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2007年11月

2007年11月30日 (金)

テレビの視聴者は意外に保守的?

 私が、9月8日に

http://folomy.jp/heart/

の「テレビフォーラム」にアップした文章をこちらのココログにも掲載します。

 folomyは、かつての@ニフティのフォーラムを運営していた人たちが集まって運営しているサイトで、メールアドレスを持っている方ならば誰でも無料で登録できます。私がfolomyに書いたものの再アップは、折りを見て時間のあるときに行います。従って、例えばfolomyに掲げた文章のアップは1か月以上遅れると思います。最新の文章を御覧になりたい方は、ぜひ、御自分で上記のアドレスからfolomyに登録して、御覧いただくよう御願いします。

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アップ場所:
http://folomy.jp/heart/
「テレビフォーラム(ftv)」-「喫茶室『エフ』」-「『ドナウ川の蚊柱』の続き」

記載日時:2007年9月8日

【テレビの視聴者は意外に保守的?】

 今週、アメリカン・フットボールNFLが開幕しました。私は、今、北京にいるんですが、なぜかNHKのBS-1で、開幕戦インディアナポリス・コルツ対ニューオーリンズ・セインツの試合(録画)を音声を英語にして見ていました。今年の開幕戦の中継はNBCで、実況アル・ミッチェル、解説ジョン・マデンという、かつてABCの「マンデー・ナイト・フットボール」で組んでいた名コンビが今年も放送していました。

 何も北京に来てまで、以前に見ていたのと同じ実況アナと解説者によるアメリカン・フットボール中継を見なくたってよさそうなものですが、見るテレビの番組というのは、意外に「習慣化」してしまっており、いつもと同じ番組で、いつもと同じ出演者を見ると安心する、というようなところがあります。「水戸黄門」などはその典型例でしょう。NHKの朝の連続テレビドラマも、多くの視聴者にとってはほとんど「習慣化」してしまっているので、仮にNHKが「今年からやめる」と言い出したら、猛反対に会うのではないかと思います。こういった保守的な視聴者に対して、斬新な企画の番組をぶつける、というのは勇気がいるし、今のテレビ界ではなかなかできないことなのだろうと思います。

 私も北京では毎朝7時からの中央電視台第一チャンネル「新聞天下」を見るのが習慣化してしまいました。ニュース番組なのですが国際ニュースと天気予報以外はニュース(情報)がほとんどないので、ハッキリ言ってつまらないのですけど、いつも通りに番組がスタートすると「あぁ、今日も普通の一日で何事もないのだ」と安心して朝食を食べることができるのです(私が4月末に北京に来て以降、「新聞天下」の始まりが「普通じゃなかった」のは、6月に黄菊副総理が亡くなった時にアナウンサーが沈痛な面持ちで「訃報」を伝えた時と、先日、共産党大会の日程が10月15日からに決まった、という「布告」があった時だけでした)。

 共産党大会を1か月後に控えて、今、中央電視台第一チャンネル夜8時からの連続ドラマは、革命時代を題材にしたドラマ・シリーズが続いています。革命時代が背景となると、どのシリーズでも毛沢東主席が出てくるのですが、私は「確かに毛主席は偉大だけれども、ドラマの視聴者は『またか』と思わないのかなぁ。」と思ってしまいます。でも、中央電視台第一チャンネルのドラマを見ている人は、だいたいが結構年輩の保守的な人たちなので、こういうドラマを続けて放映しても、不満は出ないのでしょう。 

 昔はテレビが「時代の最先端」を行っていたのだと思いますが、今は、時代の最先端を感じたい人はインターネットにアクセスし、いつもと変わらないものに接して安心感を得たい人がテレビを見る、という時代になっているのかもしれません。
す。

(2007年9月8日、北京にて記す)

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2007年11月25日 (日)

スモッグの季節:今日の北京は「中度重汚染」

 10月は比較的青空の日も多かった北京ですが、11月15日から一般の建物でもスチームによる地域暖房が始まったせいか、日によって、スモッグがひどい日も多くなりました。一昨日(11月23日(金))は、強い風が吹いて汚染が吹き飛ばされたせいか、感激的に素晴らしい青い空だったのですが、昨日(24日(土))と今日(25日(日))は、相当にひどい大気汚染です。太陽や月は見えているので雲があるわけではないのですが、空全体が白くもやっている感じです。「この大気汚染の原因がスモッグだ」とわかるのは、外に出ると実際にかすかに煙のにおいがするのを鼻で感じることができるからです。

 国家環境保護総局のホームページによると、今日(25日)の北京の空気汚染指数(API)は269で、分類としてはIV(2)級の「中度重汚染」だとのことです。昨日(24日)の方がひどかった気がするのですが、なぜか昨日は国家環境保護総局の空気汚染指数の観測データが欠測になっていて数値が発表になっていません。

(参考)空気汚染指数については、このブログの下記の記事を参照
2007年6月19日付け記事
「北京の今日の大気汚染度はIII(1)級(軽微汚染)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/06/iii1_5bc5.html
「6月19日の大気汚染度はIV(1)級(中度汚染)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/06/619iv1_d1e6.html

 地域暖房のために石炭を焚くので、中国の北方地方の冬の時期の大気汚染は昔からのもので、ある程度、致し方のないところがあります。ずっと北京に住んでいる人に聞くと、大気汚染は、1990年代後半が一番ひどく、最近は少しは「まし」になってきているのだそうです。それでも、これだけ空気が白く、明確に「煙のにおい」を鼻で感じることができると、屋外でスポーツをしようという気にはなれません。

 北京オリンピックは夏なので、暖房用に焚く石炭の煙はないし、大掛かりな交通制限で北京市内に乗り入れる自動車の数も減らすなど、一定の大気汚染対策はなされるようですので、たぶん問題はないでしょう。しかし、オリンピックがどうのこうのという前に、一般市民の健康のことを考えたら、この大気汚染については、真剣に考える必要があると思います。やはり根本の問題は「この大気汚染を何とかしろ」という一般市民の声が政治に反映されるシステムになっていないことだと思います。

 昨日、オーストラリアの総選挙で野党が勝ち、11年振りに政権交代が実現するようです。古今東西の例を見れば、結局は、一般市民にソッポを向かれたら政権を失う、という危機感がなければ、政府というものは、一般市民の要望を本気で実現しようとは思わないものです。中国政府が「オリンピックを無事に乗り切れさえすればよい」とだけ考えているのではないことを切に願いたいと覆います。

 何十年後か、一般市民の声が政治に反映されるシステムができあがって、北京でも「ジョギングでもしようか」と思えるような空が戻ってくることを期待したいと思います。

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2007年11月24日 (土)

