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2010年1月

2010年1月31日 (日)

2-3-5:【コラム:「南京大虐殺論争」について】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第5節:廬溝橋事件から日中戦争へ

【コラム:「南京大虐殺論争」について】

 1937年の日本軍の南京入城に際して殺害された人の数が何人であったか、という論争については、学術的な研究により、明確な定義を行った上で、資料等に基づき確定すべきものと考えるが、私は死者の数が何人であるか、といった論争は本質的な問題ではない、と考えている。例えば、広島や長崎に投下された原爆の死者の数についても、いろいろな説があるが、歴史上の問題としては、死者の数が正確に何人だったか、ということは本質的な問題ではなく、一般市民の頭上に原子爆弾が投下された、という事実が問題なのである。それと同様に、1937年12月の日本軍の南京入城に伴って起こった事件については、殺された人々の数が正確に何人だったのか、は本質的な問題ではなく、問題とすべきなのは、日本軍がそこで何をやったのか、それはなぜなのか、ということである。

 私が第一回目の北京赴任(1986~1988年)をしていた頃にも、南京事件において殺害された人の数については、いろいろな議論が行われていた。しかし、当時は、「南京大虐殺はなかった」とか「まぼろしだった」とかいった議論は、あることはあったが、誰も相手にしていなかった。ところが、1990年代以降、インターネットが発達し、多くの人が自由に意見を公の場で言えるようになるにつれて、学術的な「数字の論争」を離れて、「なかった派」「まぼろしだった派」が増えてきているように見えることに私は困惑している。

 私は、日本は敗戦によって軍国主義の国から民主主義の国に生まれ変わったのであり、軍国主義時代に日本が行った行為を批判することは、現在の日本を批判することとは繋がらない、と考えている。しかし、なぜか、特に最近の若い人には、軍国主義時代の日本の行為について批判されると、自分が批判されたように反発する人が結構多い。1980年代までは、中国の指導者は、ことあるごとに、1945年までの日本による中国侵略は、日本の軍国主義者が行ったのであり、日本人民も日本軍国主義の被害者だったのである、と言っていた(私自身は、1945年以前の日本においても、不完全とは言いながら民主主義的制度は機能していたのであるから、日本の一般人は純粋な被害者である(加害者ではない)、という考え方には、完全には同意しない)。1980年代の中国の人々は大体は当時の中国の指導者と同じような考え方を持っており、日本人が軍国主義時代の日本の行為を正当化するような言動を取らない限り、現在の日本に対して反感を持つ人はいなかった、と思う。

 しかし、1990年代以降、日本において日本の軍国主義時代の行為を批判されると今の日本を批判されたと感じる若い人たちが増えていると同時に、中国において日本の軍国主義時代の行為を批判することと今の日本を批判することを同一視している若い人が増えているように感じるのが、気になるところである。

 日本人がアメリカによる広島・長崎への原爆投下を「歴史上の誤りである」と主張することが正当であるのと同じように、中国の人々が1937年12月の日本軍の南京入城に際して起こした行為を「歴史上の誤りである」と主張することは正当なことである、と私は信じている。原爆投下を「歴史上の誤りである」と主張することが日本にとってアメリカとの友好関係を維持・発展させる出発点のひとつであるのと同じように、中国が日本軍による南京での行為を「歴史上の誤りである」と主張し、中国がそういう主張をすることを日本が認めることが日中両国が友好関係を維持・発展させる出発点のひとつであると私は信じている。

以上

次回「2-3-6(1/2):日本の敗戦(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/02/post-6cc9.html
へ続く。

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2-3-5:廬溝橋事件から日中戦争へ

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第5節:廬溝橋事件から日中戦争へ

 廬溝橋は、北京市街地の南西郊外(天安門から直線距離にして西南西約16kmのところ)にあり、北北西から南南東へ向けて流れる永定河に架かる橋である。橋の欄干には大理石の彫刻が施されており、元の時代に北京を訪れたマルコポーロがその美しさに驚嘆した、と伝えられていることから、英語ではマルコポーロ・ブリッジとも呼ばれている。今は、近くに「中国人民抗日戦争記念館」がある。

 1937年(昭和12年)7月、日本軍は廬溝橋の東側(つまり北京市街地側)に駐屯し、国民政府軍は廬溝橋の西側に駐屯していた。前述のように梅津・何応欽協定や「冀東防共自治政府」の成立を受けて、当時の北京(首都ではないので当時の呼称は「北平」)周辺には、日本軍と国民政府軍が駐屯し、互いに相手の出方を監視する状況が続いていたのである。こうした中、7月7日夜、日本軍が永定河東岸において夜間演習を行っていたところ、22時40分頃、日本軍に向かって複数発の銃弾が撃ち込まれた。これをきっかけにして、日本軍と国民政府軍の戦闘が開始された。これが廬溝橋事件である。

 戦闘開始のきっかけとなった最初の銃弾を誰が撃ったのか、については、諸説があり、現在でもはっきりわかっていない。満州事変のきっかけとなった柳条湖の鉄道爆破事件の時とは異なり、この後の日本軍の行動を見ると、この時点で最初から大きな軍事行動を起こす計画だったと思わせるような兵力配置ではなかったことから、このきっかけとなった銃撃自体は、日本軍による自作自演ではなかった、というのが現在の定説になっているようである。

 歴史学者の秦郁彦氏は、その著書「南京事件」(本稿の参考資料10)において、日本側はこの時点で既に「第二次国共合作」によって抗日という目標の下で意思統一が図られていた中国側の状況を甘く見ており、一撃を加えれば、中国側が日本の意の下に妥協するであろう、と考えていた節がある、と指摘している。西安事件は、世界に報道された事件であり、日本側も知ってはいたのであるが、この西安事件により、それまでは圧力を加えるたびにずるずると妥協してきた蒋介石の方針が変わった、という認識は持っていなかったようである。7月11日、当時の日本の近衛内閣は、5個師団の華北派遣を表明し、7月末には日本軍は北京(北平)と天津を占領した。

 蒋介石は、日本との間で全面戦争になることを覚悟し、主力軍を上海方面へ振り向けた。これを受けて、8月13日、上海にいた日本軍と国民政府軍との間でも戦闘が開始された(第二次上海事変)。華北の日本軍は破竹の勢いで進撃し、9月24日には河北省の保定を、10月10日は石家庄を攻略した。さらに西の山西省へ向かった日本軍は、中国共産党の林彪(後の国家副主席)が率いる八路軍と戦い、11月9日、山西省太原を占領した。

 日本は、交戦国への武器輸出を禁じているアメリカの中立法の適用を受けることを懸念し、これらの戦闘においては中国に対して宣戦布告は行わず「北支事変」「支那事変」といった呼び方をしていた。しかし、この時点では既に、日本軍は、上記のように「第二次国共合作」により抗日統一戦線を組んだ蒋介石の国民政府軍と中国共産党の指揮下にある軍隊と同時並行的に戦う状況になっており、日本と中国は全面的な戦争状態に入っていたと言えるため、現在では、廬溝橋事件以降の戦闘を「日中戦争」と呼ぶのが普通である。

 上海における戦闘を支援するため、8月15日、日本軍の松井石根(いわね)軍司令官が派遣された。松井軍司令官に与えられた任務は「上海における居留民の保護」であったが、松井軍司令官は、上海へ派遣される当初から、国民政府の首都である南京を陥落させなければ、中国側を屈服させるという目的は達成できないと考えていた。一方、日本軍参謀本部の作戦部長の石原莞爾は、ソ連の脅威に備えるため、上海方面での戦線の拡大はさせない方針だった。この現場に派遣された松井軍司令官と日本軍中央との意識の違いが、下記に述べる指揮命令系統の混乱の原因となる。

 日本軍は、江南地域特有のクリーク(運河網)を利用した中国軍の応戦に苦戦を強いられた。このため、日本軍は、上海での戦闘を短期間で終わらせるため、次々に増援部隊を派遣したが、抗日の意思統一が図られた中国軍と中国人民の前に日本軍も大きな損害を受けた。秦郁彦氏は著書「南京事件」において、上海戦において日本軍が受けた思わぬ大きな損害が、その後の南京進撃における「復讐感情」を植え付けたのではないか、と指摘している。

 なかなか上海での戦局が打開されない中、参謀本部は、華北に展開していた部隊を一部編成し直して第十軍として杭州湾北岸から上陸させて北上させた(11月5日)。これを知った中国軍は、東の上海と南の杭州湾から挟撃されることは不利と判断して迅速に西へ撤退した。日本の上海派遣軍主力と第十軍は合流して中支那方面軍が編成されたが、日本軍中央から彼らに与えられていた任務は依然として「上海における居留民の保護」であり、追撃の限界線として指示されていたのは「蘇州・嘉興を結ぶ線より東」であった。杭州湾上陸からほとんど戦わずして上海派遣軍主力と合流した第十軍は、足早に撤退した中国軍の動きを見て、11月15日、日本軍中央の参謀本部の指令を無視して、首都・南京へ向けて進撃を決定する。秦郁彦氏は、この点に関し、軍中央の指令を無視し、勢いに乗って南京出撃を命じた中支那方面軍の指揮官が、部下の兵士に対して軍紀・軍律を守れと要求すること自体、無理なことだった、と指摘している。

 日本軍中央は、拡大する戦線に対処するため11月20日に大本営を設置した。軍中央は、首都南京へ進軍を開始した現地軍の動向を止めることができず、結局は大本営も11月28日になって、中支那方面軍の首都南京への進撃を追認した。

 国民政府は、11月19日には、既に首都機能を南京から重慶に移していた。蒋介石は、南京に守備軍を残すとともに、自らも南京に留まっていたが、日本軍の進撃が速く、あまりにも急な首都移転だったため、南京付近の状況は混乱を極めた。結局は、12月7日には蒋介石も南京を離れて漢口(武漢)に逃れた。12月9日、南京を包囲した日本軍は蒋介石側に投降勧告をするが蒋介石側はこれを拒否し、12月10日、日本軍による総攻撃が開始された。日本軍は12月13日には南京市内を占領した。

 日本軍の上海から南京への進軍は極めて急なものであったため、物資補給の兵站線が前線に追い付いていなかった。このため、日本軍は食糧確保のため、現地で物資の徴発を行った。また、この南京攻防戦に際して、中国の人々の多くもゲリラ戦的抵抗を行ったことから、日本軍は、ゲリラ兵(いわゆる「便衣兵」)と一般住民との区別が付かず、多くの一般住民もゲリラ兵としての疑いを掛けて捉え、殺害した、とされている。混乱した状況の下、物資補給が欠乏して現地で調達せざるを得ない日本軍兵士が大量に南京市内に入城したことから、軍紀・軍律を維持することは困難になり、多くの略奪、婦女暴行、虐殺が行われたと言われている。これが後に言われる南京事件(南京大虐殺)である。

 南京事件において何人の人が殺害されたか、については、諸説がある。そもそも殺害された人数を数えるのに、いつからいつまでの期間について数えるのか、地域をどこにするのか(南京市内に限るのか、上海から南京へ進撃する途中で殺された者も含めるのか)、戦死した兵士の数を含めるのか一般住民に限るのか、殺害された捕虜の数も含めるのか、といった様々な条件を設定した上で検討しなければ、殺害された人数について確定することはできない。秦郁彦氏は著書「南京事件」(参考資料10)の中で「不法に殺害された南京市民」として約4万人という数字を掲げている。東京裁判の判決文では、11万9,000人という数字が使われ、中国側は30万人という数字を主張している(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

以上

次回「2-3-5:【コラム:『南京大虐殺論争』について】
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へ続く。

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2010年1月30日 (土)

2-3-4:【コラム:張学良氏について】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第4節:西安事件と第二次国共合作

【コラム:張学良氏について】

 張学良氏は、当初は軍閥で、後に中国国民党軍の軍人になった人であるが、上記のように「第二次国共合作」の立役者であり、抗日統一戦線結成のきっかけを作った人物であることから、中国共産党政権下の現在の中華人民共和国においても非常に高く評価されており、張学良氏を主人公とする映画が作られたりもしている。張学良氏自身は、西安事件を起こしたことで蒋介石により軟禁状態に置かれ、1949年に国共内戦に敗れた蒋介石が台湾に逃れたのに合わせて台湾に移送された。1975年に蒋介石が死去した後は、比較的自由な行動が認められていた、とされている。

 1990年(平成2年)6月、張学良氏は、自分自身の誕生パーティーに出席し、半世紀ぶりに公の場に姿を現した。こういった状況を捉えて、NHKは、台北において張学良氏(当時89歳)に直接インタビューし、それを基に下記の番組が制作された(聞き手は、NHK特別主幹の磯村尚徳氏と桜美林大学教授臼井勝美氏)。

「NHKスペシャル 張学良がいま語る 日中戦争への道」(1990年12月9日放送)
「張学良・磯村尚徳対談 私の中国・私の日本」(1990年12月10日放送)

 これらの二つの番組は、現在、横浜の「みなとみらい線・日本大通り駅」直上にある財団法人放送番組センターの「放送ライブラリー」で無料で視聴できる。

(参考URL)「放送ライブラリー」のホームページ
http://www.bpcj.or.jp/

 張学良氏は、1991年に正式に釈放され、最晩年はハワイに移住して、21世紀になってから、2001年10月にハワイで100歳で死去している。

 上記の番組の中で、張学良氏は、次のような証言をしている。

○1928年6月4日に父(張作霖)が爆殺された時、当時の多くの人がそう思っていたのと同じように、自分(張学良氏)も最初から日本軍の仕業であると思っていた。なぜなら、爆殺された現場は北京から奉天へ向かう鉄道と南満州鉄道が立体交差する場所であったが、当時、南満州鉄道は日本軍によって厳しく警備されており、日本軍関係者でなければ近付けなかったからだ。また、父(張作霖)が爆殺された時、南満州鉄道の列車は止められていたが、南満州鉄道の列車を止められるのは日本軍だけだったからだ。

○父(張作霖)が爆殺された後、日本陸軍特務機関の土肥原賢二が「日本を後ろ盾として、中国東北部を中国から独立させた国を作れば、そのトップとして君臨できる」と提案してきたが断った。父(張作霖)は日本軍に協力していたが、結局は日本軍によって殺されてしまった。自分も日本軍に協力すれば、いつかきっと父と同じように日本軍に殺されるだろう、と思ったからだ。

○1936年9月18日に関東軍が柳条湖で南満州鉄道を爆破して満州事変が始まった時、自分は「日本軍の挑発に乗るな。日本軍に抵抗して戦線を拡大してはならない」と指示した。国民政府中央は「状況に応じて対応せよ」という曖昧な指示しか出さなかった。責任を取りたくなかったからであろう。だから、満州事変の時に東北地方にいた軍隊が撤退したのは、自分(張学良氏)の責任である。関東軍の挑発に乗れば戦線が拡大するおそれがあったし、自分は、ソ連との関係など国際関係を考えれば、日本政府は戦線を拡大しないだろうと考えたのだ。このことで、自分は中国国内で「不抵抗将軍」として非難されることになるが、自分の判断は間違っていなかったと思う。(実際、日本政府は、張学良氏が考えていたように戦線を拡大しない方針を採った。しかし、張学良氏の思惑を超えて、関東軍は日本政府の意向を無視して軍を展開し、約5か月で中国東北部を制圧した)。

(お断り)張学良氏についても、私にとっては「同時代人」のお一人であるため、このコラムの中では敬称を付けて表記させていただいた。

以上

次回「2-3-5:廬溝橋事件から日中戦争へ」
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へ続く。

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2-3-4:西安事件と第二次国共合作

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第4節:西安事件と第二次国共合作

 蒋介石が、1935年6月、日本軍との間で、河北省からの国民党機関の撤退を約束させられる梅津・何応欽協定を受け入れたのは、とりあえず日本軍との戦闘状態を休止させ、「先ず内を安んじ、後に外を攘(はら)う」という方針に従って、中国国内における共産党勢力を一掃し、自らの中国における支配権を確立させようと考えたからであった。日本軍は、こういった蒋介石の考え方に付け込んで、1935年11月には北京(当時は「北平」)近郊に「冀東防共自治政府」を成立させて華北地域への勢力拡大の機会を狙うようになった。このように日本軍の勢力拡大を許したことから、共産党勢力の一掃にばかり関心を払う蒋介石に対する反発が中国の人々の間に高まっていった。1935年12月9日には、北京(当時は「北平」)において、蒋介石に対して共産党と戦うのをやめ、抗日の戦いを起こすよう求める学生らのデモが発生した(一二・九運動)。こういった人々の気持ちを背景として、蒋介石のかたくなな方針に対して、足元の中国国民党の内部にも蒋介石の方針に疑問を持つ人が出始めるのである。

 蒋介石は「長征」を終えた共産党勢力が1936年にセン西省の延安に入ったことについて「共産党勢力を山奥に追い詰めた」と認識し、共産党勢力の根拠地である延安を包囲し攻撃する方針を取っていた。父親の張作霖を日本軍に殺された張学良は、この頃、蒋介石の命により、中国東北地方出身者からなる東北軍を率いて、共産党掃討作戦を行っていた。東北軍は、もともとは中国東北地方にいる者たちで、自分たちの故郷は日本軍の力を背景とする「満州国」となっていた。後述するように、張学良は、1990年12月9日にNHKで放送されたインタビュー番組「NHKスペシャル 張学良がいま語る 日中戦争への道」で自ら語っているが(この時、張学良は89歳)、この時期、張学良は東北軍の部下たちから、共産党との戦いをやめて、故郷に帰って日本軍と戦うよう再三に渡って突き上げを受けていたという。この番組の中で、張学良は、自分自身は蒋介石の考え方とは逆に「まず外敵を打ち払ってから、その後に国内を平定すべき」と考えていたと述べている。

 1936年4月9日、張学良は、密かに延安を訪れ、周恩来と会談した。この会談で、両者は、内戦を止め、共同して日本と戦うことに基本的に合意し、張学良は蒋介石を説得することを約束したという。

 一向に共産党との戦いが進展しない状況に業を煮やした蒋介石は、自ら戦況を視察し、現地にいる国民政府軍を督戦するため、1936年12月4日、セン西省の西安に入った。ところが、12月12日、張学良と共に共産党との戦いを行っていた西北軍の楊虎城が蒋介石を監禁する、という事件が起こったのである。この事件は、中国国民党の軍隊の司令官が、自分たちの最高司令官を監禁するという前代未聞の事件であった。これが西安事件である。

 蒋介石を拘束した張学良と楊虎城は、蒋介石に対し、共産党との間での内戦を停止し、共同で日本軍と当たるよう強く迫った。延安からは、周恩来、葉剣英(後の国家主席)らが張学良の飛行機で西安入りし、国民党側との間で協議が行われた。中華民国の首都南京と中国共産党の本拠地である延安、そしてこの西安との間で連絡が取られ、三週間にわたる交渉が行われた。しかし、蒋介石自身は、周恩来との会談を拒み、共産党との合意文書に署名することを拒否し続けていた。しかし、最終的に、12月24日、周恩来と蒋介石のトップ会談が実現し、その結果、妥協が成立して、蒋介石は釈放された。張学良は、この周恩来と蒋介石とのトップ会談に立ち会っていたが、上記のNHKのインタビュー番組の中で、会談の内容を聞こうとしたインタビュアーの磯村尚徳氏に対して「これ以上は質問しないでください」と、この会談の内容について答えることを拒否した。この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのか、については、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、歴史上の謎となってしまった(張学良は、2001年10月に100歳で死去している)。

 「人民日報」のホームページにある「中国共産党簡史」によれば、この時、蒋介石は「共産党に対する包囲作戦を中止し、紅軍と連携して日本に抵抗する」などの6項目について合意した、とされている。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
「第二章:土地革命の中における農村が都市を包囲するという路線の確立(5)」
5.抗日民族統一戦線を確立するための闘争
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/index.html

 西安事件が起きた時に蒋介石が拘束された場所は、西安市の東の郊外、秦の始皇帝の兵馬俑坑へ行く途中にある観光地・華清池にある。華清池は温泉池で、唐の時代、玄宗皇帝が楊貴妃とともに過ごした別荘地であった。現在でも華清池に行くと、西安事件の際の生々しい銃痕が残る建物が室内の様子を当時のままにして展示されている。

 張学良は、西安に留まるよう求める部下たちの意見を振り切り、蒋介石が南京へ帰ったのと同じ日に南京へ移動した。張学良は、南京において国民政府の国家元首を監禁した罪で軍事裁判に掛けられ、有罪となった。その後、蒋介石から恩赦が出されたが、張学良は、それ以後、軟禁状態におかれ、1949年に蒋介石が台湾へ逃れると、一緒に台湾に移された。その後も軟禁状態は続き、張学良が公の場に姿を見せたのは台湾の民主化が進んだ1990年になってからであった(その機会にNHKがインタビューを行ったのである)。張学良は、軍事裁判に掛けられ有罪になることがわかっているのに南京へ行ったことについて、NHKとのインタビューの中で「自分は南京へ行けば殺されるかもしれないと思っていた。だが自分は軍人だ。自分の身を犠牲にして、内戦をやめさせ、統一した抗日戦線を作りたかったのだ。」と述べている。

 この西安事件における合意を受けて、中国共産党側も1937年2月に開かれた第5期中央委員会第3回総会において、「内戦を停止して一致して外と当たる」「言論、集会、結社の自由を保障し、一切の政治犯を釈放する」、(もし国民党側が蒋介石との合意事項を実行するならば、という条件付きだが)「『ソヴィエト政府』という名称を『中華民国特区政府』と改める」「『紅軍』という名称を『国民革命軍』と改める」「特区においては徹底的な民主制度を実施する」「地主の土地を没収するという政策を停止する」ことを決定した。これは、中国共産党にとっては「共産主義革命の一時停止」を意味するものであるが、これを以て、国民党に抗日統一戦線の樹立を迫ったのである。結局、中国共産党側のこのような動きを中国国民党側も受け入れ、ここに中国国民党と中国共産党との協力関係、即ち「第二次国共合作」が成立した。このような状況の下で1937年7月7日の廬溝橋事件の日を迎えることになるのである。

以上

次回「2-3-4:【コラム:張学良氏について】」
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へ続く。

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2010年1月29日 (金)

2-3-3:【コラム:三大規律と八項注意】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第3節:中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立

【コラム:三大規律と八項注意】

 「長征」は極めて困難な移動であり、ゲリラ戦的戦闘で多くの兵士が死傷し、また多くの人々が脱落していった。しかし、この大移動の過程で、中国共産党は、抗日を唱え、地主階級から土地を取り上げて貧農に与えるという土地改革を実施することを通じて、多くの農民の支持を得る基盤を内陸部に残していったのも事実だった。毛沢東は、それまでの経験に基づき、革命は大多数を占める農民が自らの意志で参加するものでなければ成功しないと考えていたし、コミンテルンからの派遣者やソ連留学組の「革命のエリート」が難しい革命理論を振りかざしても農民たちはついて来ないことをよく知っていた。純朴な中国の農民を革命に立ち上がらせるためには、抗日を唱え、土地の分配というわかり易い政策を実行するとともに、共産党の軍隊(工農紅軍)の規律を確立し、農民が自ら進んで紅軍に参加するようにする必要があった。このため、毛沢東は紅軍に対し、非常に単純でわかりやすい指示を与えていた。1927~1928年頃、江西省の井岡山を根拠地にしていた頃から指示を始めていた「三大規律と八項注意」がその典型例である。

 三大規律とは次の3つである。
・いっさいの行動は指揮に従う。
・大衆からは針1本、糸1筋も取らない。
・ろ獲品は全て公のものとする。

 八項注意とは次の8つである。
・話はおだやかに。
・買い物の支払いは公正に。
・ものを借りたら返す。
・ものを壊したら弁償する。
・人をなぐったり、どなったりしない。
・農作物を荒らさない。
・婦人をからかわない。
・捕虜をいじめない。

 こういった簡単でわかりやすい指示で、毛沢東は紅軍の規律を維持した。また、紅軍は兵士であると同時に、戦闘のない時は農作業を手伝う存在でもあった。規律の維持と農作業に対する協力により、紅軍は各地で農民からの支持を獲得していった。昔から中国では、「良い鉄はクギにはしない。良い人間は兵隊にはならない。何になってもよいが兵隊にだけはなってはいけない。」と言われていた。この時代まで、軍隊の兵士は、金で雇われており、戦闘に伴う略奪行為などは日常茶飯事であり、兵隊は多くの民衆から嫌われていた。そういった中国における「兵隊」に対するイメージを変えたのが毛沢東が指揮する紅軍であった。「何よりも大衆・農民の支持を得ることが第一だ。」というこの考え方は、「一般大衆からの支持を失ったら自分たちの存立基盤がなくなる」という中国共産党のバックボーンとなっている認識であり、これは現在まで続いている(はずである)。

(注)「三大規律と八項注意」は、今でも人民解放軍の基本規律である。2008年5月の四川大地震の後、災害出動した人民解放軍のある兵士が、被災者からの勧めを断り切れずに食事をもらったことに対し、軍はこの兵士を処分した、ということが伝えられた。これに対して、被災者の側からは、処分を撤回して欲しい、という嘆願書が出された、とのことである。こういったニュースが報道されるのは、当局側が「今も、昔と同じように人民解放軍の厳しい規律は守られている」ということを人々に伝えたいからだと考えられる。

 上で「遵義会議」において毛沢東が中国共産党の中心的指導者になったのは、その軍事的指揮官としての能力を認められたからであって、「遵義会議」の時点で思想家としての毛沢東の革命思想が認められたからではない、と書いた。ただ、この時点で既に毛沢東は「優れた政治家」であった、と言うことはできる。なぜなら、「優れた政治家とは、わかりやすい言葉で人々に語り掛け、人々の支持を集めることのできる人物である」と定義することができるとすれば、「遵義会議」の時点で、既に毛沢東が「優れた政治家」であったことは間違いがないからである。

以上

次回「2-3-4:西安事件と第二次国共合作」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-b53b.html
へ続く。

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2-3-3:中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第3節:中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立

 1932年3月1日に溥儀を執政とする「満州国」を建国させた時点で、日本軍が最終的に中国のどの程度の範囲を掌握するつもりであったのかは定かではない。そもそも日本軍は、統一的な政治的意志の下で一定の最終目標を設定して、その目標達成のために各地域での行動を戦略的に展開していた、とは言い難く、各部隊が自らの勢力拡大のために様々な事件や戦闘行為を引き起こし、そういった既成事実の積み重ねが結果的に中国を侵略する形になっていった、と言ってよい。

 従って、「満州国」建国直前の1932年1月に発生した上海事変(第一次上海事変)は、日本軍による明確な戦略的意図に基づく行動であったのかどうかははっきりしない。満州事変による中国東北部での日本軍の展開により、中国全土で反日感情が高まっていたが、そうした中、1932年1月、上海において日本人僧侶が中国人に殺害される、という事件が起きた。この事件をきっかけに日本軍は上海に進出し、国民政府軍と戦闘を行った。これがこの時の上海事変である(後(1937年)の廬溝橋事件の後に起きた日本軍の上海での戦闘行為と区別する場合には「第一次上海事変」と呼ばれる)。日本人僧侶殺害事件自体、日本側が中国人の殺し屋を雇って起こした陰謀である、という説があるが、いずれにせよ、結果的にこの第一次上海事変は、中国東北地域での日本軍の動きと呼応して、国民政府軍の動きを牽制することとなった。

 この日本軍の行動に対し、国民政府軍とともに、上海の労働者や学生も抵抗するが、この第一次上海事変において中国共産党がどのような役割を果たしたのかは定かではない。「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」のこの時期の記述でも、中国共産党が第一次上海事変において果たした役割については述べられていない。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党簡史」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/index.html

 江西省瑞金で「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の樹立の宣言がなされた直後のこの時期、中国共産党には、積極的・組織的に上海での事態を指導する体制は整っていなかったためと思われる。

 蒋介石は、中国東北部や上海における日本軍の動きに対抗するためには、まず中国国内の体制を固める必要があると考えていた。そのため蒋介石は、「先ず内を安んじ、後に外を攘(はら)う」という方針の下、1930年12月から中国共産党が各地に設けつつあった「ソヴィエト地区」に対する包囲殲滅(せんめつ)作戦を実行していた。このため、中国共産党は、1931年11月に「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してはいたものの、各地で苦戦を強いられていた。

 蒋介石は、国内の掌握(=中国共産党勢力の一掃)を優先させるため、満州事変と「満州国」の建国に関する日本軍の動きについては、国際連盟に提訴するなど外交努力で牽制する一方、とりあえずの措置として日本との間での戦闘の拡大を防ぐための停戦協定の締結を優先した。第一次上海事変については1932年5月に上海停戦協定を締結し、満州事変自体についても、日本の国際連盟脱退後の1933年5月、塘沽(日本語読みで「たんくう」)協定を締結した。上海協定においては、上海に多くの権益を持つ米英等列強各国の圧力も強く、日本も日本だけを利するような協定内容にすることはできなかったので、上海租界の周辺区域を非武装地帯とすることが取り決められた(この非武装地帯には国民政府軍も入れない)。一方、塘沽協定は、日本軍の勢力範囲を万里長城線以北とする、という内容であった。これは逆に言えば、万里長城線以北における日本軍の存在を中国自身が認めることであり、「満州国」の存在を既成事実として事実上認めることを意味していた。

 これらの協定はいずれも停戦協定ではあったが、中国の一部である上海租界周辺や万里長城以北においては、中華民国の軍隊である国民政府軍が自由に動けないことを中国自身が自ら認めるものであり、中国の一般大衆からは「国を売るもの」として反発を買った。国民政府が日本との戦闘の拡大を防ごうとして締結したこれらの停戦協定と、その後に締結されたいくつかの日本との間の妥協的な協定が、結局は国民政府に対する中国の一般大衆からの支持を失わせることとなり、結果的に多くの人々を中国共産党支持に転換させる遠因となったのである。

 こういった蒋介石の方針は、国民党内部でも蒋介石に対する反発を呼んだ。1933年11月には「反日反蒋」を掲げる勢力が福建省において「中華共和国人民政府」の成立を宣言した。中国共産党が「この『人民政府』は人民的でも革命的でもない」として協力を拒否したこともあり、福建省の人民政府は1か月で崩壊した。これについて、上記(参考URL)に掲げた「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」では、この時の中国共産党の判断は「左」傾向の(国民党勢力との妥協を許さない)指導部による誤った判断であり、中国共産党は絶好のチャンスを逃した、と批判している。

