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2010年1月27日 (水)

2-3-1:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第1節:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件

 1926年7月、北伐が開始されると、北伐に慎重な考えを持っていた中国共産党もこれに協力し、むしろ北方へ軍隊を進める過程を農民や労働者を組織する機会として利用しようと考えるようになった。当時、揚子江一帯は、軍閥各派の勢力が入り乱れていて権力構造はまとまっておらず、国民政府軍は順調に北へ進軍することができた。そのため、広州にあった国民政府の中心を北方に移すことが議論されたが、蒋介石は江西省の南昌に国民政府を移すことを主張したのに対し、中国共産党と中国国民党左派は、革命勢力の中心地(辛亥革命時の武装蜂起の発祥の地)である武漢に移すことを主張した。1926年11月、広州で開かれた中央政治会議は、国民政府の中心地を武漢に移すことを決定したが、蒋介石はこの決定に反対した。ここに、組織化された軍隊に頼るべきと考える蒋介石と、大衆運動の高まりこそが革命を前進させる原動力であると考えていた国民政府中央(中国国民党左派+中国共産党)との考え方の違いが明確になったのである。

 こうした中、1927年3月に武漢で開かれた国民政府第三回中央執行委員会全体会議は、蒋介石が就任していた国民革命軍総司令の職務を廃止する決定を行った。国民政府中央としては、反共的傾向が強い蒋介石に強い権限を与え続けることは、国共合作の継続にとって好ましくないと考えたからである。4月にはヨーロッパに亡命していた中国国民党左派の汪兆銘が帰国して、中国共産党の最高指導者・陳独秀との間で共同宣言を発表し、国共合作を継続する意志が確認された。

 武漢の国民政府が革命運動の推進力として大衆運動の高まりに期待していることを受けて、各地で大衆による反帝国主義運動やストライキが相次いだ。当時、蒋介石は、列強各国からは革命軍の中の有力者とみなされており、列強各国は、蒋介石による事態の収拾に期待していた。一方、蒋介石自身も、大規模な大衆運動の盛り上がりは、自らが握っている国民革命軍の指揮権に対する脅威だと考えていた。こうした背景の下、1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こし、ストライキを起こしている労働者や中国共産党員を大量に逮捕したのである。この際、反発する労働者等多数が殺害された、とされている。「人民日報」ホームページに掲載されている「中国共産党簡史」によれば、上海に続き、江蘇省、浙江省、安徽省、福建省、広東省、広西省などでこの反共クーデターの動きが続き、逮捕されたり殺害されたりした者は2,000人以上に上った、とのことである。

(参考URL)「人民日報」ホームページ
「中国共産党簡史」第一章「中国共産党の創立と大革命の流れへの参画(5)」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444664.html

 蒋介石は、中国共産党が主要メンバーとなっている武漢の国民政府と完全に袂(たもと)を分かち、4月18日、武漢の国民政府とは独立したもうひとつの国民政府を南京に樹立することを宣言した。ここに中国国民党左派と中国共産党からなる武漢の国民政府と、蒋介石が率いる南京の国民政府と、二つの国民政府が並立する事態になったのである。

 上海での蒋介石による反共クーデターの動きに呼応して、当時北京政府を支配していた「奉天派」の軍閥・張作霖は、中国共産党員の大量検挙を行った。これにより、4月28日、中国共産党創設者の一人である李大釗も逮捕され殺害された。

 こういった動きは、武漢の国民政府の中における中国国民党左派と中国共産党との間の協力関係に大いなる困難を与えることになった。

 そもそも中国共産党は、労農運動、即ち、都市においては資本家による搾取から労働者を守る運動を、農村においては地主による搾取から小作農を解放する運動を展開して、その勢力を拡大してきた。しかし、当時の中国共産党の最高指導者である陳独秀は、「過度の労農運動」は都市部の民族ブルジョアジー(列強各国勢力に反対する資本家)、小ブルジョアジー(中小商工業者など)や農村部の小規模地主などを武漢の国民政府から離反させ、国共合作を破壊することから、「過度の労農運動は抑制すべきだ」と主張していた(このことが後に陳独秀が党の創設者でありながら中国共産党を追われる原因となる)。これに対し、毛沢東らは、労農運動の強化により大衆の力を結集して列強各国勢力を排除することが重要であり、これは反帝国主義を掲げる国民党の路線と矛盾せず、国共合作を破壊することにはならない、と主張した。コミンテルンも労農運動の強化を支持していた。

 一方、国民党左派の内部でも論争が生じてきた。国民党左派の中には、地主階級出身者も多く、農村における大衆運動の「行き過ぎ」(即ち小作農階級による地主階級の打倒への動き)に懸念を持つ者も多くなった。中国共産党がソ連から派遣されているコミンテルンの指示に基づいて活動していることに対しても、中国国民党左派の一部には「ソ連から中国国内を操作されるのではないか」との不信感を持つ者が多かった。一方、中国国民党左派の中でも宋慶齢(孫文夫人)らは、労農運動は、列強各国と利害を一にする買弁資本者階級や地主階級に対する闘争であり、国民党が掲げる反帝国主義運動と矛盾するものではないので、これを抑制すべきでなく、国共合作は維持すべきだ、と考えていた。