広州での警官による医師射殺事件

 この事件は日本でも報道されたので御存じの方も多いと思いますが、11月13日の早朝、広東省広州市で、ナンバープレートを新聞紙で隠した車を警察官が止め調べていたところ、車に乗っていた男性が警察官が示した警察証(日本で言う警察手帳)を奪って車を発車させた(警察の説明による)ため、警官が発砲し、その男性が死亡する、という事件がありました。死亡した男性は、広州珠江医院副教授の医者であり、社会通念的には「怪しい男」ではなかったこともあり、この警察官の発砲が正当なものであったのかどうか、中国の新聞紙上でも議論が行われています。

(参考1)「新京報」2007年11月15日付け記事
「公安部、副教授銃撃事件を調査のため調査員を派遣」
http://www.thebeijingnews.com/news/guonei/2007/11-15/018@102553.htm

 この記事によると、事情は以下のとおりです。

○広州市公安局の発表

・11月13日、午前4時55分、警官がナンバープレートを新聞紙で隠した不審な車が停車しているのを発見した。

・この車の運転席にいた男性を調べた際、警官はその男性から抵抗に合った。警官が男性に警察証を見せた際、男性は警官から警察証を奪って車に乗り込み、車を発進させようとした。この時警官は突き倒されて、膝に怪我を負った。

・警官は車が逃げるのを防ごうと車のドアを開けようとしたところ、男性は急に車を発進させて、警官は数メートル引きずられた。

・警官は車の逃走を防ぐために拳銃を発射した。弾は運転していた男性に当たった。警官はすぐに救急車を呼んだが、男性は病院で死亡した。

・男性が乗っていた車には、許可を得ていない軍用のナンバープレートが付けられていた。

○死亡した男性(珠江医院副教授・医師)の妻の話

・11月12日の昼間、男性は家で病院で使う資料の準備をしていた。

・12日夕方6時、妻が仕事から帰ってくると、男性は家にいなかった。男性は妻に電話で「今晩は飲みに行く。その後、友達に付きあうことになっている。」と話した。

・男性は数年前2台の車を買ったが、普段車のナンバープレートを隠すようなことはしていない。

○この事件の調査資料と車に同乗していた死亡した男性の同僚の証言資料を見た関係者の話

・12日の夜、死亡した男性が行ったのは広州ダンスホールである。広州ダンスホールでは、来たことのある車のナンバープレートを記録される可能性があったので、男性はナンバープレートを隠していた可能性がある。

・死亡した男性とその同僚は12時50分にダンスホールを出て夜食を食べに行った。その日、同僚は、死亡した男性に脳卒中で療養している父親を診察してもらうことにしていた。死亡した男性は「病院から関連資料を持ってくる必要がある」と言ったので、二人は病院へ行った。病院の前に車を止めて二人が話をしている時に警官が現れた。

・警官は、死亡した男性に身分証明書を見せるように言ったので、男性は身分証明書を見せた。警官はその身分証明書をチェックした後、別の証明書を見せるように言った。男性は別の証明書は持っていなかったので、車から降りた。車の中にいた同僚は、警官と男性が言い争っているのを聞いた。

・男性は自分の知り合いの警察官に電話を掛けた。知り合いの警察官は、この警官に電話を掛けたが、この警官は承知せず、別の身分証明書を見せるよう男性に要求し続けた。

・男性は、この警官に警察証を見せるように要求した。車の中にいた同僚は、男性が「私の身分証明書をあんたが持っていくなら、私はあんたの警察証を持っていってもいいだろう」と言いながら車に乗り込んでくるのを見た。その時、男性は警官の警察証を持っていた。

・男性は車に乗り込むやいなや、車を発車させ、方向転換して走り出した。その時、同僚は銃声が鳴るのを聞いた。車は少し走ってから何かにぶつかって止まった。この時、運転していた男性は動かなくなっていた。

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 この事件について、広東省、広州市は事態を重視し、調査を始めた、とのことです。また、中央の公安部も本件調査のため、調査員を派遣した、とのことです。

 上記の記事で報道される状況を見る限り、どちらに非があるのか判断するのは難しいところです。一般的に言えば、ニセのナンバープレートを付けていたことや警察証を奪われたことだけで拳銃を発射するのは、警官側の過剰反応、と言えるところですが、死亡した男性が車を急発進させて急転回したことにより、警官が生命の危機を感じた可能性も否定はできないので「正当防衛行為だった」と警官側が主張できる状況だったのかもしれません。また、上記の報道で話が引用されている「この事件の調査資料と車に同乗していた死亡した男性の同僚の証言資料を見た関係者」というのが、どういう立場の人物なのか不明なので、上記の記事の内容がどの程度信頼できるのかもわからないところです。

 この事件については、「新京報」の紙面上では、いろいろな意見の表明が行われています。

(参考2)「新京報」2007年11月15日付け評論欄「視点」
「広州銃撃事件、詳細な調査報告の公表を期待する」
http://www.thebeijingnews.com/comment/zonghe/1044/2007/11-15/021@080043.htm

 この評論では、死亡した男性の車に許可を得ていない軍用のナンバープレートが付いていたということは問題であるが、だからと言って警官が発砲する必要があったのか、状況を詳細に解明し、公表すべきである、と主張されています。上記の文章の筆者は、事件後二日しかたっていない時点では詳細がまだわからないのは仕方がないが、調査機関は時間的緊迫性を意識して調査を行うべきだ、とクギを差しています(しかし、事件後10日以上たった今日(11月24日)時点では、まだ調査結果は公表されていないようです)。

 また、翌日の「新京報」には別の人の意見が載っています。

(参考3)「新京報」2007年11月16日付け評論欄「視点」
「広州銃撃事件の結果は、人々の法律に対する信頼関係の問題である」
http://www.thebeijingnews.com/comment/zonghe/1044/2007/11-16/021@075554.htm

 この文章の筆者は、「警察権力は国家に依存し、強大なばかりでなく、法律の名の下に執行されるのであるから、制度上、適切な制限が掛けられる必要がある」「関係部署は、十分な情報公開と公正な調査処理によって、警察の権威と信頼を確立すべきである。この事件で勇気を持って事実を事実としてしっかり認めれば、今後は人々は政府が出す結論をさらに信頼することができるようになるだろう。」と指摘しています。

 これらの新聞の論調は、中国においても、公権力と人々が持っている個人の権利意識との関係が、徐々に変化しつつあることを感じさせます。本件の場合は、死亡した医師の側に、許可を得ていない軍用のナンバープレートを使用している、という明らかな「非」があるにもかかわらず、だからと言って公権力は何をしても許される、というわけではない、という論調が目立つからです。このことは、もし公権力側の「やりすぎ」があれば、相手が警察であろうが何であろうが、言うべきことはきちんと言う必要がある、と考える人が多くなったことも示していると思います。

