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2010年1月31日 (日)

2-3-5:廬溝橋事件から日中戦争へ

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第5節:廬溝橋事件から日中戦争へ

 廬溝橋は、北京市街地の南西郊外(天安門から直線距離にして西南西約16kmのところ)にあり、北北西から南南東へ向けて流れる永定河に架かる橋である。橋の欄干には大理石の彫刻が施されており、元の時代に北京を訪れたマルコポーロがその美しさに驚嘆した、と伝えられていることから、英語ではマルコポーロ・ブリッジとも呼ばれている。今は、近くに「中国人民抗日戦争記念館」がある。

 1937年(昭和12年)7月、日本軍は廬溝橋の東側(つまり北京市街地側)に駐屯し、国民政府軍は廬溝橋の西側に駐屯していた。前述のように梅津・何応欽協定や「冀東防共自治政府」の成立を受けて、当時の北京(首都ではないので当時の呼称は「北平」)周辺には、日本軍と国民政府軍が駐屯し、互いに相手の出方を監視する状況が続いていたのである。こうした中、7月7日夜、日本軍が永定河東岸において夜間演習を行っていたところ、22時40分頃、日本軍に向かって複数発の銃弾が撃ち込まれた。これをきっかけにして、日本軍と国民政府軍の戦闘が開始された。これが廬溝橋事件である。

 戦闘開始のきっかけとなった最初の銃弾を誰が撃ったのか、については、諸説があり、現在でもはっきりわかっていない。満州事変のきっかけとなった柳条湖の鉄道爆破事件の時とは異なり、この後の日本軍の行動を見ると、この時点で最初から大きな軍事行動を起こす計画だったと思わせるような兵力配置ではなかったことから、このきっかけとなった銃撃自体は、日本軍による自作自演ではなかった、というのが現在の定説になっているようである。

 歴史学者の秦郁彦氏は、その著書「南京事件」(本稿の参考資料10)において、日本側はこの時点で既に「第二次国共合作」によって抗日という目標の下で意思統一が図られていた中国側の状況を甘く見ており、一撃を加えれば、中国側が日本の意の下に妥協するであろう、と考えていた節がある、と指摘している。西安事件は、世界に報道された事件であり、日本側も知ってはいたのであるが、この西安事件により、それまでは圧力を加えるたびにずるずると妥協してきた蒋介石の方針が変わった、という認識は持っていなかったようである。7月11日、当時の日本の近衛内閣は、5個師団の華北派遣を表明し、7月末には日本軍は北京(北平)と天津を占領した。

 蒋介石は、日本との間で全面戦争になることを覚悟し、主力軍を上海方面へ振り向けた。これを受けて、8月13日、上海にいた日本軍と国民政府軍との間でも戦闘が開始された(第二次上海事変)。華北の日本軍は破竹の勢いで進撃し、9月24日には河北省の保定を、10月10日は石家庄を攻略した。さらに西の山西省へ向かった日本軍は、中国共産党の林彪(後の国家副主席)が率いる八路軍と戦い、11月9日、山西省太原を占領した。

 日本は、交戦国への武器輸出を禁じているアメリカの中立法の適用を受けることを懸念し、これらの戦闘においては中国に対して宣戦布告は行わず「北支事変」「支那事変」といった呼び方をしていた。しかし、この時点では既に、日本軍は、上記のように「第二次国共合作」により抗日統一戦線を組んだ蒋介石の国民政府軍と中国共産党の指揮下にある軍隊と同時並行的に戦う状況になっており、日本と中国は全面的な戦争状態に入っていたと言えるため、現在では、廬溝橋事件以降の戦闘を「日中戦争」と呼ぶのが普通である。

 上海における戦闘を支援するため、8月15日、日本軍の松井石根(いわね)軍司令官が派遣された。松井軍司令官に与えられた任務は「上海における居留民の保護」であったが、松井軍司令官は、上海へ派遣される当初から、国民政府の首都である南京を陥落させなければ、中国側を屈服させるという目的は達成できないと考えていた。一方、日本軍参謀本部の作戦部長の石原莞爾は、ソ連の脅威に備えるため、上海方面での戦線の拡大はさせない方針だった。この現場に派遣された松井軍司令官と日本軍中央との意識の違いが、下記に述べる指揮命令系統の混乱の原因となる。