 蒋介石による反共クーデターの後ろに都市部の資本家階級や農村部の地主階級の存在を感じた中国共産党内部では、労農運動強化論者が勢いづいた。このことが中国国民党左派の内部にいた地主階級出身者の中国共産党に対する反発心を強める結果となった。1927年6月、コミンテルンが国民党左派の汪兆銘に対して土地の国有化の実行、共産党員2万人と労働者・農民5万人の武装等を指令する電報を送ってきたことをきっかけとして、国民党左派の内部にコミンテルンに対する疑念が広がり、7月、武漢国民政府は、ソ連から派遣されていた顧問を解雇した。これに反発した中国共産党は国共合作の停止を決議して武漢国民政府から退出した。武漢国民政府側も中国共産党と袂(たもと)を分かつことを決定した。こうして「第一次国共合作」は崩壊したのである。

 国共が分裂し、武漢国民政府から中国共産党が退出した以上、蒋介石が率いる南京の国民政府と武漢の国民政府を隔てる実質的な障壁は消滅し、中国国民党は南京で統一された。中国国民党の内部には、蒋介石、汪兆銘ら複数の有力者がいたが、結果的には、軍事力を掌握していた蒋介石が実質的な中国国民党のリーダーとなった。

 1928年4月、蒋介石は、改めて北京にいる軍閥・張作霖を追い落とすため、北伐を再開した。蒋介石は、馮玉祥(彼は、一時は張作霖と協力して「直隷派」軍閥を北京から追い出したが、その後、張作霖との権力闘争に敗れて国民党と協力関係にあった)など元軍閥の有力者たちも支配下に置いて北京へ向かって進撃した。

 この国民党軍の北伐に対して、1928年(昭和3年)5月、日本軍は「居留日本人の保護」を名目として、山東半島の済南に出兵して済南を占領した(済南事変)。また、国民党軍の北上の動きを受けて、日本の関東軍は同月、奉天(現在の瀋陽)に入城した。

 北京にいた張作霖は、もはや国民党軍の北京入城を阻止できないと考えて、北京を離れ、自分の本拠地である奉天へ向かった。6月4日、奉天郊外で、張作霖の乗った列車が爆破され、張作霖は死亡した。これは日本の関東軍の陰謀によるものであった。張作霖は、もともと日本軍と関係が深く、北京にいた頃は日本のバックアップを受けていた。その意味では、日本軍は中国における勢力拡大のために張作霖を利用していたのであるが、この時点(1928年6月時点)では中国東北部(いわゆる「満州」)では日本軍の勢力が既に大きくなっており、北京を追い出された張作霖が満州に帰って来ることは、日本軍にとってはむしろ邪魔だったのである。

 この張作霖爆殺は、関東軍が独断で計画したもので、東京の日本政府は知らなかった、と言われている。この事件については、日本政府(田中義一内閣)は「国民党の北伐軍のしわざである」と発表したが、当時から関東軍による陰謀であると見られており、帝国議会において当時の野党・民政党から「満州某重大事件」として攻撃された。事件の真相が公表されることはなかったが、昭和天皇はこの事件について田中義一首相を叱責し、それにより田中義一内閣は総辞職した、と言われている。張作霖が持っていた軍隊は、息子の張学良が引き継いだが、父親を日本軍に殺された張学良は、この後、抗日の念を持ち、後に(1936年12月)西安事件を起こすことになる。

 張作霖が北京から退去した後、蒋介石は北京に入城して北伐は完了した。これを受けて、1928年8月、中国国民党は蒋介石を政府主席として選出した。12月には張学良も中国国民党への帰順を誓い、中国は一応、蒋介石をトップとする中国国民党による国民政府によって形式上統一された。ただし、中国東北地方は日本の関東軍の勢力が強かったし、以下に述べるように一部の農村地帯では実質的に中国共産党が支配する地域が存在しており、真の意味での中国の統一と呼ぶにはほど遠い状況だった。

 一方、1927年7月に武漢国民政府から退出した中国共産党は、その後、武装蜂起路線を歩むことになる。8月1日には江西省で周恩来・朱徳らが率いて南昌蜂起を、9月には江西省・湖北省境界付近で毛沢東らが率いて秋収蜂起を、12月には張太雷・葉剣英らが率いて広州蜂起を起こしたが、いずれも失敗に終わった。毛沢東らは、その後、江西省の井岡山に根拠地を置いて、勢力の挽回を図ることになる。現在、これらの動きが中国共産党による本格的な革命運動の開始と捉えられており、8月1日は、現在でも人民解放軍創立記念日となっている(ただし、中国共産党の軍隊が「人民解放軍」という呼称で呼ばれるようになるのは、1945年に抗日戦争が終わり、国民党軍と対峙するようになってからである)。

 この時から、中国共産党は、様々な形で革命運動を展開することになるが、数々の失敗も経験し、それらの失敗に基づく路線対立などの紆余曲折を経ながら、革命を進めていくことになる。毛沢東は、1921年に中国共産党の創設を決定した第1回全国代表大会の出席メンバーの一人ではあったが、まだこの時点では、数多くいる党内指導者の一人でしかなかった。後に述べるが、毛沢東が中国共産党の第一人者としての地位を確立するのは、いわゆる「長征」の過程で1935年1月に行われた「遵義会議」においてである、とされている。

 これら南昌蜂起に始まる武装蜂起は、コミンテルンの指導の下に行われたのであるが、毛沢東らは、これらの武装蜂起の失敗を通じて、ロシア革命と中国における革命の違いを次第に自覚していくようになる。そしてこれ以降の長期間に渡る苦しい経験が、中国共産主義革命の原点となっていく。

以上

次回「2-3-1:【コラム:ロシア革命と中国共産主義革命との違い】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-3c3e.html
へ続く。

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