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2010年1月22日 (金)

2-2-1:袁世凱政権と日本による対華21か条の要求

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ

-第2部:孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生

--第1節:袁世凱政権と日本による対華21か条の要求

 袁世凱が提出した妥協案を清朝政府側、孫文の南京臨時政府側の双方が受けれたことにより、1912年2月、清最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(宣統帝)は退位し、翌3月、妥協の条件(前節参照)に従って孫文は袁世凱に臨時大総統の座を譲った。孫文は「清朝を打倒する」という革命の第一目標を達成するため、袁世凱の妥協案を受け入れ、それに従って袁世凱に臨時大総統の座を譲ったのである。その背景には、憲法に当たる「臨時約法」を制定し、それに基づいて議会選挙を行うことによって、臨時大総統になった袁世凱の権力をある程度抑制できるはずだ、という孫文の目論見があったものと思われる。

 袁世凱は、孫文らの目論見とは関係なく、自らの権限を利用して、列強各国からの借款を受けて鉄道等のインフラ整備を進めようとした。臨時政府の中には、外国からの借款に基づいて社会インフラを整備することは、列強各国による支配を強め、中国の独立性を損なうものだ、という批判が強かったが、袁世凱は臨時大総統という権限に基づいて、自らの政策を強力に推進した。

 臨時政府が成立した翌年の1913年3月、「臨時約法」に基づく初めての国会議員選挙が行われた。選挙の結果、孫文が設立した「中国同盟会」を軸にして組織された政党「国民党」(孫文が理事長)が870議席中401議席を獲得して第一党となった。このため、国民党の実質的な指導者・宋教仁(彼も日本留学帰国組)を首班とする内閣の組閣が行われようとしていた。宋教仁は、袁世凱が進める外国からの借款によるインフラ整備政策に反対していた。

 こうした中、1913年3月、その宋教仁が上海で暗殺された。袁世凱が放った刺客によるものと言われている。袁世凱の進める外国からの借款政策に反対する勢力は、宋教仁の暗殺に怒りの声を上げ、「打倒袁世凱」の動きを始めることになる。しかし、反袁世凱側の勢力は、様々な考え方のグループに分かれていたため、まとまって袁世凱に対抗することができず、袁世凱は武力でこの動きを鎮圧した。こうして、1913年10月、袁世凱は正式な大総統に就任した。これを受け、日、露、英、仏などの主要国は袁世凱を大総統に頂く中華民国を中国の正統な政府として承認した。主要国が袁世凱政権を中国の正式な政権として承認したのは、背景として、袁世凱政権は借款と通じて列強各国と強く結びついていたからである。袁世凱はその後、議会を解散し、独裁的な政治を進めていくことになる。

 1914年7月になると、ヨーロッパにおいて第一次世界大戦が勃発した。日本は1902年に締結していた日英同盟に基づいて英・仏・露の三国協商側に立って独・オーストリア・イタリアの三国同盟側に対して宣戦を布告した。各国の利害が複雑に絡み合っている中国において、袁世凱政権は第一次世界大戦における中国の中立を宣言した。

 日本は、1914年8月、アジアにおけるドイツの拠点だった山東半島を攻撃し、11月には青島(チンタオ)を占領した。第一次世界大戦が大規模な戦争に発展していく中、ドイツ等の三国同盟側はもちろんのこと、英・仏・露の三国協商側もヨーロッパでの戦闘に集中せざるを得なくなり、中国に多くの兵力を割くことができなくなった。このようにして生じた中国における列強各国の軍事力の真空状態を利用して、日本(当時は大隈重信総理)は、1915年(大正4年)1月、袁世凱政権に対して21か条からなる「対華21か条の要求」を突き付けた。その内容は「日本が占領した山東半島におけるドイツの権益を日本が引き継ぐこと」「旅順・大連の租借権を99年間得延長すること」「沿岸部を他国に割譲しないこと」などであった。最後に「秘密条項」(いわゆる「5号条項」)として「中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を置くこと」「必要な地域で警察を日中共同とすること」が含まれていた。

 特に5号条項は、中国側の主権を露骨に奪うものであった。それだからこそ、日本も秘密裏に交渉を進めたかったのであるが、諸外国からの圧力を期待した袁世凱は、この5号条項も含めて対外的に公表した。袁世凱は、日清戦争後、遼東半島の領有を要求した日本に対し、露・独・仏の三国が圧力を掛けてこの領有要求を撤回させたこと(いわゆる「三国干渉」)のような事態を期待したのであったが、第一次大戦で苦戦する英・仏・露は日本の協力を得るために中国に対する日本の要求を黙認せざるを得なかった。また、この時点では第一次大戦においては中立の立場にいたアメリカも日本に対する圧力は掛けなかった。袁世凱は、中国政府内部における袁世凱の地位を支持する、という日本側が申し出た「アメ」の効果もあり、1915年5月、この日本による「対華21か条の要求」をあからさまな主権侵害である「5号条項」の部分を除いた部分について受諾した。

