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2010年1月30日 (土)

2-3-4:西安事件と第二次国共合作

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第4節:西安事件と第二次国共合作

 蒋介石が、1935年6月、日本軍との間で、河北省からの国民党機関の撤退を約束させられる梅津・何応欽協定を受け入れたのは、とりあえず日本軍との戦闘状態を休止させ、「先ず内を安んじ、後に外を攘(はら)う」という方針に従って、中国国内における共産党勢力を一掃し、自らの中国における支配権を確立させようと考えたからであった。日本軍は、こういった蒋介石の考え方に付け込んで、1935年11月には北京(当時は「北平」)近郊に「冀東防共自治政府」を成立させて華北地域への勢力拡大の機会を狙うようになった。このように日本軍の勢力拡大を許したことから、共産党勢力の一掃にばかり関心を払う蒋介石に対する反発が中国の人々の間に高まっていった。1935年12月9日には、北京(当時は「北平」)において、蒋介石に対して共産党と戦うのをやめ、抗日の戦いを起こすよう求める学生らのデモが発生した(一二・九運動)。こういった人々の気持ちを背景として、蒋介石のかたくなな方針に対して、足元の中国国民党の内部にも蒋介石の方針に疑問を持つ人が出始めるのである。

 蒋介石は「長征」を終えた共産党勢力が1936年にセン西省の延安に入ったことについて「共産党勢力を山奥に追い詰めた」と認識し、共産党勢力の根拠地である延安を包囲し攻撃する方針を取っていた。父親の張作霖を日本軍に殺された張学良は、この頃、蒋介石の命により、中国東北地方出身者からなる東北軍を率いて、共産党掃討作戦を行っていた。東北軍は、もともとは中国東北地方にいる者たちで、自分たちの故郷は日本軍の力を背景とする「満州国」となっていた。後述するように、張学良は、1990年12月9日にNHKで放送されたインタビュー番組「NHKスペシャル 張学良がいま語る 日中戦争への道」で自ら語っているが(この時、張学良は89歳)、この時期、張学良は東北軍の部下たちから、共産党との戦いをやめて、故郷に帰って日本軍と戦うよう再三に渡って突き上げを受けていたという。この番組の中で、張学良は、自分自身は蒋介石の考え方とは逆に「まず外敵を打ち払ってから、その後に国内を平定すべき」と考えていたと述べている。

 1936年4月9日、張学良は、密かに延安を訪れ、周恩来と会談した。この会談で、両者は、内戦を止め、共同して日本と戦うことに基本的に合意し、張学良は蒋介石を説得することを約束したという。

 一向に共産党との戦いが進展しない状況に業を煮やした蒋介石は、自ら戦況を視察し、現地にいる国民政府軍を督戦するため、1936年12月4日、セン西省の西安に入った。ところが、12月12日、張学良と共に共産党との戦いを行っていた西北軍の楊虎城が蒋介石を監禁する、という事件が起こったのである。この事件は、中国国民党の軍隊の司令官が、自分たちの最高司令官を監禁するという前代未聞の事件であった。これが西安事件である。

 蒋介石を拘束した張学良と楊虎城は、蒋介石に対し、共産党との間での内戦を停止し、共同で日本軍と当たるよう強く迫った。延安からは、周恩来、葉剣英(後の国家主席)らが張学良の飛行機で西安入りし、国民党側との間で協議が行われた。中華民国の首都南京と中国共産党の本拠地である延安、そしてこの西安との間で連絡が取られ、三週間にわたる交渉が行われた。しかし、蒋介石自身は、周恩来との会談を拒み、共産党との合意文書に署名することを拒否し続けていた。しかし、最終的に、12月24日、周恩来と蒋介石のトップ会談が実現し、その結果、妥協が成立して、蒋介石は釈放された。張学良は、この周恩来と蒋介石とのトップ会談に立ち会っていたが、上記のNHKのインタビュー番組の中で、会談の内容を聞こうとしたインタビュアーの磯村尚徳氏に対して「これ以上は質問しないでください」と、この会談の内容について答えることを拒否した。この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのか、については、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、歴史上の謎となってしまった(張学良は、2001年10月に100歳で死去している)。

 「人民日報」のホームページにある「中国共産党簡史」によれば、この時、蒋介石は「共産党に対する包囲作戦を中止し、紅軍と連携して日本に抵抗する」などの6項目について合意した、とされている。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第二章:土地革命の中における農村が都市を包囲するという路線の確立(5)」
5.抗日民族統一戦線を確立するための闘争
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/index.html

 西安事件が起きた時に蒋介石が拘束された場所は、西安市の東の郊外、秦の始皇帝の兵馬俑坑へ行く途中にある観光地・華清池にある。華清池は温泉池で、唐の時代、玄宗皇帝が楊貴妃とともに過ごした別荘地であった。現在でも華清池に行くと、西安事件の際の生々しい銃痕が残る建物が室内の様子を当時のままにして展示されている。

 張学良は、西安に留まるよう求める部下たちの意見を振り切り、蒋介石が南京へ帰ったのと同じ日に南京へ移動した。張学良は、南京において国民政府の国家元首を監禁した罪で軍事裁判に掛けられ、有罪となった。その後、蒋介石から恩赦が出されたが、張学良は、それ以後、軟禁状態におかれ、1949年に蒋介石が台湾へ逃れると、一緒に台湾に移された。その後も軟禁状態は続き、張学良が公の場に姿を見せたのは台湾の民主化が進んだ1990年になってからであった(その機会にNHKがインタビューを行ったのである)。張学良は、軍事裁判に掛けられ有罪になることがわかっているのに南京へ行ったことについて、NHKとのインタビューの中で「自分は南京へ行けば殺されるかもしれないと思っていた。だが自分は軍人だ。自分の身を犠牲にして、内戦をやめさせ、統一した抗日戦線を作りたかったのだ。」と述べている。

 この西安事件における合意を受けて、中国共産党側も1937年2月に開かれた第5期中央委員会第3回総会において、「内戦を停止して一致して外と当たる」「言論、集会、結社の自由を保障し、一切の政治犯を釈放する」、(もし国民党側が蒋介石との合意事項を実行するならば、という条件付きだが)「『ソヴィエト政府』という名称を『中華民国特区政府』と改める」「『紅軍』という名称を『国民革命軍』と改める」「特区においては徹底的な民主制度を実施する」「地主の土地を没収するという政策を停止する」ことを決定した。これは、中国共産党にとっては「共産主義革命の一時停止」を意味するものであるが、これを以て、国民党に抗日統一戦線の樹立を迫ったのである。結局、中国共産党側のこのような動きを中国国民党側も受け入れ、ここに中国国民党と中国共産党との協力関係、即ち「第二次国共合作」が成立した。このような状況の下で1937年7月7日の廬溝橋事件の日を迎えることになるのである。

以上

次回「2-3-4:【コラム:張学良氏について】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-0417.html
へ続く。

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