 日本軍は、江南地域特有のクリーク(運河網)を利用した中国軍の応戦に苦戦を強いられた。このため、日本軍は、上海での戦闘を短期間で終わらせるため、次々に増援部隊を派遣したが、抗日の意思統一が図られた中国軍と中国人民の前に日本軍も大きな損害を受けた。秦郁彦氏は著書「南京事件」において、上海戦において日本軍が受けた思わぬ大きな損害が、その後の南京進撃における「復讐感情」を植え付けたのではないか、と指摘している。

 なかなか上海での戦局が打開されない中、参謀本部は、華北に展開していた部隊を一部編成し直して第十軍として杭州湾北岸から上陸させて北上させた(11月5日)。これを知った中国軍は、東の上海と南の杭州湾から挟撃されることは不利と判断して迅速に西へ撤退した。日本の上海派遣軍主力と第十軍は合流して中支那方面軍が編成されたが、日本軍中央から彼らに与えられていた任務は依然として「上海における居留民の保護」であり、追撃の限界線として指示されていたのは「蘇州・嘉興を結ぶ線より東」であった。杭州湾上陸からほとんど戦わずして上海派遣軍主力と合流した第十軍は、足早に撤退した中国軍の動きを見て、11月15日、日本軍中央の参謀本部の指令を無視して、首都・南京へ向けて進撃を決定する。秦郁彦氏は、この点に関し、軍中央の指令を無視し、勢いに乗って南京出撃を命じた中支那方面軍の指揮官が、部下の兵士に対して軍紀・軍律を守れと要求すること自体、無理なことだった、と指摘している。

 日本軍中央は、拡大する戦線に対処するため11月20日に大本営を設置した。軍中央は、首都南京へ進軍を開始した現地軍の動向を止めることができず、結局は大本営も11月28日になって、中支那方面軍の首都南京への進撃を追認した。

 国民政府は、11月19日には、既に首都機能を南京から重慶に移していた。蒋介石は、南京に守備軍を残すとともに、自らも南京に留まっていたが、日本軍の進撃が速く、あまりにも急な首都移転だったため、南京付近の状況は混乱を極めた。結局は、12月7日には蒋介石も南京を離れて漢口(武漢)に逃れた。12月9日、南京を包囲した日本軍は蒋介石側に投降勧告をするが蒋介石側はこれを拒否し、12月10日、日本軍による総攻撃が開始された。日本軍は12月13日には南京市内を占領した。

 日本軍の上海から南京への進軍は極めて急なものであったため、物資補給の兵站線が前線に追い付いていなかった。このため、日本軍は食糧確保のため、現地で物資の徴発を行った。また、この南京攻防戦に際して、中国の人々の多くもゲリラ戦的抵抗を行ったことから、日本軍は、ゲリラ兵(いわゆる「便衣兵」)と一般住民との区別が付かず、多くの一般住民もゲリラ兵としての疑いを掛けて捉え、殺害した、とされている。混乱した状況の下、物資補給が欠乏して現地で調達せざるを得ない日本軍兵士が大量に南京市内に入城したことから、軍紀・軍律を維持することは困難になり、多くの略奪、婦女暴行、虐殺が行われたと言われている。これが後に言われる南京事件(南京大虐殺)である。

 南京事件において何人の人が殺害されたか、については、諸説がある。そもそも殺害された人数を数えるのに、いつからいつまでの期間について数えるのか、地域をどこにするのか(南京市内に限るのか、上海から南京へ進撃する途中で殺された者も含めるのか)、戦死した兵士の数を含めるのか一般住民に限るのか、殺害された捕虜の数も含めるのか、といった様々な条件を設定した上で検討しなければ、殺害された人数について確定することはできない。秦郁彦氏は著書「南京事件」(参考資料10)の中で「不法に殺害された南京市民」として約4万人という数字を掲げている。東京裁判の判決文では、11万9,000人という数字が使われ、中国側は30万人という数字を主張している(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

以上

次回「2-3-5:【コラム:『南京大虐殺論争』について】
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へ続く。

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