 広州市警察の側も、事件の翌日に記者会見を開いて本件を調査することを発表し、中央の公安部も調査を開始する、とのことですので、公権力を握っている側としても、こういった新聞の報道や評論を踏まえて、だんまりを決め込んだり、「拳銃の使用は正当だった」という一方的な主張で押し切ることができない時代になったことを感じているのだと思います。

 あとは、上の意見にあるように、調査をうやむやにせず、調査結果をきちんと公表することが、人々の公権力に対する信頼を確立するために不可欠だと思います。
 

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2007年11月23日 (金)

江西省の農民工呼び戻し作戦

 今日(11月23日)付けの北京の大衆紙「新京報」によると、広州などを中心として広く読まれている週刊紙「南方周末」(日本語表記は「南方週末」)で、江西省で563万人の出稼ぎ労働者に故郷に帰るよう呼びかけを強めていることが報道されている、とのことでした。ネットで検索してみると、下記の記事が見つかりました。

(参考)「南方周末」のページに2007年11月22日にアップされた記事
「全省総動員で労働力不足を解消へ」
http://www.nanfangdaily.com.cn/zm/20071122/jj/200711220037.asp

 江西省は上海の南西にある浙江省の西、台湾の対岸にある福建省の西にある内陸の省です。海に面しておらず、揚子江の海運を利用できない省内の多くの地域では外国と船で直接貿易することができないため、中国の経済発展の中では取り残され気味の省です(「経済統計年鑑2005」によると、江西省の2005年の一人当たりGDPの値は、31ある中国の省・直轄市・自治区の中で22番目です)。そのため、多くの農民が隣の浙江省や上海、あるいは南の広東省などに出稼ぎに行っています(いわゆる「農民工」)。その一方で、江西省の中にも工業開発区が作られ多くの企業が誘致されているのですが、働き手の多くが沿岸地域に出稼ぎに行っているため、江西省内の企業ではむしろ労働力不足が発生している、とのことです。そのため、省政府では、あの手この手で、出稼ぎに行っている農民工たちを故郷の江西省に戻って就職するよう「呼び戻し作戦」を展開している、とのことです。

 江西省出身の農民工たちが故郷に戻って来ない理由は、江西省内の企業の賃金が安いからです。ある江西省の工業開発区に立地した企業では、月給が1,000元(約15,000円)に満たず、沿岸地域の経済発達が進んだ地域より30%以上賃金が安いほか、多くの企業では社会保障が提供できていない、とのことです。江西省内の地方政府は、立地した企業に対して、もっと賃金を上げるように要請しているのですが、企業側は「江西省に工場を立地したのは、ここが賃金が安いと聞いたからだ。」と主張して、地方政府の要請にはなかなか応える動きを見せず、地方政府は対応に苦慮している、とのことです。

 この現象は、沿岸地域における労働賃金が上昇し、江西省のような「沿岸部から一歩中に入った地域」においても、既に安い賃金で働いてくれる労働者が不足してきている(一定以上の賃金を支払わないと人が集まらない)状態になってきていることを示しています。一方、一人っ子政策の影響で、江西省でもこどもの数は減少傾向にあり、将来はこの労働力不足がもっと深刻になるおそれがあるとのことです。

 こうした状況に対し、今日(11月23日)付けの「新京報」は、社説で「労働者の権益を保障することによって『出稼ぎ者が故郷へ帰る』ような吸引策を採るべきだ」と述べています。

(参考2)「新京報」2007年11月23日付け社説
「労働者の権益を保障することによって『出稼ぎ者が故郷へ帰る』ような吸引策を採るべきだ」
http://www.thebeijingnews.com/comment/shelun/2007/11-23/018@080822.htm

 この社説では、この江西省のような労働力不足現象は、中国の産業が沿岸部から内陸部へ拡大し、沿岸部の経済が低賃金労働力集約型製造業から金融サービスやハイテク産業へ変化する過程での一種の「陣痛」である、と分析しています。また、この社説では、中国が今まで謳歌してきた「人口メリット」(人口が多いことに起因する有利さ)が意外に早く終末を迎える可能性があるかもしれない、とも指摘しています。そして、この社説では、最後に、地方政府は、よりよい労働条件を整え、労働者の権益をさらにきちんと保障することによってこそ、激烈な競争の中で勝ち残ることができるのだ、と結論付けています。

 この江西省の例は、現在の中国経済が置かれている状況を非常に象徴的に表していると思います。「中国は13億人を超える人口を抱え、極めて安い賃金で働いてくれる優秀な労働者は内陸部にいくらでもいる」といったイメージは、中国の経済発展に伴う全体的な賃金の上昇に伴い、次第に幻想に近いものになってきているのではないでしょうか。

 江西省は浙江省や福建省など海に面した省の隣の省で、いわば海から見れば「第二線」の省ですが、中国には、さらに内陸部に大量の人口を抱える省があるので、江西省では安い労働力が少なくなったというのであれば、さらに内陸部から出稼ぎに出てきてもらえばよい、という考え方もあります。しかし、ここでは、既に中国の国内において「安い労働力の奪い合い」が起きつつあり、必然的に労働コストは徐々に上がり始めていることに注目すべきでしょう。一方で、今年(2007年)の大学卒業生495万人のうち140万人が9月1日(中国の次の年度の新学期の開始日)時点で就職できていない、など、労働力の供給と需要にミスマッチが目立ってきています。このことは、比較的高い学歴の労働力を必要とする金融業などのサービス業やハイテク産業などが、今の中国ではまだ十分には育ってきていないことを示していると思います。

 現在も続いている年率11%の高い経済成長は、次の時代の産業の基盤となる工業開発区や建物に対する投資に支えられています。もし、従来型の「安い労働力集約型製造業」の企業の中国での立地のスピードが鈍り、次の世代のサービス産業型あるいはハイテク産業型の企業の育成が遅れて、「産業構造変化の一時的エアポケット状態」が生じると、これまで行われてきた急激な投資資金の回収が不可能になる事態も考えられます。中国の経済成長と産業構造の変化は、あまりに急速過ぎたため、次の世代の産業の育成が間に合っておらず、「継ぎ目のない新しい産業構造への移行」が難しいのではないか、というのが私の危惧しているところです。私には、中国では、既に、「労働集約産業中心型」の時代が終わり、次の時代の新しい産業がまだ立ち上がっていない、という「継ぎ目の空白の時代」(エアポケットの時代)が始まっているような気がしてならないのです。

