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2010年1月29日 (金)

2-3-3:中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第3節:中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立

 1932年3月1日に溥儀を執政とする「満州国」を建国させた時点で、日本軍が最終的に中国のどの程度の範囲を掌握するつもりであったのかは定かではない。そもそも日本軍は、統一的な政治的意志の下で一定の最終目標を設定して、その目標達成のために各地域での行動を戦略的に展開していた、とは言い難く、各部隊が自らの勢力拡大のために様々な事件や戦闘行為を引き起こし、そういった既成事実の積み重ねが結果的に中国を侵略する形になっていった、と言ってよい。

 従って、「満州国」建国直前の1932年1月に発生した上海事変(第一次上海事変)は、日本軍による明確な戦略的意図に基づく行動であったのかどうかははっきりしない。満州事変による中国東北部での日本軍の展開により、中国全土で反日感情が高まっていたが、そうした中、1932年1月、上海において日本人僧侶が中国人に殺害される、という事件が起きた。この事件をきっかけに日本軍は上海に進出し、国民政府軍と戦闘を行った。これがこの時の上海事変である(後(1937年)の廬溝橋事件の後に起きた日本軍の上海での戦闘行為と区別する場合には「第一次上海事変」と呼ばれる)。日本人僧侶殺害事件自体、日本側が中国人の殺し屋を雇って起こした陰謀である、という説があるが、いずれにせよ、結果的にこの第一次上海事変は、中国東北地域での日本軍の動きと呼応して、国民政府軍の動きを牽制することとなった。

 この日本軍の行動に対し、国民政府軍とともに、上海の労働者や学生も抵抗するが、この第一次上海事変において中国共産党がどのような役割を果たしたのかは定かではない。「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」のこの時期の記述でも、中国共産党が第一次上海事変において果たした役割については述べられていない。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/index.html

 江西省瑞金で「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の樹立の宣言がなされた直後のこの時期、中国共産党には、積極的・組織的に上海での事態を指導する体制は整っていなかったためと思われる。

 蒋介石は、中国東北部や上海における日本軍の動きに対抗するためには、まず中国国内の体制を固める必要があると考えていた。そのため蒋介石は、「先ず内を安んじ、後に外を攘(はら)う」という方針の下、1930年12月から中国共産党が各地に設けつつあった「ソヴィエト地区」に対する包囲殲滅(せんめつ)作戦を実行していた。このため、中国共産党は、1931年11月に「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してはいたものの、各地で苦戦を強いられていた。

 蒋介石は、国内の掌握(=中国共産党勢力の一掃)を優先させるため、満州事変と「満州国」の建国に関する日本軍の動きについては、国際連盟に提訴するなど外交努力で牽制する一方、とりあえずの措置として日本との間での戦闘の拡大を防ぐための停戦協定の締結を優先した。第一次上海事変については1932年5月に上海停戦協定を締結し、満州事変自体についても、日本の国際連盟脱退後の1933年5月、塘沽(日本語読みで「たんくう」)協定を締結した。上海協定においては、上海に多くの権益を持つ米英等列強各国の圧力も強く、日本も日本だけを利するような協定内容にすることはできなかったので、上海租界の周辺区域を非武装地帯とすることが取り決められた(この非武装地帯には国民政府軍も入れない)。一方、塘沽協定は、日本軍の勢力範囲を万里長城線以北とする、という内容であった。これは逆に言えば、万里長城線以北における日本軍の存在を中国自身が認めることであり、「満州国」の存在を既成事実として事実上認めることを意味していた。

 これらの協定はいずれも停戦協定ではあったが、中国の一部である上海租界周辺や万里長城以北においては、中華民国の軍隊である国民政府軍が自由に動けないことを中国自身が自ら認めるものであり、中国の一般大衆からは「国を売るもの」として反発を買った。国民政府が日本との戦闘の拡大を防ごうとして締結したこれらの停戦協定と、その後に締結されたいくつかの日本との間の妥協的な協定が、結局は国民政府に対する中国の一般大衆からの支持を失わせることとなり、結果的に多くの人々を中国共産党支持に転換させる遠因となったのである。

 こういった蒋介石の方針は、国民党内部でも蒋介石に対する反発を呼んだ。1933年11月には「反日反蒋」を掲げる勢力が福建省において「中華共和国人民政府」の成立を宣言した。中国共産党が「この『人民政府』は人民的でも革命的でもない」として協力を拒否したこともあり、福建省の人民政府は1か月で崩壊した。これについて、上記(参考URL)に掲げた「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」では、この時の中国共産党の判断は「左」傾向の(国民党勢力との妥協を許さない)指導部による誤った判断であり、中国共産党は絶好のチャンスを逃した、と批判している。

 国民党内部の反蒋勢力を鎮圧した蒋介石は、中国共産党に対する殲滅(せんめつ)作戦を強めた。このため、中国共産党は江西省の根拠地を維持することができず、中国共産党の主力部隊は、1934年10月、国民政府軍の包囲網を脱出して西へ逃れた。11月には中国共産党の根拠地・瑞金は国民政府軍の手によって陥落した。これが後に言う「長征」の始まりであった。

 「長征」は、江西省瑞金を脱出してからセン西省北部(セン西省の「セン」は「こざとへん」に「狭」の「つくり」に似た字)に根拠地を置くまでの約1年間、国民政府軍からの追撃を避けながら、山間部をさまよいなつつ移動する「二万五千里」(中国の1里は500m)の行軍であった。今でこそ「長征」は、中国共産党の歴史において「最も苦しい困難な時期を乗り切り、各地に革命の種を蒔くことができた」と評価され、ロケットの名称にも使われている輝かしい歴史の1ページであるが、それは社会主義革命が成功した今だから言えることであって、当時の実態は山間部の道なき道をあてもなくさまよう「逃避行」だったのである。

