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2010年1月21日 (木)

2-1-3:辛亥革命(清王朝の終焉)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第3節:辛亥革命(清王朝の終焉)

 義和団事件の後、中国は列強各国による半植民地状態となり、清朝政府はもはや中国の国土と人民を守る能力を失ってしまった、と言ってよい。

 当時、ロシアと日本とは、中国東北部の権益を巡り争っていたが、ついに1904年、日露戦争が勃発した。この日露戦争は、陸上戦では、例えば旅順近郊の二○三高地で激戦が行われたように、戦争の舞台は中国の領土内であった。にも係わらず、この日露戦争において、清朝政府は「中立」の立場を取り、自国の領土内で日露両国が戦闘を繰り返すのを傍観するしかなかったのである。

 日露戦争において、激しい戦闘の結果、日本が大国ロシアに勝ったこととは、中国の知識人に大きな衝撃を与えた。この日露戦争の各戦闘での敗戦と戦争のための負担の増加によってペテルブルクの労働者が皇帝に対する抗議の声を上げ、それをロシア皇帝が武力で鎮圧した事件が発生した(「血の日曜日事件」(1905年1月22日):「第一次ロシア革命」とも呼ばれる)。このロシアでの事件は、専制君主制では、もはや国全体をまとめ上げ他国と対抗することはできないことを中国の人々に印象付けた。既に1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を制定し、多額の税金を納める者のみによる制限選挙とは言え、曲がりなりにも法律に則り選挙によって選出された議員で構成される議会を持つ議会政治をスタートさせていた日本と、皇帝が強圧的な命令により国民を動員して戦争を行ったロシアとの間では、国家としてのまとまりや国全体の士気の高まりの点で大きな違いが生じていたことは明らかであったからである。

 こういった動きの中で、当時、孫文をはじめとする日本に留学していた中国の青年たちは、1905年8月、日本において「中国革命同盟会」を設立し、「駆除鞭虜(満族による支配の排除)」「恢復中華」「創立民国」「平均地権」を盛り込んだ綱領を決定した。

 孫文ら在日留学生らによる「中国革命同盟会」の結成を受け、「血の日曜日事件」のような事態が中国でも起こることを恐れた清朝政府は、ようやく自ら政治改革を進める必要を認識するようになり、1905年、「(千数百年に渡って続いた)科挙制度の廃止」「立憲準備の開始」等の決定を行った。しかしながら、こういった清朝政府存続のための改革の試みは既に手遅れだった。義和団事件に対する賠償金支払いのための増税への一般人民の清朝政府への反感を背景として、これ以後、各地で清朝政府に対する反対の決起が相次いで起こることになる。このため、清朝政府は、袁世凱ら軍閥政治家の軍事力を用いて、これらの決起を鎮圧することに必死になった。

 そうした中、1908年11月13日に光緒帝が死去した。その直後の11月15日、50年近くに渡って清朝政府を実質的に支配してきた西太后が死去した。光緒帝と西太后の死の時期があまりに接近しているため、当時から、光緒帝は死期を悟った西太后に殺されたのではないか、との噂があった。現在でも、光緒帝の死因については、様々な議論が行われている。

 光緒帝と西太后の死後、光緒帝の弟・醇親王の子である宣統帝(愛新覚羅溥儀:いわゆる「ラスト・エンペラー」)が3歳で即位し、父親の醇親王が監国摂政王となって清朝政府の実権を握った。醇親王は、1898年の戊戌変法を行ったときに袁世凱が自分の兄・光緒帝を裏切って西太后側に付いたことを忘れていなかった。このため袁世凱は醇親王から疎まれ、清朝政府の中央から遠避けられるようになった。

 反清の立場の決起が各地で起こることに危機感を募らせた清朝政府は、中央集権を強化し、政権の求心力を強めるため、当時、民間資本によりバラバラに建設が行われていた鉄道の国有化を推進しようとした(鉄道が通信網とともに、政府の中央集権化のための道具となることについては「第1章第2部第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い」参照)。清朝政府は、既に鉄道の国有化を進めるだけの財力はなかったことから、これを外国からの借款で行おうと考えた。外国からの借款による幹線鉄道の国有化は、鉄道を拠点として中国での権益を強めようとする列強各国の利害とも一致していた。