 上記の「南方周末」が伝え、「新京報」が社説で分析している江西省における労働力不足の問題は、そういった「エアポケットの時代」の始まりを象徴するできごとのひとつなのではないか、と私は考えたので、今日のブログで紹介させていただきました。私としては、中国がこの「エアポケット」に突っ込んで、乗っている乗客がケガをするようなことにならなければよいが、と願っています。

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2007年11月22日 (木)

「誹謗罪」の拡大解釈を警告する、との社説

 11月21日付けの北京の大衆紙「新京報」に、地方政府の指導者を誹謗(ひぼう)する携帯メールを回覧した、として免職になった地方政府の中堅幹部職員の話が出ていました。

(参考1)「新京報」2007年11月21日付け記事
「指導者を侮辱した携帯メールを転送していた四人の幹部が免職される」
http://www.thebeijingnews.com/news/guonei/2007/11-21/018@082813.htm

 この記事によると、セン西省(「セン」は「狭」の「へん」を「こざとへん」に変えた者)の志丹県というところで、「極めて下品な言葉で」県の上層部の指導者14人を侮辱・誹謗した携帯メールを回し読みしていた衛生監督所所長、信用組合副組合長、中学校元校長、農業技術所所長の4人が、中国の刑法に規定されている「誹謗罪」で警察に逮捕され、免職になった(このうち一人は刑事拘留された)とのことです。この携帯メールは、非常に低俗な内容で、強姦された女性が警察にその様子を説明したものの固有名詞の部分を14人の県の上層部の指導者の名前に置き換えた内容だったのだそうです。

 この記事では、今回の件に対する見方として、「県の指導者のような公共的地位にある人に対して、いろいろな人がいろいろな考えを持つことは自然であり、政府が誹謗・中傷メールを取り締まるのはわかるけれども、免職にまでするのは処分が重すぎる。」「他人の人格を侮辱するような法律意識のない人には、重い処罰を与えなければその重大さはわからない。」といった二つの見方があることを紹介しています。

 この件に関して、今日(11月22日)付けの「新京報」は「『誹謗罪』の恣意的な拡大解釈に対して警鐘を鳴らす」と題する社説を掲げています。

(参考2)「新京報」2007年11月22日付け社説
「『誹謗罪』の恣意的な拡大解釈に対して警鐘を鳴らす」
http://www.thebeijingnews.com/comment/shelun/2007/11-22/018@074805.htm

 この社説の論旨は明快です。ポイントとして次のように言っています。

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○志丹県の事件については、以下の疑問点を挙げることができる。

(1) 刑法に規定する「誹謗罪」は親告罪(被害を受けた人が訴え出て初めて立件される)であるのに、本件では被害を受けた人が訴え出てから警察が動き出したのかどうか不明確。

(2) 刑法では「社会秩序や国家の利益に重大な危害が及ぶ場合には」すぐに立件手続きに入るという例外規定があるが、今回の場合、そのような情勢になったとは思えない。

(3) 被害者が訴え出た場合であっても、犯罪と言うためには、客観的に見て侮辱や誹謗が非常に悪質な手段により行われて社会的に影響が大きかったことが条件となるが、「携帯メールで流した誹謗」が「手段として非常に悪質」と言えるだろうか。

○地方政府職員に対する「誹謗」については、慎重に対処すべきで、警察は軽々に介入すべきではない。

○「誹謗を受ける者の名誉権」と「言論の自由」との間には、オーバーラップする部分があり、従ってこの二つが衝突することもある。国外の例では、公共事務を行っている国家公務員に対する「名誉権」は、一般市民のそれとは区別して適切に制限されるべきだ、とされている。一般大衆の知る権利を守り、社会世論による監督を強化するためである。

○アメリカの判例では、誹謗される者が公共の立場にある場合には、誹謗した者が実際に悪意があると証明されない限り損害賠償の対象とはならないとされている。

○中国の現行刑法では「誹謗罪」の成立には厳格な条件が既定されているが、「その程度が非常に悪質な場合には」とか「社会秩序と国家利益に重大な危害を与えるときは」などの規定に対して、明確な権威ある解釈がなされていない。今後、法律または司法解釈でこれらの解釈を明確にして「誹謗罪」が拡大解釈されることを防止するべきである。

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 携帯メールは、「メール」の名の示す通り「私信」であり、何を書いても他人にとやかく言われる筋合いのものではないし、警察から摘発されるような性質のものではない、とお考えの方も多いかもしれません。ただ、1対1のメールならば明確に「私信」ということができますが、一斉発信メールや回し読みのメールなどは、インターネットの掲示板と実質的には同じであり、そこに悪質な誹謗・中傷の類が含まれるとしたら、名誉毀損が成立することは日本でもあり得る話です。

 上記の「志丹県の携帯メール事件」を見る限り、メールの内容はかなり低俗なものであり、日本でも「名誉毀損」が成立する可能性のあるような案件だと思いますが、「新京報」は、この案件に対して、地方政府と公安当局の癒着があるのではないか、との疑いの目を向け、法律を拡大解釈して言論の自由を圧殺しようとしているのでないか、という危機感を感じたのではないかと思います。

 「新京報」の社説は、よく読むと、極めて慎重な書きぶりになっています。「地方政府職員に対する『誹謗』については、慎重に対処すべきで、警察は軽々に介入すべきではない。」「国外の例では、公共事務を行っている国家公務員に対する『名誉権』は、一般市民のそれとは区別して適切に制限されるべきだ、とされている。」と書いています。「地方政府職員」と「国家公務員」との使い分けが微妙です。この社説では、「中国の国家公務員」に対してどう扱うべきなのか、ということについては、実は何も言っていないのです。「中国の国家公務員(特に国家の指導者)」を批判することは、現在でもできない、ということなのでしょうか。現在の中国の新聞が置かれている「限界」を見たような気がしました。

 そもそも現在進められている改革開放政策は、「毛沢東主席が行ったことは『全て正しい』と考えることは誤りである。毛沢東主席の業績は偉大だが、晩年には誤りを犯した。」というトウ小平氏の考え方から出発しています。つまり偉大な国家指導者であったとしても、全て誤りなく行うことなどできないのだから、批判すべきところはきちんと批判すべきである、というところが現在の中国の政策の出発点なのです。従って、今の中国で、地方政府の誤りは厳しく批判するけれども、国家指導者の政策を批判することはタブーである、というような雰囲気があるのは本来おかしいと思います。

 「地方政府は厳しく批判するけれども、国家や中央に対する批判はしない」というような姿勢では、批判される立場の地方政府の人々からの反発を受けると思います。「新京報」の社説を読むと、新聞の記事を書いている人たちは(そしてたぶん読者も)そういった「諸々のこと」はわかった上で、言論活動を行っているのだと思います。中国からの情報を「読む」場合には、そのあたりの背景も頭に置いて「読む」必要があると私は思っています。

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2007年11月18日 (日)

中国経済はバブルか:2008年は転換点?

