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2010年1月24日 (日)

2-2-2(2/2):五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

 ヴェルサイユ会議が開かれる前年の1918年、アメリカの大統領ウィルソンは、世界大戦後の世界を見据えて、軍備縮小、国際連盟の結成、民族自決主義の原則などからなる14か条の平和原則を提唱していた。このウィルソンの平和原則がヴェルサイユ条約の議論のひとつの基調となった。

 ウィルソンは、「1民族=1国家が原則であり、他国が他の民族を支配することがあってはならない」とする「民族自決主義」の原則を提唱したが、この提唱の背景には、第一次世界大戦が「民族のるつぼ」とも言われるバルカン半島を巡るヨーロッパ各国の利害対立から始まったことが念頭にあったものと思われる。従って、ウィルソンは「民族自決主義」はヨーロッパに適用するもの、と考えていたものと思われる。しかし、列強各国の支配に悩むアジア・アフリカ諸国の人々は、このアメリカ大統領ウィルソンの提唱した「民族自決主義」を自分たちに投げかけられた希望の光だと感じた。アジア・アフリカ諸国の人々は、ウィルソンが提唱した14か条の平和原則を基調として議論が行われたヴェルサイユ会議において、自分たちの国に対しても「民族自決主義」に基づく現実的な結論が出されることを期待した。

 中国の人々が具体的に期待したのは、山東半島の中国への返還であった。中国の人々は、山東半島は、ドイツが支配権を持っていた地域であり、第一次世界大戦でドイツが負けた以上、「民族自決主義」の原則に基づけば、中国に返還されて当然だ、と考えていた。袁世凱政権が日本による「対華21か条要求」を受諾したため現実的には山東半島はドイツに代わって日本に占領されていたが、日本の占領は、第一次世界大戦に際して日本が英仏に協力する代わりとして一時的にドイツの権益を受け継いだだけであり、第一次世界大戦が終了した以上、日本が占領を続ける理由はない、と中国の人々は考えたのである。

 上記のような考え方から、ヴェルサイユ会議に参加した中国政府代表は、山東半島を中国に返還することを要求した。英・仏・米も、中国における日本の権益が大きくなることを望んではいなかった。しかし、英仏は日本の対独参戦に際して日本の中国における権益を承認することを既に認めていたし、アメリカも日本が講和条約の署名に参加しなくなることを恐れたため、英・仏・米ともに日本の主張を受け入れて、結局、ヴェルサイユ会議では中国代表による山東半島返還の要求は拒否された。

 ヴェルサイユ会議において中国代表の山東半島返還要求が拒否されたことは、5月1日に中国に伝えられた。これを聞いて、中国の人々の間に落胆と怒りが広がった。北京の学生たちは、大学において集会を開き、5月4日、天安門前においてデモを行うことを決めた。5月4日、天安門前には2,000人以上の学生が集まり、外国公館が集まる東交民巷に向かってデモが行われた。東交民巷は、外国公館た建ち並ぶ治外法権地域であり、警官に守られてデモ隊は入れなかった。そこで、デモ隊は、「対華21か条要求」を受け入れた時の責任者で「親日派」と見られていた官僚・曹汝霖の自宅を襲い、火を放った。これらの動きで多数の逮捕者が出た。

 このような学生の動きに対し、多くの労働者も賛同し、北京で多くの集会やストライキが行われた。北京における学生や労働者の動きは、6月に入ると上海に飛び火し、上海で大規模なストライキが発生した。その後、この運動は中国各地に広がっていった。この幅広い中国の人々による運動を、それがスタートした日にちなんで「五四運動」と呼ぶ。

 この「五四運動」は、中国の人々による「真の革命」(軍閥の軍事力を背景とした権力移譲ではない幅広い層の人々の運動による革命)のスタートとして現在でも重要視されている。現在でも、中国では、5月4日は「青年節」と呼ばれ、青年世代(14歳~28歳)にとっては半日の休みが与えられる法定休日であるし、北京大学の学生たちが天安門前へ向けてデモを開始した旧北京大学紅楼(故宮北門の約400m東にあった)の前の道路は今でも「五四大街」と呼ばれている。

 「五四運動」は、「対華21か条要求」によって日本に占領されていた山東半島の返還要求がヴェルサイユ会議において拒否されたことに端を発していることからわかるとおり、そもそもは「反日運動」であった。ただ、それは単に日本に反対する運動だけではなく、ヴェルサイユ会議において日本の要求を認めて中国の半植民地状態の固定化を図ろうとした欧米列強各国に対する反発であり、日本の「対21か条要求」を受諾した軍閥政府に対する反発であり、列強各国と結んで利益を図ろうとする資本家(いわゆる「買弁資本家」)に対する反発でもあった。従って、「五四運動」は、「反日運動」であるとともに、「反植民地主義の民族主義的運動」であり、「反軍閥運動」であり、「反資本家運動」でもあった。「五四運動」の参加者の主張は「ナショナリズム」「民主主義」「社会主義」といった複雑な主張の混合体であり、「五四運動」は、これらの多種多様な主張を持つパワーが「反日」という目標の下に結集されたもの、という側面があった。