 国民党内部の反蒋勢力を鎮圧した蒋介石は、中国共産党に対する殲滅(せんめつ)作戦を強めた。このため、中国共産党は江西省の根拠地を維持することができず、中国共産党の主力部隊は、1934年10月、国民政府軍の包囲網を脱出して西へ逃れた。11月には中国共産党の根拠地・瑞金は国民政府軍の手によって陥落した。これが後に言う「長征」の始まりであった。

 「長征」は、江西省瑞金を脱出してからセン西省北部(セン西省の「セン」は「こざとへん」に「狭」の「つくり」に似た字)に根拠地を置くまでの約1年間、国民政府軍からの追撃を避けながら、山間部をさまよいなつつ移動する「二万五千里」(中国の1里は500m)の行軍であった。今でこそ「長征」は、中国共産党の歴史において「最も苦しい困難な時期を乗り切り、各地に革命の種を蒔くことができた」と評価され、ロケットの名称にも使われている輝かしい歴史の1ページであるが、それは社会主義革命が成功した今だから言えることであって、当時の実態は山間部の道なき道をあてもなくさまよう「逃避行」だったのである。

 この「逃避行」の途中、1935年1月15~17日、貴州省の遵義において中国共産党中央政治局拡大会議が開催された。この会議で、たび重なる国民政府軍による殲滅作戦に敗れて根拠地を放棄せざるを得なかったこれまでの軍事的作戦の失敗に対する議論が行われた。この会議では、これまでの戦闘において優れた軍事的指導力を発揮した毛沢東を党の指導者とすることが決定された。現在、中国共産党の歴史の中においては、この「遵義会議」において毛沢東思想を中国共産党の指導原理とすることが決定された、としてこの「遵義会議」を重要な会議であると位置付けているが、毛沢東が革命について理論的・思想的にまとめた著述を書くのはむしろ「遵義会議」の後のことであり、「遵義会議」で毛沢東を党のトップとすることを決定したのは、毛沢東の軍事的指揮官としての優秀さを多くの中国共産党員が認めたからであって、「毛沢東の思想が優れていたから」という表現はおそらくは実態を表した表現ではないと思われる(この時、毛沢東は41歳)。

 ここで注意しなければならないのは、上記に述べたように「長征」は、当時の状況を客観的に表現すれば「逃避行」であり、中国共産党の軍隊が一群となって整然と移動していたわけではないことである。江西省の根拠地を失った中国共産党の勢力はいくつかのグループに分かれてバラバラに移動していたのが実態である。従って、「遵義会議」に出席できたのは、「逃避行」を続ける中国共産党勢力のひとつのグループ(毛沢東が所属するグループ)に過ぎなかった。「遵義会議」に参加した毛沢東をヘッドとするグループが「逃避行」を乗り切り、その後の中国共産党の主軸になったからこそ、今から振り返れば「遵義会議」が重要な会議だった、と言えるのである。この「遵義会議」については、現在の中国共産党が描く党の歴史の中では、「党内における毛沢東思想の勝利」としてかなり美化されている側面もあるので、客観的な立場から歴史を議論する際には注意を要する。

 いくつかのグループに分かれた中国共産党勢力は、国民政府軍との間でゲリラ戦的な戦闘を続けながら移動を続けた。長く困難な移動の末、最終的には、中国共産党の主力は、1935年10月にセン西省北部にあった「ソヴィエト地区」に到着した。その後、この地域の周辺の掌握に努め、1936年6月には延安に根拠地を定めた。延安は、この後、抗日戦争中、中国共産党の拠点となり、現在では「革命の聖地」と言われている。延安は、西安の北方、セン西省北部にあり、この地方では北から南に流れる黄河の西側に位置する乾燥した黄土高原地帯にある。中国共産党の根拠地も黄土高原の山肌に掘られた洞窟住居内に作られていた。中国共産党側から見れば「中国の奥深く革命の種をまく『長征』が終わって延安に革命の拠点を樹立した」ということになるが、国民党側から見れば、この時期、中国共産党を中原から追い落として黄土高原地帯の奥深くに追い込んだ、ということになる。

 なお、1935年10月にセン西省北部にあった「ソヴィエト地区」に到着した際、毛沢東は「七律・長征」という詩を作っており、これがこの移動を「長征」と呼ぶ発端となっている。「長征」は、毛沢東がこの詩を作った1935年10月に終わった、とする見方や、1936年6月に毛沢東が率いる主力部隊が延安に入った時点で終わった、とする見方もあるが、「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」では、1936年10月に別動部隊が北上して甘粛省・今の寧夏回族自治区周辺に集結したことをもって「長征が勝利のうちに終結した」と記している。

 蒋介石の率いる国民政府軍は、江西省瑞金にある中国共産党の根拠地を陥落させて中国共産党を「長征」という名の逃避行に追い込み、結局は内陸部の根拠地に追いやることに成功した。蒋介石が中国共産党を殲滅(せんめつ)しようとしたのは、まず中国国内を完全に掌握した上で、日本と当たろう、と考えていたからであるが、この頃日本軍は、「満州国」を建国させて勢いに乗り、中国大陸における地盤を固め、むじろますます国民政府を圧迫するようになっていた。日本軍は、1933年5月の塘沽協定によってその勢力範囲を「万里の長城線」の北側に留める、と約束していたにも係わらず、華北地方に対する軍事的圧力を強めていった。国民政府はこの圧力に屈し、1935年6月、梅津・何応欽協定を締結して、河北省からの国民党の軍隊と国民党政府機関の撤退、抗日活動の禁止を約束させられた(梅津美治郎は日本の北支駐屯軍司令官、何応欽は中国国民軍代表)。

 さらに日本軍は1935年11月、通州(現在の北京市通州区付近。北京市街地と天津との間にある)を首都とする「冀東防共自治政府」を成立させた。日本軍は、「満州国」と同じように、傀儡(かいらい)政権により華北地方も支配下に置こうとしたのである(「冀」は河北省のこと)。

 日本軍の勢力が歴史的な首都である北京(当時は国民政府の首都は南京だったので「北平」と呼ばれていた)に迫ったことに対して、中国の人々の日本に対する危機感は頂点に達した。そして、その中国の人々の気持ちが、日本に対する反発と同時に、日本軍に押される一方でありながら片方で同じ中国人である共産党勢力との戦いを続けている蒋介石に対する反発へとつながっていくのである。

以上

次回「2-3-3:【コラム:三大規律と八項注意】」
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へ続く。

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2010年1月28日 (木)

2-3-2:【コラム:溥儀と映画「ラスト・エンペラー」】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第2節:中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変

【コラム:溥儀と映画「ラスト・エンペラー」】

 愛新覚羅・溥儀は3歳の時、1908年に清朝最後の皇帝(宣統帝)として即位した。清王朝は、1911年に始まった辛亥革命の中で袁世凱が提示した妥協案(皇帝は退位するが、皇帝とその家族の身の安全は保証され、紫禁城(現在の故宮)に居住することを許される)を受け入れ、溥儀は1912年2月に退位し、清王朝は崩壊した。溥儀は、袁世凱の妥協案に従って、その後も紫禁城に住んでいたが、1924年、クーデターにより実権を握った軍閥・馮玉祥により、紫禁城を追放された。溥儀は、当初、家庭教師だったイギリス人レジナルド・ジョンストンを介してイギリス公館に保護を求めたが、中国との関係を悪化させたくないイギリスはこれを拒否した。そのため、最終的には1925年、溥儀とその家族の受け入れを表明した日本の保護下に入ることとなり、溥儀は天津の日本租界に身を寄せた。そして結局は「満州国皇帝」として担ぎ出されることになったのである。

(注)レジナルド・ジョンストンは、帰国後、中国在留中の事情を記した著書「紫禁城の黄昏」(原題:"Twilight in the Forbidden City")を書いている。

 日本敗戦の際、溥儀は、対日宣戦布告をして中国東北部に侵入してきたソ連軍に捉えられ、ソ連に抑留された。彼は、中華人民共和国成立後の1950年、ソ連から中国に引き渡され、戦争犯罪人として収監されていたが、収監中の態度が模範的であったとして、1959年に釈放された。その後、一般市民として北京に住み、1967年に死去した(溥儀は、釈放後、北京市郊外にある中国科学院植物園で働いていた)。その間、周恩来総理のはからいにより、溥儀は政治協商会議委員となっている(下記「参考URL」参照)。

 溥儀は、ソ連抑留中の1946年、ソ連側証人として来日し、東京裁判で証言している。この時、彼は「自分は日本側に無理矢理連れて行かれて皇帝にさせられた」と主張した。しかし、その後、自らが書いた自伝「我が半生」(原題:我的前半生)において、「当時自分は皇帝に復帰することを望んでおり、東京裁判での証言は偽証だった」と告白している。

 この溥儀の一生を描いた映画が1987年に公開された「ラスト・エンペラー」である(イタリア・中国・イギリス合作映画:ベルナルド・ベルトルッチ監督)。この映画は、1987年度のアカデミー賞で作品賞をはじめとする9部門賞を受賞し、その中で作曲賞を坂本龍一氏(映画中でも甘粕正彦役で出演)が受賞したことで日本でも話題となった。映画なのでもちろん脚色はあるが、溥儀が書いた「我が半生」やジョンストンの「紫禁城の黄昏」を基にかなり丁寧に溥儀の一生を描いている。映画にも登場する溥儀の実弟の愛新覚羅・溥傑氏は、この映画の公開時にはまだ存命で北京に住んでいた(溥傑氏は1994年に死去)。溥傑氏は映画を見て「必ずしも兄の生涯を正確に表していない。」とコメントしていた。また、映画公開当時、北京の歴史研究者は、映画では、溥儀が天津滞在時プレイボーイのような生活をしていたとして描かれているが、当時彼は経済的に困窮しており、この描写は誤りだ、と指摘していた。

 なお、「ラスト・エンペラー」溥儀の弟・溥傑氏の夫人は、日本人の嵯峨浩女史(日本の侯爵・嵯峨家の出身)である。浩女史は北京での映画公開の前年の1987年6月に北京で亡くなっている。その時、私は北京に駐在していたが、中国の人々の間でも浩女史は、尊敬すべき日本人として見られていた。日本の敗戦時、溥傑氏は兄の溥儀とともにソ連に抑留されたが、浩夫人は日本に帰国した。1960年、溥儀に引き続いて弟の溥傑氏が釈放された時、当時日中間に外交関係はなかったが、周恩来総理は、浩女史に対して、本人の意志次第だが、希望するならば中国に来ることを認める、という判断を下した。浩女史は「自分は中国人と結婚したのであるから、中国人であり、中国に行くのは当然である」と述べて、中国に渡った。そして、亡くなるまで溥傑氏とともに北京で暮らしたのである。こういった経緯から、浩女史は、多くの中国の人々の敬愛を集めていた。このあたりの経緯については、2005年、中日友好協会副会長の王効賢氏が雑誌「人民中国」に書いている。

(参考URL)「人民中国」2005年10月号
「溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanwen/200510/tebie62.htm

(お断り)兄の溥儀については、歴史上の人物なので「溥儀」と敬称抜きで記しているが、弟の愛新覚羅・溥傑氏と夫人の浩女史については、私が北京に駐在してた当時、同じ北京に住んでいて、お二人とも日中友好のためにいろいろ活動をしておられた。そのため気分的に「歴史上の人物」として突き放して見ることができないので、敬称を付けて記させていただいた。表記上バランスが取れていないことは御容赦いただきたい。

以上

次回「2-3-3:中国共産党による『長征』と毛沢東による指導体制の確立」
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へ続く。

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2-3-2:中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第2節:中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変

 1927年の8月から年末に掛けての南昌蜂起、秋収蜂起、広州蜂起の失敗は、中国共産党内に深刻な議論と路線対立を生み出すことになった。これらの蜂起では、ロシア革命の経験に基づき、コミンテルンの指導によって、一部の指導者が都市部の労働者等を組織して武装蜂起を行ったが、中国(特に地方都市)においては資本主義が十分に発達しておらず、大量の労働者を組織することが困難だった。また、これら地方都市とその周辺にいる大量の農民は、これらの武装蜂起は、自分たちの問題とは捉えておらず、農民たちはこの武装蜂起について来なかった。武装蜂起による社会の混乱は、彼ら農民にとっては迷惑以外の何者でもなかったからである。これらの失敗を経て、毛沢東は、一部の革命エリートが先鋭的な少数の都市部の労働者と結びついても中国では革命を起こすことはできない、大多数の農民が「その気」にならなければ革命は成就しないのだ、と認識するようになる。

 「一部の革命エリートが都市部の労働者と結びついて武装蜂起により革命を起こす」というロシア革命をモデルとする革命の手法が中国では通用しない、ということは、中国革命において、ソ連(コミンテルン)から派遣されている顧問の指導の重要性が低くなることを意味する。コミンテルンが指導する「ロシア革命モデル」が通用しないことがわかってから、中国共産党は「中国独自の革命スタイル」を模索することになる。それは、先行モデルのない「暗中模索」のものだった。中国共産党が「中国独自の革命スタイル」を確立するまでには長い時間が掛かることになる。また、この「ロシア革命とは異なる中国独自の革命スタイルの確立」は、後に(1960年代に)決定的となる中ソ対立の遠因ともなるのである。

 都市部での武装蜂起に失敗した中国共産党の中で、1928年4月、湖南省・江西省境界付近において、毛沢東が党代表と軍事委員会主席に選任された。毛沢東は、武装蜂起の失敗を受けて 「一部の革命エリートが先鋭的な都市部の労働者と結びついた武装蜂起により革命を起こす」路線(現在は「左の盲動路線」と呼ばれている)を批判し、まず農村における政権基盤を固めてから、都市を包囲する形で革命を進めようと考えるようになった。このため、1928年~1930年頃に掛けては、中国共産党は、湖南省、湖北省、江西省、福建省、広西省などの中国の揚子江以南の地域において、農民と労働者が自ら政権を担う政治共同体を設立するよう努力することになる。労働者と農民からなる評議会をロシア語で「ソヴィエト」と呼ぶが、中国においても、まず農村部において「ソヴィエト」が支配する地域を確立するための努力が続けられていくことになるのである。

 この時期はまだ毛沢東は中国共産党の役職上の幹部にはなったが、絶対的な指導力を発揮するまでには至っていなかった。この頃の中国共産党は、実態的には、各地で様々な指導者の下で単発的な闘争を行っていたに過ぎず、統一的な力を発揮できる本拠地もなかったのである。そういった状況の中で、1928年6月~7月に掛けて開かれた第6回中国共産党全国代表大会は、国内で開催することができず、モスクワで開催された。各地で「ソヴィエト地区」が設立されていたが、国民政府軍の攻撃により、移動または壊滅させられ、この時期、ひとつの力にまとまることは困難であった。これらの困難な闘いの中で、毛沢東は「敵を農村部に誘い入れて囲い込んだ後に殲滅(せんめつ)する」という「囲い込み戦術」で国民政府軍を苦しめた。こういった軍事的指導者としての優秀性が、毛沢東の党内における地位を次第に高いものにしていくのである。

 こうした情勢の中、1931年11月、各地に存在する「ソヴィエト地区」の代表が江西省の瑞金に集まって「第1回全国ソヴィエト代表大会」が開かれた。この会議において、「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の成立が宣言され、毛沢東が臨時中央主席に選出された(これ以降、毛沢東は「毛主席」と呼ばれるようになる)。

 この時期の中国共産党側の勢力について、「人民日報」のホームページにある「中国共産党簡史」によれば、「21の地方都市、支配面積5万平方km、住民250万人からなる革命の根拠地ができた」と述べている。これを見ても、中国全土からすれば、中国共産党が確保していたのは、ほんのごく一部の小さな地域であったことがわかる。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ
「中国共産党簡史」第二章「土地革命戦争の中における『農村が都市を包囲する路線』の開拓(2)」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444688.html

 この時期、中国共産党が農村において農民の支持を得るために行ったのが「土地改革」であった。地主階級を打倒し、地主が支配していた土地を小作農ら貧農に分け与える、という改革が中国共産党により実行され、それにより農民は中国共産党を支持し、革命に参画するようになった。従って、この「土地改革」は、中国共産党の原点であるのだが、この問題は実は現在までつながる「土地と農民」の問題に深く関わっている。

 共産主義の理想形態では、全ての農地は公有であり、農民は集団の一員として労働し、その労働に応じて収穫から得られた収入が分配される。共産主義の理想形態では、農民に土地の所有権が与えられることはないのである。しかし、中国共産党による革命の初期段階においては、地主から徴収された土地は、農民に分け与えられていた。つまり各個別の農民が土地の所有権を持ったのである。この段階では、各農家に自分が耕作する分の土地の所有権を認めた上で、刈り入れなどの作業を共同で行う農家の集団化が行われた。後に述べることになるが、この状態は1949年の中華人民共和国成立後まで続いた。各農民が持っている土地の所有権自体を集団化し、土地の公有化を進めていくのは、1950年代半ば以降であり、その最終的な姿が1958年から成立し始めた「人民公社」である。

 「農民に土地の所有権を認める」という方針は、革命当初、「自分の土地を持ちたい」という貧農たちの素朴な気持ちを汲み取るとともに、既に土地を所有していた自作農たちからの反発を避けるため、中国共産党が採用した妥協的な方針だったのである。「自分が耕作している土地の所有権を持ちたい」というのは、農民の根元的な欲求であり、中国共産党は農民の支持を得るために、あえて「共産主義の理想」とは異なることは承知の上で、当初のうちは農民の土地所有を認めていたのである。

 「農民の土地所有願望」は、古今東西共通なものであり、1950年代以降進められる農地の公有化、つまり個々の農家の土地所有権を否定する動きは、むしろ農村部に共産党の指導に対する不満の種をくすぶらせることになる。その不満は、農業生産の停滞をもたらし、結局は毛沢東が描く理想的共産主義社会を目指す運動であった文化大革命を終わらせることになる。文化大革命を終わらせたトウ(「登」に「おおざと」)小平は、1980年代になって「土地所有権は公有」という大原則は維持しつつも、「生産請負制」という形で、自分が耕作する土地には好きなような方法で農作物を耕作してよく、請け負った量以上の生産物は自分で自由に処分して自分の利益にできる、という方針を導入した。この方針は農民の生産意欲を引き出し、農業生産飛躍的に増大させたが、一方でトウ小平の改革方針は、「土地使用権」という「所有権」とは別の概念を産み、「土地所有権は公有だが、土地使用権は使用者が自由に売買できる」という21世紀の現在まで続く中国の土地制度を作り上げることになった。

 土地所有権が公有(国まはた村などの集団の所有)であれば、所有者(国または村などの集団)が都市開発や工業開発などのために土地が必要だと考えれば、一定の補償金を農民に与えれば、その土地を収用することが法的には可能となる。革命当初に「自分の耕作する土地の所有権を得たい」と考えた農民の素朴な気持ちを利用して農民の支持を獲得していった中国共産党は、21世紀の現在、都市開発や工業開発における土地収用の問題において、同じ気持ちに基づき多くの農民から「なぜ自分の耕す土地が自分の思うとおりにならないのか」という疑念を持たれるようになっているのである。

 中国共産党が革命初期に実施した「大地主から土地を収用して、小作農に自らが耕作する土地の所有権を与える」という「土地改革」は、日本においては、戦後、進駐軍の指導によって「農地改革」として実現した。日本では、現在でも農地法によって、基本的に農地については自ら耕作する者のみが土地所有を認められており、戦後の「農地改革」の体制は現在の日本でも続いていると言ってよい。中国共産党がその革命初期において実施した「土地改革」が中国においては「土地の公有化」を通して変質していったのと比べると、東西冷戦期において資本主義陣営にいた日本において実際に耕作する農民が土地を所有する制度が定着したことは、一種の歴史の皮肉と言えるだろう。

 なお、現在、中国でも、農民による農地の私有を認めるべきだ、という議論も行われるようになってきている。こういった中国共産主義革命の根幹に係わる問題について、公の場で冷静・率直に議論が行われていることは、中国社会が成熟しつつあることを示すものとして注目される。ただし、農民による農地の私有は、共産主義の根幹を否定する可能性のあるものであることから、それが実現するためには、中国共産党内部で、まだまだ相当の議論が必要であると考えられる。

(参考URL2)このブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))の2008年1月14日付け記事
「ついに出た『土地私有制』の提案」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/01/post_6f24.html

 江西省の瑞金で「中華ソヴィエト共和国」の樹立へ向けての動きが行われている頃(1931年秋頃)、北京においては、日本による中国東北部支配の強化が重要な問題であった。1928年6月の張作霖爆殺事件の後、日本軍は日本の影響下における中国東北部の独立を画策し、1924年の政変で紫禁城(故宮)を追われ日本の保護下に入っていた清朝最後の皇帝溥儀(「第2部第2章第4節:中国革命の父・孫文の死」参照)を担ぎ出し、東北部独立の画策を進めた。日本の関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破し、この爆破事件を中国側によるものであると主張した上で、居留日本人の保護等を口実にして進軍を開始した。関東軍は約5か月で中国東北部を制圧した(日本でいう「満州事変」、中国でいう「九・一八事変」)。

 1932年3月、日本軍の支持の下、溥儀を国家元首にあたる「執政」とし、首都を新京(現在の長春)とする「満州国」の建国が宣言された(この後、1934年には溥儀は「皇帝」に就任する)。日本は、満州事変を「自衛のための軍事行動」であると主張し、「満州国」の建国は満州に住む住民の自主的な独立運動によるものであると主張したが、国際社会はこの日本の動きに疑念を抱いていた。蒋介石に率いられた中華民国政府の提訴により、国際連盟はイギリス人リットン卿を団長とする調査団を現地に派遣して調査を行った。リットン調査団は、「柳条湖での鉄道爆破の後の日本軍の動きは自衛のためとは言えない」「満州国の建国は住民による自発的なものとは言えない」と結論づける報告書を取りまとめた。国際連盟は翌1933年2月の総会で、この報告書を賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム(現在のタイ))の圧倒的多数で承認する決議を行った。日本はこれを不服とし、その場で国際連盟を脱退した。こうして、日本は国際的に孤立の道を歩むこととなった。

以上

次回「2-3-2:【コラム:溥儀と映画『ラスト・エンペラー』】
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-4124.html
へ続く。

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2010年1月27日 (水)

2-3-1:【コラム:ロシア革命と中国共産主義革命との違い】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第1節:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件

【コラム:ロシア革命と中国共産主義革命との違い】

 日本の多くの人は、中国共産主義革命はロシア革命を模範としたものであり、できあがった体制はソ連も中国も共産党による一党独裁社会であって、ロシア革命と中国共産党による革命は本質的に同じものである、と考えている。しかし、それは日本が長く「西側陣営」に属しており、社会主義革命について知る機会が少なかったことと、中国革命については今なお「最終体制に至っていない継続中の状態」であって、革命過程がいまだに客観的に分析評価できる状況になっていないることから来る一種の誤解である。ロシア革命と中国共産主義革命にはおおざっぱに言って以下に述べるような大きな相違点がある。

 ロシア革命は、帝政を打倒する革命(2月革命)と社会主義革命(10月革命)が同じ年(1917年)に起き、帝政から社会主義体制まで、一気の流れで変革が進んだのに対し、中国では、清王朝が崩壊した辛亥革命(1911~1912年)から、中華人民共和国が成立した1949年まで40年近い時間が掛かっている点に大きな違いがある。ロシア革命では、前衛的なごく一部の人々により革命が一気に進められ、その他の多くの人々は自分自身で革命に参加したわけではなく、むしろその革命的変化に翻弄される受動的立場にいた、というのが実態である。それに対し、中国共産主義革命は、時間を掛けて、革命自体が大きく紆余曲折しながら、多くの人々を巻き込んで、ゆっくりと進んでいき、中国の多くの人々自身が何らかの形で実際に革命に係わったのである(この事実は、ずっと後に実際に革命に携わった世代(革命第一世代)の幹部がいつまでも政治的発言権を維持し続けた(このことは、悪い言葉で言えば「老害」とも言える)という形で、本来は世代交代が行われるべきだった1980年代にボディーブローのように効いてくることになる)。

 ロシア革命では、首都ペテルブルグなど大都市で、労働者や兵士による権力奪取が一気に進んだ。その勢いがそのまま短期間で全国へ波及していった。つまり、大都市の中小商工業者に対しても、農村部の農民に対しても、多くの人々にとっては、社会主義は短時間のうちに一気に「上から降ってきた」のである。従って、ロシア革命によって成立した「ソ連共産党による一党独裁体制」とは、都市部においても、農村部においても、革命を主導的に推進した一部の人々以外の人々にとっては、常に上から強圧的に下部を指揮する中央集権的な体制を意味していた。

 一方、中国の共産主義革命では、都市部において国民党軍と日本軍との戦闘が続いている間に、中国共産党が農村部において時間を掛けながら力を蓄えて「農村が都市を包囲する」戦略を取った。その際、中国共産党としては、勢力を拡大するに際して農民の支持を取り付けることが絶対的に必要な条件であった。そのため、中国共産党は、地主の土地を没収して貧農に分け与えるなど、農業改革を実行することにより、農民の支持を取り付け、農民自身の革命への参加を求めていったのである。そもそもそういった大多数の農民大衆の参加による「人海戦術」がなければ、中国の共産主義革命は成功しなかったのである。

 革命を進めるに当たって、中国共産党は、自作農や富農層などからの反発を避けるため、一定程度の土地の所有を認めるなど、「共産主義化」の観点からすればかなりの「妥協」と思われることも敢えてした。中国の共産主義革命は人口の大多数を占める幅広い階層の農民の支持の上に立った「下からの支持を利用した革命」であることを中国共産党はよく自覚していたからである。

 日本の敗戦後、抗日戦争期間中に培ったこうした蓄積の上に立って、中国共産党は都市部に依拠する国民党を包囲して敗走させた。中国共産党は、都市部に入城するにあたって、中小商工業者の支持を集めるため、工場や商店などの所有権は国有とするものの、工場主や商店主が従来通りに事業を継続することを認めるとともに、工場や商店の施設や家屋を国有化する賠償として退職後の年金支給を約束するなど、一定の「妥協」をして、中小商工業者(いわゆる「プチブル」)の支持も獲得した。

 つまり、「中国共産党による一党独裁」とは、「上からの押しつけによる独裁」ではなく、「多くの妥協によって得られた幅広い階層による支持に基づく独裁」なのである。従って、「中国共産党による一党独裁」は、いつの時代でも、幅広い階層からの支持を失うと容易に崩壊する危険性を秘めている。「大衆からの支持を失うことに対する恐怖」に常に怯(おび)える党中央は、これまで、毛沢東という偉大な指導者のカリスマ性に頼ったり、改革開放後は急速な経済成長というニンジンに頼ったり、1990年代以降は大衆の反日感情や民族主義的感情に頼ったりしてきているのだが、どうしようもない時には武力を使うこともあった。そういったことが、中国共産党に対しても、ソ連共産党による一党独裁と同じようなイメージを多くの人々に与えていたのかもしれない。しかし、ソ連共産党は「大衆からの支持を失うことに対する恐怖」には怯えていなかった。なぜなら、ソ連共産党はそもそも「大衆からの支持」の上に立脚していなかったからである。

 中国共産党が、幅広い階層の大衆から支持を得るために行ってきた数々の「妥協」は、多くの場合、かなり「あいまい」なものだった(「中国的あいまいさ」と言ってもよい)。そのため党中央の路線が変更されたり、現実的な社会状況の変化に応じて政策選択が変更されたりする際に、過去に行った「あいまいな妥協」との矛盾により様々な問題が噴出することになる(21世紀に入った現在の中国において、「土地の所有権」は国にあるのだが「土地の使用権」は売買できる、といった「あいまいな妥協」が、土地の利用や政府による土地の収用に関して様々なトラブルを引き起こしているのがその典型例である)。

 これから、この「中国現代史概説」の中で、こういった中国共産党による革命の歴史を述べていくことにより、具体的に「中国共産党による一党独裁」の姿が浮かび上がってくることになると思う。それにより、現代中国に対する理解を深めることができれば幸いである。

以上

次回「2-3-2:中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変」
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へ続く。

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2-3-1:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第3部:日本による大陸進出と中国による抗日戦争

--第1節:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件

 1926年7月、北伐が開始されると、北伐に慎重な考えを持っていた中国共産党もこれに協力し、むしろ北方へ軍隊を進める過程を農民や労働者を組織する機会として利用しようと考えるようになった。当時、揚子江一帯は、軍閥各派の勢力が入り乱れていて権力構造はまとまっておらず、国民政府軍は順調に北へ進軍することができた。そのため、広州にあった国民政府の中心を北方に移すことが議論されたが、蒋介石は江西省の南昌に国民政府を移すことを主張したのに対し、中国共産党と中国国民党左派は、革命勢力の中心地(辛亥革命時の武装蜂起の発祥の地)である武漢に移すことを主張した。1926年11月、広州で開かれた中央政治会議は、国民政府の中心地を武漢に移すことを決定したが、蒋介石はこの決定に反対した。ここに、組織化された軍隊に頼るべきと考える蒋介石と、大衆運動の高まりこそが革命を前進させる原動力であると考えていた国民政府中央(中国国民党左派+中国共産党)との考え方の違いが明確になったのである。

 こうした中、1927年3月に武漢で開かれた国民政府第三回中央執行委員会全体会議は、蒋介石が就任していた国民革命軍総司令の職務を廃止する決定を行った。国民政府中央としては、反共的傾向が強い蒋介石に強い権限を与え続けることは、国共合作の継続にとって好ましくないと考えたからである。4月にはヨーロッパに亡命していた中国国民党左派の汪兆銘が帰国して、中国共産党の最高指導者・陳独秀との間で共同宣言を発表し、国共合作を継続する意志が確認された。

 武漢の国民政府が革命運動の推進力として大衆運動の高まりに期待していることを受けて、各地で大衆による反帝国主義運動やストライキが相次いだ。当時、蒋介石は、列強各国からは革命軍の中の有力者とみなされており、列強各国は、蒋介石による事態の収拾に期待していた。一方、蒋介石自身も、大規模な大衆運動の盛り上がりは、自らが握っている国民革命軍の指揮権に対する脅威だと考えていた。こうした背景の下、1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こし、ストライキを起こしている労働者や中国共産党員を大量に逮捕したのである。この際、反発する労働者等多数が殺害された、とされている。「人民日報」ホームページに掲載されている「中国共産党簡史」によれば、上海に続き、江蘇省、浙江省、安徽省、福建省、広東省、広西省などでこの反共クーデターの動きが続き、逮捕されたり殺害されたりした者は2,000人以上に上った、とのことである。