 2007年11月19日号(11月17日発売)の経済週刊紙「経済観察報」では、1面トップに「注意!王志浩氏が財政政策に転向」という見出しで、スタンダードチャータード銀行のイギリス人エコノミスト Stephen Green (王志浩)氏が財政政策について研究を始めたことを報じて、読者に「注意信号」を発信しています。この記事によると、王志浩氏は、来年下半期以降、中国経済の増加スピードはピークを過ぎてブレーキが掛かり始める可能性があるので、財政政策がさらに重要になる、と認識している、とのことです。

 一方、同じ号の「経済観察報」の「観察家」(オブザーバー)という欄には、「金融の不均衡に対する政策の調整が急がれる」と題するエール大学管理学院金融経済学教授で長江商学院客員教授の陳志武氏の論文が掲載されていました。陳志武氏は、この論文で、株のバブルが今後数年間の最も大きな経済的・社会的リスクである、と指摘しています。彼は、また、政府による社会保障、保険や公共的な年金制度、医療保障制度が整っていないという点で、今の中国は、1990年頃のバブルがはじける直前の日本というよりは、むしろ1929年(大恐慌直前)のアメリカの状況に似ている、とも指摘しています。

 今の中国経済の状況が「バブル」であるのかどうかは、人によって見方は異なると思います。経済の成長のスピードや投資、銀行の貸し出し量があまりにも大き過ぎて心配だと言う人がいる一方、自動車やその他の消費財の販売量は底固く、全体的に内需は増加傾向にあり、「バブル」的な部分は一部に過ぎない、と楽観視する人もいます。

 私は、来年(2008年)1月1日から施行される労働契約法(中国語で「労働合同法」)がボディーブローのように中国経済に効いてくるのではないかと思っています。労働契約法は、労働者の保護のための法律ですが、一定の条件を満たした期限付き労働者に対しては、本人が希望する場合は定年まで継続される期限なしの契約を締結することを使用者に義務付けているので、中国における労働コストがアップするひとつの大きなきっかけになる可能性があるからです。労働コストのアップは、安くて大量にある労働力に頼ってきた中国の産業構造に質的変化をもたらす可能性があります。

 また、世界的な原油高により、北京でもこの11月からガソリン代が値上げされていますが、石油の半分近くを輸入している中国は、今後とも世界的な原油高に大きく影響を受けていくことになると思います。そのような周辺状況を考えると、2008年は、単に北京オリンピック景気に区切りがつく、というだけではなく、もっと大きな意味で中国経済にとって大きな節目の年になる、と私は思っています。

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2007年11月12日 (月)

日本と比べて中国の教育を見てみると

 11月8日付けの「新京報」の論評の欄に「日本と比べてもう一度我が国の教育をじっくり見直してみよう」と題する文章が載っていました。

(参考1)「新京報」2007年11月8日付け論評
「日本と比べてもう一度我が国の教育をじっくり見直してみよう」(王錦思)
http://www.thebeijingnews.com/comment/zonghe/1044/2007/11-08/014@073854.htm

 筆者は中国日本史学会会員の王錦思氏という方です。日本のNPOや企業の中には、中国の貧しい地区の小学校を支援する活動をしているグループがいますが、先日「南方都市報」という新聞に、こういった日本の支援者が安徽省のある貧困地区を訪れたとき、政府の庁舎は立派なのに、農村の小学校は一校に改善されない、それどころか小学校を取り壊して政府の庁舎を作ったために、児童らは古い校舎で勉強せざるを得ない状況だった、という話が報道されていたとのことです。上記の評論文の筆者は、この報道に対し、ポイントとして次のような指摘をしています。

○GDP世界第三位にまでなった中国において、教育経費が十分に充足されていない実態については、我々は考え直さなければならない。

○ここ百年以上にわたる日中関係の間には、恩義も怨みもあるが、教育の問題は動かざる大山のごとく、両国の存亡に係わってきた。日清戦争時代の清の進歩派官僚・康有為は、日清戦争での敗北は、清朝政府が教育を重視していなかったからだ、と言っている。

○よく中国は人口が多くて日本のように教育にお金を投入できない、と言う人がいるが、明治維新の頃や戦後直後は、日本は中国の現在の状況よりも貧しかったけれども現在の中国よりはるかに多くの割合のお金を教育に投入していた。

○日本は1886年に近代学校制度を確立して4年制の義務教育を普及させ、1907年には世界に先駆けて6年制の義務教育を普及させた。戦後の1949年には9年制の無償の義務教育を開始した。

○新中国成立以来、中国の教育は著しく進歩し、識字率は大幅に向上したが、中国にはまだ多くの問題が残っている。多くの農村では、地域で最も貧弱な建物は学校であり、最も立派な建物は政府の庁舎である。日本の農村では、最も立派な建物は学校であり、自然災害が発生した時、村民は自然と学校に避難して集まってくる。

○(南方都市報の報道にあるような)日本の友人の善意が我々に気付かさせてくれたことについて、我々は深く考える必要がある。

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 王錦思氏の指摘のように、明治維新以降、日本が教育を非常に重要視してきたことは事実だと思いますが、以下の点も考慮する必要があると思います。

○日本政府の戦後の教育に対する取り組みに対しては、例えば、学校給食に対する進駐軍からの脱脂粉乳の提供など、アメリカの強力なバックアップがあった。

○新中国成立以前は、列強各国による半植民地支配、抗日戦争、国民党との間での内戦を通じ、多くの一般庶民に対して十分な教育がなされていなかったのだが、現在の中国は、そういった状況から出発して、現在は、新中国成立前に成人していた高齢者も含めた数字としての識字率が90%、高校進学率59.2%、大学進学率約22%(いずれも2006年の数字)に達している。これは新中国成立以降の中国の教育への力の入れ方が並々ならぬものであったことを示している(13億人の人口を抱えている中国におけるこれらの数字は、むしろ驚異的なものである、と私は思っています)。

 中国における問題の根元は、一部の地方政府が教育にお金を回さずに資金を浪費していることにあります。

(参考2)このブログの2007年7月14日付け記事
「『富める政府』『貧しい庶民』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/07/post_25a6.html

(参考3)このブログの2007年8月15日付け記事
「昼間の接待酒をやめたら半年で4300万元浮いた」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/08/4300_27f3.html

 王錦思氏が指摘している問題点は、中国において政策として教育を重要視していないのではなく、中国の地方政府がやるべきことをやっていない、ということが問題なのだと思います(結果的には同じことですが)。

