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2010年1月28日 (木)

2-3-2:中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第2節:中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変

 1927年の8月から年末に掛けての南昌蜂起、秋収蜂起、広州蜂起の失敗は、中国共産党内に深刻な議論と路線対立を生み出すことになった。これらの蜂起では、ロシア革命の経験に基づき、コミンテルンの指導によって、一部の指導者が都市部の労働者等を組織して武装蜂起を行ったが、中国(特に地方都市)においては資本主義が十分に発達しておらず、大量の労働者を組織することが困難だった。また、これら地方都市とその周辺にいる大量の農民は、これらの武装蜂起は、自分たちの問題とは捉えておらず、農民たちはこの武装蜂起について来なかった。武装蜂起による社会の混乱は、彼ら農民にとっては迷惑以外の何者でもなかったからである。これらの失敗を経て、毛沢東は、一部の革命エリートが先鋭的な少数の都市部の労働者と結びついても中国では革命を起こすことはできない、大多数の農民が「その気」にならなければ革命は成就しないのだ、と認識するようになる。

 「一部の革命エリートが都市部の労働者と結びついて武装蜂起により革命を起こす」というロシア革命をモデルとする革命の手法が中国では通用しない、ということは、中国革命において、ソ連(コミンテルン)から派遣されている顧問の指導の重要性が低くなることを意味する。コミンテルンが指導する「ロシア革命モデル」が通用しないことがわかってから、中国共産党は「中国独自の革命スタイル」を模索することになる。それは、先行モデルのない「暗中模索」のものだった。中国共産党が「中国独自の革命スタイル」を確立するまでには長い時間が掛かることになる。また、この「ロシア革命とは異なる中国独自の革命スタイルの確立」は、後に(1960年代に)決定的となる中ソ対立の遠因ともなるのである。

 都市部での武装蜂起に失敗した中国共産党の中で、1928年4月、湖南省・江西省境界付近において、毛沢東が党代表と軍事委員会主席に選任された。毛沢東は、武装蜂起の失敗を受けて 「一部の革命エリートが先鋭的な都市部の労働者と結びついた武装蜂起により革命を起こす」路線(現在は「左の盲動路線」と呼ばれている)を批判し、まず農村における政権基盤を固めてから、都市を包囲する形で革命を進めようと考えるようになった。このため、1928年~1930年頃に掛けては、中国共産党は、湖南省、湖北省、江西省、福建省、広西省などの中国の揚子江以南の地域において、農民と労働者が自ら政権を担う政治共同体を設立するよう努力することになる。労働者と農民からなる評議会をロシア語で「ソヴィエト」と呼ぶが、中国においても、まず農村部において「ソヴィエト」が支配する地域を確立するための努力が続けられていくことになるのである。

 この時期はまだ毛沢東は中国共産党の役職上の幹部にはなったが、絶対的な指導力を発揮するまでには至っていなかった。この頃の中国共産党は、実態的には、各地で様々な指導者の下で単発的な闘争を行っていたに過ぎず、統一的な力を発揮できる本拠地もなかったのである。そういった状況の中で、1928年6月~7月に掛けて開かれた第6回中国共産党全国代表大会は、国内で開催することができず、モスクワで開催された。各地で「ソヴィエト地区」が設立されていたが、国民政府軍の攻撃により、移動または壊滅させられ、この時期、ひとつの力にまとまることは困難であった。これらの困難な闘いの中で、毛沢東は「敵を農村部に誘い入れて囲い込んだ後に殲滅(せんめつ)する」という「囲い込み戦術」で国民政府軍を苦しめた。こういった軍事的指導者としての優秀性が、毛沢東の党内における地位を次第に高いものにしていくのである。

 こうした情勢の中、1931年11月、各地に存在する「ソヴィエト地区」の代表が江西省の瑞金に集まって「第1回全国ソヴィエト代表大会」が開かれた。この会議において、「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の成立が宣言され、毛沢東が臨時中央主席に選出された(これ以降、毛沢東は「毛主席」と呼ばれるようになる)。

 この時期の中国共産党側の勢力について、「人民日報」のホームページにある「中国共産党簡史」によれば、「21の地方都市、支配面積5万平方km、住民250万人からなる革命の根拠地ができた」と述べている。これを見ても、中国全土からすれば、中国共産党が確保していたのは、ほんのごく一部の小さな地域であったことがわかる。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ
「中国共産党簡史」第二章「土地革命戦争の中における『農村が都市を包囲する路線』の開拓(2)」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444688.html

 この時期、中国共産党が農村において農民の支持を得るために行ったのが「土地改革」であった。地主階級を打倒し、地主が支配していた土地を小作農ら貧農に分け与える、という改革が中国共産党により実行され、それにより農民は中国共産党を支持し、革命に参画するようになった。従って、この「土地改革」は、中国共産党の原点であるのだが、この問題は実は現在までつながる「土地と農民」の問題に深く関わっている。

 共産主義の理想形態では、全ての農地は公有であり、農民は集団の一員として労働し、その労働に応じて収穫から得られた収入が分配される。共産主義の理想形態では、農民に土地の所有権が与えられることはないのである。しかし、中国共産党による革命の初期段階においては、地主から徴収された土地は、農民に分け与えられていた。つまり各個別の農民が土地の所有権を持ったのである。この段階では、各農家に自分が耕作する分の土地の所有権を認めた上で、刈り入れなどの作業を共同で行う農家の集団化が行われた。後に述べることになるが、この状態は1949年の中華人民共和国成立後まで続いた。各農民が持っている土地の所有権自体を集団化し、土地の公有化を進めていくのは、1950年代半ば以降であり、その最終的な姿が1958年から成立し始めた「人民公社」である。