(参考URL)「人民日報」ホームページ
「中国共産党簡史」第一章「中国共産党の創立と大革命の流れへの参画(5)」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444664.html

 蒋介石は、中国共産党が主要メンバーとなっている武漢の国民政府と完全に袂(たもと)を分かち、4月18日、武漢の国民政府とは独立したもうひとつの国民政府を南京に樹立することを宣言した。ここに中国国民党左派と中国共産党からなる武漢の国民政府と、蒋介石が率いる南京の国民政府と、二つの国民政府が並立する事態になったのである。

 上海での蒋介石による反共クーデターの動きに呼応して、当時北京政府を支配していた「奉天派」の軍閥・張作霖は、中国共産党員の大量検挙を行った。これにより、4月28日、中国共産党創設者の一人である李大釗も逮捕され殺害された。

 こういった動きは、武漢の国民政府の中における中国国民党左派と中国共産党との間の協力関係に大いなる困難を与えることになった。

 そもそも中国共産党は、労農運動、即ち、都市においては資本家による搾取から労働者を守る運動を、農村においては地主による搾取から小作農を解放する運動を展開して、その勢力を拡大してきた。しかし、当時の中国共産党の最高指導者である陳独秀は、「過度の労農運動」は都市部の民族ブルジョアジー(列強各国勢力に反対する資本家)、小ブルジョアジー(中小商工業者など)や農村部の小規模地主などを武漢の国民政府から離反させ、国共合作を破壊することから、「過度の労農運動は抑制すべきだ」と主張していた(このことが後に陳独秀が党の創設者でありながら中国共産党を追われる原因となる)。これに対し、毛沢東らは、労農運動の強化により大衆の力を結集して列強各国勢力を排除することが重要であり、これは反帝国主義を掲げる国民党の路線と矛盾せず、国共合作を破壊することにはならない、と主張した。コミンテルンも労農運動の強化を支持していた。

 一方、国民党左派の内部でも論争が生じてきた。国民党左派の中には、地主階級出身者も多く、農村における大衆運動の「行き過ぎ」(即ち小作農階級による地主階級の打倒への動き)に懸念を持つ者も多くなった。中国共産党がソ連から派遣されているコミンテルンの指示に基づいて活動していることに対しても、中国国民党左派の一部には「ソ連から中国国内を操作されるのではないか」との不信感を持つ者が多かった。一方、中国国民党左派の中でも宋慶齢(孫文夫人)らは、労農運動は、列強各国と利害を一にする買弁資本者階級や地主階級に対する闘争であり、国民党が掲げる反帝国主義運動と矛盾するものではないので、これを抑制すべきでなく、国共合作は維持すべきだ、と考えていた。

 蒋介石による反共クーデターの後ろに都市部の資本家階級や農村部の地主階級の存在を感じた中国共産党内部では、労農運動強化論者が勢いづいた。このことが中国国民党左派の内部にいた地主階級出身者の中国共産党に対する反発心を強める結果となった。1927年6月、コミンテルンが国民党左派の汪兆銘に対して土地の国有化の実行、共産党員2万人と労働者・農民5万人の武装等を指令する電報を送ってきたことをきっかけとして、国民党左派の内部にコミンテルンに対する疑念が広がり、7月、武漢国民政府は、ソ連から派遣されていた顧問を解雇した。これに反発した中国共産党は国共合作の停止を決議して武漢国民政府から退出した。武漢国民政府側も中国共産党と袂(たもと)を分かつことを決定した。こうして「第一次国共合作」は崩壊したのである。

 国共が分裂し、武漢国民政府から中国共産党が退出した以上、蒋介石が率いる南京の国民政府と武漢の国民政府を隔てる実質的な障壁は消滅し、中国国民党は南京で統一された。中国国民党の内部には、蒋介石、汪兆銘ら複数の有力者がいたが、結果的には、軍事力を掌握していた蒋介石が実質的な中国国民党のリーダーとなった。

 1928年4月、蒋介石は、改めて北京にいる軍閥・張作霖を追い落とすため、北伐を再開した。蒋介石は、馮玉祥(彼は、一時は張作霖と協力して「直隷派」軍閥を北京から追い出したが、その後、張作霖との権力闘争に敗れて国民党と協力関係にあった)など元軍閥の有力者たちも支配下に置いて北京へ向かって進撃した。

 この国民党軍の北伐に対して、1928年(昭和3年)5月、日本軍は「居留日本人の保護」を名目として、山東半島の済南に出兵して済南を占領した(済南事変)。また、国民党軍の北上の動きを受けて、日本の関東軍は同月、奉天(現在の瀋陽)に入城した。

 北京にいた張作霖は、もはや国民党軍の北京入城を阻止できないと考えて、北京を離れ、自分の本拠地である奉天へ向かった。6月4日、奉天郊外で、張作霖の乗った列車が爆破され、張作霖は死亡した。これは日本の関東軍の陰謀によるものであった。張作霖は、もともと日本軍と関係が深く、北京にいた頃は日本のバックアップを受けていた。その意味では、日本軍は中国における勢力拡大のために張作霖を利用していたのであるが、この時点(1928年6月時点)では中国東北部(いわゆる「満州」)では日本軍の勢力が既に大きくなっており、北京を追い出された張作霖が満州に帰って来ることは、日本軍にとってはむしろ邪魔だったのである。

 この張作霖爆殺は、関東軍が独断で計画したもので、東京の日本政府は知らなかった、と言われている。この事件については、日本政府(田中義一内閣)は「国民党の北伐軍のしわざである」と発表したが、当時から関東軍による陰謀であると見られており、帝国議会において当時の野党・民政党から「満州某重大事件」として攻撃された。事件の真相が公表されることはなかったが、昭和天皇はこの事件について田中義一首相を叱責し、それにより田中義一内閣は総辞職した、と言われている。張作霖が持っていた軍隊は、息子の張学良が引き継いだが、父親を日本軍に殺された張学良は、この後、抗日の念を持ち、後に(1936年12月)西安事件を起こすことになる。

 張作霖が北京から退去した後、蒋介石は北京に入城して北伐は完了した。これを受けて、1928年8月、中国国民党は蒋介石を政府主席として選出した。12月には張学良も中国国民党への帰順を誓い、中国は一応、蒋介石をトップとする中国国民党による国民政府によって形式上統一された。ただし、中国東北地方は日本の関東軍の勢力が強かったし、以下に述べるように一部の農村地帯では実質的に中国共産党が支配する地域が存在しており、真の意味での中国の統一と呼ぶにはほど遠い状況だった。

 一方、1927年7月に武漢国民政府から退出した中国共産党は、その後、武装蜂起路線を歩むことになる。8月1日には江西省で周恩来・朱徳らが率いて南昌蜂起を、9月には江西省・湖北省境界付近で毛沢東らが率いて秋収蜂起を、12月には張太雷・葉剣英らが率いて広州蜂起を起こしたが、いずれも失敗に終わった。毛沢東らは、その後、江西省の井岡山に根拠地を置いて、勢力の挽回を図ることになる。現在、これらの動きが中国共産党による本格的な革命運動の開始と捉えられており、8月1日は、現在でも人民解放軍創立記念日となっている(ただし、中国共産党の軍隊が「人民解放軍」という呼称で呼ばれるようになるのは、1945年に抗日戦争が終わり、国民党軍と対峙するようになってからである)。

 この時から、中国共産党は、様々な形で革命運動を展開することになるが、数々の失敗も経験し、それらの失敗に基づく路線対立などの紆余曲折を経ながら、革命を進めていくことになる。毛沢東は、1921年に中国共産党の創設を決定した第1回全国代表大会の出席メンバーの一人ではあったが、まだこの時点では、数多くいる党内指導者の一人でしかなかった。後に述べるが、毛沢東が中国共産党の第一人者としての地位を確立するのは、いわゆる「長征」の過程で1935年1月に行われた「遵義会議」においてである、とされている。

 これら南昌蜂起に始まる武装蜂起は、コミンテルンの指導の下に行われたのであるが、毛沢東らは、これらの武装蜂起の失敗を通じて、ロシア革命と中国における革命の違いを次第に自覚していくようになる。そしてこれ以降の長期間に渡る苦しい経験が、中国共産主義革命の原点となっていく。

以上

次回「2-3-1:【コラム:ロシア革命と中国共産主義革命との違い】」
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へ続く。

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2010年1月26日 (火)

2-2-4:【コラム:孫文に対する評価】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第4節:中国革命の父・孫文の死

【コラム:孫文に対する評価】

 革命を指導して、実際に革命を成功させたレーニンや毛沢東と比べて、結局は革命を成功させるまで導くことができなかった孫文に対しては、必ずしも大きな評価を与えるべきではない、と冷めた見方をする人もいる。歴史に「もしも」を考えることは無意味であるが、もし、孫文が病を得ることなく北京に入った後も革命を指導できたとしても、跋扈(ばっこ)する軍閥政治家たちや日本を筆頭とする列強各国の干渉により、中国革命を成功にまで導くことは難しかっただろうと想像される。しかしながら、封建的な社会の仕組みを変え、外国の勢力を排除し、三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を打ち立てる、という孫文の理想は、中国革命の核心であり、中国革命を進める中国の人々が心を一つにするための象徴としての孫文の存在はやはり大きかった。以下に述べるように、孫文の死後、第一次国共合作がもろくも崩れ去っていくことを見ても、それは明らかである。

 孫文の理想は、現在でも、大陸と台湾、双方の人々の理想と連なっており、孫文は現在でも「中国革命の父」として、全ての中国の人々の尊敬を集めている。

 2008年5月下旬、「政権与党の主席」としては初めて大陸を訪問した中国国民党の呉伯雄主席は、北京に入る前にまず南京に立ち寄って、孫文が葬られている中山陵を訪れた。1925年に「革命はいまだ成らず。およそ我が同志は、引き続き努力して目的を貫徹せよ。」と遺言してこの世を去った孫文の歴史的存在は、今なお大きいと言える。孫文という存在は、台湾海峡両岸を結びつけ、死後100年を経過した21世紀において、中国革命の最終決着点である台湾問題の解決の実現を導き、結局はその遺言は実現されることになるのかもしれない。

 その意味において、生存中に革命を成就させることができなかったから、という理由で孫文の歴史上の評価を低く見積もることはできないと考える。

 2008年5月上旬、胡錦濤主席が訪日した際の訪日初日の福田総理主催の非公式夕食会の場所として、日比谷公園内のレストラン「松本楼」が選ばれた。「松本楼」は、孫文の日本滞在中の活動を支援し、孫文と宋慶齢との結婚の仲介役を務めた梅屋庄吉氏の末裔(まつえい)が経営しているレストランである。このレストランが胡錦濤主席が訪日初日の夕食会の会場に選ばれたのも、関係者が、孫文に対する歴史的評価と、孫文の革命運動において果たした日本の役割を意識したからだ、ということができる(背景には福田康夫総理の両親(福田赳夫元総理夫妻)が結婚披露宴をしたのもこの「松本楼」だった、という福田総理側の「ゆかり」もあったようである)。

 なお、孫文と宋慶齢は1915年10月に東京で結婚しているが、二人が結婚した時の結婚誓約書(日本語)の現物は、現在でも、北京の故宮博物館の隣にある中山公園の中にある「中山堂」で展示されている。

(参考URL)サイエンス・ポータル・チャイナ
「中国科学技術月報」第8号(2007年5月21日発行)
「コラム:労働節と孫中山」(科学技術振興機構(JST)北京事務所長(当時):渡辺格)
http://www.spc.jst.go.jp/report/200705/report4.html

以上

次回「2-3-1:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-7710.html
へ続く。

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2-2-4:中国革命の父・孫文の死

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第4節:中国革命の父・孫文の死

 中国共産党と中国国民党の誕生の後、中国の革命の歴史は、軍閥が支配する当時の北京政府と誕生したばかりの国共両党、それに列強各国の中で中国に対する影響力を大きくしていった日本との力関係の中で揺れ動いていくことになる。

 ここで、袁世凱が死んだ後の北京政府の状況について簡単に振り返っておくことにする。1915年6月に当時の大総統だった袁世凱が病死した後、北京政府の後継者として袁世凱の部下だった軍閥政治家たちが登場したが、彼らには特定の政策指向はなく、北京政府は、列強各国による様々な思惑に基づくバックアップを後ろ盾として、複雑な合従連衡の権力闘争が繰り返されるだけの存在となった。彼ら軍閥政治家たちの派閥は、それぞれの首領の出身地にちなんで「直隷派」「安徽派」「奉天派」などと呼ばれている。

 袁世凱の死の直後は「安徽派」の段祺瑞が国務院総理となって政府の実権を握った。段祺瑞は日本と接近して、日本からの多額の借款を導入するなどして、その権力基盤の強化を図った。1919年に「五四運動」が起きると、親日的な段祺瑞に対する反発が強まったことから、「直隷派」の曹コン(「コン」は「金」へんに「昆」)と呉佩孚は「奉天派」の張作霖と連合して、1920年に段祺瑞を失脚させた。段祺瑞追い落としに動いた「直隷派」の背後にはイギリスとアメリカがいたと言われている。一方「奉天派」の張作霖は、遼寧省の出身で、日露戦争の当時から日本軍と関係が深かったと言われている。こうして北京政府は「直隷派」と「奉天派」が実権を握ることとなった。その後、今度は実権を握った「直隷派」と「奉天派」との間で反目が起こることになる。1922年には「直隷派」と「奉天派」との間で抗争が起こり「直隷派」が勝利して北京政府の実権を握った。

 「直隷派」に実権を奪われた「奉天派」の張作霖は、今度は一度は自分が追い落とした「安徽派」の馮玉祥に接近した。一方、国共合作により革命勢力を結集させた孫文も、これら軍閥政治家同士による勢力争いを利用して、軍閥が支配する北京政府を武力で打倒しようと考え、1924年9月、革命勢力軍を率いて北上を開始した(いわゆる「北伐」)。こういった革命勢力の動きを見ていた馮玉祥は、1924年10月、張作霖のバックアップの下、北京政府から「直隷派」を追い出すクーデターに成功した。このクーデターにより、辛亥革命により清の皇帝を退位した後も紫禁城(現在の故宮)に居住することを認められていた清朝最後の皇帝溥儀は、紫禁城を追われた。行き場を失った溥儀に対し、翌1925年、日本は庇護を申し出て、それ以降、溥儀は天津にある日本領事館にかくまわれることになる。

 馮玉祥と張作霖は、1920年に失脚した段祺瑞を再び担ぎ出して臨時執政に押し立てた。彼らは、孫文らの革命勢力を武力で鎮圧する方針を採っていた「直隷派」政権とは異なり、革命勢力と宥和する方針を示し、孫文等に北上するよう求めた。これに応じて、孫文は、「北伐」という言い方を「北上」に切り替え、革命勢力による勢力を各地に及ぼしながら北上を続けた。しかし、孫文は、北京に入る直前の1924年12月、天津で病に倒れた。孫文は病を得たまま北京に入ったが、1925年3月、ついに「革命いまだ成らず」と言い残して北京で死去した。

 孫文の死により指導者を失った中国国民党は、その後しばらく集団指導体制を取ることになる。

 革命勢力の北上に伴い、民衆による活動も活発になっていった。1925年5月、かねてから労使紛争が起きていた上海の日系企業において、労働運動を行っていた労働者(中国共産党員)が日本側によって射殺されるという事件が起きた。これに抗議した労働者・学生は、5月30日、上海の共同租界地域において大規模なデモを行った。警備に当たっていたイギリス官憲は、反帝国主義を叫ぶデモ隊に対して発砲し、死傷者が出た(「人民日報」ホームページにある「中国共産党簡史」によると、この1925年5月30日のデモは中国共産党が組織したものであり、この日の衝突で13名が死亡し、多数が負傷した、とのことである)。

(参考URL)「人民日報」ホームページ
「中国共産党簡史」第一章「中国共産党の創立と大革命の流れへの参画(4)」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444663.html

 これをきっかけとして、全国で反帝国主義を掲げたストライキ等が行われるようになった(中国共産党では、これを「五・三○運動」と呼んでいる)。

 こうした中、中国国民党を中心として、1925年7月1日、広州において中華民国国民政府が成立した。この時の政府主席は汪兆銘(字(あざな)は「精衛」)であった。蒋介石は、この時点では、黄埔軍官学校の校長として軍事面を掌握していたが、政府委員にはなっていなかった。

 蒋介石は、五・三○運動に見られるような大衆運動を自らの指揮下にない軍事的動きとして苦々しく思っていたようである。蒋介石は、軍閥が支配する北京政府を国民政府の軍事力を用いて打ち破るため国民政府軍による北伐を実行することを考えていたが、中国共産党とコミンテルンは、軍閥の軍事力はまだ強力であり、現在の国民政府の軍隊では軍閥の軍隊に太刀打ちできないとして北伐には慎重な考え方を示していた。汪兆銘もこの時点での北伐には慎重だった。大衆運動に対する考え方と国民政府軍に対する指導方針において、既に蒋介石と中国共産党との間には微妙な「ズレ」が生じていたのである。

 1926年1月、広州において中国国民党第二回全国代表大会が開かれた。この大会については、立場によって評価が分かれている。本稿の参考資料のひとつである「中国現代史」(~壮大なる歴史のドラマ~(新版)(参考資料5))では、この会議で、中央執行委員は、蒋介石が代表する軍事的勢力、汪兆銘が代表する中国国民党左派、それに中国共産党からそれぞれ選出され、この会議は「第一次国共合作の頂点をなすもの」と位置付けられている。一方「人民日報」ホームページ上にある「中国共産党簡史」によれば、この会議では「中国共産党が妥協して譲歩した結果、国民党右派が中央執行委員会において優勢を占めるに至った」とされている。これ以降の中国国民党と中国共産党の関係の歴史については、まだ同じ歴史上の事柄に対しても、立場によってそれぞれ評価が異なるのが現状である。真に客観的な評価は、将来の歴史家による冷静な評価・分析を待つほかはないと思われる。

 こうした中、1926年3月18日、国民政府海軍局の局長代理だった李之龍(この人は中国共産党の党員)が軍艦・中山艦を黄埔軍艦学校のある広州の黄埔に回航する事態が発生した。蒋介石は、これを中国共産党による自分に対するクーデター行為だと判断し、李之龍をはじめとする共産党員とソ連人顧問を逮捕した(中山艦事件)。汪兆銘は蒋介石によるこの行為に不満であり、政府主席を自ら辞職して、フランスへ亡命した。この後、蒋介石は、5月に行われた第二回中央執行委員会総会において、高級党幹部における中国共産党員の割合を3分の1以下にする、など中国国民党内における中国共産党の影響を制限する「党務整理案」を提案した。このような動きを踏まえれば、結果的に見れば、中山艦事件は、蒋介石による反共クーデターだったという見方も可能である。

 この中山艦事件については、そもそも中山艦を黄埔に回航することを命じたのは誰だったのか(中国共産党が指示したのか、蒋介石側がウラで動いていたのか、蒋介石と汪兆銘との間を裂くことを狙った勢力によるものなのか)についての真相は今なおわかっていない。しかしいずれにしても、この中山艦事件をきっかけにして、第一次国共合作に亀裂が生じることになる(注)。

(注)この当時、孫文の死後、蒋介石と中国共産党の間に立って、第一次国共合作の「接着剤」の役割を果たしていた中国国民党左派の汪兆銘(字(あざな)を使えば汪精衛)は、後に、蒋介石と対立した後、日本との間で交渉による和平を探るようになり、1940年には日本のバックアップの下で蒋介石の国民政府と対立する汪兆銘政権(日本による傀儡(かいらい)政権と言われる)を樹立することになる。従って、汪兆銘は、現在では大陸でも台湾でも歴史上の「国賊」として扱われている。

 こうした中、なお中国国内に跋扈(ばっこ)する軍閥勢力を掃討するため、1926年7月、蒋介石は国民政府軍による北伐を敢行する。もちろんこの北伐の目的は国民政府が中国全土を支配するために軍閥勢力を排除することであったが、蒋介石の意図としては、北伐に慎重な態度を示している中国共産党とその背後にいるコミンテルンを牽制し、国民政府において軍事面を掌握している自分(蒋介石)の指導力を確立したい、という考えも背景にあったものと思われる。

以上

次回「2-2-4:【コラム:孫文に対する評価】」
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へ続く。

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2010年1月25日 (月)

2-2-3:【コラム:「蒋介石」という呼び方について】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第3節:第一次国共合作

【コラム:「蒋介石」という呼び方について】

 中国の歴史上の人物の名前は「姓」「名」「字(あざな)」で呼ばれる。三国演義に出てくる劉備玄徳は、「劉」が姓、「備」が名、「玄徳」が「字」である。諸葛亮孔明は「諸葛」が姓(中国では珍しい二字の姓)、「亮」が名、「孔明」が「字」である。諸葛亮孔明は、日本では「諸葛亮」と呼ばれたり、「諸葛孔明」と呼ばれたりして一定しない。ほかの外国人の名前の呼び方を踏まえれば、歴史上の人物であっても、「姓」+「名」を使うのが最もわかりやすく「字」は使わない方が間違いが少ない。

 孫文は、「孫」が姓、「文」が名で、字(あざな)は「逸山」である。尊敬の念を込めて呼ぶときなどに使う「孫中山」の「中山」は「号」(ペンネームのようなもの)である。普通の歴史上の記述の際には、姓+名で「孫文」と呼ぶ。共産党関係の人物は、字(あざな)は「庶民的でない」として普通は使わない。毛沢東も周恩来も「字(あざな)」は持っていたのだが、彼らを呼ぶときに「字」を使うことはほとんどない。

 ところが蒋介石についてだけは事情が違う。彼は、姓が「蒋」、名は「中正」で、字(あざな)が「介石」である(従って、台湾では普通「蒋中正」と呼ばれる)。なぜ彼だけが日本をはじめとする多くの国で「姓+字」で呼ばれるのか経緯は不明である。英語でも「蒋介石」の表音表記である Chiang Kai-shek が使われることが多いので、この文章では、慣例に従って、今後も「蒋介石」と呼ぶことにする。

以上

次回「2-2-4:中国革命の父・孫文の死」
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へ続く。

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2-2-3:第一次国共合作

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第3節:第一次国共合作

 中国革命の父と呼ばれる孫文は、「五四運動」の高まりを受けて、革命における大衆運動の重要性を痛感したことは前に述べた。また、前節で、「五四運動」は、「反日運動」がその主軸になっているものの、その中には「反帝国主義・半植民地主義(=ナショナリズム運動)」「反軍閥主義(=民主主義の確立運動)」「反資本家運動(=社会主義的運動)」が重なっているものだったことも述べた。ここで、革命的運動において押さえておかなければならない社会構造について、改めて振り返っておきたい。

 社会主義革命運動においては、「資本家」対「労働者」、「大地主」対「小作人・貧農」といった1対1の単純化された対立構造が議論されることが多いが、中国に限らず、現実の社会構造はそれほど単純ではない。当時の中国社会を構成する人々のグループを分類すると概ね以下のように分けられる。

<都市部>

(1) 資本家
 ・列強各国の外国資本と強く結びついた資本家(「買弁資本家」とも言う)
 ・外国資本との結びつきが弱い民族資本家

(2) 中小企業経営者(小規模工場の経営者:工場・機械設備などは所有しているが、大型のプロジェクトに投資する程の資本力は持たない)

(3) 個人商店経営者(都市部でもっぱら家族を従業員として営業している商店主など)

(4) 大学教授・文化人などの知識人

(5) 政府職員・学校の教師などの公務員

(6) 民間企業で働く賃金労働者

(7) 鉄道など公的機関で働く賃金労働者

(8) 軍隊の中の下士官(地主・自作農の次男、三男などが多く、外国留学経験者も多い)

(9) 兵士(都市の失業者だった者や農村で職にあぶれた貧農の次男、三男などが多い)

<農村部>

(10) 自らは耕作せず小作料収入だけで生活している地主(「寄生地主」とも言う)

(11) 所有する一部の土地を自ら耕作し、一部は小作地として小作人に貸し付けている富農

(12) 自らの土地を所有し、その土地を耕作して生計を立てているが、小作地は所有していない自作農

(13) 自らの土地を持たず、小作料を支払うことによって地主から土地を借りて行う耕作によって生計を立てている小作農(「貧農」とも言う)。

(14) 土地は所有せず、家畜のみを所有し、草原を渡り歩く遊牧民

 革命の各段階において、これらの多くのグループの人々のうち、どこまでの範囲を「味方」と考えるのか、が革命の「路線」を規定することになる。

 「五四運動」は、基本的には買弁資本家を除く都市部における上記の全てのグループの人々が一致団結したことにより、全国的な大きなうねりの運動となったのである。後で述べることになるが、中国共産党は、抗日戦争期・国共内戦期を通じて、労働者階層や貧農階層(プロレタリアート)に加えて、都市部では(2)中小企業経営者、(3)個人商店経営者(4)大学教授・文化人などの知識人階層、農村部では一部の(11)富農と(12)自作農をも取り込んで、幅広い国内の支持を取り付け、政権奪取に成功した(これらプロレタリアート以外のグループの意見を代表する機関として、中華人民共和国成立時にできたのが「中国人民政治協商会議」である)。

 しかし、その後、共産主義の理想を追求した毛沢東は、これらプロレタリアート以外のグループを「資本主義のシッポ」として排撃する「文化大革命」を発動した。それによって「知識人グループ」は迫害され、農村における「自作農」は消滅した。「文化大革命」終了後、1978年から始まった改革開放政策により、(2)中小企業経営者、(3)個人商店経営者、さらには(1)資本家のうち「民族資本家」と呼べるような階層まで出現し、それらが現在の中国共産党政権を支えている。これが江沢民氏が提唱し、現在に続いている「三つの代表」思想に基づく政策である。

 このように、中国における「政策路線」は、上記の社会内の存在する各グループのうち、どこまでを政権を支えるグループに取り込むかに応じて揺れ動いてきた。これから中国革命の歴史を語っていく上で、社会に上記のような様々なグループが存在することは繰り返し参照することになる。

 孫文は、中国の社会において、上に掲げたような各グループがそれぞれ別々の利害関係を持っていることを理解していた。辛亥革命によって皇帝権力が消滅した結果、それらの各グループをまとめる求心力が消滅したわけだが、新たな求心力はまだ生まれていなかった。国家としての求心力を失った当時の中国について、孫文は「中国の人々は『散沙の民』(握ろうとしても指の間からこぼれてしまう砂の如くまとまることのない人々)である」と称して嘆いていたのであった。孫文は辛亥革命の初期、最初は軍閥による軍事力に頼ってでも国内を統一し、その後、外国勢力を排除しつつ、民主主義を強化していくことを考えいたようである。しかし、袁世凱をはじめとする軍閥勢力は、むしろ外国勢力と癒着し、民主主義勢力を圧迫していったことから、孫文は軍閥の軍事力による中国の統一は自らの理想を実現させるための手段としては、もはや使えないことを痛感したのであった。

 孫文は、列強各国による干渉を排除し、軍閥の軍事力にも頼らないで、中国をひとつにまとまるためには、社会に数多く存在する各グループにおいて、小さな意見の対立については一定の妥協を図り、大同団結することが重要であると考えるようになった。孫文は社会主義者ではなかったが、「五四運動」を通じて盛り上がった労働者階級の団結の力は大事にしなければならないと考えるようになった。このため、孫文は、社会主義勢力とも協力し、誕生したばかりの中国共産党とも協力して、まずは「外国勢力の排除」「軍閥による支配からの脱却」を図ろうと考えた。

 一方、誕生したばかりの中国共産党の側は、中国における資本主義の発達はいまだ不十分であるとの認識であった。中国共産党側では、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に示される歴史観によれば、まず封建的な支配を打倒する市民革命(ブルジョア革命)が起こって資本家主導の政権ができ、しかるのちに労働者階級(プロレタリアート)による革命が起こると考えていた。従って、外国勢力が中国を支配し、軍閥のような封建的な支配体制がまだ残っていた当時の中国においては、まずは民族資本家グループとも協力して、軍閥や買弁資本家グループを排除して中国の独立を達成するとともに軍閥支配による封建的要素を排除して、諸外国の支配を排除した近代的な国家を建設し、その次の段階として社会主義革命を進めるべき、と考えていた。従って、中国共産党側でも、孫文が考える「大同団結」の考え方は受け入れ可能なものだった。

 ここに孫文が率いる中国国民党と中国共産党との考え方が一致し、両党による協力関係が打ち立てられることになる。

 もともと孫文は、日本が明治維新によって前近代的な体制を打破し、立憲議会政治を始めたことを見て、中国においても、西欧型議会制民主主義を樹立することを目指していた。しかし、孫文は、ヴェルサイユ会議において、自分が理想としていた西欧型議会制民主主義国である列強各国が中国政府の要求を無視したことを目の当たりにした。孫文は、結局は西欧の議会は資本家階級に牛耳られており、自らが掲げる広範な人々の民生の向上(民生主義)に直結するものではない、と感じたのであった。孫文は、西欧型議会制民主主義に失望し、むしろロシアが清朝政府と結んだ不平等条約を自ら破棄する宣言をしたソ連政府に親近感を持つようになる。

 孫文は、中国共産党が設立された5か月後の1921年12月、中国共産党設立に係わったコミンテルンのマリーンと会談した。マリーンを通じて孫文が西欧型民主主義に失望していることを知ったコミンテルンは、中国共産党と中国国民党の協力を勧めるようになる。

 一方、ロシア革命後の混乱期をなんとか収拾し、各地方を支配下に治め「ソビエト社会主義共和国連邦」を成立させたソ連政府は、北京の中国政府との間で国交樹立交渉を行ったが、共産主義勢力の拡大を警戒する列強各国の影響下にある軍閥によって支配されていた当時の北京政府とソ連との国交樹立交渉は決裂した(1922年)。こうしてソ連は、中国共産党と中国国民党が協力して北京の軍閥政府を倒すことが、ソ連にとってもプラスになると考えるようになり、ますます中国共産党と中国国民党との協力をバックアップする方針を取ったのである。ソ連の外交官ヨッフェは、北京政府との国交樹立交渉決裂の後、1923年1月、上海で孫文と会談し、中国国民党とコミンテルンが指導する中国共産党との協力関係を確認することを盛り込んだ「孫文・ヨッフェ宣言」をまとめた。

