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2010年1月16日 (土)

1-2-2(2/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第2部:辛亥革命以前の中国社会の特長

--第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)

(iv) 西洋の技術に対する感受性

a. 電信技術

 電信機はアメリカのモールスによって1837年に発明された。モールスはこの技術の特許を取り、1844年にボルチモアとワシントンとの間に通信回線を開設した。世界は電気通信の時代に入ったのである。1854年、2回目の渡航として来日したアメリカのペリーは、モールス電信機を日本に持ち込み、江戸幕府の役人の前で公開実験を行ってアメリカの最先端技術を日本の人々に紹介した。

(参考URL1)「逓信博物館ていぱーく」内の「NTT情報通信館」のページ
「1854年にペリーが持ち込んだモールス電子機(レプリカ)の写真」
http://www.teipark.jp/display/ntt_3f/ntt_3f_06.html

 日本は、明治維新の時期、この電信の重要性に着目しており、明治2年(1869年)には東京-横浜間に電信線を開通させている。明治4年(1871年)には、デンマークの大北(グレートノーザン)電信会社により、上海-長崎間、ウラジオストック-長崎間の国際電信線が開通し、明治6年(1873年)には東京-長崎間に、明治8年(1875年)には東京-青森間に国内電信線が開通している。

(参考URL2)国立公文書館デジタル・ギャラリー「電信路線図」
http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/category/ezu/telegraph_line.html

 前に述べたように1875年(明治8年)、日本は朝鮮に軍艦を派遣して武力で開国を要求したが(江華島事件)、この時、軍艦「雲揚」の井上艦長は、長崎に帰着してから、東京に事件の顛末(てんまつ)を電信線を使って打電した。黒船で開国を要求された日本は、わずか20数年で、その逆の立場に立つことになったのである(注1)。

(注1)その後、日本は、無線通信についても非常に早くから関心を有することになる。マルコーニによる大西洋横断無線通信実験(1901年12月)の3年半後の1905年5月、日露戦争における日本海海戦において、哨戒に当たっていた日本海軍の巡洋艦「信濃丸」は「敵艦見ゆ」との無線警報を発信した。これは、無線電信を実際の戦争で使用した世界で初めての例だと言われている。

(参考URL3)KDDI総研「R&A」1995年9月号「日本の国際無線通信事始め」
http://www.kddi-ri.jp/ja/r_a/pdf/KDDI-RA-199509.pdf

 一方、デンマークの大北電信会社は、1871年、上海と香港の間にも海底電信線を敷設したが、この電信線の敷設は清朝政府には告知されず、水中ケーブルにより上海租界に直接結ばれたものだった。この回線は、1873年、呉淞-上海間が陸上架線に切り替えられたことから清朝政府の知るところとなった。清朝政府は当初、この電信線の早期撤去を要求したが、各国からの要請により結局は黙認する形となった。

 清朝政府自身による電信線の架設計画としては、1874年の日本による台湾出兵に際しての軍事的な必要性から大陸側の福州と台湾との間の架設が検討された。ただ、この時の日本の台湾出兵は比較的短時間で終了したことから、計画された電信線は、一部が完成した時点で中断された。その後、清朝政府自身による実用的な電信線は、洋務運動の中心人物の一人であった李鴻章によって建設が進められた天津と大沽・北塘の砲台の間の電信線であり、これが開通したのは1879年だった。日本における東京-横浜間の電信線の開通に遅れること10年であった。上海-天津間の電信線が開通するのは1881年である。

 前述のロシアと清との間で起きたイリ事件(1871~1872年)の解決のためのロシアとの外交交渉において、北京政府は、ペテルブルグ-ウラジオストック-上海間に既にできていた電信線を活用してロシアの首都ペテルブルクにいる交渉団と連絡を取っていた。ペテルブルクから上海までは電信線があるのですぐに情報が到達するが、上海-北京間の情報伝達は、汽船便で6~7日、海路が不通の場合は陸路を使ったので10日程度を要したという。このロシアとの交渉の過程で、中国側もようやく電信線の重要性を認識したと考えられている(参考資料3:「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容))。ちょうど同じ頃、外国の会社(デンマークの大北電信会社)によって敷設された国際電信線に接続させるため、1973年(明治6年)に長崎-東京間の国内電信線を完成させていた日本との先端技術に対する感受性の違いは、中国にとってかなり致命的であったと思われる(注2)。