 中国の多くの人の日本に対する感覚は、王錦思氏が文章の中で書いているように「恩義もあるし怨みもある」という認識が基本だと思います。戦争の時に日本が中国においてしたこととともに、孫文や魯迅など中国の近代化を推し進めた人々が日本で学んでいた、ということも中国の人々はよく知っているからです。そのためか、中国が抱える様々な問題に関して、日本はよく比較の対象とされます。特に19世紀後半の日中の歩みの違いは、なぜこの間に日中の国力の差が逆転してしまったのか、という点で、中国の人々に深刻な問題提起をしています。背景には「なぜ世界の大国である中国が、日本のような小さな国に負けてしまったのか」といった自負心の裏返しの感情があるのだと思いますが、こういった感情は、よい意味でのライバル意識と捉えれば、悪いことではない、と私は思っています。

 上記の評論の筆者の王錦思氏は、中国の日本史学会会員ですので、中国の中でも「知日派」の方だと思います。いわゆる「知日派」と呼ばれる人々以外でも、中国では、多くの人が日本が経てきたいろいろな経験についてよく勉強して知っています。日中間の問題を考える場合には、中国にとって、日本は、よい意味でも悪い意味でも、そういったいろいろな経験を教えてくれる存在でもあることを念頭に置いておく必要があると思います。

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2007年11月 5日 (月)

非都市戸籍者であるが故のコストは1800元?

 今日(11月5日)付けの「新京報」の報道によると、先頃中国社会科学院が全国主要都市のホワイトカラーの標準賃金を発表した、とのことです。それによると北京のホワイトカラーの標準賃金は月額5,000元(約45,000円)で、もし北京戸籍でない人の場合はこれに月額1,800元(約27,000円)を加えた額を標準とする、とのことでした。

(参考1)「新京報」2007年11月5日付け記事
「北京では、ホワイトカラーの月収は5,000元と算定される」
http://www.thebeijingnews.com/news/guonei/2007/11-05/014@085213.htm

 この報道に対して、同日の「新京報」の総合論評の欄には、出身地によって賃金が違うのはおかしい、との論評が掲載されていました。

(参考2)「新京報」2007年11月5日付け総合評論欄
「『都市外部出身のホワイトカラー』と『都市内出身のホワイトカラー』との差別」
http://www.thebeijingnews.com/comment/zonghe/1044/2007/11-05/014@073902.htm

 この論評は、北京の編集者・曹林氏が書いたもので、「同じように苦労して働いてお金を稼ぎ、税金も平等に払っているのに、非都市戸籍者のホワイトカラーの標準賃金が月額1,800元高い、ということは、戸籍制度がもたらす不正常なコストを示したものと言える。」と指摘しています。

 つまり、都市に戸籍を持っていない人が都市で働く場合には、就業ポストが少ない、子女が公立学校に入れないことにより教育費が余計に掛かる、安全な住宅が確保できない、などのために、都市戸籍を持っている人よりもコストが掛かる、と考えられているが、今回社会科学院が示したホワイトカラーの標準月額の差額1,800元という金額は、はからずも、その「非都市戸籍であるがゆえのコスト」という戸籍制度がもたらした不正常なコストを明示的に示すことになった、とこの論評の筆者は指摘しているのです。

 このことは、安い賃金で都市部で働いている農民工は、賃金そのものが安い上に、都市で生活していく上では実質的にはかなりの大きなコストを背負わされていることを示しています。昨年の中国全国の都市部の賃金労働者の賃金の平均収入が月額1,750元でしたので、ホワイトカラーにおける都市部の戸籍の有無で生じる月額1,800元という差額は、かなり高額なものです。また、この論評の筆者の表現からは、中国社会科学院が、ホワイトカラーに対しては、非都市戸籍者が都市で生活する上で必要なコストを賃金として上乗せするよう「標準月額」を示しているのに対し、農民工などの一般の非都市戸籍労働者の賃金についてそういった上乗せをするような指針を示していないことに対する怒りが垣間見えます。

 この論評の筆者は、あるネットに出ていた文章に「非都市戸籍を持つ自分は、18年間一生懸命に働いてやっと都市戸籍を持つあなたと一緒に座ってコーヒーを飲めるようになるのだ」と書いてあったことを紹介しています。戸籍制度の不平等性は、感覚としては、そういった感じを人々の間に抱かせているのでしょう。

 ここ数日の「新京報」の評論の欄には、こういった中国の戸籍制度の問題点をズバリと指摘して問題視する論評が目立っています。「新京報」は、以前から現在の戸籍制度に対しては批判的な論調ですが、現在の政府が採っている具体的な政策に対して、新聞紙上でこういうふうに具体的に数字的根拠を挙げてズバリと批判する論調が目立って来たのは注目に値すると思います。「新京報」にも、当然、当局の検閲は掛かっているはずですが、こういった難しい問題については、議論を封殺するよりも、新聞紙上で、まじめにきちんと議論を展開していった方が解決への道を探れる、と当局も考えているのだと思います。その意味で、この戸籍制度の問題の解決は、中国の将来の社会システムを考える上でのひとつの大きな試金石と言える、と私は思います。

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2007年11月 4日 (日)

農民工の十大願望

 中国では、現在、農村に住む人は農村戸籍、都市部に住む人は非農村戸籍、というふうに二種類の戸籍に区分けする制度が採られています。今の中国では、億の単位の農村からの出稼ぎ労働者(農民工)が都市部の経済発展を支えていますが、彼らは戸籍が故郷の農村にあるために都市部では十分な行政的支援を受けられていないことが大きな問題になっています。

 このような「農民工」の問題をはじめ、農村部と都市部との格差の問題を解決するため、重慶市と四川省は、農村部と都市部を統合するモデル地区として指定され、様々な施策が試験的に実施されています。

(参考1)このブログの2007年6月17日付け記事
「重慶と成都が農村・非農村統合試験区に指定される」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/06/post_f7a6.html

 そのため重慶市では、今日11月4日を初めての重慶市の「農民工の日」と定めて、いろいろなイベントが行われています。この「農民工の日」に関連して、先頃、重慶市は、1,800人の農民工の人々の話を聞き「重慶市の農民工の十個の願望」というのをとりまとめました。

(参考2)「新華社」のホームページ2007年11月3日アップ記事
「農民工の十大願望まとまる 最大の希望は老後の社会保障」
http://cq.xinhuanet.com/2007/2007-11/03/content_11576378.htm