 こういったコミンテルンの方針に基づき、1923年6月に開かれた中国共産党第三回全国代表大会(当時の中央書記は陳独秀)は、中国国民党の革命における指導的地位を認め、中国国民党と協力することを決定した。このことが後に「革命の指導者はいったい誰なのか」という観点から中国共産党の中で問題となり、陳独秀が批判される原因となる。

 こうした動きの中、中国国民党の側も1924年1月、広州において第1回全国代表大会を開いた。ここで注目されるのは、この時に決まった中国国民党中央執行委員会委員24名の中に李大釗ら3名の中国共産党員が中国共産党員の肩書きを持ったまま参加していたことである。また、1924年6月、広州において中国国民党の直轄の黄埔軍官学校が設立され、その校長として蒋介石が就任したが、この黄埔軍官学校には周恩来ら中国共産党員も参加していた。また、黄埔軍官学校ではコミンテルンから派遣された軍事顧問も訓練に当たっていた。

 この時の中国国民党と中国共産党の協力関係を「第一次国共合作」という。

 背景としては、軍閥を中心とする北京政府に対し、革命勢力も軍事力を持つ必要があったが、中国国民党だけでは大衆を組織した軍隊を組織することができず、中国共産党の組織する大衆組織によるバックアップが必要だったからである。黄埔軍官学校校長の蒋介石は、当初から反共主義者であり、国民党の軍隊に対する自分の統率力の障害となり得る中国共産党の勢力を快く思っていなかった。孫文存命中は、蒋介石は自分の主張を表に出すことはなかったが、1925年1月に孫文が病死し、自分が中国国民党の代表になると、次第にその反共的性格を表していくことになる。

 なお、蒋介石は日本の陸軍士官学校に留学していた経験があり、その意味では蒋介石も「日本留学帰国組」である。

以上

次回「2-2-3:【コラム:『蒋介石』という呼び方について】」
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へ続く。

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2010年1月24日 (日)

2-2-2(2/2):【コラム:「中国共産党第一回全国代表大会」の出席者について】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

【コラム:「中国共産党第一回全国代表大会」の出席者について】

 陳独秀、李大釗及び「中国共産党第一次全国代表大会」に各地の代表として参加した12名の合計14名を「中国共産党の創設当事者」と位置付けるならば、現在、彼らのうち中国共産党の機関紙「人民日報」のホームページ「中国共産党の85年」の「党史人物」に載っているのは10名であり、載っていないのは4人ということになる。「党史人物」に載っていない4人(張国トウ、劉仁静、陳公博、周佛海)については、その後の経歴から「党史人物」に掲載するのは好ましくない、と考えられていると見られる。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党の85年」-「党史人物」
http://politics.people.com.cn/GB/8198/65833/65837/66792/index.html

(参考URL2)「人民日報」ホームページ-中国共産党ニュース-人物紹介
「包惠僧の人知れぬ記者生涯」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64172/85037/85038/6472347.html

 これから見ていくように、中国共産党の内部では、常に路線の対立があり、党内闘争に敗れた者は、脱党したり失脚したりしている。李大釗ら革命の途中で死亡した者も多く、「党の創設当事者」の中で中華人民共和国成立後も一貫して名誉ある地位を占め続けたのは、毛沢東と董必武(後の国家副主席・国家主席代理(1959~1975年))だけである。初代中央書記の陳独秀自身、1937年に路線対立により党から除名処分を受けている。また、陳独秀の代理として出席した包惠僧も1927年に離党している(離党または失脚した者であっても、現在「党史人物」に名前が載っていない4人以外の者については、現在では名誉が回復されていると考えてよいと思われる)。

 なお、「中国共産党の創設当事者」14名のうち6名(陳独秀、李大釗、李達、李漢俊、董必武、周佛海)は日本留学帰国者(周佛海は当時日本留学中で、在日中国人留学生の共産主義グループの代表として参加)であった。2008年5月初旬、訪日した胡錦濤国家主席は、5月8日に早稲田大学の大隈講堂で演説を行ったが、その演説の中で、陳独秀、李大釗らが早稲田大学に留学していたことを指摘し、日中の歴史的結び付きの強さを強調した。2008年5月の胡錦濤主席の訪日時における早稲田大学での胡錦濤主席の演説は、歴史が現在に連なっていることを如実に示しているものと言える。

 この時胡錦濤主席が講演を行った大隈講堂は、もちろん早稲田大学の創始者である大隈重信を記念して建てられたものである。一方、大隈重信は、中国共産党誕生の母胎となった「五四運動」のそもそもの原因となった「対華21か条要求」を行った内閣の総理大臣であるが、このことについては、この胡錦濤主席の訪中に際して、日中双方とも、誰も触れなかった。

以上

次回「2-2-3:第一次国共合作」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a40e-1.html
へ続く。

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2-2-2(2/2):【コラム:中国国民党について】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

【コラム:中国国民党について】

 中国国民党は、孫文の後、蒋介石がリーダーとなり、蒋介石が台湾に渡った後も存続して現在に至っている。2008年3月22日の選挙で馬英九氏が総統として当選したことにより(総統就任は5月20日)、台湾において、中国国民党は、それまでの民進党の陳水扁政権時代の野党の立場から、与党としての立場に復活することになった。

 中国政府は、台湾の政権を「政府」としは認めていないため、中国のメディアでは、台湾の政治の動きについては「総統」「内閣」「行政院」などと必ず「 」付きで報道する(「彼らが勝手に称しているところのもの」という意味で「 」を付けるのである)。一方、政党としての中国国民党が今も存続していることは、中国共産党及び中国政府も認めている。従って、中国のメディアでも中国国民党については「 」なしで報道される。

 2008年4月29日には、胡錦濤国家主席は中国共産党総書記の肩書きで北京において中国国民党栄誉主席の連戦氏(元中国国民党主席)と会談、続いて5月26日には中国国民党の現職主席の呉伯雄氏と会談して、中国共産党及び中国政府が中国国民党を重要視していることを内外に印象づけた。2005年4月にも胡錦濤主席は当時中国国民党主席だった連戦氏と会談しているが、この時は、台湾では民進党の陳水扁氏が総統であり、中国国民党は「野党」であった。従って、2005年の会談は形式上も実態上も「中国共産党のトップ」と「中国国民党のトップ」という政党のトップ同士の会談であったが、2008年4月~5月の胡錦濤主席・総書記による中国国民党幹部との会談は、馬英九氏が総統に当選した後の会談であり、中国国民党が「政権与党」の立場になった直後の会談であったために、形式上は相変わらず「政党幹部同士の会談」ではあるにも係わらず、内外にそれ以上の印象(中台双方ともに認めてはいないが「政府の最高幹部同士の会談」といった印象)を与えることになった。

 なお、国共内戦の後、台湾に渡ろうとした蒋介石の方針に反対した中国国民党の一部のグループ(孫文夫人の宋慶齢女史ら)は、分派して「中国国民党革命委員会」を組織し大陸に残った。「中国国民党革命委員会」は、今でも大陸において政党として存続している。「中国国民党革命委員会」は、中国共産党の指導による政治運営を認めるという立場に立って大陸で政党としての活動を認められている「民主党派」のひとつである。

以上

次回「2-2-2(2/2):【コラム:『中国共産党第一回全国代表大会』の出席者について】」
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2-2-2(2/2):【コラム:東交民巷】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

【コラム:東交民巷】

 東交民巷は、天安門を東西に走る大通り「長安街」の約300m南を東西に走る細い街路である。解放前は外国の大使館等が立ち並ぶ外国公館街だった。北京飯店のある長安街と王府井大街が交わる交差点を約300m南に行ったところには北京最大と言われるキリスト教の教会「東交民巷天主堂」が現在も残っている。この一帯は、急速に開発が進む北京市内の中でも昔の面影が今でも残る部分である。東交民巷周辺の建物は歴史的建物群として今後も保存されていくだろうと思われる。

 解放前、列強各国の大使館等が立ち並んでいたことから、東交民巷は、1960年代~1970年代の文化大革命の時代には一時的に「反帝路」と呼ばれていた。

以上

次回「2-2-2(2/2):【コラム:中国国民党について】」
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2-2-2(2/2):【コラム:天安門前広場】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

【コラム:天安門前広場】

 1919年当時、天安門前は、東西に走る大通り(長安街)と天安門前から南へ向かう道路とのT字路になっており「天安門前広場」はなかった。中華人民共和国成立後、天安門前から南へ伸びる道路の両側の建物が取り払われ、「天安門前広場」が作られることになる。「広場」の有無は別として、1919年の五四運動の後、天安門前は中国の様々な政治的活動を象徴する場所となった。1949年10月1日の毛沢東による中華人民共和国成立宣言も天安門の上で行われた。2008年、北京オリンピックの聖火リレーが胡錦濤国家主席によって始められた場所として、また、北京オリンピック本番のマラソンのスタート地点として、この天安門前が選ばれたのは、こういった歴史があるからである。

以上

次回「2-2-2(2/2):【コラム:東交民巷】」
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へ続く。

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2-2-2(2/2):五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(2/2)

 ヴェルサイユ会議が開かれる前年の1918年、アメリカの大統領ウィルソンは、世界大戦後の世界を見据えて、軍備縮小、国際連盟の結成、民族自決主義の原則などからなる14か条の平和原則を提唱していた。このウィルソンの平和原則がヴェルサイユ条約の議論のひとつの基調となった。

 ウィルソンは、「1民族=1国家が原則であり、他国が他の民族を支配することがあってはならない」とする「民族自決主義」の原則を提唱したが、この提唱の背景には、第一次世界大戦が「民族のるつぼ」とも言われるバルカン半島を巡るヨーロッパ各国の利害対立から始まったことが念頭にあったものと思われる。従って、ウィルソンは「民族自決主義」はヨーロッパに適用するもの、と考えていたものと思われる。しかし、列強各国の支配に悩むアジア・アフリカ諸国の人々は、このアメリカ大統領ウィルソンの提唱した「民族自決主義」を自分たちに投げかけられた希望の光だと感じた。アジア・アフリカ諸国の人々は、ウィルソンが提唱した14か条の平和原則を基調として議論が行われたヴェルサイユ会議において、自分たちの国に対しても「民族自決主義」に基づく現実的な結論が出されることを期待した。

 中国の人々が具体的に期待したのは、山東半島の中国への返還であった。中国の人々は、山東半島は、ドイツが支配権を持っていた地域であり、第一次世界大戦でドイツが負けた以上、「民族自決主義」の原則に基づけば、中国に返還されて当然だ、と考えていた。袁世凱政権が日本による「対華21か条要求」を受諾したため現実的には山東半島はドイツに代わって日本に占領されていたが、日本の占領は、第一次世界大戦に際して日本が英仏に協力する代わりとして一時的にドイツの権益を受け継いだだけであり、第一次世界大戦が終了した以上、日本が占領を続ける理由はない、と中国の人々は考えたのである。

 上記のような考え方から、ヴェルサイユ会議に参加した中国政府代表は、山東半島を中国に返還することを要求した。英・仏・米も、中国における日本の権益が大きくなることを望んではいなかった。しかし、英仏は日本の対独参戦に際して日本の中国における権益を承認することを既に認めていたし、アメリカも日本が講和条約の署名に参加しなくなることを恐れたため、英・仏・米ともに日本の主張を受け入れて、結局、ヴェルサイユ会議では中国代表による山東半島返還の要求は拒否された。

 ヴェルサイユ会議において中国代表の山東半島返還要求が拒否されたことは、5月1日に中国に伝えられた。これを聞いて、中国の人々の間に落胆と怒りが広がった。北京の学生たちは、大学において集会を開き、5月4日、天安門前においてデモを行うことを決めた。5月4日、天安門前には2,000人以上の学生が集まり、外国公館が集まる東交民巷に向かってデモが行われた。東交民巷は、外国公館た建ち並ぶ治外法権地域であり、警官に守られてデモ隊は入れなかった。そこで、デモ隊は、「対華21か条要求」を受け入れた時の責任者で「親日派」と見られていた官僚・曹汝霖の自宅を襲い、火を放った。これらの動きで多数の逮捕者が出た。

 このような学生の動きに対し、多くの労働者も賛同し、北京で多くの集会やストライキが行われた。北京における学生や労働者の動きは、6月に入ると上海に飛び火し、上海で大規模なストライキが発生した。その後、この運動は中国各地に広がっていった。この幅広い中国の人々による運動を、それがスタートした日にちなんで「五四運動」と呼ぶ。

 この「五四運動」は、中国の人々による「真の革命」(軍閥の軍事力を背景とした権力移譲ではない幅広い層の人々の運動による革命)のスタートとして現在でも重要視されている。現在でも、中国では、5月4日は「青年節」と呼ばれ、青年世代(14歳~28歳)にとっては半日の休みが与えられる法定休日であるし、北京大学の学生たちが天安門前へ向けてデモを開始した旧北京大学紅楼(故宮北門の約400m東にあった)の前の道路は今でも「五四大街」と呼ばれている。

 「五四運動」は、「対華21か条要求」によって日本に占領されていた山東半島の返還要求がヴェルサイユ会議において拒否されたことに端を発していることからわかるとおり、そもそもは「反日運動」であった。ただ、それは単に日本に反対する運動だけではなく、ヴェルサイユ会議において日本の要求を認めて中国の半植民地状態の固定化を図ろうとした欧米列強各国に対する反発であり、日本の「対21か条要求」を受諾した軍閥政府に対する反発であり、列強各国と結んで利益を図ろうとする資本家(いわゆる「買弁資本家」)に対する反発でもあった。従って、「五四運動」は、「反日運動」であるとともに、「反植民地主義の民族主義的運動」であり、「反軍閥運動」であり、「反資本家運動」でもあった。「五四運動」の参加者の主張は「ナショナリズム」「民主主義」「社会主義」といった複雑な主張の混合体であり、「五四運動」は、これらの多種多様な主張を持つパワーが「反日」という目標の下に結集されたもの、という側面があった。

 孫文は、「五四運動」における人々のパワーに大きく突き動かされた。孫文は、1914年に袁世凱政権に反対するために中華革命党を結成していたが、「五四運動」に見られる幅広い人々のパワーこそが革命前進の原動力であると考えて、1919年10月、中華革命党を解散して改めて中国国民党を結成した。辛亥革命時の「国民党」は袁世凱政権によって解散させられているので、これが現在につながる中国国民党のスタートである。

 ロシアにおいては、1917年にロシア革命を成功させたボルシェビキ政権が、翌1918年に議会を解散してプロレタリア独裁を確立し、ロシア・ソヴィエト連合社会主義共和国を設立していた(各地方のソヴィエト政権が連合して「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が成立するのは1922年のことであるが、複雑さを避けるため、これ以降、レーニンが率いる政府を「ソ連政府」と呼ぶこととする)。ソ連政府は、国内における反革命勢力との戦いを進める一方、全世界の労働者・農民と連携して、世界各国で共産主義革命を進めるため、1919年3月、「共産主義インターナショナル」(コミンテルン)を結成していた。

 また、ソ連政府は、その成立の基盤となる思想的な背景に基づき、旧ロシア時代に締結した帝国主義的な条約を破棄する方針を採り、1919年7月、かつてロシアが中国に対して締結した不平等条約を破棄することを宣言した(宣言を発したソ連外務人民委員代理カラハン氏の名前を採って「カラハン宣言」と呼ばれる)。このカラハン宣言は、「五四運動」で盛り上がる中国の人々を感激させた。

 そうした中、1920年、コミンテルンは北京にヴォイチンスキーを団長とする代表団を派遣した。ヴォイチンスキーは進歩派知識人の李大釗と、続いて李大釗の友人で1915年に雑誌「新青年」を発刊して青年たちに新しい思想を紹介していた陳独秀と会い、中国に共産党組織を作ることについて話し合った。ヴォイチンスキーの援助を受けて、陳独秀は1920年8月、上海で共産主義グループを結成した。また10月には李大釗が北京において共産主義グループを結成した。翌1921年、7月23日から上海において各地の共産主義グループの代表者が参加した会議が開催された。この会議で、中国共産党の設立が決議され、党の綱領が定められるとともに、中央書記として陳独秀が選出された(この会議は、現在、「中国共産党第一回全国代表大会」と呼ばれている)。

 この会議に参加したのは、12名の各地からの代表(李達、李漢俊、張国トウ(トウ=「点」の「占」の代わりに「寿」を置いた字)、劉仁静、毛沢東、何叔衡、董必武、陳潭秋、王尽美、トウ恩銘(トウ=「登」に「おおざと」)、陳公博、周佛海)及び陳独秀の代理として出席した包惠僧、それにコミンテルンから派遣されたマーリンとニコルスキーであった(陳独秀自身と李大釗は出席しなかった)。人民日報の「中国共産党簡史」によれば、中国共産党発足時の党員は50数名であった、とのことである。

 この「中国共産党第一次全国代表大会」は上海で開かれていたが、途中で「帝国主義者の密偵」に見つかったため、最終日の7月31日の会議は浙江省嘉興市(上海の西隣の市)の中心部にある南湖に浮かぶ船の上で行われた(この経緯からわかる通り、中国共産党の創設は1921年7月23日~7月31日で行われた会議で決まったのであるが、現在、中国共産党では7月1日を党の創立記念日としている)(注)。

(注)中国共産党創立以降の中国共産党の歴史については、「人民日報」などのページに膨大な量の中国共産党の歴史に関する文書が掲載されている。しかしながら、1991年にソ連共産党が崩壊した後にロシア革命以降のソ連の歴史に関して新たな事実が次々に明らかになったことを考えると、これら「人民日報」等に掲載されている「中国共産党の歴史」のみが客観的な歴史であると断言することはまだ時期尚早であると考える。本稿では「人民日報」に掲載されている中国共産党の歴史についての記述を参照することが多くなるが、それが客観的なものであるかどうかについては、後世の歴史家に判断していただくほかはないことを前もってお断りしておく。

(参考URL1)人民日報「中国共産党簡史」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/index.html

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党ニュース」-「中国共産党第一次全国代表大会について」
http://www.people.com.cn/GB/shizheng/252/5089/5090/20010424/450622.html

以上

次回「2-2-2(2/2):【コラム:天安門前広場】」
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へ続く。

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2010年1月23日 (土)

2-2-2(1/2):【コラム:儒教に対する考え方】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(1/2)

【コラム:儒教に対する考え方】

 当時の中国の進歩的知識人は、国民の意識改革のひとつとして、儒教に対する批判も展開していた。儒教は「若年者は年長者に従うべきもの」「女性は男性に従うべきもの」といった上下関係を重視するものであり、服従を美徳とするものであって、この考え方が「人民は皇帝に服従すべきもの」という古い中国の政治体制を支える基盤をなしていた、として、彼らは儒教を批判したのである。自ら皇帝になることを宣言した袁世凱は「中国は強力な統治者が国を支配するのが正しい姿である。」として、上下関係を尊ぶ儒教を国教とすべきだ、と主張していた。こういった政治的状況も、当時の中国の進歩的知識人が儒教を批判した背景にあった。

 ところが現在の日本では「中国においては、古代から現代に至るまで、儒教は、中国の思想・哲学の重要な基盤として、歴史上一度も批判されたことはなく、中国の一般の人々は一貫して儒教を尊重していた。儒教や孔子を批判したのは中国共産党だけである。」といった誤解が意外と根強い。

 後に述べることになるが、文化大革命の後期、1974年頃、当時中国の党中央の実権を握っていた「四人組」は「批林批孔運動」を展開した。これは反毛沢東クーデターを企てて死亡した林彪と孔子とを合わせて批判する運動である(この「批林批孔運動」の目的には、実は「ウラ」があるのだが、それについては文化大革命について記述する際に後述する)。これに対して日本の新聞の中には「中国の精神的柱である孔子を批判するとは、中国共産党はとんでもないことをする」と批判したものがあった。こういった批判は、中国の近代化革命の過程で、孫文や魯迅など中国共産党とは異なる立場の進歩的知識人たちも含め、多くの人々が中国の近代化のための障壁のひとつとして孔子や儒教を批判していたことを理解していないことからくる誤った批判である。

 それに関連して、2007年12月に訪中した福田総理が首脳会談後の訪問先として孔子廟を選んだことについて、私は若干の違和感を感じた。中国の近代化革命の中で批判の対象だった孔子の墓を日本の総理大臣が訪問することは、外交上微妙なメッセージを発する可能性があったからである(うがった見方をすれば、日本が中国の近代化の歴史を批判した、と受け取られかねない)。また、今でこそ孔子は中国政府からも「中国が世界に誇る古代哲学者の一人」として高く再評価されているが、その背景には現在の中国の党中央・政府による「中国民族の優越性」を示す「愛国教育(民族教育)」の方針があると考えられることから、総理の孔子廟訪問は、そういった「愛国教育(民族教育)」を日本の総理大臣は支持している、というメッセージを内外に与える可能性もあったからである。それらを考えると、2007年の時点で日本の総理大臣が訪問先として孔子廟を選んだのはややピントがはずれている、と私は感じたのである。

以上

次回「2-2-2(2/2):五四運動と中国共産党の誕生(2/2)」
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2-2-2(1/2):五四運動と中国共産党の誕生(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第2節:五四運動と中国共産党の誕生(1/2)

 袁世凱政権は1915年5月に日本による「対華21か条要求」を受諾する際、「中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くこと」「必要な地域で警察を日中共同とすること」等を規定した「5号条項」については受諾しなかった。それでも、袁世凱政権が、5号条項以外の日本の要求を受け入れたこと、特に山東半島におけるドイツの権益を継承して日本が山東半島の一部を占領状態に置いていることを認めたことに対し、中国の人々は「国辱だ」として怒ったのである。

 1916年6月、袁世凱が病死した後、袁世凱政権で副総統を務めていた黎元洪が大総統となった。しかし、政治の実権は、段祺瑞、馮国璋ら軍閥政治家が握ることになり、以後、軍閥政治家同士の勢力争いによる政治の混乱が続くことになる。孫文が結成した中国革命同盟会を軸として結成された国民党は、袁世凱政権下で解散させられていた。反袁世凱運動の中で改めて中国革命党を結成していた孫文は、袁世凱の死後も政権に戻ることはできなかった。

 第一次世界大戦によるヨーロッパ各国の疲弊は、経済面でも中国に対して影響を及ぼした。ヨーロッパにおける生産力の低下とドイツの潜水艦による輸送船に対する妨害等により、ヨーロッパから中国への製品輸出が減少した。例えば、1917年、1918年のイギリスからの中国の輸入額は1913年の約半分、フランスからの輸入額については3分の1に減少したという。このため、紡績、製糸、製粉、タバコなどの業種において中国の民族系企業が勃興した(参考資料5:「中国現代史」~壮大なる歴史のドラマ~(新版))。このことは、後に述べる五四運動において、「外国製品を買わずに国産製品を買おう」という動きが出てくる下地となっている。また、中国国内における民族資本家の成長は、その下で働く労働者の数が増えたことも意味し、これも後に述べる中国における社会主義運動のひとつの素地となった。

 長引く第一次世界大戦は、ロシアやドイツの国内政治にも影響を与え始めた。長期間にわたる戦闘で苦しむ兵士たちの間には、次第に自分たちが皇帝の命令によって戦場で塗炭の苦しみを受けていることについて「自分たちは何のために戦っているのか」という疑問の念が起き始めたからである。

 ロシアではこの当時まだ皇帝による支配が続いていたが、日露戦争中の1905年に起きた「血の日曜日事件」「戦艦ポチョムキンの反乱(兵士の待遇に対する不満などからロシア海軍の軍艦の乗組員が起こした反乱)」などに見られる国内の政権に対する不満を収拾するため、1906年に議会(ドゥーマ)が設置されていた。1916年以降、ロシアでは、第一次世界大戦による生活苦に農産物の不作による食料品不足が加わり、国民の不満が高まり、1917年3月(ロシア歴の2月)、首都ペテルブルクで食糧配給の増加を求める市民のデモが発生した。皇帝ニコライ2世は、これを武力で鎮圧しようとしたため、市民側が反発、労働者もこれ加わった。ニコライ2世は軍に鎮圧を命じたが、軍の兵士も市民・労働者側に同情的であり、多くの兵士が皇帝の命令に背いて市民・労働者側の立場に立った。この動きを受けて議会(ドゥーマ)は皇帝に退位を勧告したため、ニコライ2世は退位せざるを得なくなり、ロシアのロマノフ王朝は倒れた(二月革命)。

 皇帝の退位により、議会の有力者が中心となった臨時政府が成立したが、事態は混沌としていた。この時期、労働者や兵士からなる評議会(ロシア語で「ソヴィエト」)が結成され、臨時政府と並んで二重権力状態が生じた。ソヴィエトにおいてレーニンが指導するグループ(ボルシェビキ:ロシア語で「多数派」を意味する)は、1917年11月(ロシア歴では10月)、議会を通じた政治的な改革では労働者や兵士の側が権力を奪取することは困難と判断し、首都ペテルブルクで武力蜂起を敢行して、臨時政府を打倒し、全ての権力がソヴィエトに移行したことを宣言した(十月革命)。これらの動きがロシア革命である(注)。

(注)このようにロシア革命では、まず革命勢力が首都で武力蜂起を行って政権を奪取し、その権力を基にして地方における革命を進めていった。一方、後に述べる中国共産党による革命は、まず土地改革などによって農村部の支持を固め、都市部に拠点を置いていた国民党政府を包囲する形で無力化させていった。ロシア革命は「共産党宣言」の中でマルクス・エンゲルスが思い描いていたような形の革命を現実のものにしたものだったのに対し、中国共産党の革命は「農村が都市を包囲する」という全く別の形の革命だった。この違いは、その後のソ連と中国との歩みの違いを考える上で極めて重要である。

 十月革命で権力を奪取したボルシェビキ政権は、1918年3月、対戦相手であったドイツ等と講和条約を結び、一方的に第一次世界大戦から離脱した。これは思想的には「第一次世界大戦は、各国の支配階級が自らの権力拡大のために戦っているのであり、命令に従って戦場に駆り出され、苦しい生活を強いられている兵士・市民・労働者はどの国においても被害者である。」という考え方に立脚している。ボルシェビキ政権にはドイツ等と戦う理由はなかったのである。

 こういった「世界各国の兵士・市民・労働者はともに同じように被害者であり、団結して支配階層を打倒べきである」という考え方に基づき、世界各国で兵士・市民・労働者による革命を起こす運動を進めようと結成された組織が「共産主義インターナショナル」、いわゆる「コミンテルン」である。このコミンテルンは、後に述べるように中国における社会主義運動に大きな役割を果たした。世界の兵士・市民・労働者・農民の立場は共通であり、お互いに協力して支配階層を打倒しよう、という発想は、中国共産党の元来の基本的な指導理念のひとつである。それは、現在も北京の天安門の毛沢東主席の肖像の横に掲げられている「世界人民大団結万歳」という言葉に象徴されている。

 毛沢東は、中国共産党創生期からの共産党員であり、このロシア革命の「インターナショナリズム(全世界の人民は団結すべきとの考え方)」がその思想の出発点であった。一方、ロシア革命で発足したソヴィエト連邦は、他の資本主義諸国との対抗上、その後、国家としての勢力を拡大しようという意図が前面に出るようになり、世界各国の被抑圧人民を支援して共産主義革命を推進させようという「インターナショナリズムの理想」から徐々に離れていく。このソ連の「インターナショナリズムからの離脱」は、理想主義者・毛沢東の目には「国際共産主義運動に対する裏切り」と映り、これが1960年以降の中ソ対立のひとつの遠因になる。この点については、後に1960年代の中ソ対立の部分で述べることになる。

 ロシア革命において兵士・市民・労働者の大衆運動が皇帝を退位させたという事実は、中国の進歩的知識人たちに衝撃を与えた。中国でも既に辛亥革命において1912年に清朝の皇帝を退位させていたが、これは中国各地における武装蜂起が背景にあったにしても、最後は軍閥政治家である袁世凱が軍事力を背景として自分が臨時大総統になる見返りとして宣統帝を退位させた、というのが実態であり、その後の中華民国政府は、袁世凱等の軍閥政治家が実態的に政権を握り、国民による政府になっていなかったからである。多くの知識人は、一般大衆が支持し、一般大衆が主体的に革命を実行する国民革命を起こさなければ、真の革命は成り立たないことを痛感した。

 辛亥革命を指導しながら、実態的にはその後、袁世凱等の軍閥政治家による支配を許していた孫文も、ロシア革命の経過を知って、真の国民革命を達成するためには、一般大衆による革命への参加が不可欠であることを痛感した一人であった。このことが、後に、孫文を社会主義的考え方の人々とも連携して幅広い国民運動による革命を進めるべきであるという考え方に基づく国民党と共産党の協力(第一次国共合作)へ導くことになる。

 幅広い中国大衆の意識を高めることの重要性を強く認識した進歩的知識人の中に、1915年に「青年雑誌」(翌年に「新青年」と改名)を発刊した陳独秀らがいた。陳独秀らは、この雑誌を通して、西洋の人権思想、ダーウィンの進化論、社会主義思想などを中国の青年たちに紹介した。彼らは「孝」を尊ぶことは、その裏側では「服従」を強いることである、として儒教が説くアジア的上下関係を批判した。これは一種の「倫理革命」であった。(この当時、「貞操は道徳ではない」と主張し、女性解放運動のはしりとなった日本の与謝野晶子の考え方も中国に紹介されている)。一方、文学者の魯迅は、形式張った美辞麗句に終始する文語体を廃し、口語体で文章を書くことを勧め、口語体で様々な作品を発表した。この魯迅の活動は「文学革命」と呼ばれた。

 こういった「倫理革命」「文学革命」の運動を通じて、中国の進歩的知識人や若者たちは、自分たちがリードして一般大衆を動かさなければ、中国の近代化は進展しない、と自覚するようになった。こういった意識が高まっていたさなかの1919年1月、第一次世界大戦の戦後処理を取り決めるヴェルサイユ会議が開催された。

以上

※次回「2-2-2(1/2):【コラム:儒教に対する考え方】」
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2010年1月22日 (金)

2-2-1:【コラム:「軍閥」とは何か】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第1節:袁世凱政権と日本による対華21か条の要求