 孫文は、「五四運動」における人々のパワーに大きく突き動かされた。孫文は、1914年に袁世凱政権に反対するために中華革命党を結成していたが、「五四運動」に見られる幅広い人々のパワーこそが革命前進の原動力であると考えて、1919年10月、中華革命党を解散して改めて中国国民党を結成した。辛亥革命時の「国民党」は袁世凱政権によって解散させられているので、これが現在につながる中国国民党のスタートである。

 ロシアにおいては、1917年にロシア革命を成功させたボルシェビキ政権が、翌1918年に議会を解散してプロレタリア独裁を確立し、ロシア・ソヴィエト連合社会主義共和国を設立していた(各地方のソヴィエト政権が連合して「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が成立するのは1922年のことであるが、複雑さを避けるため、これ以降、レーニンが率いる政府を「ソ連政府」と呼ぶこととする)。ソ連政府は、国内における反革命勢力との戦いを進める一方、全世界の労働者・農民と連携して、世界各国で共産主義革命を進めるため、1919年3月、「共産主義インターナショナル」(コミンテルン)を結成していた。

 また、ソ連政府は、その成立の基盤となる思想的な背景に基づき、旧ロシア時代に締結した帝国主義的な条約を破棄する方針を採り、1919年7月、かつてロシアが中国に対して締結した不平等条約を破棄することを宣言した(宣言を発したソ連外務人民委員代理カラハン氏の名前を採って「カラハン宣言」と呼ばれる)。このカラハン宣言は、「五四運動」で盛り上がる中国の人々を感激させた。

 そうした中、1920年、コミンテルンは北京にヴォイチンスキーを団長とする代表団を派遣した。ヴォイチンスキーは進歩派知識人の李大釗と、続いて李大釗の友人で1915年に雑誌「新青年」を発刊して青年たちに新しい思想を紹介していた陳独秀と会い、中国に共産党組織を作ることについて話し合った。ヴォイチンスキーの援助を受けて、陳独秀は1920年8月、上海で共産主義グループを結成した。また10月には李大釗が北京において共産主義グループを結成した。翌1921年、7月23日から上海において各地の共産主義グループの代表者が参加した会議が開催された。この会議で、中国共産党の設立が決議され、党の綱領が定められるとともに、中央書記として陳独秀が選出された(この会議は、現在、「中国共産党第一回全国代表大会」と呼ばれている)。

 この会議に参加したのは、12名の各地からの代表(李達、李漢俊、張国トウ(トウ=「点」の「占」の代わりに「寿」を置いた字)、劉仁静、毛沢東、何叔衡、董必武、陳潭秋、王尽美、トウ恩銘(トウ=「登」に「おおざと」)、陳公博、周佛海)及び陳独秀の代理として出席した包惠僧、それにコミンテルンから派遣されたマーリンとニコルスキーであった(陳独秀自身と李大釗は出席しなかった)。人民日報の「中国共産党簡史」によれば、中国共産党発足時の党員は50数名であった、とのことである。

 この「中国共産党第一次全国代表大会」は上海で開かれていたが、途中で「帝国主義者の密偵」に見つかったため、最終日の7月31日の会議は浙江省嘉興市(上海の西隣の市)の中心部にある南湖に浮かぶ船の上で行われた(この経緯からわかる通り、中国共産党の創設は1921年7月23日~7月31日で行われた会議で決まったのであるが、現在、中国共産党では7月1日を党の創立記念日としている)(注)。

(注)中国共産党創立以降の中国共産党の歴史については、「人民日報」などのページに膨大な量の中国共産党の歴史に関する文書が掲載されている。しかしながら、1991年にソ連共産党が崩壊した後にロシア革命以降のソ連の歴史に関して新たな事実が次々に明らかになったことを考えると、これら「人民日報」等に掲載されている「中国共産党の歴史」のみが客観的な歴史であると断言することはまだ時期尚早であると考える。本稿では「人民日報」に掲載されている中国共産党の歴史についての記述を参照することが多くなるが、それが客観的なものであるかどうかについては、後世の歴史家に判断していただくほかはないことを前もってお断りしておく。

(参考URL1)人民日報「中国共産党簡史」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/index.html

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党ニュース」-「中国共産党第一次全国代表大会について」
http://www.people.com.cn/GB/shizheng/252/5089/5090/20010424/450622.html

以上

次回「2-2-2(2/2):【コラム:天安門前広場】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-3ce1.html
へ続く。

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