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2010年1月11日 (月)

1-2-1:19世紀の中国・ロシア・日本の状況

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第2部:辛亥革命以前の中国社会の特長

--第1節:19世紀の中国・ロシア・日本の状況

 中国における共産主義革命を語るには、まず、革命前の状況がどうだったを理解することが重要である。というのは毛沢東が指導した共産主義革命には、以下の3つの意味付けがなされるからである。

a. 資本家階級・地主階級(ブルジョアジー)の支配から労働者・農民(プロレタリアート)を解放する社会主義革命

b. 前近代的で封建的な支配体制を廃し、国民の平等と基本的人権を確立する近代化革命

c. 外国による支配を脱し(外国による支配を防ぎ)国家の自立を果たす独立革命

 レーニンが指導したロシア革命は上記のa.とb.の性格を併せ持っている。日本に関して言えば、明治維新がb.とc.の意味を持った革命のような性質を持ったものであったと言ってよいであろう。

 ロシア革命も明治維新も、そして中国の革命も、欧米列強国が支配していた19世紀の世界において「やや遅れた」地域にあったこれらの国々に与えた影響の結果であった。そこで、まず、ロシア、日本、中国の近代化以前の姿を簡単に眺めてみることにしたい。

(i) 帝政ロシア

 ロマノフ王朝下のロシアは、典型的な絶対主義王政の国であり、皇帝が絶大な権力を握り、皇帝が貴族を支配し、多くの一般農民は各貴族が持つ所領の農奴として、貴族の支配を受けていた。19世紀前半の時点で市民革命と産業革命を成功させ、近代化のひとつの区切りを終えていた英仏に対し、ロシアは古い絶対王政を維持していた。しかし、1812年のナポレオンのロシア侵攻等により、ヨーロッパの市民革命を指導した思想(いわゆる「啓蒙思想」)はロシアにも深く浸透していた。そうした背景の下、啓蒙思想に刺激を受けた開明派貴族による絶対主義王政反対の騒乱も相次いだ。1825年に起きたデカブリストの乱がその典型的な例である。

 啓蒙思想の刺激を受けた開明派貴族は、ロシアで後進的な体制が続くと、ナポレオンによる侵攻に見られるように英仏に圧迫される、という危機感を持っていた。彼らは、英仏の市民革命は、市民のエネルギーを貴族社会の縛りから解放し、産業革命を推進した各種技術革新と相まって、ヨーロッパ世界における英仏の優位性を急速に高めたと認識していたのである。やがてロシア皇帝自身もクリミア戦争でその危機感を共有することになる。

 クリミア戦争(1853年~1956年)は、バルカン半島で南方への勢力拡大を図るためトルコを圧迫したロシアに対し、トルコと英・仏等が連合して戦った戦争である。戦争中にロシアの帝位に就いたアレキサンドル2世は、結局この戦争に敗れ、英仏の優位性を身に染みて知ることになる。古い農奴制が国力増強の妨げになっていると考えたアレキサンドル2世は、国内の不満を力で押さえ付けることによる下からの革命を恐れたこともあり、1861年に農奴解放令を発した。このロシアの農奴解放令は、農民が補償金を領主に支払った上で農奴を解放する権利を皇帝が農民に与えるという「上からの改革」であった。農奴解放が実質的に進むよう、補償金を支払えない農民に対しては、国家が補償金を一時的に立て替え、農民が長期間にわたって国家に返済するという形を取っていた。

 この農奴解放令は、農民を農奴から解放する道筋を開いたものであるが、補償金を払った上でないと解放されない、という制度の下では、経済力の弱い農民の農奴状態からの解放は遅々として進まなかった。しかし、不徹底とは言え、皇帝自らが旧来の体制を変える姿勢を示したことの意味は(特に下記に述べる中国との比較において)留意すべきことである。また、補償金を得た一部の貴族階級がそれを資金として工業資本家に変化するなど、農奴解放令はロシアに資本主義を芽生えさせるためにも一定の役割を果たした。

(ii) 江戸幕府政権下の日本

 19世紀前半の日本は江戸時代であったが、江戸幕府の統治システムは中央集権的な絶対主義王制とは全く異なっていた。そもそも日本には天皇制度という独特の政治システムがある。天皇は、実質的に政治権力を持つ者(例えば江戸幕府の将軍)に政権を持つ正当性の承認を与える「権威付けを与える者」であり、自らは政治権力は持っていなかった。

(注1)天皇は、ヨーロッパの国王や中国の皇帝とは異なり、「政治権力者」そのものではなく、政治的権威の象徴でしかない、という点は、日本の政治システムを考える上で一貫して重要なポイントである。こういった日本の天皇制度の歴史的本質を明確に法文化したのが、現行憲法下の象徴天皇制であることは言うまでもない。

 武家政治は、こういった天皇制の下で、天皇から任命された征夷大将軍が各地方を分割支配する大名たちを武家の頭領として管理監督する、という制度であった。天皇の下では将軍家と各地を支配する大名とは武家という意味では観念的には同列だった。徳川将軍家は天皇の前では武家集団の中の最も有力な武家という位置付けに過ぎなかったのである。このため、各地を分割支配する大名が各地域を支配する際の政治的独立性は非常に高かった。独立性の高い各藩は将軍家にとっては大きな脅威であることから、江戸幕府は、各藩の大名の妻子を江戸に置き、大名自身に定期的に江戸に参勤交代させる義務を課したり、問題を起こした藩を容赦なく取りつぶすなどして、各藩が江戸幕府に反抗しないようなシステムを形作っていた。