【コラム:「軍閥」とは何か】

 袁世凱は、もともと外国の技術を取り入れて清朝政府を改革しようとして洋務運動を進めた清朝の官僚・李鴻章が創設した軍隊の中にいた軍人だった。李鴻章は、清朝政府の官僚であり、清朝政府の予算で軍隊を創設したのであるが、清朝政府本体は当時の実力者だった西太后の意向に沿って軍艦を建造する予算を流用して北京郊外のイ和園(イは「臣」へんに「頁」=いわえん;イーフーユェン)を築造したりするなど軍隊の整備に無関心だったことから、李鴻章は自分自身の判断で軍隊の整備を進めていった。その結果、清の軍隊は次第に「李鴻章の軍隊」のような色彩を強めていった。

 このような動きを引き継いで、袁世凱は、軍の中で頭角を現した後、清朝政府の軍隊を徐々に自らの意志で動かせる「袁世凱の軍隊」に変えていった。軍を私物化していったのである。清朝政府には、もはやそれを防止する能力はなかった。

 軍を動かせるという力を背景として、袁世凱は政治の世界でも発言力を強化することになった。これまで述べてきたように、1898年の「戊戌の政変」においては、袁世凱は、当初、改革派の光緒帝側に立っていたが、光緒帝から軍事クーデターを起こすよう要請されると、それを西太后に通報し、光緒帝を幽閉させて「戊戌の変法」を圧殺する役割を果たした。1900年の義和団事件に際しては、義和団を鎮圧する役割を果たす一方、事態が変化し、清朝政府が義和団と結んで列強各国に宣戦を布告すると、袁世凱は清朝政府の命に従わなかった。袁世凱の指揮下にない清朝政府の軍隊はこの義和団事件で列強各国に壊滅させられてしまったので、これ以降、完全に清朝政府の軍隊=袁世凱の軍隊となった。袁世凱は、常にその場その場で自分がどの立ち位置に立てば最も有利か、を判断する能力に長けていた、と言うことができる。

 1908年に光緒帝と西太后が死去し、光緒帝の兄の醇親王が清朝政府の実権を握ると袁世凱は清朝政府と距離を置くようになり、清朝政府を見限ることになる。そして、袁世凱は、その軍事力を背景として、1912年に辛亥革命に際しては清朝政府の最後の皇帝・宣統帝に退位を迫るとともに、孫文に臨時大総統に就任することを約束させたのである。

 最終的には1915年には自らが皇帝になることを宣言するのであるが、それがいかに時代錯誤的なものであったか、ということを袁世凱自身は理解していなかったようである。

 袁世凱の生涯を通じてわかるように、彼には「政治的信念」とか「中国をどういう国にしよう」といった政策ビジョンはなく、常に自らの権力を最大限にするにはどうしたらよいか、が彼の唯一の関心事項であった。自らの権力の拡大に有利なのであれば、列強各国と提携することもいとわないし、自らが皇帝になることを支援してくれるのであれば、日本からの「対華21か条の要求」も受諾してしまうのである。

 彼の軍隊は、もともとは清朝政府の軍隊であったが、最後は袁世凱という個人が自由にできる軍隊になっていた。こういった個人の意志で自由にできる軍隊を持ち、政治的信念や政治的ビジョンを持たず、常に自らの権力の最大化を目指して動く政治家(彼らを「政治家」と呼ぶのだとすると多くの良心的な政治家から反発を食うかもしれないが)を「軍閥」と呼ぶ。

 袁世凱の死後、彼の部下だった馮国璋、段祺瑞、あるいは東北地方で勢力を伸ばしてきた張作霖なども「軍閥」と呼ばれ、この後、中華民国時代の中国で大きな役割を演じるようになる。中国各地を跋扈(ばっこ)して分割支配する軍閥は、列強各国と結びつき、中国の半植民地化を脇から支えた、という側面がある。また、軍閥が持つ軍隊は、あくまでトップに立つ者の指揮命令に従う「個人の軍隊」であり、中央政府や地方政府等の政府組織が持つ政府軍ではない。その意味で、軍閥の軍事力による支配は法に基づく支配(法治支配)ではなく、トップに立つ有力者の意志でどうにでもなる支配(人治支配)であると言える。清朝末期以降、中華民国の時代を通じて、これらの軍閥による「人治支配」の時期が長く続いたことが、中華人民共和国が成立した後も中国の社会に色濃くその影を落としていると言うことができる。

以上

※次回「2-2-2(1/2):五四運動と中国共産党の誕生(1/2)」
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へ続く。

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2-2-1:袁世凱政権と日本による対華21か条の要求

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第1節:袁世凱政権と日本による対華21か条の要求

 袁世凱が提出した妥協案を清朝政府側、孫文の南京臨時政府側の双方が受けれたことにより、1912年2月、清最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(宣統帝)は退位し、翌3月、妥協の条件(前節参照)に従って孫文は袁世凱に臨時大総統の座を譲った。孫文は「清朝を打倒する」という革命の第一目標を達成するため、袁世凱の妥協案を受け入れ、それに従って袁世凱に臨時大総統の座を譲ったのである。その背景には、憲法に当たる「臨時約法」を制定し、それに基づいて議会選挙を行うことによって、臨時大総統になった袁世凱の権力をある程度抑制できるはずだ、という孫文の目論見があったものと思われる。

 袁世凱は、孫文らの目論見とは関係なく、自らの権限を利用して、列強各国からの借款を受けて鉄道等のインフラ整備を進めようとした。臨時政府の中には、外国からの借款に基づいて社会インフラを整備することは、列強各国による支配を強め、中国の独立性を損なうものだ、という批判が強かったが、袁世凱は臨時大総統という権限に基づいて、自らの政策を強力に推進した。

 臨時政府が成立した翌年の1913年3月、「臨時約法」に基づく初めての国会議員選挙が行われた。選挙の結果、孫文が設立した「中国同盟会」を軸にして組織された政党「国民党」(孫文が理事長)が870議席中401議席を獲得して第一党となった。このため、国民党の実質的な指導者・宋教仁(彼も日本留学帰国組)を首班とする内閣の組閣が行われようとしていた。宋教仁は、袁世凱が進める外国からの借款によるインフラ整備政策に反対していた。

 こうした中、1913年3月、その宋教仁が上海で暗殺された。袁世凱が放った刺客によるものと言われている。袁世凱の進める外国からの借款政策に反対する勢力は、宋教仁の暗殺に怒りの声を上げ、「打倒袁世凱」の動きを始めることになる。しかし、反袁世凱側の勢力は、様々な考え方のグループに分かれていたため、まとまって袁世凱に対抗することができず、袁世凱は武力でこの動きを鎮圧した。こうして、1913年10月、袁世凱は正式な大総統に就任した。これを受け、日、露、英、仏などの主要国は袁世凱を大総統に頂く中華民国を中国の正統な政府として承認した。主要国が袁世凱政権を中国の正式な政権として承認したのは、背景として、袁世凱政権は借款と通じて列強各国と強く結びついていたからである。袁世凱はその後、議会を解散し、独裁的な政治を進めていくことになる。

 1914年7月になると、ヨーロッパにおいて第一次世界大戦が勃発した。日本は1902年に締結していた日英同盟に基づいて英・仏・露の三国協商側に立って独・オーストリア・イタリアの三国同盟側に対して宣戦を布告した。各国の利害が複雑に絡み合っている中国において、袁世凱政権は第一次世界大戦における中国の中立を宣言した。

 日本は、1914年8月、アジアにおけるドイツの拠点だった山東半島を攻撃し、11月には青島(チンタオ)を占領した。第一次世界大戦が大規模な戦争に発展していく中、ドイツ等の三国同盟側はもちろんのこと、英・仏・露の三国協商側もヨーロッパでの戦闘に集中せざるを得なくなり、中国に多くの兵力を割くことができなくなった。このようにして生じた中国における列強各国の軍事力の真空状態を利用して、日本(当時は大隈重信総理)は、1915年(大正4年)1月、袁世凱政権に対して21か条からなる「対華21か条の要求」を突き付けた。その内容は「日本が占領した山東半島におけるドイツの権益を日本が引き継ぐこと」「旅順・大連の租借権を99年間得延長すること」「沿岸部を他国に割譲しないこと」などであった。最後に「秘密条項」(いわゆる「5号条項」)として「中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くこと」「必要な地域で警察を日中共同とすること」が含まれていた。

 特に5号条項は、中国側の主権を露骨に奪うものであった。それだからこそ、日本も秘密裏に交渉を進めたかったのであるが、諸外国からの圧力を期待した袁世凱は、この5号条項も含めて対外的に公表した。袁世凱は、日清戦争後、遼東半島の領有を要求した日本に対し、露・独・仏の三国が圧力を掛けてこの領有要求を撤回させたこと(いわゆる「三国干渉」)のような事態を期待したのであったが、第一次大戦で苦戦する英・仏・露は日本の協力を得るために中国に対する日本の要求を黙認せざるを得なかった。また、この時点では第一次大戦においては中立の立場にいたアメリカも日本に対する圧力は掛けなかった。袁世凱は、中国政府内部における袁世凱の地位を支持する、という日本側が申し出た「アメ」の効果もあり、1915年5月、この日本による「対華21か条の要求」をあからさまな主権侵害である「5号条項」の部分を除いた部分について受諾した。

 この「対華21か条要求」は、中国の人々に、既に1910年に韓国を併合して完全に植民地化していた日本が次の目標として照準を定めているのが中国であることを明確に感じさせるものだった。

 「沿岸部を他国に割譲しない」ことを約束させられたり、「日本人の軍事顧問を置く」「警察を日中共同とする」ことを要求された「対華21か条の要求」は、中国政府の自主的な判断権を奪い、「政府」としての役割の一部を日本に明け渡すものであることから、中国の人々の激しい怒りを買った。この怒りが1919年、第一次世界大戦の戦後処理を巡って締結されたヴェルサイユ条約の結果に反発して起きた五四運動へとつながっていくのである。

 19世紀後半以来、欧米列強各国は中国の半植民地化政策を少しずつ進めてきたのであり、中国の人々は欧米列強各国に対しても反発を感じていたのであるが、特にこの日本による「対21か条要求」に対して強い反発を感じた背景には、以下のような理由あった。

(1) 中国政府の持つ主権を侵害することを明文化した露骨なものであったこと。

(2) 清朝政府が打倒され、ようやく国民国家として出発したタイミングにおいて、その革命によって成立した政府に対して国家主権を侵害するような要求がなされたこと。

(3) 第一次世界大戦によるヨーロッパでの戦闘において疲弊したヨーロッパ各国のスキを衝き、「ヨーロッパ各国は今のタイミングならば日本に圧力を掛けてくることはないだろう」という「読み」に基づくものであることは明らかであり、中国の人々からすれば極めて狡猾な要求だと思われたこと。

 清の時代ならば、中国の人々にとって清朝政府は「我々の政府」としての意識は必ずしも明確ではなかったが、幅広い人々の運動によって清朝政府が打倒されて成立した中華民国政府は、袁世凱という軍閥政治家が独裁的な体制を敷いているとは言え、多くの人々にとって「我々の政府」という意識があったものと思われる。この辛亥革命の時期は、「清朝打倒」とともに「諸外国による支配の排除」という共通認識を持つことを通じて、中国の人々の間に「我が国・中国」というナショナリズム的心情が初めて芽生えた時期であったと言ってよい。その時期に露骨に中国の主権を奪うような要求を突き付けたため、日本に対しては中国の人々は特に鋭い反発を示したのである。また、欧米の白人国家からではなく、同じアジアの国であり、しかも千数百年にわたり「格下」だと思っていた日本から突き付けられた要求だから余計に強く反発したのだ、という要素もゼロではなかったのかもしれない。

 「対華21か条要求」は、明治維新以来、ヨーロッパの進んだシステムを取り入れて国力を増強し、日露戦争において大国ロシアに勝った日本に対して、一定のシンパシーを持っていた中国知識人の間に、大きなショックを与えることになった。これら中国知識人は、日本の先進性に対して同じアジアの国としての一定の期待感を持っていただけに、むしろ「裏切られた」という感覚があったものと思われる。

 このため、これ以降、中国における「反植民地主義」「列強各国による中国支配の排除」の動きは、特に日本に対する反発を中心として動いていくことになる。袁世凱政権に対して日本が「対華21か条要求」を受け入れるよう最後通告した日(5月7日)または袁世凱が「対華21か条要求」を受諾することを表明した日(5月9日)は、この後「国恥記念日」として中国の人々の頭の中に記憶されることになる。

 「対華21か条要求」を受諾することにより日本の後ろ盾を得た、と考えた袁世凱は、自らの独裁体制を強化し、「広い中国を統治するには強力な権力が必要であり、帝制を復活させることが必要である」といった論調の論文を流布させた。そして、1915年12月には、国民代表大会が袁世凱を皇帝に推挙したのを受けて、袁世凱は自らが皇帝となって「中華帝国」が成立したことを宣言し、翌1916年の元号を「洪憲」とする、と発表した。

 袁世凱が自ら「皇帝」になると宣言したことは、さすがに時代錯誤的なものであり、中国各地から猛反発を招いた。各地で軍事的な反乱が相次いだほか、諸外国も袁世凱に帝政復活の延期を勧告した。また、袁世凱が持っていた軍隊の内部でも「帝制」対する反発が起こり、袁世凱は1916年3月、帝制の取り消しを宣言した。結果的に「皇帝宣言」は、袁世凱の政治的求心力を失わせることとなった。袁世凱は帝制の取り消しを宣言した3か月後の1916年6月、皇帝になるという夢を実現できないまま病死した。こうして袁世凱の政権はあっけなく終わったのであった。

以上

※次回「2-2-1:【コラム:『軍閥』とは何か】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-42d1.html
へ続く。

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2010年1月21日 (木)

2-1-3:【コラム:中国の人々の日本に対する見方】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第3節:辛亥革命(清王朝の終焉)

【コラム:中国の人々の日本に対する見方】

 1898年に「戊戌の変法」に失敗した康有為、梁啓超らは日本に亡命した。孫文らが日本で「中国革命同盟会」を結成した時、当時18あった中国の省のうち日本への留学生が居なかった甘粛省を除く全ての省の代表がこの「中国革命同盟会」の結成に参加したという。それだけ多くの若者がこの当時日本に留学していたのである。思想面で中国の近代化に貢献した魯迅は、この当時、東北大学に留学中だった。このように1894~1895年に日清戦争が行われたのに、19世紀末から1900年代初期の中国の知識人にとって、日本は「敵国」としてではなく、明治維新以来の改革を学ぶとともに中国における改革の拠点となる場所として認識されていたのである。この当時の中国の人々にとっては、日清戦争は、確かに日本と中国との戦争ではあったが、日本が戦った相手は清朝政府であり、清朝政府を見限っていた当時の中国の人々からすれば、日本は「自分たちの国の交戦相手の国」という認識はあまりなかったのかもしれない。

 一方、日清戦争は、朝鮮半島の利権を巡る日本と中国との間の戦争であり、日本が韓国(朝鮮は日清戦争後の1897年に国号を「大韓」と改めていた)を植民地化しようとしていたことを中国の人々はよく知っていた。また、日本は、義和団事件で北京に侵攻した8か国連合軍の一員であり、日本を「中国の半植民地化を進める列強」として警戒する感覚は当時の中国の人々の間にはあったと思われる。ただ、それはイギリス、フランス、アメリカなどに対するのと同じ感覚であり、今で言う「反日感情」とは異なるものだったと思われる。

 日本に対する中国の人々の感覚が明確に「反日」に転換するのは、「対華21か条の要求」など1910年代以降の日本の対中国政策によってである。

以上

※次回「2-2-1:袁世凱政権と日本による対華21か条の要求」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/21-f906.html
へ続く。

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2-1-3:辛亥革命(清王朝の終焉)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第3節:辛亥革命(清王朝の終焉)

 義和団事件の後、中国は列強各国による半植民地状態となり、清朝政府はもはや中国の国土と人民を守る能力を失ってしまった、と言ってよい。

 当時、ロシアと日本とは、中国東北部の権益を巡り争っていたが、ついに1904年、日露戦争が勃発した。この日露戦争は、陸上戦では、例えば旅順近郊の二○三高地で激戦が行われたように、戦争の舞台は中国の領土内であった。にも係わらず、この日露戦争において、清朝政府は「中立」の立場を取り、自国の領土内で日露両国が戦闘を繰り返すのを傍観するしかなかったのである。

 日露戦争において、激しい戦闘の結果、日本が大国ロシアに勝ったこととは、中国の知識人に大きな衝撃を与えた。この日露戦争の各戦闘での敗戦と戦争のための負担の増加によってペテルブルクの労働者が皇帝に対する抗議の声を上げ、それをロシア皇帝が武力で鎮圧した事件が発生した(「血の日曜日事件」(1905年1月22日):「第一次ロシア革命」とも呼ばれる)。このロシアでの事件は、専制君主制では、もはや国全体をまとめ上げ他国と対抗することはできないことを中国の人々に印象付けた。既に1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を制定し、多額の税金を納める者のみによる制限選挙とは言え、曲がりなりにも法律に則り選挙によって選出された議員で構成される議会を持つ議会政治をスタートさせていた日本と、皇帝が強圧的な命令により国民を動員して戦争を行ったロシアとの間では、国家としてのまとまりや国全体の士気の高まりの点で大きな違いが生じていたことは明らかであったからである。

 こういった動きの中で、当時、孫文をはじめとする日本に留学していた中国の青年たちは、1905年8月、日本において「中国革命同盟会」を設立し、「駆除鞭虜(満族による支配の排除)」「恢復中華」「創立民国」「平均地権」を盛り込んだ綱領を決定した。

 孫文ら在日留学生らによる「中国革命同盟会」の結成を受け、「血の日曜日事件」のような事態が中国でも起こることを恐れた清朝政府は、ようやく自ら政治改革を進める必要を認識するようになり、1905年、「(千数百年に渡って続いた)科挙制度の廃止」「立憲準備の開始」等の決定を行った。しかしながら、こういった清朝政府存続のための改革の試みは既に手遅れだった。義和団事件に対する賠償金支払いのための増税への一般人民の清朝政府への反感を背景として、これ以後、各地で清朝政府に対する反対の決起が相次いで起こることになる。このため、清朝政府は、袁世凱ら軍閥政治家の軍事力を用いて、これらの決起を鎮圧することに必死になった。

 そうした中、1908年11月13日に光緒帝が死去した。その直後の11月15日、50年近くに渡って清朝政府を実質的に支配してきた西太后が死去した。光緒帝と西太后の死の時期があまりに接近しているため、当時から、光緒帝は死期を悟った西太后に殺されたのではないか、との噂があった。現在でも、光緒帝の死因については、様々な議論が行われている。

 光緒帝と西太后の死後、光緒帝の弟・醇親王の子である宣統帝(愛新覚羅溥儀:いわゆる「ラスト・エンペラー」)が3歳で即位し、父親の醇親王が監国摂政王となって清朝政府の実権を握った。醇親王は、1898年の戊戌変法を行ったときに袁世凱が自分の兄・光緒帝を裏切って西太后側に付いたことを忘れていなかった。このため袁世凱は醇親王から疎まれ、清朝政府の中央から遠避けられるようになった。

 反清の立場の決起が各地で起こることに危機感を募らせた清朝政府は、中央集権を強化し、政権の求心力を強めるため、当時、民間資本によりバラバラに建設が行われていた鉄道の国有化を推進しようとした(鉄道が通信網とともに、政府の中央集権化のための道具となることについては「第1章第2部第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い」参照)。清朝政府は、既に鉄道の国有化を進めるだけの財力はなかったことから、これを外国からの借款で行おうと考えた。外国からの借款による幹線鉄道の国有化は、鉄道を拠点として中国での権益を強めようとする列強各国の利害とも一致していた。

 1911年5月、清朝政府が幹線鉄道の国有化を宣言すると、鉄道建設を進めていた民間資本家、列強各国による中国支配強化を懸念する知識人や青年たち、賠償金支払いのための増税を不満に思う地主階級、その負担を転嫁させられていた一般人民は、「反清朝政府」という点でベクトルが一致し、清朝政府に対する反発の機運が急速に高まった。この年8月には四川で鉄道国有化反対運動が起きた。この四川での鉄道国有化反対運動の鎮圧のために、清朝政府は、武漢にいる湖北軍の一部に出動を命じた。

 武漢にある湖北軍は、もともと洋務運動を進めた官僚・張之洞によって創設された軍隊であったが、その兵士には耕地を持たない農民が多く含まれており、幹部の中には日本へ留学した者もいた。湖北軍内部の清朝政府に反感を持つグループは、四川への出動命令に反発し、清朝政府に対する反乱の準備を進めた。10月に入って、湖北軍の反清朝政府グループは、反乱の動きが清朝政府側に察知されそうになったことから、10月10日、武昌において武装蜂起を決行した(湖北省の省都の武漢は、揚子江とその支流である漢江に挟まれた武昌、漢陽、漢口の3つの地区からなる都市である)。これが清朝崩壊へとつながる革命の発端となった(この年の「えと」から「辛亥(しんがい)革命」と呼ばれる)。

 武昌蜂起は中国各地に飛び火し、各地において武装蜂起が起こり、清朝政府からの独立が宣言された。武昌蜂起の時、孫文は米国のデンバーにいたが、各地での武装蜂起の情報に接し、12月に帰国した。そして、1912年1月1日には、南京において臨時政府の樹立が宣言され、孫文はその臨時大総統に選出された。南京臨時政府は、孫文が唱える三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)を綱領として掲げていた。ただ、南京臨時政府にとっては、清からの独立は宣言したものの、具体的に北京に残る清朝政府との関係にどう決着を付けるかが難問であった。

 列強各国(特にイギリス)は、南京臨時政府の持つナショナリズム的傾向に懸念を持ち、軍閥政治家・袁世凱の軍事力に期待を寄せた。そういった列強各国の自分への好意的見方を敏感に感じ取った袁世凱は、自分を疎んじていた醇親王(宣統帝の父親)が実権を握る清朝政府に完全に見切りを付け、清朝政府と南京臨時政府の間に立って、以下の条件で妥協を成立させた。

○宣統帝は退位する。
○宣統帝と醇親王は、その身柄の安全を保障され、北京の紫禁城に引き続き居住することが認められる。
○袁世凱を南京臨時政府の臨時大総統に就任させる。

 清王朝の存続はもはや困難と判断した醇親王はこの条件を受け入れた。まとまった軍事力を持たなかった南京臨時政府もこの袁世凱の妥協案を受け入れた。これにより、1912年2月宣統帝は退位し、清の時代に終止符が打たれた。また、この妥協案に基づき、翌3月、孫文は臨時大総統の座を袁世凱に譲った。

 せっかく革命が成ったのに軍閥政治家である袁世凱に臨時大総統の座を譲ったこの時の孫文の判断については、後世の歴史家の中には批判的な見方をする人もいる。しかし、この時の南京臨時政府は、「清朝政府打倒」という一点についてだけ一致した様々な考え方を持つ雑多なグループの集合体であり、まとまった軍事力を持っているわけではなかった。列強各国からの干渉を防止するためには袁世凱の持つ軍事力に頼るほかはなかったのである。

 孫文は、三民主義という革命の理想を高く掲げていたが、一方で、当時の中国人民の状況を踏まえると、中国において西欧型議会制民主主義をすぐに取り入れることは無理であると考えていた。孫文は、第一段階では軍政、第二段階では上からの政府主導による政治(訓政)の実施、第三段階で立憲議会制による政治(憲政)を実施、というふうに段階的に革命を進めるべきである、と考えていた。こういった段階的な革命の進め方が当時の中国の実情を踏まえれば最も現実的である、と孫文は考えていたのである。このような現実的な政治認識に立てば、1912年の時点で孫文が軍閥政治家・袁世凱に臨時大総統の座を譲ったのは、やむを得ない判断であった、と評価するのが今日では一般的である。

以上

※次回「2-1-3:【コラム:中国の人々の日本に対する見方】」
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2010年1月20日 (水)

2-1-2:【コラム:義和団事件の賠償と清華大学】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第2節:義和団事件

【コラム:義和団事件の賠償と清華大学】

 日清戦争に続いて、日本は義和団事件でも清国から賠償金を得ることとなった。当時、列強各国にできるだけ近付きたいと考えていた日本にとって、清国から獲得した賠償金は非常に貴重なものだった。日本はこれらの賠償金を国内のインフラ整備等のために充て、更なる軍事大国への道を歩んでいくことになる。

 一方、アメリカは、義和団事件で清国から受けた賠償金のうち1,100万ドルを「将来アメリカと対等に話のできる幹部を養成して欲しい」として中国に返還し、1911年、「清華学堂」を設立させた。この「清華学堂」は、アメリカへ留学する学生を養成する学校で、当時「留美予備学校」と呼ばれていた(参考資料6:中国の頭脳 清華大学と北京大学)(中国語でアメリカは「美国」と書く)。これが現在の清華大学の前身である。中国の国家指導者には、胡錦濤国家主席をはじめ軒並み清華大学出身者が並んでいる。アメリカが100年前からしたたかな国家戦略的意図の下に動いていたことを感じさせる逸話である。

 こういった「アメリカ式のやり方」、即ち、軍隊を送り込んで戦争をし、その賠償金を得て、その賠償金で自国に留学する学生を育てる学校を作るといったやり方について、「フェアな精神に基づく美談」としてではなく、形を変えた「侵略」である、と明確に喝破したのが、かの毛沢東であった。

 毛沢東は、中華人民共和国が成立する約1か月前(1949年8月30日)、「『友情』か、侵略か?」と題する論文を書いている。

(参考URL)「人民日報のホームページ」-「共産党ニュース」-「指導者の人物」-「人民の指導者・毛沢東」-「著作選集」-「毛沢東選集第四巻」
「『友情』か侵略か?」(1949年8月30日)
http://www.people.com.cn/GB/shizheng/8198/30446/30452/2189412.html

 この中で毛沢東は次のように述べている。

 「アチソン(当時のアメリカ国務長官)は、アメリカは古くから中国と友情を持っていた、と言っている。彼の言い方によれば、例えばアメリカは庚子賠償(義和団事件による賠償金)を中国人学生の教育に使ったり、第二次世界大戦中は中国に多額の援助をしたりしていたが、これは古くからのアメリカの中国に対する友情を表すものだ、ということになる。しかし、彼は、8か国連合軍の一員として中国に攻め入って得た賠償金を用いて中国人学生を教育したこと、即ち、精神的に侵略したことをもって『友情』と表現しているのである。蒋介石(国民党軍)に多額の資金援助をし、何百万人もの中国人を殺したことをもって『友情』と言っているのである。」

 アメリカの長いスパンを考えた世界戦略、そしてその意図を見抜く毛沢東のような冷徹さは日本にはなかなかまねのできないところである。国と国との関係は、結局は、こういった緊張関係に基づく長期的な視野に立った戦略の上に成り立っていることを常に認識しておく必要があるのである。

以上

※次回「2-1-3:辛亥革命(清王朝の終焉)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a40e.html
へ続く。

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2-1-2:【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第2節:義和団事件

【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】

 1980年代までは、中国では、清末の太平天国(1851~1864年:キリスト教系)や義和団事件(1900年:白蓮教(仏教の分派)系)における大衆運動は、「民衆の決起による支配階級に対する革命的抵抗運動」として、高く評価されていた。しかし、本稿本節執筆時(2009年)の中国においては、太平天国についてはその過程で内部分裂が繰り返されたこと、義和団運動については一時期清朝政府の側に立っていたこと、などを踏まえて、一方的に高く評価することは行われなくなってきている。最近20年間におけるこのような太平天国や義和団事件に対する評価の変化は、「支配階級打倒のための民衆による抵抗運動は、全て革命的であり善である」といった画一的な歴史観から、歴史はより客観的に見るべきだ、との考え方が強まったことを示すものである。また、現在の中国において「新興宗教」の名において現在の支配体制に反対する勢力(「法輪功」)が存在していることも、太平天国や義和団に対する歴史的評価を冷たいものにしている原因と思われる。

 現在の中国の指導部が「宗教に基づく民衆の支配体制に対する反抗」をいかに嫌っているかは、チベット仏教の僧侶が中心となっている最近のチベット騒乱に対する対応を見ても伺い知ることができる。

 こういうふうに「宗教に基づく民衆運動」を過度に警戒すること自体、中国の支配体制が既に過去の中国の各王朝の末期的の状態に近くなっていることを示しているのではないか、と見る人もいる。人民の不満を吸い上げる政治システムがうまく機能しているのであれば、一部の宗教グループの人々の動きなど気にする必要はないからである。

以上

※次回「2-1-2:【コラム:義和団事件の賠償と清華大学】」
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2010年1月18日 (月)

2-1-2:義和団事件

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第2節:義和団事件

 「戊戌の変法」が思い描いていた「改革」は、結局は「幻」として終わってしまった。光緒帝は幽閉され、「戊戌の変法」を推し進めた中心人物である康有為、梁啓超らは日本へ亡命することになった。

 こうして政治が改革の方向を全く示すことができないでいる中、列強各国との戦争に敗れたことにより発生する賠償金の負担は、結局は増税という形で一般大衆に転嫁された。税金は地主に対して課されるが、地主は当然小作料の値上げという形で一般農民に負担を求めるため、この時期、抗租(小作料不払い)運動が頻発した。増税の原因が列強各国による圧力であったことから、中国民衆の中に列強各国による半植民地化に対する反発の機運が高まってくることになる。

 こういった社会的な不満がうっ積していく状況の中で、「反西洋」「反キリスト教」という立場に立つ新興宗教が民衆の支持を集めるようになる。それが「義和拳法」であった。「義和拳法」は、仏教の民間信仰である白蓮教から派生した新興宗教で、一定の拳法の修行や儀式を通じて神通力を得る、というものであった。

 「義和拳法」を行う集団(義和団)は、当初は漢民族ナショナリズムと反キリスト教の方針に則って「反清復明」のスローガンを掲げていた(「清」は満族の王朝、「明」は漢民族の王朝)。義和団のエネルギー源はナショナリズムであることから、この運動に警戒感を強めた列強各国は、当時、優勢な軍事力を維持して清朝政府から治安担当の役職に任命されていた袁世凱に協力を求めた。こうして、袁世凱は義和団の弾圧に乗り出すことになる。