 上記の「新華社」の報道によると、農民工の十大願望は以下のとおりです。

○都市部の人たちと同等の社会保障を得たい
○都市部の労働者と同等の賃金と福利厚生を得たい
○農民工の子女の入学に際しては学校は差別をしないで欲しい
○多くの職業ポストを提供し、定期的に専門の就職あっせん会を開催して欲しい
○使用者は法律で定められた祝休日や休息の権利を勝手に奪わないで欲しい
○都市部の戸籍に編入するための条件をゆるめて欲しい
○政府には廉価な住宅を提供して欲しい
○政府には一定の無料の職業訓練の機会を与えて欲しい
○都市部の市民には、農民工を尊重し、理解し、受け入れて欲しい
○政府には農民工の余暇生活を豊かにする施策を採って欲しい

 これについて、11月4日付けの北京の大衆紙「新京報」の社説では、「『農民工の十大願望』は、公平、正義、幸福な生活の追求の観点からは当たり前過ぎる事項であり、わざわざ改めてこのように取りまとめて提示することがニュースになること自体がおかしい、と主張しています。そしてこの「農民工の十大願望」が「農民工の日」にちなんで取りまとめられたのだとしたら、それこそ「毎日毎日を農民工の日」にすべきである、と、いつになく激しい調子で主張しています。

(参考3)「新京報」2007年11月4日付け社説
「全ての一日一日が『農民工の日』でなければならない」
http://www.thebeijingnews.com/comment/shelun/2007/11-04/021@080209.htm

 この社説では、農民工たちは、自分たちが都市部の経済的繁栄を支えているのに、妻や子と離れ、「地位低等」の位置に立たされていることをよくわかっているばかりでなく、戸籍制度に基づく一種の優越感によって都市住民から「二等国民」のレッテルを貼られていることをよく知っている、として、農民工の立場に立った主張を展開しています。農民工の実態に関する実情を表現する言葉として、上記の「 」でくくったような表現は外国のメディアでは使われることはありますが、中国国内の新聞でここまで「ズバリ」と表現したものは珍しいと思います。この社説は、社説執筆者のジャーナリストとしての正義感を感じる文章だ、と私は思いました。

 今、北京は、オリンピックの開催へ向けて、ビルや地下鉄などの大規模な工事が急ピッチで進んでいます。これら建設工事を支えているのは、農民工たちの労働力です。来年8月にオリンピックが開催される時点ではこれらの工事は山場を越えていることと、北京市内に留まる人数をできるだけ減らし、車の数も制限する必要があることから、オリンピック期間中は、今北京にいる農民工たちは、休暇を与えられて故郷へ帰されることになるのではないか、と言われています。このため、本来は、中国国内の各界、各層の人々の心をひとつにする役割を果たすはずの北京オリンピックが、必ずしも中国人民全体の求心力として働いていないのではないか、との見方をする人もいます。

 皮肉なことに、私が買った上記の社説が載っている「新京報」には、「○○基金の収益率138%、××基金の収益率147%。手数料はたった0.1%!」という証券会社の折り込み広告が挟まっていました。こういった広告を、農民工たちはどういった目で見ているのでしょうか。

 共産党大会は終わり、人民日報などでは「第17回党大会の精神を真剣に学習しよう!」などというキャンペーンの文字が躍っていますが、今後、「和諧」のためにどのような具体的な政策が採られていくのか、はまだ見えていません。ただ、中国の新聞紙上に農民工が望んでいることが具体的に掲載されるようになっている、ということは、たぶん、その願望が叶うような方向で今後政策が採られていくのだろう、という期待を与えてくれます。その期待が現実化することが、中国の今後の安定的な発展のカギだ、ということは、現在の中国の指導部をはじめ、みんなわかっています。もう既に「議論の時」は終わっていると思うので、具体的にどのような政策が採られていくのか、注目していきたいと思います。

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2007年11月 3日 (土)

北京大学の「三角地」掲示板の行方

 11月1日付けの「京華時報」は、北京大学のキャンパスの中にある「三角地」と呼ばれる場所にある掲示板が前日撤去されたことを伝えていました。

(参考1)「京華時報」2007年11月1日付け記事
「北京大学の三角地掲示板、撤去される」
http://epaper.jinghua.cn/html/2007-11/01/content_172048.htm

 大学側の説明によると、もともとここは学生の間の情報交換のための掲示板だったのだが、最近はほとんどが商業広告で占められてきており、本来の学生間の情報交換の役目を果たしておらず、しかもその商業広告の中にはニセモノの広告などの怪しげな広告も多くなり、北京大学のキャンパス内にいくつかの来年のオリンピックの競技会場となる施設も作られていることなどを考えて、構内環境の浄化の観点から撤去した、とのことです。上記の京華時報の記事によると、大学側は、その場所に電光掲示板を設置して、情報提供の役割を引き続き果たすようにしたいと考えている、とのことです。

 これに対しては、「三角地」は、様々な情報交換が行われてきた北京大学の「文化」のひとつである、として、撤去を惜しむ声が上がっています。11月2日付けの「新京報」の評論欄には、方維民という北京の学者が書いた「三角地の現状を保持することには今でも意義がある」と題する文章が載っていました。

(参考2)「新京報」2007年11月2日付け「馬上評論」の欄
「北京大学の『三角地』の現状を保持することには今でも意義がある」
http://www.thebeijingnews.com/comment/zonghe/1044/2007/11-02/011@074830.htm

 この文章の筆者は、北京大学の「三角地」は、多くの北京大学生が意見を発表し、情報を交換してきた場所であり、北京大学の文化のひとつのシンボルである、と指摘しています。また、この「三角地」が撤去された件について、寛容と批判の精神を北京大学の中でいかに継承していくかの観点で惜しむべきものであり、多くの人が考えるべき問題だ、とも指摘しています。

 また、11月2日付けの「新京報」の記事によると、「三角地」の掲示板の撤去は学内で大きな論争を引き起こしているとのことです。

(参考3)「新京報」2007年11月1日付け記事
「北京大学による『三角地』の撤去は論争を引き起こしている」
http://www.thebeijingnews.com/news/beijing/2007/11-01/011@082357.htm

 このように学内で論争になっていることから、2日に行われたシンポジウムの冒頭、北京大学の許智宏学長は、「三角地」を撤去した後、この一帯に「学生活動センター」を作ることも可能である、との考えを示した、とのことです。

(参考4)「新京報」2007年11月3日付け記事
「北京大学の『三角地』に学生センターを建設する計画」
http://www.thebeijingnews.com/news/beijing/2007/11-03/021@071251.htm

 来年8月に行われる北京オリンピックでは、卓球など一部の競技会場が北京大学のキャンパス内に建設されています(国としては土地が確保しやすいことと、オリンピック終了後は大学のスポーツ施設として使えるので、これは合理的な話だと思います)。また、オリンピックにおけるマラソンコースの一部は北京大学のキャンパス内を通ります。そのため、例えばマンホールの出っ張りでランナーがつまずかないようにするため、など、北京大学のキャンパス内の道路の補修工事などが急ピッチで進められています。10月29日からは、キャンパス内の道路補修工事による渋滞を緩和するため、大学関係者の車、お客を乗せたタクシー、事前に登録した車以外の車はキャンパスに入ることが禁止になりました。