 この「逃避行」の途中、1935年1月15~17日、貴州省の遵義において中国共産党中央政治局拡大会議が開催された。この会議で、たび重なる国民政府軍による殲滅作戦に敗れて根拠地を放棄せざるを得なかったこれまでの軍事的作戦の失敗に対する議論が行われた。この会議では、これまでの戦闘において優れた軍事的指導力を発揮した毛沢東を党の指導者とすることが決定された。現在、中国共産党の歴史の中においては、この「遵義会議」において毛沢東思想を中国共産党の指導原理とすることが決定された、としてこの「遵義会議」を重要な会議であると位置付けているが、毛沢東が革命について理論的・思想的にまとめた著述を書くのはむしろ「遵義会議」の後のことであり、「遵義会議」で毛沢東を党のトップとすることを決定したのは、毛沢東の軍事的指揮官としての優秀さを多くの中国共産党員が認めたからであって、「毛沢東の思想が優れていたから」という表現はおそらくは実態を表した表現ではないと思われる(この時、毛沢東は41歳)。

 ここで注意しなければならないのは、上記に述べたように「長征」は、当時の状況を客観的に表現すれば「逃避行」であり、中国共産党の軍隊が一群となって整然と移動していたわけではないことである。江西省の根拠地を失った中国共産党の勢力はいくつかのグループに分かれてバラバラに移動していたのが実態である。従って、「遵義会議」に出席できたのは、「逃避行」を続ける中国共産党勢力のひとつのグループ(毛沢東が所属するグループ)に過ぎなかった。「遵義会議」に参加した毛沢東をヘッドとするグループが「逃避行」を乗り切り、その後の中国共産党の主軸になったからこそ、今から振り返れば「遵義会議」が重要な会議だった、と言えるのである。この「遵義会議」については、現在の中国共産党が描く党の歴史の中では、「党内における毛沢東思想の勝利」としてかなり美化されている側面もあるので、客観的な立場から歴史を議論する際には注意を要する。

 いくつかのグループに分かれた中国共産党勢力は、国民政府軍との間でゲリラ戦的な戦闘を続けながら移動を続けた。長く困難な移動の末、最終的には、中国共産党の主力は、1935年10月にセン西省北部にあった「ソヴィエト地区」に到着した。その後、この地域の周辺の掌握に努め、1936年6月には延安に根拠地を定めた。延安は、この後、抗日戦争中、中国共産党の拠点となり、現在では「革命の聖地」と言われている。延安は、西安の北方、セン西省北部にあり、この地方では北から南に流れる黄河の西側に位置する乾燥した黄土高原地帯にある。中国共産党の根拠地も黄土高原の山肌に掘られた洞窟住居内に作られていた。中国共産党側から見れば「中国の奥深く革命の種をまく『長征』が終わって延安に革命の拠点を樹立した」ということになるが、国民党側から見れば、この時期、中国共産党を中原から追い落として黄土高原地帯の奥深くに追い込んだ、ということになる。

 なお、1935年10月にセン西省北部にあった「ソヴィエト地区」に到着した際、毛沢東は「七律・長征」という詩を作っており、これがこの移動を「長征」と呼ぶ発端となっている。「長征」は、毛沢東がこの詩を作った1935年10月に終わった、とする見方や、1936年6月に毛沢東が率いる主力部隊が延安に入った時点で終わった、とする見方もあるが、「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」では、1936年10月に別動部隊が北上して甘粛省・今の寧夏回族自治区周辺に集結したことをもって「長征が勝利のうちに終結した」と記している。

 蒋介石の率いる国民政府軍は、江西省瑞金にある中国共産党の根拠地を陥落させて中国共産党を「長征」という名の逃避行に追い込み、結局は内陸部の根拠地に追いやることに成功した。蒋介石が中国共産党を殲滅(せんめつ)しようとしたのは、まず中国国内を完全に掌握した上で、日本と当たろう、と考えていたからであるが、この頃日本軍は、「満州国」を建国させて勢いに乗り、中国大陸における地盤を固め、むじろますます国民政府を圧迫するようになっていた。日本軍は、1933年5月の塘沽協定によってその勢力範囲を「万里の長城線」の北側に留める、と約束していたにも係わらず、華北地方に対する軍事的圧力を強めていった。国民政府はこの圧力に屈し、1935年6月、梅津・何応欽協定を締結して、河北省からの国民党の軍隊と国民党政府機関の撤退、抗日活動の禁止を約束させられた(梅津美治郎は日本の北支駐屯軍司令官、何応欽は中国国民軍代表)。

 さらに日本軍は1935年11月、通州(現在の北京市通州区付近。北京市街地と天津との間にある)を首都とする「冀東防共自治政府」を成立させた。日本軍は、「満州国」と同じように、傀儡(かいらい)政権により華北地方も支配下に置こうとしたのである(「冀」は河北省のこと)。

 日本軍の勢力が歴史的な首都である北京(当時は国民政府の首都は南京だったので「北平」と呼ばれていた)に迫ったことに対して、中国の人々の日本に対する危機感は頂点に達した。そして、その中国の人々の気持ちが、日本に対する反発と同時に、日本軍に押される一方でありながら片方で同じ中国人である共産党勢力との戦いを続けている蒋介石に対する反発へとつながっていくのである。

以上

次回「2-3-3:【コラム:三大規律と八項注意】」
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へ続く。

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