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2010年1月23日 (土)

2-2-2(1/2):五四運動と中国共産党の誕生(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(1/2)

 袁世凱政権は1915年5月に日本による「対華21か条要求」を受諾する際、「中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くこと」「必要な地域で警察を日中共同とすること」等を規定した「5号条項」については受諾しなかった。それでも、袁世凱政権が、5号条項以外の日本の要求を受け入れたこと、特に山東半島におけるドイツの権益を継承して日本が山東半島の一部を占領状態に置いていることを認めたことに対し、中国の人々は「国辱だ」として怒ったのである。

 1916年6月、袁世凱が病死した後、袁世凱政権で副総統を務めていた黎元洪が大総統となった。しかし、政治の実権は、段祺瑞、馮国璋ら軍閥政治家が握ることになり、以後、軍閥政治家同士の勢力争いによる政治の混乱が続くことになる。孫文が結成した中国革命同盟会を軸として結成された国民党は、袁世凱政権下で解散させられていた。反袁世凱運動の中で改めて中国革命党を結成していた孫文は、袁世凱の死後も政権に戻ることはできなかった。

 第一次世界大戦によるヨーロッパ各国の疲弊は、経済面でも中国に対して影響を及ぼした。ヨーロッパにおける生産力の低下とドイツの潜水艦による輸送船に対する妨害等により、ヨーロッパから中国への製品輸出が減少した。例えば、1917年、1918年のイギリスからの中国の輸入額は1913年の約半分、フランスからの輸入額については3分の1に減少したという。このため、紡績、製糸、製粉、タバコなどの業種において中国の民族系企業が勃興した(参考資料5:「中国現代史」~壮大なる歴史のドラマ~(新版))。このことは、後に述べる五四運動において、「外国製品を買わずに国産製品を買おう」という動きが出てくる下地となっている。また、中国国内における民族資本家の成長は、その下で働く労働者の数が増えたことも意味し、これも後に述べる中国における社会主義運動のひとつの素地となった。

 長引く第一次世界大戦は、ロシアやドイツの国内政治にも影響を与え始めた。長期間にわたる戦闘で苦しむ兵士たちの間には、次第に自分たちが皇帝の命令によって戦場で塗炭の苦しみを受けていることについて「自分たちは何のために戦っているのか」という疑問の念が起き始めたからである。

 ロシアではこの当時まだ皇帝による支配が続いていたが、日露戦争中の1905年に起きた「血の日曜日事件」「戦艦ポチョムキンの反乱(兵士の待遇に対する不満などからロシア海軍の軍艦の乗組員が起こした反乱)」などに見られる国内の政権に対する不満を収拾するため、1906年に議会(ドゥーマ)が設置されていた。1916年以降、ロシアでは、第一次世界大戦による生活苦に農産物の不作による食料品不足が加わり、国民の不満が高まり、1917年3月(ロシア歴の2月)、首都ペテルブルクで食糧配給の増加を求める市民のデモが発生した。皇帝ニコライ2世は、これを武力で鎮圧しようとしたため、市民側が反発、労働者もこれ加わった。ニコライ2世は軍に鎮圧を命じたが、軍の兵士も市民・労働者側に同情的であり、多くの兵士が皇帝の命令に背いて市民・労働者側の立場に立った。この動きを受けて議会(ドゥーマ)は皇帝に退位を勧告したため、ニコライ2世は退位せざるを得なくなり、ロシアのロマノフ王朝は倒れた(二月革命)。

 皇帝の退位により、議会の有力者が中心となった臨時政府が成立したが、事態は混沌としていた。この時期、労働者や兵士からなる評議会(ロシア語で「ソヴィエト」)が結成され、臨時政府と並んで二重権力状態が生じた。ソヴィエトにおいてレーニンが指導するグループ(ボルシェビキ:ロシア語で「多数派」を意味する)は、1917年11月(ロシア歴では10月)、議会を通じた政治的な改革では労働者や兵士の側が権力を奪取することは困難と判断し、首都ペテルブルクで武力蜂起を敢行して、臨時政府を打倒し、全ての権力がソヴィエトに移行したことを宣言した(十月革命)。これらの動きがロシア革命である(注)。

(注)このようにロシア革命では、まず革命勢力が首都で武力蜂起を行って政権を奪取し、その権力を基にして地方における革命を進めていった。一方、後に述べる中国共産党による革命は、まず土地改革などによって農村部の支持を固め、都市部に拠点を置いていた国民党政府を包囲する形で無力化させていった。ロシア革命は「共産党宣言」の中でマルクス・エンゲルスが思い描いていたような形の革命を現実のものにしたものだったのに対し、中国共産党の革命は「農村が都市を包囲する」という全く別の形の革命だった。この違いは、その後のソ連と中国との歩みの違いを考える上で極めて重要である。