 1911年5月、清朝政府が幹線鉄道の国有化を宣言すると、鉄道建設を進めていた民間資本家、列強各国による中国支配強化を懸念する知識人や青年たち、賠償金支払いのための増税を不満に思う地主階級、その負担を転嫁させられていた一般人民は、「反清朝政府」という点でベクトルが一致し、清朝政府に対する反発の機運が急速に高まった。この年8月には四川で鉄道国有化反対運動が起きた。この四川での鉄道国有化反対運動の鎮圧のために、清朝政府は、武漢にいる湖北軍の一部に出動を命じた。

 武漢にある湖北軍は、もともと洋務運動を進めた官僚・張之洞によって創設された軍隊であったが、その兵士には耕地を持たない農民が多く含まれており、幹部の中には日本へ留学した者もいた。湖北軍内部の清朝政府に反感を持つグループは、四川への出動命令に反発し、清朝政府に対する反乱の準備を進めた。10月に入って、湖北軍の反清朝政府グループは、反乱の動きが清朝政府側に察知されそうになったことから、10月10日、武昌において武装蜂起を決行した(湖北省の省都の武漢は、揚子江とその支流である漢江に挟まれた武昌、漢陽、漢口の3つの地区からなる都市である)。これが清朝崩壊へとつながる革命の発端となった(この年の「えと」から「辛亥(しんがい)革命」と呼ばれる)。

 武昌蜂起は中国各地に飛び火し、各地において武装蜂起が起こり、清朝政府からの独立が宣言された。武昌蜂起の時、孫文は米国のデンバーにいたが、各地での武装蜂起の情報に接し、12月に帰国した。そして、1912年1月1日には、南京において臨時政府の樹立が宣言され、孫文はその臨時大総統に選出された。南京臨時政府は、孫文が唱える三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を綱領として掲げていた。ただ、南京臨時政府にとっては、清からの独立は宣言したものの、具体的に北京に残る清朝政府との関係にどう決着を付けるかが難問であった。

 列強各国(特にイギリス)は、南京臨時政府の持つナショナリズム的傾向に懸念を持ち、軍閥政治家・袁世凱の軍事力に期待を寄せた。そういった列強各国の自分への好意的見方を敏感に感じ取った袁世凱は、自分を疎んじていた醇親王(宣統帝の父親)が実権を握る清朝政府に完全に見切りを付け、清朝政府と南京臨時政府の間に立って、以下の条件で妥協を成立させた。

○宣統帝は退位する。
○宣統帝と醇親王は、その身柄の安全を保障され、北京の紫禁城に引き続き居住することが認められる。
○袁世凱を南京臨時政府の臨時大総統に就任させる。

 清王朝の存続はもはや困難と判断した醇親王はこの条件を受け入れた。まとまった軍事力を持たなかった南京臨時政府もこの袁世凱の妥協案を受け入れた。これにより、1912年2月宣統帝は退位し、清の時代に終止符が打たれた。また、この妥協案に基づき、翌3月、孫文は臨時大総統の座を袁世凱に譲った。

 せっかく革命が成ったのに軍閥政治家である袁世凱に臨時大総統の座を譲ったこの時の孫文の判断については、後世の歴史家の中には批判的な見方をする人もいる。しかし、この時の南京臨時政府は、「清朝政府打倒」という一点についてだけ一致した様々な考え方を持つ雑多なグループの集合体であり、まとまった軍事力を持っているわけではなかった。列強各国からの干渉を防止するためには袁世凱の持つ軍事力に頼るほかはなかったのである。

 孫文は、三民主義という革命の理想を高く掲げていたが、一方で、当時の中国人民の状況を踏まえると、中国において西欧型議会制民主主義をすぐに取り入れることは無理であると考えていた。孫文は、第一段階では軍政、第二段階では上からの政府主導による政治(訓政)の実施、第三段階で立憲議会制による政治(憲政)を実施、というふうに段階的に革命を進めるべきである、と考えていた。こういった段階的な革命の進め方が当時の中国の実情を踏まえれば最も現実的である、と孫文は考えていたのである。このような現実的な政治認識に立てば、1912年の時点で孫文が軍閥政治家・袁世凱に臨時大総統の座を譲ったのは、やむを得ない判断であった、と評価するのが今日では一般的である。

以上

※次回「2-1-3:【コラム:中国の人々の日本に対する見方】」
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へ続く。

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