辛亥革命の「ブルジョア革命」としての意味を極めて希薄なものにした。それと同時に、このことは、辛亥革命に引き続いて行われた中国共産党による社会主義革命が、マルクス・エンゲルスが想定し、ロシア革命で実行されたような、ブルジョア資本家を打倒する革命とは性質の異なる革命、即ち農民を主体とする「農民革命」の性格を強く持つこになる出発点となった。

以上

※次回「2-1-2:義和団事件」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-040c.html
へ続く。

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