(注2)ロシアはイリ事件勃発当時(1871年)、既にユーラシア大陸を横断して首都ペテルブルクからウラジオストックまでの電信線を開通させていた。これを見ても、日本だけが先進技術を取り入れる感覚に優れていた、というよりは、中国のみがひとり当時の世界の趨勢(すうせい)から取り残されていたことがわかる。

b. 鉄道

 よく知られているように、日本の鉄道は、1872年(明治5年)9月12日(旧暦の10月12日)、新橋-横浜間で開通した(この年の5月、まず品川-横浜間で仮開通していたが、一般には新橋-横浜間の開通をもって、日本の鉄道事業の開始と言われている)。開通式は明治天皇の臨席のもと行われ、明治天皇はお召し列車で新橋と横浜との間を往復した。

(参考URL4)JR東日本旅客鉄道株式会社「鉄道の歴史」
http://www.jreast.co.jp/history/

 この日本の鉄道開業当時に使われていた蒸気機関車は10両であり、全てイギリス製であったが、製造会社が5社であったため、部品の共用が難しい、など運行開始当初はいろいろな苦労があったようである。ただし、蒸気機関車を複数の会社から導入したことは、当時の日本政府が、外国の会社に鉄道運営の主導権を握られることを嫌い、鉄道の建設と運行を基本的には日本人によって行わせようとしていたことを反映したものであると言える。

 なお、明治政府が鉄道建設を決定したのは1869年(明治2年)12月であり、当時の明治政府が、政権獲得当初から鉄道の建設を重用視していたことを表している。

 一方、中国においては、イギリスの商社(Jardine Matheson & Co.)が1876年に上海-呉淞間で開通させたのが、最初の鉄道である。しかし、この鉄道は清朝政府の承認を得ていなかったため、交渉の結果、翌1877年に清朝政府により買収された。清朝政府は、この買収した鉄道をそのまま廃止している。a.で述べたように、電信線についても、清朝政府は、1873年に外国の会社が清朝政府に無断で設置した上海-呉淞間の電信線の撤去を要求している(電信線については、各国の要求を飲む形で利用を黙認することになるが)。清朝政府にとっては、外国によって勝手に作られた電信線や鉄道は、主権侵害以外の何ものでもなく、それを買収して自ら利用しようとする発想はなかったものと思われる(参考資料3:「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容))。

 清朝政府自身のイニシアティブによる鉄道は、洋務運動の中心人物・李鴻章によって石炭輸送のために建設が進められた唐山-胥各荘(日本語読みで「しょかくそう」)間の唐胥鉄路が最初である。この鉄道が開通したのは1881年であった(日本の新橋-横浜間の鉄道開通に遅れること9年)(参考資料3:「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容)))。

 李鴻章は、この後も鉄道建設を進めようとするが、清朝政府内の官僚等による鉄道建設反対の強い意見に会うことになる。この鉄道反対論については、現在、「西太后が多くの資金を必要とする鉄道建設に後ろ向きだった」とか「鉄道建設を進めると風水が乱れる」「機関車を走らせることにより歴代の皇帝廟の安寧が保てない」といった時代の状況を理解しない非科学的な保守的考えによるもの、と一般には言われている。中国中央電視台が放送したドキュメンタリー・シリーズ「復興之路」でも、こういった考え方に基づき、当時の清朝政府の対応について「鉄道開通式に臨席し、洋服を着、靴を履いて自ら率先して列車に乗った日本の明治天皇との違いは覆うべくもない」との嘆きを隠していなかった。

 こういった見方に対して「近代交通体系と清定刻の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容))(参考資料3)の中で著者の千葉正史氏は、そういった保守的発想からの反対論は実際あったとしても、国家にとって輸送体制の整備が重要課題であることは清朝政府の官僚たちもわかっており、問題はそんなに単純ではなかったはずだ、と述べている。千葉正史氏は、中国においては、古くから運河による輸送システムが充実しており、水運による大量輸送が可能な地域が多く、そういった水運輸送に携わる多くの関係者が鉄道の敷設を自らの事業に対する脅威だと受け取っていたという背景があることを指摘している。