 清朝政府は、列強各国からの圧力を受け、1900年4月の時点では義和団運動を禁止する方針でいた。しかし、清朝政府は、義和団が持つ外国排除の傾向を利用したいと考えるようになり、その後、義和団勢力に急接近する。義和団側もこういった清朝政府の意向を受け入れて、スローガンを「反清復明」から、「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅亡させる)に変化させていった。

 こういった清朝政府の容認姿勢を受けて、義和団は、1900年6月、天津から北京に進撃した。このため、北京にいた列強各国の外交団と中国人キリスト教徒は孤立することとなった。これを救出するため列強8か国(露・英・仏・独・米・オーストリア・伊・日の8か国)は北京に軍隊を派遣した。これら列強8か国に対し、義和団勢力を擁護する清朝政府は宣戦を布告した。これが義和団事件である。宣戦布告はしたものの、清朝政府に列強各国連合軍に対抗する力があるはずはなく、西太后は、8月、やむなく光緒帝を伴って北京を脱出し、西安に逃れた。その後、9月になって列強各国の圧力に屈した西太后は義和団討伐を命じ、義和団は鎮圧されたのである。

 この義和団事件の結果として1901年に締結された北京議定書は「清は列強8か国に4億5000万テールの賠償金を支払う」「列強各国の華北での駐兵権を認める」といった内容であった。義和団事件に対する清朝政府の右往左往やその後締結された北京議定書によって、清朝政府の中央政府としての機能の喪失と中国の列強各国による半植民地化が明確になった。

以上

※次回「2-1-2:【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-d1d3.html
へ続く。

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2010年1月17日 (日)

2-1-1:日清戦争から戊戌の変法まで

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第1部:日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ

--第1節:日清戦争から戊戌の変法まで

 これから清末から辛亥革命、中華民国時代の中国の列強各国による中国の半植民地化の動きについて述べていくことになる。この部分は、現在の中国政府が外資の導入や欧米各国との関係をどう考えているか、の背景となる部分であるので極めて重要である。

 チベット問題やウィグル問題が現在の中国でも重要な課題であることでわかるように、多民族国家である中国において、多くの民族をひとつの国としてまとめることは非常に重要な問題である。

 日本、韓国(朝鮮)、ベトナムは、中国の周辺地域に居住する民族が形作った国々である。これらの国々は、各民族が生活している地域が地理的に比較的明確に中国と分離しており、民族自立の原則に基づけば、これらの国々がそれぞれ個別の独立国となったことは自然の成り行きであったと言える。しかし、もともと中国は、漢民族が多数を占めるとは言え、チベット族、ウィグル族、朝鮮族、モンゴル族、回族などが地域的に混在して生活している多民族国家である。実際、中国東北部の吉林省等には多数の朝鮮族が住んでいるし、中国の内モンゴル自治区の住民の約2割はモンゴル族である。これら複数の民族が混在して生活している地域を民族ごとに分離することは、物理的に非常に難しい。複数の民族が混在して生活している地域で、各民族が自らの主張を強く出すと大きな混乱を招くことになるのは、旧ユーゴスラビア地域など、世界に多くの地域で実例を見い出すことができる。

 そもそも現在の中国の首都である北京についても、歴史的に見れば、隋唐帝国が崩壊して以降、遼(契丹族:907年~1125年)、金(満族:1125年~1235年)、元(モンゴル族:1235年~1368年)、明(漢族:1368年~1644年)、清(満族:1644年~1911年)といった王朝が支配して来た。北京を漢族の王朝が支配していた期間は、むしろ短いのである。

(注1)金と清を建国したのは中国の東北地方の女真族であるが、現在、中国では多くの場合「満族」という言い方をするので、上記では「満族」と表記した。

 このように「民族のるつぼ」である中国に対し、多民族国家であるがゆえの「ひとつの国」としての求心力のなさに付け込んで、豊富な地下資源と膨大な人口に基づく市場を求めて、19世紀後半以降、列強各国(日本も含む)が殺到し、中国を半植民地化していくのである。この歴史の記憶は、1978年以降の改革開放経済を歩む現代中国の政策の中にも色濃く投影されている。豊富な地下資源と膨大な人口に基づく市場を求めて外国資本が中国に入ろうとしているのは、帝国主義の時代も、現在も、基本的構造は同じであり、だからこそ多民族国家であることを利用して民族間の対立を激化させ、「ひとつの国」としてまとまる力を削ごうとする動きに対しては、中国政府及び多くの中国人民は「過敏」とも言える反応を示すのである。

 これから述べていく中国革命の歴史の中において、日本は最初は列強各国のひとつとして、そして後半はその列強各国の中の最大勢力として登場してくることになるが、本題に入る前に、戦争に関する事実関係を指摘しておきたい。

 日清戦争は日本と中国(清)との戦争であったが、主な陸上における戦闘は朝鮮半島で行われた。日露戦争は日本とロシアとの戦争であったが、主な陸上における戦闘は中国で行われた。第一次世界大戦に日本は参戦したが、日本が参加した陸上における戦闘は山東半島にあるドイツ租界とその周辺、つまり中国で行われた。第二次世界大戦においては、日本本土は空襲や原爆投下で大被害を受けたが、陸上での戦闘は沖縄や硫黄島で行われ、これら島しょ地域以外の日本本土が戦場になることはなかった。つまり、空襲や原爆により大きな被害を受けたのは事実であるが、外国の兵士に領土を蹂躙(じゅうりん)され、文化遺産を破壊されたり略奪されたりした、という経験は日本にはないのである。

 一方、中国においては、1860年のアロー号戦争において、北京は英仏両軍の侵攻を受け、円明園、イ和園(イは「臣」へんに「頁」=いわえん;イーフーユェン)などの歴史的建物が破壊され、文化遺産が略奪された。1900年の義和団事件の際には、日・英・米・露・仏・独・伊・オーストリアの8か国の軍隊によって北京や天津などの華北の要所が占領された。1937年の廬溝橋事件をきっかけにして始まった日中戦争においては、日本軍が中国各地に進撃し、中国の国土を戦場として戦闘を行ったことは御承知のとおりである。中国本土が長い期間にわたり外国の兵士に蹂躙されたという記憶は、今でも中国の人々の心から消えていない。このことは、中国の人々と話をする場合に(特に日本人にとっては)忘れてはならないことであるので、最初に指摘しておきたい。

 1840年に始まったアヘン戦争以来、列強各国は、中国を半植民地化していく。アヘン戦争の結果1842年に結ばれた南京条約によって香港島が、アロー号戦争の結果1860年に結ばれた北京条約によって九龍半島先端部が、それぞれイギリスに割譲された。また、清は、1884年~1885年に起きたベトナムを巡る清仏戦争に敗れ、ベトナムに対する宗主権を失い、ベトナムはフランスの保護下に入った。

 1894年~1895年の日清戦争においては、朝鮮の支配権を巡って日本と清国とが争い、清は日本に敗れた。日清戦争の結果締結された下関条約では、清は日本に対して台湾を割譲したほか、2億テール(当時の金で約3億円)の賠償金を日本に対して支払った。この賠償金の金額は、当時の日本の国家予算の3.5年分にも上る巨額なものであった。この賠償金を用い、日本は、八幡製鉄所を建設するなどその後の国家建設のインフラ整備を進めていくことになる。

(注2)読者はよく御存じのように、現在の中国は、日中戦争に関する賠償金は放棄している。戦争に対する賠償金と経済協力とを同列に議論することはナンセンスであるが、1979年以降、日本が中国に対して行った経済協力の額(「貸し付け」である円借款や無償協力などを含め2006年3月現在で累計3.4兆円)を踏まえると、日中両国のぞれぞれの時点での財政規模に占める割合を考えた場合、過去150年間で日中両国が相手国から得たものの損得勘定は、日本が中国から得たものの方が圧倒的に大きく、全くバランスが取れていないことがわかる。この点も、日中関係に携わる日本人は、常に頭の片隅に置いておく必要があることである。

 1894~1895年の日清戦争による清の敗北は、欧米列強に対して清の弱体化を強く印象づけ、列強各国による中国の更なる半植民地化の誘い水となった。列強各国は、軍事的圧力を背景として、1898年、ドイツが山東半島の膠州湾を、ロシアが大連・旅順を、イギリスが香港島と対岸の九龍地区の後背地域である「新界」を清から租借(軍事的拠点等とするために借り受ける)し(注3)、フランスが広州湾を占領した。

(注3)1898年に九龍半島の「新界」を租借する時、イギリスは「99年間」という期限付きで租借している。当時は、この「99年間」とは「永遠に」という意味であると考えられていたと思われるが、この時の租借期限の規定に基づき、99年目の1997年、香港はイギリスから中国に返還された。

 列強各国が中国の半植民地化を進める中、日清戦争での敗北を深刻に受け止めた康有為、梁啓超、譚嗣同ら進歩派官僚は、1860年年代頃から行われてきた洋務運動(第1章第2部第1節:19世紀の中国・ロシア・日本の状況参照)が失敗だったと認識した。洋務運動では「中体西用」と言われるように、中国の旧来からの体制を維持しながら西洋の技術だけを取り入れることが行われた。彼ら進歩派官僚は、洋務運動のこういった姿勢が、西洋式の政治システムを積極的に取り入れた日本に負けた原因である、と考えた。彼らはこの反省の上に立って、議会を設置し、立憲君主制を打ち立てるなど政治システム自体を革新させることが重要であると認識し、清朝政府の立て直しを図ろうとした。この改革の試みに、当時の皇帝である光緒帝(当時27歳)も賛同し、1898年6月11日、光緒帝は軍隊の洋式化、科挙の廃止、洋式学校の設立などに関する勅令を発した。これが「戊戌の変法」である。

 ところが、「戊戌の変法」が最終的に目指すものは議会の設立と立憲君主制の確立であることから、これを自らの権力基盤への挑戦と捉えた西太后と保守派官僚は反発し、変法を進める官僚を罷免した。光緒帝は、変法に理解を示していた軍閥政治家の袁世凱に軍事クーデターを起こすよう依頼したが、袁世凱がこれを西太后に通報したため、光緒帝は西太后によって9月11日に幽閉され、「戊戌の変法」は100日足らずの間に瓦解した。

 「戊戌(ぼじゅつ)の変法」は、日清戦争に負けたことにより、清朝内部にも日本の明治政府のように議会を設立した立憲君主制を導入しなければ、中国は列強各国にいいようにされてしまう、という危機感を持つ者が出てきたことを意味する。

 この変法を推し進めた進歩派官僚の一人である梁啓超に関して、東洋大学中国学会会報(現在は「白山中国学」と改名されている)第7号(2000年10月発行)で遠藤賢氏が「梁啓超における変法論の一考察」と題する論文を書いている。

(参考URL)「梁啓超における変法論の一考察」(遠藤賢)
http://bunbun.toyo.ac.jp/chutetsu/institute/vol07/vol7-4.htm

 この論文の中で遠藤賢氏は、梁啓超の考え方を示すものとして、梁啓超の「文集」に収められている「論変法不知本原之害」(「根本を知らずに変法について論ずることの害」)と題する論文に書かれている下記の文章を紹介している。

「同治の初年にドイツの首相ビスマルクが人に語って次のように言った。三十年後には日本は発展し、中国は弱くなってしまうだろう。日本人で欧州に游ぶ者は、学業を討論し官制を講究してから自国へ帰って学んだことを施行する。中国人で欧州に游ぶ者は、あちらの工場へ行っては戦艦に設置する大砲の性能を聞き、こちらの工場へ行っては値段の安さを聞き、それを購入しては自国で用いている。強弱の根源はここにあるのだろう、と。ああ、今不幸ではあるがビスマルクの言葉は当たってしまった。」

 「同治」とは清の第10代皇帝の穆宗(=同治帝:在位1861~1875年)の時代のことで、ちょうど「洋務運動」が始まった頃の時代を指す。また、御存じのようにビスマルクとは、1862年~1890年の間ドイツ(当時はプロセイン)の首相を務め、鉄血宰相と呼ばれた人物である。梁啓超は、「中体西用」(中国式の体制で西洋の技術を用いる)をモットーとした「洋務運動」の敗北が日清戦争によって明確になってしまったことを嘆いたのである。技術を単体で導入しただけではその技術の力を発揮させることはできず、その技術を支えている周囲の様々なシステムを合わせて取り入れないと、自らの手でその技術を活かすことはできないのだ、と考えたこの時の梁啓超の考え方は、非常に示唆に富むものであり、重要な視点であると考えられる。

 しかしながら、「戊戌の変法」は、西太后と保守派官僚らによってあっけなく封殺されてしまった。これは「戊戌の変法」が進歩派官僚と光緒帝の同意の下で進められていたとは言え、社会にこれを支えるバックグラウンドがなかったことを意味する。「戊戌の変法」は、日本の明治維新のような改革を導入することによって清朝政権を維持しようとするものであったが、この当時、多くの中国の人々は、列強各国による中国の半植民地化に怒りを覚えてはいたが、西太后が支配する清王朝を守ろうなどとは誰も思っていなかったからである。

 進歩派官僚らが西太后派によって罷免されると、光緒帝は、軍閥政治家の袁世凱の軍事力に期待し、彼に軍事クーデターを起こすよう頼んだ。しかし、袁世凱はこのことを西太后に通報し、逆に光緒帝は西太后に幽閉されてしまったのである。辛亥革命の後で明らかになるが、この軍閥政治家・袁世凱が目指していたものは、戊戌の変法の最終目標である議会の設立や立憲君主制の確立とは全く別のものだった。若き光緒帝がこういった袁世凱に頼らざるを得ないほど社会の他の勢力からの支援を受けることができなかった点が悲劇だったと言える(後述するように、辛亥革命を進めようとした孫文も袁世凱の軍事力に頼らざるを得なくなった。革命の理想とはほど遠い軍閥政治家の力を借りなければ事態を動かせなかった中国革命の悲劇的な一面を示している)。

 「戊戌の変法」が失敗した背景としては、以下の2つを指摘することができる。

(i) 「戊戌の変法」は、列強各国による支配を防ぐ、という愛国的性格を帯びてはいたが、それはあくまで改革によって清朝政府を維持することによって諸外国を排除しようとするものであり、既に清朝政府に愛想を尽かしていた多くの中国の人々の共感を得ることはできなかったこと。

(ii) 「戊戌の変法」を進め、列強各国を排除することによって活躍の場を広げたいと願う民族系資本家層がこの時点の中国では育っていなかったこと。当時、中国人資本家の一部は、外国の資本家と協力して、列強各国による中国の半植民地化政策をむしろ背後で支えていた。もはや崩壊寸前の清王朝と結ぶより、外国資本と結んだ方が資本家としての成長の可能性が大きいと判断したからである。これら、外国資本と結んだ中国の資本家たちを「買弁(ばいべん)資本家」と呼ぶ。「買弁資本家」は、この後の中国革命の中で、その売国的性格を徹底的に批判されていくことになる。

 上記の(ii)の点、即ち、清朝末期の時点では、中国には民族資本家層が育っていなかった(外国資本と結んだ買弁資本家しかいなかった)という点は、今後、中国の革命の過程を見る上で重要なポイントである。後で述べるように、辛亥革命は、外国の支配を排除するという「独立革命」の側面と、西欧の市民革命のような絶対王政を倒して資本家による政治支配を打ち立てるという「ブルジョア革命」の側面とがあるが、中国には「ブルジョア革命」を強力に推進する主体となるべき民族資本家がいなかったのある。資本家はいることはいたが、中国の場合それは「買弁資本家」であった。買弁資本家にとって外国勢力を追い出すことは自分たちの存在基盤を失うことを意味するので、買弁資本家は、辛亥革命を後押しするどころか、むしろ妨害する役目を果たしたのである。

 中国において、外国資本と縁を切った民族資本家が育っていなかったことは、辛亥革命の「ブルジョア革命」としての意味を極めて希薄なものにした。それと同時に、このことは、辛亥革命に引き続いて行われた中国共産党による社会主義革命が、マルクス・エンゲルスが想定し、ロシア革命で実行されたような、ブルジョア資本家を打倒する革命とは性質の異なる革命、即ち農民を主体とする「農民革命」の性格を強く持つこになる出発点となった。

以上

※次回「2-1-2:義和団事件」
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へ続く。

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2010年1月16日 (土)

1-2-2(2/2):【コラム:最新技術の導入とそれに対する「抵抗勢力」】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第2部:辛亥革命以前の中国社会の特長

--第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/3)

【コラム:最新技術の導入とそれに対する「抵抗勢力」】

 どこの国でも、いつの時代でも、新しい技術が社会に普及することは、従来技術に基づいて類似の事業を営んでいた人々にとっては職を奪われる脅威である。これらの人々は、常に最新技術の導入に反対する「抵抗勢力」になりうる。ある意味で、政治の大きな役割のひとつは、社会の変化に応じて、「抵抗勢力」になっている斜陽分野の人々を別の分野へいかにスムーズに転換させるか、にあると言っても過言ではない。日本の戦後の政治を見ても、エネルギー部門の石炭から石油への転換、運輸部門の鉄道輸送から自動車輸送への転換が大きな政治課題であった。今の日本の地方経済においては、高速道路、ダム、新幹線の建設等のコンクリート産業に頼った体質からの脱却が大きな課題であるが、これについては、いまだ途上にあると言える。各界・各層の人々を抵抗なく時代の変化に適応させていくことが、いつの時代においても政治の重要課題なのである。

 日本と中国とを比べると、日本の方が国土が小さく、人口が少ないので、時代の変化に対する適応はやりやすいと言える。仏教、鉄砲、キリスト教などが伝来した後、日本はそれらをあまり抵抗なくスムーズに受け入れ、場合によっては大いにそれを活用している。

 こういった日本の時代変化適応能力を象徴する「お話」として、新美南吉の「おじいさんのランプ」を挙げることができる。この話の「語り部」である「おじいさん」は、明治維新後、石油ランプの先進性に着目してランプ売りの商売に成功するが、電灯の導入により、自分の商売に対する危機感を募らせる。「おじいさん」は、自分の商売を守るため、当初は村への電灯の導入に反対するが、それが社会の進歩に反対する行為であることを悟り、思い悩んだ末、結局はスパッとランプ売りをやめる、という話である。

 この「おじいさんのランプ」は、日本の「新しい技術に対する適応性」を象徴する話であるが、この小説が第二次世界大戦のさなかの1942年(昭和17年)に発表された作品であることは注目に値する。「常に技術は新しい技術に取って代わられる。古い技術に汲々としてしがみついてはならない。」という考え方は、別に新しい考え方ではなく、いわば日本が持つ伝統的な遺伝子のひとつと言ってもよいかもしれない。

以上

※次回「2-1-1:日清戦争から戊戌の変法まで」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-df12.html
へ続く。

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1-2-2(2/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第2部:辛亥革命以前の中国社会の特長

--第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)

(iv) 西洋の技術に対する感受性

a. 電信技術

 電信機はアメリカのモールスによって1837年に発明された。モールスはこの技術の特許を取り、1844年にボルチモアとワシントンとの間に通信回線を開設した。世界は電気通信の時代に入ったのである。1854年、2回目の渡航として来日したアメリカのペリーは、モールス電信機を日本に持ち込み、江戸幕府の役人の前で公開実験を行ってアメリカの最先端技術を日本の人々に紹介した。

(参考URL1)「逓信博物館ていぱーく」内の「NTT情報通信館」のページ
「1854年にペリーが持ち込んだモールス電子機(レプリカ)の写真」
http://www.teipark.jp/display/ntt_3f/ntt_3f_06.html

 日本は、明治維新の時期、この電信の重要性に着目しており、明治2年(1869年)には東京-横浜間に電信線を開通させている。明治4年(1871年)には、デンマークの大北(グレートノーザン)電信会社により、上海-長崎間、ウラジオストック-長崎間の国際電信線が開通し、明治6年(1873年)には東京-長崎間に、明治8年(1875年)には東京-青森間に国内電信線が開通している。

(参考URL2)国立公文書館デジタル・ギャラリー「電信路線図」
http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/category/ezu/telegraph_line.html

 前に述べたように1875年(明治8年)、日本は朝鮮に軍艦を派遣して武力で開国を要求したが(江華島事件)、この時、軍艦「雲揚」の井上艦長は、長崎に帰着してから、東京に事件の顛末(てんまつ)を電信線を使って打電した。黒船で開国を要求された日本は、わずか20数年で、その逆の立場に立つことになったのである(注1)。

(注1)その後、日本は、無線通信についても非常に早くから関心を有することになる。マルコーニによる大西洋横断無線通信実験(1901年12月)の3年半後の1905年5月、日露戦争における日本海海戦において、哨戒に当たっていた日本海軍の巡洋艦「信濃丸」は「敵艦見ゆ」との無線警報を発信した。これは、無線電信を実際の戦争で使用した世界で初めての例だと言われている。

(参考URL3)KDDI総研「R&A」1995年9月号「日本の国際無線通信事始め」
http://www.kddi-ri.jp/ja/r_a/pdf/KDDI-RA-199509.pdf

 一方、デンマークの大北電信会社は、1871年、上海と香港の間にも海底電信線を敷設したが、この電信線の敷設は清朝政府には告知されず、水中ケーブルにより上海租界に直接結ばれたものだった。この回線は、1873年、呉淞-上海間が陸上架線に切り替えられたことから清朝政府の知るところとなった。清朝政府は当初、この電信線の早期撤去を要求したが、各国からの要請により結局は黙認する形となった。

 清朝政府自身による電信線の架設計画としては、1874年の日本による台湾出兵に際しての軍事的な必要性から大陸側の福州と台湾との間の架設が検討された。ただ、この時の日本の台湾出兵は比較的短時間で終了したことから、計画された電信線は、一部が完成した時点で中断された。その後、清朝政府自身による実用的な電信線は、洋務運動の中心人物の一人であった李鴻章によって建設が進められた天津と大沽・北塘の砲台の間の電信線であり、これが開通したのは1879年だった。日本における東京-横浜間の電信線の開通に遅れること10年であった。上海-天津間の電信線が開通するのは1881年である。

 前述のロシアと清との間で起きたイリ事件(1871~1872年)の解決のためのロシアとの外交交渉において、北京政府は、ペテルブルグ-ウラジオストック-上海間に既にできていた電信線を活用してロシアの首都ペテルブルクにいる交渉団と連絡を取っていた。ペテルブルクから上海までは電信線があるのですぐに情報が到達するが、上海-北京間の情報伝達は、汽船便で6~7日、海路が不通の場合は陸路を使ったので10日程度を要したという。このロシアとの交渉の過程で、中国側もようやく電信線の重要性を認識したと考えられている(参考資料3:「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容))。ちょうど同じ頃、外国の会社(デンマークの大北電信会社)によって敷設された国際電信線に接続させるため、1973年(明治6年)に長崎-東京間の国内電信線を完成させていた日本との先端技術に対する感受性の違いは、中国にとってかなり致命的であったと思われる(注2)。

(注2)ロシアはイリ事件勃発当時(1871年)、既にユーラシア大陸を横断して首都ペテルブルクからウラジオストックまでの電信線を開通させていた。これを見ても、日本だけが先進技術を取り入れる感覚に優れていた、というよりは、中国のみがひとり当時の世界の趨勢(すうせい)から取り残されていたことがわかる。

b. 鉄道

 よく知られているように、日本の鉄道は、1872年(明治5年)9月12日(旧暦の10月12日)、新橋-横浜間で開通した(この年の5月、まず品川-横浜間で仮開通していたが、一般には新橋-横浜間の開通をもって、日本の鉄道事業の開始と言われている)。開通式は明治天皇の臨席のもと行われ、明治天皇はお召し列車で新橋と横浜との間を往復した。

(参考URL4)JR東日本旅客鉄道株式会社「鉄道の歴史」
http://www.jreast.co.jp/history/

 この日本の鉄道開業当時に使われていた蒸気機関車は10両であり、全てイギリス製であったが、製造会社が5社であったため、部品の共用が難しい、など運行開始当初はいろいろな苦労があったようである。ただし、蒸気機関車を複数の会社から導入したことは、当時の日本政府が、外国の会社に鉄道運営の主導権を握られることを嫌い、鉄道の建設と運行を基本的には日本人によって行わせようとしていたことを反映したものであると言える。

 なお、明治政府が鉄道建設を決定したのは1869年(明治2年)12月であり、当時の明治政府が、政権獲得当初から鉄道の建設を重用視していたことを表している。

 一方、中国においては、イギリスの商社(Jardine Matheson & Co.)が1876年に上海-呉淞間で開通させたのが、最初の鉄道である。しかし、この鉄道は清朝政府の承認を得ていなかったため、交渉の結果、翌1877年に清朝政府により買収された。清朝政府は、この買収した鉄道をそのまま廃止している。a.で述べたように、電信線についても、清朝政府は、1873年に外国の会社が清朝政府に無断で設置した上海-呉淞間の電信線の撤去を要求している(電信線については、各国の要求を飲む形で利用を黙認することになるが)。清朝政府にとっては、外国によって勝手に作られた電信線や鉄道は、主権侵害以外の何ものでもなく、それを買収して自ら利用しようとする発想はなかったものと思われる(参考資料3:「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容))。

 清朝政府自身のイニシアティブによる鉄道は、洋務運動の中心人物・李鴻章によって石炭輸送のために建設が進められた唐山-胥各荘(日本語読みで「しょかくそう」)間の唐胥鉄路が最初である。この鉄道が開通したのは1881年であった(日本の新橋-横浜間の鉄道開通に遅れること9年)(参考資料3:「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容)))。

 李鴻章は、この後も鉄道建設を進めようとするが、清朝政府内の官僚等による鉄道建設反対の強い意見に会うことになる。この鉄道反対論については、現在、「西太后が多くの資金を必要とする鉄道建設に後ろ向きだった」とか「鉄道建設を進めると風水が乱れる」「機関車を走らせることにより歴代の皇帝廟の安寧が保てない」といった時代の状況を理解しない非科学的な保守的考えによるもの、と一般には言われている。中国中央電視台が放送したドキュメンタリー・シリーズ「復興之路」でも、こういった考え方に基づき、当時の清朝政府の対応について「鉄道開通式に臨席し、洋服を着、靴を履いて自ら率先して列車に乗った日本の明治天皇との違いは覆うべくもない」との嘆きを隠していなかった。

 こういった見方に対して「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容))(参考資料3)の中で著者の千葉正史氏は、そういった保守的発想からの反対論は実際あったとしても、国家にとって輸送体制の整備が重要課題であることは清朝政府の官僚たちもわかっており、問題はそんなに単純ではなかったはずだ、と述べている。千葉正史氏は、中国においては、古くから運河による輸送システムが充実しており、水運による大量輸送が可能な地域が多く、そういった水運輸送に携わる多くの関係者が鉄道の敷設を自らの事業に対する脅威だと受け取っていたという背景があることを指摘している。

 日本には、鉄道に対抗するような大量輸送に適する交通手段は存在せず、鉄道建設に対する「抵抗勢力」は存在しなかった。明治時代、日本にも「鉄道が機関車の火の粉で稲が枯れる」といった非科学的な鉄道反対論はあったと言われており、19世紀後半において中国だけが保守的・非科学的な発想に基づく鉄道反対論が強かった、と考えることは正しくない。日本と異なり、運河水運の発達していた当時の中国では、鉄道開通によって職を追われる人々が多数おり、それらが「抵抗勢力」になり、彼らが鉄道反対論を主張する清朝政府の官僚たちの後ろにいたのである。従って、中国の鉄道の導入が日本より遅かったことが、単に先進技術に対する感受性の違いとだけ捉えるのは必ずしも正しくない。

(v) 西洋の技術導入と政治システム導入との関連

 (iv)では、「西洋の技術に対する感受性」というタイトルで、電信と鉄道の導入に関する19世紀後半における日本と中国との状況について述べた。「電信」と「鉄道」は、単に技術導入という観点だけではなく、中央政府による中央集権的な全国統治機構の道具としての役割が非常に重要であった。

 日本では、電信は開設当初から逓信省が管理する国営の事業であったし、中国においても清朝政府により敷設された電信線については、清朝政府が管理していた。

 鉄道については、日本でも中国でも。多くの鉄道は当初の段階では、国による鉄道経営と営利目的の民営事業とが併行して進められていたが、鉄道事業の伸展に伴い、国家としての鉄道経営の重要性が認識されるようになり、鉄道事業の国営化が議論されるようになる。日本においては、日露戦争後の1906年(明治39年)、鉄道国有化法が成立し、基幹路線の鉄道が国有となった。中国においても1911年、清朝政府は幹線鉄道の国有化を決定するが、ちょうどこの年、辛亥革命の発端となる武昌蜂起が起こり、中国における鉄道の国有化は混沌の時代に入っていくことになる。

 電信と鉄道を管理することの重要性は、列強各国も十分承知しているところであったので、列強各国は、電信線と鉄道を自らの資金で設置するとともに、自ら設置した電信線と鉄道を守るという名目で軍隊を中国に派遣して、中国政府自身による中国国内の支配力を骨抜きにしていった。

 日本においても電信(通信)と鉄道が政府による中央集権的統治の道具である、という認識は明治政府成立当初からあった。江戸時代の各藩による各地域内の地主階層に対する支配を廃止し、中央政府が直接地方の有力者をコントロールするため、明治政府は廃藩置県を行うとともに、各地域の地主階層を「特定郵便局長」という実質的に世襲制の国家公務員に任命し、中央政府の指令を地域に伝達させる役割を果たさせることで、中央政府が直接地方の末端組織を掌握できるようにした。日本で、電信(電話)事業と幹線鉄道事業が国営から離れ民営化されたのは1980年代であり、郵便事業が国営を離れて民営化されたのは、21世紀になってから行われた小泉改革の中であったことは、読者諸氏もよく御存じのところである。電信(通信)と鉄道の問題は現代に連なる問題なのである。

 このように電信(通信)と鉄道の導入は、単なる技術導入の枠を超えて、政府による統治システムの導入という意味合いも含んでいた。19世紀後半の日本においては、こういった西洋の技術と併せて通信、運輸のシステム自体を導入するとともに、政治、法律の点でも、議会制度の上に立つ立憲君主制の導入を順調に進めていったのに対し、中国においては清朝政府の保守性と列強各国からの干渉により、システムの導入がスムーズに行かなかったことが、日中間に近代化へ向けての決定的な差を生じさせることになってしまったのである。

以上

※次回「1-2-2(2/2):【コラム:最新技術の導入とそれに対する『抵抗勢力』】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a824.html
へ続く。

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2010年1月13日 (水)

1-2-2(1/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第2部:辛亥革命以前の中国社会の特長

--第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)