 この「対華21か条要求」は、中国の人々に、既に1910年に韓国を併合して完全に植民地化していた日本が次の目標として照準を定めているのが中国であることを明確に感じさせるものだった。

 「沿岸部を他国に割譲しない」ことを約束させられたり、「日本人の軍事顧問を置く」「警察を日中共同とする」ことを要求された「対華21か条の要求」は、中国政府の自主的な判断権を奪い、「政府」としての役割の一部を日本に明け渡すものであることから、中国の人々の激しい怒りを買った。この怒りが1919年、第一次世界大戦の戦後処理を巡って締結されたヴェルサイユ条約の結果に反発して起きた五四運動へとつながっていくのである。

 19世紀後半以来、欧米列強各国は中国の半植民地化政策を少しずつ進めてきたのであり、中国の人々は欧米列強各国に対しても反発を感じていたのであるが、特にこの日本による「対21か条要求」に対して強い反発を感じた背景には、以下のような理由あった。

(1) 中国政府の持つ主権を侵害することを明文化した露骨なものであったこと。

(2) 清朝政府が打倒され、ようやく国民国家として出発したタイミングにおいて、その革命によって成立した政府に対して国家主権を侵害するような要求がなされたこと。

(3) 第一次世界大戦によるヨーロッパでの戦闘において疲弊したヨーロッパ各国のスキを衝き、「ヨーロッパ各国は今のタイミングならば日本に圧力を掛けてくることはないだろう」という「読み」に基づくものであることは明らかであり、中国の人々からすれば極めて狡猾な要求だと思われたこと。

 清の時代ならば、中国の人々にとって清朝政府は「我々の政府」としての意識は必ずしも明確ではなかったが、幅広い人々の運動によって清朝政府が打倒されて成立した中華民国政府は、袁世凱という軍閥政治家が独裁的な体制を敷いているとは言え、多くの人々にとって「我々の政府」という意識があったものと思われる。この辛亥革命の時期は、「清朝打倒」とともに「諸外国による支配の排除」という共通認識を持つことを通じて、中国の人々の間に「我が国・中国」というナショナリズム的心情が初めて芽生えた時期であったと言ってよい。その時期に露骨に中国の主権を奪うような要求を突き付けたため、日本に対しては中国の人々は特に鋭い反発を示したのである。また、欧米の白人国家からではなく、同じアジアの国であり、しかも千数百年にわたり「格下」だと思っていた日本から突き付けられた要求だから余計に強く反発したのだ、という要素もゼロではなかったのかもしれない。

 「対華21か条要求」は、明治維新以来、ヨーロッパの進んだシステムを取り入れて国力を増強し、日露戦争において大国ロシアに勝った日本に対して、一定のシンパシーを持っていた中国知識人の間に、大きなショックを与えることになった。これら中国知識人は、日本の先進性に対して同じアジアの国としての一定の期待感を持っていただけに、むしろ「裏切られた」という感覚があったものと思われる。

 このため、これ以降、中国における「反植民地主義」「列強各国による中国支配の排除」の動きは、特に日本に対する反発を中心として動いていくことになる。袁世凱政権に対して日本が「対華21か条要求」を受け入れるよう最後通告した日(5月7日)または袁世凱が「対華21か条要求」を受諾することを表明した日(5月9日)は、この後「国恥記念日」として中国の人々の頭の中に記憶されることになる。

 「対華21か条要求」を受諾することにより日本の後ろ盾を得た、と考えた袁世凱は、自らの独裁体制を強化し、「広い中国を統治するには強力な権力が必要であり、帝制を復活させることが必要である」といった論調の論文を流布させた。そして、1915年12月には、国民代表大会が袁世凱を皇帝に推挙したのを受けて、袁世凱は自らが皇帝となって「中華帝国」が成立したことを宣言し、翌1916年の元号を「洪憲」とする、と発表した。

 袁世凱が自ら「皇帝」になると宣言したことは、さすがに時代錯誤的なものであり、中国各地から猛反発を招いた。各地で軍事的な反乱が相次いだほか、諸外国も袁世凱に帝政復活の延期を勧告した。また、袁世凱が持っていた軍隊の内部でも「帝制」対する反発が起こり、袁世凱は1916年3月、帝制の取り消しを宣言した。結果的に「皇帝宣言」は、袁世凱の政治的求心力を失わせることとなった。袁世凱は帝制の取り消しを宣言した3か月後の1916年6月、皇帝になるという夢を実現できないまま病死した。こうして袁世凱の政権はあっけなく終わったのであった。

以上

※次回「2-2-1:【コラム:『軍閥』とは何か】」
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へ続く。

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