 日本には、鉄道に対抗するような大量輸送に適する交通手段は存在せず、鉄道建設に対する「抵抗勢力」は存在しなかった。明治時代、日本にも「鉄道が機関車の火の粉で稲が枯れる」といった非科学的な鉄道反対論はあったと言われており、19世紀後半において中国だけが保守的・非科学的な発想に基づく鉄道反対論が強かった、と考えることは正しくない。日本と異なり、運河水運の発達していた当時の中国では、鉄道開通によって職を追われる人々が多数おり、それらが「抵抗勢力」になり、彼らが鉄道反対論を主張する清朝政府の官僚たちの後ろにいたのである。従って、中国の鉄道の導入が日本より遅かったことが、単に先進技術に対する感受性の違いとだけ捉えるのは必ずしも正しくない。

(v) 西洋の技術導入と政治システム導入との関連

 (iv)では、「西洋の技術に対する感受性」というタイトルで、電信と鉄道の導入に関する19世紀後半における日本と中国との状況について述べた。「電信」と「鉄道」は、単に技術導入という観点だけではなく、中央政府による中央集権的な全国統治機構の道具としての役割が非常に重要であった。

 日本では、電信は開設当初から逓信省が管理する国営の事業であったし、中国においても清朝政府により敷設された電信線については、清朝政府が管理していた。

 鉄道については、日本でも中国でも。多くの鉄道は当初の段階では、国による鉄道経営と営利目的の民営事業とが併行して進められていたが、鉄道事業の伸展に伴い、国家としての鉄道経営の重要性が認識されるようになり、鉄道事業の国営化が議論されるようになる。日本においては、日露戦争後の1906年(明治39年)、鉄道国有化法が成立し、基幹路線の鉄道が国有となった。中国においても1911年、清朝政府は幹線鉄道の国有化を決定するが、ちょうどこの年、辛亥革命の発端となる武昌蜂起が起こり、中国における鉄道の国有化は混沌の時代に入っていくことになる。

 電信と鉄道を管理することの重要性は、列強各国も十分承知しているところであったので、列強各国は、電信線と鉄道を自らの資金で設置するとともに、自ら設置した電信線と鉄道を守るという名目で軍隊を中国に派遣して、中国政府自身による中国国内の支配力を骨抜きにしていった。

 日本においても電信(通信)と鉄道が政府による中央集権的統治の道具である、という認識は明治政府成立当初からあった。江戸時代の各藩による各地域内の地主階層に対する支配を廃止し、中央政府が直接地方の有力者をコントロールするため、明治政府は廃藩置県を行うとともに、各地域の地主階層を「特定郵便局長」という実質的に世襲制の国家公務員に任命し、中央政府の指令を地域に伝達させる役割を果たさせることで、中央政府が直接地方の末端組織を掌握できるようにした。日本で、電信(電話)事業と幹線鉄道事業が国営から離れ民営化されたのは1980年代であり、郵便事業が国営を離れて民営化されたのは、21世紀になってから行われた小泉改革の中であったことは、読者諸氏もよく御存じのところである。電信(通信)と鉄道の問題は現代に連なる問題なのである。

 このように電信(通信)と鉄道の導入は、単なる技術導入の枠を超えて、政府による統治システムの導入という意味合いも含んでいた。19世紀後半の日本においては、こういった西洋の技術と併せて通信、運輸のシステム自体を導入するとともに、政治、法律の点でも、議会制度の上に立つ立憲君主制の導入を順調に進めていったのに対し、中国においては清朝政府の保守性と列強各国からの干渉により、システムの導入がスムーズに行かなかったことが、日中間に近代化へ向けての決定的な差を生じさせることになってしまったのである。

以上

※次回「1-2-2(2/2):【コラム:最新技術の導入とそれに対する『抵抗勢力』】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a824.html
へ続く。

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