 十月革命で権力を奪取したボルシェビキ政権は、1918年3月、対戦相手であったドイツ等と講和条約を結び、一方的に第一次世界大戦から離脱した。これは思想的には「第一次世界大戦は、各国の支配階級が自らの権力拡大のために戦っているのであり、命令に従って戦場に駆り出され、苦しい生活を強いられている兵士・市民・労働者はどの国においても被害者である。」という考え方に立脚している。ボルシェビキ政権にはドイツ等と戦う理由はなかったのである。

 こういった「世界各国の兵士・市民・労働者はともに同じように被害者であり、団結して支配階層を打倒べきである」という考え方に基づき、世界各国で兵士・市民・労働者による革命を起こす運動を進めようと結成された組織が「共産主義インターナショナル」、いわゆる「コミンテルン」である。このコミンテルンは、後に述べるように中国における社会主義運動に大きな役割を果たした。世界の兵士・市民・労働者・農民の立場は共通であり、お互いに協力して支配階層を打倒しよう、という発想は、中国共産党の元来の基本的な指導理念のひとつである。それは、現在も北京の天安門の毛沢東主席の肖像の横に掲げられている「世界人民大団結万歳」という言葉に象徴されている。

 毛沢東は、中国共産党創生期からの共産党員であり、このロシア革命の「インターナショナリズム(全世界の人民は団結すべきとの考え方)」がその思想の出発点であった。一方、ロシア革命で発足したソヴィエト連邦は、他の資本主義諸国との対抗上、その後、国家としての勢力を拡大しようという意図が前面に出るようになり、世界各国の被抑圧人民を支援して共産主義革命を推進させようという「インターナショナリズムの理想」から徐々に離れていく。このソ連の「インターナショナリズムからの離脱」は、理想主義者・毛沢東の目には「国際共産主義運動に対する裏切り」と映り、これが1960年以降の中ソ対立のひとつの遠因になる。この点については、後に1960年代の中ソ対立の部分で述べることになる。

 ロシア革命において兵士・市民・労働者の大衆運動が皇帝を退位させたという事実は、中国の進歩的知識人たちに衝撃を与えた。中国でも既に辛亥革命において1912年に清朝の皇帝を退位させていたが、これは中国各地における武装蜂起が背景にあったにしても、最後は軍閥政治家である袁世凱が軍事力を背景として自分が臨時大総統になる見返りとして宣統帝を退位させた、というのが実態であり、その後の中華民国政府は、袁世凱等の軍閥政治家が実態的に政権を握り、国民による政府になっていなかったからである。多くの知識人は、一般大衆が支持し、一般大衆が主体的に革命を実行する国民革命を起こさなければ、真の革命は成り立たないことを痛感した。

 辛亥革命を指導しながら、実態的にはその後、袁世凱等の軍閥政治家による支配を許していた孫文も、ロシア革命の経過を知って、真の国民革命を達成するためには、一般大衆による革命への参加が不可欠であることを痛感した一人であった。このことが、後に、孫文を社会主義的考え方の人々とも連携して幅広い国民運動による革命を進めるべきであるという考え方に基づく国民党と共産党の協力(第一次国共合作)へ導くことになる。

 幅広い中国大衆の意識を高めることの重要性を強く認識した進歩的知識人の中に、1915年に「青年雑誌」(翌年に「新青年」と改名)を発刊した陳独秀らがいた。陳独秀らは、この雑誌を通して、西洋の人権思想、ダーウィンの進化論、社会主義思想などを中国の青年たちに紹介した。彼らは「孝」を尊ぶことは、その裏側では「服従」を強いることである、として儒教が説くアジア的上下関係を批判した。これは一種の「倫理革命」であった。(この当時、「貞操は道徳ではない」と主張し、女性解放運動のはしりとなった日本の与謝野晶子の考え方も中国に紹介されている)。一方、文学者の魯迅は、形式張った美辞麗句に終始する文語体を廃し、口語体で文章を書くことを勧め、口語体で様々な作品を発表した。この魯迅の活動は「文学革命」と呼ばれた。

 こういった「倫理革命」「文学革命」の運動を通じて、中国の進歩的知識人や若者たちは、自分たちがリードして一般大衆を動かさなければ、中国の近代化は進展しない、と自覚するようになった。こういった意識が高まっていたさなかの1919年1月、第一次世界大戦の戦後処理を取り決めるヴェルサイユ会議が開催された。

以上

※次回「2-2-2(1/2):【コラム:儒教に対する考え方】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-7e69.html
へ続く。

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