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2010年1月25日 (月)

2-2-3:第一次国共合作

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第3節:第一次国共合作

 中国革命の父と呼ばれる孫文は、「五四運動」の高まりを受けて、革命における大衆運動の重要性を痛感したことは前に述べた。また、前節で、「五四運動」は、「反日運動」がその主軸になっているものの、その中には「反帝国主義・半植民地主義(=ナショナリズム運動)」「反軍閥主義(=民主主義の確立運動)」「反資本家運動(=社会主義的運動)」が重なっているものだったことも述べた。ここで、革命的運動において押さえておかなければならない社会構造について、改めて振り返っておきたい。

 社会主義革命運動においては、「資本家」対「労働者」、「大地主」対「小作人・貧農」といった1対1の単純化された対立構造が議論されることが多いが、中国に限らず、現実の社会構造はそれほど単純ではない。当時の中国社会を構成する人々のグループを分類すると概ね以下のように分けられる。

<都市部>

(1) 資本家
 ・列強各国の外国資本と強く結びついた資本家(「買弁資本家」とも言う)
 ・外国資本との結びつきが弱い民族資本家

(2) 中小企業経営者(小規模工場の経営者:工場・機械設備などは所有しているが、大型のプロジェクトに投資する程の資本力は持たない)

(3) 個人商店経営者(都市部でもっぱら家族を従業員として営業している商店主など)

(4) 大学教授・文化人などの知識人

(5) 政府職員・学校の教師などの公務員

(6) 民間企業で働く賃金労働者

(7) 鉄道など公的機関で働く賃金労働者

(8) 軍隊の中の下士官(地主・自作農の次男、三男などが多く、外国留学経験者も多い)

(9) 兵士(都市の失業者だった者や農村で職にあぶれた貧農の次男、三男などが多い)

<農村部>

(10) 自らは耕作せず小作料収入だけで生活している地主(「寄生地主」とも言う)

(11) 所有する一部の土地を自ら耕作し、一部は小作地として小作人に貸し付けている富農

(12) 自らの土地を所有し、その土地を耕作して生計を立てているが、小作地は所有していない自作農

(13) 自らの土地を持たず、小作料を支払うことによって地主から土地を借りて行う耕作によって生計を立てている小作農(「貧農」とも言う)。

(14) 土地は所有せず、家畜のみを所有し、草原を渡り歩く遊牧民

 革命の各段階において、これらの多くのグループの人々のうち、どこまでの範囲を「味方」と考えるのか、が革命の「路線」を規定することになる。

 「五四運動」は、基本的には買弁資本家を除く都市部における上記の全てのグループの人々が一致団結したことにより、全国的な大きなうねりの運動となったのである。後で述べることになるが、中国共産党は、抗日戦争期・国共内戦期を通じて、労働者階層や貧農階層(プロレタリアート)に加えて、都市部では(2)中小企業経営者、(3)個人商店経営者(4)大学教授・文化人などの知識人階層、農村部では一部の(11)富農と(12)自作農をも取り込んで、幅広い国内の支持を取り付け、政権奪取に成功した(これらプロレタリアート以外のグループの意見を代表する機関として、中華人民共和国成立時にできたのが「中国人民政治協商会議」である)。

 しかし、その後、共産主義の理想を追求した毛沢東は、これらプロレタリアート以外のグループを「資本主義のシッポ」として排撃する「文化大革命」を発動した。それによって「知識人グループ」は迫害され、農村における「自作農」は消滅した。「文化大革命」終了後、1978年から始まった改革開放政策により、(2)中小企業経営者、(3)個人商店経営者、さらには(1)資本家のうち「民族資本家」と呼べるような階層まで出現し、それらが現在の中国共産党政権を支えている。これが江沢民氏が提唱し、現在に続いている「三つの代表」思想に基づく政策である。

 このように、中国における「政策路線」は、上記の社会内の存在する各グループのうち、どこまでを政権を支えるグループに取り込むかに応じて揺れ動いてきた。これから中国革命の歴史を語っていく上で、社会に上記のような様々なグループが存在することは繰り返し参照することになる。

 孫文は、中国の社会において、上に掲げたような各グループがそれぞれ別々の利害関係を持っていることを理解していた。辛亥革命によって皇帝権力が消滅した結果、それらの各グループをまとめる求心力が消滅したわけだが、新たな求心力はまだ生まれていなかった。国家としての求心力を失った当時の中国について、孫文は「中国の人々は『散沙の民』(握ろうとしても指の間からこぼれてしまう砂の如くまとまることのない人々)である」と称して嘆いていたのであった。孫文は辛亥革命の初期、最初は軍閥による軍事力に頼ってでも国内を統一し、その後、外国勢力を排除しつつ、民主主義を強化していくことを考えいたようである。しかし、袁世凱をはじめとする軍閥勢力は、むしろ外国勢力と癒着し、民主主義勢力を圧迫していったことから、孫文は軍閥の軍事力による中国の統一は自らの理想を実現させるための手段としては、もはや使えないことを痛感したのであった。

