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2010年1月22日 (金)

2-2-1:【コラム:「軍閥」とは何か】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第1節:袁世凱政権と日本による対華21か条の要求

【コラム:「軍閥」とは何か】

 袁世凱は、もともと外国の技術を取り入れて清朝政府を改革しようとして洋務運動を進めた清朝の官僚・李鴻章が創設した軍隊の中にいた軍人だった。李鴻章は、清朝政府の官僚であり、清朝政府の予算で軍隊を創設したのであるが、清朝政府本体は当時の実力者だった西太后の意向に沿って軍艦を建造する予算を流用して北京郊外のイ和園(イは「臣」へんに「頁」=いわえん;イーフーユェン)を築造したりするなど軍隊の整備に無関心だったことから、李鴻章は自分自身の判断で軍隊の整備を進めていった。その結果、清の軍隊は次第に「李鴻章の軍隊」のような色彩を強めていった。

 このような動きを引き継いで、袁世凱は、軍の中で頭角を現した後、清朝政府の軍隊を徐々に自らの意志で動かせる「袁世凱の軍隊」に変えていった。軍を私物化していったのである。清朝政府には、もはやそれを防止する能力はなかった。

 軍を動かせるという力を背景として、袁世凱は政治の世界でも発言力を強化することになった。これまで述べてきたように、1898年の「戊戌の政変」においては、袁世凱は、当初、改革派の光緒帝側に立っていたが、光緒帝から軍事クーデターを起こすよう要請されると、それを西太后に通報し、光緒帝を幽閉させて「戊戌の変法」を圧殺する役割を果たした。1900年の義和団事件に際しては、義和団を鎮圧する役割を果たす一方、事態が変化し、清朝政府が義和団と結んで列強各国に宣戦を布告すると、袁世凱は清朝政府の命に従わなかった。袁世凱の指揮下にない清朝政府の軍隊はこの義和団事件で列強各国に壊滅させられてしまったので、これ以降、完全に清朝政府の軍隊=袁世凱の軍隊となった。袁世凱は、常にその場その場で自分がどの立ち位置に立てば最も有利か、を判断する能力に長けていた、と言うことができる。

 1908年に光緒帝と西太后が死去し、光緒帝の兄の醇親王が清朝政府の実権を握ると袁世凱は清朝政府と距離を置くようになり、清朝政府を見限ることになる。そして、袁世凱は、その軍事力を背景として、1912年に辛亥革命に際しては清朝政府の最後の皇帝・宣統帝に退位を迫るとともに、孫文に臨時大総統に就任することを約束させたのである。

 最終的には1915年には自らが皇帝になることを宣言するのであるが、それがいかに時代錯誤的なものであったか、ということを袁世凱自身は理解していなかったようである。

 袁世凱の生涯を通じてわかるように、彼には「政治的信念」とか「中国をどういう国にしよう」といった政策ビジョンはなく、常に自らの権力を最大限にするにはどうしたらよいか、が彼の唯一の関心事項であった。自らの権力の拡大に有利なのであれば、列強各国と提携することもいとわないし、自らが皇帝になることを支援してくれるのであれば、日本からの「対華21か条の要求」も受諾してしまうのである。

 彼の軍隊は、もともとは清朝政府の軍隊であったが、最後は袁世凱という個人が自由にできる軍隊になっていた。こういった個人の意志で自由にできる軍隊を持ち、政治的信念や政治的ビジョンを持たず、常に自らの権力の最大化を目指して動く政治家(彼らを「政治家」と呼ぶのだとすると多くの良心的な政治家から反発を食うかもしれないが)を「軍閥」と呼ぶ。

 袁世凱の死後、彼の部下だった馮国璋、段祺瑞、あるいは東北地方で勢力を伸ばしてきた張作霖なども「軍閥」と呼ばれ、この後、中華民国時代の中国で大きな役割を演じるようになる。中国各地を跋扈(ばっこ)して分割支配する軍閥は、列強各国と結びつき、中国の半植民地化を脇から支えた、という側面がある。また、軍閥が持つ軍隊は、あくまでトップに立つ者の指揮命令に従う「個人の軍隊」であり、中央政府や地方政府等の政府組織が持つ政府軍ではない。その意味で、軍閥の軍事力による支配は法に基づく支配(法治支配)ではなく、トップに立つ有力者の意志でどうにでもなる支配(人治支配)であると言える。清朝末期以降、中華民国の時代を通じて、これらの軍閥による「人治支配」の時期が長く続いたことが、中華人民共和国が成立した後も中国の社会に色濃くその影を落としていると言うことができる。

以上

※次回「2-2-2(1/2):五四運動と中国共産党の誕生(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-0ac5.html
へ続く。

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