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2010年1月18日 (月)

2-1-2:義和団事件

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第2節:義和団事件

 「戊戌の変法」が思い描いていた「改革」は、結局は「幻」として終わってしまった。光緒帝は幽閉され、「戊戌の変法」を推し進めた中心人物である康有為、梁啓超らは日本へ亡命することになった。

 こうして政治が改革の方向を全く示すことができないでいる中、列強各国との戦争に敗れたことにより発生する賠償金の負担は、結局は増税という形で一般大衆に転嫁された。税金は地主に対して課されるが、地主は当然小作料の値上げという形で一般農民に負担を求めるため、この時期、抗租(小作料不払い)運動が頻発した。増税の原因が列強各国による圧力であったことから、中国民衆の中に列強各国による半植民地化に対する反発の機運が高まってくることになる。

 こういった社会的な不満がうっ積していく状況の中で、「反西洋」「反キリスト教」という立場に立つ新興宗教が民衆の支持を集めるようになる。それが「義和拳法」であった。「義和拳法」は、仏教の民間信仰である白蓮教から派生した新興宗教で、一定の拳法の修行や儀式を通じて神通力を得る、というものであった。

 「義和拳法」を行う集団(義和団)は、当初は漢民族ナショナリズムと反キリスト教の方針に則って「反清復明」のスローガンを掲げていた(「清」は満族の王朝、「明」は漢民族の王朝)。義和団のエネルギー源はナショナリズムであることから、この運動に警戒感を強めた列強各国は、当時、優勢な軍事力を維持して清朝政府から治安担当の役職に任命されていた袁世凱に協力を求めた。こうして、袁世凱は義和団の弾圧に乗り出すことになる。

 清朝政府は、列強各国からの圧力を受け、1900年4月の時点では義和団運動を禁止する方針でいた。しかし、清朝政府は、義和団が持つ外国排除の傾向を利用したいと考えるようになり、その後、義和団勢力に急接近する。義和団側もこういった清朝政府の意向を受け入れて、スローガンを「反清復明」から、「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅亡させる)に変化させていった。

 こういった清朝政府の容認姿勢を受けて、義和団は、1900年6月、天津から北京に進撃した。このため、北京にいた列強各国の外交団と中国人キリスト教徒は孤立することとなった。これを救出するため列強8か国(露・英・仏・独・米・オーストリア・伊・日の8か国)は北京に軍隊を派遣した。これら列強8か国に対し、義和団勢力を擁護する清朝政府は宣戦を布告した。これが義和団事件である。宣戦布告はしたものの、清朝政府に列強各国連合軍に対抗する力があるはずはなく、西太后は、8月、やむなく光緒帝を伴って北京を脱出し、西安に逃れた。その後、9月になって列強各国の圧力に屈した西太后は義和団討伐を命じ、義和団は鎮圧されたのである。

 この義和団事件の結果として1901年に締結された北京議定書は「清は列強8か国に4億5000万テールの賠償金を支払う」「列強各国の華北での駐兵権を認める」といった内容であった。義和団事件に対する清朝政府の右往左往やその後締結された北京議定書によって、清朝政府の中央政府としての機能の喪失と中国の列強各国による半植民地化が明確になった。

以上

※次回「2-1-2:【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-d1d3.html
へ続く。

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