 そういった動きの中では、乱雑で怪しげな商業広告があふれるようになってしまった「三角地」の掲示板を大学側が撤去した理由については、それなりの説得力があるのですが、学内での論争や北京の新聞の反応を見ていると、多くの人が「単なる乱雑な掲示板の撤去」ではないものを感じて、警戒心を持ったのではないかと思います。

 中国の現代の歴史の中で、北京大学の学生たちが果たした様々な役割は、人々の記憶に残っているところです。歴史上のどういう事態に、北京大学の学生がどのように関与したのか、について具体的な例を挙げることは、ここでは控えたいと思います。今回の「三角地」の撤去がオリンピックへ向けての単なるひとつの環境整備事業のひとつなのか、それとも「何かの始まり」なのか、それは私にはわかりません。ただ、私としては、「単なる掲示板の撤去」ではない「何か」を感じたので、この文章を書き残しておきたい、と思ったということを申し上げておきたいと思います。 

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2007年11月 1日 (木)

私営企業家の参政意欲は警戒すべきか

 今日(11月1日)付けの北京の大衆紙「新京報」の「一家言」と題する評論の欄に「『私営企業家』の『参政熱』は警戒すべきものではない」と題する北京の公務員の人が書いた文章が載っていました。

(参考)「新京報」2007年11月1日付け評論
「『私営企業家』の『参政熱』は警戒すべきものではない」
http://www.thebeijingnews.com/comment/zonghe/1044/2007/11-01/011@080111.htm

 この文章のポイントは以下のとおりです。

○最近出版された「1993-2006中国私営企業大型調査」という本の中にある最近の調査によると、私営企業家のうち28.8%の人が「『人民代表』または『政治協商会議委員』になりたい」と認識している、とのことである。

(このブログの筆者注)「人民代表」は「全国人民代表大会」の委員(またはそれを選ぶ選挙人)のことで、日本でいう国会議員にあたる。「政治協商会議」は、毎年「全国人民代表大会」と並行して開催される会議で、共産党ではない政党の代表や各種業界の代表者で構成されており、法律や政策決定に対して意見を述べることができる。「政治協商会議」は、「全国人民代表大会」とは異なり、意見は言えるが、法律や政策決定の決定権はない。

○この傾向に対して、「私営企業家が『人民代表』や『政治協商会議委員』といった『紅帽子』をかぶるようになる(法律や政策の決定に参与するようになる)と、自分の企業に都合のよい法律や政策ばかりを作るようになるので警戒すべきだ、という意見が出ている。

○しかし、行政による許認可、経済資源の分配、入札などにおいて、その透明性を高めれば、法律の執行や行政行為が特定の企業を優遇することのないようにすることは可能である。「人民代表」や「政治協商会議委員」は一種の「公器」であり、「人民代表」や「政治協商会議委員」が集まって協議することにより、立法や政策決定の過程で、民意が反映され、特定の階層や特定の集団の局部的利益と国家全体、社会全体の利益とが調整されることになる。これはまさに「国民が秩序立って政治に参加すること」の本来持つべき意義そのものである。

○どの階層でも、政治に参加したい、という意欲は本質的に同様に扱われ、政治的権利が行使できるようにならなければならない。従って、我々は、私営企業家の「政治参加熱」を色眼鏡で見てはいけないのであって、これを警戒するべきものではない。

 中国においては、市場経済が発達するにつれて、私営企業の経済に占める役割も大きくなってきています。経済力の増大に連れて、当然のことながら私営企業家の政治に対する要求も強くなります。上記の評論は、こうした私営企業家の政治に対する発言意欲の増大は当然のことであり、それを警戒して排除することはせず、冷静に受け止めるべきである、と主張しているのです。

 この評論は、無産階級(労働者や農民)と資産階級(企業経営者)との階級闘争の中において中国共産党の指導によって進められてきた旧来の中国の政治運営とは大きく異なる現在の中国の政治状況を明確に表現しています。そもそも中国共産党は無産階級の党であり、もともとは資産階級による政治支配を打倒しよう、というところからスタートしてきました。しかし、現在、私営企業家が経済の中で大きな位置を占め、中国共産党としても、労働者・農民と企業家とが調和(和諧)しながら社会を発展させていく、という方向を打ち出している以上、私営企業家の政治に対する発言を抑圧することはできません。

 2002年の前回(第16回)の中国共産党大会において江沢民総書記(当時)が打ち出した「三つの代表」論は、それを的確に表現しています。「三つの代表」とは、中国共産党は(1)中国の先進的な生産力の発展の要求を代表し、(2)中国の先進的な文化の進む方向を代表し、(3)中国の最も広範な人民の利益を代表する、という考え方です。オブラートに包んでありますが、ポイントは第三の点です。この第3点でいう「広範な人民の利益を代表する」とは、無産階級だけではなく、知識階級、企業家なども含めて、幅広い人民の利益を代表する、という意味です。従って、2002年の時点で、既に中国共産党は「無産階級の党」(古い言葉でいうと「プロレタリア独裁の党」)ではなくなった、と言えます。

 上記の「新京報」の論評は、この現在の中国共産党の「三つの代表」論の路線上に沿った主張です。ただ、こういった論評が新聞に載ること自体、まだ「社会主義の国である中国で、私営企業家が政治的発言力を増すのは抑制しなければならない」という声があることを示しているのだと思います。こういった声は、「私営企業家はただでさえ経済面で支配的な影響力があるのに、それに加えて政治的な力も与えたら、労働者や農民は虐げられてしまうおそれがある。」という懸念から発せられているものと思われます。ここの部分は、そもそもマルクス、エンゲルスが社会主義を始めた出発点でもあり、最も根元的な問題点です。

 結局は、最終的には、私営企業家にしろ、労働者、農民にしろ、それぞれの集団の利益を代表する者としての「人民代表」や「政治協商会議委員」を選ぶ際、どのような者を候補者にし、どのような方法で選ぶのか、という選挙制度の問題に行き着きます。都市部に住み着いて働いているが戸籍は故郷の農村にある、という農民工の選挙権をどう扱うのか、などという難しい問題も含めて、中国における政治と選挙制度の問題は、もう避けて通れない問題になっていると私は思います。高い経済成長が続いて、多くの人々が政治に対して大きな不満を抱いていない今こそ、柔軟な選挙制度を作るチャンスであり、今後出現するであろう経済成長が鈍った時点での人々の政治的不満を吸収するシステムを作っておくことが、今一番大事なことだ、と私は考えています。

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