 「農民に土地の所有権を認める」という方針は、革命当初、「自分の土地を持ちたい」という貧農たちの素朴な気持ちを汲み取るとともに、既に土地を所有していた自作農たちからの反発を避けるため、中国共産党が採用した妥協的な方針だったのである。「自分が耕作している土地の所有権を持ちたい」というのは、農民の根元的な欲求であり、中国共産党は農民の支持を得るために、あえて「共産主義の理想」とは異なることは承知の上で、当初のうちは農民の土地所有を認めていたのである。

 「農民の土地所有願望」は、古今東西共通なものであり、1950年代以降進められる農地の公有化、つまり個々の農家の土地所有権を否定する動きは、むしろ農村部に共産党の指導に対する不満の種をくすぶらせることになる。その不満は、農業生産の停滞をもたらし、結局は毛沢東が描く理想的共産主義社会を目指す運動であった文化大革命を終わらせることになる。文化大革命を終わらせたトウ(「登」に「おおざと」)小平は、1980年代になって「土地所有権は公有」という大原則は維持しつつも、「生産請負制」という形で、自分が耕作する土地には好きなような方法で農作物を耕作してよく、請け負った量以上の生産物は自分で自由に処分して自分の利益にできる、という方針を導入した。この方針は農民の生産意欲を引き出し、農業生産飛躍的に増大させたが、一方でトウ小平の改革方針は、「土地使用権」という「所有権」とは別の概念を産み、「土地所有権は公有だが、土地使用権は使用者が自由に売買できる」という21世紀の現在まで続く中国の土地制度を作り上げることになった。

 土地所有権が公有(国まはた村などの集団の所有)であれば、所有者(国または村などの集団)が都市開発や工業開発などのために土地が必要だと考えれば、一定の補償金を農民に与えれば、その土地を収用することが法的には可能となる。革命当初に「自分の耕作する土地の所有権を得たい」と考えた農民の素朴な気持ちを利用して農民の支持を獲得していった中国共産党は、21世紀の現在、都市開発や工業開発における土地収用の問題において、同じ気持ちに基づき多くの農民から「なぜ自分の耕す土地が自分の思うとおりにならないのか」という疑念を持たれるようになっているのである。

 中国共産党が革命初期に実施した「大地主から土地を収用して、小作農に自らが耕作する土地の所有権を与える」という「土地改革」は、日本においては、戦後、進駐軍の指導によって「農地改革」として実現した。日本では、現在でも農地法によって、基本的に農地については自ら耕作する者のみが土地所有を認められており、戦後の「農地改革」の体制は現在の日本でも続いていると言ってよい。中国共産党がその革命初期において実施した「土地改革」が中国においては「土地の公有化」を通して変質していったのと比べると、東西冷戦期において資本主義陣営にいた日本において実際に耕作する農民が土地を所有する制度が定着したことは、一種の歴史の皮肉と言えるだろう。

 なお、現在、中国でも、農民による農地の私有を認めるべきだ、という議論も行われるようになってきている。こういった中国共産主義革命の根幹に係わる問題について、公の場で冷静・率直に議論が行われていることは、中国社会が成熟しつつあることを示すものとして注目される。ただし、農民による農地の私有は、共産主義の根幹を否定する可能性のあるものであることから、それが実現するためには、中国共産党内部で、まだまだ相当の議論が必要であると考えられる。

(参考URL2)このブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))の2008年1月14日付け記事
「ついに出た『土地私有制』の提案」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/01/post_6f24.html

 江西省の瑞金で「中華ソヴィエト共和国」の樹立へ向けての動きが行われている頃(1931年秋頃)、北京においては、日本による中国東北部支配の強化が重要な問題であった。1928年6月の張作霖爆殺事件の後、日本軍は日本の影響下における中国東北部の独立を画策し、1924年の政変で紫禁城(故宮)を追われ日本の保護下に入っていた清朝最後の皇帝溥儀(「第2部第2章第4節:中国革命の父・孫文の死」参照)を担ぎ出し、東北部独立の画策を進めた。日本の関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、この爆破事件を中国側によるものであると主張した上で、居留日本人の保護等を口実にして進軍を開始した。関東軍は約5か月で中国東北部を制圧した(日本でいう「満州事変」、中国でいう「九・一八事変」)。

 1932年3月、日本軍の支持の下、溥儀を国家元首にあたる「執政」とし、首都を新京(現在の長春)とする「満州国」の建国が宣言された(この後、1934年には溥儀は「皇帝」に就任する)。日本は、満州事変を「自衛のための軍事行動」であると主張し、「満州国」の建国は満州に住む住民の自主的な独立運動によるものであると主張したが、国際社会はこの日本の動きに疑念を抱いていた。蒋介石に率いられた中華民国政府の提訴により、国際連盟はイギリス人リットン卿を団長とする調査団を現地に派遣して調査を行った。リットン調査団は、「柳条湖での鉄道爆破の後の日本軍の動きは自衛のためとは言えない」「満州国の建国は住民による自発的なものとは言えない」と結論づける報告書を取りまとめた。国際連盟は翌1933年2月の総会で、この報告書を賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム(現在のタイ))の圧倒的多数で承認する決議を行った。日本はこれを不服とし、その場で国際連盟を脱退した。こうして、日本は国際的に孤立の道を歩むこととなった。

以上

次回「2-3-2:【コラム:溥儀と映画『ラスト・エンペラー』】
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へ続く。

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