 2007年秋、中国中央電視台は「復興之路」と題するドキュメンタリー・シリーズ番組を放送した。この番組は、最近の経済発展により、中国は、アヘン戦争以前の中国のように、世界の中で大きな発言権を持つ国に復帰しつつある、その復興の過程をもう一度認識してみよう、という歴史ドキュメンタリー番組であった。

 このテレビ番組シリーズの第1回では、19世紀後半の中国と日本との違いについて取り上げていた。日本では、1868年の明治維新の後、西洋の技術や知識を取り入れて、急速な改革と国力の増強を図っていった。中国でも、日本より若干早い時期(1860年頃)から、前節で書いたように、当時清朝政権下で、「洋務運動」と呼ばれる開明派官僚らによる西洋の技術と知識を取り入れる運動が始まっていた。この「洋務運動」は、欧米列強による侵略に対処するため、新しい軍事力を整えることがその大きな目的であった。しかし、1894年の日清戦争の結果、中国は日本に敗北を喫することになる。中国は、それまで歴史的な世界国家としての大きな力を持ち、日本より早い時期から改革をスタートさせていたにもかかわらず、なぜ日本に負けてしまったのか、という問題意識がテレビ番組「復興之路」第1回で提示された大きなポイントであった。

 どの国においても、その近代化の過程において、それぞれの国々の科学技術の状況がどうであったかは重要な問題である。そこで、20世紀における中国の革命の歴史について述べ始める前に、19世紀後半における日本と中国の政府と科学技術を巡る状況の違いについて整理してみることとしたい。

(i) 中央政府の状況

 日本の政治状況は、1853年の黒船来航以来、幕末の混乱期に入るが、14年後の1867年には江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還し、翌1868年(明治元年)には王政復古の大号令が出されて、明治新政府が発足した。1877年(明治10年)の西南戦争などがあり、明治政府の統治体制が確立するのに若干の時間は要したが、基本的に日本は比較的短時間で、政権の空白期間なく、新しい体制へと移行することに成功した。

 それに対し、中国は1840年のアヘン戦争以降、列強各国の干渉を受け、中央にあっては清朝政府が弱体化したため、太平天国の乱(1851年~1864年)をはじめとする国内の混乱が続いた。清朝政府は、1864年には太平天国の乱の平定には成功したが、この時既に清の朝廷の実権を握っていた西太后(1861年に5歳で即位した同治帝の母親)は、自己の権力の維持にのみ関心を示し、世界の情勢を理解していなかったため、欧米列強各国による干渉を防ぐことができず、清朝政府は中央政府としての機能をほとんど失っていたと言って差し支えない。西太后は、1908年に死ぬまで47年間に渡って清朝政府で権力を振るうことになる。

 北京の観光コースのひとつにユネスコの世界遺産に指定されているイ和園(イは「臣」へんに「頁」=いわえん;イーフーユェン)がある。ここは歴代皇帝の別荘地だったところだが、アロー号戦争の時(1860年)に北京に侵入した英仏軍によって焼き払われた。西太后は、1886年、海軍費用を流用して、この別荘地を改築し「イ和園」と名付けた、と言われている。さらに故宮博物院の「珍宝館」に行くと、日清戦争の前後の西太后の時代に作られたという巨大な宝石で作られた置物などを見ることができる。当時の清朝政府の支配権を握っていた人々は、当時の政府が持っていた経済力をこういった別荘や巨大な宝石の置物につぎ込んでいたのである。

 一方の当時の日本は、「富国強兵」のスローガンの下、産業振興と軍事力の整備に政府が持つ資源を集中的に投入していた。その方向性が正しかったかどうかという議論は別にしても、中央政府が一定の政策意志を持って、その資源を活用することができたのかどうか、という点が、当時の中国と日本との違いの根本であった。

(ii) 諸外国の干渉

 中央アジアのイリ地方の支配を巡る清とロシアとの抗争事件(イリ事件:1871~1872年)、ベトナムの宗主権を巡って清がフランスと戦って敗れた清仏戦争(1884~1885年)など、清はこの時期、自らの勢力範囲内に対する列強各国からの干渉を受けていた。

 一方の日本は、諸外国からの干渉を防ぐという意味では、島国であることが有利に働いた。日本は、列強各国からの干渉を防ぐとともに、逆に日本と清との両方に従属する形を取っていた琉球に対して領有権を主張し(1871年(明治4年))、自国の勢力範囲を確定した。さらに1874年(明治7年)には台湾に漂着した琉球島民が台湾住民に殺害された事件をきっかけとして台湾に出兵するなど、「干渉する側の国」として行動し始めることになる。日本はこの時期、朝鮮に対しても軍艦を派遣して開国を要求する江華島事件(1875年(明治8年))を起こしている。こられは、日本が早くも「列強」のひとつとしての行動を起こし始めたことを示している。

 日本は、外国からの干渉を防ぐために、自らより弱い立場にあった周辺諸国に干渉することによってアジア地域における発言権を高めようとしていたのであった。

(iii) 外国からの干渉に対する国民意識の問題

 日本が明治維新に際し、いろいろな混乱はあったものの、結局は短い時間で政権の移行ができたのは、「国内で争っていては諸外国からの干渉を受け、日本の独立が危うくなる」という危機意識が江戸幕府内部も含めて日本国内の全ての人々の共通認識としてあり、国内で対立があったとしても、最後の最後には「日本を外国による支配から守る」という点で認識が一致し、妥協が成立したためと思われる。

 それに対して、中国の場合、当時の中央政府の清王朝は満州族の王朝であり、国民の大部分を占める漢族の中には、「いつかは漢族による中央政府を打ち立てたい」という思いがあり、外国勢力から自国を守りたいという愛国的感情には、日本よりはかなり複雑なものがあったと思われる。漢族の人々にとっては、列強各国が中国の国土を侵略することは許さない、という気持ちがあったとしても、中国の国土を守ることと清王朝を守ることとは素直に一致しているものではなかったのである。清王朝の末期、清王朝がアヘン戦争やアロー号戦争で窮地に立たされていた時、例えば、太平天国のような運動が盛り上がり、一時的に地域的には独立国のような支配を可能にした背景には、このような複雑な国民感情があったものと思われる。

 現在でも、中国では多くの民族の融和が極めて重要な政治課題であるため、民族間の対立感情に触れる問題について議論することは、中国国内ではかなりナイーブな問題である。そのため、あまり公式の場ではおおっぴらに議論されることは少ないが、19世紀後半において清王朝を倒し漢族による中央政府を打ち立てたいと考えていた人々の中には、清王朝を倒すためには外国勢力を利用することも選択肢のひとつと考える人々がいたことは間違いない。

 1900年の義和団事件においては、反乱を起こした人々は「扶清滅洋」(清を助け外国を排斥する)をスローガンとして掲げた。このため、当時の西太后政権は、この義和団勢力側を支持することになる。政権側が民衆によって起こされた反乱を支持するという奇妙な構図が出来(しゅったい)したのは、裏返せば、当時外国勢力を利用して清政府を倒そうという考えのグループが存在し、清朝政府が、義和団勢力を利用してそういった反清勢力に打撃を与えたいと考えていたためと思われる。

(「第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)」へ続く)

以上

※次回「1-2-2(2/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/19-c39b.html
へ続く。

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2010年1月11日 (月)

1-2-1:19世紀の中国・ロシア・日本の状況

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第2部:辛亥革命以前の中国社会の特長

--第1節:19世紀の中国・ロシア・日本の状況

 中国における共産主義革命を語るには、まず、革命前の状況がどうだったを理解することが重要である。というのは毛沢東が指導した共産主義革命には、以下の3つの意味付けがなされるからである。

a. 資本家階級・地主階級(ブルジョアジー)の支配から労働者・農民(プロレタリアート)を解放する社会主義革命

b. 前近代的で封建的な支配体制を廃し、国民の平等と基本的人権を確立する近代化革命

c. 外国による支配を脱し(外国による支配を防ぎ)国家の自立を果たす独立革命

 レーニンが指導したロシア革命は上記のa.とb.の性格を併せ持っている。日本に関して言えば、明治維新がb.とc.の意味を持った革命のような性質を持ったものであったと言ってよいであろう。

 ロシア革命も明治維新も、そして中国の革命も、欧米列強国が支配していた19世紀の世界において「やや遅れた」地域にあったこれらの国々に与えた影響の結果であった。そこで、まず、ロシア、日本、中国の近代化以前の姿を簡単に眺めてみることにしたい。

(i) 帝政ロシア

 ロマノフ王朝下のロシアは、典型的な絶対主義王政の国であり、皇帝が絶大な権力を握り、皇帝が貴族を支配し、多くの一般農民は各貴族が持つ所領の農奴として、貴族の支配を受けていた。19世紀前半の時点で市民革命と産業革命を成功させ、近代化のひとつの区切りを終えていた英仏に対し、ロシアは古い絶対王政を維持していた。しかし、1812年のナポレオンのロシア侵攻等により、ヨーロッパの市民革命を指導した思想(いわゆる「啓蒙思想」)はロシアにも深く浸透していた。そうした背景の下、啓蒙思想に刺激を受けた開明派貴族による絶対主義王政反対の騒乱も相次いだ。1825年に起きたデカブリストの乱がその典型的な例である。

 啓蒙思想の刺激を受けた開明派貴族は、ロシアで後進的な体制が続くと、ナポレオンによる侵攻に見られるように英仏に圧迫される、という危機感を持っていた。彼らは、英仏の市民革命は、市民のエネルギーを貴族社会の縛りから解放し、産業革命を推進した各種技術革新と相まって、ヨーロッパ世界における英仏の優位性を急速に高めたと認識していたのである。やがてロシア皇帝自身もクリミア戦争でその危機感を共有することになる。

 クリミア戦争(1853年~1956年)は、バルカン半島で南方への勢力拡大を図るためトルコを圧迫したロシアに対し、トルコと英・仏等が連合して戦った戦争である。戦争中にロシアの帝位に就いたアレキサンドル2世は、結局この戦争に敗れ、英仏の優位性を身に染みて知ることになる。古い農奴制が国力増強の妨げになっていると考えたアレキサンドル2世は、国内の不満を力で押さえ付けることによる下からの革命を恐れたこともあり、1861年に農奴解放令を発した。このロシアの農奴解放令は、農民が補償金を領主に支払った上で農奴を解放する権利を皇帝が農民に与えるという「上からの改革」であった。農奴解放が実質的に進むよう、補償金を支払えない農民に対しては、国家が補償金を一時的に立て替え、農民が長期間にわたって国家に返済するという形を取っていた。

 この農奴解放令は、農民を農奴から解放する道筋を開いたものであるが、補償金を払った上でないと解放されない、という制度の下では、経済力の弱い農民の農奴状態からの解放は遅々として進まなかった。しかし、不徹底とは言え、皇帝自らが旧来の体制を変える姿勢を示したことの意味は(特に下記に述べる中国との比較において)留意すべきことである。また、補償金を得た一部の貴族階級がそれを資金として工業資本家に変化するなど、農奴解放令はロシアに資本主義を芽生えさせるためにも一定の役割を果たした。

(ii) 江戸幕府政権下の日本

 19世紀前半の日本は江戸時代であったが、江戸幕府の統治システムは中央集権的な絶対主義王制とは全く異なっていた。そもそも日本には天皇制度という独特の政治システムがある。天皇は、実質的に政治権力を持つ者(例えば江戸幕府の将軍)に政権を持つ正当性の承認を与える「権威付けを与える者」であり、自らは政治権力は持っていなかった。

(注1)天皇は、ヨーロッパの国王や中国の皇帝とは異なり、「政治権力者」そのものではなく、政治的権威の象徴でしかない、という点は、日本の政治システムを考える上で一貫して重要なポイントである。こういった日本の天皇制度の歴史的本質を明確に法文化したのが、現行憲法下の象徴天皇制であることは言うまでもない。

 武家政治は、こういった天皇制の下で、天皇から任命された征夷大将軍が各地方を分割支配する大名たちを武家の頭領として管理監督する、という制度であった。天皇の下では将軍家と各地を支配する大名とは武家という意味では観念的には同列だった。徳川将軍家は天皇の前では武家集団の中の最も有力な武家という位置付けに過ぎなかったのである。このため、各地を分割支配する大名が各地域を支配する際の政治的独立性は非常に高かった。独立性の高い各藩は将軍家にとっては大きな脅威であることから、江戸幕府は、各藩の大名の妻子を江戸に置き、大名自身に定期的に江戸に参勤交代させる義務を課したり、問題を起こした藩を容赦なく取りつぶすなどして、各藩が江戸幕府に反抗しないようなシステムを形作っていた。

 各藩の独立性が高い、という江戸時代の状況は、欧米列強からのアプローチが始まった19世紀中頃の日本においては、欧米列強による支配を防止するという観点では、有利に作用した。自分の藩の力を高めるためなら、西洋の技術や知識についても自らの判断で積極的に取り入れようと考える藩がいたからである。特にアヘン戦争(1840年)で清がイギリスに敗れたという情報が伝わり、日本周辺にも欧米列強の船がたびたび出没するようになると、自分の藩の存立基盤である日本国自体が外国に押しつぶされるかもしれないとの危機感を持って藩の力を高めようとする藩も現れた。そうした危機感が高まっていた中、1853年の黒船来航がきっかけとなって日本は明治維新へと一気に進んでいくのである。

(注2)黒船来航が眠っていた日本を叩き起こした、というイメージを持つ人が多いが、一部の藩では黒船来航の前から、危機感を持って外国の技術や知識を吸収しようとしていたのである。佐賀藩では、1852年(黒船来航の前年)、洋式大砲鋳造に必要な反射炉を完成させている。この時期、日本は決して「眠っていた」わけではなく、多くの人々が危機感を持って外国の技術や知識を導入しようとしていたのである。黒船来航は、そういった日本国内に溜まっていたエネルギーを一気に放出させるひとつのきっかけに過ぎなかったのである。

(iii) 清朝時代の中国

 清朝時代の中国は、皇帝をトップとする中央集権国家であった。その意味ではヨーロッパの絶対主義王政と似た体制であるが、地方を支配する有力貴族の存在の有無という点で違いがあった。ヨーロッパの絶対主義王政は、単純化すれば、国王>各地に領地を持つ有力貴族>一般人民というピラミッド型の支配体制である。中国でも、歴史上、同じような体制を採った王朝はあったが、地方に領地を持つ有力貴族層が存在すると、中国は国土が広いので、各地を支配する有力者たちが連合すると、皇帝をしのぐ勢力になる可能性が常に存在する。皇帝による中央集権体制を維持するためには、地方に基盤を持つ有力者を無力化しておく必要があった。そのために考え出された制度のひとつが科挙制度によって中央に採用された官僚による支配である。

 試験によって選抜された官僚を皇帝の命令により各地に派遣し、その官僚によって各地方の有力者を抑えることが科挙制度の目的である。地方に派遣された官僚は、一定の任期が終了した後は後任者と交代させされ、中央や別の地方でさらに上のポストに就任した。中央の命令で派遣され定期的に交代させられる官僚に地方を支配させておけば、地方を地盤とする有力者の勢力拡大を防止することができる。

 この科挙制度は、皇帝による中央集権体制を維持するには非常に有効だった。そのため、科挙制度は、隋の文帝(日本の聖徳太子の時代)が始め、唐代に確立した制度なのだが、結局はその後、20世紀の1905年に廃止されるまで約1300年間続くことになる。

 アヘン戦争(1840年)当時の中国が、ロシアや日本と異なる点は、地方には「地主」はいたが、地方地主の持つその地域を支配する政治的権力基盤が弱かったことにある。ロシアには地方を支配する貴族の中に開明的な考えの者がいたし、日本には薩摩藩、土佐藩などに開明的な藩主がいたが、それらに相当する地方の有力者が中国にはいなかった。アヘン貿易を厳しく取り締まった林則徐のような憂国の官僚はいたが、彼らはあくまで清朝の官僚であり、自らの意志で何かをなすのに必要な政治的組織と経済的基盤を持ってはいなかった。

 中国は、アヘン戦争に引き続いて起こったアロー号事件(アロー戦争:1856年~1860年)において、英仏両国軍に北京を占領され、円明園を焼き討ちされる事態を招いた。この中央政府が弱体化していた時期、中国の地方に有力支配者層が存在していなかったことは、一部の地方に権力の空白を生み出した。その空白を衝いて、1850年、キリスト教の思想を背景とした洪秀全が貧農・手工業者を組織して反乱を起こし、翌1851年には「太平天国」という国号を称するようになる。「太平天国」は1853年には南京を占領して、ここを首都とし、1864年に清朝側に鎮圧されるまで続いた。

 こういった「内憂外患」の状況の下、中国にも、危機感を持った曾国藩、李鴻章、左宗棠らの開明派の官僚が現れる。しかし、彼らも林則徐と同じようにあくまで官僚であって、憂国の想いと改革の意志を持っていたとしても、日本でいう薩摩藩や土佐藩のような政治的パワーを発揮できる組織体と経済力を持っていなかった。彼らが、具体的な対策を講じようとすれば、清朝の政府組織を使い清朝政府の資金を使うほかはなかった。ところが当時の清朝の朝廷では、アロー号事件の混乱の中で、改革には見向きもしない西太后が権力を握り始めていたのである。

 清朝朝廷内での保守派の抵抗の中、開明派の官僚たちは、アロー号事件の直後の1860年頃から、清朝政府の組織と資金を使って、西洋の技術を取り入れるため、海外への留学生の派遣や官営軍事工場の建設、西洋科学書の翻訳などを始めた。これを「洋務運動」と呼ぶ。

 洋務運動のスローガンは「中体西用」であった。中国の体制はそのままにした上で西洋の技術を用いて外国と対抗しようという発想であった。日本でも同じように明治初期には「和魂洋才」といった言葉が使われたが、日本では、単に技術や知識を導入するだけでなく、明治維新により政治体制を一新し、軍隊のシステム、憲法の制定をはじめとする法律制度や立憲君主制の導入など、各種の政治システム・社会システムも西洋のものを積極的に導入した。それに対し、中国の洋務運動は、清朝という古い体制をそのままにした状態で、軍艦や軍事技術などだけを西洋から取り入れようとするものだった。この日本と中国との違いは、1894年の日清戦争による敗北で、中国に大きなショックを与えることになる。

以上

※次回「1-2-2(1/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)」
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へ続く。

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2010年1月10日 (日)

1-1-2:「社会主義」と農民・土地との関係

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第1部:中国における「社会主義革命」とは何だったのか

--第2節:「社会主義」と農民・土地との関係

 次に、社会主義と農民・土地との関係について若干説明をしておく。というのは、中国の共産主義革命は、革命の推進主体が農民であるという「農民革命」としての側面が強く、中国の共産主義革命を理解するためには、社会主義と農民・土地との関係を理解する必要があるからである。

(i) プロレタリアートの一部をなす者としての小作農民

 中国共産党は、自らが実現した中国の共産主義革命について、マルクス、エンゲルスが唱えた共産主義革命の思想、それを実行に移したレーニンによるロシア革命の延長線上にある革命と位置付けているし、多くの人もそう思っている。それは一面では誤りではないが、一方で、中国共産党が指導した革命は、農民を地主階級による支配から解放することが主たる目的であり、マルクス、エンゲルス、レーニンらが思い描いていた革命、即ち、都市部の工業を支える労働者が工業資本家を打倒して新しい社会を作るための革命とは、その道筋がやや異なるものだった。従って、中国共産党による革命の特徴を理解するためには、まず社会主義と農民・土地との関係をまず理解しておく必要がある。

 前節で述べたように、そもそも社会主義とは、産業革命による大規模工場経営によって生じた資本家階級と労働者階級の分化が、結果的に「人は生まれながらにして平等」「労働の程度に応じて報酬を受ける」という市民革命の基本理念に反する状況を発生させたことに対する反発の中から生まれた。従って、初期の段階において、社会主義を目指す人々が「解放すべき人々」として認識していたのは、都市に住み工場で働く労働者であった。農民は、社会主義が唱えられるようになった19世紀のヨーロッパにおいても人数的には一般人民の中では大きな割合を占めていたが、自作農は土地という財産を持っており、必ずしも「社会から虐げられている人々」の中に入るとは思われていなかったので、農民全体を「解放すべき人々」という範疇でくくることは難しかったからである。

 従って、マルクス、エンゲルスがまとめた「共産党宣言」では、資本家階級を表す言葉として「ブルジョアジー」、労働者階級を表す言葉として「プロレタリアート」という言葉を使っているが、「農民」は、ブルジョアジーやプロレタリアートとは別の存在の人々として扱われている。マルクス、エンゲルスにとって、解放すべき「プロレタリアート」とは工業労働者であり、打倒すべき「ブルジョアジー」とは工業資本家だったのである。

 一方、毛沢東が指導した中国共産党の革命では、自分の土地を持っていない小作農を工場労働者と同じ「虐げられた人々」として扱い、革命の主体となるべき者、と位置付けた。また、土地を私有しているが自らは耕作せずに小作農から小作料を取り立てている地主は、工業資本家と同じ「打倒されるべき人々」として扱われ、革命における攻撃の対象と位置付けられた。従って、中国革命においては、プロレタリアートとは工業労働者と土地を持たない小作農の両方を指し、ブルジョアジーとは工業資本家と大地主の両方を指す。中国語において、プロレタリアートの訳語として「無産階級」、ブルジョアジーの訳語として「有産階級」という言葉を使うことにも、そういった考え方が現れている。

 このようにヨーロッパやロシアと中国とでは「ブルジョアジー」「プロレタリアート」という語が意味する範囲が異なるが、本稿では、中国での革命を記載する都合上、「ブルジョアジー」を工業資本家と農業における大地主の両方を含む概念、「プロレタリアート」を工業労働者と土地を持たない小作農の両方を含む概念として取り扱うことにする。

(ii) 農地における「土地所有権」の発生と地主・小作人関係の成立

 社会主義と農民・土地との関係を考えるに当たって、まず土地(農地)所有のあり方の問題と農業が持つ他の産業と異なる特徴について考えておく必要がある。

 「所有権」とは、一般に「そのモノを自由に利用したり処分(譲渡や売却)したりできる権利」として捉えられている。この考え方をそのまま土地に適用すると、土地所有者は、その土地に対する処分権を発動すれば、土地の上で居住したり産業活動をしたりしている人々を追い出すことも可能となる。従って、歴史的には、土地所有権とその土地の上にいる人々に対する政治的支配権とは、ほとんど同義語であった。

 近代国家では、こうした土地所有者が持つ強力な権原を抑制するため、様々な土地所有権に対する制限を設けている。例えば、日本では、農地法により農地は原則として耕作者自身以外が所有することができないことにして地主・小作人制度を事実上禁止しているし、借地借家法により地主が土地所有権を盾にして借地人・借家人を追い立てすることに対して厳しい制限を設けている。それに対し、現代の中国では、土地の「使用権」は自由に売買できるが、土地の「所有権」は国または村などの地方の集団が持っているため、政府が土地所有権に基づく土地の収用を強行し、その土地の上に住んだり、その土地を耕作したりしている住民・農民の反発を招く事件が頻発している。土地の所有権と使用権との調整は、中国では、今まさに一番ホットな課題なのである。

 日本でも、借地借家法がいろいろな議論の後で現在の形に落ち着いたのはごく最近(1991年)のことである。農地については、農地の所有権とその農地における耕作権を分離して、農地所有者でない者が耕作を行うことも認めるべきだ、といった議論も行われている。日本においても土地の所有権と使用権の調整の問題は、今でも重要な政治課題であると言える。

 そもそも土地に対する権利が政治的な意味での「支配権」ではなく、経済的な意味での「所有権」の一種として認識されるようになるのは、貨幣経済が発達し、土地を利用する権利を貨幣で売買しようという発想が生まれてから後のことである。貨幣経済が発達した都市部においては、居住用の土地の所有権の売買や賃貸はかなり前から行われてきたが、農地に関する権利が経済的な「所有権」として認識されるようになるのは、西ヨーロッパでは市民革命後、ロシアでは農奴解放令(1861年)の後、日本では明治維新の際の地租改正(1873年)の後のことである。それ以前は、農地は、所有権を持った地主が所有していた、というよりは、貴族や領主などがその土地を支配していた、と表現した方が正しい。

 貨幣経済が農村部に浸透する以前は、支配者たる貴族や領主は、支配している土地の範囲内にいる農民に耕作させ、年貢という形で生産物の一部を徴収していた。土地に対する支配権は、貴族や領主が戦争をすることによって他の貴族・領主との間で奪ったり奪われたりすることによってのみ移転した。ところが貨幣経済が農村部に浸透すると、経済的に困窮した貴族や領主は、他の裕福な貴族や領主から一定の貨幣を受け取った上で土地支配権を売却する例が出始めた。また、自らも一部の土地で耕作を行っている最下層の貴族や領主の中には、経済的に苦しくなって自分が耕作している部分以外の土地を他者に売却し、支配していた農民を失う(自らは自作農となる)者も出始めるようになった。この段階になると、貴族や領主と農民との関係は、政治的な支配者と被支配者との関係ではなく、土地を貸し与えて耕作をさせ小作料を徴収するという経済的な意味での地主と小作人との関係に自然に移行していくことになる。

 地主・小作人関係の発生は、産業革命とは直接関係しないが、産業革命による貨幣経済の発達とその農村部への浸透が、農村における貴族・領主と農民との関係を地主と小作人との関係に変化させていった、という意味では間接的には関係している。従って、工業労働者(マルクスやエンゲルスが言っている狭い意味でのプロレタリアート)の発生の時期が農村部における小作人(広い意味でのプロレタリアートの一部をなす)の発生の時期と重なっていた、ということができる。

(iii) 農業が持つ他の産業と異なる特徴

 そのほか、以下に述べるような農業が持つ他の産業とは異なる特徴にも留意しておく必要がある。

 農業では一定規模の広い面積がないと効率的な収益は得られない。究極的に労働効率のよい農業のやり方は、現在、アメリカで行われているような広大な土地で大規模な機械を用いて耕作するような方法である。機械化する以前の段階であっても、一定規模(例えば農家1戸あたり1ヘクタール)以上の広さがないと効率的な農業生産はできない、と言われている(注)。一方、農業技術が進歩し、食料生産に余裕が生まれると、農業人口は増加する。新たな農地開拓が行われない限り、人口が増えれば、その分、農地は多くの農民に分割されることになる。例えば、農家に複数のこどもが生まれれば、これらこどもが全て農民のままでいるのであれば、農地を分割相続することになるので、こどもの時代になれば、一人当たりの農地面積は親の時代よりも狭くなってしまうことになる。

(注)中国は農家人口が多く、現在でも中国の農家一戸あたりの農地面積は約0.5ヘクタール(日本の半分以下)である。このことが中国の農業に大きな問題を与えている。

 効率的に生産できる面積を下回るような小さな面積に分割された農地を受け継いだ農民は、効率的な農業生産ができないために経済的に困窮し、最終的には農地を放棄して農村を離れざるを得なくなる。自作農の中にも、持っている土地の面積が分割相続を続けていくことにより農業生産ができる最低限の面積を割り込んだ場合には、土地を地主に売って小作農に没落したり、農業を放棄して農村を出ざるを得なくなる者も出始める。

 このようにして、時代が進むにつれて、農村から都市へ移住する労働者の増加、自作農の小作農への没落と強力な地主への土地の集中(地主の大地主化)が進むことになる。

 農業においては、共同農作業や灌漑施設などの共通インフラ整備を行うに際して、例えば「村」や「集落」の単位で、共同作業を行うことが必要な場合が多い。即ち、産業としての農業は、居住単位としての「村」「集落」の形成と密接に関係している。これがプライベートな生活空間とビジネスとしての仕事とを分離することが可能な他の産業とは異なる農業が持つ特徴のひとつである。

 小規模な土地を持つ農家が集まって農村を形成している場合、特に植え付けや収穫などの時期においては、各農家が独自にバラバラで農作業をやるよりも、一定の数の農家同士が協力してお互いに助け合って作業した方が効率的な場合が多い。また、灌漑用設備など、複数の農家同士が協力して共通インフラを整備した方が効率的なケースも多い。共同で農作業を行い、灌漑用水など共通インフラを整備したりする際には、同じ立場の自作農が集まっているケースよりも、誰かがリーダーシップを発揮して、全体をまとめる方がやりやすい。そのため、自作農がバラバラに存在するよりも、大地主がいてリーダーシップを発揮して小作人に作業をやらせる方が効率の点で有利な場合がある。こういった農業の持つ特質も、土地所有が大地主に集中することを後押ししていたと考えられる。

 上記二つの「世代交代に伴う農地の分割」と「共同農作業と共通インフラの整備の有利性」の問題は、中国の共産主義革命の過程で様々な農業政策改革・土地制度改革を行っていく上で常に問題になってきており、現在でも、重要な課題であり続けている。

 これら社会主義と農地・農民との関係を踏まえた上で、以下、中国における共産主義革命の過程を見ていくこととするが、まずその前に中国革命が起こる前夜の中国の状況を見ておくことにする。

以上

※次回「1-2-1:19世紀の中国・ロシア・日本の状況」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/19-8b87.html
へ続く。

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2010年1月 9日 (土)

1-1-1:そもそも「社会主義」とは何を目指したものだったのか

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第1部:中国における「社会主義革命」とは何だったのか

--第1節:そもそも「社会主義」とは何を目指したものだったのか

 まず、中国の共産主義革命の歴史を語る上で、大前提として「社会主義とは何か」「共産主義とは何か」を押さえておく必要がある。世界が東西冷戦構造で規定され、日本の政治が自民党対社会党という構図(いわゆる55年体制)で成り立っていた頃は、みんな「社会主義とは何か」などについては当然のこととして知っていた。しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊して東西冷戦が終了し、1990年代半ばに日本の政治でも55年体制が終わりを告げてから、特に若い人たちの中には「社会主義とは何か」を改めて考える機会が今までなかった人もいるかもしれない。そこで、中国の現代史について話を始める前に、「そもそも社会主義とは何ぞや」についてまとめておくことにしたい。

 かなり基礎的な内容なので、一定年齢以上の人に取っては「あくびの出る話」であるかもしれない。しかし、現在の日本やアメリカをはじめとする西側各国の体制は、「社会主義的施策を盛り込んだ修正資本主義」と言えるものであるので、現在でも社会主義の考え方は日々の政策決定に重要な役割を果たしており、ここで改めて「社会主義とは何か」について考えることも悪くないことだと私は思っている。