 孫文は、列強各国による干渉を排除し、軍閥の軍事力にも頼らないで、中国をひとつにまとまるためには、社会に数多く存在する各グループにおいて、小さな意見の対立については一定の妥協を図り、大同団結することが重要であると考えるようになった。孫文は社会主義者ではなかったが、「五四運動」を通じて盛り上がった労働者階級の団結の力は大事にしなければならないと考えるようになった。このため、孫文は、社会主義勢力とも協力し、誕生したばかりの中国共産党とも協力して、まずは「外国勢力の排除」「軍閥による支配からの脱却」を図ろうと考えた。

 一方、誕生したばかりの中国共産党の側は、中国における資本主義の発達はいまだ不十分であるとの認識であった。中国共産党側では、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に示される歴史観によれば、まず封建的な支配を打倒する市民革命(ブルジョア革命)が起こって資本家主導の政権ができ、しかるのちに労働者階級(プロレタリアート)による革命が起こると考えていた。従って、外国勢力が中国を支配し、軍閥のような封建的な支配体制がまだ残っていた当時の中国においては、まずは民族資本家グループとも協力して、軍閥や買弁資本家グループを排除して中国の独立を達成するとともに軍閥支配による封建的要素を排除して、諸外国の支配を排除した近代的な国家を建設し、その次の段階として社会主義革命を進めるべき、と考えていた。従って、中国共産党側でも、孫文が考える「大同団結」の考え方は受け入れ可能なものだった。

 ここに孫文が率いる中国国民党と中国共産党との考え方が一致し、両党による協力関係が打ち立てられることになる。

 もともと孫文は、日本が明治維新によって前近代的な体制を打破し、立憲議会政治を始めたことを見て、中国においても、西欧型議会制民主主義を樹立することを目指していた。しかし、孫文は、ヴェルサイユ会議において、自分が理想としていた西欧型議会制民主主義国である列強各国が中国政府の要求を無視したことを目の当たりにした。孫文は、結局は西欧の議会は資本家階級に牛耳られており、自らが掲げる広範な人々の民生の向上(民生主義)に直結するものではない、と感じたのであった。孫文は、西欧型議会制民主主義に失望し、むしろロシアが清朝政府と結んだ不平等条約を自ら破棄する宣言をしたソ連政府に親近感を持つようになる。

 孫文は、中国共産党が設立された5か月後の1921年12月、中国共産党設立に係わったコミンテルンのマリーンと会談した。マリーンを通じて孫文が西欧型民主主義に失望していることを知ったコミンテルンは、中国共産党と中国国民党の協力を勧めるようになる。

 一方、ロシア革命後の混乱期をなんとか収拾し、各地方を支配下に治め「ソビエト社会主義共和国連邦」を成立させたソ連政府は、北京の中国政府との間で国交樹立交渉を行ったが、共産主義勢力の拡大を警戒する列強各国の影響下にある軍閥によって支配されていた当時の北京政府とソ連との国交樹立交渉は決裂した(1922年)。こうしてソ連は、中国共産党と中国国民党が協力して北京の軍閥政府を倒すことが、ソ連にとってもプラスになると考えるようになり、ますます中国共産党と中国国民党との協力をバックアップする方針を取ったのである。ソ連の外交官ヨッフェは、北京政府との国交樹立交渉決裂の後、1923年1月、上海で孫文と会談し、中国国民党とコミンテルンが指導する中国共産党との協力関係を確認することを盛り込んだ「孫文・ヨッフェ宣言」をまとめた。

 こういったコミンテルンの方針に基づき、1923年6月に開かれた中国共産党第三回全国代表大会(当時の中央書記は陳独秀)は、中国国民党の革命における指導的地位を認め、中国国民党と協力することを決定した。このことが後に「革命の指導者はいったい誰なのか」という観点から中国共産党の中で問題となり、陳独秀が批判される原因となる。

 こうした動きの中、中国国民党の側も1924年1月、広州において第1回全国代表大会を開いた。ここで注目されるのは、この時に決まった中国国民党中央執行委員会委員24名の中に李大釗ら3名の中国共産党員が中国共産党員の肩書きを持ったまま参加していたことである。また、1924年6月、広州において中国国民党の直轄の黄埔軍官学校が設立され、その校長として蒋介石が就任したが、この黄埔軍官学校には周恩来ら中国共産党員も参加していた。また、黄埔軍官学校ではコミンテルンから派遣された軍事顧問も訓練に当たっていた。

 この時の中国国民党と中国共産党の協力関係を「第一次国共合作」という。

 背景としては、軍閥を中心とする北京政府に対し、革命勢力も軍事力を持つ必要があったが、中国国民党だけでは大衆を組織した軍隊を組織することができず、中国共産党の組織する大衆組織によるバックアップが必要だったからである。黄埔軍官学校校長の蒋介石は、当初から反共主義者であり、国民党の軍隊に対する自分の統率力の障害となり得る中国共産党の勢力を快く思っていなかった。孫文存命中は、蒋介石は自分の主張を表に出すことはなかったが、1925年1月に孫文が病死し、自分が中国国民党の代表になると、次第にその反共的性格を表していくことになる。

 なお、蒋介石は日本の陸軍士官学校に留学していた経験があり、その意味では蒋介石も「日本留学帰国組」である。

以上

次回「2-2-3:【コラム:『蒋介石』という呼び方について】」
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へ続く。

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