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2010年1月13日 (水)

1-2-2(1/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第1章:中国革命の背景

-第2部:辛亥革命以前の中国社会の特長

--第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)

 2007年秋、中国中央電視台は「復興之路」と題するドキュメンタリー・シリーズ番組を放送した。この番組は、最近の経済発展により、中国は、アヘン戦争以前の中国のように、世界の中で大きな発言権を持つ国に復帰しつつある、その復興の過程をもう一度認識してみよう、という歴史ドキュメンタリー番組であった。

 このテレビ番組シリーズの第1回では、19世紀後半の中国と日本との違いについて取り上げていた。日本では、1868年の明治維新の後、西洋の技術や知識を取り入れて、急速な改革と国力の増強を図っていった。中国でも、日本より若干早い時期(1860年頃)から、前節で書いたように、当時清朝政権下で、「洋務運動」と呼ばれる開明派官僚らによる西洋の技術と知識を取り入れる運動が始まっていた。この「洋務運動」は、欧米列強による侵略に対処するため、新しい軍事力を整えることがその大きな目的であった。しかし、1894年の日清戦争の結果、中国は日本に敗北を喫することになる。中国は、それまで歴史的な世界国家としての大きな力を持ち、日本より早い時期から改革をスタートさせていたにもかかわらず、なぜ日本に負けてしまったのか、という問題意識がテレビ番組「復興之路」第1回で提示された大きなポイントであった。

 どの国においても、その近代化の過程において、それぞれの国々の科学技術の状況がどうであったかは重要な問題である。そこで、20世紀における中国の革命の歴史について述べ始める前に、19世紀後半における日本と中国の政府と科学技術を巡る状況の違いについて整理してみることとしたい。

(i) 中央政府の状況

 日本の政治状況は、1853年の黒船来航以来、幕末の混乱期に入るが、14年後の1867年には江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還し、翌1868年(明治元年)には王政復古の大号令が出されて、明治新政府が発足した。1877年(明治10年)の西南戦争などがあり、明治政府の統治体制が確立するのに若干の時間は要したが、基本的に日本は比較的短時間で、政権の空白期間なく、新しい体制へと移行することに成功した。

 それに対し、中国は1840年のアヘン戦争以降、列強各国の干渉を受け、中央にあっては清朝政府が弱体化したため、太平天国の乱(1851年~1864年)をはじめとする国内の混乱が続いた。清朝政府は、1864年には太平天国の乱の平定には成功したが、この時既に清の朝廷の実権を握っていた西太后(1861年に5歳で即位した同治帝の母親)は、自己の権力の維持にのみ関心を示し、世界の情勢を理解していなかったため、欧米列強各国による干渉を防ぐことができず、清朝政府は中央政府としての機能をほとんど失っていたと言って差し支えない。西太后は、1908年に死ぬまで47年間に渡って清朝政府で権力を振るうことになる。

 北京の観光コースのひとつにユネスコの世界遺産に指定されているイ和園(イは「臣」へんに「頁」=いわえん;イーフーユェン)がある。ここは歴代皇帝の別荘地だったところだが、アロー号戦争の時(1860年)に北京に侵入した英仏軍によって焼き払われた。西太后は、1886年、海軍費用を流用して、この別荘地を改築し「イ和園」と名付けた、と言われている。さらに故宮博物院の「珍宝館」に行くと、日清戦争の前後の西太后の時代に作られたという巨大な宝石で作られた置物などを見ることができる。当時の清朝政府の支配権を握っていた人々は、当時の政府が持っていた経済力をこういった別荘や巨大な宝石の置物につぎ込んでいたのである。

 一方の当時の日本は、「富国強兵」のスローガンの下、産業振興と軍事力の整備に政府が持つ資源を集中的に投入していた。その方向性が正しかったかどうかという議論は別にしても、中央政府が一定の政策意志を持って、その資源を活用することができたのかどうか、という点が、当時の中国と日本との違いの根本であった。

(ii) 諸外国の干渉

 中央アジアのイリ地方の支配を巡る清とロシアとの抗争事件(イリ事件:1871~1872年)、ベトナムの宗主権を巡って清がフランスと戦って敗れた清仏戦争(1884~1885年)など、清はこの時期、自らの勢力範囲内に対する列強各国からの干渉を受けていた。

 一方の日本は、諸外国からの干渉を防ぐという意味では、島国であることが有利に働いた。日本は、列強各国からの干渉を防ぐとともに、逆に日本と清との両方に従属する形を取っていた琉球に対して領有権を主張し(1871年(明治4年))、自国の勢力範囲を確定した。さらに1874年(明治7年)には台湾に漂着した琉球島民が台湾住民に殺害された事件をきっかけとして台湾に出兵するなど、「干渉する側の国」として行動し始めることになる。日本はこの時期、朝鮮に対しても軍艦を派遣して開国を要求する江華島事件(1875年(明治8年))を起こしている。こられは、日本が早くも「列強」のひとつとしての行動を起こし始めたことを示している。

 日本は、外国からの干渉を防ぐために、自らより弱い立場にあった周辺諸国に干渉することによってアジア地域における発言権を高めようとしていたのであった。

(iii) 外国からの干渉に対する国民意識の問題

 日本が明治維新に際し、いろいろな混乱はあったものの、結局は短い時間で政権の移行ができたのは、「国内で争っていては諸外国からの干渉を受け、日本の独立が危うくなる」という危機意識が江戸幕府内部も含めて日本国内の全ての人々の共通認識としてあり、国内で対立があったとしても、最後の最後には「日本を外国による支配から守る」という点で認識が一致し、妥協が成立したためと思われる。

 それに対して、中国の場合、当時の中央政府の清王朝は満州族の王朝であり、国民の大部分を占める漢族の中には、「いつかは漢族による中央政府を打ち立てたい」という思いがあり、外国勢力から自国を守りたいという愛国的感情には、日本よりはかなり複雑なものがあったと思われる。漢族の人々にとっては、列強各国が中国の国土を侵略することは許さない、という気持ちがあったとしても、中国の国土を守ることと清王朝を守ることとは素直に一致しているものではなかったのである。清王朝の末期、清王朝がアヘン戦争やアロー号戦争で窮地に立たされていた時、例えば、太平天国のような運動が盛り上がり、一時的に地域的には独立国のような支配を可能にした背景には、このような複雑な国民感情があったものと思われる。

 現在でも、中国では多くの民族の融和が極めて重要な政治課題であるため、民族間の対立感情に触れる問題について議論することは、中国国内ではかなりナイーブな問題である。そのため、あまり公式の場ではおおっぴらに議論されることは少ないが、19世紀後半において清王朝を倒し漢族による中央政府を打ち立てたいと考えていた人々の中には、清王朝を倒すためには外国勢力を利用することも選択肢のひとつと考える人々がいたことは間違いない。

 1900年の義和団事件においては、反乱を起こした人々は「扶清滅洋」(清を助け外国を排斥する)をスローガンとして掲げた。このため、当時の西太后政権は、この義和団勢力側を支持することになる。政権側が民衆によって起こされた反乱を支持するという奇妙な構図が出来(しゅったい)したのは、裏返せば、当時外国勢力を利用して清政府を倒そうという考えのグループが存在し、清朝政府が、義和団勢力を利用してそういった反清勢力に打撃を与えたいと考えていたためと思われる。

(「第2節:列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)」へ続く)

以上

※次回「1-2-2(2/2):列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/19-c39b.html
へ続く。

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