 まず本論に入る前に用語の使い方についてひとこと申し上げておく。本稿は、社会主義に関して論ずる学術論文ではないので、あまり厳密に用語を定義するつもりはない。用語について説明が必要な場合は、その用語が出てきたときに適宜説明することとする。ただ、「社会主義」と「共産主義」との関係についてだけは、前もって説明しておきたい。本稿では、「共産主義」が最終的な理想的形態であって、「社会主義」は「共産主義に至る少し前の不完全な段階の政治形態」を表す言葉として使うこととする。従って、本稿において「社会主義化」と「共産主義化」は同じ方向への変化を表すので、同じ意味であると考えて頂いて結構である(注1)。

(注1)「社会主義」という用語は、使われている国や時期によって意味が異なるケースがあるから注意を要する。

 さて本論であるが、社会主義について語るためには、まず17世紀のイギリス、18世紀のフランスで起きた政治レベルでの市民革命と経済レベルでの産業革命について述べる必要がある。17世紀のイギリスで起きたピューリタン革命と名誉革命、18世紀にフランスで起きたフランス革命により、これらの国々ではそれまでの王族と貴族からなる支配構造を持っていた絶対王政による支配が終了し、議会民主制が誕生した。議会民主制の基本理念は、まず「人は生まれながらにして平等である」ということにある。つまり、王族や貴族のような特権階級は存在せず、人は生まれる時は、皆、等しく平等なところからスタートする、という考え方である。この考え方から導き出される経済的理念としての「人はその人の労働の程度に比例した報酬を受けるべきである」という考え方も市民革命の理念のひとつである。これは王族・貴族は生まれながらにして王族・貴族なので何の労働をしなくても優雅な生活を保障されるが、そのような制度は不公正である、という発想から生まれたものである。

 これら二つの基本理念は、現代まで続く基本理念といって差し支えない。例えば、「人は生まれながらにして平等である」という理念は多くの国が憲法で定める基本原理であり、「人はその人の労働の程度に比例した報酬を受けるべきである」という理念も、「働かざる者食うべからず」という諺に表現されれているように、世界の広い地域で古くからある基本的な倫理観である。

 「人は生まれながらにして平等」「労働の程度に応じて報酬を受ける」という二つの理念を確立した市民革命は、やがて蒸気機関の発明等によって進められた産業革命によって、その具体的な経済的効果を社会の中で発揮するようになる。即ち、王族・貴族として生まれなくても、資本家になり、産業革命の成果を利用した工業の経営に成功すれば、巨額の富を手に入れることができ、それまでは王族・貴族しか味合うことができなかったような優雅な生活を手に入れることができるようになったのである。議会制民主主義制度により、こういった富を得た資本家階級の人々は政治的にも発言力を増していくことになる(注2)。

(注2)19世紀以降、議会制民主主義制度により、自国産業の原料と製品の市場を求める資本家の意見が政治に反映されるようになり、ヨーロッパ各国によるアジア・アフリカの植民地分割がより強力に推し進めてられていくことになった。このことから、アジア・アフリカ諸国(中国も含む)の人々の一部には「議会制民主主義」は資本家階級が植民地支配を進めるために利用した制度だ、という認識を持っている人がいることを頭に入れておく必要がある。世界の人々は、どの国の人でも、いつの時代でも、常に「議会制民主主義は一般人民にとって良い制度なのだ」と思っているはずだ、というのは、議会制民主主義の制度に慣れている多くの日本をはじめ西側諸国の人々が抱いている一種の先入観である。

 一方、産業革命による工業化は、多くの労働力を必要としていたことから、多くの人々を農村から都市に集めて都市化が進んだ。その結果、都市には、工場を経営して巨額の富を投入してさらに次なる工場経営に投資しようとする少数の者(資本家)と低賃金で労働力を提供する多数の者(労働者)という二つのグループができるようになった。資本家は自分の子孫に資産を相続することができるので、資本家の子孫は資本家となることができたが、労働者はいくら働いても工場経営に必要なほどの資金を貯めることはできなかったので、労働者の子孫は労働者にならざるを得なかった。即ち、市民革命で解体されたはずの「王族・貴族」対「平民」という世襲制の「身分制度」が、今度は産業革命により「資本家」対「労働者」という実質的には世襲制と同じ様相を示す新しい「身分制度」に取って代わったのである。

 しかしながら、資本家は別に不公正なことをしてお金を儲けているわけではない。工場での製品の生産は、資本家が資本を投下して生産設備を用意するとともに原材料を購入し、労働者が工場で労働することによって行われる。つまり、製品の生産には、資本家が用意する資本と労働者による労働の両方が必要なのであり、労働者が労働の対価として賃金を受け取るように、資本を投下した資本家に対しても利潤という報酬が与えられるのは当然であって、これを「不公正だ」と言われる筋合いはない、という理屈が資本主義的考え方の出発点である。

 一方、市民革命によって「人は生まれながらにして平等である」という理念が広く行き渡った19世紀のヨーロッパにおいては、経済的な不正行為は働いていないとは言いながら、「資本家階級」「労働者階級」という身分制度にも似た階級分化が生まれるのは、やはり社会的に不公正と言わざるを得ない、との認識が労働者の間で高まるようになる。そういった労働者階級の疑念を背景として、資本家階級と労働者階級の分化が起こる理由について詳細な分析を行ったのがマルクスの「資本論」であった(「資本論」は1867年に第一部が出されたが、その後、改訂版が出されたほか、1883年のマルクスの死後も残された草稿を基にしてエンゲルスが整理して、逐次、追加部分が発刊された)。

 マルクスは「資本論」で、「そもそも社会的な富をもたらす源泉は労働であって、資本家が労働することなしに利潤を得ているのは、本来、労働者が労働することによって生み出している富に相当する額よりも少ない額の賃金しか労働者に支払っていないからである。労働をしていない資本家が利潤を得ているということは、労働者が生み出している富の一部を資本家が搾取していることにほかならない。」と主張した。このマルクスの考え方は、基本的には、市民革命の際に掲げられた二つの理念のうち「人はその人の労働の程度に比例した報酬を受けるべきである」に鑑みれば、労働をしていない資本家が利潤を得るのはおかしい、という考え方から出発している。さらにマルクスらは、「資本家階級」「労働者階級」が世襲されるのならば、それは「人は生まれながらにして平等である」という理念にも反する不公正な状態であり、是正されなければならないと主張した。

 また、低賃金にあえぐ労働者の窮状を救うためには、好況と不況とを繰り返し、不況の時には最下層の労働者が真っ先に切り捨てられていく、という市場原理に基づく経済システム自体を変えなければならない、というのがマルクスらの考えだった。

 マルクスとエンゲルスは、このような現実を踏まえた時、資本家階級と労働者階級の衝突は不可避であるとした。彼らは、搾取のない社会を実現するには、最終的には労働者階級が支配者となり、資本家が私有している工場設備などの生産手段は全て社会の共有物とし、市場経済を廃して理性的な計画により生産を行うシステム、即ち共産主義社会を作るほかはなく、また、そうなることが歴史的必然であると主張した。また、政治が議会制民主主義制度によって資本家階級によって支配されていた当時のヨーロッパの現状を踏まえれば、そういった社会の変革を図るためには、労働者階級が団結して既存の社会組織を暴力的に転覆するほかはない、と主張した。彼らの考え方は、1948年、「共産党宣言」として発表された。この「共産党宣言」は、その後、共産主義社会を実現しようとする人々の行動指針となった(注3)。

(注3)1948年にマルクスとエンゲルスが出した宣言は、日本語訳では「共産党宣言」という名称が一般的になっているが、1948年の時点で政党としての「共産党」は存在していなかったので、この宣言は「共産主義者宣言」と訳す方が適切である、と言われている。

 21世紀の現在では、東西冷戦が終結し、現実的に純粋な共産主義体制を取っている国は存在しないので、マルクス、エンゲルスの言った「歴史的必然」は誤りだった、と多くの人は考えているに違いない。しかし、一方で、彼らがその結論を導くために基礎とした市民革命の二つの理念、即ち「人は生まれながらにして平等である」「人はその人の労働の程度に比例した報酬を受けるべきである」という考え方は、現在でも、様々な社会制度の根本をなしている。所有する富が無条件で子孫に相続されることを制限する相続税制度や、技術の発明や著作物によってもたらされる利益がそれらを生み出すために苦労した人に還元されるように配慮されている知的財産権制度などがその例である。

 マルクス、エンゲルスらの主張を指針として、19世紀から20世紀初頭に掛けて、都市部で低賃金労働にあえぐ労働者たちの解放を目指し、多くの人々が、マルクス、エンゲルスが「歴史的必然」として掲げた共産主義社会の実現を目指して活動し始めることになる。

以上

※次回「1-1-2:『社会主義』と農民・土地との関係」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-06c0.html
へ続く。

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2010年1月 5日 (火)

まえがき:この文章を書こうを思った動機~意外に知られていない中国の現代史~

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

まえがき:「この文章を書こうを思った動機~意外に知られていない中国の現代史~」

 めざましい経済発展を遂げる中国は、奥が深く、その実情を正確に理解することはなかなか難しい。中国に関して何かをなそうとする人は、まず、ちまたにあふれる様々な情報をかき集めて、自分なりの「中国観」を構築する必要がある。現在、中国は、中国共産党の指導の下、1978年から始まった改革開放政策に則って、「中国の特色のある社会主義」の路線を歩んでいる。「中国共産党による指導」「原則は社会主義だが市場経済の原理を大胆に導入」という現在の中国の歩んでいる道は、従来、世界中どの国も経験したことのない新しい社会の姿である。前例がないだけに、その姿を正確に捉えるのは非常に難しい。現在の中国の実情を頭の中に思い描くためには、中国の自然環境や社会の状況、歴史的変遷を頭に入れた上で、現在の中国を示す情報を頭にインプットする必要がある。

 ところが、私は2007年4月から2009年7月まで2回目の北京駐在をしていたが、最近いろいろな人と話をしていて気が付いたのは、日本では、日本が東西冷戦時代に「西側」に位置していたために中国の社会主義革命の歴史についてよく知らない人が多いばかりではなく、1978年以降の改革開放路線の歩みについても、1989年の「第二次天安門事件」の前後で何が変わったのかについても、必ずしも認識していない人が多い、ということである。もちろん、現在の中国共産党と中国政府の公式見解は「1978年以来の改革開放路線は一貫しており不変である」というものであるが、私は1989年の前と後では、一貫している部分もあるが、変化した部分もある、と思っている。私は1986年10月~1988年月にも北京に駐在しており、2007年4月~2009年7月までが二度目の北京駐在勤務だった。私のように1989年の前と後の両方の中国を知っている人は意外に少ないようなので、私として気が付いたことを書き留めることも意味があることだと思っている。

 そもそも、私にとって、1960年代後半以降の中国の動きは、歴史ではなく、自分が経験した現実である。一方、最近の若い人たちにとっては、1989年の「第二次天安門事件」すら「物心が付く前のできごと」のようである。そもそも1989年の天安門事件に「第二次」という冠を付けるのはなぜか知らない人も多いと思う(この文章を読んでいただければわかるように、文化大革命を終了させるきっかけとなった1976年の天安門事件と区別するために、1989年の事件には「第二次」を付ける場合があるのである)。私は、そういった若い人たちには、中国を理解するために、背景となっている中国の現代史を勉強していただきたいと思っているが、現在、日本の本屋さんには、手軽に読める中国の現代史を解説した本が非常に少ない。学術的で専門的な中国現代史に関する本は多く出版されていると思うが、「専門的ではないが、この1冊を読めば、まぁ、だいたい中国の現代史のおおよその枠組みはわかる」といったコンパクトな入門書的な本はあまり見当たらない。

 一方、私は、1958年生まれであり、小学生の頃、テレビのニュースで中国の文化大革命の様子が伝えられていたのをよく覚えている。1971年の中国の国連加盟も、1972年のニクソン訪中や日中国交回復も、1976年の「第一次天安門事件」や毛沢東の死、四人組の追放もテレビや新聞で報道されたのをよく覚えている。これらを伝える新聞は今でも保存してあるし、1976年9月9日の毛沢東の死を伝える日本語の北京放送「全党、全軍、全国各民族人民に告ぐる書」の録音を今でも手元に持っている。

 また、1982年7月、私は中国を担当する職場に配属されたが、その時、上司に真っ先に読むように言われたのは1981年6月に採択された「党の建国以来の若干の歴史問題に関する決議」だった。この頃、あるいは仕事の一環として1983年2月に初めて中国を訪問した頃は、まさに人民公社がほとんど解体され尽くされようとしていた頃だったのである。1986年12月、上海で学生による官僚の腐敗反対のデモが起こり、このデモに対する対処が適切でなかった、として胡耀邦総書記が解任されたのは、私が最初の北京駐在勤務を始めて数ヶ月後のことだった。1987年1月1日、上海での学生デモに呼応して、北京でも学生によるデモが天安門広場で行われるらしい、というウワサが広がったが、この日、天安門広場は人民解放軍の兵士によって封鎖され、一般市民は入れない状況になっていた。私は、この日、天安門前広場に行き、広場の様子を自分の目で見たことを今でもよく覚えている。

 1989年6月4日、その時私は既に日本に帰っていたが、天安門前広場で学生が作った張りぼての自由の女神像が引き倒され、私が見慣れた建国門橋の上を戦車が行き交ったりしている映像を私は日本のテレビで見ていた。

 従って、1960年代後半以降の中国の動きは、私にとっては「歴史」ではなく、「自分史」の一部なのである。

 中国の現代史を概説することは、中国の専門家にとっては「当たり前の話」を語ることであり、今更、振り返る必要もないつまらない作業かもしれない。従って、中国現代史の専門家による一般向け解説書が少ないのであろう。一方、これだけ日本と中国との関係が深まり、中国に関連する仕事をする人が多くなっている中、中国の専門家ではない一般の人が手軽に読める中国現代史を解説した手頃な本が少ないのは非常に残念なことである。

 そこで、私の知っている範囲内で、中国の現代史を概括的に説明する文章を書いて、皆様の現在の中国に対する理解の一助にしていただこうと思い至った次第である。私は、この文章を書いていた時点では、北京に駐在しており、十分な資料が手元になかった上に、一部のインターネット・サイトにアクセスできないなど、一部のインターネット上の情報に対してもアクセス制限を受けている状況にあった(注)。その意味では、この種の文章を書くにはあまり適していない環境にいたのだ。中国現代史については、ネット上に中国語の各種資料が数多く存在しているが、現在の中国当局に都合の悪いものは意図的に削除されており、北京にいてネットにアクセスできる資料に頼っていたのでは客観的な議論が困難だった。従って、各種資料に基づきながら、私なりに努めて客観的にまとめるようにした。

 これから書くのは中国現代史のポイントの部分をさらりとおさらいするだけのものであり、いわゆる「中国通」の方々にとっては当たり前の話ばかりになるかもしれないが、その点はご勘弁いただきたい。また、私の思い違い、勘違いも多々あろうかと思われるので、もし事実に反することを私が書いた場合は遠慮なく御指摘いただけると幸いである。

 特に、私は第一回目の北京駐在勤務を終えて1988年10月に中国から帰国してから2007年4月に北京に再び赴任するまでの間は、ほとんど中国関係の仕事をしておらず、この間の中国の動きについては、知識がぽっかりと抜けている。この間の中国の変化については、最近読んだ他の本で補っていくつもりであるが、1989年6月の「第二次天安門事件」の前と後を知っている立場で、できるだけ「私にしか書けないと思われるもの」を書くように努力したつもりである。

(注)中国当局は、当局にとって「好ましくない」と思われるインターネット上のサイトに対して中国大陸部からのアクセスを禁止する措置を取っている。このインターネット上の障壁を「金盾」と呼んだり、「万里の長城」を英語で「グレート・ウォール・オブ・チャイナ」と呼ぶことになぞらえて「グレート・ファイアー・ウォール・オブ・チャイナ」(中国語では「防火長城」)と呼んだりする。この障壁は、その時々の社会情勢や当局の担当者の意向により日々変化している。例えば、日本語版ウィキペディア、BBC中国語サイト等に対しては、北京オリンピックが開催される直前まではアクセス禁止措置が取られていた。

 日本語版ウィキペディアについては2008年4月初旬、BBC中国語サイトについては北京オリンピック開幕直前の2008年7月末に禁止が解除になったが、中国当局に取ってセンシティブな事件が起きた場合には、一時的にアクセス禁止になるなどの措置は現在でも続けられている。

 北京オリンピックが終わり、これからの中国はどうなるのだろうか、と思っていた矢先の2008年9月、アメリカ発の経済危機が発生し、中国もその荒波に揉まれた。予測不能の世界経済の中で、巨大な市場と大きな生産力を持つ中国の発言は以前にも増して重要視されるようになったように見える。一方で、2009年は「第二次天安門事件」20周年に当たる年だった。大きな経済発展を遂げる中で、中国の民主化がどのような形でどの程度進んでいるかに大きな注目が集まった。雇用問題にしろ環境汚染問題にしろ、一般大衆の声をいかに的確に吸収して政権運用を図っていくかが、今までにも増して重要になっているからである。

 日本にとっても、もはや中国との関係なしに今後を考えることはできない時代になっている。好むと好まざるとに係わらず、中国との関係をいかにしていくかは、日本にとっても重要事項である。今後の中国との関係を知るためには、中国がこれまで歩んで来た道を日本の人々もきちんと頭に入れておく必要がある。この文章がそのためにいくらかでも役に立てるのだとしたら幸いである。

以上

※次回「1-1-1:そもそも「社会主義」とは何を目指したものだったのか」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a974.html
へ続く。

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2010年1月 4日 (月)

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次

 昨年(2009年)7月に2年3か月に及ぶ北京駐在勤務を終了して東京に戻ってきました。日本へ帰国する前の昨年4月に書き込みをして以来、このブログ(ココログ)に書き込みをしていませんでしたが、書き込みを再開します。

 2010年代に入り、日本にとって、というより世界にとって、中国の存在はますますその重要度を増しています。中国を理解するためには様々な視点が必要ですが、まず中国共産党が支配している現在の中華人民共和国の成り立ちとその歩みを理解することが基本だと思います。そこで、北京に駐在していた時に書き溜めておいた「中国現代史概説」を週に2回程度のペースでアップしていきたいと思います。

 現在の目で見直して若干書き直しを入れながらアップしていきますが、目次は概ね以下のとおりになる予定です(下記の目次も状況に応じて変わる可能性があります)。

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【中国現代史概説】~中国の新しい動きを理解するために~

まえがき:この文章を書こうを思った動機~意外に知られていない中国の現代史~

第1章:中国革命の背景
 1.中国における「社会主義革命」とは何だったのか
  (1)そもそも「社会主義」とは何を目指したものだったのか
  (2)「社会主義」と農民・土地との関係
 2.辛亥革命以前の中国社会の特長
  (1)19世紀の中国・ロシア・日本の状況
  (2)列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)
  (2)列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)
     【コラム:最新技術の導入とそれに対する「抵抗勢力」】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ
 1.日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ
  (1)日清戦争から戊戌の変法まで
  (2)義和団事件
     【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】
     【コラム:義和団事件の賠償と清華大学】
  (3)辛亥革命(清王朝の終焉)
     【コラム:中国の人々の日本に対する見方】
 2.孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生
  (1)袁世凱政権と日本による対華21か条の要求
     【コラム:「軍閥」とは何か】
  (2)五四運動と中国共産党の誕生(1/2)
     【コラム:儒教に対する考え方】
  (2)五四運動と中国共産党の誕生(2/2)
     【コラム:天安門前広場】
     【コラム:東交民巷】
     【コラム:中国国民党について】
     【コラム:「中国共産党第一回全国代表大会」の出席者について】
  (3)第一次国共合作
     【コラム:「蒋介石」という呼び方について】
  (4)中国革命の父・孫文の死
     【コラム:孫文に対する評価】
 3.日本による大陸進出と中国による抗日戦争
  (1)国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件
     【コラム:ロシア革命と中国共産主義革命との違い】
  (2)中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変
     【コラム:溥儀と映画「ラスト・エンペラー」】
  (3)中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立
     【コラム:三大規律と八項注意】
  (4)西安事件と第二次国共合作
     【コラム:張学良氏について】
  (5)廬溝橋事件から日中戦争へ
     【コラム:「南京大虐殺論争」について】
  (6)日本の敗戦(1/2)
  (6)日本の敗戦(2/2)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(1/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(2/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(4/4)

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史
 1.中華人民共和国の建国期
  (1)国共内戦
  (2)中華人民共和国の成立
  (3)国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国
     【コラム:イギリスとフランスの中国に対する立場】
  (4)人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)
  (5)「中華人民政治協商会議共同綱領」と「過渡期の総路線」
  (6)土地改革から本格的な社会主義化へ
 2.社会主義化の深化と路線闘争
  (1)急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」
  (2)反右派闘争
  (3)大躍進政策と人民公社の成立(1/2)
  (3)大躍進政策と人民公社の成立(2/2)
     【コラム:中国における社会的セーフティ・ネット】
     【コラム:大躍進時期の悲惨な記録に関する記述について】
  (4)フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(1/2)
  (4)フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(2/2)
     【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】
     【コラム:フルシチョフとアイゼンハワーの「平和共存」の舞台裏】
  (5)「大躍進政策」の結果を受けた権力闘争
  (6)「経済調整政策」に対する毛沢東の反撃
3.文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)
  (1)中ソ論争と文化大革命前夜
  (2)四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~
     【コラム:「修正主義」という言葉】
  (3)紅衛兵の登場と狂乱
     【コラム:文化大革命と大学紛争】
  (4)文化大革命下の政治と社会の混乱
  (5)「七・二○武漢事件」をはじめとする「武闘」
  (6)「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち
  (7)国家主席・劉少奇の失脚と死
  (8)中ソ軍事衝突
  (9)ニクソンによる米中接近への動き(1/2)
     【コラム:アメリカにとってのベトナム戦争】
  (9)ニクソンによる米中接近への動き(2/2)
     【コラム:その後のベトナム】
  (10)謎の林彪墜落死事件(1/3)
  (10)謎の林彪墜落死事件(2/3)
  (10)謎の林彪墜落死事件(3/3)
 4.文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)
  (1)ニクソン訪中
  (2)日中国交正常化
     【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】
     【コラム:日中国交正常化時のエピソード】
  (3)トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)
  (3)トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)
     【コラム:「孔子批判」に対する日本のマスコミの反応】
     【コラム:「批林批孔運動」と兵馬俑坑】
  (4)文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)
  (4)文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)
  (5)「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判
  (6)周恩来の死と「第一次天安門事件」(1/2)
  (6)周恩来の死と「第一次天安門事件」(2/2)
     【コラム:「第一次天安門事件」の記憶】
  (7)毛沢東の死、そして「四人組」の逮捕
 5.改革開放政策への大転換
  (1)華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活
     【コラム:コラム:中国現代史の現在における不透明性】
  (2)トウ小平氏と「すべて派」との対立
  (3)西単(シータン)の「民主の壁」
     【コラム:論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」の扱い】
  (4)トウ小平氏による改革開放方針の提示
  (5)改革開放と「四つの基本原則」で終わった「北京の春」
  (6)改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)
  (6)改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)
  (7)「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(1/2)
  (7)「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国
 1.改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発
  (1)具体化する改革開放政策とまだ残る「文革のしっぽ」
  (2)改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)
  (3)中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉
  (4)対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)
  (4)対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)
  (5)1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)
  (5)1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)
  (6)中国の社会・経済で進む微妙な変化
  (7)「第二次天安門事件」直前の世界情勢
  (8)「第二次天安門事件」の伏線
  (9)「第二次天安門事件」(1/5)
  (9)「第二次天安門事件」(2/5)
  (9)「第二次天安門事件」(3/5)
  (9)「第二次天安門事件」(4/5)
  (9)「第二次天安門事件」(5/5)
     【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】
 2.「第二次天安門事件」以後の中国
   (1)東欧・ソ連革命(1/2)
   (1)東欧・ソ連革命(2/2)
  (2)「第二次天安門事件」の後遺症
  (3)トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~
  (4)国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)
  (4)国有企業改革と「世界の工場」の実現(2/2)
  (5)江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(1/2)
  (5)江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(2/2)
  (6)第一期胡錦濤政権の勢力分布
  (7)「氷点週刊」停刊事件
  (8)「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題
  (9)インターネット規制と「08憲章」(1/2)
  (9)インターネット規制と「08憲章」(2/2)
  (10)少数民族政策破綻の危機
  (11)経済対策バブルと「抵抗勢力」の肥大化

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)
あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(2/3)
あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(3/3)

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【中国現代史概説:参考資料リスト】

(1)「中華人民共和国史」(天児慧著:岩波新書)1999年12月20日第1刷発行

(2)「韓国併合」(海野福寿著:岩波新書)

(3)「近代交通体系と清帝国の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容)(千葉正史著:日本経済評論社)2006年12月15日第1刷発行

(4)「そうだったのか!中国」(池上彰著:集英社)2007年6月30日第一冊発行

(5)「中国現代史」~壮大なる歴史のドラマ~(新版)(中嶋嶺雄編:有斐閣)1996年3月10日新版第1刷発行

(6)「中国の頭脳 清華大学と北京大学」(紺野大介:朝日新聞社)2006年7月25日第一刷発行

(7)増補版「中国近現代政治史年表」(家近亮子編:晃洋書房)2004年6月10日増補版第一刷発行

(8)中国の歴史(11)「巨龍の胎動」(天児慧著:講談社)2004年11月10日第一刷発行

(9)「毛沢東語録」(竹内実訳:角川文庫)1971年10月25日初版発行

(10)「南京事件~『虐殺の構造』~」(秦郁彦:中公新書)1988年2月10日第5版発行

(11)「中国現代史」(建国50年、検証と展望)(小島朋之:中公新書)1999年7月25日発行

(12)「北京三十五年」~中国革命の中の日本人技師~(上・下)(山本市朗:岩波新書)1980年7月21日・8月20日発行

(13)「当代中国的核工業」(中国社会科学出版社・1987年)
※日本語訳は出版されていない

(14)「文化大革命十年史」(上・中・下)(厳家祺、高皋著、辻康吾監訳:岩波現代文庫、現代文庫版は2002年1月16日第一刷発行。岩波書店から日本語版が発行されたのは1996年12月)

(15)「河北新報」1966年(昭和41年)8月25日付け夕刊1面
「紅衛兵旋風 上海・天津にも波及~反革命分子宅を襲う、ラマ教寺院も破壊される(北京)~」「輪タクは客が踏め、ビラに埋まる北京~預金利息停止せよ~」

(16)朝日新聞1972年9月26日、29日、30日付け紙面

(17)(4)「トウ小平秘録」(伊藤正著:扶桑社)2008年発行

(18)「朝日新聞」1976年9月10日付け記事

(19)「朝日新聞」1978年8月13日付け記事「日中新時代へ調印」

(20)「中国問題の内幕」(清水美和著:ちくま新書)2008年2月10日第一刷発行

(21)2005中国経済年鑑(中国経済年鑑社)2005年11月

(22)「中国 第三の革命」(朱建栄著:中央公論新社)2002年8月25日初版発行

(23)「世界史事典」(歴史教育研究所編:旺文社)1969年1月20日重版発行

(24)「(3訂増補)ポータブル日本史辞典」(小葉田淳、時野谷勝、村山修一、岸俊男編:数研出版)1967年2月1日3訂増補第1刷発行

(25)「趙紫陽極秘回想録」(趙紫陽 バオ・プー/ルネー・チアン/アディ・イグナシアス:光文社)2010年1月25日初版第一刷発行

(26)「天安門事件の真相」上巻(矢吹晋編著:蒼蒼社)1990年6月4日発行
http://www18.big.jp/~yabukis/chosaku/shinso1.pdf

(27)「天安門事件の真相」下巻(矢吹晋編著:蒼蒼社)1990年9月30日発行
http://www18.big.jp/~yabukis/chosaku/robin-munro.pdf


(主なネットワーク上の参考資料)

(1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「資料センター」
「中国共産党簡史」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/index.html

(2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選」
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/index.html

(3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会アーカイブス」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/index.html

(4)「新華社」ホームページ「資料」
「党史文献」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2609668.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(5)東京大学東洋文化研究所・田中明彦研究室がアップしたデータベース「世界と日本」
「日中関係資料集」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/index.html

(6)渡辺格個人ホームページ「北京よもやま話」
http://homepage3.nifty.com/itaru_watanabe/beijing/mokujib.html

(7)「中国統計年鑑」2008(中国国家統計局のホームページ上にある)
http://www.sei.gov.cn/hgjj/yearbook/2008/indexch.htm
※このページで数字を見るためにはブラウザとしてインターネット・エクスプローラーを使う必要があるようです。


(映像・音声資料)

(1)ドキュメンタリー映画「東京裁判」(東宝東映:小林正樹監督)1983年

(2)NHKスペシャル「映像の世紀 第6集 独立の旗の下に ~祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ~」NHK・アメリカ・ABC国際共同取材:1995年9月16日放送

(3)「映像でつづる昭和史」NHK:1989年1月8日放送

(4)CNN制作のドキュメンタリー・シリーズ
"Cold War" (1998, Turner Original Productiond; Warner Home Video)

(5)ドキュメンタリー番組「イスラエル秘められた核開発」
2002年イスラエル・トゥラ・コミュニケーション制作
(2008年7月16日、17日:NHK-BS1「BS世界のドキュメンタリー」で放送)

(6)北京放送(日本語版)1976年9月9日放送
毛沢東の死去を伝える「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」

(7)DVD「歴史をして未来を語らしめる(四)」「文革十年」(中国唱片総公司出版)(出版年は不明:ISBN 7-7999-1760-1)

(8)NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~」
(前編)2008年3月9日放送、(後編)2008年3月9日放送

(9)NHKラジオ1976年9月9日日本時間18:00からのニュース

(10)NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」(前編:ライプチヒ市民たちの「反乱」、後編:首都が揺れた)

(11)「NHKスペシャル 張学良がいま語る 日中戦争への道」(NHK1990年12月9日放送)

(12)「張学良・磯村尚徳対談 私の中国・私の日本」(NHK1990年12月10日放送)

以上

※「まえがき:この文章を書こうを思った動機~意外に知られていない中国の現代史~」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-f316.html
へ続く。

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