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2010年1月28日 (木)

2-3-2:【コラム:溥儀と映画「ラスト・エンペラー」】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第2節:中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変

【コラム:溥儀と映画「ラスト・エンペラー」】

 愛新覚羅・溥儀は3歳の時、1908年に清朝最後の皇帝(宣統帝)として即位した。清王朝は、1911年に始まった辛亥革命の中で袁世凱が提示した妥協案(皇帝は退位するが、皇帝とその家族の身の安全は保証され、紫禁城(現在の故宮)に居住することを許される)を受け入れ、溥儀は1912年2月に退位し、清王朝は崩壊した。溥儀は、袁世凱の妥協案に従って、その後も紫禁城に住んでいたが、1924年、クーデターにより実権を握った軍閥・馮玉祥により、紫禁城を追放された。溥儀は、当初、家庭教師だったイギリス人レジナルド・ジョンストンを介してイギリス公館に保護を求めたが、中国との関係を悪化させたくないイギリスはこれを拒否した。そのため、最終的には1925年、溥儀とその家族の受け入れを表明した日本の保護下に入ることとなり、溥儀は天津の日本租界に身を寄せた。そして結局は「満州国皇帝」として担ぎ出されることになったのである。

(注)レジナルド・ジョンストンは、帰国後、中国在留中の事情を記した著書「紫禁城の黄昏」(原題:"Twilight in the Forbidden City")を書いている。

 日本敗戦の際、溥儀は、対日宣戦布告をして中国東北部に侵入してきたソ連軍に捉えられ、ソ連に抑留された。彼は、中華人民共和国成立後の1950年、ソ連から中国に引き渡され、戦争犯罪人として収監されていたが、収監中の態度が模範的であったとして、1959年に釈放された。その後、一般市民として北京に住み、1967年に死去した(溥儀は、釈放後、北京市郊外にある中国科学院植物園で働いていた)。その間、周恩来総理のはからいにより、溥儀は政治協商会議委員となっている(下記「参考URL」参照)。

 溥儀は、ソ連抑留中の1946年、ソ連側証人として来日し、東京裁判で証言している。この時、彼は「自分は日本側に無理矢理連れて行かれて皇帝にさせられた」と主張した。しかし、その後、自らが書いた自伝「我が半生」(原題:我的前半生)において、「当時自分は皇帝に復帰することを望んでおり、東京裁判での証言は偽証だった」と告白している。

 この溥儀の一生を描いた映画が1987年に公開された「ラスト・エンペラー」である(イタリア・中国・イギリス合作映画:ベルナルド・ベルトルッチ監督)。この映画は、1987年度のアカデミー賞で作品賞をはじめとする9部門賞を受賞し、その中で作曲賞を坂本龍一氏(映画中でも甘粕正彦役で出演)が受賞したことで日本でも話題となった。映画なのでもちろん脚色はあるが、溥儀が書いた「我が半生」やジョンストンの「紫禁城の黄昏」を基にかなり丁寧に溥儀の一生を描いている。映画にも登場する溥儀の実弟の愛新覚羅・溥傑氏は、この映画の公開時にはまだ存命で北京に住んでいた(溥傑氏は1994年に死去)。溥傑氏は映画を見て「必ずしも兄の生涯を正確に表していない。」とコメントしていた。また、映画公開当時、北京の歴史研究者は、映画では、溥儀が天津滞在時プレイボーイのような生活をしていたとして描かれているが、当時彼は経済的に困窮しており、この描写は誤りだ、と指摘していた。

 なお、「ラスト・エンペラー」溥儀の弟・溥傑氏の夫人は、日本人の嵯峨浩女史(日本の侯爵・嵯峨家の出身)である。浩女史は北京での映画公開の前年の1987年6月に北京で亡くなっている。その時、私は北京に駐在していたが、中国の人々の間でも浩女史は、尊敬すべき日本人として見られていた。日本の敗戦時、溥傑氏は兄の溥儀とともにソ連に抑留されたが、浩夫人は日本に帰国した。1960年、溥儀に引き続いて弟の溥傑氏が釈放された時、当時日中間に外交関係はなかったが、周恩来総理は、浩女史に対して、本人の意志次第だが、希望するならば中国に来ることを認める、という判断を下した。浩女史は「自分は中国人と結婚したのであるから、中国人であり、中国に行くのは当然である」と述べて、中国に渡った。そして、亡くなるまで溥傑氏とともに北京で暮らしたのである。こういった経緯から、浩女史は、多くの中国の人々の敬愛を集めていた。このあたりの経緯については、2005年、中日友好協会副会長の王効賢氏が雑誌「人民中国」に書いている。

(参考URL)「人民中国」2005年10月号
「溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm

(お断り)兄の溥儀については、歴史上の人物なので「溥儀」と敬称抜きで記しているが、弟の愛新覚羅・溥傑氏と夫人の浩女史については、私が北京に駐在してた当時、同じ北京に住んでいて、お二人とも日中友好のためにいろいろ活動をしておられた。そのため気分的に「歴史上の人物」として突き放して見ることができないので、敬称を付けて記させていただいた。表記上バランスが取れていないことは御容赦いただきたい。

以上

次回「2-3-3:中国共産党による『長征』と毛沢東による指導体制の確立」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-0281.html
へ続く。

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