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2010年1月26日 (火)

2-2-4:中国革命の父・孫文の死

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第4節:中国革命の父・孫文の死

 中国共産党と中国国民党の誕生の後、中国の革命の歴史は、軍閥が支配する当時の北京政府と誕生したばかりの国共両党、それに列強各国の中で中国に対する影響力を大きくしていった日本との力関係の中で揺れ動いていくことになる。

 ここで、袁世凱が死んだ後の北京政府の状況について簡単に振り返っておくことにする。1915年6月に当時の大総統だった袁世凱が病死した後、北京政府の後継者として袁世凱の部下だった軍閥政治家たちが登場したが、彼らには特定の政策指向はなく、北京政府は、列強各国による様々な思惑に基づくバックアップを後ろ盾として、複雑な合従連衡の権力闘争が繰り返されるだけの存在となった。彼ら軍閥政治家たちの派閥は、それぞれの首領の出身地にちなんで「直隷派」「安徽派」「奉天派」などと呼ばれている。

 袁世凱の死の直後は「安徽派」の段祺瑞が国務院総理となって政府の実権を握った。段祺瑞は日本と接近して、日本からの多額の借款を導入するなどして、その権力基盤の強化を図った。1919年に「五四運動」が起きると、親日的な段祺瑞に対する反発が強まったことから、「直隷派」の曹コン(「コン」は「金」へんに「昆」)と呉佩孚は「奉天派」の張作霖と連合して、1920年に段祺瑞を失脚させた。段祺瑞追い落としに動いた「直隷派」の背後にはイギリスとアメリカがいたと言われている。一方「奉天派」の張作霖は、遼寧省の出身で、日露戦争の当時から日本軍と関係が深かったと言われている。こうして北京政府は「直隷派」と「奉天派」が実権を握ることとなった。その後、今度は実権を握った「直隷派」と「奉天派」との間で反目が起こることになる。1922年には「直隷派」と「奉天派」との間で抗争が起こり「直隷派」が勝利して北京政府の実権を握った。

 「直隷派」に実権を奪われた「奉天派」の張作霖は、今度は一度は自分が追い落とした「安徽派」の馮玉祥に接近した。一方、国共合作により革命勢力を結集させた孫文も、これら軍閥政治家同士による勢力争いを利用して、軍閥が支配する北京政府を武力で打倒しようと考え、1924年9月、革命勢力軍を率いて北上を開始した(いわゆる「北伐」)。こういった革命勢力の動きを見ていた馮玉祥は、1924年10月、張作霖のバックアップの下、北京政府から「直隷派」を追い出すクーデターに成功した。このクーデターにより、辛亥革命により清の皇帝を退位した後も紫禁城(現在の故宮)に居住することを認められていた清朝最後の皇帝溥儀は、紫禁城を追われた。行き場を失った溥儀に対し、翌1925年、日本は庇護を申し出て、それ以降、溥儀は天津にある日本領事館にかくまわれることになる。

 馮玉祥と張作霖は、1920年に失脚した段祺瑞を再び担ぎ出して臨時執政に押し立てた。彼らは、孫文らの革命勢力を武力で鎮圧する方針を採っていた「直隷派」政権とは異なり、革命勢力と宥和する方針を示し、孫文等に北上するよう求めた。これに応じて、孫文は、「北伐」という言い方を「北上」に切り替え、革命勢力による勢力を各地に及ぼしながら北上を続けた。しかし、孫文は、北京に入る直前の1924年12月、天津で病に倒れた。孫文は病を得たまま北京に入ったが、1925年3月、ついに「革命いまだ成らず」と言い残して北京で死去した。

 孫文の死により指導者を失った中国国民党は、その後しばらく集団指導体制を取ることになる。

 革命勢力の北上に伴い、民衆による活動も活発になっていった。1925年5月、かねてから労使紛争が起きていた上海の日系企業において、労働運動を行っていた労働者(中国共産党員)が日本側によって射殺されるという事件が起きた。これに抗議した労働者・学生は、5月30日、上海の共同租界地域において大規模なデモを行った。警備に当たっていたイギリス官憲は、反帝国主義を叫ぶデモ隊に対して発砲し、死傷者が出た(「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」によると、この1925年5月30日のデモは中国共産党が組織したものであり、この日の衝突で13名が死亡し、多数が負傷した、とのことである)。

(参考URL)「人民日報」ホームページ
「中国共産党簡史」第一章「中国共産党の創立と大革命の流れへの参画(4)」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444663.html