 各藩の独立性が高い、という江戸時代の状況は、欧米列強からのアプローチが始まった19世紀中頃の日本においては、欧米列強による支配を防止するという観点では、有利に作用した。自分の藩の力を高めるためなら、西洋の技術や知識についても自らの判断で積極的に取り入れようと考える藩がいたからである。特にアヘン戦争(1840年)で清がイギリスに敗れたという情報が伝わり、日本周辺にも欧米列強の船がたびたび出没するようになると、自分の藩の存立基盤である日本国自体が外国に押しつぶされるかもしれないとの危機感を持って藩の力を高めようとする藩も現れた。そうした危機感が高まっていた中、1853年の黒船来航がきっかけとなって日本は明治維新へと一気に進んでいくのである。

(注2)黒船来航が眠っていた日本を叩き起こした、というイメージを持つ人が多いが、一部の藩では黒船来航の前から、危機感を持って外国の技術や知識を吸収しようとしていたのである。佐賀藩では、1852年(黒船来航の前年)、洋式大砲鋳造に必要な反射炉を完成させている。この時期、日本は決して「眠っていた」わけではなく、多くの人々が危機感を持って外国の技術や知識を導入しようとしていたのである。黒船来航は、そういった日本国内に溜まっていたエネルギーを一気に放出させるひとつのきっかけに過ぎなかったのである。

(iii) 清朝時代の中国

 清朝時代の中国は、皇帝をトップとする中央集権国家であった。その意味ではヨーロッパの絶対主義王政と似た体制であるが、地方を支配する有力貴族の存在の有無という点で違いがあった。ヨーロッパの絶対主義王政は、単純化すれば、国王>各地に領地を持つ有力貴族>一般人民というピラミッド型の支配体制である。中国でも、歴史上、同じような体制を採った王朝はあったが、地方に領地を持つ有力貴族層が存在すると、中国は国土が広いので、各地を支配する有力者たちが連合すると、皇帝をしのぐ勢力になる可能性が常に存在する。皇帝による中央集権体制を維持するためには、地方に基盤を持つ有力者を無力化しておく必要があった。そのために考え出された制度のひとつが科挙制度によって中央に採用された官僚による支配である。

 試験によって選抜された官僚を皇帝の命令により各地に派遣し、その官僚によって各地方の有力者を抑えることが科挙制度の目的である。地方に派遣された官僚は、一定の任期が終了した後は後任者と交代させされ、中央や別の地方でさらに上のポストに就任した。中央の命令で派遣され定期的に交代させられる官僚に地方を支配させておけば、地方を地盤とする有力者の勢力拡大を防止することができる。

 この科挙制度は、皇帝による中央集権体制を維持するには非常に有効だった。そのため、科挙制度は、隋の文帝(日本の聖徳太子の時代)が始め、唐代に確立した制度なのだが、結局はその後、20世紀の1905年に廃止されるまで約1300年間続くことになる。

 アヘン戦争(1840年)当時の中国が、ロシアや日本と異なる点は、地方には「地主」はいたが、地方地主の持つその地域を支配する政治的権力基盤が弱かったことにある。ロシアには地方を支配する貴族の中に開明的な考えの者がいたし、日本には薩摩藩、土佐藩などに開明的な藩主がいたが、それらに相当する地方の有力者が中国にはいなかった。アヘン貿易を厳しく取り締まった林則徐のような憂国の官僚はいたが、彼らはあくまで清朝の官僚であり、自らの意志で何かをなすのに必要な政治的組織と経済的基盤を持ってはいなかった。

 中国は、アヘン戦争に引き続いて起こったアロー号事件(アロー戦争:1856年~1860年)において、英仏両国軍に北京を占領され、円明園を焼き討ちされる事態を招いた。この中央政府が弱体化していた時期、中国の地方に有力支配者層が存在していなかったことは、一部の地方に権力の空白を生み出した。その空白を衝いて、1850年、キリスト教の思想を背景とした洪秀全が貧農・手工業者を組織して反乱を起こし、翌1851年には「太平天国」という国号を称するようになる。「太平天国」は1853年には南京を占領して、ここを首都とし、1864年に清朝側に鎮圧されるまで続いた。

 こういった「内憂外患」の状況の下、中国にも、危機感を持った曾国藩、李鴻章、左宗棠らの開明派の官僚が現れる。しかし、彼らも林則徐と同じようにあくまで官僚であって、憂国の想いと改革の意志を持っていたとしても、日本でいう薩摩藩や土佐藩のような政治的パワーを発揮できる組織体と経済力を持っていなかった。彼らが、具体的な対策を講じようとすれば、清朝の政府組織を使い清朝政府の資金を使うほかはなかった。ところが当時の清朝の朝廷では、アロー号事件の混乱の中で、改革には見向きもしない西太后が権力を握り始めていたのである。

 清朝朝廷内での保守派の抵抗の中、開明派の官僚たちは、アロー号事件の直後の1860年頃から、清朝政府の組織と資金を使って、西洋の技術を取り入れるため、海外への留学生の派遣や官営軍事工場の建設、西洋科学書の翻訳などを始めた。これを「洋務運動」と呼ぶ。

 洋務運動のスローガンは「中体西用」であった。中国の体制はそのままにした上で西洋の技術を用いて外国と対抗しようという発想であった。日本でも同じように明治初期には「和魂洋才」といった言葉が使われたが、日本では、単に技術や知識を導入するだけでなく、明治維新により政治体制を一新し、軍隊のシステム、憲法の制定をはじめとする法律制度や立憲君主制の導入など、各種の政治システム・社会システムも西洋のものを積極的に導入した。それに対し、中国の洋務運動は、清朝という古い体制をそのままにした状態で、軍艦や軍事技術などだけを西洋から取り入れようとするものだった。この日本と中国との違いは、1894年の日清戦争による敗北で、中国に大きなショックを与えることになる。

以上

※次回「1-2-2(1/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)」
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へ続く。

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