 これをきっかけとして、全国で反帝国主義を掲げたストライキ等が行われるようになった(中国共産党では、これを「五・三○運動」と呼んでいる)。

 こうした中、中国国民党を中心として、1925年7月1日、広州において中華民国国民政府が成立した。この時の政府主席は汪兆銘(字(あざな)は「精衛」)であった。蒋介石は、この時点では、黄埔軍官学校の校長として軍事面を掌握していたが、政府委員にはなっていなかった。

 蒋介石は、五・三○運動に見られるような大衆運動を自らの指揮下にない軍事的動きとして苦々しく思っていたようである。蒋介石は、軍閥が支配する北京政府を国民政府の軍事力を用いて打ち破るため国民政府軍による北伐を実行することを考えていたが、中国共産党とコミンテルンは、軍閥の軍事力はまだ強力であり、現在の国民政府の軍隊では軍閥の軍隊に太刀打ちできないとして北伐には慎重な考え方を示していた。汪兆銘もこの時点での北伐には慎重だった。大衆運動に対する考え方と国民政府軍に対する指導方針において、既に蒋介石と中国共産党との間には微妙な「ズレ」が生じていたのである。

 1926年1月、広州において中国国民党第二回全国代表大会が開かれた。この大会については、立場によって評価が分かれている。本稿の参考資料のひとつである「中国現代史」(~壮大なる歴史のドラマ~(新版)(参考資料5))では、この会議で、中央執行委員は、蒋介石が代表する軍事的勢力、汪兆銘が代表する中国国民党左派、それに中国共産党からそれぞれ選出され、この会議は「第一次国共合作の頂点をなすもの」と位置付けられている。一方「人民日報」ホームページ上にある「中国共産党簡史」によれば、この会議では「中国共産党が妥協して譲歩した結果、国民党右派が中央執行委員会において優勢を占めるに至った」とされている。これ以降の中国国民党と中国共産党の関係の歴史については、まだ同じ歴史上の事柄に対しても、立場によってそれぞれ評価が異なるのが現状である。真に客観的な評価は、将来の歴史家による冷静な評価・分析を待つほかはないと思われる。

 こうした中、1926年3月18日、国民政府海軍局の局長代理だった李之龍(この人は中国共産党の党員)が軍艦・中山艦を黄埔軍艦学校のある広州の黄埔に回航する事態が発生した。蒋介石は、これを中国共産党による自分に対するクーデター行為だと判断し、李之龍をはじめとする共産党員とソ連人顧問を逮捕した(中山艦事件)。汪兆銘は蒋介石によるこの行為に不満であり、政府主席を自ら辞職して、フランスへ亡命した。この後、蒋介石は、5月に行われた第二回中央執行委員会総会において、高級党幹部における中国共産党員の割合を3分の1以下にする、など中国国民党内における中国共産党の影響を制限する「党務整理案」を提案した。このような動きを踏まえれば、結果的に見れば、中山艦事件は、蒋介石による反共クーデターだったという見方も可能である。

 この中山艦事件については、そもそも中山艦を黄埔に回航することを命じたのは誰だったのか(中国共産党が指示したのか、蒋介石側がウラで動いていたのか、蒋介石と汪兆銘との間を裂くことを狙った勢力によるものなのか)についての真相は今なおわかっていない。しかしいずれにしても、この中山艦事件をきっかけにして、第一次国共合作に亀裂が生じることになる(注)。

(注)この当時、孫文の死後、蒋介石と中国共産党の間に立って、第一次国共合作の「接着剤」の役割を果たしていた中国国民党左派の汪兆銘(字(あざな)を使えば汪精衛)は、後に、蒋介石と対立した後、日本との間で交渉による和平を探るようになり、1940年には日本のバックアップの下で蒋介石の国民政府と対立する汪兆銘政権(日本による傀儡(かいらい)政権と言われる)を樹立することになる。従って、汪兆銘は、現在では大陸でも台湾でも歴史上の「国賊」として扱われている。

 こうした中、なお中国国内に跋扈(ばっこ)する軍閥勢力を掃討するため、1926年7月、蒋介石は国民政府軍による北伐を敢行する。もちろんこの北伐の目的は国民政府が中国全土を支配するために軍閥勢力を排除することであったが、蒋介石の意図としては、北伐に慎重な態度を示している中国共産党とその背後にいるコミンテルンを牽制し、国民政府において軍事面を掌握している自分(蒋介石)の指導力を確立したい、という考えも背景にあったものと思われる。

以上

次回「2-2-4:【コラム:孫文に対する評価】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-fe75.html
へ続く。

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